亡き父に捧げる五月五日のこどもの日
2022 JUN 28 23:23:12 pm by 東 賢太郎

スミノフをグラス2杯、ジム・ビーム1杯を一気にあおった。酒はいたって弱いのだから息がなんだか荒くて速い。目にちかちかと色とりどりの星が花園みたいに瞬いている。ここはどこだろう?わからないが、とにかくきれいだ。
3才で七五三に行った登戸稲荷神社の景色はくっきりと脳裏に焼きついている。子供ながらに親の熱い期待を肌で感じていたっけ。去る五月五日のこどもの日の朝、父はそんな僕に我が家のすべてを託し、花園を愛でながら静かに逝った。
去年の9月のこと、入っていた川崎市の施設で倒れ、目黒の病院に搬送する道すがらたまたま多摩川を渡る鉄橋の手前にあるその稲荷神社の前を車が通った。もう意識はなかったが、手を握り、耳元で何度も「ありがとう」とくりかえした。
端午の節句。団地なのに立派な鯉のぼりが舞った。僕はというとお内裏様の刀がうれしくて、それを抜いては叱られながら、親の目を盗んでチャンバラごっこに興じていた。親の心子知らずのまま大人になってしまった自分が申しわけない。
銀行員だったせいか規律と勉強には厳しかった。だから高校にあがって「硬式野球部に入りたい」と告げるには勇気が要った。「そうか、やるなら徹底的にやるんだよ」。返ってきた思いがけない言葉が、生涯にわたる僕の金科玉条になる。
16歳で開戦。秀才だったが学徒動員で大学は夜学。悔しかったろう。よし、ならば俺がやってやろうと決心した。それを意気に感じたのだろう、お前はできると背中を押してくれた。こどもの日が命日とはそんな親父らしくもある。
まだ施設で元気だったある日、僕の幼時のアルバムに達筆で「賢太郎 健康と幸運を祈る」と大きく書かれているのに気がついた。さらにあった「おだやかな老後をおくりなさい」には心底参った。起業してからだ。涙が止まらなかった。
父が無言の重荷だったこともいま知った。それが取れた。でも30代40代だったら怠惰な僕はきっとだめになっていたろう。晩年まで心身とも壮健で97才まで生きてくれた父。彼を一言で表すなら、『世界一の教育者』以外にない。
いま目の前に忽然と開けた新しい世界。宇宙のどこかにいる両親が「あの七五三から64年の歳月がたったね、もう一人でできるよ」と言ってくれている。もちろんだ。また逢える日まで、最後までやりきるのが不肖の息子の責務だろう。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
Categories:______自分とは

S.T.
6/29/2022 | 12:04 PM Permalink
死は誰にも等しくやってくるものだとしても、それは公平にやってくるものではないようなので、死者にふたたび会えないのなら、わたしは神など要りません。お父様のこと、悔やまれます(わたしにはまだほとんど理解できないですが…)。
もし強健な人が死ねば、また生きられるでしょうか。
私の強制奉仕のすべての日々、私は待ちましょう。
私の解放が来るまで。
あなたは呼んでくださり、私はあなたに答えます。
ご自分のみ手の業をあなたは慕われます。
—ヨブ記14:14,15
東 賢太郎
6/29/2022 | 5:29 PM Permalink
S.T.さん、ありがとうございます。
Hiroshi Noguchi
6/30/2022 | 4:04 PM Permalink
先ずお父様のこと心からお悔やみ申し上げます。小生の父は2002年6月に84才でした。
小生はなんとなく東大で45まで過ごし、その後静岡で65の定年を迎えたので、人生の区切りが20ねんずつのような勝手な錯覚をしております。そんな勝手な男ですが、あと凡そ13年間毎日自分を楽しませなければなりません。仕事を辞めてから偶々大兄のブログに出会えたのは、新しい「知己」を得たと感じております。色々お話しを拝見して、音楽鑑賞では先達でも、小生よりお若いのは、この年になると何より心強く、是非この度のご不幸を乗り越えられて一層の御健筆を振るわれますことをお祈り致したく筆を取りました。切にご自愛のほど。
東 賢太郎
7/1/2022 | 12:58 PM Permalink
Noguchi様
お言葉、心にしみます。
拝察申し上げるに5年ほど先輩かと存じますが、知己に加えていただき光栄です。モチベーションというものはなかなか自分でも左右できず、しばしPCに向かわない日々を送っていますが、お言葉には力を頂きました。心より御礼申し上げます。