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果てのないオマージュ(東家の歴史)

2022 JUL 12 2:02:13 am by 東 賢太郎

本郷西片に下宿していたころ、東大正門前の銭湯にずいぶんお世話になった。冬の寒い日、勉強に疲れるとタオル片手にぶらっと出る。ひとっ風呂あびて行きつけの飯屋で瓶ビールに中華丼なんてのがささやかな楽しみで、世間様のイメージとは大違いで当時のあの界隈は日が暮れると大いに庶民的であった。

東京の銭湯というと「富士山のペンキ絵」と相場が決まっているが、これは我が父の祖父が明治17年にJR水道橋駅の近くの猿楽町に開業した「キカイ湯」が日本初である。もう廃業したが跡地にこんな案内板がある。

これを記した東堯氏は京大物理学科から東芝に入り、日本色彩学会会長をつとめて勲四等瑞宝章をもらった人だが、我が父のいとこである。子息の実氏は東大工学部から東芝の専務(最高技術責任者)となり、退職後は中国の清華大学顧問教授、東京理科大大学院教授といった具合であり、父の兄弟もその子供である僕のいとこもみなガチの理系という一族である。

東由松は石川県能登から上京した。一度父と故郷を訪ねてみたが、穴水に近い鹿波という半農半漁の寒村である。わけは父も知らなかったが、由松が能登を去ったのはキカイ湯を創業した32才より以前だ。田舎にくすぶるのは嫌だったのだろうと推察するが、明治時代初めに近場の金沢や富山でなく一気に東京都心をめざした心意気は我が心に響く。聞く話によると当時は風呂屋というと北陸出身者が多かったそうで、朝4時からの重労働であるから東京人がやりたがらない仕事だった。僕から見て曽祖父にあたる彼が裸一貫で銭湯を立ち上げ、旧態依然のビジネスをエンジニアリングで省力化し、富士山の絵でマーケティングに成功したこの話は大いに気に入っている。

幼い頃の我が関心事はというと、幼稚園で描いた絵を見るに電車の床下の機械と車輪、それからねだって買ってもらった人体解剖図、全天恒星図、鉱物標本を子細に眺めることといった風で、音楽の方も夢中だったのは音よりもSPレコードの音溝になぜ音が入っているかの謎ときであった。だから小学校にあがっても友達とは話がまるで合わず、仲間に入れてもらおうと野球少年になったのだ。父は医者か科学者にしたかったようで、文系を余儀なくされてしまったのはこうして家系を俯瞰するとやはりつらいことだった。いっぽう母方には理系はおらず、根っからの商人の家だ。そっちの血に頼って何とか生きてきたが、父から見れば期待外れの大失敗。まさか証券マンになろうとは夢にも思ってなかったろう。

かように水と油である父方、母方のブレンドは戦後の見合い結婚の産物だ。三井物産にいた母方の祖父が三井銀行にやってきていい男はいないかと掛け合い、支店長の白羽の矢が立ったのが父だった。初デートは歌舞伎座だったそうで、どっちも歌舞伎が趣味という形跡はないのだから微笑ましい話である(母は宝塚のほうが好きなのだ)。僕は父の実家があった板橋区清水町の富士見病院で昭和30年2月4日に生まれた。3才までいたこの家はもうないがよく覚えている。命名は祖父で、後に東京都知事となる東龍太郎にあやかったらしい。

祖父は優しかったが気骨ある明治の男であり、事業をしていたがそのころはもう楽隠居で、将棋をさし株を買い悠々自適だった。関東大震災で家が焼け、板橋の家は庭に池まであったが借家で裕福ではなかった。祖母は九段下の大店だった鮮魚店の娘で、両人とも常に和服で物静かだった。大森の千坪のお屋敷で洋風に気ままに育って嫁いだ母はギャップに苦労したようだ。大正13年生まれの父は4人兄弟の次男で、戸籍名の由之助はキカイ湯の由松から来ているが、どういうわけか清隆なる通名があって祖母にはいつも「キヨ」と呼ばれていた。僕の会社「ソナー」は母の名「園子」を宿しており、もうひとつの会社「レイゾン」は「由」のフランス語、raisonである。

僕の「賢」は学業への期待だろうと子供ながらに荷が重かったが、成城学園でのびのびやりなさいという母の教育とは大きな齟齬があり、それにかまけて好きにのんびりやってしまった。激務で毎日帰宅が遅かった父は勉強してるふりだけでごまかし、成績は上がらないわ受験は落ちるわで不義理してしまった。だから幸か不幸かケガをして野球を断ち切り、高3から真剣に勉強路線に転じたのは、キャリアが戦争の犠牲になった父の仇討をせねばと思いたったからだ。現役で受かった私立に入学金40万円を払ってくれたが、御免と捨てて浪人したのは一生裏切ったまま済ます気になれなかったからだ。東大の合格発表の掲示板の前でも嬉しいという感情はあまりなく、やれやれ一仕事終わったという安堵があった。

証券会社のサラリーマンとしてくだらない処世術を弄するにあたって父方の能力は無用だった。あほらしくなって会社を辞めようと思ったが、母はそれを予期したかのように「きっと縁があるのよ」と田中平八の話をして励ましてくれた。結果として辞意は若気の至りで、その訓練を我慢したことが後々の修羅場をくぐりぬける屋台骨になった。しかし人間の造った物に興味のない僕には証券業も単なるお仕事だ。そっちの僕だけを知るほとんどの人たちはブログを読んで意外だろうが、それがほんとうの我が姿なのだ。白鳥座で6,900光年離れたケプラー19bの公転周期が約5分ほど変化しているなどと科学誌で読むとムム!と居ても立っても居られない。これとハンマークラヴィール・ソナタにブラームス4番の冒頭主題を発見したワクワクは僕の中では同じ質感なのであって、どちらも紛う(まごう)ことなく父方由来のものだ。

我が父、東由之助(1924-2022)

父は神仏に信心が厚く、文学的で俳句短歌を好んで詠んだ。早寝早起きのリズムは最後まで微動だにせず、整理整頓は水も漏らさぬ完璧さで、不要と見るや即廃棄する究極のミニマリストであった。銀行員の几帳面さで何事も達筆で細かに記録し、96才になっても孫や猫のことをあれはどうなったと聞かれてこっちが忘れていることもよくあった。健啖家で95才までスエヒロのステーキをぺろりと平らげていた。運動がうまいイメージはなく車の免許はとらず母まかせだった(母は名人クラスのドライバー)。気難しくはあるが基本は陽性であり、長男の重荷をずっしり背負った僕からすると次男の気軽さがあったかもしれないと思う。誰に何を言われようと自分のスタイルを巖のごとく守る人だったが、猫が悟って逃げるほどの猫嫌いを母が押し切って3匹も飼わされたのは気の毒だったのかもしれない。陸軍では高射砲兵で爆弾に吹っ飛ばされて左耳が聞こえなくなったが、戦争は嫌ったもののそれを気に病んだり恨んだりしたのは聞いたことがない。

こうして書いてみると、僕とはかなり違う人だ。96才でも施設で英語の勉強をしていた博覧強記の勉強家だが、施設の女性看護師さんたちに囲まれ、先生と呼ばれて楽しくやっていた。人柄としては教師か神主、お坊さんでも似合った気がする。一家でただひとり2,30年も長寿だったが、同じ遺伝子でそれというのは楽観的な性格の恩恵があったのではないかと思えてくる。どんな難事にあっても神仏に祈って難なく1%の可能性に本気で期待をかけてpositiveでいられる能力において、僕は父以上の才能の人を見たことがない。そして、僕を知る人はみな知っているが、その能力はほぼ正確にそのまんまDNAに組み込まれて僕に遺伝しており、何があろうと何とかなるさでジタバタしない得な性格を与えてくれた。それがなければ絶対にここまで来ていない、最大の遺産である。

最近は体重が増えているせいか、5月8日の父の旅立ちの日の朝、いつもは大丈夫だった喪服が窮屈であることが発覚した。「仕方ないわね、お父さんのがあるわよ」と家内が出してくれたそれは、どういうわけだろうか腹まで見事にぴったりではないか。「おかしいね、俺よりずっと細かったのにね」。5年前に代々木上原の斎場で父はこれを着て母を天国に送ったのである。それを今度は僕が着て、妹といっしょに父を骨壷に納めた。葬列でもちあげてみると、可愛らしい骨壺だった母の時よりずっしりと重い。ああこれが父という存在だったんだ。膝にかかえて車で帰宅する道すがら、僕は茫然としていたが、ふと気がついた。その斎場はというと、まったくの偶然なのだが、あの板橋であった。

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