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音楽の良い聴き手になるのに学習はいらない

2022 SEP 16 18:18:24 pm by 東 賢太郎

先だってkinoko様に「東さんは独学でどのように音楽や楽譜を学ばれたのですか」と質問をいただきました。ありがたいご質問と思いました。思えば同じことを学生時代に友人にきかれ、米国で家に来た学友たちにきかれ、ロンドンでお招きした英国人ご夫妻にきかれ、豊洲シビックセンターでもきかれましたが、僕は誰に頼まれたわけでもなく、一文のお金にもならないことを時間をかけてやってる物好きな好事家にすぎません。

音楽も楽譜も、学んだことも重視したこともないのです。独学という言葉には「学」の文字があるのでお勉強っぽいのですが、英語だと self-taught で自分で自分に教えるということです。先生が自分という素人だから素人以上にはなりません。僕は野球もゴルフも勉強も、プロである仕事以外はぜんぶそれですというお答えにどうしてもなってしまいます。

そこで、いつもそうしてますが、「とにかく曲をたくさん聴いて耳コピしてしまっただけです」と返信させていただきました。その努力はしましたし、それ以外にここまでのめり込んだ理由も見当たらないからです。誰でもその気になればできますので、もう少し丁寧にご説明しておこうと思います。音楽を「聴く」とは何か、「耳コピ」とは何かということをです。

音楽をきいて楽しむのに学習はいりません。なぜなら楽しめるように音楽は書かれているからです。退屈して寝てしまった人は決して自分が悪いとは言いませんね。「退屈な曲だ」というんです。皆がそういえば評判が悪くなって作曲家は仕事が来ません。だからあの手この手で仕掛けをします。演奏会で第九の第三楽章で居眠りしてる人は結構いますが、家路につくほとんどの人は「感動」してます。だから第九は人気なんです。ベートーベンがうまかったということですね。

ハイドンは「驚愕」の第二楽章でどかんとやります。寝てる人をおこすため。あそこで寝るならば、第九の第三楽章までおきてるのは奇跡ですね。ハイドンの技を学んでいるベートーベンは、普通はゆっくりの第二楽章でいきなりばーんとやり、次のアダージョでまた寝られても終楽章の出鼻で今度は強烈な不協和音をばーんとやる。さすがに会場の全員がびっくりして目が覚めます。そこから歌が入って、気がつくと壮麗な神殿にいるようで、何やらわからないまんま、あれよあれよで「ブラボー!!」が飛ぶのです。

初めて第九に連れていかれた人はそんな感じでしょう(僕もそうでした)。感動したのでレコードを買いましたが、でも、やっぱり第三楽章まではつまらないんですね。終楽章だけ聞くのも変だし、しかも当時はLPですから第三楽章の途中で面がかわるんです。レコードをひっくり返さなくちゃいけない。幻想交響曲もそうでしたが、それでだんだん疎遠になってしまいました。

モーツァルトはもっとだめなんです。だってどかんもばーんもありません、最初の楽章から寝てました。ロックから移住してきたからでしょう、僕にとっていちばん退屈な作曲家はモーツァルトだったんです。レコード棚に初めて加わったのは大学に入ってからでフリッチャイ指揮の交響曲でしたね、それも廉価版で安く、生協で割引になるからという理由でした。

その頃、僕がクラシック初心者だったかというと、そうではないんです。もう5、6年は真剣に聴いていて、ストヴィンスキー、バルトークの主要曲は何度も聴いて覚えてました。春の祭典のことは何度も書きましたが、火の鳥もアンセルメ盤が頭に擦りこまれていて、寝ても覚めても全曲演奏が鳴ってました。プログレッシブ・ロックみたいで違和感がなかったのです。

そんな僕が豊洲シビックセンターで300人のクラシック愛好家のかたにモーツァルトの素晴らしさを語るなんて天変地異なんです。だから「あれから学習してモーツァルトに目覚めたんです」と言えれば楽で格好もいいわけです。しかし困ったことにそうではないんですね。知らないうちに魔笛もフィガロもレクイエムも覚えていて、知らないうちに口笛で出るようになっていた、それだけなんです。

曲を覚えている方はたくさんおられます。ただそれは聞けば曲名がわかることなのか「耳コピ」なのかは違います。ここで「耳でコピーする」それのご説明が必要になるでしょう。譜面なしに歌や楽器で再現できることを言いますが、僕は中学生の時にギターを買ってもらい、ベンチャーズやビートルズをまねた時期があります。楽譜はないですからまねするには「耳をかっぽじって」きくわけです。すると3分ぐらいの曲が耳に焼きついて、頭の中で「リプレー」(再現)できるようになります。

だんだんそれが習慣になって、クラシックでも耳がそういう風に勝手に動くようになりました。そこで大きな経験がやってきます。後に留学して、カーチス音楽院の大ホールで、セルジュ・チェリビダッケのオケ・リハーサルを、ガランとした客席に一人だけの状態で見せてもらったことです。これを説明するにはその時のムードを書かなくてはなりません。ピンと張りつめた空気の中をマエストロは舞台左手から悠然と歩いてきて、客席の前の方にひとりポツンといた僕に気がつきました。指揮台からにらまれ、何か言われそうになり凍りつきましたが、ほどなく彼は無言のままオケの方を向きました。

オケの第1Vnには畏友の古沢巌さんがいて(彼の手引きで、学校に懇願して、そこに立ち入らせてもらったのです)安堵の目を合わせようとしましたが彼の方がそれどころではありません。舞台ではみな顔がこわばっていて、細心に細心を重ねた注意を払ってドビッシーの音を要求されてゆく。それがまた凄くいい音なんです。こうやって作った音楽は、受け取る側もそうやって聴かないといけないものなのだと感じ入りました。耳コピ当たり前ぐらいの集中力とテンションで聴いて初めてあの美はわかるんです。これからもそうしようとなって今に至っております。

「そんな疲れることはしたくない、音楽はリラックスして楽しむものだ」という方はもちろんそれでいいと思います。どなたにとってもそれが音楽をきく目的というものでしょう。ただ、「耳コピ」すると別な演奏に接して比較する楽しみが出てくるという効用はあります。聴き方が critical(批評的)になるので、違いを「言語化」できるようになるんですね。演奏会が終わって「感動しました」で結構なんですが、人間の感覚的な記憶は定着しにくいそうでその感動がどういうものだったかはやがて忘れてしまうでしょう。

ところが言語化できていると(日記にでも書き残せば特にですが)それを何年たっても覚えていて、そのメモリーが蓄積し、増幅していくのです。やればすぐわかります。これはソムリエが「ワインの味の覚え方」でいってることと同じです、彼らは飲んだワインの味、ブケ、アロマという感覚的なものを干し草の香りとか、猫のおしっことか「言語」で覚えているのです。その蓄積がないと知らないワインを評価する基準ができず、ソムリエ試験に合格できないそうです。音楽でもそれは有効だと思います。

「耳コピ」ができるようになる方法は「耳をかっぽじって聴くこと」に尽きます。それでどなたでも出来ます。1音たりとも聴き逃さない気持ちをもって、心の録音(REC)ボタンを押してから聴くのです。これを何回かやれば、覚えます。皆さん受験勉強をしたわけですから間違いありません。音質は良いに越したことはありません。さっき、娘にマ・メール・ロワをRECモードで聴きなさいと僕のヘッドホンを与えました。「人類最高の精巧な美を味わうんだよ、安物じゃダメでしょ」と言って。これで彼女は宝石を一つ得るはずです。

では楽譜は我々にどう関わるのか、はたして聞くだけの人に必要なのだろうか。クラシックのような複雑な音楽になると耳だけでは見当もつかない部分がたくさんあります。ここで、楽譜が登場するのは僕の性格からかもしれないのですが、未知の病原体を顕微鏡でのぞく科学者の気分になってくるのです。ですからこれは趣味の世界であって必要とは思いません。曲が頭に入っておれば、どなたでも十分にソムリエになれますし、外国へ出ても、ご自分の意見を堂々と語ってリスペクトされますから何の不足もないと思います。

英国時代のお客様で演奏会、オペラをよくご一緒した方にD.P.さんがおられます。僕が最も尊敬する英国人です。ケンブリッジ大の首席で、博覧強記のインテリですが彼の音楽の聴き方はとても趣味が合いました。年上なのでクレンペラーをリアルタイムで聴いていて高く買っておられましたが、理由は「楽譜の奥に隠された secret のありかを知っているただ一人の指揮者」というのです。それは何かときくとcommon senseだと。常識ではなく、彼の意味は文字通り「作曲家と同じ(共通の)センスがある」ということでした。

クラシック音楽は欧州生まれです。それを欧州人の感覚(センス)でないとと言われると日本人は困りますが、彼は「ミツコ・ウチダのモーツァルトは西洋人の誰よりいい」ともいうのです(内田さんは英国人ですが彼には日本人なんです)。英語は忘れましたが、たしか、「昨今は技術がパーフェクトな演奏家は多くいるが、Perfectionism sounds vacant. (センスに欠ける完全主義は空疎である)」ともおっしゃいました。common sense が大事なことは同感です。だから演奏家は何国人でも構いませんがそれを探求する意欲が大事で、こればかりは現地に行かないとどうにもなりません。そういう日本語のツアーがあればお薦めですし、どなたか識者と一緒に回られるのでもいいのではないでしょうか。

僕の場合、12年も住みましたからD.P.さんの意図が何となくわかって有難いのですが、住んだといってもモーツァルトの時代ではないわけですからそれだけでは意味はありません。東京に12年住んでも江戸時代がわかるわけではないのです。そのためには、江戸時代はどんな光景だったのだろう、江戸の町人はどんなふるまいをしていたのだろうと好奇心をたぎらせ、良いサンプルである浮世絵とそれが描かれた現在地を比べて回ってみようぐらいの探求心は必要です。そうやって北斎や広重の絵の流儀を知り、時代背景を知り、観るものの心を鷲摑みにしてきたsecret のありかを悟ることができると思います。

楽譜の話に戻りますと、僕にとってハイドンやモーツァルトの楽譜は、ウィーンを知るための浮世絵のようなものでありました。その音を頭でリプレーしながらウィーンの音楽史跡をくたくたになるまで探索し、そこで時間を過ごし、すでに僕は僕なりの「ウィーンの原像」を心に持っています。確信をこめていいますが、モーツァルトを演奏する人はラウエンシュタインガッセ8番地ぐらいは行ってもらわないと困るんですね。墓地やフィガロハウスじゃないんです、あそこで彼は旅立った、そのずっしりとした悲しい重みをどう自分の中で消化したか、そういうものが演奏に出てしまうのがモーツァルトの音楽なんです。球を転がすような真珠のタッチで弾いたモーツァルトはきれいですが vacant です。

国立歌劇場でパルシファルやこうもり、アン・デア・ウィーン劇場でメリー・ウイドウを聴いたり、ムジークフェラインでニューイヤーコンサートを聴いたり、ウィーンではいろんな機会に恵まれてオペラ、演奏会をたくさん堪能させてもらいましたが、それとこれとは別個のものです。所詮は現代のシチュエーションでの鑑賞ですからね、それを何百聞いてもハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、ブルックナー、ブラームス、マーラーの時代とは関係ありません。極論すれば、ウィーンで一度も音楽をきいたことがなくとも、好奇心、探求心さえあれば「ウィーンの原像」を心に持つことは可能と思います。

パリでも真夏に丸一日歩き回ったことがあります。メシアンのトリニティ教会、ロッシーニのカフェ、モーツァルト(22才)とショパンの住んだホテル、リストのエラール屋敷、旧オペラ座跡、オッフェンバックが「ホフマン物語」を書いて亡くなった家、リュリの館、大クープランの終の家、モーツァルトがパリ交響曲を初演してアイスクリームを食べたパレ・ロワイヤル、そして彼のお母さんの葬儀をしたサン=トゥスタッシュ教会。現在のオペラ座の近く(1区)ですが、こんなに重たいものが至近距離にごった返してるんですね。漂うのはいまのパリの空気ではない。こういう足で歩いたものは劇場でホフマンを1度聴くよりパリの原像を理解する助けになっています。

楽譜は江戸なら浮世絵と書きましたが、絵描きでない我々が技法のことをあれこれ知る必要はぜんぜんないでしょう。僕は純然たる好奇心から対位法、和声法、管弦楽法の教科書を買って読みましたが、それでグレードの高い聴き手になったという感じはまったくしません。聴き手としては単なるアカデミズムで、耳コピできる方が10倍もご利益がありますからそちらに傾注された方が見返りはずっと大です。ただ、ピアノが弾ける方は二手リダクション版で新世界や未完成を弾いてみるのは一興です。ブルックナーとなると難しいですが好きな方ならしびれることはお墨付きです(petrucciで検索すれば無料で手に入りますよ)。これができるようになったのはビートルズの耳コピの副産物です。ギターが弾けたからです。なんでも結構なので楽器をやることは良い聴き手になる一助だと思います。

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