チャンドラー「長いお別れ」(1953)
2022 OCT 14 12:12:08 pm by 東 賢太郎
レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」(The Long Goodbye)の主人公、私立探偵フィリップ・マーロウはひょんなことで知り合ったならず者テリー・レノックスに好感を懐く。べろべろに酔って連れの女に見捨てられた彼に興味がわき、こいつ憎めない、酌み交わしてみようかという気になったということであって、損得とか追従とかあさましいものが入る余地はない関係だ。このカネも巧言令色も排した生き様の男が主人公という所が本作の胆であり、本稿の主題でもある。
昨今、「男らしさ」が死語になりつつある極東の我が国で、寂しい思いをされている男性女性諸氏は多いと察する。僕はその一人だ。ジェンダーは大いに結構だし、女性が活躍できる社会になることを娘を二人持つ僕は心から願う。しかし、そのことによって男の美学が両立できなくなるという理屈などどこにもないのである。今回はそのことを、僕が愛するこの小説を例に考えてみたい。
本作は、ある日、レノックスがマーロウを訪ね、富豪の妻が殺されたので容疑をかけられるから逃亡したいと銃を片手に訴えることで動き出す。マーロウは話を聞き無実だという心象を得て彼を車で送って逃がしてやり、そのことで自分が警察に捕まって3日も拘留される。ギャングにレノックスの仲間と思われ脅されもする。しかし何があろうと頑として彼を守る。すると警察からレノックスはメキシコで死んだと告げられ、遅れて死者から手紙と5千ドル札の礼金が彼あてに送られてくる。手紙は宛名を欠いており、グッドバイで終わっていた。
ロバート・アルトマン監督が映画化した「ロング・グッドバイ」は物語を1973年当時に置き換え、エンディング部分はびっくりのアレンジを施して、コアなチャンドラーファンから評判がよろしくない。彼のマーロウは徹底して冷徹で勝手放題の独身男であるのはいいが、猫が帰ってこないと心配で、フラットの隣りで裸で踊るあばずれ女どもには心優しいが色香には目もくれない。こういうタッチは原作にはなくアルトマンが新たに構築した世界観なのだが、書き替えられた結末は、そんなマーロウの男ぶりからすれば「かくあらねば」なのである。エリオット・グールドの演じたマーロウのキャラは逆にそう作りこまれている。きのう映画を久しぶりに見て納得した。こじゃれたロスの市街やマリブの美しいビーチをカンバスに描かれるアルトマンのマーロウだ。小説より先にこっちを見れば、そういうものかと納得してしまうクオリティがある。それはそれで目くじら立てることもなかろうというのが僕の印象だ。
マーロウの男ぶりは、しかし、原文で読まないとチャンドラーの思いついたアイデアがどういうものだったかということがわからない。というか、どうしてこれがハードボイルドなのか、そもそも “ハードボイルド” とは何か、更には、タイトルがなぜ「The Long Goodbye」になったのかだってわからない。
原作のマーロウは人を殺したこともあるしアウトローすれすれのことも辞さない、喧嘩に強く、逃げないし、曲げないし、買われない男だ。これだけだと西部劇からよくあるタフなアメリカンヒーローだが、それで収まらないのは、あからさまで皮肉なツイストの効いた怜悧な目線があるからだ。すべての人物を赤裸々に、見透かしたように、彼流儀で容赦なく裁断し、冷えてないビターのようにほろ苦い。これはおそらくチャンドラー自身が原文に2度ほど使っている形容詞である ”sarcastic” な男だからであって、マーロウは彼自身の投影なのだと思う。この目線があるから、終結で、ギャングのメンディみたな下衆の暴力を振るわず卑しい下賤を唾棄して失せる。この格好よさをアルトマンはハリウッド風情にしてしまったという批判は当たっているだろうが、痛快さは増している。
目線はチャンドラーの「文体」が負っている。映像でそれを醸し出すのは難しいのだ。すなわち、問題のレノックスの手紙が拝啓、敬具の形式を踏んでないことがThe Long Goodbyeの秘かな主題呈示であるように、本作は1人称で書かれた「マーロウの目線」を踏んだ、つまりそんな sarcastic な男が彼流の定義で crazy や drunken と断じた何をしでかすか知れない男女が、人を殺したり自殺しておかしくない狂った本性で読者の理性をごちゃごちゃにしてしまうことでミステリーの様相を呈している文学であって、これを映画化することにはそもそもの無理があるのだ。何が近いと言って、ご異論もあろうが、「吾輩は猫である」の人間版と思えば僕が何を言いたいか把握しやすいと思う。アルトマンの彼流の解決は、オットー・クレンペラーがメンデルスゾーンの第3交響曲のエンディングをやむなく書き直したことを思い出させる。
本作は日本語訳があるが、できれば原文をお読みいただきたい。音楽鑑賞だって、できる人は楽譜をあたった方がいいが、本作の英語にそんな難儀さはなく、あっけらかんとした中学生レベルだからだ。皆さん大学受験で何を言ってるか訳の分からない現代国語やそれの英語版である英文解釈に頭を悩ませた経験がおありだろう。誰だったか、自分の作品が入試に採用された小説家が設問に答えられなかったという笑い話があるが、その不毛な作業がへどがでるほど嫌いだった僕にとってこの英文を読むのは快感だ。チャンドラーの知性から推測するに、というより、あえてこの文体で書こうというのが知性そのものだが、そうしないと描けなかったマーロウという人物像が1953年頃の米国で受容されると踏んだわけであり、それがハメットの産んだ流れだったのだろう。音楽好きならわかってもらえるだろうが、プロコフィエフが古典交響曲を書きたくなった知的試みにとても似ていると僕は思う。
チャンドラーは「文学的」な文学をあざ笑うがごとく、誤解の余地が微塵もない、つまり入試問題を作るというそれはそれで大変な難題に困った先生方が絶対に選ばない見事に実用的な文章で素晴らしい文学を仕上げた。これがハードボイルドなのであり、源流は私見ではジェームズ・M・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1934)にある。ギャング、ヤクザものがそう呼ばれると誤解している人も多いが、確かに題材として素の人間丸出しのクライムノベルが適してはいるが、1人称で犯罪なくしてその味を出すことに成功している夏目漱石も、マーロウに負けぬ己の主観で押し通した清少納言も僕の中では同じタッチの作家であり、だからこそ僕はそうした作品群を愛し、優れた音楽作品と同様のこととして何度読んでも飽きもせず、こうしてそういうタッチに色濃く影響されたブログを書き連ねる羽目になっている。
御用とお急ぎでない方はyoutubeに本作の朗読がある。これは福音だ。聞いてみたが、語りが実にうまい。2時間45分があっという間だった。平易だが切れ味鋭い。マーロウでなくこの文体こそ半熟のじゅるじゅるを排した固ゆで卵であり、この簡素さと潔さは江戸っ子である僕の感性にびんびん響く。子供時分から文をそんな風に書いており、益々そう書きたくなる。この文体であってこそマーロウの「男らしさ」がきーんと冷えた吟醸酒のように冴え冴えと舌を喜ばせるというものだ。男らしい奴。レノックスとお決まりのバーでジン&ライム。これが良かったのだ。悪事は知り尽くし、何が来ても微動だにせず、気に入った奴のために喧嘩もし、生きる金は稼ぐが買収も巧言令色も効かない奴。こういう奴の築く人間関係は友情なんていう甘ちょろい言葉では代弁できない。こんな男が日本にはついぞいなくなった。
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内藤範博
10/15/2022 | 2:00 PM Permalink
東様、
こんちには。いつも愉しく、また、『知的闘争』を喚起下さるご投稿を拝読しております。
(余談ながら、『知的闘争』を安易に避け、本当は考えるのが面倒臭いだけなのに「色々な考えがあるよね」と一見、鷹揚でSDGsなる大掛かりな世界的詐欺に媚びへつらうスタンスの詭弁性にうんざり)
閑話休題。今日は、『知的闘争』惹起路線ではなく楽しいチャンドラーの話題。私もチャンドラーが大好きです。
自分の弱さや限界が分かって、なお、何がしかその人の領分で責任を果たそうとすると、一定の「男」には痩せ我慢以外、良い選択肢があるようには思えません。
私はヘテロセクシャルの男だから、痩せ我慢する「良い男」が減っても、「まぁ、仕方ないか。自分の人生の使い方は変わらないし」で済みますが、女性達が少し気の毒な気がします。好みが一色に染まる必要はないですが、いわゆる「男らしい」ていう選択肢があることすら圧迫される、衆愚ネット民主主義の馬鹿らしさ。
それでも、また、揺り返しはいつか来るでしょう。人間、そうそう変わるものじゃないから。
東先生、私は投資は全く素人ですし、ミクロの投資判断はやられないとおっしゃっていますが、フィリップ・マーロウ的男性の株価は、日本では冗談みたいな捨て値になっている気がします。高値が続く優男、フェミ男株は捨てて、女性達もいくらか、痩せ我慢銘柄に投資するのはいかがなんでしょうかね?笑
東 賢太郎
10/15/2022 | 10:40 PM Permalink
本稿は筆が進めば進むほど空しさが湧き出てきまして、実は何度も書き直し、一度は没にしました。というのは、書いてもどうせ超少数派なんで何も起きないよ、いまどきあっそうで終わりだよという天の声が聞こえてきたからです。内藤さんのような方がおられてほっとしてます。でもやっぱりそうなんでしょうね。
内藤さんが気の毒という類の女性たちはたくさんいましたね、でも今は経済事情が変わっていて部長より平社員×2の方が年収多いですからね、社内結婚して女房孝行して共稼ぎしたほうが人生楽で家庭も安泰です。女性も部長狙いのマッチョな男よりそういう男が安心でいい。だからおそらくマスオさんの需要が高いでしょう。男らしさなんてトリセツがややこしいのはマイナス要因です。以前に香港にいたころ、飲みに行くと多くの社員がそう嘆いてたんで同情しましたが、いまや日本の男の方がもっとかわいそうで、逆タマのヒモ狙いも悪くないんじゃないかと言ってます(笑)。
Hiroshi Noguchi
10/15/2022 | 10:48 PM Permalink
僕には当否は分からないのですが、ある先輩が、英語にはドイツ語系とフランス語系の単語があって、チャーチルはベルリンに進軍しようと言う演説ではドイツ語系の単語しか使っていないといっていました。そういうところまで理解できる語学力はありませんが。
東大兄のチャンドラー論、喝采です!
ダシールハメットの晩年はアメリカの正義が如何に恐ろしいかと重なりますが、チャンドラーが生き延びたのは、英国でのパブリックスクールでの教育やそれを支えたファミリーがあったためか、などと思い巡らしました。
東 賢太郎
10/17/2022 | 8:04 AM Permalink
渡部 昇一著「英語の歴史」にありますが、英語の語源で「大和言葉」に当たるのはゲルマン語(ドイツ語)、抽象的語彙はマグナカルタあたりで仏国から入ったラテン語だそうです。Mutter, Vater, ein, zwei, dreiが音韻変化してmother, father, one, two, threeになってます。ーtion, ーtiveなどはラテン語です。
チャンドラーはレノックスが英国にいた設定にして「こんな品のよい酔っぱらいは初めて見た」とマーロウに言わせてます。左様に米国のインテリは英国に劣等感がありますね。英国のレコ芸であるGramophone誌の評論文は難しい形容詞、副詞のオンパレードで英国人でも教養がないと読めません。そういう語彙が使いこなせないと論じられないという風に classical music は「定義」されていると言って過言でないです。チャンドラーはそれのアンチテーゼを文学でやったんですね。鼻持ちならないといいながら、それを身につけている優越感はあるという、まさに complex な心理から hard-boiled は出てきたと思います。
ST
10/17/2022 | 5:46 PM Permalink
The Long Goodbye と聞くと、これは死のことかな、とわたしのなかで結びつくのは、フランス語の adieu が à Dieu だからなのですが、Wiki のフィリップ・マーロウの頁に「To say Good bye is to die a little」のカッコいいセリフが Edmond Haraucourt の「Partir, c’est mourir un peu,」から来ていると載っていました。これはわたしが以前に何か読み物から手帳に書き写したことのあるフレーズでした(笑)。とすると、死んだはずのレノックスが生きていた(ネタバレ読んでしまった…)ということで、これが本当にただの「ロング・グッバイ」であったという逆のオチがまたどこまでも “美しい物語” を裏切っていく皮肉! ということでしょうか。ハードボイルドがすこしわかったような気がします…。
東 賢太郎
10/18/2022 | 12:43 PM Permalink
グッバイは死者からの手紙に伏線があるんです。sincerely yoursでなくってね。こういうところ、雑駁な書き方に見えるんですが細かい計算はあって、でも適度にユルくて仕組まれ過ぎてない塩梅がいいですね。ぎゅっとシマって味が濃い、これ、hardなんです。でも僕なら卵より棒鱈旨煮ですね、関西のお節にある。STさんは原文で読めそうだからぜひ味わってください。
ST
10/19/2022 | 5:42 PM Permalink
あら、また勝手なこと考えてしまいました。読まなければわからないですね。しまって味が濃い…しょっぱい鱈ですか? 東さんの音楽評は美しい言葉だけではなく切り込んでいかれるので、芸術は人間の美しい垢みたいなものであるというわたしの考えから、そうした表面をいっそリアリティでもって剥ぎ取ってしまったらいったい何が残るだろう(それにどんな価値があるのだろう)ということを考えたりします。人間がほんとうに幸福になったらもっと全然別なものを生み出せるのではないかという期待もあります。
何だかいよいよわたしのおしゃべりでご迷惑をおかけしているような…わたしはすこし静かにしなければいけません。