ジョン・ケージ小論《 Fifty-Eightと4′33″》
2023 OCT 26 11:11:41 am by 東 賢太郎
(1)直島できいた心臓音の衝撃
4年前に瀬戸内海の直島に泊まった時に「心臓音のアーカイブ」を訪れた。『 心臓音の数だけ人の命があり、人生があり、一つとして同じものはありません。ハートルームで無数の心臓音に包まれていると、命の尊さ、儚さ、かけがえのなさに、自然と思いを巡らせていく・・』 というコンセプトでフランスの彫刻家クリスチャン・ボルタンスキーが2008年以降、世界中で集めた人々の心臓音を恒久的に保存し、聴くことができる小さな美術館である。もちろん、望めは誰でも自分の心臓音を登録できる。
幾人かのものを聴かせていただいたが、たしかに個人差はある。しかし僕を驚かせたのはそれではない、マイクロフォンで拡大された心臓音というもののたくましい雄々しさ、猛々しさであって、響きという静的な語感のふさわしいものではなく、嵐に大海がうねる波動を思わせたことだ。自分の中でこんな荒々しい作業が一刻の休みもなくおこなわれているだけでも俄かには信じ難いことであり、そのおかげで脳に血が回って意識の明かりが灯されているのだから生きているということはそれだけでも大変なことなのだ、しっかり生きなくてはと殊勝な気分すらしてきたものだ。
人体は音を出している。英語にはinner voiceという言葉があるが、良心と訳すのだから宗教的なコンテクストだろう。ハート(心臓)は即物的な器官であり、そんな善性のものでも、ロマンティックなものでもない。人間ドックで自分の胃や大腸の画像を見たとき、それは自分の一部分どころか得体のしれぬ赤い肉塊であって、他人のであっても見わけもつかない。それをあたかも僕の所有物であるかのごとく医者は語るのであり、それでいて、所有権者のはずの僕よりも医者はそれを知り尽くしているようにも語るのだ。その奇妙な感じ、経験者もおられよう。親にもらったものではあるが、親とて意図して製造したわけではなく、僕はせいぜいその管理者か保護者にすぎないというものでほんとうの所有者はわからない。親でも医者でもないなら、人智の及ばぬ天の彼方におられる全能の方であろうかという結論に漂着しても仕方ない感じがする。
ボルタンスキーの美術館は心臓音を展示するアートギャラリーであり、音というものに関心のある僕に衝撃を与えたカテゴリーキラーである。ちなみに直島はクオリティを世界に誇る総合造形芸術アイランドとして海外に著名である。島ごとが一個のオープンエア美術館といった風情であり、ボルタンスキーのような斯界の著名アーティストを自由に腕を振るわせる条件で参集してもらい、存分にその才能が発揮された展示物がそこかしこに点在するという夢のような場だ。ベネッセハウス様にお世話になったこのときの体験は、僕の造形アート理解の次元を飛躍的に変えてくれた(「野村ロンドン会」直島旅行)。
本稿をそれで書き起こすのは、まったくの偶然でyoutubeで発見したジョン・ケージの音楽をきいて、直島に遊んだゆったりした時間を思い出したからだ。そう、それはケージに似ているのだ。直島体験なかりせば僕はケージの音楽には無縁で終わっていたかもしれない。あそこでは、島の広大な敷地を生かして展示ホール内の残響まで周到に設計されていると感じた。それが周囲と一体になって生まれる空気感(アンビエンス)は残響にとりわけこだわりがある僕には忘れがたいものだった。そうした空気感というものはその場に立って五感で味わうしかなく、実は絵画や彫刻であっても、その「入れ物」である天井の高い美術館の空間と切っても切れないことはルーブルやメットに行った人はご存じだろう。
(2)無響室で聴こえるもの
残響とアンビエンスを正面から論じる音楽評論家は見たことがない。オーディオ評論家はいそうなものだがやっぱり見たことがない。木造家屋に住む日本人にとってそれは録音会場まかせのディファクトであって、レコードやCDの「録音評」の仕事であり、どんなオーディオ装置でそれをうまく鳴らすかという商売に持ちこまれてしまう。僕のようにリスニングルームを石造りにして自家で発生させようなどという人はまずいないし、業界としては困った変人扱いだろう。とんでもない。チェリビダッケはある曲のテンポ設定の質問にフルトヴェングラーが「それは音がどう響くかによる」と答えたのをきき、メトロノームの数字だけを元に決められたテンポ設定は無意味だと悟っている。残響とアンビエンスを重視しない人の演奏も音楽評論もダメなのだ。
僕はある会社の無響室に入れてもらって、残響ゼロの世界に絶句したことでそれを悟った。ジョン・ケージはハーバード大学で初めて無響室に入ったときの経験をこう語っている。「無音を聴こうとしたがそれは叶わず、二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった。エンジニアにそのことを話すと、高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音だという答えだった。体内からの音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないこと、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるだろうから音楽の未来は大丈夫と考えた」。ケージは体内の音を聞いたことで宇宙に無音はないとポジ・ネガ転換した発想を持った。僕は自分が発した声の変調に驚き、シーという耳鳴りを聞いたのを除けば、ここに閉じ込められたらという恐怖だけだった。真空の宇宙空間は無音だが、それは鼓膜が察知する波動がないというだけであり、体内に発する波動も脳は「音」と認識することをケージは発見した。脳が創り出しているものが「音」の正体ならば、宇宙の果てまで行こうが音はある。その命題は人体という小宇宙を起点とした宇宙観の転換にすぎないわけだが、それを考察する我々の脳も宇宙の一部だから正しいといえなくもない。
(3)遠い記憶
幼時に「ぷかぷかと宇宙に浮遊した」ときのことは前稿に書いたが、浮遊というとルネ・マグリットのこの著名な絵がある。しかし、こうではなかった。
もっと暗くて、心象はこんな質量感を伴う現実で、だから怖かったのであり、
こんな無重力感があった。あれは母の胎内にいたときのぷかぷかだよと言われればさもありなんという感じのものだ。でも、もしそうならば、あの重いものを移動させろ(Carry That Weight か?)という強烈な義務感は何だったのだろう?
その時の気分を思い出すものがないかと長らく探していた。あった。この音響が与えるイメージ、うなされていた時の「感じ」に似ている気がする。
これを聞きながら瞑想する。あの光景がゆっくりと心に満ちる。神が杖(つえ)をかざすと持続音の暗い霧に新たな音が一条の光のように差し込んで調和し、徐々に徐々に思いもしない色彩を帯びた和声が産声をあげてくるさまは天地創造の荘厳な神秘のようだ。
天が肉体に共鳴しているとしか表現のしようがなく、その理由はどこがどうという形では見当たらない。喩えるなら、気が合って一緒にいても飽きない人。何がそうさせているのかはわからない、単に、トータルに「合う」という言葉でしか伝えられない。それでもこれを僕は良い音楽と思う。
(4)カテゴリー・ブレーカー
作品は結果がすべてだ。偉い人の作品だ、少々退屈でも忖度しましょうなんてことはない。ということは、この曲がどのようなプロセスを経てこうなったか、どんな技法か、指揮者がコンクールで何位か、オーケストラがどこかのようなことはまったくどうでもよいことになる。そういうことを詮索したくなるのがクラシック音楽だが、それは作曲家名がクレジットされた楽譜があるからなのだ。楽譜はあって結構だが、モーツァルトは楽譜にした何倍もの音符を聴衆の前で放っていたのであり、それは聴けなかった我々の知らない評価の源泉があった。
彼の楽譜は自分にとっては備忘録であり、他人にとっては弾かせるための総譜でありパート譜であり、なによりプライドを持って生きるための名刺であり商品だった。死後に妻が生計のため換金する動産となったところから楽譜のセカンダリー市場が登場し、付加価値が発生する。それは作品の真実とは無縁である奏者や評論家のエゴを満たし食い扶持になる価値で作曲家とは何の関係もなく、モーツァルトが何者か知らないし知る知性も関心もない一般大衆に一時の見栄であるプレミア感を売るための膨大な手垢である。モーツァルトは知らないクラシック音楽という概念は、そうした泥にまみれた醜怪な雪だるまであって、そんなものが僕を感動させることはない。
小節線がなくて、ぽんと音符がひとつだけあって、あとは長さも強さも君たちが適当にやってくれなんて作曲家はそうしたクラシック界においては尊敬されないし、そんないい加減な曲を聞きたい聴衆もいないだろう。しかし、それでも良い曲だったねとなればいい。それが音楽の本質でなくて何だろう。モーツァルトの曲はそうやって生まれたし、ジャズのセッションみたいに、演奏家がやる気になって一期一会の音楽が生まれる場は今も生き生きと存在するのだ。充分に魅力があるし、いわゆるクラシック的な音楽の場においても、作曲家は演奏家に曲のコンセプトと霊感とインセンティブだけ与え、コーディネートする役になることが可能である。ジョン・ケージがしたことはそれだ。
その意味で彼はクラシックのカテゴリー・ブレーカーであった。ただ、10匹の犬を集めてオーケストラだと主張すれば通ってしまいかねない魔法が使えたという類の評価がされがちであり、それは彼の作品をこんなものは音楽でないと騒ぎ立てた連中の末裔が評価を否定できなくなって、辺境地の奇観に見立て、苦し紛れに与えた奇矯な間違いである。ブレークもなにも音楽の本質はいつも楽しみであり、弾き手や聴衆が良いと思うかどうかだけであり、意味もない権威にまみれたクラシックのカテゴリーなどはずっと後天的なものなのだ。ケージは絵空事でない真の音楽哲学を持った作曲家だが、理系的資質ゆえ空気を読まず、それに加えてアバウトな文系気質もあったという天与のバランスがあったからこそブレーカーに見える存在となれた。ケージの評価にはアバウトに過ぎようが、そうであったと仮定しなくてはできない革命を彼がなし遂げたという評価を僕がしていることは宣言しておきたい。
それでもアバウトに過ぎるならこう書こう。誰かさんが音楽をn個書いたらg個が良い曲だったとする。作曲家の評価はg/n(ヒット率)と良さの度合いq(品質)で決まるからq×g/nという確率であり、q×g/n=f(良さ)である。良さは物理的に不定形(定義困難)だが人の集合の属性の発現確率でのみ表せる。よって、作曲原理(三和音、無調、セリー、偶然etc)は変遷するが、作曲家の評価は確率で決まるという原理は不変である。このことは未来にもジョン・ケージが現れることを予言する。
(3)数学と音楽
この音楽のタイトルがFifty-Eightであるのは、なんたらというメインタイトルがあって副題が「58人の木管奏者のための」というスタイルをやめて、58をメインに持ってくるとルール化したからだ。同じ楽器数の2つ目の作品はその右肩に小数字でべき乗のように2とつける。この流儀のをナンバー・ピースと呼ぶ。彼は数学好きなキャラだろうが、いっぽうでキノコ研究に人生をかける人だ。作曲家なのに合理的でないと思うのはちがう。数学者にならないすべての人には数学の勉強は無駄だが、人生に膨大にある無駄に空費する時間を勉強時間以上に減らしてくれるから合理的な人は数学を勉強するのである。そうでない人がこんな音楽を書けるだろうか?
(3)分岐点だった「易の音楽」
ケージが量子力学を知っていたかは不明だ。1992年没だからたぶん我々ほどは知らない。量子力学が正しいことは高速演算速度を可能にする量子コンピューターが実現したことで大方のインテリの共有知になり、文科系の人でも宇宙は量子もつれ(quantum entanglement)が支配し、偶然が自然(ネイチャー)の属性なのだ程度は悟ったろう。ということは、科学には縁遠いことが許される音楽家の間でも変化が起きてしかるべきだ。それは偶然音楽(chance music)に後半生こだわり、数々の傑作を残したジョン・ケージの再発見だと予想する。彼の楽曲は誰も音楽を支配せぬアナキズムであり、演奏してみないと予想はつかず、同じ演奏は二度とない。この現象は「サイコロを振った」といえるが、それがありのままの宇宙のなりわいだということは誰も否定できなくなった。多くの僧侶や宗教家が「仏教と量子論は似ている」といっているが、原子論絶対の西洋科学では説明できないことを量子力学はよく説明し、仏教ともども非原子論的だという共通項があることは誰しも認めるだろう。
偶然音楽に移行する前、ケージは打楽器、プリペアド・ピアノによる複雑なリズム構造を持つ無調の音楽を書き、Living Room Musicのように演劇やダンスと組み合わせたり東洋思想と融合するなどフロントを拡大した。彼の楽器はピアノであり、全部がソロか室内楽でオーケストラという発想はなかった。偶然音楽の契機はあなたが運命をキャストできるとする中国の「易経」を知ったことだった。二進法、六十四卦等の規則性、および占術の偶然性の合体を見つけ、ピアノ独奏の「易の音楽」(Music of Changes、1951)を書く。六十四卦といういわば原理の如きものにピッチ、テンポ、強弱、長さを割り当て、投げたコインの結果にもとづいて作曲をする思想は作曲家の権威を破壊している。
(4)シェーンベルクとブーレーズ
「易の音楽」はセリー主義だったブーレーズのピアノ・ソナタ第2番 (1948)、第3番(1955-63)の間の作品だ。3年ほど先行した第2番をケージが意識しなかったとは考えにくい。一時は同志であったブーレーズは神の真理を自作に織りこむという行為の有用性を確信した人という意味で、十二音技法にそれを見ていたシェーンベルクと通じる。それはいわば信仰への確信であって、表面的な理解しかなかった日本で彼がブルックナーを演奏するなどと誰が想像したろう。しかし、彼がカソリック信仰に真理をみたというなら、ブーレーズにはプロテスタントのドイツ人指揮者よりずっと手掛ける根拠がある。
ケージは南カリフォルニア大学で2年師事したシェーンベルクに和声感覚の欠如を指摘され、「彼は作曲家ではありませんが、発明家であり、天才です」というレトリックで作曲は無理だと言われた。作曲家がサイコロを振って不確定である「易の音楽」は師の判断を無視するユーモラスな解答だったのではないか。ブーレーズは能力不足を東洋思想で埋めると批判した。鋭い指摘だ。ケージはコロンビア大学で鈴木大拙に学んだ禅思想に影響を受け、原子論に依拠するシェーンベルク、ブーレーズと袂を分かつ。東洋に接近した先駆者マーラー、ドビッシーの関心は音階で、旧来の美学の平面上にあり、宗教という精神的支柱まで寄ったのではない。ジョージ・ハリソンのシタールと変わらず、ドビッシーがきわだって成功したのは彼の図抜けた音響センスがガムランという異物を消化可能なまでに化学変化を加えたからである。
ユダヤ人のシェーンベルクとカソリックのブーレーズは信仰という行為を客体化した地平では理解しあえたが、ケージは演奏における古典的な偶然であった即興や通奏低音が人間の趣味性に関わると否定し、アーティストのエゴを廃し、それを認めるぐらいなら偶然という物事の混沌を受け入れることにした。つまりシェーンベルク、ブーレーズは神の摂理の全面的代弁者としての司祭であり、その権威は絶対に手放さなかったが、ケージはそれを「偶然の採用」までに留めることになる。父譲りの発明家気質、無響室での体験、ビジュアルアーティストとしての嗜好、20世紀の振付の巨匠マース・カニンガムの影響など、各々が脈絡があったとは思えない必然が混然一体となって彼の人生のchanceとなった。
数学者ブーレーズより数学的人間であるケージは易経の構造原理だけが関心事だった。構造は数学でありその採用は構造そのものに真理性なくしては人を説得しない。そこに自信がなかったのではないか。易経と原理でつながる禅思想への帰依はその答えだろう。「いくら観察してもさらにわからなくなる」と言ったキノコは、恐らく、彼にとって鈴木大拙師にも勝る宇宙の真理を説いてくれる存在であり、数学化できないから音楽化もできなかったが、わからないキノコを不確定の受容という形で音楽に取り入れたというのが私見である。因習的、常套的、世俗的を忌避し、誰がどう見ようが本質以外には目もくれぬケージの哲学者的な一本気には大いに共感を懐くものである。
(4)猫が演奏する「4分33秒」
晩年に近づくと、chanceは大規模編成の中に仕組まれるようになる。Fifty-Eightはリズム指定がなく「浸る」しかない。音の全身浴である。天空の波動も心臓音も耳鳴りもすべてそれである。これがアトモスフェール(atmosphère)だ。人またはものを囲んでいる独特で無形の性質のことで、そこにいて浸っているという感覚が音楽を聞くこと、生きていることである。ケージにはそれが音楽で、楽音はその一部にすぎず、楽音と非楽音には違いがなく、よって、楽音がなくとも音楽は成りたつという命題が論理的に導き出される。その実現が4′33″(「4分33秒」)という楽曲である。聴衆が感知するのは、音を出さないピアニストというオブジェ、4分33秒の時間内に鼓膜が察知する会場のすべての非楽音、および、自分の体内で察知したすべての波動(心臓音、血流音、耳鳴り等)というアトモスフェール。これは実に「直島的」だ。
4′33″はいうまでもなく猫でも演奏できる。怒った聴衆が「馬鹿にするな」と舞台に駆け登り、猫は逃げ、彼はショパンを弾き始め、場内が騒然となり、パトカーのサイレンが鳴って警官隊が闖入し、パーンという乾いた音を発して男を撃ち殺したとしよう。それが仕組まれた寸劇であっても現実であっても4′33″という作品は成り立っており、4分33秒が経過した瞬間に演奏は終了する。このコンセプトを音楽と呼ぶことに100%賛同したい。僕にとって「音楽」とは我が身と宇宙の波動の共振に他ならず、そうした寸劇も、それが喚起するだろう観客の驚きや悲鳴もすべてが波動である。この思想は直島でオブジェに瞑想して感じたもので、興味ある方はご訪問をお勧めしたい。
(5)神はサイコロを振る
スピリチュアルではあるが霊界の話ではなく我々の住む世界の現実であることを説明するには、少々物理の話題に触れねばならない。波動は質量のある原子が伝えるものと、それのない光子が伝えるものがあることは一般に知られるが、いずれであれ、我々が知覚して認識しないと心は共振はしない。アトモスフェールを厳密に分離するなら、それは無形のもので物質ではないから原子でも光子でもそれらの揺れでもなく、つまり音でも光でもなくて質量もない。いわば(霊的な)「感じ」や「第六感」、(良かったり悪かったりする)「雰囲気」、あるいは(心で読んだり読めなかったりするコンテクストでの)「空気」とでもいうものだ。それが人から人へなぜ伝わるのかは物理的に解明されていないし、個人的には猫との間でも通じるのを体感しているので人間由来のものでもない。これは(質量がないのだから)重力(空間のゆがみ)に服しない。
前稿に書いたが、「五次元の仮想的な時空上の重力の理論は重力を含まない四次元の場の量子論と等価」であって、我々は三次元世界を時間という仮想概念をもって観察して生きているが、それと量子力学が証明する極小の偶然性(量子ゆらぎ)がある世界(五次元世界)は同じものであり、したがって、我々は現実とパラレルの世界に行くことができ、それがどれになるかは意志でなく偶然が支配しているのである。これがアインシュタインが相対性理論でたどり着かなかった結論であり、神はサイコロを振るのだ。ならば作曲家が振って何が悪かろう。世界を4分33秒だけ切り取ったものが4′33″になっており、結果論として、面白かったねとなればそれは良い音楽だ。
(6)ケージとチェリビダッケ
誰もが人生を自分の意思で決めて生きていると思っているが、実は by chance(たまたま)で生きているのであり、そんなふらふらしたものが人生であり、ケージも自分の意思で「偶然の採用」をしただろうが、実は量子力学なる神の決めごとに従った決断だった。4分33秒間の沈黙を聞かせて世界的名声を得たが、この音楽についてたくさん語っているが彼の書いた音符を一度も聞いたことがない支持者もたくさん持った。Fifty-Eightはスコアが58段と音はたくさんある音楽であり、陰陽の対を成すような作品だ。猫が鍵盤を歩いた音とこれと何が違うかという議論を封じることはできないが、何を音楽として真剣に向き合うかという問いを喚起したことでのケージの業績は誰よりも大きい。
やはり東洋思想に開眼し、晩年には仏教に改宗して日本でも多く参禅を行なったセルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)の発言はそのコンテクストで見るなら興味深く、ふたりは同じ音楽観だったわけではないが共通したものがある。チェリビダッケは「音楽は無であって理解ではなく体験されるものだ」とし、「音楽が美しいものと思うのは勘違いだ。音楽では真実が問題であり、美は擬似餌にすぎない」と言い切り、「音楽を聴くということは人生や世界、あるいは宇宙の真相を垣間見ることである」と語っている。傾聴に値する。あくまで彼は再現者であり創造者ケージと同じ次元では語れないものの、両人は音楽家である前に哲学者だ。僕はこういう人達の音楽を楽しみたい。
(7)ケージと自分
ケージに会ったことはないが、写真を見るに、きっとお茶目で優しくていい人だろうなという感じがする。感じというのは根拠がないアトモスフェールにすぎないが、ヒッピーみたいな写真もあるし、いちばん真面目に写っている左も大家然とした威圧感がまるでない。好奇心、ユーモア、気まぐれ、爆発的発想、権威破壊、官僚的なものへの嫌悪、アナキスト、理数系オタク、アイデア、創造力、実験、余裕、オシャレ無縁、浮かぶのはそんなイメージだ。猫好きがみなそうとまではいわないが猫と話せる人に悪い人はいない(僕の偏見)。そもそもアマチュアのキノコ研究家でニューヨーク菌類学会を設立し著作まである作曲家などどこにいよう。こうして書き連ねるに、自分とそこはかとない相似性を感じ、それとは何の関係もないがFifty-Eightが気に入ってしまったことで彼への関心が決定的になった。
プリペアド・ピアノの発明は単なる楽器の改変だけではない、既存楽器の音をどうマニアックに磨くかというおざなりの美学をぶちこわしたのであって、爆発的発想、権威破壊、官僚的なものへの嫌悪を僕は背後に見る。彼は大学の図書館で100人の学生が同じ本を読んでるのをみてショックを受け、書庫に行き、名前がZで始まる著者によって書かれた最初の本を読んでクラスで1番になったが、そういう大学は見限って退学した。僕は大学に入ってしまってから不幸にも法学に些かの興味もない自分を発見し、2度アメリカに長期漫遊し、安田講堂の卒業式にボロのジーパンで出席した恐らく今もって唯一の法学部生ではないかと思う。特に権威や官僚が嫌いなわけではない、もっと嫌いなものはいくらもあるが、何を着ようかとそういうつまらない準備に時間を空費するのが何より嫌いなのだ。
ケージは父親に「誰かが『できない』と言ったら、それはお前が何をすべきかを示している」といわれた。のちに作曲は「目的のない遊び」と語ったのはその教えに従って誰もできない実験をしていたからで、彼にはそれが「遊び」であり「人生に目覚める方法」だったと思われる。僕は父につまらない質問をすると「お前の頭はなんのためについてるんだ」と突き放され、やむなく人にきかず考えて実験する癖がつき、やがてそれが遊び感覚になってその延長で生きてきた。仕事も遊びだから嫌でなく、おかげで音楽の勉強ができた。
ケージは辞書でキノコ(mushroom)がmusicの前であることで興味を持ち、研究にのめりこんでそちらでも著名人になった。「Zで始まる著者」の本を読んだエピソードと重なる。無機的だが秩序ある動機だけで行動できる「メカニズムへの打算なき偏愛」と、「一期一会の偶然は特別なご縁」への理由なき厚い信仰心という矛盾する二面が縫合した人格は個性的であるが、まったく同じ二面を僕も持っており、科学絶対主義者でありながらスピリチュアリズムの信奉者でもあるが、真理は一つであるなら躊躇なく後者を採る。ケージがエリック・サティの音楽をキノコにたとえた関係性と同じ筋道でキノコは彼の音楽に何らかの投影を与えていると思われるが、作曲が遊びであるなら、作為や意図が介在しない最も美しい出来事であるキノコとの出会いを彼が上位に置いていて不思議ではない。
Fifty-Eightの実演(サンタンデールアルゼンチン財団)
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ようすけ君はビッグバン理論より正しい
2023 OCT 23 8:08:25 am by 東 賢太郎
ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が133億光年のかなた、すなわちビッグバンからわずか5億年後という領域に大質量銀河を6つも発見した。
従来の宇宙論ではこの年代の宇宙には小さな赤ちゃん銀河しか存在しないはずでありビッグバン理論に修正が迫られるという驚天動地の事態が物理学、天文学の世界で起きている。
シロウトのドタ勘だが、全宇宙の原子が1点に集まっていたなんて信じ難い。そもそもなんでそんなものがあって、なんで爆発したんだ。てんびん座にあるメトシェラ星の年齢は144±8億年と計算されており、つまり、宇宙よりも古いということになる。ということは宇宙はもっと前からあったことになる。地球から最も近い星まで約4光年だが、現在もっとも速いボイジャーで行っても7万年かかる。ネアンデルタール人の宇宙飛行士を乗せれば着くころにはホモサピエンスに進化している。写真の銀河はその30億倍も遠い。行くのに2百兆年かかる。ビッグバン理論は修正すれば誤りでないかもしれないが計算は数学でする。そもそもどうしてそんな遠くでも数学がワークしてるんだろうという素朴な疑問がわく。
科学は突きつめると宗教に似てくる。数の単位も兆のずっと先は不可思議、無量大数だ。そこまで行くと仏教の世界に踏みこんだかと思うが、銀河系にある原子の数は1無量大数個と聞くとまた科学の世界に戻った気になる。畢竟、このふらふらした感じは人間の脳の処理限界に由来しているだろうが、処理を代替してくれる数学という言語も全宇宙的にユニバーサルかどうか証明はされていない。
数学的に証明できるということは “プログラム可能” ということだ。我々は三次元宇宙にいると思っているが、ブラックホールの研究を通じて、常識に反して、ある空間領域のエントロピー(情報量)は領域の体積ではなく表面積によって決まることがわかった(ホログラフィック原理)。さらにそれに時間という四次元要素を加味して過去、未来があると思っているが、それは脳の設計上の認識にすぎず、時間は存在せず過去、現在、未来は同時に存在しており(アカシックレコード)、五次元の仮想的な時空上の重力の理論は重力を含まない四次元の場の量子論と等価だ。つまり我々は五次元宇宙という極小の偶然性(量子ゆらぎ)が支配する並行した世界にいる(パラレル・ワールド仮説)。
この「重力を含まない4次元の場」は意味深だ。
物心がつくかつかないかの頃、僕はとても病弱で毎週のように熱を出して医者通いだったらしい。母がおぶっていたからまだ歩けない頃だ。リンゴを擦って食べさせてもらい、寝入る。すると必ず見るおそろしい夢があった。どこかに書いたと思ったらこんなところだ。
宇宙空間のようなところにぷかぷか浮かんでおり、何か、目には見えないが「重たいもの」を持たされている。とっても重い。見渡すと何人かの人も浮いている。そして僕は「それ」をどこか別なところへ運ばなくてはならないのだ。誰の声も命令も聞こえない。でも、厳然とその「義務」だけが僕にずっしりとのしかかっていて絶対君主の指し図みたいに逆らえないのだ。おかしなことだ。無重力の宇宙空間に「重たいもの」なんてあるはずないのに・・・。
そんなの無理だよ、僕にはできないよ!うなされて泣き叫んで、母の声で我に帰っていたそうだ。これ、「重力を含まない4次元の場」だったんじゃないか。僕は何かを背負ってこの世に生まれてきたんだろうか?ビートルズ(ポール・マッカートニー)のアビイ・ロードに「Carry That Weight」(あの重たいものを運べ)という曲がある。彼もひょっとして・・・。
ご存知の方もおられるかもしれないが、youtubeに「宇宙に行くこども」という番組があり、僕はかわいい語り手である「ようすけ君」の大ファンだ。彼は胎内記憶のある6才の男の子で、とても賢いなあと感心する。確信ある語り口に台本があるとも思えず聞き入るしかないし、お母さんもやさしくて癒されてしまう。
胎内記憶というのは3才ぐらいまではある子がけっこういるが、会話できる年ごろになると記憶が消えてしまうらしい。それでもようすけ君のように話せる子は世界中にいて、ほとんどが「お母さんを選んで空から降りてきた」という話をするそうだ。僕はそれは全然ないけれどあの夢は何度も見てはっきり覚えてる。その頃の記憶はそれ以外にはほとんどないのだから不思議なものだ。
スペイン人だったようすけ君は死んでからどこに行ってたんだろう?空のうえで神さまがたくさんいるところだ。神さまは彼の「魂ちゃん」にやさしく指導してくれたようだ。きっと仕事なんだろう。何のため?何百世代も生きさせて遺伝子の進化実験でもしてるのか?
数学?それ、神さまのパソコンのプログラムのことだよ、だって人が見てる宇宙はホログラムって名前の動画なんだよ、終わっちゃったらまた雲の上にぴゅーって行ってね、望遠鏡で見つけた新しいママのおなかにぴゅーって入るんだよ・・
ようすけ君、こんな感じかな?大人になったらまた教えてね。
これを書いたのは2017年だ。5月に母がいなくなって、どこへ行っちゃったんだろうとパソコンの前で考えてたときだ。
この写真を撮るのに現人類は地球に出現してから500万年かかった。宇宙船に乗って写真の銀河に行き着くまでにその進化を4千万回できるが、それは気が遠くなるほど無理だろう。人類がそこへ行くことは想定されてない、つまり、我々とそことの間には越えられない透明な壁があるに等しいということだ。それがガラスであって、我々は金魚鉢の中で泳いでるお魚だとしても矛盾はない。
「この銀河はみんなCGなんだよ。きれいでしょ、宇宙っぽいでしょ。ときどきプログラムにバグが出てね、メトシェラ星みたいにバレちゃうんだけどね、まあ楽しんでちょーだい」
「光速?ああそれね、僕のパソコン画面の処理速度の限界なの。CGはその速さで『観測』はできるけどね、ちょっとモデルが古いんで133億年もかかっちゃう。でも死ぬとね、魂ちゃんは画面の外に出てぴゅーってここに来れるよ」(神さま)
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
集中力を高めて願ったことは実現する
2023 MAY 8 19:19:21 pm by 東 賢太郎
字にコンプレックスがある。なぜ算数で点が悪いかと思ったら自分の書いたぐしゃぐしゃな数字を読み違えてる。そこでゆっくりと丁寧にかいてみた。すると考える速さも遅くなってもっと害がある。やむなく大き目の字を書くことで解決はした。しかしその字がいかにもヘタクソなのだ。でっかいだけに目立ち、人間まで稚拙にみえる。
かたや家内は書道をやりだして段位をとった。やったらどうと薦められたがコンプレックスまであるものは無理だ。見ていると、床に紙を敷いて集中してゆっくりと大きな字を書いてる。大事な部分は宙に筆を止めて集中している。すぐその横を猫がすたすた歩いてく。よく書けるね。これは僕には絶対に無理だ。
ネットで面白い番組を見つけた。宇宙のすべては素粒子でできている。人の意志もそうでフォトンの波が出ている。喜怒哀楽に応じてその波が周囲の人にも伝播する。興奮したり集中したりすると波がデカくなる。それがデッカく周囲にも及ぶ。すると周囲の環境まで変えるから「集中力を高めて願ったことは実現する」というのだ。でも現実はそうじゃない。なぜかというと、プラス思考が顕在意識(いま考えてること)にいくらあっても、潜在意識(無意識に考えてること)に「そんな馬鹿な」「どうせ無理でしょ」なんてマイナス思考があると相殺されてしまい、波が微弱になって周囲に届かない。だから実現しない。
なるほど。それを量子力学だとされても浅学で理解できないが、しかし、直感的には当たっている。我ながら、人生の中で本気で願ったことはわりあい実現してきた気がするからだ。ただし「できればそうなって欲しい」程度じゃいけない。「不退転の決意でそうしたいと一心不乱に集中したもの」だけだ。気がついてみると、絶対に成功すると信じこんでいる自分がいる。微塵も疑ってない。頭の中は恐山の巫女状態になってる。偶然そうなるのでなく、意図してその状態を作れるのだ。ご想像していただけるようにそれを「スナイパー性格」と呼んでいる。
野球の投手経験者は比較的わかると思う。打たれていいと思って打者に向かう者はいない。常に「必殺」を目論んでマウンドに立っている。上級ゴルファーのパットもそうだ。「打たれるかも」「嫌なラインだな」なんて声が脳裏(潜在意識)に響くともうだめなのである。だから声のスイッチを意図的にオフにする訓練を無意識に積んでいる。では入試や面接やプレゼンの場でもそんな効能があるのか?すでに答えは書いた。そう思う人には効能はない。思わない人にはある。したがって、「集中力を高めて願ったことは実現する」ということになる。
しかし猫が歩いたらいけない。そういう訓練はしてないから僕はストライクもパットも入らないに違いない。
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受験秀才の価値は暴落する(チャットGPT)
2023 MAR 15 20:20:36 pm by 東 賢太郎
人は真っ白で生まれてきて記憶力のピークは18才である。凡そ20才までに何に時間を使ったかで「脳の初期化」が終わると考える。それ以後の進化もあるが、脳機能(CPU)、メモリーのキャパは決まる。学校にいる時間はみな共通として自由時間に何をしたかが個性になるだろう。すると僕は20才時点でレコードを1,000枚持っていて10回は聴いているから10,000時間、すなわち20年(=175,200時間)の5.7%はクラシック音楽を聴いていた。その次が野球で、やる・観るで7~17才の10年、ならして日に1時間として2%だ。勉強はというと小1から14年、毎日2時間自習したとして5.8%だから音楽+野球(7.7%)の方が初期化の貢献度が高い。
もし7.7%を塾通いさせられていたら別種の人間になっただろう。音楽・野球のない自分は想像できないが、好きに生きたら勝手にこうなっただけで、なろうという意志があったわけではない。この実感と見事に平仄が合うのは「身体は魂がもらった vehicle(乗り物)」という思想だ。身体のサイズや性能はDNA(設計図)で一義的に決まっているのだからそれ以上でも以下でもなく、行く末も決まってるのでケセラセラで生きればいい。そう思えば人生楽だし死も怖くない。刻苦勉励は為政者が国家を作るための教育でそれも大事かもしれないが、人間の本質には必ずしも根ざしていない。
これから世の中はどうなるか?コロナと戦争で混沌としているが、世界を変えるのは常にテクノロジーである。落合陽一氏によるとAIの進化は想定外に速く、人間を凌ぐシンギュラリティは2025年に来て、頭の中でする仕事は弁護士、会計士、役所仕事など専門職ほどAIができてしまい、人に残されるのはエッセンシャル・ワーカーの仕事、スポーツ、芸術、恋愛、戦争だそうだ。僕は2008年にリーマン・ブラザーズが潰れた時に真っ先に同社に電話をして六本木ヒルズに駆けつけ、東証の株式売買トップシェアだった米国人20人の電子取引チームを口説いて丸ごと引き抜いた。彼らから最先端のアルゴリズム取引を学び、一秒間に百万回の売買注文が執行できてしまう速度を見て人間に勝ち目などあり得ないことを確信した。それから数年で、腕さえ良ければ高年俸が約束される花形ポストだった証券会社のトレーダー職は、案の定、無残に消滅した。これが現実に起きたことで、もう15年も前の話なのだ。AIは資本効率を上げるが失業率も上げる、しかも高度な知的ワーカーのだ。
AIはかように演算速度が天文学的に速いばかりか自習して進化もする。ということは、学校で習う「答えが出る問題」を解くことにおいては人間は確実にAIに負けるということを意味している。だから僕が7.7%を塾通いではなくスポーツ、芸術に割いて育ったのは得だった。「時は金なり」だから1時間の交響曲を聴くと時給分の損だとするのが経済学だ。しかし脳内にAIができない不可侵領域を作り、感動というエネルギーチャージも得る音楽鑑賞の価値の合計は時給より高い。僕は小学校時代に(本当に)勉強した記憶がなく、野原を駆け回っていた。その経験からいうが、中学生になればすぐ理解できる小学校の勉強に6年の塾通いは時間の無駄で、遊びの情操教育をミスする損失の方が大きい。野球という遊びは強い体力と胆力という財産をくれたが、知力よりそっちの方が出世には何倍も物をいった。
ということは受験秀才の「勉強ができる」という価値はAI時代には暴落し、AIは日々人智の及ばぬ速度で学習して更に人を引き離し、学歴というものは出身県と同様の「群れるためだけのもの」になる。しかし仕事がない人の群れに何万人いても何も生まず、数の力にすがって互助のための政治や宗教をするようになる。しかし、そのリーダーのできることはAIにできないことだけだからAIを論破できず、やがて各党とも党首にはAIを起用し、国会はオンライン開催となる。chat gpt(チャットGPT)はそれが絵空事でないと実感させる。ウォートンMBAの試験に通る知能を持ち、論文はスワヒリ語でも10秒で書け、3分の好みの音楽を10秒で何通りでも作ってくれるなんてことになる。しかも演算速度はこうしている今も毎秒速くなって、やがてアルゴリズム取引と同じ百万分の一秒単位になる。ちなみに岸田総理の国会答弁は、AIにやらせれば自分で考えるので官僚のペーパーは不要だし、少なくとももっとうまく読むだろう。
AIの職業浸食は、起きない方が不思議だ。なぜなら資本家はROE(自己資本利益率)を求める。AIは人の何万倍も仕事が速く、口ごたえせず、正確で、24時間働き、飲み会はいらず、不要不急の出張もせず、賃上げ不要で、組合は作らず、歳もとらないから、人を減らして置きかえるほど人件費・管理費は激減してROEは上昇し、従って株価も上がる。それを望まない経営者はいない。社長もAIでいい。所有と経営は完全分離し、AI社長には預金通帳が与えられ報酬が入り、自らの機能を高めるためオンラインで買い物もする。これが究極の姿だが、ここまで行くと社会問題になるので政治家が介入し「そこそこの二極化」に収まる所で浸食は止まるだろう。そこでAI社長は何をするか。政治家の性格を瞬時に分析し、ぴったりの宴会部長(人間)を雇って接待、ゴルフ、ハニトラを仕掛け、賄賂を贈る。贈収賄罪が立件されると政治家と部長は牢屋に入りAI社長は没収されるが、贈賄はしないプログラムに書き換えたものをまた買えばいいのである。
そんな馬鹿なと思われるだろうが、AIの出現は決してブラック・スワン現象ではない。黒い白鳥がドカンと世界に衝撃を与えるわけでなく、普通の白い白鳥に見えるが気がついたらそこいらじゅうに居たという性質の侵略なのだ。1990年代前半にインターネットが出現し、こわごわメールを送って「届きました」と電話で返事が来た懐かしいあの頃に、SNSなしで生きられないほどネット社会に同化した自分の姿を誰が想像しただろう。同様に「士業」「経営者」「医師」「教師」「役人」etcがチャットGPT搭載のロボットになっていくが、その環境にいずれ我々は慣れっこになり、何とも思わなくなるだろう。人間は環境適応し進化するからだが、人の頭の進化速度よりAIの演算速度の上昇は速いので大衆の目にはAIは万能に見えてきて、拝む信者が増え、人でなくAIこそが安心安全という時代が来るだろう。
ビル・ゲイツやイーロン・マスクの見ている世界はそんな感じだろうか(もっと向こうだろうが)。世界は国籍人種宗教を問わず資本家とそれ以外に二分され事実上一国になるが、戦争需要を生むため上層部が通じ合った見せかけの三国体制でもいい(オーウェル「1984年」がそう)。これを陰謀論と言う人は百万分の一秒で株が買える現場をトレーディングルームでお見せしても陰謀だと言う人で、AIはおろか人類の平均進化速度にすら後れを取り、宗教、アミニズム、自然回帰に向かうか、あるいは暴力、戦争に向かうだろう。私見では日本人は前者に親和性のある民族であり、個々人としてそれはそれで幸せな人生かもしれないが、事は他国でも起きることであり後者に向かう国も出よう。陰謀論者が低学歴とは思わない、むしろ高学歴で頭の固い人が多い。つまりもと受験秀才であり、その価値はこういうプロセスを経て暴落するのである。先の稿に書いたが、これからはオン・デマンド型の人しか出世しない。学んだことがすべからくAIの得意分野と競合する受験秀才は、論理的に、最も demand のないタイプの人になるだろう。
国家の存立はいかがなものか。国会議員、官僚にこの現象の危うさを科学的に理解して対策を講じられる人が何人いるか。文系ばかりでほとんどいないだろう。すると、事が起きてから騒ぎだすのが日本の得意技だが、いまさらデジタル庁なんか作ってる異次元の辺境国だ(同庁は何をやるんだろうと思いきやマイナンバーカードだ。絶句するしかない)。こんな役所に手に負えるはずがなく、そこで放っておけば、東京五輪の現場のごとく役人は何もできないから電通さんに丸投げみたいな悲劇的なことになる。しかしどこに丸投げするんだろう?「AI省をつくれ」となるしかない。すると大臣はチャットGPTさまが適任ではないか。しかし待てよ、彼は何党員なんだ?そこで自公と野党の間で、国会の貴重な時間を使って壮絶な田舎のプロレス対決が繰り広げられ、「チャット君と呼ぶわ?」の歌とダンスが気に入られたAKB48党に決まる(AIは感情もある)。彼は一秒間に百万回の計算をして日本国のAI政策の最適解を導き出し、見事に国を救う。そして、20××年、世界初のAI総理大臣に任命されるのである。
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音楽と量子力学
2023 MAR 3 23:23:56 pm by 東 賢太郎
ホーキング博士は宇宙が仮想現実である可能性は50%あると言い、イーロン・マスクは我々の見ている現実がリアル世界で生み出されたとするとその確率は10億分の1と言っている。
父親のSPレコードを針が擦ると音楽が鳴るのは「溝に小さな人が入っていて演奏しているにちがいない」と思っていた。あながち赤子の思いこみと笑えないのは、量子力学の「ゼロポイントフィールド仮説」は全宇宙の生成から終末までのすべての情報がcodeで書かれているとするからだ。レコードには音楽が入っている(封じ込められている)が、そうと知らない人が音溝を目で見ても、顕微鏡で覗いても、それは俄かにはわからないだろう。針がひっかいている部分が「現在」である。SPは裏表で30分ぐらいの音楽が鳴るが、これが我々の見ている宇宙であり、ここまでの演奏時間は137億年だ。情報はゼロポイントフィールドにホログラムで書きこまれ立体画像(三次元)で現れる。全宇宙だからこれを読むあなたの全情報、つまり姓名からどんな一生を送るかもいつ死ぬかまで全部書いてある。
古代インドの超人がこれを「アガスティアの葉」に喩えたと考えてそう不穏当でないかもしれない。あらゆる宗教は超人が見たものを凡人にわかる言語と喩え話で書いていると僕は思うからだ。アガスティア・・は大きな葉っぱに宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれていると説いており、それをアカシックレコードともいう。先日、ある方からそれを実際に試した話を聞いた。ネットでインドのサイトにアクセスして被験者になったのだ。半日かけてYes/Noの英語の質問に答えるがそこに彼の個人情報を特定できるものはないという。数日待って回答を得た。度肝を抜かれたのは、彼のデータが正しいばかりか両親の名前まで(日本語話者でないので似た発音で)明かされていたことだったそうだ。
厖大なデータがcodeに凝縮されてどこかにあり、時々刻々と針がひっかいてその三次元画像が全宇宙に投影され、それを我々は観測している。レコード盤に演奏者が入ってないように、宇宙も虚像なのかもしれない。これを超人であるプラトンは「洞窟の影」といったのではないか。そういえば、僕は幼児のころから「星は本当にあるのか」と真面目に疑っていて、現在でもないかもしれないと思っている。「オリオン座のベテルギウスは550光年離れているから今はもう消えてなくなっているかもしれない」なんてのがどうも嘘くさい。量子力学では分子も電子も波+粒の性質をもち、観測された瞬間に粒になる。「観測」とは人間が知覚することだが、「僕が見た」という情報があっちに届くのは550年さきではないか、なのになぜ今リアルタイムで見えてるんだ?
いやそうではない、「量子は複数の場所に同時に存在して何光年離れても同時にふるまう」とされている。よくわからない。
このことについては「二重スリット実験」に答えがあるように思う。https://www.yamanashibank.co.jp/fuji_note/culture/double_slit.html
量子は見た瞬間に粒に変わるので僕は観測できている。ベテルギウスが見えるということはこのことが550年×2=1100年かけずに起ていることを示すので「量子は複数の場所に同時に存在する」という結論が導き出されるのだろう。しかしそれは、そう見えているだけではないか。実はアガスティアの葉っぱに「僕がベテルギウスを何年何月何日何時何分何秒に見る」と書いてあり、あっちの量子が550光年の距離を勘案して “シンクロ” するようあらかじめ書いてあってもその現象は成り立つ。「宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれている」とはそういうことを意味している。大学の研究室で二重スリット実験が行なわれ、観測と検証のいたちごっこが行われることも書いてある。そんな馬鹿げたことを誰がするんだと思うのだがゼロポイントフィールドのゼロ点エネルギー(zero point energy, ZPE)は人間が決めたものではない。人智で馬鹿げたと判断することが馬鹿げているのである。
観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。ということは、見てない時は「ベテルギウスはない」ということだ。とすると太陽もない。「そんな馬鹿な、恒星は一番近いのでも光速で4.3年かかるが太陽ならスペースシャトルで200日で行けるから、なんだったら行って確かめることもできる」、「現に我々は地球から丸い太陽を目視しているではないか」と思われようが、それは見ている時だけで、見ていなくても6000度の熱を放つ光源であることは間違いなさそうだが、行っても触れるわけではなく、あるように見えているが存在の確かめようがない。太陽は我々が思っている球体の恒星ではなく、ディスプレイの画像かもしれない。
そう。「光速で行っても・・・」というのが常に我々の実感を麻痺させるのだ。光速移動は膨大な加速を生むエネルギーが必要で、それが発する熱に人間は耐えられない。つまりアインシュタインが光速を超える移動はできないと指摘する以前にそもそも不可能なのだ。月か火星なら低速でも行けるだろうが、ロケットに乗って「行った」と思っても、それは我々が「地球」と思ってる張りぼてとは別の張りぼてに立ったにすぎない。すなわち、我々は、人体が安全に移動できる低速で、寿命が尽きる以前に到達できる範囲内しか行けない。つまり、その範囲を示す目には見えない球体である「臨界面」に包囲されていることになる。これは水槽に入っている金魚とおんなじだ。金魚にはきっと水槽のガラスは見えてないだろう、なぜなら、まさか自分がそんな物の中で飼われているなどと考えてもいないからだ。
では臨界面を生んでいる光速(c)というのは何なんだろう?物理の授業で先生に質問してみたらいい。僕はその存在自体がとても変なものだと思っている。
E = mc²
は「エネルギーは質量に光速×光速をかけたものだ」と言ってる。質量がエネルギーに変わるのは核融合反応でイメージできるが、そこに「速度」が出てきて掛け算する理由がまったくわからない。この定数は何だろう?ゼロポイントフィールド仮説によると、1立方メートルの真空に地球の海ぜんぶを瞬間に沸騰させるエネルギーが詰まっている。ならばこう考えられる。金魚の飼い主が適当にぎゅっと詰め込んでみて、計算して出てきた定数項の平方根を開いてみた。その数値を宇宙を作動させるOS(基本ソフトウェア)の作動限界値に設定して組立てたパソコンが我々に見える虚像を映し出している。このことをあばき出したのがこの式ではないかと思うのだ。「宇宙投影パソコンの処理速度に限界がある」ことを、金魚鉢の中では「光速を超えて移動できない」と言ってるのだ。
では金魚を飼っているのは誰だろう?そこで、「宇宙人に違いない。人類はまだ遭遇はしてないが、彼らは太古の昔から地球に来ている。現在だってUFOに乗って来ているしNASAはその死体を隠しているのではないか」という話になる。たしかに米国政府はUFO研究をしているようだし、映画「コンタクト」に描かれた電波発信によるSETI(地球外知的生命体の探索)を行っていることは事実だ。僕は地球外知的生命体(宇宙人)肯定派だ。肯定する確率的根拠として著名なのがドレイクの方程式だが、しかし、これを導いた根拠は間違っている。なぜか。彼は同じ金魚鉢の中に別の魚がいる確率を計算している。それはそれで正しいとするなら部分的正解にすぎない。別の鉢は想定しておらず、金魚を飼っている熱帯魚ショップの店主は計算に入ってないからである。
僕が「肯定派だ」と書いたのはこの “店主” の存在についてであり、このことを宗教と分離するのは困難だ。アインシュタイン、ボーア、湯川秀樹ら科学者が物理学と仏教の親和性、補完性を説いたとされるが、自分がここでそれと同質のことを言っているとは思わない。「超人としての宗教家たち」がどこかで見てしまったもの、それが『造物主』(the Creator)の存在であり、その超人(人かどうかは置く)がモーゼに十戒を授けたヤハウェであっても、預言者ムハンマドであっても、神の子イエスであっても、「目覚めた人」ブッダ(釈迦)であっても、何ら差異なく金魚の飼い主または熱帯魚ショップの店主(またはそれを見た者)という比喩で括ってしまう数学的置換を信仰心の希薄さという罪に問われないという範囲において、本稿に述べていることを「宗教と分離するのは困難」なのである。「お前は宗教的人間か」と問われれば、正月に初詣に行って新年の良きことを祈ってお神籤を引き、冠婚葬祭を仏式で執り行うほどにはそうであるが、『造物主』の存在を信じることにおいては、何の儀式も執り行わないものの「非常に宗教的である」という回答になるだろう。
イーロン・マスクの言うように我々の宇宙は10億回トライして1個しかできないぐらいレア物であるなら「そう綿密に設計されて1回のトライでできた」か「最大(10億-1)個の失敗作(似た宇宙)」があって、我々の宇宙は我々専用の金魚鉢で他の魚はいない意図で作られている可能性もある。水はあるわ酸素はあるはエサは出るは侵略者はいないわ、こんな良い世界がひとつ存在するというなら他にも一定の確率をもって存在するはずであり、そこには別種の魚がいるだろう。ドレイク博士はそう考えたが、これが熱帯魚店の片隅に置かれた一個の水槽にすぎないならば、その辺はショップの店主が決めることになる。2種を同じ水槽に入れるとどっちかが食われるなら商売にならないから鉢を分けるだろう。その場合、「我々の宇宙には宇宙人はいない」という、ドレイクの方程式からは出てこない結論が導かれるのである。
観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。この事実は誠に含蓄が深い。我々は「色」と「音」という波を知覚しているからだ。ここでいう波は万物を組成する量子の振動としての波と同一ではないが一定の振幅をもって反復する光子、大気の分子の運動であって、電磁波、音波と表される。光子は光を粒子としてみたとき量子であるが、音波は原子や分子の動きによってエネルギーを伝達する波だ。分子は電子・中性子・陽子という量子より大きいから音波は別物と考える。
音波は音楽という芸術を構成する基本素材となる。伝達物質は大気だけではなく液体や固体もあり、耳の可聴域は20Hz~20kHzだが耳以外で域外も感知している。音楽は五感のうち視覚、触覚、味覚、嗅覚を使わず聴覚だけに訴える芸術だが、けっして聴覚のみではなく、いわば「振動覚」とでもいうべき反復運動(波)への感覚が色濃く関係している。ベートーベンの第7交響曲を聴いた多くの人は感動と共に興奮を覚えるのではなかろうか。この曲の持つ律動の特徴を捉えてワーグナーは “舞踏の聖化” と表現したが、その律動(反復運動)こそ波(振動)であり、それを感じ取る「振動覚」を通じて覚醒、興奮(多分に性的なもの)を呼び起こす。つまり、波である音楽という芸術は人間の生命の源と深く関わっている。
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人間の相性は量子力学によって決まっている
2022 MAR 15 9:09:46 am by 東 賢太郎
人の相性というと一般にその人と「気が合う、合わない」ということである。合うというのは、2つの脳の相互作用に何らかの「同期」が測定されるということだと僕は経験的に考えている。その測定を僕らは言葉(音)、表情・行動(光)、匂い(分子)等の五感で行うが、判定するのは脳であり、脳内に形成されているシナプスの結合(回路)がプロセス(計算)した結果と思われる。
では僕の場合は実際にどうだったかというと、本当に(”かなり”)「気が合う」と思った人は67年生きてこの世に一人しかいない。これは、ある意味、非常に驚くべき計測結果である。彼は親族ではない。「彼も合うと思ったであろう」という予測に対して僕は高い確率を付与することができるが、確率でしかないのはもう会わなくなってしまったからで、ここで定義する「気が合う」が社会的に「仲良し」を必ずしも意味しないことを示していよう。
回路の形成は先天的、後天的の両方あるが、ある現象(”問題”)を入力した場合にどんな波長を発したかで僕は即物的に合う、合わないを判定しているだけで、遺伝(ア・プリオリなもの)は少なくとも関係はあっても決定的ではないと結論するしかない。もちろん性別、人種、年齢等それ以外のものは一切関係ない。
では合う、合わないを判定する回路はどう作動しているのだろう。観測はできないが、自分の脳は以下のように感じている。入力に対して起こると予測される自分の脳の反応と同じ反応が相手の脳にも起きる確率(同期率)が有意に高いだろうという予測が成り立つと、「合う」と判定されるのだ。反応の予測が立つということは、それを引き出すための説明がお互いに相当程度省けるということで、ツーと言えばカーという関係になり複雑な情報が正確にすぐ伝わる大きな利点があった。
ということは、たったひとりを除いて、67年間に知った全員が予測を有意な確率で裏切ったということを意味している。複雑な情報伝達の正確性は犠牲にならざるを得ない。お断りするが、そのことと社会的結びつき、おつきあいにおける選択とは関係がない(別次元)。両親もそうだし、妻もその意味でぜんぜん別な人だが結婚相手に選ばせていただいている。
以上、それが「非常に驚くべき計測結果」であるのは、計測方法(ロジック)が誤っているか、回路の同期率は一般に67年にひとり程度なのか、僕の回路固有の同期率の低さなのかであるが、以上のように「言葉」で表記できるということはそれは「実験で証明できる」ということではないだろうか。
というのは、例えば、「数学の問題を解く」という行為はその問題を等位に変換することで作題者が求める結論(”解答”と呼ぶ)に至るプロセスを言葉を補完して一切の論理矛盾なく表現することに他ならない。以上の6パラグラフで僕はそれをしたとするならば、それは「解ける」のではないかという問題提起だ。
いま僕は量子力学に興味がある。それを理解するレベルの数学の回路を脳に作っていないため、誰かが「言葉」で近似的に等位変換してくれたものを楽しんでいるに過ぎないが、例えばこれだ。
この「量子もつれ」を計測することにより、ブラックホール内部の現象(三次元)がその表面に(二次元で)記述されていることを示すホーキング博士の計算結果は、まさしく衝撃的だ。その式はこのビデオで示されている。
僕らが見ている(と思っている)三次元宇宙は実は二次元で書かれたもののスクリーンショットにすぎない。そんな馬鹿なとアインシュタインは言ったがそれが正しい(アインシュタインが間違っている)ことが数学的に証明されている、と説明されている。
ひとつわからないのは、二重スリット実験が光子で行われる必然性だ。光子でその現象が存在することは確実なのだろうが、光(映像)は観測者である人間の目がその知覚をもって「観測」としているからで、人間だって冒頭に書いたように五感すべてで知覚しているし、さらには、人間の五感のどれとも別な器官で観測する別な惑星の生物だったら「観測前は別な状態」という現象はどういう意味を成すのか。三次元トリック(?)にその生物はひっかからないのではないか。もしそうであれば、それは人間(あるいは光で観測する他生物)を想定して設計されたのではないか。とすると、その意志を持った何者か(造物主)の存在を想定する必要がどうしてもあり、その者は人間を少なくとも包含はしている生物を対象に造物したのではないかという疑問が僕の回路からは出てくるのだ。
ビデオで語られる、量子コンピューターが理論からでき能力が進化しつつある(マシーンが理論を追っている)という現実。大栗博士の研究の部分でビデオは「我々の時空で起きているすべての現象がそれを包む空間の表面に量子もつれで書かれている」「それに量子コンピューターの理論と共通する部分がある」「宇宙は数学的に閉じている可能性がある」と語っており、そして何よりも「物理学の最先端の研究をするためには新しい数学を作っていかなきゃいけない」という博士の言葉は数学が科学において何たるものかを如実に理解させてくれる。言葉なくして科学はなく、数学は言葉の一部なのだ。
「気が合う、合わない」を量子で読み解くことはできるだろうか?2020年のノーベル物理学賞受賞者ロジャー・ペンローズ博士の研究が参考になる。次のビデオでシナプス(回路)が説明されているが、ニューロンを作るマイクロチューブルの伸縮が観測前後で量子もつれ状態にあるというのが博士の仮説だ。
ご覧の通り、その脳を持つ人の行動は投資判断に至るまでシナプス(回路)次第という実験結果が示されており、それを継続的に観測することで我々はその人と「合う、合わない」という結論に至るのだが、そのプロセスには量子力学が関与している。つまり、主観的、感情的、本能的と考えられていた「人間の相性」というものは即物的に決まっているという命題が提示されており、そのことの「科学的正しさ」は暗号通貨の真偽がハッシュ関数という数学で証明されたブロックチェーンで担保されるのと同等と僕は理解した。
ということは、後天的にしか獲得できない「学習による回路の有無」は大きな要素になることが証明されたと結論して良い。だから、遺伝的に「合う」はずの両親や親戚一同がそのリストに入ってこないのだ。僕は数学が好きなのでその回路が一般人の平均よりはdevelopしているはずだが、同時に現実世界でのその使い方(アプリケーション)は個性があることを自覚しており、唯一気が合った彼も文系だが数学が非常に強くてその回路の運用方法に共通点があった。それをベースにした世界観が一致したということだったようだ。逆を解くと、そうでない人の脳とは合わないし、合わそうとしても壊滅的にどうしようもないというまったくシンプルなことだったのだ。しかし世の中はよくできたもので、夫婦も会社も、自分とは違う人と組んだ方がトータルではうまくいくのだ。量子力学もそこまでは及ばないのか、それも量子力学が決めたことなのかはよく知らないが。
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一日で人生初が3つという不思議
2021 SEP 20 22:22:09 pm by 東 賢太郎
きのう9月19日はおかしな日だった。それをふりかえって書いている。人生初が3つあったからだ。今日は敬老の日らしいがそんなもの俺と無縁という日々を過ごしていたら、なんと気がついたら祝ってもらうトシになっていた。まして、この年になって「初**」なんてのが残っていようとは・・・。
ひとつめは新しいアイフォンの万歩計で歩数をはかりながら散歩したことだ。実に恥ずかしいが初めてだ。足腰は自信あるのでそんなの不要と思っていたのだ。二子玉川公園まで行って8978歩。ハートマークのアプリで過去のデータが検索できることを娘に教わった。すると、2016~19年の年ごとの1日平均歩数が4524,4266,4955,4672だったのに、去年は1172、今年は何と645で愕然とした。家の中でスマホを持ち歩かないのは割り引くとしてもコロナでてきめんに歩かなくなっており、体重が2キロ増えてなぜかなと思っていたが当然の報いだったのだ。ステイホームはコロナで死ぬのは避けられても、知らないうちにメタボになって寿命が2,3年縮んだらおんなじだ。皆さんも気をつけてください。
二つ目は、散歩のゴールにした二子玉川公園の高台で素晴らしい夕日を眺めていたら、くっきりと見える富士山の右に小さな星が見えたことだ。金星かと思ってアプリ「星座表」をかざしてみるとちがう。
水星はなぜか人生初だ。なかなか会えなかった深層の令嬢にお目見えした気分だ。調べると9月14日に東方最大離角で、水星は太陽に近いので西か東に大きく離れた時しか見えない。まったく気づいてもいなかったがたまたまタイミングが絶妙だったようだ。おとめ座のスピカがすぐ上にあるはずだがそれは見えない。金星は富士山のかなり左上にあって暗さと共にぐんぐん輝きを増し、後ろを振り返ると満月に近いでっかい月が木星のそばにあった。
夜は恒例になったサスペンスだ。片っ端から録画したのを適当に選んで毎日みている。まず信濃のコロンボ「アリスの騎士」、これは大したことなかった。そこでやっぱりコロンボなら本チャンだなと「殺人処方箋」があったので何となく選んだ。これが三つ目だ。あれ、ほとんど見てるのにこれは知らないぞ。ピーター・フォークがやけに若い、風貌が違う、犯人追い込みの押しと切れ味が直球勝負でものすごく鋭い。調べたら、シリーズ化が決まる前の刑事コロンボ 第1話だった。日本語版放送日は1972年8月27日。第2話の「死者の身代金」は見てる。まだ気づいてなかったかな、高三だし勉強で忙しかったかな。
というわけで一日で人生初が3つ。しかし偶然にしては出来すぎてるなあ。
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すべての悩める人への万能薬
2021 MAR 23 13:13:29 pm by 東 賢太郎
なぜ、かように奇怪な物が自宅の仕事机にあるかを人に説明するのは難しい。というか絶望的に無理である。あえていうなら、これは薬であるということになるだろうか。
好きな色は金と銀であり、幼稚園で使っていたクレヨンはこの2色だけがすぐに短くなった。光り物好きは母親譲りであるが、自分の生まれつきの色に対する感覚に世界にきっと自分しかいないだろうと想像するものもある。
とにかく、これがあると、気持ちがハイに前向きになる。凄いことだ。すなわち我が社の収益のかなりの部分はこれが生んでいるわけで、駄菓子屋で300円で買ったこれの本源的価値(Intrinsic value)は数億円にのぼると推定されるわけである。
そのことは、金貨チョコレートを混ぜることで、より鮮明に表現されるだろう。
会社のほうはというと、デスクはUSMハラー社の、全面がレモン色のガラス製だ。スイスから輸入した。なぜかというと、子供時分にヴィックス・ドロップに魅せられたからだ。アメリカから入って来たばっかりだったろう、駄菓子とちがうオシャレ感があり、味も気に入っていた。それを「薬だから」と止められたからまずかった。テレビCMで小鳥が嘴で三角形のこいつをくわえてるのが目に焼きついていて、ついに母の目を盗んでぜんぶ食ってしまう。もっと幼いころ、浅田飴でも前科があったらしく、大変なことになった。
それはアメリカで買えなかったビッグマックがいまだに高級食材であるのと似る。ヴィックスはたしかオレンジやハッカみたいのもあったが、レモン専門だったのでハラーの机が材質もろともそれに見えた。するとアドレナリンかエンドルフィンでも分泌されるんだろうか、それとも糖質が回った気になるんだろうか、とにかく頭が冴える。チェアはこれまた鮮やかな太陽のオレンジ色であり、周囲の壁も地中海ブルーと黄色に塗り分けてもらった。社員の皆さんには衝撃を与えたろうし値段も半端でないが、これがまた金銀と同じく絶妙の効果を及ぼし、そう思いこめるだけでも幸せだなあと感慨にひたらせてくれるのである。
人間も所詮は動物であってヤル気に「点火」するには色彩が効くことは検証されている(牛が赤い布で興奮するように)。コーヒーの香りが購買欲を刺激するという実験結果もあり、また、どの音楽がどう人の情動に効くかについて僕は多少の知見を持っている。五感は人を支配していると思う。そういうものすべてを総合して「薬理効果」だと考えれば、クスリをうまく調合することで自分自身のメンタルをけっこうコントロールできるようになってくる。一番難しいのは怒りと嫉妬とされるが、それとて今はうまく抑えることができる。それにはまず、自分に何を見たり、聞いたり、嗅がせたりすれば自分がどう反応するという因果関係を知ることである。
多くの宗教家や智者はそれを目指しているように思える。例えば、老子は『人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり』(知人者智、自知者明)と説いている。他人を知ることより自分を知ることのほうが難しいという意味だ。この言葉は好きで、そう信じて生きてきたし、66にしてついにその境地に達したと書けば格好いいだろう。しかしそうではない。僕の場合、自分がどういう時にどう思考・行動しがちか(時に馬鹿か)は概ね学んでいるつもりだが、それは完全な法則ではなく、たぶんこうなるだろうが、なってもびっくりはしないという程度のものだ。ましておや、「だから他人もそうだろう」と思ったら大ハズレでしたという膨大な失敗の山の前には気の利いた言葉すら出ないという無残な現実が目の前に横たわっているのである。
今の僕の境地を素直に書こう。「自知」も「知人」も難しい、いや、というより、どっちも不可能なのである。老子の言い分を逆にしてみればわかる。自知者明、知人者智(自分すらわからない者に他人を知ることは無理だ)となって、これをしたり顔で説いてごらんなさい、誰しもが「昔の人はいいこと言うね」「だよね」と酒の肴ぐらいにはなれてしまうだろう。それはAならB、BならAであるということであり、つまりAとBは等価(同じ集合)であり、何のことない、よく考えるとA=B=0(不可能)だからそれが成り立っているだけだ。「木星も行けないんだから土星は無理だよね」「土星も行けないんだから木星もね」「だよね、だよね」ってなもんで、八つぁん熊さんである。老子様に何を言うか、不遜な奴めと思う方はぜひ最後までお読みいただきたい。
老子のご説を疑う者は2千5百年の間に出現しなかったとは思わないが、信者の多さが勝っただろう。僕がとりわけ天の邪鬼であることは認めるにしても、諸子百家は自身が大王であったためしはなく、多くが権力者に召し抱えてもらいたいモチベーションを持った遊説家であったことはどなたも認められるだろう。大王はみな闘争に忙しい。仮に天下を取ってもいつ寝首をかかれるかも知れない。そういう人は俺様=天下であって、自らを知ろうなんて悠長なことは普通は考えないのである。だから諸子百家や諸葛孔明やマキアベリに顧問のポストがあったのであり、大王は「猿でもできる帝王学」なんて本は書かないから顧問の進言のほうがむしろ成功に導いた名言だったとマーケティングされて後世に残っていくのである。
「江夏の21球」というのがある。自身があれを積極的に語ったのを見たことないし、マウンドにいる投手は大王であり、必死に投げてる者がいかに大投手とはいえそんな意識があろうとは思わない。彼はぽつりとスクイズ外しは「神業」と語った。つまり無意識に体が反応したのが本音だろう。それが球界の伝説に祭りあがり、wikipediaに21球全部の詳しい解説までついた。そんな「こっぱずかしい」ことを彼が語ったとは、賭けてもいいがないと思う。その手のものは、野球をやったことがない人だけが書けるのだ。江夏がどこかのコーチになって21球を教えようたってできるはずもないから、市井の人の酒の肴以上の価値はない。大王と顧問の関係はそんなものである。顧問は本を書いて人生訓にまでして儲ける。二匹目のドジョウで「岩瀬の13球」まで出てしまうのである。
経営者というのは会社の大王である。その意味はというと、偉いからでも人事権があるからでもない。全面的にリスクを取っているからだ。やってみればわかるが、その人にとって経営学の大先生の本やコンサルなんてものは微塵もあてにならない。大企業になって、椅子だけになった社長ポストに座って、企画室のような他人にアイデアをもらっているような人はただの「組織の通過体」であって、そんな組織のできた会社はすでに終わったに等しい。政治もそうだ。「秘書がしたことです」なんて輩は全面的にリスクを取る腹も能力もない人物で、つまりサラリーマンの大王ではあっても真の大王ではなく、企画室長におまかせの吹けば飛ぶような社長と実は同格の人材である。
「自分を知りなさい」と大王に説くのは奸計だ。そんなことを忙しい相手は知らないから智者に見える。そう見せられるタマかどうかだけが一流二流の分岐点ではある。首尾よく雇ってくれれば「閣下はまだ自分をご存じない」「ご慈悲をなさい」とマインドコントロールして利益誘導する機会が手に入る。失敗しても打ち首にされないヘッジもできる。「まだ自分の美しさに気づいてないんだね」と言われて嬉しくない女性はいない。だから古代中国に限らず爺殺しのセールストークでもあり、猟官活動に明け暮れたモーツァルトもオペラ「皇帝ティトの慈悲」を書いたし、秀吉は信長をこれでたらしこんだと僕は見ている。老子のご説の真偽は問題でない。ただ老獪と思うのであり、人間の性を鋭く突いているから正体不明でも25世紀の長きにわたって語られてきたのだと納得する。
他人など知る由もない、自分を知ることも不可能だ。僕がそう確信しているのは「宇宙ディズニーランド」説の信者だからだ。それはここに書いた。
たまたま乗ったスペース・マウンテンの車両構造やスペックなど乗りながらわかるはずもないし、まして他人のなど調べる術すらない。だからA=B=0(不可能)以外の何物であるはずもないのである。老子様もショーペンハウエル様もイギリス経験論も、万物はこの宇宙の真理のしもべと考えるのがすっきり気持ちよく生きていくための万能薬だ。
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BCG有効説と感染研のメンツ仮説
2020 MAY 4 2:02:11 am by 東 賢太郎
GW後半ですが人出はかなり減っているイメージですね。強制もなく。これは「空気」が働きだしていると思います。従わない人もいますが世界のどこの国もいます(むしろ、圧倒的にいます)。カリフォルニアのビーチにはじけだした若者の群れはファウチが自由を奪ってると騒いでる。このひとたちはいったい誰と戦ってるかもわかってない。アメリカですらこんなものです。パチンコや江の島ぐらいでニュースになってる日本人はほんとうに真面目で、法律もないのにおカミの言うことをよく聞く国民という思いを新たにいたします。こんな景色は僕が住んだり訪問したりした約40か国、どこにもありません。
僕は「きれい好き文化」、「空気に従うこと」が爆発的感染拡大にはなっていない大きな要因と思ってますが、しかし、{人口、感染者数、死者数} でアメリカ {3億、100万、6万}、日本 {1億、1万5千、5百} という数字が本当に正しいならば、どう贔屓目に見ても初動対応も法的措置もお粗末だった日本がこんなに優等生である理由にはなり得ません。あれほどPCR検査をこなして医療対応もSARS、MARSの経験値のある医療機関がうまくやった韓国の死者数が250です。あれほど何もしなかった日本が人口比換算でほぼ同じ死者数というのは非常に不思議であります。
コロナ死亡数が肺炎死亡数に紛れてないかと言う声がありますが、その理由でアメリカより少ない数字になっていると仮定すると例えば年間約10万人の肺炎死者数の6分の1(3~4月)である1万7千が実は全部コロナでしたという計算(人口比換算)になり、実際にあったミス、PCR検査数の少なさ、検査精度の誤差を勘案したとしても無理があるように思います。国と国を比較する場合、ミス、検査精度は比較的無視でき検査数のバラつきは無視できないという立場から僕は死亡者数を注視しております。
すると3つ仮説が出ていることを知りました(もっとあるかもしれませんが)。
①「日本のBCGが有効」説
これは要検証です。日本株BCGを使用しているイラク、台湾、タイもコロナは抑えてます。暴発してしまったアメリカ、イタリアは接種を行っていません。スペイン、ドイツ、フランス、イラン、イギリス、オーストラリア、スウェーデンは過去はしていたが現在はしていません。大阪大学免疫学フロンティア研究センターの宮坂昌之招へい教授の作成された表をご覧ください。
100万人当たりの死亡者数が10以下の国が7カ国(赤字)あり、そのうちの6カ国が広範なBCG接種を現在行っており、その6カ国のうち3カ国がBCGワクチンの日本株、2カ国が旧ソ連株(筆者注:両者はほぼ同じ株と理解)を使っているという結果は、偶然でなければ説得力があります。韓国が3.7と日本より高いのは韓国のBCGが日本株でないための可能性とも考えられます。京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥教授が「BCGの接種と死亡者数に逆相関がみえるのは確か」と発言したそうです。
(ご参考記事、4月5日)
http://新型コロナとBCGの相関関係について免疫学の宮坂先生にお伺い …
②「東洋人かかりにくい」説です。中国の数字は {14億、8万、5千} ですが、感染者、死者の人口比をアメリカ並みとすると460万、28万で、中国は60倍のウソをついていることになります。感染地図でインドを含むアジアの丸印の小ささは確かに目立ちます。民族の遺伝的要因(遺伝子配列の違い)による違いの可能性はあるとされますが、アメリカで黒人、ヒスパニックの死亡率が高いのはむしろ経済格差が主因と思われます。今のところこの説の科学的根拠からの説明は目にしておりません。地図の印象はむしろ①説の表で「赤字」(優等生)7か国中5か国がアジア・オセアニアあるためとも考えられます。
③「ウィルス変異説」です。一応「仮説」として挙げますが、後述のように、そうではない可能性が高い。武漢型が欧米で変異して強毒化したために欧米では大量の死者が出たが、その時点で日本にはまだその変異株は上陸しておらず、1月に上陸させてしまった武漢型はすでに封じ込めに成功した、だから日本の死者数は欧米のようになっていないのだとする説です。
これは感染研、専門家会議の主張であり、欧米型変異株は3~4月に上陸して国内に拡散したと強く示唆されると強調しています。事実なら強い示唆などなくてもいいわけで、自ら「仮説」であることを暴露しています。即ち、③説は強毒化したことの疫学的証明、日本の医療が武漢型を消滅をさせたことの証明が必要です。「現在は欧米変異型が蔓延している」事実だけではそのどちらも証明されません。
その2点目、「武漢型を制圧するのに成功した」という言明に弊職の周囲の多くが違和感を感じています。「検査で陽性と判定された国内の約560人の検体」だけからどうしてそれが科学的に結論できるのでしょう?世界でビリから2番目のPCR検査数によって当初から無症状者は野放しだったわけですし、現在も引き続き国際比較で少ない検査数で無症状者の凡その数すら推定の域を出ないのだから、武漢型が国内で変異して欧米型と別個に大量に存続している可能性を排除できるはずがないという子供でも気がつくウソではないかということです。
「医療崩壊が危険」と検査を抑えて野放しになった無症状者が患者を激増させて医療崩壊させました。即ち、どう贔屓目に見ても、無症状者は無視のクラスター戦略が大失敗だったことは明白なのです。それを「再び無症状者を無視したデータ」で「成功だった」と「自認」し、その理由が「日本の死者数は欧米のようになっていない」(5月4日、尾身専門家会議副座長)なのです。そうではない、「大失敗したけどなぜかそうなってない」が真相であって、その疫学的理由を感染研がつきとめているなら自身の名誉のためにも即座に公表すべきだ。そうでないなら「私は正しかった。なぜなら神風が吹いたからだ」と言ってる単なる馬鹿です。
その程度の③説に基づいて「目の前の第2波を国民一丸で抑えないと今度は欧米なみの拡散になってしまう危険がある、よって、ステイホームは5月末まで続けるべきだ」という論旨が組み立てられ、それが専門家会議の結論となり、それを受けた形で政府が緊急事態宣言の5月31日までの延期を発表したのですから、③説の正否は国家の命運をかけた決定的に重要なものであることは論を待ちません。このことはいずれ精緻に検証される時が来るでしょう。
①「日本のBCGが有効」説が正しいと仮定すると?
今後も宮坂先生の表のまま進むので、第2波封じ込めに関わらず100万人当たりの死亡者数は韓国(3.7)、台湾(0.2)、日本(0.6)の延長線上の数字が緊急事態宣言解除後も出てくる可能性があります。これは要注目です。防御しているのは政府でなくBCG抗体ではないかという可能性が確認され、それを検証すべきということになるからです。BCGは子供しか使えず大量確保できないので検証する意味がないという議論ではない、政府がしていることが正しいかどうかという有権者の眼として大事な観点からそう考えております。
政府の危機対応レベルが非常に高い台湾は5月3日でも0.2のままですから、政府対応の巧拙にはBCG抗体によるセーフティネットがかかっていると書けば台湾に失礼にならないでしょう。また、そうであったとしても、日本の医療現場の最前線で戦っている医療関係者の皆様のご努力をいささかも軽視するものではありません。あくまで「大本営」の戦略の話をしております。
表のデータは4月初め時点ですから、3月からであった日本への欧米型変異種もブロックできていたということになるでしょう。今後の第2波の防衛に政府が成功しようと失敗しようと、感染研の言うように変異種が強毒化していようといまいと、出てくるのは優等生の韓国、台湾と変わらない数字になり、すなわち、日本は今度は水際防衛に成功しましたという “輝かしい成果” を発表できるようになるでしょう。
つまり、官邸にとってベストで厚労省、感染研のメンツも立つシナリオは、
①が実は正しいかもしれないがあえて証明はせず、③の強毒化は仮説と言わずにそうなのだと主張し、国民に頑張ってもらって3週間たって予定通り優等生の数字が出てきて、「みなさんのおかげです、では少し緩めましょう」とほほ笑んで経済政策に舵を切って、よくやったと支持率があがる
ということでしょう。今回はここまでの指摘にとどめておきます。
最後に、実効再生産数をオンゴーイングの指標として時々示すのではなくドイツのように毎日公表していただきたい。岡田先生の言われるように計算根拠とデータも開示したほうが良いでしょう。
(ご参考)
5月3日のデータ
韓国(4.88)、台湾(0.25)、日本(3.89)
こちらで日々確認できます
http://人口あたりの新型コロナウイルス死者数の推移【国別】
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ベンチャーズ残照(その2)
2019 JUL 25 13:13:58 pm by 東 賢太郎
ベンチャーズのアルバム、The Ventures in Spaceは別稿にした(ベンチャーズ 「アウト・オブ・リミッツ」)。2曲目のOUT OF LIMITSはそこからのピックアップである。
このEP盤も1965年発売。覚えてないが当然すぐ買ったはずだ。当時、米ソは核開発の先に宇宙開発競争を展開し、1961年に大統領JFケネディは60年代中に人類を月面に到着させるとだ驚くべき宣言を世界に向けて発した。1969年7月20日にアポロ11号がそれを初めて果たし、中3の宇宙少年だった僕はテレビ画面の前で震撼した。翌年の大阪万博では持ち帰られた月の石を見ようとアメリカ館に長蛇の列ができる。我が家も4時間並んでそれに加わったが、このアルバムには当時のアメリカの宇宙への熱い息吹がこもっていると同時に、時代を熱く呼吸していた自分の息吹も感じる。
ビートルズに比べるとベンチャーズは下に見られる。音楽的には同感だが、いやそうではないと頑張る僕のような人間もいる。「女に好いた惚れた」「反戦」に徹したビートルズが The Ventures in Space みたいな硬派なアルバムを作ったろうか?ありえない。ビートルズはナンパのリベラルのアイドルなのだ。そこにはかつて七つの海を支配した栄光が残照と化し「オスの原理」を喪失しかけていた英国、かたや先端科学を武器に世界の覇者になって宇宙にまで打って出るぞという「ギラついたオス」であった米国の姿が透けて見える。いま思うとマッシュルームカットは「メス化」のシンボルだ。ビートルズは好きになったが、あれだけはやる気はかけらもなく、ナンパな奴らは骨の髄まで馬鹿にしていた。野球をやったからではなく、僕は本質的にウルトラがつくぐらいの硬派なのだ。
別にベンチャーズに思想があったわけではない。チャラくて軽いウェストコーストのノリの域を全く出てはいない、売れれば勝ちのアメリカンな単細胞ぶりは微笑ましいばかりだが、国を誇れないビートルズが麻薬、サイケデリックの世界に逃げて行ったのに対しそういう爛れた「黒っぽさ」がない。ストレートに「強い俺が勝ち」。馬鹿だが「オスの原理」とはそういうものなのだ。トランプ大統領の半端でない支持者層を見れば半世紀たった今だって米国はそれだということもわかるだろう。正確には、そうでなければともがいていると言うべきであって、半導体の次は高速処理の5Gなのだ。それがAI世界戦争のキモであり、ビッグデータを支配し、高精度迎撃ミサイルの命中確率をも左右する。だからファーウェイをぶっ潰しに行くのである。仮想敵国は完全に中国である。
MARINER No.4(マリナー4号)はちょうどこのころ、1965年に初の火星フライバイと火星表面の画像送信に成功した探査機であり、送られてきた火星表面の接近画像はクレーターだらけの死の世界で人類に衝撃を与えた。オーソン・ウェルズのラジオドラマ『宇宙戦争』が全米で聴衆にパニックを引き起こしたが、「タコのような火星人」なんて実はいないのだと人類の夢を粉々に打ち砕いた探査機に「夢のマリナー号」というのもジョークならなかなかのセンスだったが単なる科学音痴であろう。
上記のジャケット写真。テルスター(TELSTAR)のスペルも間違ってるのはご愛敬だ。テルスターとはNASAが1962年に打ち上げた通信放送衛星の名前で人類初の欧米をまたぐテレビ中継はこれを使って成功したのである。英語の問題以前に常識的にTEL+STARとわかりそうなもんだが、理系の会社である東芝もそういう理系的な興味のない人が東芝音楽工業ではジャケットを作ったり製品管理をしていたんだろう。まあどうでもいいが、アメリカは税金で堂々とそういう超高額の物体を飛ばしてでも常に世界のNo.1でいようという国だという話はしておきたい。トランプが言うまでもなく、アメリカ1番、アメリカ・ファーストの国なのである。時代の空気とはいえロックバンドさえもがこういう人工衛星名のメカな音楽をやって大衆が受け入れてしまう国なのだ。あずさ2号というナンパな歌はあったが、皆さんサザンオールスターズが小惑星探査成功をたたえて「はやぶさ2号」なんて曲をやって日本国でうけると思うだろうか。アメリカ国民がみんな科学好きなのではなく、みんな強いアメリカが大好きなのだ。「どうして2番じゃダメなんですか」なんて野党の変なおばさんが言ったりしないのである。アタシって女ね、なんでもハンタ~イなのよ、だからイチバンというのに反対しただけなのよ、なんて軟弱な屁理屈で許してしまえる話じゃない。
アメリカは第2次大戦でナチスドイツを叩き潰したが、ナチの優秀な科学者たちは殺さずに迎え入れて核兵器、ロケット製造の最先端技術を手に入れた。是々非々なのだ。「オスの原理」の前に「ナチはいかがなものか」なんて馬鹿はいないのである。その高度な結実であるアポロ計画など宇宙開発が軍事技術開発と表裏一体であることは論を待たない。かたや我が国はどうだ。日米半導体協定は1980年代に最強レベルに至ったわが国半導体業界をナチス並みの敵意で米国が叩き潰しに来たわけだが、そこで大戦争があったし国威をかけた業界の呻吟も知ってるわけだが、結果論としてはあっさりと韓国に座を奪われて目論見通りに弱体化されてしまう。「雌雄を決する」とは冷徹なものであって、どんなに努力や苦労があろうと負けたらおしまい。そういうものなのだ。技術者がカネにつられて流出して韓国に教えてしまったわけだが韓国も「オスの原理」で是々非々な国なのだ。それを許してしまった国も経営者も「科学技術=国防力」であるのは古今東西の世の真理であって真理の前にはアメリカも北朝鮮もナチスドイツもないことをどう思っていたんだろう。アメリカさんの核の傘=国防力は不要、とソンタクでもしたんだろうか。
そういう「国」という根幹の本質的な思想において、僕はビートルズが出てきたころの斜陽の英国以上に、はっきり書くが、いまの日本国に木の幹が腐食し始めたような嫌なものを感じる。例えばだ、科学技術力にはクラフトマンシップの要素もあるから数学力だけではないかもしれないことは留保したうえで、データをお見せしたい。国際数学オリンピックで日本は一度も優勝したことがない。2009年の 2位が最高で、今年は13位である。1位はアメリカと中国。そして3位が韓国、4位はあの北朝鮮である。1989年以降で優勝はアメリカは4回だが、中国はなんと20回でぶっちぎりである。韓国も12年、18年と2回優勝している。09年以降で北朝鮮は5位以内に4回入ったが日本は2回だ。国際物理オリンピックも今年の優勝は中国・韓国、3位ロシア、4位ベトナムで、日本はこっちも同じく13位である。
要は数学も物理も国として中国、韓国にぼろ負けなのである。政治的要素も絡むノーベル賞では先行しているが、理系の肝心かなめである数学・物理でこれでは時間の問題だろう。この戦績が来年の東京オリンピックだったら国を挙げた大騒ぎになるのに数学だとどうしてならないんだろう?大学入試に数学がないから男の半分は数学ができない。ものづくり、技術立国をうたいながら、支配層は国際的にトップクラスの理系感度が鈍い国なのだ。日本人はこの事実を直視しなくてはいけない。それなのに、奇怪なことに、なぜか日本のマスコミはこれを報じない。むしろ「全員がメダルを獲得」と持ち上げている。馬鹿が馬鹿を騙す天下有数のくだらない番組、「東大王」のノリだ。「でも頑張ったんだからいいじゃない、メダルは取ったんだしさ、だって全員ってところがなんかいいよね、和の力だよね、ほめてあげたいじゃないの、ほめないあんた、なんかおかしいよ日本人として」。おかしくても結構、おかしいのはそっちだ。要は13位なんである。この風潮が「どうして2番じゃダメなんですか?」を産むのである。この感じ、どこか「みんなで仲良くゴール」の似非リベラル風じゃないか。文科省が国民に知られたくないのか?気づかせぬまま日本に2番になってほしい忍びの者がいるのか?
さて音楽にいこう。
3曲目のテルスター。大好きで何十回もきいて頭に焼きついてるが、久しぶりにサビの部分の和声をきいているとA-F#m-D-Eの進行なのだ。このバスはハ長調だとドーラーファーソーであり、なんとブログで何度も指摘してきた「アマデウス・コード」(僕が命名したものだが)ということに気がついた。ここに分かりやすく書いたので是非お読みください。
高校に上がるとストラヴィンスキーに行ってずぶずぶになってしまったが、やがてちゃんとモーツァルトに行きついたのはこんな意外な伏線があった。テルスターが大好き=モーツァルトが大好きになる運命だった。やっぱり僕の音の嗜好はベンチャーズから来ていると確信する。ロックっぽい部分、たとえばチョーキングみたいなギターテクではない、音楽の「味」みたいなところ。コード進行やリズムやサウンドというところで「ささっているもの」があって、やがてそれと同じものをクラシックの森の中で探すようになって、そうするとあるわあるわ、続々と宝物が発掘されていったという感じが近い。ということはベンチャーズはビートルズに劣るもんでもない、音楽のちゃんとしたエッセンスは踏まえている立派なものだ。耳も鍛えられ、サウンドの快感につられて同じものを耳タコまで聴けば音高まで記憶してしまうから絶対音感に近いものができた。ボブ・ボーグルのベースをいつも集中してたどっていたからバスから和声進行をつかむ無意識のレッスンとなっており、ポップスなら何でも一度で耳コピでピアノで弾けるようになった。しかもベンチャーズはピッチがとても良い。「ブルー・スター」などロックにあるまじき美しさである。演奏側の耳が良い。良い音楽を若い頃に脳に刻むのはとても大事だと思う。
(ご参考)
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