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カテゴリー: ______サイエンス

「未来」と呼ばれているものの正体

2017 SEP 24 23:23:58 pm by 東 賢太郎

アインシュタインは現在、過去、未来はない、それは人間の考えた幻想に過ぎないと言ったそうだ。人間の脳には記憶のファイルが巨大な本棚のように収納されていて、たとえて言うなら、何かを思い出したり考えたりすると本棚のその部分にピカッと光が当たるようなものだそうだ。

では「いま」とは何か?ピカッによって我々が目、耳、鼻、口、肌などの五感のセンサーで感知している世界のことだ。その「いま」は時々刻々と「むかし」になりつつある。ではどれだけ時間がたてば「むかし」なのかは誰もわからないし、尋ねられれば1秒後とか0.1秒後とか瞬時とか、答えは人によって違うだろう。

ピカッで感知できないもの(例えば紫外線や可聴域外の音)は「いま」に含まれないけれど、あるかないかと問われれば、ある。100光年先の「いま」は100年しないと見えないが、こうして議論している瞬間もその場所はある。だから「ある」か「ない」かということと、「いま」は別個の話である。

我々は自分が感知した「いま」がしばらくすると変わっていることに気づく。さっきそこにいた猫がいない、というふうに。そこで、「さっきの今」を「むかし」と呼ぶことにして、そこに至るまでの間に「時間」というものが流れたのだと思うことにしたわけである。とするならば、その時間がさらに流れれば、その先には「これからの今」があるじゃないか。

むかし(過去)、いま(現在)、これから(未来)はこうしてできたらしい

わかったようでわからないが、動物ならどうだろう。ネコにきいたわけではないが、明日の夕食をどうしようなどと考えそうもない。すると「未来」というものはないだろう。「過去」はというと、さっき何を食べたかぐらいは覚えているかもしれないが、記憶があるから過去があるというわけではない。記憶を現在より前のこととして現在から仕分けして眺めている「自我」がないと過去というのは存在できない。

「時間というものが流れたのだ」と思うことにしたのは「自我」である(思うに、それがデカルトの言う「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ」だ)。おそらくは自我のないネコに「時間」というものを創作して1時間前と今を比べてみようという意識はないだろう。ということは、時間の経過でしか定義のしようがない過去も未来もネコにはないということになる。

では自我のある(はずの)我々はどうだろう?

これを考えるには相対的存在というものを知る必要がある。例えば「きみ」という人間だ。本名は山田太郎だが「きみ」であるのは「ぼく」がいるからだ。「ぼく」の自我が自分ではないと仕分けしたからそう呼ぶのであって、実存はしていても「きみ」は「ぼく」とペアで僕の頭の中にしか存在しない。僕が死ねばそうか山田君のことだったのかとは判別できなくなってしまう「きみ」は、だから存在しない。

同じように、昨日カレーを食べた事実は実存しても、あるのは「ぼく」の脳内の記憶であって、それを「過去」と呼んでいるのは現在の僕でしかない。僕が死ねばそれはない。100光年先の星は僕が死んでも実存するから「ある」のだが、昨日のカレーは「ぼく」とペアの相対的存在であり、「ぼく」が「現在」と仕分けして「過去」と呼んでいるものは全部がそのカレーと同じである。

つまり、「過去」とは「ぼく」とペアの「きみ」や「カレー」とおんなじで、存在しないものなのだ。これをアインシュタインは「幻想に過ぎない」としたのだと僕は理解している。

我々は過去、現在、未来という時間の流れがあると信じている。しかし物理学に時間の概念はなく、時間と思っているのは3次元と4次元(時空)の差異だ。時間概念がないというのは、つまり認識できるのは常に「いま」だということだ。ピカッと光が当たっている本が「いま」であり、いま知覚した本は瞬時に過去になっているが、それを「考えている」限り光は当たっておりそれは「いま」のままだ。

いま目で見ているものであれ昨日見た映画であれ、知覚の光が当たっているからそれは「いま」なのであり、光が当たっていないものは存在しないに等しい。100光年先の星は存在していても、光は届かないからそこの「いま」は我々の「いま」ではない。存在がいまではなく、意識の光がピカッと当たるか否かが「いま」であり、それはネコの「いま」と変わらない。

なんだ、我々はネコなみか?そう思うと寂しいが、人生はずいぶん気楽なものにはなる。過去はもうこの世にないのだから失敗など悩む必要はどこにもない。明日どうなるか、何をしたらいいかなんてわかる理由がない、ないものを考えたって答えなど出ようがないからだ。

さて、やっと本題の「未来」の話だ。時間という概念を使おうが使うまいが、人生はいましかあろうがなかろうが、自分が生きていようがいまいが、「あした」は来る。それはまだ記憶にもなっていないからピカッと光りようもない、まさしく空想の産物であるものの、地球がぐるっとひと回転すれば確実に来るからきっと「あした」は存在するのだ、ネコにも我々にも平等に。

しかし我々の自我は欲深い。「あした」ではない「未来」というものを生み出した。幻想なのだからどうにでも主観が入り得る。それは「予測できる」というものだ。物理の法則で、天体の運行のような単純な運動は、万有引力という人間の感覚では不可知ながら数学的に想定すると未来を予測できることを我々は経験的に知っている。そうやって月にロケットがちゃんと命中している。しかし一方で、引力を及ぼす天体が3つ以上になった場合の運行法則は見つかっていない。

このことはアインシュタインが「経験とは独立した思考の産物である数学が物理的実在である対象とこれほどうまく合致しうるのはなぜなのか?」という疑問を持っていたことを想起させる。数学は人間が発明した道具なのか、それとも何かの抽象的世界に実在していて人間はその真理を単に発見しているのか?この議論にいまなお答えはないそうだ。某大学医学部の麻酔科教授が驚くべきことを教えてくれた。「実は麻酔がなぜ効くかというメカニズムはまだわかっていないんです。経験的に正しいと、何時間したら目が覚めるはずだと信じて使っているだけなんです」。怖い話だがそれに近いのかもしれない。

月に命中するか?患者が目が覚めるか?予知できる未来はかように極めて限定的であるのに、我々は不遜にも予知は可能であるという前提で科学というものを発展させてきた。科学者は限界を知っていようが一般人は科学は万能と思い込んでいるのであり、それこそが「未来」と呼ばれているものの正体に他ならない。明日も生きているかどうかすらわからない人間が作り出したはかない空想の産物でないと誰が言えるだろう?しかし「明るい未来」とはいい言葉だ。それがあると思うから人は懸命に働くし善行も積もうと思うのだ。

そう思い至った僕にして、実は「いま」しかないのだよと人生の座標軸を変えるのは一大プロジェクトに他ならない。いま、僕はそれをしている。重大な意識改革だ。できるのはいまを良くする努力しかない、未来とはその結末にすぎない。では、いまを良くする努力に近道やスタントプレーがあるだろうか?そうならそれは魔法というものの立派な定義になるだろう。そんなものはない。できるのは、ちょっとだけ本棚にあてるピカッとした光を強めて、本の背表紙をじっくり見るぐらいのことだ。

それは勉強や仕事をしている時だけでなく、駅へ歩く道すがらだったり友達と他愛ないおしゃべりをする間だってできることだ。逆に言うなら、そこでできないことを勉強や仕事だからといって突然できるようになるわけではない。これを間違ってはいけない。光を当ててじっくり見るということを我々は「注意力」と呼び、光の強さを増すことを「集中力」と呼んでいる。つまり注意力散漫で集中もできない人が、いざという時だけそれができることはあまり期待ができないのである。

このことを若い人は肝に銘じておいてほしい。過去は変えられないから考える意味がない。皆さんは失敗はきれいさっぱり忘れて「なかったことに」で構わないのだ。しかし現在の過ごし方の質を上げれば未来は変わるかもしれない。方程式はないけれど、未来は明るいものになるかもしれない。それをいま何の努力もせずに望むのはナンセンスだ。しかし現在の過ごし方の質という最小限の努力はできるものに置き換えれば未来はあなたのものかもしれない。

では、どうすれば注意力がつき、集中力が発揮できるのか?それさえできれば、こういうことに必ずなる。

現在 < 未来

さらに、

現在の勉強・仕事・しあわせ < 未来の勉強・仕事・しあわせ

になる。僕はそうやって受験や仕事を一応は成功裏に乗り切ったし、それを様々な形でブログに書いてきた。それを読んで共鳴していただいた方々はきっとご自身でできているから共鳴されたのだと思う。そんなに難しいことではない、ちょっとした努力をすれば誰でもできる。

ソナーという会社は意欲ある若者を育てること、才能を見つけることに社会的存在意義を見つけようとしている。意欲と勇気のある方ならだれでも遠慮なくご連絡いただければお会いするし、伸びる方法をお教えもできるだろうと考えている。もちろんすべては無料である

 

・・・・

 

以上は本年3月22日にソナー・アドバイザーズ(株)HPに書いたブログだ。当SMCにはこれが1513本目のブログということになる。それをトータルに眺めると、適当に思いつきを書いていて中味は五月雨だが、すべてが僕の頭から出たもので受け売りやコピペは一切なく、一義的にはまず自分の備忘録で、本稿にある「本棚でピカッと光が当たった本」を開いて「書き写して」いる。そうしておかないと、10年後は生きてるかどうか、生きていてもその本は本棚から消えている、つまり記憶が飛んで忘れてしまっているかもしれないという恐怖が常にあるからだ。

1513冊で僕の頭の本棚の何割を写したのか知らないが、興味ないことや詳しくないことは残しても無意味だし、お読みいただく方に時間を費消していただく資格がないから書かない。ジャンルは右のカテゴリー欄にある項目を「縦軸」とすると、各ブログの末尾にリンクを入れてジャンルまたぎの「横軸」になるようにもしている(いま作業中)。

横軸を気長に辿って行っていただけると予想外のジャンルに飛んだりするが、それは僕の話の個性でもオンリーワンの特徴でもあって、リンクさせている意味はちゃんとある。左脳と右脳をつなぐ脳梁と思っていただければ幸いである。ある意味で、別なワールドをお楽しみいただけるのではないかと思う。

単語やフレーズによる検索はブログ右上の「サイト内検索」で行える。ただしワードプレスの検索機能はやや狭くて、文字列とフォントがきっちり合わないと出てこない。ラヴェルはラベルでヒットせず、交響曲の前にスペースを入れるかどうか、3番か3番かで出なかったりする。ここは プラットフォームの問題であり仕方ない、いろいろお試しいただくしかない。

音楽ブログについては文章と楽譜だけでなく、youtubeから音のサンプルを貼ってできる限りご理解いただけるようにしたい(耳で聞くのが圧倒的に理解が速い)。まず、youtubeに「東」のマークのチャネルを作り(このビデオ等)、僕の保有する音源をブログの補完としてアップロードしていく方針。フォローしていただければクラシックについては深められると思料する。

忘れた過去は「なかったこと」に

男の更年期障害

 

 

 

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香りの効能

2017 SEP 23 1:01:07 am by 東 賢太郎

蝉(セミ)がなきやんで久しい。蝉は地上に数日しか生きられなくて寂しい一生だが、動物というのはすべからく食うことと生殖することだけのために生きている。もっとつきつめれば食うのも生殖のためであって、我々は遺伝子をのこすための乗り物(ヴィークル)にすぎないという説もある(「利己的な遺伝子 」リチャード・ドーキンス著、紀伊國屋書店)

テレビのバラエティーや昼メロがグルメと温泉とセックスばかりなのも、芸能界はもとより政界までシモネタ・スキャンダルまみれというのも、皆さんドーキンス先生の発見した「原理」にのっとって日々お勤めに励まれている結果だ。では子孫を残した人は余生で何のやることがあるんだろう。食って、寝て、死ぬだけなのだろうか。

そう思うと、音楽というのはセックスにも食うことにも貢献がなく、だから動物は聴かないし生物学的には無益なシロモノだ。ロックは女性にもてるかもしれないがクラシックをきくなんぞは色恋と無縁であって、それに50年以上もかまけてしまった僕は動物としては失格なのだろうか。

しかしこうは考えられないか。音楽鑑賞は生存の役には立たないが、落ち込んだり、道を誤ったり、自殺してしまうというようなことへのガードレールの役割を果たしていると。それならドーキンスの原理からは逸脱しない。死んでしまえば遺伝子の目的は成就しないからだ。

例えばベートーベンだ。彼は子孫を残さなかったが、自殺を考えながらも音楽を書くことで元気になって戻ってきた。その複雑な精神の行路を明快に音でなぞってシミュレーションできる曲がある。交響曲第3番「エロイカ」だ。そうすると聴く者も元気に戻れる。僕自身が苦しかった時にそれで復活した経験者だ。

先日のこと、統合医療において僕の主治医である森嶋先生にバイオレゾナンス診療で1年ぶりに全身を診ていただいた。「内臓も頭も問題なし、ストレスもないですね」で安心したがちょっとひっかかる。「先生、いま仕事でストレスの真っ只中ですが」「いえ、数値は出てません、きっと音楽が効いてますね(笑)」。

たしかに、疲れると甘味を欲するように、ストレスがかかると音楽が欲しくなるから精神的な「薬効」があるのかもしれない。米国医学界は制癌剤治療に疑問を呈し論文も出なくなっているそうで、癌患者への対処法が向かっているのは東洋医学やヒーリングなど理論より治験が先行した分野も抱合する統合医療とのことだ。その一環で音楽を取り入れる療法は真剣に研究されている。

ストレスとは体を一定の状態に保つ恒常性(ホメオスタシス)が崩れた状態から回復する際の様々な反応で、なくてもいけないが過剰だと生体機能が狂う。だから過剰と感じた時に精神の緊張を緩和してくれるなら音楽は薬効があることになるし、音楽がもたらす心理作用は認知症などに効能があるとする論文も出てきている。その観点から「エロイカ」の薬効を原子論的に調べたら何か結論が得られるかもしれないと思うと関心が高まる。

先生によるとストレスはもうひとつ戦う方法があるという。香りだ。そこでこういうものを紹介していただいた。「パ ホーザ」(Pau Rosa)というアマゾンの香木エキスだ。

 

この香りにはひとめぼれで、す~っとリラックスできる。ローズウッドの一種だから日本だと紫檀(しだん)だろうか、その中でも特別に品質の高い樹木から採取したオイルであり、入手が難しいらしい。

 


アロマオイルは詳しくないが、お香を焚くのに一時こったことがあり香りの効果は感じている。これは過去嗅いだことのないもので、安眠など効果があるのではないかと思い、いただいて帰った。

 

音や景色は「美しい」と表現できるが、香りや味はそうはいわない。この辺が五感の微妙なところだ。我々が食うことと生殖することだけのために生きているならば、食うことである味は栄養価や毒素を見分ける即物的なものだ。かたや音や景色は生命や生殖にかかわるものでなく、美しいとは形而上学的な表現だろう。動物には無縁の感覚である。

そう考えると香りは曖昧な所に位置するように思う。フェロモンは生殖に関わるし、一方で栄養価や毒素を見分けるためにも活躍する。犬は視覚より嗅覚が頼りだ。我々が魚だったことは胎内の羊水の中でそこからの進化を猛速度で経過することからわかるが、以下は私見になるが、海中に溶け込んだ化学物質の分子を感知するのが味覚と嗅覚で、光や水分子の振動(波動)を感知するのが視覚と聴覚に進化したようにも思う。

つまり物質的な「味、におい」(グループ①)と波動的な「音、視覚」(グループ②)に大別されるのであって、やはり物質的な触覚を前者に加えると、我々の五感は「食うことと生殖すること」に直接関わる①、それを助けたり身を守ったりするセンサーである②によって成立する。宗教は壮大な教会や寺院、輝く祭壇、仏像やステンドグラス等の視覚にミサ曲、讃美歌、お経などの聴覚を交え②に訴えるが、センサーだけでは訴求力が弱かったのだろう、より本能的な領域である①にもちゃんとお香を焚いたりお神酒を飲ませたりで触れてくる。エロイカを聴くこととパ ホーザを嗅ぐこととはそれと同様に①②の別系統に属するわけで、ストレスを解毒する効能はそれで倍加するのかもしれないと感じた。

自殺はもとよりストレスフルな時間が長引けばホメオスタシスが変調をきたし病気になりやすく、ひいては健康寿命にも影響してくる。音や香りは小さなことのように思われるだろうが、我々が世界や宇宙を知覚したり理解したりできるのは五感の情報収集のおかげであって、宇宙と我々との接点はその五つの感覚しかない。それが日々の喜怒哀楽を生みだしているのであって、その積み重ねが人生というものとなり、死ぬときに良い一生だったかどうかを振り返ることになる。そう思えば、その5分の2である音と香りを自在に支配すれば人生の幸福度を増すことができるだろうし、ガードレールにもなるのではないだろうか。

ここまで書いてきて、逆に、我々人間の認識している人生など随分と一面的なものだということもわかってくる。蝉は寂しい一生を送っているのではないかもしれないということだ。香りひとつがいろいろなことを教えてくれる。

 

エロイカこそ僕の宝である

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我が来し方に響く音楽

2017 MAR 5 13:13:08 pm by 東 賢太郎

幼時の記憶というと電車と星です。それ以外に熱中した覚えがありません。電車は床下の車輪や機械部分ばかり見てましたが、星のほうもとても小さいころに絵本で物体と知り、以来そう見てました。

前回そう書いてみて、このところ、そうした自分のありし処というか、生まれつきの性質にどんどん帰っていっているように思いました。

それが遺伝なのか、何処から来たかはさっぱりわかりませんが、僕は大自然の摂理というか宇宙の根本原理みたいなものに絶対の価値を置いていて、それ以外のものはなんであれすべて下位、卑俗のものと感じるのです。教育や宗教でそうなったのではなく、幼時から心の真ん中に鋼のようにそれがあります。

だから人文系の学問はかけらも興味がなく、色弱なのでやることになった法学も宇宙の根本原理からしたら町内会のゴミ出しが火曜か水曜かぐらいどうでもいい事でした。文学は要はウソです。そんなことはない人間の真実を描いているんだとかいうが、そんな真実は存在しない。人間は単に宇宙の一部です。

そもそもそういう言葉の遊びがウソに見える。MBAの勉強はその集大成みたいなところがあって、商売としてビジネスモデルだシミュレーションだと科学的根拠の希薄な用語をふりまわす。それをMBAが何の略かすらわかってない者がもっとわかってない者をごまかそうとふりまわす。猿の演じる猿回しである。

では科学至上主義かというとそうではなく、科学も人間が宇宙をひもといてみただけのものだから文学といい勝負です。自然の摂理で子供を産むことはできても、科学によって人間をゼロから手で作ることは永遠に無理でしょう。その程度のものを宇宙の根本原理と比較するなどナンセンスであります。

自分の知覚、五感、六感、すべてを総合して強固にそう信じているので、僕は「人間の作ったもの」に何の価値も感じない困った人間なのです。

俺様主義ではありません。自分の作ったものも同じことです。書き終わったブログは無価値に見えます。記録として、後述するある目的のためだけに存在します。ふがいないですが、62年してきたことは全てが宇宙の下部機構の凡俗に与えられた欲望の果て、芋虫が這った跡を眺めるがごとしです。

その軌跡のなかでふるいにかかって残った音楽。これは何かというと空気振動の周波数が脳内に生み出す調和が宇宙の根本原理に共振している、そうとでも思わないと説明できない唯一のものと感じるのです。美食や万華鏡も似た作用はありますが、その程度でなく、悲しくもないのに涙を流すほど絶大な作用がある。

例えば昨日目覚めるとラフマニノフ3番の緩徐楽章が脳内で鳴っていて、冒頭の弦の部分、あれをピアノで弾いてみたらなんと涙が止まらない。僕にとってそういう現象がほかの芸術や美食や万華鏡で起こることはなく、音楽の作用は圧倒的に別物であって、もう事件といってもいい。

ラフマニノフも人間だ、人の作ったものではないのか?確かにそうですが、この事件はきっと彼の脳内でも起きたのだろう。いわば彼が森で見つけた薬草を食べて快い幻覚を見た。それを残してくれて、それを僕も食べて同じ幻覚を見ている。彼は製作者ではなく発見者なのです。何の?  根本原理のです。

なぜ?  音楽は周波数変化が脳内に引き起こす化学反応であって、楽譜は化学反応式なのです。化学反応なのだから宇宙の根本原理に添って起こるのであって、そこに人間は出てきません。あるのは薬草が効くかどうか、効く薬草を探したからラフマニノフは名を残したのです。

なぜ僕にとって作曲家が関心事であるかがそれで説明されます。「こと座」を見て僕は宇宙の根本原理であるα星べガの物理特性しか考えませんが、「作曲家」も書いた楽譜の化学特性で名を成します。モオツァルトの走る悲しみなどと書く小林秀雄のような人は、ベガを織姫と思う人ほど僕とは別な星の人です。

作曲家がどんな人かより書いた曲。モーツァルトはK.491やK.551によってモーツァルトたるのであります。それらは彼が森で探した薬草でできてます。ではどんな草かという世界に分け入ると、子供のころオリオン座のβ星リゲルの強烈な物理特性を調べて驚嘆したのとちっとも変わらない。

だからK.491やK.551は僕にとってベガやリゲルのような恒星です。そして(子供のころ)「それ(物理特性)を詳説した本がないことにいらだってました」と書いたのがいまそのまま音楽にあてはまる。であれば、自分が読みたいそれを自分で書き残そう。曲名でブログを書く第1のインセンティブはそれです。

それがこういうものであり  ハイドン交響曲第98番変ロ長調(さよならモーツァルト君) 、僕が見つけてそこに置いておいた薬草をこんどはイマジンの西村さんが発見して下さった。バルトーク「子供のために」をよっしーさんが「今ならじっくりと対峙出来るぞ!」と言って下さった。これぞ正に本望です。

では作曲家という人間は宇宙の根本原理の下位、卑俗にすぎないか。YesでありNoでもあります。我が無能を知ればNoでもある。それを示すのが第2のインセンティブであり、ブログの力を借りて僕は作曲家の楽曲の宣教師をする、それがモーツァルトへの印税であり、宇宙の根本原理への帰依でもあります。

 

(こちらへどうぞ)

芥川也寸志さんと岩崎宏美さん

 

クラシックは「する」ものである(1)

 

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空のおはなし (今月のテーマ そら)

2017 MAR 4 17:17:19 pm by 東 賢太郎

幼時の記憶というと電車と星です。それ以外に熱中した覚えがありません。電車は床下の車輪や機械部分ばかり見てましたが、星のほうもとても小さいころに絵本で物体と知り、以来そう見てました。

空(そら)ってのは宇宙のことであって、もちろんほんとは真っ暗です。夜が真の姿で、昼は太陽という恒星の光が拡散して星が見えない。つまらないなと思ってました。

だから毎日夜が楽しみで、星を見上げては、あれは太陽の何倍、距離何光年、表面温度何度・・と物理特性ばかり気になり、それを詳説した本がないことにいらだってました。当時の観測技術ではデータがなかったのですね。

僕がロマンを感じたのは空でなく一個一個の星。オリオン座リゲル・太陽の1000倍、馭者座エプシロンの伴星・2400倍なんて今でも昔の数字を覚えてます。近くで見た姿を空想してうっとりする、そういうロマンでした。

大人になってケアンズで初めて見た南半球の星空、「なんじゃこりゃ?」でした。別な宇宙へ来た感じで頭がくらくら。あれが南十字星か、ということは・・・そう、そのやや左にケンタウルス座があってプロキシマがあるはずだ!

ハッブル宇宙望遠鏡で撮影されたプロキシマ

 

「はず」とは暗くて肉眼で見えないから。4.3光年で最も近い恒星ですが。月周回ツアーは興味ないけどプロキシマ周回だったら閉所+高所恐怖症を押してでも行きたい。まあ光速ロケットでも9年はしんどいですが。なんとこんな写真まであるのか、いいなあ、今の子供ってうらやましいなあ・・・。

 

この星をプロキシマ・ケンタウリbという惑星が回っていることが最近分かったそうです。地球に最も近い太陽系外惑星ということになりますね。

太陽はあと50億年ほどで燃え尽きます。地球も飲みこまれて終わり。人類は滅亡するか外へ逃げ出すかです。逃げるとするとまずはお隣のここだろう。

しかし光速で4.3年といったって、光速は時速で10億キロ以上。スペースシャトルの打上げ時速(2万8千キロ)で16万年かかる。お呼びじゃないんです。

とするとしかたない、宇宙ステーションにいったん移住して何世代もかけてめざすか。でも70億人はむりだし、そんなとこ住みたくないなあ。

プロキシマ・ケンタウリbの地表の想像図

 

さて、人類は16万年せまいとこでガマンして、えっちらおっちらやっとたどり着いた。やれやれご苦労さん。宇宙船の外へ出て見るとプロキシマ・ケンタウリbはこんな景色だって。おいおい、やっぱりこんなとこ住みたくないよなあ・・。

 

なんか夢も希望もない、株が下がりそうな空のおはなしでした。まあ、あと50億年ありますし、みなさんゆっくりと人生を楽しみましょう。

(こちらもどうぞ)

宇宙人のいる星の画像(NASA)

天文学は清涼剤

クセナキス 「プレアデス」(Pléiades,1979)

 

 

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「東ロボくん」東大は断念(今月のテーマ:人工知能)

2016 NOV 22 12:12:07 pm by 東 賢太郎

将棋の九段がカンニングするほど人工知能(AI)は強いらしいし、囲碁でも先日AIが趙治勲名誉名人を破った(初めてだ)。2048年にはAIが人間の知能を上回り、我々を支配するかもしれない(シンギュラリティ)という話はそれを聞くと現実味を増してくる気がする。

ky_nii01-01しかし一方で、国立情報学研究所(NII)のプロジェクト「ロボットは東大に入れるか」の「東ロボくん」(右)のほうは今年が4度目の挑戦だったが「東京大学合格は実現不可能であり、断念した」、「今後は記述式試験を解くための研究などに集中したい」と先日に報道があって話題となった。

では将棋九段や囲碁の名人になるより東大合格の方が難しいかと東大生に聞けば、9割ぐらいはNOと答えるのではないか(1割は理Ⅲに敬意を表している)。そうであるなら、「ここに僕ら人類が2048年問題を悲観しなくてもいい理由が見つからないだろうか?」というオプティミスティックな問いに何か根拠ある解答があってもよさそうだ。

まず解せないのは「論述式の理系数学で6問中4問に完全正答し、偏差値76.2という高成績を記録した」というNIIのコメントで、囲碁将棋と同じく論理のみで解ける数学が満点でないことだ。東大の数学は難しいが囲碁将棋の名人になるよりハードルが高いとは思わない。とするとこういうことだ;

「AIにとって難しい『意味を理解する』という分野を突き詰めようとすると、膨大な時間とコストがかかる」(NIIの新井紀子教授)

日本語で書かれた問題を数理的ロジックに落としこむという数学以前のプロセスに誤差が出たとしか考えられない。その程度で2問分の時間をロスしたとすると国語や英語はあまり点が取れないと推定される。社会科も論述であって国語的要素が強いからAIが満点をとれる暗記だけでは歯が立たない。となると合格はなるほど無理だ。

「日本語の読解力」

これだろう。あえて日本語としたのは、数学の問題文が英語なら満点だったかもしれない(日本語はロジック化しにくいかも)という含みからだ。

ちなみに東大の日本語の試験(現国)というのは一見平明だがまず一筋縄でいく文章が出ない。だから飛び飛びに(僕にはそう見える)論旨の行間を読んだりぼわっとした隠喩やら空気感を迅速かつ適確に、日本の知識階級の最大公約数的理解係数で察し取り、遥か後から出てくる『それ』の意味するものを、今度は明確にロジカルに変換して200字以内で書いたりなどしないといけない。

試験は差をつけて落とすためにやる。ということは「ほとんどの読者は『それ』の実体がわからないだろう」と作題者が信じたということにこの設問の実務的かつ論理的本質があるわけで、そんなにわかりにくい文章など原文を書いた奴が馬鹿なんだろうと思ってしまうのが文学に疎く詩心のない当時の僕だった。

駿台は模試の採点に不服だとクレームがつけられて、いわば控訴することができた。数学にその余地は皆無だが、後日訴求が認められて点数が増えることがあったのが英文解釈で、現国は毎度否決であった。その判決文がこれまた現国的でわけわからねえという、僕にとってもうええかげんにせいやという趣味人のアロガントな世界でしかなかった。

僕の身勝手はともかく、ほとんどの読者がわからないということは日本語にはコンピューター言語として定型的に書き込むためには「読解力」なる一個独立のプロセスがあり得るという解釈は科学的ではないか。詩文は別として英語にはそれは相対的には少ないように思え、だからこそ英文解釈という科目を成り立たせてしまうような日本語側の独自のエレメントが存在するように思えてならない。

「東ロボくん」はプログラムしないと答えないわけで、「恋人への必殺プロポーズ文句を200字以内で述べよ」と言えば固まるだけだろうが、それは解答に至るプログラムを書きようがないからだ。数学の日本語問題文にそのエレメントがかけらでもあれば、それを読み取るプログラマーに詩心でもなければ趙治勲名誉名人を倒したAIも固まってしまう。

げに「現国」恐ろしやだ。「東ロボくん」を断念させた「日本語の読解力」にたけ、文学を愛し詩心に富んだ文系諸氏は2048年を生きのびるかもしれない。数学で入ったインチキ文系の僕は「東ロボくん」にシンパシーこそあるが、いずれ数学では負けるから2048年にはAIに食われて失業する一番ヤバいタイプの人間ということになる。

しかし一縷の望みがある。こういうことがあるからだ。

朝きこえてる音楽の謎

音楽に限らず、僕のビジネスのアイデアは例外なく起き抜けに出ている。昼間に醒めたアタマで考えたのはだいたいダメだ。ロジックでは成功できない。誰でも道筋をたどれてしまうからだ。睡眠中や無意識状態でのアタマの働きは覚醒時の働きの下地になっている気がする。そういう無限の下地の蓄積から直感やひらめきや創造が出てくるんじゃないか。

たとえばモーツァルトの書いた全626曲をAIにインプットしてモーツァルトっぽい曲を書かせることはできるかもしれないが、これぞ彼の交響曲第42番だと万人が納得するものを書くことができるのだろうか?これが「創造」の問題だ。

彼の脳データをそっくりコピーすれば(その技術はすでにある)可能かもしれないが、現実の彼が1791年からあと1年生きて42番を書くとして、それはその1年間に脳にインプットされた万事の結末としてのプロダクトである。何がインプットかは誰も知らないのだから仮定、仮説に起因するプロダクトでしかない。

2016年時点であっても同じであり、体が生きてない脳が積む未来の経験値は未来を予測しようという努力と同等に不確定なものだ。投資でいうなら、「過去のこの株の動きのデータはこうです。だから未来はこうすれば利益が出ます」というぐらい無価値な試行である。

創造の世界はひょっとして100年後のAIがついに克服する領域かもしれないがまだSFであってほしい。そうなったら人類はお手上げだが、モーツァルトの42番を書くよりも東大に入る方が絶対にやさしいのは永遠の真理だ。「東ロボくん」、応援してるけど出来すぎ君にはならないでほしい。

 

 
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スティーヴ・ライヒ 「18人の演奏家のための音楽」

2016 SEP 16 13:13:30 pm by 東 賢太郎

前回のリゲティが宇宙空間をただよう静けさならこちらはどうか。単調なリズムの反復による同一和音の漸強、漸弱と音色によるグラデーション。満ちては引く潮のようであり、生まれ羽ばたく生命の息吹のようである。宇宙的に対して地球的であり、リゲティが横断的ならこちらは垂直的に感じる。これはミニマル・ミュージックと呼ばれ、スティーヴ・ライヒはその作風を代表する米国の作曲家である。

地球的?いや、しかし、これは実はCosmic(宇宙的)でもあるのだ。このリズム・パターンの繰り返しは、高速でぐるぐる回る中性子星が送ってくるX線パルスの描くグラフの規則的な律動を強く想起させる。

話はあらぬ方に行くが、天文マニアである僕がいま最も興奮している星がある。白鳥座の1,480光年先にあるKIC 8462852という恒星がそれだ。ご興味ある方は、米国エール大学の天文学者、タバサ・ボヤジアン博士のわくわくする講義をお聞きいただきたい。

この星の明るさ(明度)は唐突に不規則的に22%も落ちる。何か物体が恒星の前を通過して光を遮っている。その部分の明度グラフは非対称だからその物体は球形ではない。彗星ではない。恒星のエネルギーで熱を持つと出る赤外線放射がない。太陽系外から見ると木星による明度低下ですら1%でしかなく、22%になるには地球の1,000倍の超巨大な物体が横切ることが必要だ。

そんな物体があり得るのだろうか?

この問いにリーゾナブルに答え得る解答は「巨大な人工建造物」だそうだ。地球外生命が作ったダイソン球というストラクチャーが恒星をぐるりと取り囲んでいるのだと博士は推論する。要するに、平たく言えば、そこに高度な文明を有する宇宙人がいなくてはならないということになる。

米国人はこういう話題が好きで、お茶の間向けのワイドショーまでがとりあげていると聞く。4人にひとりが地球が太陽を公転していることを知らない国でもあるが、サイエンスへの素朴かつ素直な好奇心が比較的広くあるように思う。フロンティア精神に起因するのか教育なのかアポロ計画以来の宣伝効果なのか。

一方、これを我が国のバラエティ番組が放映することは想定しがたいが、ことはお茶の間の話しばかりではない。太陽のような恒星のぐるりにエネルギーを取り込む装置をめぐらせ、地球のエネルギー源が枯渇しても宇宙ステーションで生きのびるという科学者のデッサンには底知れないスケールとパワーを感じる。その実例が1480光年先にあるのだとする推理力、構想力はなんと雄大なものだろう。

5か国に住んでみて思ったのは、平均的な日本人の科学への知識と敬意は先進国としては低いことだ。科学者は特別に頭脳明晰な人であり、同時にお相撲さんと同じぐらい一井の人とは別種の人だ。ノーベル賞をとると、彼の研究内容ではなくいかに「普通の人」のところもあるかという関心がもたれる。

報道はお茶の間で「へ~」という声が上がる方向に偏向し、科学に関心を向けるのは視聴率を気にしなくてもいいNHKの教育番組ぐらいのものだ。僕はお茶の間の科学への関心と知識レベルは江戸時代と変わらないと思っている。天に唾するが、僕を含めた大学の文系卒業者も似たものだ。地球の公転はクイズ番組と同じノリで、知らないと恥ずかしい国民の常識として知られている。

その土壌で育った科学者が、タバサ・ボヤジアン博士のようになるのだろうか?能力の問題ではない。良い種も土に左右される。KIC 8462852の不可解な現象に「エキサイティング!」と目を輝かせ、一般人か学生と思われる聴衆、公衆に自らのわくわく、どきどきを訴えかける。ペンシルバニア大学で彼女のような先生たちについて勉強しながら、僕は何度「エキサイティングな国だ」とため息をついたことか。

女性科学者と見るや割烹着を着せ、「リケジョの星」に仕立ててお茶の間の「へ~」にしようなどという恥ずかしい国との差は測りがたいものがある。お茶の間は仕方ないだろう。しかし「2位じゃダメなんですか」がお茶の間受け狙いのバラエティー番組作戦だったことがバレた、そんな政党が政権を取るという日本史上最大の悪夢があった。こういう日本人の民度を下げ国力を削ぐ政治家は僕が長年主張してきていることと真逆の人間であって、日本国のために永遠に許し難い。

ライヒのミニマル・ミュージックは「意図的に単調」であって、こういう音楽を発想する、これもまた科学と同様、「デッサンの底知れないスケールとパワー」を体感するのだ。最初はクラシックを聴くモードで入るが、だんだん集中力が弛緩してぼんやりしてくる。これまたどういうわけか僕は眠気を催すのだ。旋律も和音変化もないものだから中性子星のX線パルスみたいなものだ。KIC 8462852の非対称性がないものだから脳が思考停止してしまうのだろう。

眠るというのは、意識が飛んで精神が宇宙に同化している状態のような気がする。人生最後の睡眠が死というものだ。寝ている間、精神はふるさとである宇宙を彷徨っているが、最後の日だけは地球にある元の体に戻ってこない。音楽という精神作用は、深いところで人の生死、睡眠と関わっていると僕は信じている。そういうスピリチュアルな次元において、表面的には正対しているリゲティもライヒも新しい音楽の地平を開いているのである。

 
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スマホによる人類無能化計画

2016 JUN 6 20:20:49 pm by 東 賢太郎

現代人は暇があればスマホをのぞいている。気になる人のメールやSNSをチェックし、ゲームで遊び、ニュースや地図や天気予報や動画を見るわけだ。実世界よりもスマホをインターフェースとした仮想世界と接している時間が増えている。それが人間の精神になんの変容も起こさないと考える方が難しいだろう。

WWW(World Wide Web)というハイパーテキストシステムは異なるプロトコルのコンピューターをつないだネットワークであるインターネット上で、例えばwikipediaを中心にしたハイパーリンクはこんな樹形図のイメージとなっている。何か単語をwiki検索してこの枝を通じて得たい知識や情報にたどり着くことができるわけだ。

WorldWideWebAroundWikipedia

僕らの脳というものも、ネット社会になる前、いや太古の昔から、中身はおそらくこれと似た視覚化ができるのであり、樹形図の真ん中に単語を置けばそれにかかわる単語がこうやって連なって広がっていくことは容易に想像できる。

「銀座」と真ん中に入力すれば(つまり意識で念じれば)シナプスを電気信号が流れて、あらかじめ頭に入っている「地図情報」のエリアにそれが届き、「道順」という情報が出てくる。7×3+9と入力すれば脳内の「便利ツール」領域に信号が届いて30と答えが返ってくる。

そう考えると「勉強」というのはこの脳内の樹形図を大きく立派にするプロセスのことだということがわかる。ハイパーリンク先の数(枝葉の分岐数)が多く、リンク先の中身が「リッチ」(四則計算だけでなく微積分まで処理可という風に)であるほど「勉強ができる」という結果に物理的かつ不可避的になる、あるいは、なるように試験問題というものは作られている。

リンク先が多ければバラエティ番組の「クイズ王」や「ものしり博士」ぐらいにはなれるかもしれないがノーベル賞は取れないだろう。まして知らない言葉はその場で堂々とスマホ検索して失礼でない時代となると誰もが居酒屋で立派な「ものしり博士」なのだ。もはや情報というのは無償で大量消費されるコモディティであって、知っていると生涯年収が増えるわけでもなければ女の子にモテるわけでもない。

恐ろしいのは、万人が日々同じスマホ情報を眺めて洗脳されていく傾向があることだ。発信する方はアルゴリズムで検索されやすい語彙を選んで投げかけてくる。するとすべての人間の脳の中にはやがて同じような枝葉の樹形図がだんだんとできあがり、エイリアンみたいに育っていって、ついには地球上のすべての脳にそれがそのまま「棲みついて」しまうのでないかということだ。

そういう世の中では、樹形図の真ん中に「参議院選挙」と置いたときに日本人は知らず知らずに同じ候補者の名前に行き着き、その人を無意識に選んでしまうかもしれない。そうなるように毎日毎日、計略的にある情報をネット上で連呼し、たれ流し続けるとそのワードやメッセージが脳に刷り込まれ、人間の意思決定が操作できて商品を大量に売り込んだり国政を簡単に握ったりできてしまう。SFのようだがその現実味がある世の中になっているかもしれない。

これを「アルゴリズム支配」と呼ぶが、当人がそう意識したかどうかはともかく舛添都知事の採った戦略はその一例として秀逸だ。「厳しい第三 者の目」を意図的に連呼し、「厳しい」「第三者」で検索してすらyahoo、googleで彼の名前がトップに出るようになった。これであらかた成功だ。調査結果が「法律違反はない」であるのは法律を読めば自明である。するとあらかじめ刷り込まれたワードが効いて、厳しい第三 者が法律違反はないと判断している、何が悪いか厳しい第三 者の目で反論してみろ、と反問が心理的に返ってくる仕掛けになっている。より立派な樹形図を脳内にもった者はマスコミにも議会にもいないだろうから有効な反論は無理だろう。

さらに人類にとって危機的な事態が進行していると思われるのは、情報蓄積のクラウド化と同時に人工知能という情報プロセッサーが進化していることだ。人はものを覚える必要はなくなるばかりか運転すら車が勝手にやって銀座へ連れて行ってくれる。道順や運転を覚えたりという苦労から解放されたからといって、では人間は楽になって空いた時間と労力を使ってコンピューターにはできない諜報(intelligence)づくりに徹することができるかといえば、たぶんそうではないだろう。

例えばパソコンを使い始めて、便利にはなったが漢字が書けなくなったという声をよくきく。「挨拶」「昵懇」なんて僕もあぶない。じゃあそんな漢字は検索すればいいのだから学校で教えるのはやめよう、そうすればそのセーブした時間と労力で子供は文章力を磨くことができるではないかと主張するのは、日光の山猿より上野動物園の猿の方が餌をとる時間が不要だから賢いのだというぐらいに説得力のないものだ。「記憶する」という作業はあらゆる学習の母であると思う。それなしに思考はできないしintelligenceを持つに至ることもない

学習の母?そうだ。僕は不得手な受験勉強で苦労したご褒美として、数学の問題を解くというのが「ひらめき」でないことを知った。似た問題を解いたことがあるか?ほぼそれだけだ。試験会場で定理の発見みたいなことが受験秀才ごときにできるはずがないではないか。差があるのは樹形図が充分に大きいかどうかだけであり、受験数学というのは実は解法の暗記科目である。一見初めてだがハイパーリンクでほかのサイトに飛ぶと、「なんだあの問題とおんなじだ」、こうやって解ける。この「飛ぶ」が「ひらめき」と感じているうちはだめだ。シナプスが太くなっているとサイトは自然に繋がる。

つまり、あくまで僕がやった数ⅡBまでの話ではあるが、「問題をたくさん解くこと」+「解き方を覚えておくこと」しか上達法はない。数学ですら覚えておく(記憶)というプロセスなしにできるようにはならないのだから、「記憶はせずに検索だけで」という人が空いた時間を利用して文章力を蓄えたり論理的思考力がついたりなんていうことは、どんな努力をしようが起こるはずもない。その方法を発明する時間があるなら「記憶」に努めた方がよっぽど速いし効率も良いのである。

2年前に書いたこのブログ「  情報と諜報の区別を知らない日本人」は筆者の予想よりはるか多くの読者の目にふれたが、ことは日本人だけの問題ではない。諜報を作る回路を脳内に持たない人が増えるという趨勢を教育が止めることは無理と僕は推察しており、これは世界的な現象と考える。なぜならそれは教育内容の問題というよりもスマホというモバイルコンピューター普及の及ぼす生活環境の変質だからで、教える側の教師の脳まで浸食すると思われるからだ。

先日ソウルへ行ったが、隣国はIT文化受容において日本よりも先進国で、欧米IT企業がテストマーケティングする国の一つに入っている(上場が決まったおなじみのLINEのオリジンは韓国だ)。そこで驚いたのは地下鉄の車内広告が悉く消滅していることだ。以前は日本と同じだったのに、網棚の上も中吊り広告も、完全に消えてしまってつるんとしている。理由は簡単で、乗客は車中で皆がスマホばかり見ているから効果がないとして広告主がカネを払わなくなったからだ。

こういう現象が警告しているのは人間のスマホ化」だ。スマホは何も覚えてないし、何も考えない。創造も発明発見もしない。クラウドとのインターフェイスにすぎず、もらった情報を検索して処理するだけだ。その処理速度がスマホよりはるかに遅くて精度もプアだというのがスマホ人間である。情動(emotion)は減ることはない割にintelligenceは減っているから、インプットに対する感情的リアクションの振れ幅が増大する。切れやすかったり意味もなく高揚したり落ち込んだり、テロリストや極右、極左に扇動されるという人が増えるのだ。

僕はテレビはニュースと野球しか見ないが本や他人の書いたものも極めて限定的にしか読まない。 読書は他人の頭で考えてもらうのだから馬鹿になるだけだというショーペンハウエルに賛成だからだ。ただ彼ほど利口でない僕は読書が必要だ。ではどう限定しているかといえば、intelligenceの有無だ。自分の頭で導き出せない知恵を授けてくれるものを懸命に探しだし、真剣に読んでいる。最近はそれができることこそインテリジェンスと確信するに至っている。

 

テレビを消しなさい

 

 

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男の脳と女の脳

2015 DEC 22 0:00:36 am by 東 賢太郎

男という動物には生来に分類癖があるのであって、全部の男にあるとは思わないが、女にはあまり見られないからやっぱり男の属性の一部なのではないかと考えてしまう。何かを集めてしまう癖は、収集家、コレクターなどとお品良く呼ばれることもあるが、要は収集狂、マニア、オタクに他ならない。

収集というのは、実はまず分類がないといけない。トンボの標本を作ろうというのにオニヤンマとギンヤンマのちがいを正確に把握できていないということは、全くあり得ないことなのである。どんなに小さな差異でも見のがさず、それも個体差ではなく最大公約数として種としてちがうのだということでAがBと異なるトンボだと「分類」する。収集とはその結果を、トンボの遺体を箱の中にピンで差して留める行為にすぎない。それが人間であればこのようなことになるわけだ。

human-evolution-family-tree-with-skulls-graphic-heroロンドンの自然史博物館(Natural History Museum)は、その収集という行為の国家的集大成である。大英博物館(The British Museum )は他国からの略奪物、戦利品の壮大な展示館だが、ここでも分類という男性的ノウハウが存分に発揮されている。漢方薬は数千年にわたる人体実験に基づいた植物の生理学的効能の分類の集大成である。すべての科学(science)が分類、収集という脳細胞の働きを起因として発展してきたといって恐らく過言ではないだろう。分類は法則や理屈、理論の母である。

だから実験結果をごまかして自分の欲しい結論にジャンプしたり、コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神は、「分類」の精神にのっけから根本原理もろとも抵触するのであり、その抵触を厭わず気持ちが悪いとも思わないというシンプルな事実ひとつをもってしても、それが詐欺的な行為か否かを論ずる以前に、サイエンスを語ったり研究したりするには最も不適格な脳細胞の持ち主であることを証明しているという確実無比な結論に至ることになるのである。

去年こういうブログを書いた。

クラシック徒然草-どうして女性のオーディオマニアがいないのか?-

書いたことをさらに進めると、女性には何であれ真の意味における収集狂がいないのではないかと思うようになった。リカちゃん人形を千体も集めて悦に入ってる女の子というのはちょっと不気味だが、いたとしても分類の結果というよりもキレい、カワイイの集大成ではないか。LPレコードやCDを1万枚も集めるのも不気味かもしれないが、僕はその1枚1枚がどう違っているかを明瞭な言語によって説明できるのだ。つまりそれは言語なきところに存立不可能である「分類」という行為から来ているのであって、たくさんあるのを眺めて言葉もなく悦に入る行為とは一線を画している。

mandara京都の東寺に弘法大師がしつらえた立体曼荼羅というのがある。仏像がたくさんあって、その数だけ有難味が増すという単純なものではなく配置が厳密に決まっている(右)。一体一体の役割が分類されている上に、空間配置として認識させる。ただ有難や有難やと拝むだけの脳細胞とは異なるものを空海は持っていた。せっかく嵯峨天皇に取入って気に入られ京都で重職についたのに、真言密教の宇宙の真理を悟り広めるために高野山の山奥に引っ越して引退してしまう。現世欲まるだしの恥ずかしい「コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神」とは北極と南極、いや銀河系とアンドロメダ大星雲ほどちがう精神を見るのである。

先日ベトナムはハノイで訪ねたお寺でこういうものを見た。

vietnam

これが立体曼荼羅かどうかは知らないが配置に秩序があるそうだ。空海が行ったとは思わないので分類、空間配置という空海と共通した脳を持つ人による作業の結末なのだろう。この分類、空間配置こそ、大英博物館、自然史博物館を成さしめた脳細胞の働きに他ならない。

これが男性固有の分類脳という公約数の帰結だと書いたらセクハラで訴えられるのだろうか?女性読者には何卒お許しを願いたいが、このことは大作曲家や大数学者や大天文学者や大発明家や大哲学者に女性がいない(有意に少ない)ことと関係があるのかもしれない。精密な分類が得意でないのに数学や物理には強いという状況が想定しにくいことは感覚的にも理解しやすいのではないだろうか。

たとえば作曲というのは、12音音楽のセリー(順列なる数学的秩序が支配)という可能性を切り詰めた特殊な場合でさえも、2番目の音の選択肢は11個、3番目は10個ある。すなわち音の長さを度外視しても{12×11×10×・・・×2×1}個のサンプルを作り得て、その中から{(12×11×10×・・・×2×1)-1}個を捨て去る作業である。この作業は分類以外の何ものでもない。

「美しいメロディをつくる」とは女性的なイメージを伴うし、たしかにそこに繊細な感性は必要ではあるが、それ以前に音を分類して選び取る能力、つまり数学、物理のファンダメンタルでもある能力が必要だ。J.S.バッハの作曲にそれは顕著でありベートーベンやブラームスの主題労作の過程にも現れている。楽譜とはピッチを周波数変換することで数値のみで書くこともできる。絵画や小説とは異なり、理系的な要素を多分に含む。それを書くことも解析して読み取ることも男性の脳が得意とする領域の作業だ。

こうした作業が男の専有物であるかもしれないと考えるのは、能力においてどっちがまさるという次元の話とは全く無縁である。というのは、分類癖がないほうが望ましい作業というのが存在するからである。その最たるものが育児だ。子供は分類してはいけない。何人いても等しく愛情を注ぎ、序列はなく、夜中に泣きわめこうと何しようとそのことで遠ざけられたりはしない。

これを母性本能と呼ぶのは正鵠を得ており、その大家である男はいないか有意に少ないと思われる。本能(instinct)というからには動物にもあるのであり、動物の父親は母子と行動しない場合もあるから父性本能とはきいたことがないし、あったとしても人間特有の社会性から生まれていよう。一般化はしないが僕を含む一部の男は泣き叫ぶ赤子には無力であり、泣く子と地頭には・・・という諺を生む。分類したり理屈をこねたりしない女性の脳だけが子をやさしく包み込み、安心させなだめることができる。

そして我々男どもも、女性から生まれ、泣き叫んでも温かく包み込んでもらったのである。音楽を書くのは男でも、多くの男はそれを女のために書いている。

 

(追記、13 June17)

幼児の脳に、秩序はまだない(おそらく)。男は仕事で飲んだりしてふらふらになって帰宅して、家の中が無秩序でめちゃくちゃになっているのに耐えられない。たとえそれが幼い我が子の脳から出たものであっても。

幼児期に電車のおもちゃを部屋中に広げ、敷居をまたいで線路を台所や隣の部屋まで敷きつめるのが日課であった。お袋は「足の踏み場もないわね」といいつつ一度としてそれを咎めたことはなく、夕餉のころになると、「早く片付けなさい、そろそろ帰ってくるわよ」と親父の逆鱗にふれない目くばせをしていた。

思えばこういうことで、電車を微細に分類しつつもオタクに徹することなく、国境をまたいで世界に飛び出していく脳になった。長じて親父が怒った気持ちもわかるようになったが、守ってくれ、のびのびと好きなことをさせてくれたお袋の母性にかなうものはない。その作品が自分だと強く感じるようになった。

 

(こちらへどうぞ)

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

 

 

 

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はやぶさ2号ミステリー再び

2015 DEC 3 21:21:23 pm by 東 賢太郎

忘れもしない去年のきょう12月3日、僕は屋久島にいました。そして偶然に目撃してしまったのがはやぶさ2号の打ち上げでした。

そうか、きのう2日は千年杉とご対面だった。それにひきかえ今年は余裕のないこと。仕事に追いまくられて頭がふらつくほどです。

でも企業経営者としては有難いことで、今年は事業はつきまくっていて大きく前進しました。屋久島でいろいろ不思議な思いをしたのがこの予兆だったかもしれません。ノイにそっくりな猫が出てきたり、イスラエル人の女性にユダヤの幸運のペンダントをもらったり、鹿児島空港で信じられないほど大きな虹を見たり。そして買ってきた千年杉の衝立は玄関にあって、毎日さわってから出社してます。絶大なご利益です。

はやぶさ2号はこんな写真を送って来たそうです。月と地球です。意外に月が近い。

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地球の画像で右がオーストリア、左の雲の部分がユーラシア大陸だから日本列島は中央やや左上です。2015年11月26日12時46分(日本時間)撮影ですから僕は大手町のみずほ銀行にいましたね、皆さんはどちらですか?

しかし、この宇宙スケールの巨人の眼で見てみると僕らなんて団子に生えたカビの胞子かゴルフボールにくっついたバイ菌みたいなもんです。人間は知性や科学があると思ってるが巨人界では あっそう てなもんかもしれませんね。逆にバイ菌に生まれてきたら、それはそれで意外に人生大変なのかもしれない。

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太陽を1周して戻ってきたはやぶさ2号は今日12月3日、スイングバイのため地球に3100キロまで近づきます。地球と火星の間で太陽を回る小惑星リュウグウに向かう軌道へかじを切るためで、速度も秒速30.3キロが31.9キロにアップするそうです。

 

そして、これがちょうど1年前の出来事です。

「はやぶさ2号」打ち上げを猫と見る

打ち上げが観られたのも、珍しく快晴だったのもラッキーでしたが、もっと気になるのはネコです。あれはいったい何だったんだろう??

 

(こちらからどうぞ)

屋久島探訪記(序)

 
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人生いちばんのひまつぶし(今月のテーマ 夏休み)

2015 JUL 11 2:02:32 am by 東 賢太郎

浪人の最後の夏休みに、とうとう勉強に辟易してしまった。現国、古文、漢文などチンプンカンプンでいくらやっても上達しない。あんなのは作題者の趣味の世界だと気持ちが下に見てしまっていて、そうすると正直なもんでいい点が返ってこない。であれば時間の無駄とばっさり捨てた。

しかし時間はたっぷりありすぎた。人生ひまつぶしとは思わなかったが成績は絶好調なのに来年3月まで入試はない。まだ7月かよ、早よやれよと気持ちは自分のふがいなさに怒っていた。だからひまつぶしといえば立派なひまつぶしであった。そこでアインシュタインの本を読みまくった。

なぜアインシュタインか?世の中で一番難しそうだ、それだけ。彼の数学言語は読めないから一般向けの解説書や科学雑誌にすぎないが。いわゆる「特殊」(光について)のほうは何となくわかった(三平方の定理ぐらいは)が光速度不変の原理はイメージがわかない。いわゆる「一般」(重力法則のほう)はほとんどがよくわからなかった。

中身はともかく彼は現在・過去・未来はないとしていて、たくさん棚があって自分が見ているところが今だと書いてあった気がする。これは相対性理論ではないが、自己流の解釈として考えたのは、「今」しか宇宙にはないということだった。100光年離れた星の今=「私(観測者)の今」であって100年後(光が来たとき)でない。でもその星の「今」を見ることも知ることもできない。

それは、そういうものを「在る」と呼ぶかどうかというだけの問題であって、未来(100年後)にしか見えないものを在る無いといってもわからないのだからどっちでもない。この在るかも無いかもが両立してる状態は「シュレディンガーの猫」(生きてるかも死んでるかも)みたいだと思い至った。

アインシュタインはそれを「神はサイコロを振らない」と批判したがそのボーアの量子力学は、測定されないと電子は存在しないという。そして科学と歴史の審判はアインシュタインの判定負け的な論調だ。なんじゃそりゃ、ということはやっぱり存在論じゃないか、哲学だろそれとちょっとその審判に不満だった。

「在るか無いかわからない状態」が在る、そして宇宙ごとそういう状態で在る。光を当てないと測定できない悲しく無能な人間だからそうなんであって、眼がない下等生物や地底で生きる細菌には宇宙が見えてる?そうなりそうな気がした。どう考えても変だ。

測定とか在ったとか無かったとかは脳が判定することだ。アインシュタインが棚に例えたのは脳ミソの部位のことか?そこに電気信号か何かがおきて、そこに「私」が鎮座して世の中を眺めてる。それが「今」か。昨日の記憶が詰まった部位にいる時は「過去」と呼ぶ。明日のデートはどこでと考える部位にいると「未来」と呼ぶ。

そんな脳の中だけのことだから現在・過去・未来なんてものは外部的に存在しない?同じように在る無いも脳の中の話だから存在しない?

脳の中?我々はシナプスの電気信号で考えたり測定したりてるみたいだから電子が動いてる。ところが測定されないとその大事な電子は存在しない(ホンマかよ、直感的に意味不明)。測定は目ん玉で普通やるから光による。その大事な光は光速で動いていようと速度は一定だ(ホンマかよ、直感的に意味不明)。電子と光、あるのかないのか、我々が測定している宇宙は本物なのか?

ということで、世の中のことがますますわけがわからなくなって、気がついたら夏休みが終わっていた。こんなことをやっていて成績は下がった。

 

 
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