「ニーチェ」と「トランピズム」の結婚
2026 JAN 16 18:18:57 pm by 東 賢太郎
年末に箱根へ行って、外食をすませた帰りのことだ。冷たく澄み渡った大気の中に煌々と輝くオリオン座に呆然と見とれてしまった。子供のころ、暗くなると毎晩外へ出て白い息を吐きながら、あそこに行くとどんな景色だろうと空想した。冬休みに家族で行った天城高原ロッジから目撃した、まるで宝石をぶちまけたようにぎらぎら輝く星空は豪勢でまばゆく、半世紀以上前のその感動までもが蘇ってしまったのだ。春夏秋冬、北半球、南半球、夜空のどこを見渡してもベテルギウス、シリウス、プロキオンの作る「冬空の大三角形」界隈ほど華やいだ眺めはない。僕はこれを「天空の銀座」と呼びたい。それにしてもだ、写真をご覧になって、12個の明るめの星々が三ツ星、小三ツ星までお見事に、まるで誰かに造形されたかのように並んだこの天空の “絵柄” は、「自然の産物」にしては出来すぎと思われないだろうか?
仮に3個のビー玉を同時に無作為に頭上に放り投げてみたとしよう。地面に落ちたその3個が正三角形を描くまでに、あなたは何回それをくりかえす必要があるだろう?では今度は三ツ星みたいにまっすぐ等しい距離に整列するには?では6個を投げて大小三ツ星になってきれいに並ぶには?それではいよいよ、12個いっしょに投げて「天空の銀座」になるには??
ペルーにある「ナスカの地上絵」は紀元前500年から紀元500年の間にできたことがわかっているが、空から見ないとわからない巨大なサイズなので飛行場が近くにできる1920年頃まで見つからなかった。どう見ても動物や幾何学紋様にしか見えない絵柄が、それも1つ2つではなく、なんと723個
も描かれていて、古代の住人がやったとすれば関わった人数も時間も膨大なものだ。ひとりではできないから指揮した者がいるはずだ。彼(彼女)は何と言って人々に命じ、飯を食わせたのだろう?これだけの大工事をやらせるには目的を示す必要があってそれは伊達や酔狂とは思えない。そこでドイツのマリア・ライヘという数学者はこの地に住んで一生を捧げ、それが何か、誰が何の目的で描いたかを研究したがいまだ解明されていない。空想をたくましくしてみよう。オリオン座と冬空の大三角形は何者かが人類に見せるために描いた「天空絵画」であって、AIによると紀元前500年も形はほぼ同じだった。地球上どこにいても1年間のトータルの半分は夜ということを我々は忘れてるが、電燈がない古代人の夜は長かった。当時のナスカ人は毎夜に現れるそれを神様のメッセージと畏敬し、地上にいる動物を模写して生贄にささげたのかもしれない。あるいは現代人がSETI計画で強力な電波を宇宙に向けて発信しているのと同じ発想だったかもしれない。
広い世界にはもっと想像力のたくましい人たちがいて、古代には地球外生命体が頻繁に地球を訪れており、ナスカ人は彼らと交流しており目印として地上絵を描いたと主張する。僕はそれをエーリヒ・フォン・デニケンの著書『未来の記憶』で知り、中学時代に夢中になって読みふけった。それとトロイの遺跡を予言して発掘したハインリッヒ・シュリーマンの『古代への情熱』は興奮した二大書物だ。ドーンと謎が提示されて解き明かしていくタイプの読み物といえばエラリー・クイーンにもはまっていたが、 60年前の「宇宙人」のミステリー度合はNo1だった。
膨大な人数と時間を投入して古代人が造ったものの、何と人々に命じ、飯を食わせたのか未だ不明な物がもう1つある。エジプトはギザのピラミッド群だ。クフ王らの墓とされるが構造上の謎が残る。 3つの配置がオリオンの座の三ツ星を模したという説は真偽不明だが、目印説を取ればナスカと同じ目的ということにはなろう。私見では地球外生命体Xが我々の知らない何らかの目的のため2つ建てて去った。のちにクフ王、カフラー王の墓に転用され、3つ目は再訪の目印にと三ツ星に比定する位置に人間だけで建造したが完成できずメンカウラー王の墓になった。1つ目にXは宇宙普遍の数理を埋め込み、後世の人類が自分の来訪を知るきっかけを刻印した。
これは映画「コンタクト」でこと座α星ヴェガから自然のノイズではあり得ない人工的な信号である二進数で記述された素数列を送ってきて知的生命体であることが示されたのと同じことだ。
両著者とも若い頃は秀才のようでもなく、デニケンは逮捕歴までありメインストリームの知識人には受け入れられ難いハンディはあるものの、常人離れした想像力と行動力を発揮して僕のようなタイプの少年に血沸き肉踊る知的刺激をもたらす人生を送ったことは何人も否定できない。そうである以上、学会の保守本流から受けた「世を惑わす似非科学だ」、「素人発掘で遺跡を損壊した」等の批判は、後述するようにニーチェが「ルサンチマン」と定義した物(要は嫉妬)を含んでいる可能性も否定できないのであり、大哲学者によって「良い人生を送るためにはやめた方がいいよ」とばっさり切り捨てられているものの類であると僕は弁護したい。仮にメインストリームの批判が客観的に正しいものであるならばご両人はSF作家だったと理解すればよいのであって、そうであっても彼らに対する僕の尊敬はいささかも揺らぐものではない。先ほど、懐かしいデニケンさんがどうされているか、ウィキペディアで検索してみたらこの1月10日に亡くなっていた。本稿を書きたくなったのはこれまた虫の知らせだったのか・・。そういえばその日、歯が痛くなって注射を打たれたらもっと痛くなってうんうん唸っていたのだが・・。
デニケンの指摘通りナスカの地上絵は地球外生命体との交信の証だったとしよう。しかし、それでも、偶然にできるには気が遠くなるほど確率の低い天空絵画の謎は残る。誰もそんな主張をしないのは、恒星が巨大な質量を持って遥か遠くにある物体だと知っているからだ。しかしそれは本当だろうか?もっと言うなら、宇宙の果てまで137億光年というが、それも仮説から計算した紙の上の数字に過ぎない。物差しになっている光速はおよそ秒速30万kmだということが実験によって証明されているが、それより速く進む物体は存在しないという仮説の方は証明できない。シミュレーション仮説信奉者の僕としてはその数字はこの宇宙を創造した者(神としておこう)が使用したコンピュータの処理速度の上限値に過ぎないから実は任意の値であり、137億光年という宇宙のサイズも同様だ。
宇宙そのものがシミュレートされた幻影に過ぎないから大きさも重さもなく、我々が見てるのはまさにプラネタリウムみたいなもので、オリオン座だろうがアンドロメダ大星雲だろうが「天空の銀座」だろうが、絵柄は子供でも好きに描けるのだ。やはり同説の信奉者であるイーロン・マスクはビデオゲームの進化を例に挙げてそれを説明し、我々が見ている宇宙が現実である確率は10億分の1だと言っているが、この考え方の原型はちょうどナスカの地上絵が描かれたころに活躍したギリシャの哲学者プラトンの「洞窟の比喩」にすでに見られる。
似たような驚きを別のところで覚えたデジャヴがある。人間ドックの内視鏡検査で目撃した、僕の目には艶やかなオレンジ色のように見えた肉塊、すなわち自分の胃袋の中を初めて見た時だ。
「これが食道です、ここから胃ですね・・はいここから十二指腸になります」
女性の医師が手慣れたバスガイドみたいに説明し、ほーっと観光客みたいに眺めていた。これって、渋谷のプラネタリウムで聞いていた「この明るい星がシリウスです、何光年先で大きさは太陽の何倍で、その右がベテルギウスです、赤いのは温度が低いからです」なんてのとおんなじだなと思いながら、そこはかとない違和感を感じていたものだ。何だか自宅の部屋の中を他人が詳しく知っていて解説されてるみたいじゃないか。胃袋の所有者は俺だよ、なんで彼女のほうが俺より知ってるんだ?
それは、僕が作ったものではなく、両親とて設計図を見て作ったわけでなく、母のお腹で自然の摂理に従ってできたからだ。摂理というのは宇宙の仕組みと同じく創造者である神が創ったものだ。 1つの受精卵からいろんな臓器が分化してできて、その1つが僕の胃袋になっているわけだが、医師だって医学書の著者の博士だってなぜそうなって、どんなプログラムがどうやって作動したのかは誰も知らない。医学というものの創世記からの経験的学習によって誰の胃袋もそうなっていることを学んでいるだけで、彼女はぼくの胃袋がかつて観察された天文学的な数の胃袋のone of themであり、そうでない確率は海岸の砂浜から砂粒ひとつを選び出す確率より低いという仮説に基づいて解説を述べているのである。それはプラネタリウムの解説者がベテルギウスのあれこれを観測による経験的学習によって知っているのとなんら変わらない。つまり僕も医師も、脳みそからほんの 40cmの距離にある胃袋のことを「550光年先の星のことぐらい知らない」のである。そんな人類が世の中をわかった気になって支配しているのだから、史上初めて核兵器が用いられた80年前以降の我々はいつ全滅してもおかしくないという危うい均衡の中で生きていると言って全く過言ではない。「人間は考える葦である」とパスカルはパンセに書いた。それから350年もの年月が経っても、考えたところで大したことはないと思うのは僕だけだろうか。
考える葦が何をしてきたか、いかに浅はかな考えの連続であったかは歴史が教えてくれる。自由平等博愛の精神があれば神がいなくても人間は立派な社会が作れる。そう考えてカソリックを否定したフランス革命は約50万の人を殺した。それを肯定したマルクスの共産主義革命は人類が資本主義者に搾取されない理想の世界が作れると考え約9,500万の人を殺した。前稿で、僕は自分自身がフランス革命と啓蒙思想にルーツのある「自由」を心から愛する根っからのリベラリストだと説いた。人殺しの理念にかぶれていると誤解されたくないので述べておくが、僕がマルキシストでないことは「神はいる」と信じていることから証明される(その神は創造主であって名前は無いが)。そこに信心が至る契機は宗教でなく数学で唯物論的思考をたどっているが、結論は論理で導かれたのではなく天から降ってきたものだ。
それでは、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844 – 1900)が「神は死んだ」(Gott ist tot)と言ったことに対し僕は批判的であるか。答えはYes and Noだ。ニーチェの言葉は、ルネサンスによる科学技術の発展で「神が世界を創った」「神が善悪を決めている」といった従来の考え方が説得力を失い、長らく西洋社会の基盤となってきたキリスト教的な道徳や価値観がその力を喪失したことへの暗喩だ。神、魂、徳、罪、彼岸、真理、永遠の命、理性、価値、権力、自我などの概念は、弱い人間たちが自己を正当化して言い訳をするための「嘘」であり、キリスト教が目標とする偽りの彼岸的な世界の象徴なのだと説く。それを背景で支えている心理が前述の「ルサンチマン」(Ressetiment、無力ゆえの「憎悪」「嫉妬」に基づく、弱者からの「復讐」の感情)であり、「強者は悪だ」として自分を納得させ、「能力の高さより善人であるべき」、「迫害に耐える事で天国に行ける」と救済しようとする。彼はこれを否定して強者(超人)になれと説き、だから神は死んだと警鐘を鳴らしたわけである。また、解釈とは価値、意味を創り出す行為で多様だから世界はどのようにも解釈される可能性がある無限に二義的なものであって、唯一の真実などというものはなく、どこまで追い求めても「人間の解釈」というファジーで恣意的なものがあるだけで意味がないと考えた。以上の2点につき、僕は強い共感を覚える人間である。ルサンチマンから逃げまくり、ウソを並べた煙幕に救いを求める人達にとっての神は死んでいるが、しかし、宇宙を創造した神は存在し、人類を見守ってくれていると僕は信じているのである。
ニーチェはそこで興味深い概念を提唱している。永劫回帰(えいごうかいき、Ewige Wiederholung)だ。彼はスイスの著名なスキーリゾートでもあるサンモリッツの少し南にあるシルヴァプラナ湖の森(写真)を歩いていて、その啓示が突然に降ってきたという。

永劫回帰とは?この世界は、全てのもの(崇高なものも卑小なものも)が、まったく同じように永遠にくり返されるとする考え方である。キリスト教は始まりである天地創造があり、終わりである神の国の到来があって、歴史はこの終点を目的として不可逆的に進行するが、ニーチェは永劫回帰する世界はループ状で始まりもなく終わりもなく、それ1個しか世界はないとする。
イメージとして、箱根駅伝の最初の走者が1区を走りきり、さあ2区だと襷を渡そうとしたらまた1区のスタート地点だったという感じだろうか。少年サンデーの「伊賀の影丸」(横山光輝)で、敵を追いかけて豪雨の中を走れども走れども着いた先は「三島の宿」だったという、童心にも背筋がゾゾッっとしたシーンが目に焼きついてる(左がそれ)。余談だが僕はこの絵で三島という地名を覚え、この作品全巻を何度も熟読することで日本語すらも覚えた、いわば元祖アニメオタクである。影丸たちは敵の妖術にたぶらかされていたわけだが、実は70年生きてみると世の中というものは丸ごとそんな感じであって、目的地到着が無いのだから何度走っても途中にあった険しい坂道や危険な峡谷が戻ってきて消え去ることはない。だからそれらは自分で乗り越えるすべを開拓しなければ回避できる道は永遠にないのだ。ニーチェはこれを「ニヒリズムの極限形式」と呼んだ。キリスト教のように今まで最高価値だと信じていたものが実はそうではないと悟った時、人間が持つに至る世界観がニヒリズム(虚無主義)である。そこで人間は人生を諦めてしまう消極派か、自分で切り開こうと思う積極派か、そのどっちかを考える価値もないとする悟り派に分かれるが、ニーチェは究極の選択として積極派を推奨した。つまりここで彼はヘーゲルの弁証法をも否定したことになり、後世に大きな衝撃と影響を残したのである。
積極派こそが究極であるのは、人間は消極的に虚構に逃げこんで傷をなめあっても現実世界では何の救済も得られないからだ。したがって、これが重要なことだが、強い者への憎悪、嫉妬、復讐心をかきたてて人間をそこに追い込んでしまう「ルサンチマン」というものは苦悩、無限地獄の元凶とみなすべきなのである。嘘を垂れ流して「強者を憎め、妬め、復讐せよ」とする、耳障だけは良い「絶対的原理」を吹聴する者を拒絶せよ。そして、次々と生まれ出る真理の中で戯れ遊ぶ超人になれというのが彼の主張だ。この点においても僕はまったくもって同感だ。人間は、いくら頑張っても強い者を否定しても合理的な基礎を持つ普遍的な価値など手に入れることはできず、流転する価値、生存の前提となる価値を承認し続けなければならない、いわば自転車操業を続ける悲劇的な(かつ喜劇的な)存在である。もう笑うしかないぐらい今の自分を言い当てられた気がする。それでもくじけてしまわないのは、健康で生きることの喜びを肯定し続けられているからだと思う。
現状の日本国を俯瞰するに、そうした生き様を貫いている人の数は減ってきているような気がする。失われた30年なる失政を遠因とする慢性的デフレなのか、コロナ禍が社会の活力を蝕んで劣化させた結末なのか、戦争に端を発した輸入インフレの延焼による物価高なのか、その原因は一概に判断できないが、おそらくはそのどれもが相まった複合的現象として日本中に蔓延し、世の中を沈滞させてきたのだ。そしてその空気が俄かにより一層重くなり、日本国の天空に半透明のドームでもかぶせて暗くされたかと危機感を覚えるほどの変調を覚えるようになったのは3年半前に安倍元首相が暗殺されたその日からである。あの極めて不可解なのだが不可解でなかったかのように整然と始末されていった不可解な事件以来、それを本当にそう思っていないのだろうと見えるのに十分なほど無能である総理大臣たちの下で、無言の衝撃をうけた日本国は国としての生体反応が停滞し、国民は生活の先行きが見えない不安の中で五里霧中となり、近隣諸国の軍備拡張に無力のまま怯える日々という暗い洞穴にに落とし込まれてしまった。そして、あたかも次へ進む希望の道への一里塚であるかのようなもっともらしい体裁を伴って、オールドメディアは次から次へと以下のような「空虚言語」をばらまいていったのである。
夫婦別姓、LGBT、女系天皇、多文化共生、多様性、環境、SDGS、国際、平和、交流、生活、貧困、教育、福祉、慈善
いったいなにが起きていたんだろう?? ニーチェならこう答えるだろう。
『ルサンチマン』という毒薬がばらまかれたんだよ
「空虚言語」(Empty Word)というものがある。フランスの哲学者で精神科医のジャック・ラカンの用語で、安定した意味を持たない記号のことを指す。言葉に見えるが実は記号である。そのため意味は常に変化し文脈に依存し、対話型AIのハルシネーション(幻覚)の原因にもなる。人間は自己都合や邪悪な動機によっていくらでもハルシネーションを喚起できるので、「空虚言語」を並べてルサンチマンを巻き散し、解毒できる絶対的原理ですよとプロパガンダを吹聴することは一定の政治的効果を期待できよう。だから無能な政治家ほどそれに頼るのである。「これからは**の時代です!」など「空虚言語」を連呼するだけの政治家は自分の頭も空虚であることを開陳しており、政権奪取しようとは実は1ミリも考えていない万年野党は、年収4000万円で政治漫談を演じる芸人一座である。
ニーチェが「嘘」だとばっさり切り捨てた次のような言葉はラカン派精神分析においては「空虚言語」である。
神、魂、徳、罪、彼岸、真理、永遠の命、理性、価値、権力、自我
当時これらをルサンチマン解消の特効薬としてばらまいたキリスト教会こそが絶対的原理の吹聴者であり、永劫回帰するこの世に唯一の真実などというものは無いのだからそれはすベて嘘である。世界はどのようにも解釈される可能性がある無限に二義的なものであって、どこまで追い求めても「人間の解釈」というファジーで恣意的なものがあるだけという意味において、目的が自己利益の追求オンリー(今だけ金だけ自分だけ)の政治家にとって「空虚言語」は便利で親和性が高い。例えばどこから見ても堂々たる左翼でしかない政党が、一つだけもっと左翼の政党があることを盾にとって「我々は中道だ」といえば、「中道」というまるで絵にかいたような「空虚言語」が記号としての本来の役割を発揮してもっともらしく聞こえ、無知の国民を騙し、場合によっては対話型AIのハルシネーションまで誘発して害悪を増幅しかねない。そうした税金の無駄である政治家を駆逐するには「充満した言葉」(Full Word)のみで自己の定義を述べよと徹底して追い込み、悪手を封じればよいのである。
ことの危なさはアメリカ合衆国でも同じである。ドナルド・トランプは福音派のキリスト教徒だ。ニヒリストではないのだから彼がニーチェ哲学の信奉者である可能性は高くないかもしれない。しかしビジネス界における強者である彼がルサンチマンを抱く人間である可能性はほぼゼロであり、愛国者として国をもう一度強く豊かにしたいとMAGAをスローガンに掲げる意思の根源が福音派の教義にあったとしても、それはニーチェが否定した弱者救済のためのものではない。彼がDOGEを立ち上げ、「言葉遊びより常識が大事」「人間には男と女しかいない」と子供にも伝わる地に足の着いた言葉(Full Word)をもって絶滅に追いこもうとしている敵はアメリカ合衆国の内部に深く寄生してしまった、空虚言語を振りまわして世を惑わすグローバリストだ。暗殺者の銃弾が耳をかすめても何らひるむことない姿は、来世での救済など望まず命を捨ててでも現世で為すべきことを為すという強烈なコミットメントにおいて、意図しようがしまいが、彼はすでにニヒリズムに至っており、 ニーチェが生きておればその姿勢を肯定したのではないかと思うのである。まことに痛快な限りであり、我が国でも高市政権が斯様な政治改革をしてくれるだろう。
両人ともがまさしく超人 (Übermensch)なのである。トランプにおいては国連や国際法の存在というものは、彼に対する福音派ではなく、ニーチェに対するキリスト教教会の総本山の位置づけに既になっていると思われる。ということは、ベネズエラ襲撃において、彼は「神は死んだ」と宣言したのである。その是非をここで論じても仕方がない。絶対に避けねばならぬ事はただひとつ、キリスト教もニーチェも想定していない、人類が全滅する殺し合い(第3次世界大戦)の勃発である。彼がそれを理解し、神もその回避を望んでいると解釈していることを信じたいし、世界各地の小競り合いがそれに発展することを止められるのは彼が功罪合わせ飲んででも行使する軍事力しかないということもわかっているだろう。今我々がこうして生存しているということは、現在のループにおいて絶滅危機は起きていないことを示している。しかし前のループでそれはなかったのだろうか?人類はかつて二度三度滅亡していることが古代遺跡から分かると唱える論者もおり、ノアの箱舟がなければ実は一度滅亡していたのではなかったかと考える者もいる。トランプが人類の救世主なのか破滅の大魔王なのかは現時点においては誰にもわからない。おそらくトランプ自身もわからない。だから彼のここまでの行為の是非はニーチェの言う無限に二義的なものだと考えるのがフェアである。それを、何がしか頭を使った痕跡は一切無く一義的に「いかがなものか」とパブロフの犬のごとく騒ぎ立てている連中は何のルサンチマンに掻き立てられているのか知らないが、超人への途上にないことだけは間違いない。高市総理の
解散権行使によって絶滅の危機に追い込まれる事が確定した政党の上層部が、政策の説明など一言も無いまま自己保身のため絵にかいたような野合を唱え、その唐突さを緩和しようとオールドメディアが子供でも嘘とわかる応援記事を書く。人生終わった爺いどもの気色悪い抱擁一色で高市・メローニの期待に満ちたハグはスルーで「なかったことに」で葬る。しかし、この偏向報道があまりに露骨だったことでかえって国民は気づいてしまった、軒下に潜んで蠢いている奇怪な害虫がまだ駆除できていないことを。このありさまが、あの2022年7月8日の、宇宙の常識を一掃する異様さであったシンクロ報道の既視感を鮮やかに呼び覚ますからだ。こういう連中に無垢の国民が騙されつづけ、政府が一刻も早く駆除の手を打たぬならば、実質的にニーチェ主義化したトランプは自助努力せぬ日本をいずれ見捨てるだろう。高市総理は切った舵のとおり冷徹果断にやり抜くことを日本国存続のために強く期待する。
ニーチェがラ・ロシュフコーとショーペンハウエルに影響を受けている事は興味深い。両人の書物は我が愛読書だからであり、何かが底流で通じているかもしれない。彼がワーグナーに一時傾倒したことはクラシックファンには周知だろう。その点に関しては、僕はニーチェ自身が作曲をたしなんで作品を残していることと同じぐらいは意味を感じる程度である。むしろ、ニーチェ思想が明治後期か
ら大正にわたる日本の名だたる知識人に衝撃を与え、高山樗牛、夏目漱石、新渡戸稲造、和辻哲郎、阿部次郎、萩原朔太郎、芥川龍之介らに大ニーチェ論争を巻き起こさせ、何より僕がファンである夏目漱石が明治38年ごろ、『吾輩は猫である』執筆中に『ツァラトゥストラ』の英訳本と格闘していたことのほうがずっと重大である(左)。高山、和辻、阿部以外は哲学者でなく文人であるがニーチェに没頭して大論陣を張っている。知識人とはこういうものだ。現代の我々から見れば西洋の哲学や芸術や文学に関わる情報も造詣も未だ十分ではない時代にも関わらず、先人たちがそれほどのインテリジェンスを確立していたことを誇りに思う。東洋にそんな国は日本しかなかった。ちなみに芥川龍之介はストラヴィンスキーのレコードを持っていて、それを聴いて育った次男の也寸志は作曲家になった。漱石がツァラトゥストラを選んだ理由といえば 「神の死」「超人」「永劫回帰」が語られているからだろうか、「猫」の後半にその影響があるとされているが僕はまだよく理解できていない。
締めくくりにリヒャルト・シュトラウス作曲の『ツァラトゥストラかく語りき』を聴いてみよう。ウィキペディアのタイトルは「こう語った」になっているが僕はどうも文語調の「かく語りき」でないと収まりが悪い。演奏スタイルも1970年代にアナログのステレオのHiFi録音技術がピークを迎えることに合わせた豪華絢爛型、そして80年代になるとデジタル録音とCDという新メディアによって静謐な細部まで分解能の高い透明感を謳った演奏も出てきた。そのどちらもがメリットとなるように巧みに書かれているリヒャルト・シュトラウスのスコアの質の高さが時代を追って浮き彫りになってきたように思う。この曲及び英雄の生涯はフランクフルト歌劇場管弦楽団によって初演された。僕が同地に駐在していた頃の同歌劇場の音楽監督は読響でメシアンの秀逸な演奏を何度も聴かせてくれた現在世界最高クラスの指揮者シルヴァン・カンブルランで、現在の読響音楽監督セバスティアン・ヴァイグレも2003年まで同じポストにあったということで縁を感じる。
スタンリー・キューブリック監督が「2001年宇宙の旅」に使用したため冒頭部分2分ほどばかりが有名になってしまったが、全曲に渡って隙のない見事な音楽である。シュトラウス自身が1944年6月13日にウィーン・フィルハーモニーを振った録音は宝物だ。 80歳の誕生日を記念して1週間の放送スタジオコンサートが行われ、正規録音はないが家族がプライベートに録音した音源ではないかとされているのがこのビデオだ。何度かの復刻により音も鑑賞に耐え、作曲家の解釈が最も反映された演奏がVPOにより再現されている価値は何ものにも代えがたい。これを知れば豪華絢爛型の演奏スタイル、ましてやディズニーの伴奏音楽みたいな路線は本質をおよそついてないことがお分かりになろう。なおコメントにあるが、この演奏の3日後にスタジオから数マイルしか離れていない石油精製所が連合国の激しい空爆で殲滅されたという。そんな空気の中でこれだけの演奏ができてしまう音楽家たちには畏敬の念を覚えるしかない。
ステレオ録音でもう少し良い音でという方。ヘルベルト・フォン・カラヤンは記憶ちがいでなければこの曲を3回録音している。ベルリン・フィルハーモニーとの2つは品格を伴っている純度の高いゴージャスな演奏である。そちらを好む方に何の異論もない。しかし、これは多分に趣味の問題ではあるが、僕はやは
りリヒャルト・シュトラウスにおいてはウィーン・フィルハーモニーが本能的に持っている音楽の変転する流れやメリハリへのアジリティー(敏捷性)、および感度の高さと艶やかな音色がなければ物足りない。そこで、同じ趣味の方にはカラヤンのデッカ初録音である第1回目の演奏をおすすめしたい。これは日本では1973年の9月ごろに、カラヤン初の廉価盤として千円で発売されあっという間に売り切れになった一群の懐かしいLPの内の一枚でもある。ツァラトゥストラはこのレコードが2001年宇宙の旅に使われたものであるというふれ込みでシリーズの目玉扱いであり、買うかどうか最後まで迷ったが高校3年生で金が無く、ブラームスの交響曲第1番、ホルストの惑星、くるみ割り人形とペールギュントという当時に関心のあった曲の選択になってしまった。 1959年の録音であるがデッカ肝入りの素晴らしい音で、演奏は作為的な見栄や贅肉のないギュッと引き締まった魅力があり、今より音色に色気があった頃のウィーンフィルが香り高い音でシュトラウス直伝のニュアンスまで余すところなく伝えて文句なしだ。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
学校で学んだことでなお残っているもの(1)
2024 DEC 26 0:00:15 am by 東 賢太郎
今月の6日、お気づきだった方も多いでしょうが東京でも空の真上(天頂)近くに月がありました。地球が公転面から23度傾いていて月はさらに±5度傾いてるので北緯28度まで、つまり沖縄あたりまで天頂の月が見られますね。これに気がついたのは香港に住んで「太陽が天頂にある」光景を生まれて初めて見て感動してからです。東京は北緯36度だから太陽は夏至でも天頂から13度下方までしか来ませんが、月は8度まで来るのでかなりてっぺんに近い。
月の傍らにはひときわ明るい木星があり、その左下にこれも目立つ火星があったりとその節はとても界隈がにぎやかでした。子供のころは暗くなるとひとり団地の広場に出て、ワクワクしながら寒空を眺めてました。北東の中空にカペラ、レグルス、アルデバラン、カストル、ポルックス、プロキオンなど一等星がめじろおしです。プロキオン、シリウスと冬空の大三角形を形成するところにベテルギウスがあってここが見事にきれいな形をしたオリオン座です。お正月に伊豆の天城高原ロッジで眺めた天空のこの辺りのゴージャスな景色は忘れません。
さように初めはうっとり眺めていただけですが、だんだん想像が逞しくなります。買ってもらった天文の本によると太陽は地球の109倍もでっかい。伊豆まで車で何時間もかかったのに世界地図だと1ミリもない。109倍の意味がわかって仰天します。ベテルギウスはたしか太陽の1000倍ぐらいと書いてありました。じゃあそれを太陽の所に置くとどう見えるか?見えないんですね、火星までのみこまれて。そんなでっかい物体がどうして「点」なのか不思議でした。
いっぽうでオリオン座の右下の一等星リゲルの大きさは昭和30年代の当時はわかっておらず、ブルーのスペクトルから温度は恒星の限界の1万2千度とだけありました。さっき調べると大きさは太陽の50倍、出ている光は8万倍ですから老人星のベテルギウスとは別物の屈強な若者星です。でも同じぐらいの「点」に見えてます。「全天恒星図」と「天文ガイド」で調べると恒星に同じものはないのですが、みんな同じ「点」に見えます。面積がある太陽は、地球の1/4の大きさしかない月と同じぐらいに見えますが、それは月が太陽の400倍近くにあるからです。
それを知ったことは自分の人格形成に大きな影響があったといって過言でありません。見えているものは信用ならないと感じ、とっても疑り深い少年になったからです。それが性格と化してそのまんま「シミュレーション仮説」の信奉に至り、見えているものは全部が仮想現実(=誰かが作ったウソ)であるという確信と共に生きているのだから影響どころではありません。
そういう子は学校で「協調性がない」と見られます。でも、自分をそう見ているオトナを見て僕は信用ならないと感じてたわけです。そんなある日、当時いた3匹の猫たちにエサをあげると、好物の煮干しなのにしばしクンクン匂いを嗅いでから満を持して食べます。何度やってもそう。僕にもエサにも信用などないよという感じで、その都度その儀式をやってOKしないと拒否です。それを見てウチの猫はどの人間より信用できる、そうあらねばならないと思いました。
学校は太陽や月の大きさは教えてくれます。覚えないと試験に落ちますが、天文学者にならない人にとってそれ以外にその知識が役立つのはくだらないクイズ番組ぐらいのもんです。それを知ってる君は合格!なんて無意味なことをやってる学校のほうがそもそも信用できんのです。アインシュタインはこういってます。
学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているものが教育だ。
もしそうだとすると、一切忘れてしまった僕に残ってるのは「疑り深い少年」になってよかったという安堵感ぐらいですね。疑うためにはまず自分で考える必要があるのでそういう癖がつきましたし。でもそれはアインシュタインでなく猫に習ったわけですね。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
『ファウチの正体』が暴く薬の秘密
2023 DEC 3 1:01:11 am by 東 賢太郎
不可解なものは怖い。だから徹底的に調べる。それでも不明なら逃げる、これが我がポリシーだ。不可解なもの。第一に2020年初に発生したコロナ。第二にmRNAワクチンだ。翌年に注射予約をキャンセルし、自分なりに納得した治療薬である「イベルメクチン」「ヒドロキシクロロキン」を購入。かかったらそれで治そうと決心した。
「ヒドロ」は米国から「トランプが使った薬」として送ってもらい、「イベル」は自己調査だ。この決心は当時のブログで皆さんに公開した。そうこうしていると昨年、父の逝去でふらふらになってしまい熱が出た。風邪と思ったがどうもかかったようだ。翌日、有無を言わさず病院に収容され、「レムデシビル」の点滴を受けたらあっさりと治った。「イベルメクチン」「ヒドロキシクロロキン」は出番がなかったが、ロバート・F・ケネディ・Jr.著の『アンソニー・ファウチの正体』(ビル・ゲイツと巨大製薬業界が民主主義と公共衛生に仕掛けた地球戦争』)が出版され、3つの薬には浅からぬ因縁があったことを知って驚いた。
https://note.com/honkakuhanonote/n/n90c76797390a
これが目次である。
第1章 パンデミック制御の失敗
1. 恣意的な命令―科学不在の医療
2. ヒドロキシクロロキンの抹殺
3. イベルメクチン
4. レムデシビル
5. 最終的解決―ワクチンか大失敗か
いっぽう、mRNAワクチンについて2021年6月に僕がどうして疑念をもったかはここに詳しく書いてある。当時のまま加筆も変更もない。
ワクチン予約はキャンセルする(再改定、6月22日)
判断材料はネット情報だけだ。いかにテレビ、新聞がいらないかわかる。
エイズウィルス研究の第一人者ファウチはCNNのトランプとの対談でまともに思える発言をしており、ゲイツはダボス会議のプレゼンで感心もしていた。このレベルの人が悪魔に魂を売ると人類規模の悪夢になる。
しかし皮肉なものだ。mRNAワクチンで儲けるために「イベルメクチン」「ヒドロキシクロロキン」をこきおろしたファウチをケネディはこきおろすが、そのファウチが売って儲けようとした治療薬が「レムデシビル」だったのだ。
ケネディが毒薬だとこきおろすそれを僕は5回打ってもらい、コロナはかかってもこれで難なく治ることがわかった。頭では悪党だがお世話になっちまうとそうもいえない。人間弱い。世の中はこんな感じのものである。
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ジャイアント・インパクト説で張った大勝負
2021 NOV 7 12:12:37 pm by 東 賢太郎
僕は長いこと「科学教」の信者だったが、いまは宗旨替えしている。科学は大事だが、人生を良くしてくれるわけではないからだ。
むかし、飲み屋で何かの拍子に「猫に科学はいらない」といった。一瞬の沈黙があり、「そうよそうよ、人間だってそうじゃない」「だよね、だってサイン、コサイン、見たことないもんね!」と一連の盛り上がりを見せた。何となく敬遠されていた僕の好感度が急上昇したらしい。
「そうじゃない。科学は大事だけど、人生を良くしてくれるわけじゃないのは猫も人もおんなじだといったんだよ」。またまた一瞬の沈黙があり、「え~っ、なにそれ」「ってか、わたしたち猫なみってことぉ?」「ひど~い」。君たち、それは猫に失礼ってもんだ。好感度は急降下した。
こういうのが国中で盛りあがると反知性主義というものになるが、それで人生が悪くなるわけでもないということも言っているのだから急降下はアンフェアだ。百万都市の繁栄があった江戸時代の人はそれなりに幸せだったが、たしかにサイン、コサインは知らなかった。だから彼女たちは正しいのだ。
いま自分の半生記のために色々むかしの資料を引っぱり出して読んでいる。ああなるほどそんなことがあった。もう他人事のように冷静だ。住んだ家の情景からいろんな記憶もよみがえってくる。ほんとうにうまくいったなあと思う。しかし困ったことに、そのどれもが「たまたまだけどね」と語っているのである。
僕が「科学教」の信者だったのは実証主義者だからだ。これは生まれつきの性格だから変えようがない。今あるのは意思や能力のおかげじゃなく単なる偶然の結末だとなるが、綿密な調査、検証の結果なのだからそれが正しいのである。つまるところ、それを認め、認知的不協和を乗り越えるのに僕は2年もかかった。
2年半前の野球の記事が、その萌芽が現れたことの証拠になっている。
「乗り越えるのに2年もかかった」という部分には一抹の誇りを感じないでもない。「おお、ケプラーが楕円運動を仮定するのに30年かかったことの1億分の1ぐらいは同じじゃないか」とうぬぼれたからだ(参照:http://教養のすすめ)。そう自分を慰めて認めさせたといったほうが近い。
ジャイアント・インパクト説。いま僕はそれの強固な信者になっている。月の生成。これが純然たる物理現象であることを否定する人はいない。蓋しこういうのを解明するために物理学という学問があるのだろう。しかし、月ができた理由は長らく解明できず、最近になってコンピューター・シミュレーションで再現できることからジャイアント・インパクト説が有力になってきたのである。
このことは「麻酔がなぜ効くかいまだにわかってないんですよ」と某大学の麻酔科の教授に聞いて驚いた記憶とすぐに結びついた。月の生成と麻酔のメカニズムの両方を研究する人はいないから両者が「似ている」と素人が主張しても何も起きないが、そのことから、「科学には限界がある」もしくは「科学の方法論に限界がある」と主張しても科学的な反論はたぶんないだろうと思う。今の人類が手にしている物理学、数学、化学、生物学、生理学、薬学という理論では説明できない二つの現象があり、別々の理由でそうなのかもしれないが、人類には見えない同じ理由があって、そこから二つどころか多数の「不可解な」現象が現れていて、各界でばらばらに研究されている。その統一原理を見つければ全部が一発で解決されてしまう。そういう何ものかがあるのではないかという仮説に僕は途方もない魅力を感じている。
科学が万能でないことを認めた瞬間に僕は「科学教」の信者から宗旨替えしたのだ。決定的だったのは素人用(数学の出てこない)量子力学をかじったことだ。さらに、コロナで興味を持ったのでウィルスの本を読んでいるうちに、なんでタンパク質がA,D,T,Cの組み合わせで生成されるのか(つまりアナログがデジタルからできるのか)不思議に思って調べたらドンピシャの本に出会った。非常に面白いのでお薦めする。アミノ酸という単なる物質の組み合わせがゲノムという生命の設計図になり、「命」という超物質が生成される。唯物論とメタフィジックス(形而上学)の垣根という哲学上の議論が物質界で展開されるのは痛快というしかない。
ここから先は我が空想だが、古代に知的生命体が地球にやってきてゲノム設計図を作り、アフリカの類人猿(ミトコンドリア・イブ)の遺伝子にそのプログラムを書き込んで初の人類が “生成” された。その猿の子孫がさらに進化し、先祖の記憶をたどって聖書なるものを書く。始祖はアダムとイブという名前になった。各国の神話で知的生命体(=神)は空から降りてくるし、神殿はピラミッド状の形をしており、蛇、狼、熊などヴァリエーションはあるが人類第1号誕生に関わる “他者” (神の関与を示唆)が存在するという共通項がある。通信手段のない時代に複数個所に偶然にそれが起こる確率は非常に低く、アフリカの実話が人類の拡散とともに各地に広がった結果と考えたほうが納得できる。
「ジャイアント・インパクト」は超多元連立方程式の解としても、計算力があれば解けないわけではないだろう。しかし科学の有意性は後から解いて納得することではなく、月にロケットを命中させるように未来を予知することにある。「人生を良くしてくれる」とはそういうことだ。超多元式の組成がわからないと、事後的にそれを知って解けたとしても予知は永遠に無理だ。そして、我々の見ている世の中には予知できないこと、たとえば、地震、台風、太陽フレア、気温上昇、自分の寿命、ウィルスの出現、経済成長率、株価、ウナギの進路、サンマの水揚げから女心と秋の空に至るまで、予知できないことはいくつもある。
冒頭の「宗旨替え」の理由がおわかりいただけたろうか。サイン、コサインはいま我々が享受している生活の利便性を与えてくれた大事なものなのだが、それは結果であってここから人生を良くしてくれるわけではない。知っている人と知らない人で幸せの量が変化するとは思えない。それは各人が求める幸せのキャパ(容量)により、その大小が人間の価値に関わることはまったくない。小さめの人はサイン、コサインの学習など無縁でもキャパいっぱいの幸せを得ることで素晴らしい人生が送れるだろう。であれば無理して大学など行く必要もないし、その時間を自分なりの幸せの追求に向けたほうがよほどいい。
僕自身も物欲、権力欲は大きめに生まれついていないからそういう学習に無縁な人生は充分にあり得たと思う。ところが、人間の熟成にもワインと同じで、 “テロワール” というものが存在するのだ。
僕の場合、種子はいたって慎ましいものだったが植えられた畑の土地柄、つまり、学校や友達や競争環境が影響して幸せキャパが大きくなってしまい、こういうワインになった。父が中学で公立に転校させテロワールが激変したのがきっかけであり、それが大学、MBA、海外勤務とますます想定外の方向に行ってしまい、子供時分のちいちゃくて大人しいケンちゃんからは誰も空想だに出来ぬ人間になった。一番驚いているのは自分だという処にこそ、このストーリーを書いておく意味合いを感じている具合だ。
「ジャイアント・インパクト」を信仰することで僕は広島カープが強くなったり弱くなったすることに耐性ができたし、自分にも他人にも何に対しても人間が寛容になったと思う。科学教のころは何でも自分で解けると信じていて、実は解けないのだから当然なのだが、実にたくさんの失敗をしていた。そこで個々の敗因を探るのをやめてばっさり宗旨替えすることで、どうせわからないことは考えない、頑張らない、結果を見てからやって意味のある事だけしっかりやろうという考えに転換した。実は日本人の大多数はそういう人である。いたって普通のことで何をいまさらに聞こえようが、僕は見事なほどそうでなかっただけに勇気のいることだった。
自分が得意でない分野では専門家の意見に頼るが、その分野の中だけで解決できる問題はその人が解いていてすでに過去である。彼が解けないのはクロスボーダーの複合的な問題で、それを解かないと「良い人生」はない。そこで「メタ認知」という視点が大事になる。僕は受験で数学の訓練をそこそこしたので異分野の理論や事象に相似形を見つけ、あるいは因数分解し、メタ(高次)の原理をみつけるのが比較的得意だ。ジャイアント・インパクト超多元連立方程式がそれで解けることはあり得ないが、正解ではなくても「だいたいこのへん」という直観を交えて他人より “少しだけ正解に近い数字” を見つけられるかもしれない。ビジネスではそれで全くもって充分なのである。他人より失敗確率が減ればロングランでは勝つからだ。
この考えはゴルフ、麻雀、猫に近い。常勝も圧勝もいらない。長丁場で負けなければ企業は存続できる。投資のチャンスはたまにしかない。従って、潰れずに、その時を猫みたいにじっと待って、勝てると踏んだ時にエイッと勝負をかけるのがポイントなのだ。「わたし、失敗しないので」は危険であり、「わたし、致命的な失敗はしないので」が良いスタンスだ。そしてチャンスと見たらダブル・リーチをかけて「来た、見た、勝った」で仕留める、その爪をいつも研いでおくことだ。僕はゴルフ、麻雀、猫遊びに習熟し数学/哲学アタマだからこの仕事にたまたま向いていた。しかしそれは業界に飛び込んでから偶然に知ったことだ。
ジャイアント・インパクトでひも解くと株式相場がどうなるかはもうだいたいわかっている。テーパリングは中央銀行界がやってる感を出すための議論でOPECの増産・減産の表向きとかわらない。リーマンの時に流動性が流れたデリバティブは兆の上の京に至ったが、いまは仮想通貨がそれになり総額はもっと大きくなる。これは潰せない。メタバースという三次元スペースの値段はそれでつくから京を超えるかもしれない。現状の経済運営に通貨はそんなに要らないが、要らないものに価値を感じるように人類が進化するのだからその「要らない」という概念は要らない。ざっくりしか書けないが、そういうジャイアント・インパクト説で僕は勝負をかけ、おそらく勝つだろう。
僕には生糸貿易で大儲けして横浜、熱海の水道、ガス燈を私財で作った先祖がおり、その血が流れている。科学者や大学教授や陸軍大将もいるが、体内感覚で誰より彼の血が濃いような気がしている。50才で亡くなったのでもう負けてるが、70でいいから抜いたらきっと喜んでくれると思う。「相場は騎虎の勢い」が座右の銘であったが、おんなじだ、食われるので背中から降りられない。
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宇宙人の数学的帰納法
2020 APR 26 21:21:45 pm by 東 賢太郎
CS放送で「古代の宇宙人」(Ancient Aliens)という米国のシリーズ物を見てます。高校の頃、エーリッヒ・フォン・デニケンの『未来の記憶』を穴のあくほど熟読した者としてこの番組は垂涎です。地球外生命体の存在を確信しているしSETIプロジェクトは多大な関心をもってフォローしているのです。ただ、この話をすると、ほとんどの人に、えっ、まじめにそんなの信じてるんですか?という目で見られます。興味ぐらいはある人も怖いもの見たさです。SETIまでは科学と認める人もデニケンの古代宇宙飛行士説まで行くとオカルト扱いです。西洋でも疑似科学とされていてまともな学者がとりあうものではないとされているように思います。
影響を受けた本はもうひとつあって、中学か高校か忘れましたが、神話のトロイの遺跡は実在すると信じて掘り当てたシュリーマンの伝記です。彼は商才はあったが家柄も学問もなく、ほら吹きだ遺跡を台無しにしたと後世のエスタブリッシュメントからの毀誉褒貶もあります。でも、たしか雑貨屋だかの見習い店員だったころ、よっぱらいのおっさんが高吟していたホメロスの詩を聞いてトロイに興味を持った。それが世紀の大発見となったなんて素敵じゃないですか。彼は幕末の慶応元年に世界旅行で日本まで来て旅行記を書いています(右)。とても好奇心のある人だったのでしょう。
アレキサンダー大王、ガイウス・ユリウス・カエサル、マルコ・ポーロ、ヴァスコ・ダ・ガマ、クリストファー・コロンブス、みんな好奇心旺盛な男ですが人をたくさん殺したり略奪してますからワルですね、でも魅力あるんですね、なぜなら、やってみないとわからない未知なことにまったく怯んでないからです。みな仮説・検証型の人間だったのでしょう、演繹でなく帰納型で、自説に自信があって突き進んで自分で検証して見せて、どうだ見たかというタイプでしょう。想像力がたくましく政治家、軍人、冒険家でなくても、現代ならビジネスマンで大成功するタイプです。シュリーマンもそのタイプで、目的はカネだ功名心だなんて揶揄されますが、そんな批判は成果からすれば吹けば飛ぶほどのものです。
どうして日本人がいないかと不思議ですが、仮説・検証型、帰納型が少ないと思うのです。与えられたもので「うまくやる」人は多いのです。でも革命的創造、原理的発明、解析モデル構築、地球的ディファクト作りみたいなものは弱いですね、圧倒的に。信長がそれに近いですが彼も鉄砲作りの真似で成功してから中国、キリシタンのアイデアに「開明的」であっただけで、それすらしない者ばかりなので目立ったということです。仮説・検証型、帰納型の反対が既存モデル適用型、演繹型です。モデルは自分で一切作らず、成り行きをじっと見て事例が出そろうまで待ち、モデルと矛盾がないことを確認し、間違いないとなって満を持して結論を出す。調査、研究には向きますがビジネス、投資には最も失敗する方法で、世にいうエリート、役所、大企業病の会社の得意技であり、まさにそれを政府、厚労省は新型コロナでやって初動が大変に遅れたわけです。
デニケンは上掲書に旧約聖書エゼキエル伝の一節は古代宇宙飛行士に遭遇した筆記者エゼキエルによる目撃譚だと書いています。これをユダヤ教徒、キリスト教徒が真面目に請け合うとは考えられません。しかしデニケンにおける聖書はシュリーマンにおけるホメロスの『イーリアス』だと考えることにはむしろ異教徒の日本人の方が思考に自由度があるでしょう。100%否定できないものは否定も肯定もしないというのが科学的態度であります。僕は科学者ではないですが受験生のころ数学にハマって何でも解けるという全能感に近い所まで行って、まったくの勘違いでしたがそれでも自分の限界の淵は見ました。そこで、科学は神聖という犯し難い天界のルールみたいなものがあるかなと感じました。そこからは、論文の捏造とかガセネタとか似非科学には天罰を求めたい欲求すら懐くようになっています。
デニケンを読んだ時はガキだったし、今は彼の説を一刀両断しておかしくないのです。ところが、そうならないのは、ある決定的な経験をしたからです。僕が帰納法型人間であるのは「知は力なり」の英国経験論者フランシス・ベーコンの影響ですが、す。ということは、経験から仮説を作って生きてるわけですからどうしようもありません。その経験とはなにかというと、1990年にメキシコシティーに出張ついでにテオティワカン遺跡に行ったときの度肝を抜かれる「不思議感」がそれなのです。CSの番組でも取り上げてますが、巨大なピラミッドが3つと小型が複数あり、西暦紀元前後にできたのですが、誰が作ったかも用途も不明です。そもそもギザのピラミッド同様、これだけの巨石を積み上げるのは現代のクレーンでも困難のようです。
演繹的な思考だと、こういう従来のモデルで説明できない遺物は(日本の古墳の土偶、埴輪もそうですが)「祭祀用」ということになってしまう。なぜなら、未開人は科学を知らず呪術や祭祀を尊んでいた、という思考のルール(モデル、正統とされる学説)があって、テオティワカンは未開人の造ったものである、したがって祭祀用であるという三段論法で結論する。典型的な演繹法です。真面目で高い教育を受けた人ほどこの思考の鋳型にはまりがちです。ルールに従った処理だから何の祭祀か、神は誰かという余分な論考は無視します。要はわからんものは「その他」に入れて蓋をしてしまい、その事例がルールを覆すものかもしれないとは考えないし、考える者は異端として排除したりするのです。ところがテオティワカンでそれをすると99%が「その他」でしたとなって、ルールの意味すらなくなってしまいます。
僕は一切のルールは間違ってるかもしれないと考える疑り深い人間なので、初めて遭遇する物事を演繹法で考えることはほとんどないです。テオティワカンでも太陽と月のピラミッドは、上掲写真の目線までけっこう急な石段を登るのですが、高所恐怖症だから本当に怖く、それでも、あまりの不思議感と好奇心でみっともなかったですが這いつくばって必死に登ったのを覚えてます。番組はこれを、高度な文明を持つ地球外生命体が飛来して建築した宇宙船のエネルギーチャージャーとして、水銀を用いた超電導空中浮遊装置だろうと比定していましたね。確かにUFOは空を飛ぶのです。というと、空中浮遊?どっかの新興宗教か、アホかと大概の人はなるでしょう。
でも現にリニアは空中浮遊してます。テオティワカンのピラミッドの最近の発掘調査で土中から超伝導体の水銀が検出されたそうだから、否定しづらい仮説であろうと思います。ここの大ピラミッドも、エジプトのクフ王のピラミッドも、どちらも三つあり、空中から見るとオリオン座の三ツ星の形に並んでいるというのも、二つの遠隔地で偶然そうなる確率はかなり低いと思います。よって、僕の中ではデニケン説を否定する科学的姿勢は取りづらく、ヒストリーチャンネルの「古代の宇宙人」をまじめに見るという行動が合理的という結論になっているのです。
最後に一つだけ。「宇宙人」は低レベルの訳ですね。英語もスペースマン、エイリアンとは言いますが漫画っぽい、オトナはエクストラテレストリアル・インテリジェンス(地球外生命体、extraterrestrial intelligence)というんです。映画ETもThe Extra-Terrestrialの頭文字です。その存在は正統派の天文学者、物理学者が認める帰納的推論だから米国でSETI(地球外知的生命体探査、Search for extraterrestrial intelligence)が行われている。ただ、空から宇宙人の電波が来るのを待つなんてアホだ無駄だという批判は世論としても哲学者からもあり予算はついたり打ち切りになったりしています。僕は税金も払っていない米国がそれをしてくれることに謝意と敬意を表明したいし、それは「西へ西へ」という金採掘者のアメリカンドリーム(シュリーマンも参加した)が「上へ上へ」になったものと理解します。
さらに言うなら、そのムーヴメントは、アレキサンダー大王からシュリーマンまで僕の思いついた6人の「仮説・検証型人間」、「帰納法的人間」、つまり、思うに日本は言うに及ばず、ひょっとしてコロナ禍で人類がより現実的、現世肯定的になって世界中で減っていくかもしれないタイプの人種に元気になってもらうプロジェクトでもあると考えるのです。日本はもっとダメになるんだろうか心配です。そもそも日本語で宇宙人と呼んでいること自体が思考停止ですね、お化けみたいなもんです、いるはずないけどいたら怖い、だからお化け屋敷行ってみようよという、この番組を見てる人たちは科学的思考とは無縁であり、TV会社もそういう客が入れば当りとならなければいいが。
ちなみに、GAFAのCEOは異口同音に「これからビジネスで必須な勉強は?」という質問に「数学と哲学」と答えています。
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高度成長期はカンブリア紀であった
2019 JAN 20 0:00:07 am by 東 賢太郎
最近のヒザ痛は精神的にもよくないですね、何はなくとも足腰だけは自信あったですから。今日はニューオータニのゴールデンスパに入会し、ジムでトレーナーの小山さんについて鍛えなおそうと奮起いたしました。
体幹のストレッチをやっていて、何か運動されてました?と聞かれ野球と答えましたが、いかんいかんと思ったのです。そんなのいつの話だよ?そうね、それ、今はショーワって呼ぶんだよね。意味ないんですね、だって平成すら終わろうとしてるのに・・・。子供のころ、おばあちゃんってメージ生まれなんだねと言いながら江戸時代みたいに遠い気がしてた、あの立場になっちゃったんですね。
去年は経営上の大きな危機がありました。そのときはそう思ってなかったけど、いまになって振り返るとそうだ。それは外的な変化によるもので、未曽有のストレス要因でもありました。おかげで心身とも弱りましたが、なんとかそれを乗り越えつつあるいま、逆に会社としては一皮むけて強くなった実感があるから不思議ですね。
このことは、地球の歴史と生物進化の関係を独創的な視点で説いた東工大 丸山 茂徳特命教授の主張を思い出させます。
教授の著書「地球史を読み解く」によると地球には原生代に銀河系の星雲衝突によるスターバースト放射線によって雲に覆われ、太陽光線が遮断されて赤道まで完全に凍りつくという「全球凍結」が2回(22-24億年前と5.5-7.7億年前)おこりました。その極寒環境で既存の生物は絶滅し、火山帯の熱で生き残った生命が突然変異を伴って次世代に繁殖したのですが、この環境変化において細胞は別生物だったミトコンドリアを取り込み、後に哺乳類と腸内細菌がしているような「共生関係」になるという新しい適応方法も生まれて新しい生物が生存したそうです。
そのように、生命というものが外的環境の変化、特に危機的な激変によってダイナミック(動的)に急速に変化するということ、それも、その変化が後世に生き残るという鍵であるという点は歴史(結果論的視点)からは「いつも正しい」わけです。変化して死んだのもいるでしょうが、変化しなかったのは確実に絶滅したわけですから、「適応力のあること」こそが進化、成長、繁栄への一里塚(必要条件)であることは間違いないと思います。この「外的環境の、しかもとりわけシビアで危機的な変化こそが生物を強くして進化させる」というテーゼがどういうメカニズムで発生するのかは丸山教授の本でも他の書籍でもわかりませんでした。
しかし、そうではあっても、ということは、重要な結論を導くのです。結果論的視点ではない「現在(now)」においてAかBかを選択しなくてはいけない場合、「適応力のないほうは捨てろ」という結論です。どんなにいま現在、盤石で強く、永続的、魅力的に見えようとです。人、会社、大学、役所、国、経営戦略、すべてにおいてと考えたほうがよい。僕は若者に「若いときの苦労は買ってでもしろ」「選択肢があれば嫌な方を選べ」と教えるのはそのためです。適応力はそうやって訓練できるからです。国だってそうだ。三方敵であるスイスに住んでその強さを知ったし、日本国の歴史だって中国、韓半島の情勢変化に揺動されておきた事件がたくさんある。両国とも事態に適応する力で征服されずに生き延びた歴史をもっています。
しかしもっと身近な例で、皆さんが学校、就職先、恋人、結婚相手、社員を選ぶとき、投資する株、人事評価、経営者にとって経営戦略を策定するとき、もっというなら皆さんは毎日何らかの小さな選択をしていますが、そこでもです。人生はその積み重ねだからこのテーゼを常に頭の片隅に置いた方が良いと僕は思っています。
企業に当てはめてみましょう。企業というのは生物と似ていて、ダイナミックな外的環境変化に適応し変化していかないと死を迎えます。倒産するか吸収合併されるということです。後者の場合、社名やブランド名は残ってもそれは外部に見せるだけの抜け殻で、内臓は捕食者に食い尽くされています。日本のお家芸だった半導体や家電産業は好例でしょう。気づかぬうちにスターバースト放射線が放射され、全球凍結があったのです。その極寒の環境のなかで、死滅したと思われた英国の家電業界からサイクロン式掃除機のダイソン社が、アメリカからは「ルンバ」のiRobot社が出現しました。日本の家電メーカーが思いもよらぬ新生物の登場です。僕はルンバを初めて見たとき、カンブリア紀に我が世を謳歌した古生物さながらに見えました。しかし、仮に100年後にルンバやサイクロンしか残らなかったとするならば、後世人類の目には、我々の使ってきた日立や東芝の「電気掃除機」が奇態なカンブリア紀の生物に写るでしょう。
ルンバはロボット、AIという進化した脳が掃除機という旧世代生物に寄生してできた新生物です。これが「細胞は別生物だったミトコンドリアを取り込み、哺乳類は腸内細菌と共生関係になる」という適応です。我々の脳と腸はもともと別生物だったそうで、企業でいうとM&Aで合併した会社として適応・進化して地球の支配者になったということです。このことは、「既得権益を守ってぬるま湯に安住」し「武士は食わねど高楊枝」を決め込み、「人材の多様化を図らず純血主義に固執」する企業は、やがて全滅すると考えるに足る理由です。僕がそう思うからではなく、結果論として、生物進化と企業盛衰は似た現象であり、メカニズムはどちらもわからないが、結果論的視点に拘泥するのは科学的姿勢でないと批判するよりもそれを信じてしまって行動したほうが、学者ではない僕たちには実利的な生き方ではないか、ということです。
僕ら昭和世代は高度成長期の誇りをもって生きてきましたが、世界の産業界のダイナミックな変化と新生物のたびかさなる出現を見るにつけ、あの繁栄はカンブリア大爆発の類だったのかもしれないと思うのです。
アノマロカリス、ハルキゲニア、オパビニア・・・
まずいまずい、これって意外に俺なのかもしれない・・・・
始祖ではあるけれど、自分は生き残らないんだろうな・・・・
昭和の成功体験にすがればすがるほど、企業も国もつぶれるでしょう。そう確信してます。僕はサラリーマン時代の(昭和の)成功体験は全部捨てました。それがソナーの真骨頂で、そう考えると去年の苦労もストレスも我が社を適応させて生存能力を高めたのかなと手前味噌に考えております。
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「バカの壁」の壁
2018 JUL 16 17:17:33 pm by 東 賢太郎
だいぶ前に「バカの壁」という養老孟司さんの本が評判になって、その題が流行語大賞か何かになった。そういえばあのあたりから「バカ」か「東大」をタイトルにつけた本が頻出し始めたように思うが、昨今大流行の「ネコ」本のはしりみたいなものだったのだろう。
人には無意識に考えるのをやめている境界線があって、会話してもそこで思考停止してしまう、それがバカの壁だという趣旨だった。「人は脳が受け入れることしか理解できない」というくだりで「当たり前だろ」と思ってしまい集中力が切れたが、「そうだろ?だからお前はバカなんだ」と諭されている気分になった。
それを言われるならごもっともで、僕などバカの壁の四面楚歌状態、大バカ者の標本である。興味のないことは考えないどころか、知ろうとも思わないからだ。反対に、自分の関心事がうまく伝わらない相手にはこっちの壁のせいで理解が及ばないので、そういう「合わない人」と話すと完全にすれちがってお互いに不幸な5分が終る。
しかしそれがいけないかというと、そうも思わない。養老さんの言う通り「人は脳が受け入れることしか理解できない」のであって、脳は可変的なのかもしれないが「宇宙の果ては137億光年先です」ときいても学者以外の人は「でっ?」と思考停止するだけだろう。すると世界人口70億人のほとんどをバカと呼ぶことになるが、呼ぶ方がバカだよねという話にもなる。医学部(理Ⅲ)の養老さんをバカ呼ばわりする蛮勇を僕は持ち合わせないが、あの本は医学書ではなく人生訓のようなもので、そうであるならば壁を撤回する労力と時間があったらそういう人とは付き合わない方が効率的ではないだろうか?
しかしあの本は大衆に読まれた。中味なんか理解しなくても題名に使い道があったのだ。議論の場で相手をいじめるキーワードとして「これぞバカの壁ですね」とやると、そこに居る者が全員バカである限りにおいては、東大の解剖学者のお墨付きを得てトドメを刺せるからだ(先に言った方が勝ちだというあまりにおバカな戦いであるが)。そういうものが流行語大賞になるのである。ちなみに何年か前にピケティというフランスの左系の学者をそれに仕立てようという稚拙な試みがあって、こっちはブログで思い切りバカにしたがアッという間に消えてしまった。ネコ本だったのだ。
東大生が優秀という思い込みも「壁」であって、試験で点を取るための諸々以外に全員が優秀という事柄は現役東大生もおそらく思い浮かばないだろう。読んでいる東大生諸君に告げるが、そこを卒業しただけで人生の勝ち組になれる保証はない。「東大生が選んだすごい本」の1位というので何かと思ったら漱石の「こころ」だ。どこの大学生が選んでもおかしくないし、もし10位だったら漱石の価値が下がるんだろうか?昔よく聞いた「全米で大ヒット」と同類のセールストークであり、そんなものはなかったし、おおむね言ってる人が米国人でも米国に住んだことがあるわけでもないのである。
仕事上いろんな人とお付き合いしているが、「バカの壁」だらけの脳の持ち主である僕が着想した仕事の構想というものは東大卒みたいなタイプには分かりにくいらしいことは前々から気がついていることだ。ちょっとややこしく表現すれば僕は常に帰納法的であり、彼らは常に演繹法的なのだ。ビジネスはデータが出そろって確信が得られてから始めても遅いから、その確信はほぼ確実に裏目に出て失敗する。帰納法だって失敗はするが、こっちは成功することもあって、そのリスクを補完するために資本というものがあるのだ。何かを創造して会社を前進させるのに僕は常に内側の壁に直面している。
誰もチャンスの本質とリスク・リターンを分かってくれないとなると構想を自作自演する羽目になるが、それには健康な体と精神と強い心のエネルギーがいる。まあ要するに、とても疲れるのだ。困ったことに僕は実務家にはあまり向いておらず、実行部隊としての有能なプラクティショナー(practitioner)がどうしても必要である。今回は年齢的に最後のトライアルであり、失敗はしたくない。だからプラクティショナーをいつも探しているが、それで有能な人に僕の構想が腑に落ちるかどうかという点が最大の関門なのだ。
最近、デジタル脳一点張りでない人のほうが適役かもしれず、となると東大にはあまりいない女性の方がいいかもしれないと思うようになった。今までは女性というと回路以前にケミストリー(chemistory、相性)の問題があって、そういう物事について僕と合う女性となるととってもナローパス(narrow path)であって、話して楽しいと思った記憶もほぼないのだからかなり革命的なことだ。この仕事は男、というバカの壁を突破したのかもしれない。
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あなた変な人ですね
2018 FEB 10 1:01:06 am by 東 賢太郎
クラシック音楽ファンが働く業界ランキングは知らないが、証券業は最下位に近い方であることは間違いないだろう。企業オーケストラはメーカーに多いが商社にもあり、金融だと銀行にもある。しかし証券会社のはきいたことがない。僕のいた会社を思い浮かべても、100年たって富士山が噴火して消えていようと人工知能の総理大臣が誕生していようと、あそこに交響楽団が設立されているとだけは思えない。楽器演奏はおろか、本格的にクラシック好きという証券マンに出会った経験もない。40年近く業界にいるのだから恐るべきことだ。
忙しくて無理というのもあるだろうが、もともと静かに交響曲を聴いたり幼少から楽器を習って学生オケに入ったりという家庭環境の人は証券界のような粗暴な世界には縁遠いのだ。日本だけかと思ったが、米国でもモルガン・スタンレーやゴールドマン・サックスにオーケストラがあるとは聞かないから国際的にそうかもしれない。たしかに、世界の証券マンを見わたしても、バックオフィスはともかくフロント部門には強欲、野獣系が多く、高学歴ではあってもインテリヤクザの観がある。
お前もそうだといわれそうだがそうではない。もともとピアノを弾いたり交響曲をじっと聴いたり系の人間であって、ただ尋常でなく株が好きだ。これは星が好きなのと同系統の趣味で、お買い得の株を探すのが飯より好きである(だからソナー探知機の社名にした)。そこにお金が落ちているのにどうして拾わないんですか?あなた変な人ですねと他人を説得することに情熱が入ってしまう。別にそんなことが生き甲斐でも得意技でもないが、本能、本性なのだからそれで飯が食えるんなら楽でいいというのが僕のようなクラシック好きが証券界に棲息している唯一の理由だ。
一方、証券界に野球好きは多い。きのうは弁護士先生がやはりそうとわかり、都大会ベスト8で京華に負けましてなどときくと神々しく見えてくる。こっちはたいした戦績もないが、わかってくれるかなと話すとわかってくれる。これはキャッチボールしてちゃんと胸元にバシッと速球が返ってくるあの清冽な折り目正しさを伴った感触であって、こう書いてもわかる人しか全然わからないだろうが、わからない人や女子供に話しても「でも負けたんでしょ」で終わるあの馬鹿らしい淋しさの対極なのだ。無理に「へ~すごいですね」と確実に何もわかってないのに言われるとすきま風は倍加するのであって、先生との会話はまさしく一服の清涼剤であった。
硬式野球経験者でクラシック好きとなるとどうかというとやっぱり珍種であることは確実と思われる。野球好きからもクラシック好きからも証券インテリヤクザからも、いったん仲間かなと期待されるだけにそれがかえってあだとなり、えっそんなのも好きなの?あなた変な人ですねと引かれてしまうのだ。だから友達はそのどれでもない人しかいないと言って過言でない。彼らは元から別世界の人としてつきあってくれるし、こちらも無用にそのとんがった所を見せずに平穏につきあえるからだ。
要は「3種混合」であって自分でもそのどれがホンモノかよくわからないというコンプレックスな人間ということになる。既製品の鋳型にはまりようがないから日本で生きにくかったのはそれもあるかもしれない。あえて、どの同種と話すと楽しいかというと、それはもう圧倒的に野球ということがこのところの一連の経験で自覚した。僕は音楽家でも証券マンでもなく、野球人間オズマだったのだ。しかし、ないものねだりだが、色覚さえ普通なら絶対に宇宙物理をしたかった。
ディールの追い込みで3連休など存在しないが、気持ち的には小休止してマサチューセッツ工科大学物理学教授、マックス・テグマーク氏の著書「数学的な宇宙」(究極の実在の姿を求めて)にとりかかることにした。氏は51歳と若いが数学的宇宙仮説の提唱者として知られ、200以上の論文・著作を持ち、その内の、9つは500回以上引用されている傑物である。宇宙のことは誰もわからない。物理学といって哲学に思えるものもある。であれば、おそらく人間の知るワールドで万物の説明言語として最も解明力のあると思われる数学に頼ってみるのが筋じゃないかと素人なりに思うのだ。
中村先生の紫色LEDとレーザーをわかるのに高校の物理の教科書を読んでいるレベルだ、この本が平明に書かれているとはいえわかるとは思えないが、本能的に引きつけられるものがあるから仕方ない。毎日こういうことをする人生も楽しかったろうと思うし、こうして空の彼方を考えているとヘンツェの交響曲が聞こえてきて、やがて星の彼方に父はいるというシラーの詩から第九交響曲が聞こえてきたりする。そうして音楽愛好家の自分がたちあらわれてきて、ますます人間とは何かがわからなくなるのだ。
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座右の書と宇宙の関係
2017 DEC 10 21:21:06 pm by 東 賢太郎
学習塾の広告で「今まで算数を学んできた中で、実生活の中で算数の考え方が 活かされて感動したり、面白いと感じた出来事について簡潔に説明しなさい」(駒場東邦中 2017年 算数)とあって、人生その連続だった僕としてすばらしい問題だと思った。ところが「簡潔に説明しなさい」となると例が出てこない。
似た例が「心に残った本」「座右の書」だ。きかれてもない。同じ本を2度読むのはブログにする時ぐらいだし小説は読まないし、3時間~3日で読んで3,4割もわかったら終わりで、わからん本=いらない本が僕の読書だ。本屋で手に取っても目次だけでほぼ趣旨が見えて終わるのが半分。無理と思ったら買う。
強いていえば先日のフランス学序説などが近いのだろうが、心というより記憶に残った本で座右ということはない。頭の回路形成に影響はあったが算数がそうだったのと似ているのであって、僕は算数の教科書を座右に置いて生きているわけではない。何か肝に銘じたりすると変化に対応できないからむしろしない。
最近、知りたいし、ちゃんとわかりたいというのは宇宙物理で、時間ができたら勉強したい。これは読書と別ものだ。ダークマターという謎の物質が宇宙には満ちていて、信じ難いことだが計算量より多く存在し、銀河の周囲にはダークマターハローとよばれる、銀河の10倍ほども広がる巨大な構造がある。
ハローは小さいものから形成され、合体を繰り返して大きく成長し、その内部で銀河や銀河団が作られていく。スーパーコンピュータ「京」や国立天文台の「アテルイ」の強力な計算パワーを活かして、宇宙初期から現在にいたる約5500億個ものダークマター粒子の重力進化を計算したものがこれだ。
下が131億年かけてできた銀河が密集して分布する壁のような構造(グレートウォール)だ(小さな光の点が銀河系のサイズ)。
皆さん、こんなものを連想しないだろうか?
これはラットの脳内のニューロンネットワークだ。脳が電気信号を伝える神経の超微細な構造と、銀河が密集して分布する超巨大な構造。偶然似たかもしれないが、世界が仮想現実だとする「シミュレーション仮説」を想起しないでもない(シミュレーション仮説 – Wikipedia)。
この仮説はオックスフォード大学の理論物理学者が論破したとされるが数学で解かれなくてはいけないので正確に理解できそうにない。しかし物理法則を何者かがプログラムしていようがいまいが、脳内ミクロ構造が分子レベルの何らかの法則で何億年もかけて組成されたた結果とすると、宇宙の大規模構造はそれを部分とした全体であって自己相似関係にあるというフラクタル幾何現象(フラクタル – Wikipedia)か。証明できないだろうが、もしそうなら超大規模構造である。
数学や座右の書はおそらく固有のニューロンネットワークを形成するだろうと考えていて、とするとそれは脳の大規模構造の一部だ。構造を例に例えなさいと言われても困るのであって、僕は駒場東邦中学に不合格になるだろう。「座右の書」がないのも「簡潔に説明しなさい」となると出てこないのもそのことの婉曲な証明ではないかと考えている。
(ご参考)
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香りの効能
2017 SEP 23 1:01:07 am by 東 賢太郎
蝉(セミ)がなきやんで久しい。蝉は地上に数日しか生きられなくて寂しい一生だが、動物というのはすべからく食うことと生殖することだけのために生きている。もっとつきつめれば食うのも生殖のためであって、我々は遺伝子をのこすための乗り物(ヴィークル)にすぎないという説もある(「利己的な遺伝子 」リチャード・ドーキンス著、紀伊國屋書店) 。
テレビのバラエティーや昼メロがグルメと温泉とセックスばかりなのも、芸能界はもとより政界までシモネタ・スキャンダルまみれというのも、皆さんドーキンス先生の発見した「原理」にのっとって日々お勤めに励まれている結果だ。では子孫を残した人は余生で何のやることがあるんだろう。食って、寝て、死ぬだけなのだろうか。
そう思うと、音楽というのはセックスにも食うことにも貢献がなく、だから動物は聴かないし生物学的には無益なシロモノだ。ロックは女性にもてるかもしれないがクラシックをきくなんぞは色恋と無縁であって、それに50年以上もかまけてしまった僕は動物としては失格なのだろうか。
しかしこうは考えられないか。音楽鑑賞は生存の役には立たないが、落ち込んだり、道を誤ったり、自殺してしまうというようなことへのガードレールの役割を果たしていると。それならドーキンスの原理からは逸脱しない。死んでしまえば遺伝子の目的は成就しないからだ。
例えばベートーベンだ。彼は子孫を残さなかったが、自殺を考えながらも音楽を書くことで元気になって戻ってきた。その複雑な精神の行路を明快に音でなぞってシミュレーションできる曲がある。交響曲第3番「エロイカ」だ。そうすると聴く者も元気に戻れる。僕自身が苦しかった時にそれで復活した経験者だ。
先日のこと、統合医療において僕の主治医である森嶋先生にバイオレゾナンス診療で1年ぶりに全身を診ていただいた。「内臓も頭も問題なし、ストレスもないですね」で安心したがちょっとひっかかる。「先生、いま仕事でストレスの真っ只中ですが」「いえ、数値は出てません、きっと音楽が効いてますね(笑)」。
たしかに、疲れると甘味を欲するように、ストレスがかかると音楽が欲しくなるから精神的な「薬効」があるのかもしれない。米国医学界は制癌剤治療に疑問を呈し論文も出なくなっているそうで、癌患者への対処法が向かっているのは東洋医学やヒーリングなど理論より治験が先行した分野も抱合する統合医療とのことだ。その一環で音楽を取り入れる療法は真剣に研究されている。
ストレスとは体を一定の状態に保つ恒常性(ホメオスタシス)が崩れた状態から回復する際の様々な反応で、なくてもいけないが過剰だと生体機能が狂う。だから過剰と感じた時に精神の緊張を緩和してくれるなら音楽は薬効があることになるし、音楽がもたらす心理作用は認知症などに効能があるとする論文も出てきている。その観点から「エロイカ」の薬効を原子論的に調べたら何か結論が得られるかもしれないと思うと関心が高まる。
先生によるとストレスはもうひとつ戦う方法があるという。香りだ。そこでこういうものを紹介していただいた。「パ ホーザ」(Pau Rosa)というアマゾンの香木エキスだ。
この香りにはひとめぼれで、す~っとリラックスできる。ローズウッドの一種だから日本だと紫檀(しだん)だろうか、その中でも特別に品質の高い樹木から採取したオイルであり、入手が難しいらしい。
アロマオイルは詳しくないが、お香を焚くのに一時こったことがあり香りの効果は感じている。これは過去嗅いだことのないもので、安眠など効果があるのではないかと思い、いただいて帰った。
音や景色は「美しい」と表現できるが、香りや味はそうはいわない。この辺が五感の微妙なところだ。我々が食うことと生殖することだけのために生きているならば、食うことである味は栄養価や毒素を見分ける即物的なものだ。かたや音や景色は生命や生殖にかかわるものでなく、美しいとは形而上学的な表現だろう。動物には無縁の感覚である。
そう考えると香りは曖昧な所に位置するように思う。フェロモンは生殖に関わるし、一方で栄養価や毒素を見分けるためにも活躍する。犬は視覚より嗅覚が頼りだ。我々が魚だったことは胎内の羊水の中でそこからの進化を猛速度で経過することからわかるが、以下は私見になるが、海中に溶け込んだ化学物質の分子を感知するのが味覚と嗅覚で、光や水分子の振動(波動)を感知するのが視覚と聴覚に進化したようにも思う。
つまり物質的な「味、におい」(グループ①)と波動的な「音、視覚」(グループ②)に大別されるのであって、やはり物質的な触覚を前者に加えると、我々の五感は「食うことと生殖すること」に直接関わる①、それを助けたり身を守ったりするセンサーである②によって成立する。宗教は壮大な教会や寺院、輝く祭壇、仏像やステンドグラス等の視覚にミサ曲、讃美歌、お経などの聴覚を交え②に訴えるが、センサーだけでは訴求力が弱かったのだろう、より本能的な領域である①にもちゃんとお香を焚いたりお神酒を飲ませたりで触れてくる。エロイカを聴くこととパ ホーザを嗅ぐこととはそれと同様に①②の別系統に属するわけで、ストレスを解毒する効能はそれで倍加するのかもしれないと感じた。
自殺はもとよりストレスフルな時間が長引けばホメオスタシスが変調をきたし病気になりやすく、ひいては健康寿命にも影響してくる。音や香りは小さなことのように思われるだろうが、我々が世界や宇宙を知覚したり理解したりできるのは五感の情報収集のおかげであって、宇宙と我々との接点はその五つの感覚しかない。それが日々の喜怒哀楽を生みだしているのであって、その積み重ねが人生というものとなり、死ぬときに良い一生だったかどうかを振り返ることになる。そう思えば、その5分の2である音と香りを自在に支配すれば人生の幸福度を増すことができるだろうし、ガードレールにもなるのではないだろうか。
ここまで書いてきて、逆に、我々人間の認識している人生など随分と一面的なものだということもわかってくる。蝉は寂しい一生を送っているのではないかもしれないということだ。香りひとつがいろいろなことを教えてくれる。
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