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カテゴリー: ______音楽と自分

クラシック徒然草《音大卒は武器になるか》

2017 AUG 29 20:20:05 pm by 東 賢太郎

『「音大卒」は武器になる』(大内孝夫著、武蔵野音楽大学協力)という本があって、なんの武器かと思ったら「音大生こそ就職を目指せ!」とある。その通りで、法学部を出てもサラリーマンになる僕のような者も多いのだから音大卒が就職しても何らおかしくない。米国のMBAコースには楽器の名人がいたし、スイスの社員にはジュリアードのオーボエがいて仕事も優秀だった。

企業の採用面接で「あなたの長所は何ですか?」「それが当社にどう貢献しますか?」と質問して、傾向と対策で覚えたような回答だと「十把一絡げ」のお仲間だ。「22年の人生経験で飯が食えると思ってませんが」と断ったうえで「私はコンチェルトが弾けます」でいいんじゃないか?

ブランド大学で全優の子と母子家庭でバイト先のラーメン屋を満員にした子が最終面接で残って、後者を採用した僕のような面接官は少ないかもしれないが、何かを深くやった人は語れるものを持っている。もっと聞いてみようと思ってもらえるのではないか。

逆に音大出ではない(そういう学校がなかった昔まで入れてだが)、あるいは音大も行ったがそれ以外の教育も受けた音楽家のケースを見てみたい。以下のように少なからずいる。「親に言われていやいやで中退」がほとんどだが、博士号まで取ったカール・ベームやゾルタン・コダーイもいる。

 

A-1群

テレマン (ライプツィヒ大学)、ヘンデル (ハレ大学)、レオポルド・モーツァルト (ザルツブルク大学)、チャイコフスキー (ザンクトペテルブルク大学)、ストラヴィンスキー (ザンクトペテルブルク大学)、シベリウス (ヘルシンキ大学)、シューマン (ライプツィヒ大学・ ハイデルベルク大学)、シャブリエ(リセ・インペリアル)、ショーソン(不明)

A-2群

ハンス・フォン・ビューロー(ライプツィヒ大学)、カール・ベーム(グラーツ大学・博士号)、朝比奈隆(京都大学)、フリッツ・ライナー(不明)

B-1群

グルック(プラハ大学・哲学)、コダーイ(ブダペスト大学・哲学、言語学、博士号)、ベルリオーズ(パリの医科大学)、ボロディン(サンクト・ペテルブルグ大学医学部、首席)、リムスキーコルサコフ(海軍兵学校)、バラキレフ(カザン大学・数学)、ブーレーズ(リヨン大学・数学)、ヴォーン・ウィリアムズ(ケンブリッジ大学文学)、冨田勲(慶應義塾大学・文学)、柴田南雄(東京大学・理学部)、湯浅 譲二(慶應義塾大学・医学)、諸井三郎(東京大学・文学)、三善晃(東京大学・仏文)

B-2群

ニコライ・マルコ(ペテルブルク大学・哲学、歴史、語学)、アンセルメ(ソルボンヌ大学、パリ大学・数学)、近衛秀麿(東京帝国大学・文学)

 

A群は法学部、B群はそれ以外であり、1は作曲家、2は演奏家である。これが全員ではないが著名な人はほぼ調べた。「作曲家」が多く、学部は「法学部」(親から見てつぶしがきくからか)が多い。これだけいやいや法学の道に入ってやっぱり音楽だと頓挫した人がいると、はるかに低劣な次元でやっぱりと遊んでしまった自分がちょっとだけ救われる気もするが、やっぱり大きな勘違いだ。

演奏家はすべて指揮者だ。声楽家、器楽奏者がいないのは①早期教育しかない(弟子入りしてしまう)②神童で教育は必要なかった③親の経済状態が許さなかった、のどれかだろう。①はもっともなのだが、リストの娘婿で全欧で1,2を争うピアノの名手だったハンス・フォン・ビューローのライプツィヒ大学法学部は驚異で、しかも彼はピアノより指揮者で名を成した。数学者か指揮者か迷ったアンセルメ、優等で卒業して高級官僚になったチャイコフスキーはいやいや組ではない。首席卒業だった化学者ボロディンには作曲はサイド・ジョブだった。

レオポルド・モーツァルト 。鳶が鷹を生んだのではなく、これだけインテリの親父が全面家庭教師になって大天才が生まれた。共同事業の「アマデウス・プロジェクト」だったようにも見えてくる。作曲は理系学問と親和性があるように見えるし、作曲と指揮は晩成の要素もあるとも思う。とするとケッヘル100番あたりから晩年とクオリティがあまり変わらないアマデウスが群を抜いた真の天才とわかるし、それでも6才で指揮の天才ではなかったことも納得だ。

僕は音大生がうらやましい、こんなすごい人たちと同じことを深堀りしてきたのだから。時間があったら今からでも入りたいぐらいだ。音楽を生むのは高度に知的な作業であり、人間観察力も協調性も必須であって、それでいて健全な自己顕示欲とアピール力も必要である。満場の人前での演奏は度胸だっているではないか。そんな高度なものを深掘りした経験はガリ勉優等生など遠く及ぶものではない、音大の皆さんは大いに誇って当たり前なのである。

思えば僕は大学時代にいまの音楽知識のほとんどを覚えたし、四六時中聴いてもいたから、試験前しか勉強しなかった法律との時間配分では音大にいたようなものだった。それを見ていた母はのちに家内に、あんなに好きと思わなかった、音大に行かせた方が良かったかしらと言ったらしい(行かなくてよかったのは本人がよく知っているが)。

つまり僕は音大生が証券マンになったようなもので、親に仕切られていやいや法学部に入ったロベルト・シューマンをその一点だけにおいては同情もし、最後はヴィークの弟子になって親を振り切った勇気を尊敬もしている人間だ。音大から今の道に進んでも同じほどやった自信はあるし、その場合、ピアノまで弾けていたわけだから損したなあと思わないでもない。音大生のみなさん、自信を持って人生切り開いてください。

 

僕の人生哲学(イギリス経験論)の起源

 

評価をダウンできる5つの法則

 

 

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音楽にはツボがある

2017 AUG 27 13:13:45 pm by 東 賢太郎

音楽を聴いて感動するとはどういうことか?これをもう50年近く考えてきたように思う。空気振動という無機質なものから有機的なものを感じるのは不思議で仕方ない。それをいうなら味だって舌の上の無機質な化学現象だ、同じではないかと思われるかもしれないが、味は食材を選別する生きるための知覚だ。動物だって感じてる。しかし音楽は生きるためには不要で、人間だけが知覚できるのだ。

感動は「こころ」で生じる。というより、脳のどこで生じたかわからないので「こころ」という場所をつくって納得している。それは自分自身の有様だから見えない。自分とは鏡に映った顔のことであって、世界でただ一人、自分の顔を直接見ることができない人間は自分なのだ。夏目漱石が円覚寺に止宿して管長釈宗演老師に与えられた公案「父母未生以前本来の面目」を雑誌で読んではたと膝を打ったのは、そうか、こころは鏡に映らないが、自分が空っぽになれば見えるかもしれないと思ったからだ。

ところが困ったことに、空になるには僕の場合「音楽に入ってしまう」のがベストの方法なのだ。なんのことない、音楽に響く自分のこころの有様は音楽を聴くとよくわかるぞというどうどうめぐりになってしまうのである。そこで、先祖から授かった心の空間には生まれながらに響きやすい「ある特定の波長」があり、それに共振する音楽だけが深く入ってくる、どうもそう考えるしかなさそうだと思い至った。

どうしてそれがプリセットされてるのか、生存に関わる何のためにか、それはわからない。神はサイコロを振らない(アインシュタイン)なら何か意味があるかもしれないが、未だ人のこころの深奥の闇だ。闇にサーチライトをあてて何も見えないなら、響いてくる空気振動のほうから攻めてみようというのは科学的な態度ではないかと考える。しかも、こころを共振させるエネルギーを与える側は空気分子、つまり即物的な物体だから分析可能である。

高校1年のときそこまで考えたわけではないが、1年分の小遣いほど高かった「春の祭典」のスコアを神保町の輸入書籍店で買った。そして、穴のあくほど、興味ある部分を「調査」した。音楽学者のするアナリーゼの真似事ではない。あれは誰の何の役に立つのかいまだにわからないからまったく興味がない。僕のは物理学者が物質を原子に解体して原子核、電子という物質の最小単位を見つけ、もっと解体できるのではと疑ってさらに小さな単位である陽子と中性子を発見し、陽子・中性子はもっと分解できないかと調べるのによほど近い。

習ったこともないピアノに触りだしたはそこからだ。理由はただ一つ、ラボラトリーの実験器具として必要だったからだ。たとえば「何だこの怪しい音は?」と思った「春の祭典」第2部の冒頭はこころが共振するのを感知した「ツボ」であった。オーケストラスコアは複雑でわからなかったが、ピアノに落とすとこれだけのことだった。なんと便利だろう!

この「ツボ」が自分のこころを掻き立てるのは強力なレシピである「複調」というものの作用あるでことを知った。しかし両親がこんな音楽を聴いていたことはなく、複調を楽しんでいた形跡は皆無だ。ということは、僕の共振は、まさしく両親が生まれる前に由来があるということになるではないか。ここで禅僧の説く「父母未生以前本来の面目」が出てくるのだ。

そして、これが大事なことだが、前回ベルクのソナタの稿で書いた演奏者との超認識的な共感はほとんどが「こころ」にプリセットされた「ツボ」でおこるのである。逆に言うなら、ツボで何も感じてない演奏家は別の惑星の人であって、時間もお金も費消するクラシック音楽でそういう人の演奏に付き合うのはコストパフォーマンスが悪いという結論になる。僕の好みというものは、意識下でのことではあるが、万事そういうプロセスを経てできているということがだんだんわかってきた。深奥の闇にサーチライトがあたってきたのだ。

それなしにどのレコードがいいかと議論するのも時間の費消だ。カネはかからないから暇な人だけに許される大衆娯楽である。皆さん「自動車」といって、唯一絶対の自動車はないから知っているのは実はトヨタでありベンツなのだ。同様に皆さんの「第九」とはカラヤンなりフルトヴェングラーのものだ。ベンツしか知らない人にトヨタの良さを説いても無駄なように、第九はフルトヴェングラーと思い込んでいる人にカラヤンはいいよと言っても難しいだろう。つまり方法論なき批評は白猫、黒猫どっちが好きかと同じであって、大の男がまじめにやるものとは思わない。

具体的にお示しする。第2部冒頭の譜面をどう音化するかはその人の問題だ。楽譜通り淡々とやってもいいが、この部分になみなみならぬ関心と感応度を示し、「こころがふるえている」という特別なメッセージをこめてくる人だっている。僕はピエール・ブーレーズがここの裏でひっそりと鳴るグラン・カッサの皮の張りを緩め、ティンパニとは明確に区別のつくボワンとした音色でやや強めにドロドロドロ・・・とやる、それを聴いて背筋に電流が走ったのを忘れない。

音でお聴きいただきたい、これは高1の時に買って衝撃を受けたそのLPからとった。この後にカセット、米国盤LP、CD2種、SACDなど出たものは片っ端から比べたが、このLPを上回るものはない。譜面の部分は16分53秒からだ。

ブーレーズのこころがこの複調部分で振動し、それを伝えるべくオケの音を操作し、その物理的波長が空であった僕のこころに入り、その空間の固有の波長に共振した、だから僕は電流を感じた、という風に理解できる。

それは僕も彼も、共振する波長をこころの少なくとも一部分に共有していることの証左だろうという推論が合理的に成立するのであって、それだけで彼の指揮したもの、作曲したものは全部聴いてみようというモチベーションに発展する。結果的にそれは正しくて、ブーレーズの指揮したバルトーク、ラヴェル、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクによって僕はさらなる未知の領域へきわめて短時間のうちに一気に辿り着くことができた。僕にとってブーレーズは数学で満点が取れるようにしてくれた駿台の根岸先生みたいなものだ。この春の祭典が嫌いだ、カラヤンの方が好きだ(何らかの確たる理由で)という方もいるだろう。それは先祖伝来のこころの波長が違うのだから必然のことで、そういう方はカラヤンのレコードをどんどん聞けばいいだけだ。

ブラームスの第2交響曲、シューマンのライン交響曲、ラヴェルのダフニスとクロエ、シューマンのピアノ協奏曲など、ブログで演奏につきあれこれ書いた曲はラボラトリーでさんざんピアノ実験済みでチェックポイントが確立していて、例えばブラ2の最後でアッチェレランドする指揮者はブログで全員ばっさり切り捨てている。曲の波長を感知する重要箇所であり、そこをそうしてしまう人の波長には微塵も共振しないからだ。ちなみに、されると一日不愉快だから、ブラ2のライブは絶対にいかない。

こころの波長は十人十色だ、僕の好き嫌いは無視していただきたい。お示ししたいのは結論ではない、プロセスだ。こう鑑賞していくとクラシックは簡単ですよというケーススタディだ。「誰の第九がいいですか?」の類がいただく質問の最上位だ。「それはあなたしか知りません」がお答えで逆に「第九はなぜ好きですか?」「どこがジーンときますか?」と尋ねる。「あそこです」。これが返ってくれば完璧だ。僕になどきかず、ご自分で探すことができる。

 

メシアン「8つの前奏曲」と「おお、聖なる饗宴よ」

ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

クラシック徒然草-モーツァルトは怖い-

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アルバン・ベルク「ピアノ・ソナタ 作品 1」

2017 AUG 26 2:02:21 am by 東 賢太郎

暇があればyoutubeで名前も知らない若い人のピアノ演奏を聴いている。年寄りや大家の録音はいくらもある。しかしそれは生身の演奏ではない「音の缶詰」であって、そのことを忘れて没入すればおいしく頂けるものの、微細な部分まで記憶するほど聴いてしまえばやはり缶詰なんだという現実に戻ることになる。

といって、ライブ演奏の「一回性」のみを重視する聴き手でも僕はない。一回の「あたり」には少なくとも十回の「はずれ」が必要で、そんな暇も根性もない。一回だけは新鮮だが繰り返すと飽きる演奏家はたくさん存在していて、それを言葉にすると「深みがない」とでもなるんだろうが、ではその深みの実体は何かを突き詰めた論評は見たことがない。「定義できないもの」が欠けている、というのは空虚な感想でしかない。

本稿はそのような言葉を使わず、主観ではあるが何を良い演奏と考えているかお示ししようというものである。それが一回性でも百回性でも構わないし、一度惚れた人がまったく合わなくなった例も多くあるが、人は変わる。音楽とは日々生きている人間の精神、感情を最もピュアに、何物の介在もなく、迫真のメッセージとして心の奥底に届ける唯一のメディアであると思う。だから「良い演奏」「名演」が絶対的価値としてあるわけではなく、演奏家(ひとり)と聴衆(多数)の組み合わせの数だけの価値があるし、時間とともに個々の価値は変わる。

僕にとって好きな演奏家の定義。これを説くには文豪夏目漱石が円覚寺に止宿して管長釈宗演老師に与えられた公案「父母未生以前本来の面目」に触れねばならない。面目とは顔つき、顔かたちだ。両親のまだ生まれる前の、あなたの本来の姿はどのようなものか、という禅における問いである。無限の過去から受け継いで、父母から授かった無量のいのちこそが本来の姿であって、それは座禅を組んで心を空(くう)にしないと知り得ないそうだが、僕は良い音楽は空の心持ちになって聴きたいといつも願っている。

好きな演奏家かどうかは、その空の心持ちに入った時に、その演奏家の心に超認識的な共感をする瞬間があるかどうかに尽きる。接触感と書いてもいい、それは演奏家との間の感性と感性の究極的にデリケートな触れ合いと和合であって、ミケランジェロ作「アダムの創造」(下)の神とアダムの指先が今にも触れようとしている、そこに流れる電流のようなものだ。この電流を感じるなら、その演奏家とは触れ合える何かを僕は共有したと感じることになる。

 

 

なぜ指揮者でないか?彼が音を出していないからだ。彼のコントロール下にはあっても音は奏者のものである。奏者(ひとり)と指揮者と僕(ふたり)がいる関係であり、彼も僕も同じ他人の出す音を聴いているだけだ。いえいえ、本日はベルリンフィルですから私の意図は完璧にリアライズされます、といっても他者介在という絶対的限界の前では説得力はない。百回に一度ぐらい完璧があったとして、そういう偶然が重なって今日は名演でしたというのを重んじるのが一回性の愛好家だが、それにはなりきれない。

僕がトスカニーニを好むのは、あれほどの専制君主であれば限界は最小値になっているだろうと信用する側面が大いにある。奏者のオーディションから音の微細なミクロまでだ。お友達内閣型指揮者は奏者をやる気にさせるプロではあるだろうが、限界突破をあきらめた2位狙いの妥協だ。指揮はマネジメントでもあろうが、他人のマネジメントの苦労を金を払って見てみようとは思わない。

ピアノは「ひとりオーケストラ」ができる楽器であり、ピアニストは訓練さえ積めば自分の肉体を完璧に支配できるだろう。そうなればその音楽は彼、彼女の感情、フィーリングそのもの、父母未生以前本来の面目であり、そこで初めて、その演奏家と超認識的な共感をする条件が整う。トスカニーニの指揮した音楽は、指揮者がピアノを弾いているのに最も近似したものだ。専制君主が是か非かは論点ではなく、近似させるにはそれしかないだろうと思う。

さて、アルバン・ベルクのピアノソナタに移る。この曲ほど「超認識的な共感をする瞬間」を求めるものはない。僕の最も愛好するソナタの一つであり、彼の最も優れた美しい作品のひとつであり、オーパス・ワンでありながら和声音楽の辿り着いた最終地点である。この驚くべき和声への、心の奥底での畏怖や感嘆がない演奏家と共感することは、僕には不可能である。明確にウィーンを感じるブラームス、シェーンベルクの系統に属するが、単一楽章で提示部、展開部、再現部をもちつつも冒頭のこの主題が素材となって統一感が与えられ、しかも主題が変奏されながら時間とともに変容するのはドビッシーをも感知させる。作曲された1907-8年は主題の時間関数的変容をもつ交響詩「海」の2年後だ。主題はいったん上昇してアーチ状の弧を描いて下降し、リタルダンドしてロ短調に落ち着いたように見えるが解決感はない。この主題の性格、そして曲の最後に初めて深い充足感を持ったロ短調の解決を見せている点がトリスタンの末裔であることも示している。まさに音楽史における和声音楽の解決点なのだ。

このソナタをうねるような情感と歌で表現した演奏がイヴォンヌ・ロリオ盤だ。各声部が各々見事にルバートする様、流れるような緩急、バスの効かせ方などウィーンの後期ロマン派を完璧に咀嚼、体感した上にしか築かれようのない表現であり、文化は知性であるとつくづく感服させられる。アンサンブル・オペラかカルテットのようで、和音が一切混濁しない。この曲でこれだけピアノピアノしない有機的なピアノ演奏は聴いたことがなく、何度聴いても琴線に響いてくる。最後のロ短調の悲しさはまさに迫真のものであり、超認識的なフィーリングを共感する瞬間の連続だ。ロリオはメシアンの奥さんでトゥーランガリラ交響曲のピアニストとしてしか認識がなかったが、これを聴くと大変な能力の方と拝察する、一度でいいから実演を聴いてみたかった。

次はまったく知らないお嬢さんだが良い感性をお持ちと思った演奏だ。この曲の展開部は激して ff がうるさかったり、内声部を鳴らし過ぎて和声が濁ったり、リズムやポリフォニーが雑になってつぶれる演奏が大変多い。それを「ピア二スティック」と思わせる誘惑が潜んでいるのはわかるがこのソナタはリストの延長線上にはない。そこを未熟ながら悪くない味で弾いているのがこのNefeli Mousouraだ。ロリオと比較しては気の毒だが後期ロマン派の様式感はまったく欠いており、逆にこんなカラフルなベルクがあっていいのだろうかと思わせるが、むしろそれは個性なのだ(国籍を調べるとギリシャだ)。下品な「ピア二スティック」を回避しつつドビッシーのようなピアノ的ソノリティで和声を感じ切っている。之を好む者しか通じ合えない繊細な神経の切っ先で共感するものを感じた。

最後に、全く対照的にモノクロで、和声の陶酔よりも主題の彫琢と論理構成の解きほぐしに技巧が奉仕している演奏がグールドである。彼はこれをベルク最高の作品として愛奏したが全く同感である。瞑想のように開始して後半で速度を落としpをppで緊張の極点をつくる異例の演奏だ。ピアニスティック志向の人達がffにそれを求める(まったくナンセンスだ)のとは真逆だが、よく聴き込めばピア二スティックという点でも彼らを圧倒している。それをどう使うかが芸術家の格の差ということであり、即物的でロリオとは同じ曲とすら思えないが、僕はこれにいつも悲愴交響曲と同質のエトスを見ている。

 

(こちらもどうぞ)

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

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「さよならモーツァルト君」のプログラム・ノート

2017 AUG 15 23:23:29 pm by 東 賢太郎

去る5月7日、午後2時より豊洲シビックセンターにて行われたライヴ・イマジン祝祭管弦楽団第3回演奏会「さよなら モーツァルト君」のプログラム・ノートを公開させていただきます。あれから3か月あまりたち、当日来場できなかった友人にこれを差し上げてますが、クラシック好きとはいえ自称?でありまじめに読んでるかどうかあやしい。それならもっとお詳しいであろうブログ読者のお目にかけたほうがいいと思った次第です(クリック3回で拡大できます)。

本演奏会は評判が良かったようです。動画会社NEXUSのスタッフ3名が完全収録しておりますのでyoutubeへのアップロードも考えられましたが、奏者全員のご許可は得られなかったということで断念しました。僕のトークとピアノはこれが最初で最後なので動画は保存してもらいます(見ませんが)。

 

 

 

プログラム・ノート没の原稿

ベートーベン ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37

モーツァルトに関わると妙なことが起きる

クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?-

モーツァルトの父親であるということ

モーツァルト「魔笛」断章(第2幕の秘密)

クラシック徒然草―ジュピター第2楽章―

 

 

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シューマン「子供の情景」(カール・フリードベルグの演奏哲学)

2017 JUL 17 23:23:58 pm by 東 賢太郎

大学のクラス会では全員が近況のスピーチをするが、これが大体が名簿順である。今回もそうだった。小学校から思い起こしてもかつてアズマの前だったのは赤松くん、朝比奈くん、赤塚くん、青木くんぐらいで、先生にすぐあてられるから早速に心の準備をするのだが、さすがに大学までそれをやると慣れてきてアドリブが上達したかもしれない。

今回もその場でひらめいた取り留めもないことをしゃべって終わったが、いつもそんなものだから内容は終わるとすぐ忘れてしまう。まして近年は物忘れというかそういう短期記憶の薄弱ぶりは半端でなく、その話題になると俺もだ、いやこっちはそんなもんじゃないぞとそこらじゅうでわけのわからん意地の張り合いをしながら、俺だけじゃなかったとほっとしてみたりもする。

しかし僕の場合、普通は覚えている昔のこと、長期記憶と呼ぶらしいがそっちも意外に消えていることが20代のころからあって、つまりボケてきただけではないと思われる脳みその構造的問題?もあることがわかっている。クラス会というのは僕にとって、消えた記憶を旧友たちに再生してもらう場みたいに思えてきた。えっ、俺がそんなこと言ったの、やったの?がけっこうあって危ない。恥ずかしくもあるが、ある意味新鮮で自分の再発見でもある。

この健忘症は、済んだことでもういらんと踏んだら即座に消して自動的に「いま」にフォーカスが切り替わる、たぶんそういうプログラム、頭の使い方の癖があって、だから周囲に迷惑をかける側面があるがそうでないと僕の脳内ハードディスクの貧弱なメモリー容量では「いま」に続々とのしかかってくる難題に処していくのが難しい。消去した分がそれに対処する短期メモリーに使用されて、だからどんどん捨てる健忘力の裏返しが集中力なんだと都合よく考えている。

ちなみに僕にとってブログは未来への記録であって健忘の補完、その時点で思ったことの備忘録である。記録として精密は期するものの、書いたらもう過去であり頭から消えていく。同様に、昔に社内TVに出た時の画像や大学で講義をした際のVTRなどが本棚のどこかに眠っているはずで、捨てずにとってはあるが一度も見たことがない。自分のレコードは聴かないという音楽家がいるがどうもそっちの部類の人間だ。

仏法の「諸法無我」がピンときたのも、自分も諸行無常の身であって時々刻々変化しているという教えが腑に落ちたからだ。しゃべっている最中だって変化は起きている。だから同じテーマで2回講義したら、論旨と結論は一緒でも語り口や持っていき方は違う。それはその学校の教壇に登って感じるトータルな雰囲気で決まるし、そこの生徒にぴったりな語りに自然となる。そうやってアドリブではあるがだいたいが結果オーライになってきたように思う。

このことはピアニストの話に置き換えるとさらにわかりやすい。例えばいま執心であるピアニストのカール・フリードベルグ(Carl Friedberg、1872-1955) をご紹介したい。彼はクララ・シューマンの弟子でありブラームスの全作品の手ほどきを作曲家から受けている。写真のポスチャーもどこかブラームス似である。シューマン、ブラームス、ショパン、ベートーベンはいずれ劣らぬオーセンティックな名品だが、その演奏家としての哲学がさらに興味深いのだ。彼にジュリアードで習ったBert van der Waal van Dijk の文章から抜粋すると、

how to sing on the piano(ピアノでどう歌うか)が彼の哲学のエッセンスである。打楽器でありヴィヴラートもかからないピアノで「歌う」のは無理だ、奏者の思い込みかウソだろうと一時は信じていたことがある。しかしフリードベルグのジュリアードでの言説で、そうではない、歌うことが可能なのだと知った。

彼は when musical ideas became complete and exciting during a performance, the music should be dominant even if a few notes might go astray. と言っている。要は、「演奏中に音楽を完全にかつ感興をもって感じ取ったなら、技術の正確さよりそっちを大事になさい、2,3の音符が迷子になってもいいよ」だ。ベートーベンと同じことを言っているが「演奏中に」というのが大注目だ。

さらに music is often conceived aesthetically by the composer before being written down(音楽は楽譜に書かれる前に美に関わる感覚的な領域から作曲家の頭に降ってきており)、since some keyboard instruments limit the imagination, one can silently “orchestrate” a composition on a larger scale(鍵盤楽器はどうしても想像力を制限するから、まず心の中でピアノ曲をもっと大きなスケールでオーケストレーションして聴きなさい)と言っている。

この「演奏しながら心に降ってきたものを弾きなさい」それが「歌う」ことであり本物の音楽になるのだという彼の説く精神の在り方は僕にとっては生き様のようなものであり深く心に刺さってきた。それには楽譜に書いてあるものをエステティック(審美的)に感じ取りなさい、作曲家の心に天からやってきたものは声や弦や管のクオリア(質感)を伴っていたかもしれない、それならその楽器に一旦置き換えて元来の美しさを感じ取りなさい、である。

ピアノという打楽器をガンと打ち鳴らす人が多いから女性に作品を弾いてほしくないと言ったブラームスの感性もそうであったし、クララ・シューマンはその意味では女性奏者ではなかった。そういうmusical ideas が、演奏中にcomplete したり exciting になったりする。フリードベルグはそれが「歌」になり、時としてドラムよりも打楽器的になるピアノを歌わせる方法だと言っているのである。

即興というのは、これほどまでに、訓練を積んだ人にとってはランダム(出鱈目)ではない、その場で「いま」降ってきて心を共振させる何物かなのである。それは「いま」に精神がフォーカス、集中していないと絶対に聞こえないものであり、僕にとっては、職業体験の中で感じてきたこととシンクロする。音楽でもプレゼンテーションでも愛の語りかけでも、自分を誰かによりよく伝えるということにおいてこれ以上の道はないと確信する。

自分ははからずも証券営業という他人を説得する職業についてしまってそれを自然にやっていたらしい、たまたまそういう頭の使い方の癖があっただけだろうが、話の内容よりも話している最中に心に降ってきたエステティックな感動(自分のサイドで起きたものだが)が、日本人であれ英国人であれドイツ人であれ、相手を揺り動かすのだという、それこそエステティックな驚くべき経験を何度もさせてもらった。

そういうものは、台本からはやってこない。プレゼンでペーパーを棒読みするなど、商売に失敗するためにやるようなものだ。だから音楽でも芝居でもそうだが、出てくる音やセリフは「肉声」にまで高まっていないといけないのだ。台本を読みながら演じる芝居やオペラはないが、ピアノも暗譜で弾かなくてはならないのは道理なのである。

ハンス・フォン・ビューローはリストの娘をもらったピアノの達人だが、記憶力も桁外れでピアノ譜など当然として管弦楽スコアも全部記憶しており、指揮台に立つと楽員にも暗譜で、しかも立ったまま演奏するように強要した。ベートーベンの第九がまだ広く知られていないころ、聴衆にも覚えさせようと全曲をもう一度繰り返し、途中で逃げ出せないように会場の扉に鍵を掛けさせたという。

これをファナティック(偏執狂)と呼ぶかどうかは人それぞれだが僕はまったくもってビューロー派だ。パフォーミング・アートにゆとり教育などない。間違えないように台本をなぞる芝居など、ぼんくら大臣の国会答弁に等しく初めからやめたほうがいい。ピアニストもしかりであることは当然だ。聴衆だって、コンサート会場でプログラムをめくりながらバッグの底の飴をまさぐっているようでは永遠に何も降ってこない、時間の無駄だ。

カール・フリードベルグの弾く「子供の情景」に耳を傾けてほしい。彼がクララの弟子ということではなく、虚心に心の耳で。シューマンの心に降ってきた姿が見えないだろうか?こういう演奏をどうのこうのと批評するだけ言葉も音楽も穢れる気がする。音楽は「する」ものであって、本来文字が入り込む領域はないのだ。フリードベルグの言説を借りるなら、音楽を聴く、演奏するというのはこういうものに精神の奥深くが浸りこめるかどうかだろう。

まあ僕がスピーチする場もクラス会ぐらいしかなくなってきたし営業することももういらないし、どうせあとがあっても20年ぐらいだ。これからじっくりと名ピアニストたちの紡ぎだす音楽の醍醐味を楽しんで生きたいと思っているが、それにしても思うことがある。

クラス会で「いまは晴耕雨読だ」という人が何人かいて、これが理想郷のように羨ましく響いたわけだ。こういう年齢になると第二の人生などと口をそろえていいがちだが、定年になると次も何か仕事をしないといけないなんて思ってないだろうか。どうもそんなのは惰性かいわれのないプライドか強迫観念じゃないかと思うのだ。貯金でも年金でも食えさえすれば、好きなことして遊んで暮らすのがいいに決まってる。

人生真面目に来た人ほどその強迫観念のトラップに嵌る。徹夜マージャンといっしょで、長時間すべったころんだをやって来てしまうと、情動に慣性が働いて今更抜けられなくなるのだ。朝になって千点勝ってようが負けてようが人生ではまったくもってどうでもいいことなのに、なぜか熱くなってこれを取り返すぞと血眼になって頑張ってしまう。そういう頑張れる自分に安心したりもして、そんな馬鹿な自分と知ってるのに、またやってしまう。

昔、喫茶店のテーブルにインベーダーというゲーム画面がはめこみであってみんな熱中した時期がある。ところが、いいとこまで攻め込んでえいっと弾を放ったら「ゲームオーバー」だ。弾がむなしく静止して貼りついたりして嘲笑っている。ちくしょーとなって次の百円玉が消えるわけだ。第二の人生って、これじゃないか?いつも千円はすってたが、別に点数取って勝ったところで何の得があるわけでもない。常に俺は何やってたんだろうとむなしくなって帰るのに。

インベーダーや麻雀ぐらいならいいが人生でそれをしてしまうと一夜では済まない。5年10年を知らずに費消してしまう。徹マンしてやっと2千点浮いたぞなんて喜んだ瞬間に「人生双六」の画面に「ゲームオーバー」が出てしまったりするんだ、きっと。僕らにもうそんな時間は残っていまい。それを言うなら僕も徹マンから抜けてないし死ぬまで仕事するぞなんて公言までしてる。いくら儲けたって終わりはない。頂上のない登山。どこかで息絶えるが、それが標高100mだって3000mだって、その時になったらそんなに違いはないようにも思う。

何となく、クラス会でスピーチしながら、「それは馬鹿かもしれないぞ」とエステティックなものが脳裏に降ってきて、その瞬間に「もう俺は金もうけはどうでもいい」とあんまり脈絡のないことを口走った。みんなこいつアホかと思ったかもしれないが、カール・フリードベルグ流には正しい行動なのだった。

 

(ご参考)

ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

クラシック徒然草《癒しのピアニスト、ケイト・リウに期待する》

 

加計学園問題を注視すべき理由

 

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ファツィオリ体験記

2017 MAY 15 2:02:54 am by 東 賢太郎

この名器を初めて聴いたのはたしかニコライ・デミジェンコのショパンで、実物を目の前で味わったのはアルド・チッコリーニ(ベートーベン、ファリャ)でしたが、どちらも楽器の個性としてはそう印象的でもなく人気の理由がピンと来ていませんでした。ただ、最近にアンジェラ・ヒューイットの美しいバッハとラヴェルを聴いて少し関心が出ていたのです。

吉田さんから豊洲シビックセンターのファツィオリを予約したので練習に来ませんかとお誘いをいただきました。5月1日のことです。年産台数で数千のスタインウェイに対し130しかない希少品。もちろん喜び勇んで参上し、都内ではここしかない、舞台上に神々しく輝いて見える「コンサートグランド、モデルF278」に謁見したのです。そんな場所で弾いたことはありませんから、初めてマウンドに登ったときより緊張いたしました。

近くで見るとそんなに大きいという感じはなく、タッチは軽めです。座ってみると奏者に威圧感を与えないやさしさがあるなというのが第一印象でした。ホールへの音の抜けなのかピアノの性能なのか、とにかく中空にふわりと舞い上がる音響が気持ち良かったというだけで、何を弾いてるのかわからないままにあっという間に40分が過ぎ去ったのです。

やっぱりいいなと少しだけ腑に落ちたのは5月7日の本番直前、ゲネプロが終わってオケの皆さんが退出するどさくさにまぎれて、思いっきりラヴェルP協mov2とダフニスを鳴らしてみた時です。3千万円のフェラーリなんですが素人がアクセル踏んだって思い通りに反応してくれるイメージですね。「欲しいでしょ」と吉田さん。「うん、ホールごとね」、これ本音です。

田崎先生によると調律が特別であって、普通は高音に行くに従ってピッチを上げるがその上げ度合いが少ないからオケが合いにくいとのこと。それは全然わかりませんでしたが、そのせいなのかどうか、柔らかく響く3度がとろけて美しく、暖色でまろやかではあるがクリアに煌めくタッチも連続的に出ます。低音は太くよく響くが金属的に重たくはなく、上の音と絶妙にブレンドします。

一言でいえばまろやかにカラフル、典雅な落ち着きがあり、ボルドーよりブルゴーニュであり、僕的にはロマネ・コンティを初めて飲んだ時の感じ。音響的には倍音成分がやや多いように聴こえ、それをコントロールする腕があれば汲めども尽きぬ楽しみがありそうです。その分、素人には魅力を引き出すのは訓練を要するかな、ともあれ今の僕に至ってはまったくの猫に小判でありました。

しかし、このたびこの名器に触れさせていただいた体験は大きなものでした。ファツィオリと毛色は異なるものの、家の東独製August Försterも悪くないぞという気がしてきて、アップライトなので壁に斜めに置いて部屋の反響を取り入れて弾くとどこか大ホールで弾いたあの感じになるということを発見し、はまっています。

レクチャーの写真を送っていただいたのでここに貼っておきます。

 

機会をいただいたライヴ・イマジン西村さん、ピア二ストの吉田さんには感謝あるのみ、そして最後になりますが、指揮の田崎瑞博先生およびオーケストラの皆さま、最高の演奏会をありがとうございました。

 

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モーツァルトに関わると妙なことが起きる

5月7日のコンサートのお知らせ

 

無人島の1枚?ピアノをください

 

 

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モーツァルトに関わると妙なことが起きる

2017 MAY 14 1:01:53 am by 東 賢太郎

 

仕事柄スピーチというのは何十回もやりましたし、二十ぐらいの大学で金融・証券の90分講義もしています。僕はいかなる場合も原稿は書かない主義なので、今回も、音楽のレクチャーは初めてでしたがやっぱり流儀は変えずアドリブでした。同じのをもう一度やれと言われても無理ですし、話した中身も順番もすでにけっこう忘れてます。

ではどうやって話を進めるかというと、忘れてもいいようにテーマに添った話題を多めに用意しておいて、あとはその場でお客さんの反応を感じながらの即興です。客席のレスポンスというのは如実に肌で感じるのですが今回はお陰様でポジティブで素晴らしく、あれなら2時間でも3時間でも本当にいけたでしょう。

実はこれをお引き受けするにあたってはホールのピアノがファツィオリというのも効きました。されど本番で大ホールで自分で弾くなどという蛮勇は当初はなく、楽譜だけ用意してピアニストの吉田さんにお願いしようと思っていたのです。そうは問屋が卸さず自助努力でとなってしまい、やめときゃ良かったと後悔しましたがもう遅かったのです。

僕はモーツァルトに関わるとどうも妙なことが起きており、2005年のウィーンでの奇異な体験はコンサートの打ち上げディナーでオケの皆さんにはご披露しましたが、誰も信じない本当の話です(まだブログにはしてません)。今回も嫌な予感がしたのですが、やはり本番でハプニングが起きてしまいました。

ジュピターを弾いている最中です。譜面台にあったハイドンの楽譜が空調?の風で吹き飛んで、鍵盤の上に1枚だけはらはらと落ちてきました。それがなんと、弾いている両手の上に風圧でピタッと貼り付いてしまったのです。手が見えない!下に落ちる気配もない! パニックでした。

右手で振り払って床に落っことし、ジュピターは暗譜してたのでなんとかなりましたがもう完全に動揺してました。次のPC25番は暗譜しておらず、譜面が飛んだらアウトです。飛ぶなよ飛ぶなよと祈って弾いたら間違えました。子供の頃モーツァルトはハンカチで両手を隠して弾くのが十八番でした。どうも僕はモーツァルトに関わると妙なことが起きるのです。

譜面が落っこちてます

 

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ファツィオリ体験記

 

 

 

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どうしてワタシがオペラに?

2017 APR 19 13:13:12 pm by 東 賢太郎

僕はワイン好きですが、ウンチクたれる奴が大嫌いです。英語でそういうのをワイン・スノッブ(俗物)と呼びますがちゃんとそういう連中の社会はできていて、ロンドンにいたころ爆笑して読んだ「一流のワイン・スノッブになる方法」という本があって『赤で高級そうなのが出てきて意見を聞かれたら何であれ「It’s big.」と言えば安全である。ただし白でそれは禁句である』なんてどうでもいいノウハウがたくさん書いてある。スノッブを茶化す本なのですが、恥をかかない実用本としてまじめに買う人もいるんでしょう。

フランス料理もおんなじで堂々たるスノッブがいます。パリのタイユバン・ロブションとかアラン・デュカスなんてそれだらけで、料理はお値段なりの味で全然どうってこともない。それがワイン・スノッブの巣窟でもあって、高いのを飲ませてふんだくって連れの女にいかに見栄を張らせてやるかの演出にたけた店だから高級店ということになってる。ジュネーヴやブリュッセルに半分の値段で良心的でもっとおいしい店があります。

オペラにもいるんですね。ザルツブルグ音楽祭なんてオペラのタイユバンみたいなもんで、カラヤン・ウィーンフィルの薔薇の騎士なんて劇場に入っていく着飾った客を見る群衆がわんさかいて貴婦人気取りの女のファッションショーでもあった。女に見栄を張らせてやる代金が乗ってるからチケットは馬鹿みたいに高いし、逆に高くないと女にお値打ち感が見えないから男に売れない商品でもあるのです。

そういうのがいると庶民は気後れして「どうしてワタシがオペラに?」となりがちですが、そんなもったいないことはない。ああいう女はどうせ音楽なんて聞いてないでしょ、ワタシは楽しんでるわと上から目線で見てやればいいのです。モーツァルトは「オペラでは音楽が劇のしもべじゃいけない」と言ってます。音楽がわからないオペラゴーアーはただのスノッブです。

「わかる」というのはアンダースタンドでもコンプリへンドでもなくて、アプリーシエイト。良さを知っている、それでいいんです。良さというのは自分の趣味(好み)であって教科書で習うもんじゃない。だから音楽を楽しむとは実は自分の趣味を知ること、自分探訪なんです。それが「うきうきする曲」でも「悲しい曲」でもいい、なぜならそれが自分だからです。

ところが「わかる」は知識やウンチクからくると思ってる人がたくさんいます。二百年も前の曲は確かにそれがいくらもあります。でもそんなのは音に関係はない。音楽は音だけでできてます。モーツァルトが早死にして可哀そうだから彼のレクイエムが悲しく響くわけじゃない、音そのものが、雄弁に、悲しい、だからそれは名曲なのです。これを聴いて悲しくなれば、それで十分に「レクイエムがわかった」でいいのです。

モーツァルトは原因不明で若死にしたためやたらと同情票が入って、音楽とは無縁な所で都市伝説まみれになってる、僕はむしろそれに同情票を投じます。彼の音楽は同情のしもべでもない。映画のおかげで知らなかった人に曲が聞かれるなら悪くはないけれど、彼がその手の理由で聞かれる必要のある他の作曲家と同列に思われたらあまりの冒涜でしょう。天才は音楽だけによって判断されなくてはなりません。

僕の音楽の趣味はけっこうはっきりしてますが、バッハもシューマンもメシアンも好きです。それがどういうことかというと、例えて言うならワインは品種の味わいが基本でありそれが音楽なら「音」に当たります。葡萄はシャルドネでそれがモンラッシェになったりシャブリになるのであってそれは枝葉です。そしてウンチクは葡萄でなく枝葉に実るのです。同じことで、よく聴きこめばハイドン、モーツァルト、ベートーベンが「同じ葡萄」からできていることがわかります。

バッハの子だくさんやシューマンの自殺未遂やらメシアンの音の色彩やらは、ソムリエ検定試験には必須の知識ですが、鑑賞にはまったくどうでもいいのです。そんなことに時間を割くぐらいなら1曲でも多く聴いたほうがいい。それで面白くなければ自分探訪はハズレだから他のを聴く。そうやって探し当てた「あたり」の曲は一生の友です。それが自分の趣味とわかるから、そういう特徴の曲を集中的に聞けばさらにあたりを効率よく探せます。

クラシック・スノッブになりたい人はなればいいし、それにも一流と二流があって、一流になれればそれはそれで社交には役に立つかもしれません。しかしこれから聞こうという人はスノッブはノイズをまき散らすだけの御仁なので完全無視で、自分の趣味だけを信じ、その曲を誰が何と言おうとお構いなしで覚えるまで聞きましょう。音楽の魅力のエッセンスは音に、それを記号化した楽譜に詰まっています。それを忘れなければクラシック攻略は極めて近道を通れるのです。

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アラウ/セガルのブラームス・ピアノ協奏曲第2番

2017 MAR 11 23:23:37 pm by 東 賢太郎

40年も前、大学時代に下宿でカセットテープに何気なく録音したものがまだ残っている。それをADコンバーターでディスク化してyoutubeにアップすれば世界中のファンと共有できる。

ネット時代に生まれ育った世代には当たり前のことでしょうが、法律の勉強の合間に毎晩聴いて、傍らで飲み食いしていた22才の生活感までリアルによみがえる録音が「そこ」に移住したというのはそれだけでも不思議な気分です。

アルバート・アインシュタインは「過去、現在、未来の区別は、どんなに言い張っても、単なる幻想である」と言っています。そうか、となると40年前の過去なんて実は俺の夢か幻想だったんじゃないか?


 

そこにこういうものが、まるでタイムカプセルにあったみたいに、戸棚の奥から埃にまみれてぽろっと出てくる。

 

 

 

僕は22才の僕と並んでいっしょにこれを聴いて、ふたりとも同じように感動する。そして22才は明日もやるぞと元気になり、それを見た62才のほうは、ああこれは幻想じゃなかったんだとほっとするのです。

アインシュタインはこうも言っています。「野望やただの義務感からは本当に価値のあるものは生まれません。それは、人や対象となるものへの愛と献身から芽生えます」。

愛と献身!ひとつだけ確実にわかったのは、22才から持っていたそれを僕は今も変わらず持っているということです。この素晴らしい協奏曲への無限の愛を。

そして、それが同じぐらいあることを感じさせるアラウとセガルのこの見事な演奏!40年の闇に眠らせなくてよかった。

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ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

 

 
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我が来し方に響く音楽

2017 MAR 5 13:13:08 pm by 東 賢太郎

幼時の記憶というと電車と星です。それ以外に熱中した覚えがありません。電車は床下の車輪や機械部分ばかり見てましたが、星のほうもとても小さいころに絵本で物体と知り、以来そう見てました。

前回そう書いてみて、このところ、そうした自分のありし処というか、生まれつきの性質にどんどん帰っていっているように思いました。

それが遺伝なのか、何処から来たかはさっぱりわかりませんが、僕は大自然の摂理というか宇宙の根本原理みたいなものに絶対の価値を置いていて、それ以外のものはなんであれすべて下位、卑俗のものと感じるのです。教育や宗教でそうなったのではなく、幼時から心の真ん中に鋼のようにそれがあります。

だから人文系の学問はかけらも興味がなく、色弱なのでやることになった法学も宇宙の根本原理からしたら町内会のゴミ出しが火曜か水曜かぐらいどうでもいい事でした。文学は要はウソです。そんなことはない人間の真実を描いているんだとかいうが、そんな真実は存在しない。人間は単に宇宙の一部です。

そもそもそういう言葉の遊びがウソに見える。MBAの勉強はその集大成みたいなところがあって、商売としてビジネスモデルだシミュレーションだと科学的根拠の希薄な用語をふりまわす。それをMBAが何の略かすらわかってない者がもっとわかってない者をごまかそうとふりまわす。猿の演じる猿回しである。

では科学至上主義かというとそうではなく、科学も人間が宇宙をひもといてみただけのものだから文学といい勝負です。自然の摂理で子供を産むことはできても、科学によって人間をゼロから手で作ることは永遠に無理でしょう。その程度のものを宇宙の根本原理と比較するなどナンセンスであります。

自分の知覚、五感、六感、すべてを総合して強固にそう信じているので、僕は「人間の作ったもの」に何の価値も感じない困った人間なのです。

俺様主義ではありません。自分の作ったものも同じことです。書き終わったブログは無価値に見えます。記録として、後述するある目的のためだけに存在します。ふがいないですが、62年してきたことは全てが宇宙の下部機構の凡俗に与えられた欲望の果て、芋虫が這った跡を眺めるがごとしです。

その軌跡のなかでふるいにかかって残った音楽。これは何かというと空気振動の周波数が脳内に生み出す調和が宇宙の根本原理に共振している、そうとでも思わないと説明できない唯一のものと感じるのです。美食や万華鏡も似た作用はありますが、その程度でなく、悲しくもないのに涙を流すほど絶大な作用がある。

例えば昨日目覚めるとラフマニノフ3番の緩徐楽章が脳内で鳴っていて、冒頭の弦の部分、あれをピアノで弾いてみたらなんと涙が止まらない。僕にとってそういう現象がほかの芸術や美食や万華鏡で起こることはなく、音楽の作用は圧倒的に別物であって、もう事件といってもいい。

ラフマニノフも人間だ、人の作ったものではないのか?確かにそうですが、この事件はきっと彼の脳内でも起きたのだろう。いわば彼が森で見つけた薬草を食べて快い幻覚を見た。それを残してくれて、それを僕も食べて同じ幻覚を見ている。彼は製作者ではなく発見者なのです。何の?  根本原理のです。

なぜ?  音楽は周波数変化が脳内に引き起こす化学反応であって、楽譜は化学反応式なのです。化学反応なのだから宇宙の根本原理に添って起こるのであって、そこに人間は出てきません。あるのは薬草が効くかどうか、効く薬草を探したからラフマニノフは名を残したのです。

なぜ僕にとって作曲家が関心事であるかがそれで説明されます。「こと座」を見て僕は宇宙の根本原理であるα星べガの物理特性しか考えませんが、「作曲家」も書いた楽譜の化学特性で名を成します。モオツァルトの走る悲しみなどと書く小林秀雄のような人は、ベガを織姫と思う人ほど僕とは別な星の人です。

作曲家がどんな人かより書いた曲。モーツァルトはK.491やK.551によってモーツァルトたるのであります。それらは彼が森で探した薬草でできてます。ではどんな草かという世界に分け入ると、子供のころオリオン座のβ星リゲルの強烈な物理特性を調べて驚嘆したのとちっとも変わらない。

だからK.491やK.551は僕にとってベガやリゲルのような恒星です。そして(子供のころ)「それ(物理特性)を詳説した本がないことにいらだってました」と書いたのがいまそのまま音楽にあてはまる。であれば、自分が読みたいそれを自分で書き残そう。曲名でブログを書く第1のインセンティブはそれです。

それがこういうものであり  ハイドン交響曲第98番変ロ長調(さよならモーツァルト君) 、僕が見つけてそこに置いておいた薬草をこんどはイマジンの西村さんが発見して下さった。バルトーク「子供のために」をよっしーさんが「今ならじっくりと対峙出来るぞ!」と言って下さった。これぞ正に本望です。

では作曲家という人間は宇宙の根本原理の下位、卑俗にすぎないか。YesでありNoでもあります。我が無能を知ればNoでもある。それを示すのが第2のインセンティブであり、ブログの力を借りて僕は作曲家の楽曲の宣教師をする、それがモーツァルトへの印税であり、宇宙の根本原理への帰依でもあります。

 

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芥川也寸志さんと岩崎宏美さん

 

クラシックは「する」ものである(1)

 

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