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カテゴリー: ______音楽と自分

クラシックの「メロディー派」と「メカ派」

2019 SEP 10 21:21:00 pm by 東 賢太郎

ミステリー好きのクラシック好きはけっこう多いらしい。横溝正史のような作家もいる。何か理由があるのかもしれないが、根っこはただの洋物好きかもしれないとも思う。というのは、我々の爺さんあたりの世代はデカンショ節を高吟して哲学を気取り、ミステリーは洋書でクラシックは輸入SPレコードでなじみ、それが文化人でハイカラだという気風があったからだ。

東京の神保町に古本屋街、洋書屋、洋物文房具屋、画材屋があり、隣の秋葉原に電器部材屋が密集しオーディオ屋、輸入レコード屋ができたが、洋物とセカンダリーマーケット(中古卸し・小売り)という共通項が底流にあったように感じる。自分は中学生から大学卒業までこの界隈を日々徘徊し、そこにムンムンするほど充満してた雑多だけど西洋への憧れを刺激するB級アカデミズムの空気を吸って育ったからこうなった気がする。

非文学的だから洋書に関心はない。クラシックはバリバリの洋物で、ミステリーも洋物なのだが、それが共通項ではなく「メカニック好き」だからはまった。クイーンの謎解きはゾクゾクするほど僕にはメカであり、バッハやベートーベンのスコアもストラスブール大聖堂の精巧な天文時計みたいにメカニックだ。メカニックという共通項で僕はミステリー好きのクラシック好きなのである。両者の「代表作」を20代までに知ってしまったのは、たぶん遺伝子的に、「メカ派」の嗜好が強かったからだ。

洋物ミステリーの名作は子供だったからもう犯人も忘れている。どこか孤島で片っ端から読み返したい。とにかく初読のパンチの強烈さは比類がなかった。それに比べて日本人作家は印象が薄い。メカが弱くて、旅情ロマン小説か逆にメカ・オタク過ぎてマニア向けのエロ本の風情になってる。後者は本格モノというらしいが英語は素直に “puzzler” で、その他は本格にもとる風の偉そうなニュアンスはない。驚愕の結末やらなにやらその快感に焦点を絞っていてもうSMの世界だ。

日本人の書いたクラシックはもっと影が薄い。申しわけないが人生を変えるほど凄いと思ったものがない。僕が最初にノックアウトを食らったのはストラヴィンスキーだが、春の祭典の、まさにこのブーレーズのレコードの19分40秒から20分21秒までである。

これを聴いて、得体の知れぬ奇っ怪な黄泉の花がぽっかりと宙に浮かんで次々と咲く妖しい幻覚を見た。そして、それこそがこのジャケットの絵だと思った(なんとも素晴らしい絵だ)。こういう桁違いの音楽を日本人が書いていけないことはない。でも、ない。

この部分のスコアはこういうことになっている。

12音のうちラ以外の11音を使った複調である。しかしそういう理屈としての技芸が事の核心ではない。ロシア人の脳みそからは時にこういう破壊的なものが出てくるとしか書きようがないが、3大Bの系列にない、クラシックでは田舎圏であるロシアからこれが出てどうして日本から出ないんだろう。

文化人類学的な興味はあまりない。なぜこんな黄泉の国みたいな妖しい音がするんだろう?というのがメカ派のプライマリー・クェスチョンだ。ピッコロ・クラリネットのC7の駆け上がるアルぺジオが高音域のフルート3本が作るCとコントラバスのフラジオレットの不思議な和声(d-g#-c#)を導く(ように聞こえる)。妖精が魔法の杖を振り上げると金の花粉が天空に舞い散る。そこに第2VnとVcの3連符のB♭7の和音が薬味のように混ざる。しかしこれをピアノで鳴らしてもそれほど目覚ましい音はしない。これは管弦楽の魔法なのだ。

こういう型破りは日本人は不得手なのだろう。どうも世間常識や慎ましさや手堅さや師匠へのソンタクみたいなリミッターがかかってしまう気がする。車がそうだ、トヨタから自動運転やファルコン・ウィングのテスラみたいな発想は出ない。技術に非の打ちどころはないがとんがりきれない。それじゃいかん、なんてとんがると今度は無用にそれが目的化してオタク専科になってしまう。そうじゃない、芸術は爆発でなく計算である。春の祭典は天のギフトをもらった者が緻密に計算して数学の答案みたいに書いたスコアで成り立っている、ストラスブール大聖堂の天文時計なのだ。これを爆発と勘違いして意味なく「ぶっ飛んだ」ナンチャッテが世界各地で作られた。

こういうアートが、エラリー・クイーンの「オランダ靴の謎」のような数学美をたたえたミステリーを彷彿とさせるといって、いったいどれほどの方にご賛同いただけるのだろう。「音楽は美しいメロディーです」という主張を退ける自信はないが、ベートーベンの後期のカルテットにそんなものは出てこない。メロディーはたくさん出てくるがメカがお粗末な一部のオペラがその対極であり、それを無視する僕はオーディオマニアでないのと同じぐらいクラシックファンではないし、メロディー派の洗礼儀式である音楽の授業が大嫌いだった理由がいまになってわかる。音楽は理科の授業で習えば楽しんだと思う。

音楽の通信簿は2だったから授業は不要だったわけで、要は、興味のないものは無視で人生何も困らないという結論に至る。美しいメロディー皆無の春の祭典が僕を震撼させるのはJ.S.バッハのフーガの技法やベートーベンの後期のカルテットと同じことであり、オランダ靴に「衝撃の幕開け」や「驚愕の最後の一行」はないのと僕の中では同義である。宗教が違う。そして残念ながら、その関係の連鎖に日本人制作のクラシックもミステリーも出てこない。別に欧米礼賛ではない、是々非々で、出てこないものはどうしようもないのである。

それがどうしてブラームス礼賛なのか。たしかに彼は美しいメロディーを書いたけれども、メカ派なのだ。そんなことはない、彼はロマンティストだという反対意見はあろうが、それとメカ派は矛盾しない。ベートーベンも彼も、さらにはもっと異論が出そうだがモーツァルトもメカ派である。それを度外視して、さあ美しいメロディーをと「日本流クラシック」を強要するのは僕には拷問であり、かつての同盟国だからドイツ人とは気が合うぞと信じるぐらいお門違いである。

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クラシックはこころの漢方薬(2)

2019 JUL 20 1:01:58 am by 東 賢太郎

(1)音楽には作曲家の魂がこもっている

ここでいう魂とは根性論で「魂をいれろ!」の魂ではなく、オカルトや霊的な意味の魂でもない。プラグマティックな意味で「作曲家の思考回路の痕跡」とでもいう意味だ。

思考回路は誰にもある。あることに遭遇した時に「どう考えるか」「どう行動するか」ということにすぎないがすべての人の人生はそれの集大成であるということも可能だ。それは十人十色でありその特性は「性格」(character)という言葉でおおよそ集約されることが多い。

つまり性格は脳の使いかた(思考回路)の産物だ。回路はロジカルで即物的なものでしかないが、その形成にあたっては遺伝的な要素に加えて境遇、感情、身体的事情、肉親や周囲の人間との関係など非即物的なものも大いに関与するだろう。それが性格を形成し、それが人生を決めるなら我々の一生にはそこかしこに思考回路の痕跡があるはずである。

例えば僕が今書いている「文章」がそれである。sentenceの語源はラテン語のsententiaだがこれはまさに “way of thinking”(思考回路)の意味だ。文章を書く(作文)とは文法規則に思考回路を当てはめていく作業であって、それは音楽を書く(作曲)という作業が対位法、和声法などの作曲上の規則に思考回路を当てはめる作業であるのと本質は同じである。だから作文も作曲も英語ではコンポジション(composition)なのである。

(2)ウマが合う人とは?

ここまでくると本稿の趣旨が明らかになってくるだろう。つまり、あなたが好きな文学や絵画や映画や音楽というものはあなたと似た思考回路の人が作ったものなのだ。好きな落語家やお笑いタレントはあなたと似たsense of humour(笑いのツボ)を持っている。その「ツボ」が落語家であれ友達であれピタリと合うとあなたは爆笑していないだろうか。音楽にもツボはある。それが合うとあなたは気持ちよく感じ、その曲を好きになるだろう。なぜならその落語家、友達、作曲家と思考回路が同じであると感じるからであり、それは別な表現ではウマが合う、気が合うということになるのである。

思考回路の合致⇒ウマ(気)が合う⇒相手が好きになる、という「人と人を寄せ合う引力」の存在を証明するのは僕には難しい。ウマ(気)が合う人を好きになるのは納得できても「回路」となると抵抗を感じる方も多いだろう。しかしウマ(気)という目に見えないものを他人が感知できるメディアに置き換えて発信(文学、絵画、映画、お笑い、音楽どれもが発信が必要だ)するには、しようというモチベーションと技術が必要であり、それらはすべてが発信者の脳の作業であって、その作業の脳内プログラムのことを思考回路と呼んでいる。

「友を見ればその人が分かる」という言葉はウマ(気)が合う人同士が引力で結びつく傾向が一般にあることを表現している。「友」を「好みの文学、絵画、映画、お笑い、音楽」に置き換えてもある程度はこの文章は成り立つだろう。Aimez-vous Brahms?(ブラームスはお好き?)とコンサートに女性を誘うのは意味があるのだ。そんな難しいことを言わなくてもウマ(気)さえ合えばいいではないかと思う方もおられよう。そうかもしれないが、僕は最終的には回路が合わないとその関係はどこかで破綻すると考えている。「友」というのは回路の結びつきである。僕は猫好きの人と猫を前にすればウマ(気)が合う人にはなれるだろうが、さて猫が去ってもそうかという自信はない。

作曲は回路の痕跡であるから、ある作品を通して結びついた作曲家との関係は回路を介さない感覚だけの結びつきである猫好きのそれとは違う。一生切れることがない。さらには、同種の人間であるゆえに彼が作曲時に抱いていた感情が自分に共振することがある。散文、ポエムというアートはそうしたものを言語をメディアとして成立しているが、音楽でもそれはあり、特にロマン派以降は音の素材がどんな共振効果をあげうるかのあらゆる実験が百花繚乱の作品によってなされたと言える。言語と音と、どちらが共振を喚起する力があるかは答えが見つからないが、音楽は何度でも喚起力が持続するという特性があることは特筆されるべきだろう。それは皆さんがお好きな料理を月に一度、さらには週に一度は食べたくなるのに近い。僕はこれを音楽の常習性と呼ぶが、生命維持に不必要なものにもかかわらずそうなるのは誠に不思議としかいいようがない。

(3)音楽がなぜ漢方薬になるのか?

ツボを共有する人の思考回路の痕跡があなたの好きな音楽である。作曲家は何かのモチベーションでその曲を書いたのだが、その契機となったもの、喜び、悲しみ、期待、勝どき、不安、絶望といったものに遭遇した時にあなたは彼と似た反応をする思考回路の持ち主なのだ。それゆえに、彼が期待に満ちて勝どきをあげんと書いた音楽はあなたの心にじわりと効いて、その勝どきがあなた自身のものであるかのような精神の高揚をもたらす。不安や絶望に駆られて書いた音楽は逆ではあるが、それを書き記したということは彼はそこからひとまず救済されている。だから書けたのだ。その救済の思考に寄り添っていけばあなたも救済されるだろう。

音楽は劇薬ではなく、ゆっくりと効く。ある種の曲を好んで聴いていればあなたはいつしか積極的で前向き思考の性格になっているだろう。ある種のものは創造力をかきたて、緻密で論理的な思考を好む性格に変え、ある種のものは人や動物を愛する優しさを涵養してくれる。ベートーベンの田園交響曲は自然の神々しさをいつくしむ心の萌芽となるだろう。そして、あなた自身が不幸であったり突然の悲しみに沈んだ時、人生が嫌になった時、夜がつらい時、その沈鬱な感情をどこの誰よりも身近に共有してくれ、一緒に泣き、悲しみ、その結果として痛みを鎮めてくれるのも音楽なのだ。

それらはすべて僕自身が経験したことだ。それがどの曲だったか、お教えしてもいいがそれが万人に同じく効くという自信はない。なぜならその効能は、蓋し僕という人間がベートーベンのある側面と思考回路が似ているためにエロイカ交響曲から非常に強いインパクトを頂戴できているという類のものだからだ。それは各人各様であり皆さん個々人が自分に合う人を探すほうが余程いい。当然ウマが合わない作曲家もいるわけで、僕の場合すでに明白で時間の無駄だから聴かない。相性というものはいうまでもなくundebatableな(論議の余地のない)ものだが、大作曲家全員が友などということが不自然だということはdebatableだろう。

クラシックをいくら聞いても馴染めない人は他のお好きなジャンルに行けばいいし、そちらに薬効がある可能性も大いにあろう。僕がクラシックオンリーでないのはそれが理由でもあって、ジャズにしか求められない効き目もある。漢方は対症療法には向かないが、じんわりと体質改善するにはもってこいで、例えばジャズを聴きこむと現れる特有の思考回路というものがあって、それも自分のものにしたいと思うから時々ひたっている。それは認めつつも、僕はやっぱりこう書いて本稿を閉じるしかない、クラシックの中におそらく皆さんが必要とされる薬はほとんど全部あるだろうと。

 

(ご参考)

ベートーベン 交響曲第2番ニ短調 作品36(その1)

 

クラシック音楽と広東料理

 

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音楽の偏食はあたりまえである

2019 JUL 15 17:17:34 pm by 東 賢太郎

演奏家にはレパートリー(repertoire)がある。何でも初見で弾けるピアニストはいても、それが即レパートリーというわけにはいかない。演奏家は自分の何らかのステートメント(statement、声明、自己証明)を他人の書いた楽曲に乗せて発信する人という認識が19世紀後半に主流になり、聞き手はそれを愛でに会場に来るというのが現代に至ってオペラやコンサートの定型的な図式となった。つまり演奏家とはステートメントによって自らを世にアピールする存在であって、その一点において「弾ける曲」と「レパートリー」とは決定的に違う。

自分で音を紡ぎだす肉体的制約のない指揮者はレパートリー選択の自由度は高いと書いてそれほど間違いではないように思う。カラヤン、オーマンディー、ネーメ・ヤルヴィは何でもござれのイメージがある。実はカラヤンはそうでもないが、守備範囲は前任フルトヴェングラーよりずっと広かった。かたやジュリーニやカルロス・クライバーは狭かったが、だからふたりがカラヤンに劣ると思う人は少ないだろう。ステートメントの品質は物量で決まるわけではない。

このことは演奏する側ばかりでない、聴く側にもあると思うがいかがだろう。僕は幼少時に偏食だったので「なんでも食べなさい」と言われて育ったが結局そうはならなかった。おそらく多くの方がちょっと苦手なもの、嫌ではなくて出てくればいただくが、自らレストランではあまり注文しないものがあるのではないだろうか。食物と違って音楽は生命維持に必要なわけではないから好き嫌いで選んで文句を言う人はいないし、一切聞かないという選択肢だってある。

つまり音楽は偏食があたりまえなのであり、僕のようにベンチャーズもモーツァルトもメシアンも半端なく日常的に好きだという雑食はむしろマイノリティである。好きの根っこは古典派にありそうな気がするが今は音楽室に入るとラフマニノフPC3Mov2冒頭とブルックナー7番Mov2冒頭を弾くのが日課であり、どうしてもその欲求に負ける。それがどこから湧き出てくるのかわからない。その5人の音楽家の作品に僕に響く何らかの共通因子があるということだけは確実だが解明したところで誰の役にもたたないし日本のGDPにも世界平和にもならないからしない。響く器のほうが僕なのだと定義すれば足りる。畢竟、それがステートメントの本質である。

僕のレパートリーは学生時代にできて、そこからは忙しくてあまり進化していない。浪人して若さとヒマが両立しており、当時だと3回で暗記OKだから図書館でかたっぱしから聞き、それはできた。万事興味ないことは覚えないから花や木の名前は数個しか言えないが、好きな曲はオペラでも室内楽でもバスを暗譜で歌えるまで記憶しており、そうなったものを僕は自分の鑑賞レパートリーとして認識している。ブログで曲名タイトルで書いた楽曲はすべてそれに属している。ブログもステートメント発信だからそれが自分であるという表明であり、レパートリーでない音楽への意見表明は僕の価値基準からは不適格だからそれに自分を代表させようということはあり得ない。

お気づきかもしれないがイタリアオペラはボエーム1曲しかない。プッチーニは多少好きということでスカラ座、コヴェントガーデン、メットなどで代表作はぜんぶ聞いているがそれでも記憶には至っていない(つまり続けて3回聞いてない)。「ボエーム」と「その他全部」でボエームのほうが重い。ボエームの音源は17種類もっていて魔笛の18種に次ぐから全オペラの堂々第2位なのであって、どうしてそれがイタオペという鬼門のジャンルに鎮座しているのか不思議でならない。10余年ヨーロッパに住んでいてヴェルディを歌劇場できいたのは数回で、そんなに少ないのに回数すら覚えてないしアイーダは白馬が舞台に出たのしか覚えてない。レコード、CDを家で全曲通したことはない。

ちなみにイタリア国や文化が嫌いなのではない。イタメシもブルネッロ・ディ・モンタルチーノもローマ史も半端なく好きだし、カエサルは尊敬してるし、スキー場もゴルフ場もグッドだし、クルーズは2回したし観光で一番たくさん訪れた国だし、アマルフィの油絵を居間に掛けて毎日眺めている。しかもミラノではイタオペ大権現トスカニーニの墓参りまでしたのだ。なんで「オペラ好き親父」でないの?わからない。出てくればいただくが自分からは食べないというのは英語で indifferent (どっちでもいい)であるが、無関心なもののために4時間を空費することは耐えられないという理由から僕はヴェルディはマーラーと同じく嫌い(dislike)だといって差し支えない。

それでヴェルディ、マーラーの音楽に身勝手な優劣を論じているつもりはまったくない。記憶してもいない曲を論じる資格はないというのが僕の絶対の哲学である。単に、二人の音楽の効能、一般には予期される化学反応が僕にはいささかも発揮されないということだ。「効きますよ」という薬を何度飲んでも効かないだけのことで、だから何百万人が「効きます」と声高に言っても僕には関係ないのである。正確に繰り返せば、薬は indifferent な存在なのだが、飲む時間の空費が dislike なのだ。イタリアはいつでも行きたいが、行って音楽を聴かないでOKな欧州唯一の国だ。ベニスでもフィレンツェでもナポリでもボローニャでもジェノバでも聴いてないし、ミラノではスカラ座には3回入ったが2回はワーグナーとグルックであり、一番時間を費やしたのはモーツァルトの足跡巡りだった。

石井宏著「反音楽史」(新潮文庫)は僕が教育の過程でドイツ人学者たちの洗脳の餌食になっていた可能性を示唆してくれた。そうかもしれないしそれではイタリア音楽にとって不遇でアンフェアとも思うが、仮にそうだとしてその洗脳がなければ僕がヴェルディ好きになったかといえば全くそうは思わない。学者がいくら頑張ってもモーツァルトやベートーベンの音楽が優れていなければこういう世の中にはなっていないし、逆に、「反音楽史」でなるほどとなってもイタリア音楽の魅力がそのことで倍加するわけでもない。似たことで、近隣国が我が国に対してそれ同様の歴史評価逆転劇を狙っていろいろの仕掛けを考案されご苦労様なことだが、ドイツ音楽と同じことで、古より和をもって貴しとなしサムライの精神で研ぎ澄まされた我が国の精神文化の優位性が揺らぐはずもないのである。

クラシックと一口に言ってもバロック前、バロック、ロココ、古典、ロマン、後期ロマン、近代、現代に分科し、演奏形態で教会音楽、オペラ、声楽、協奏曲、管弦楽、室内楽、器楽、電子音楽に分科して両者がマトリックスを成す。その個々に硬派な演奏家とファンがおり、通常はあまりまたがらない。僕の記憶ストックは時代として古典前後が多いがそれはユニバースがそうなためで、ユニバース比でマトリックスのセグメントでは近代・管弦楽のシェアが高い。そこに位置する著名作曲家がレスピーギしかおらず、ロマン・オペラしかないイタリアは国ごと視野になく、後期ロマン/近代・オペラであるプッチーニだけが残ったということだと思われる。

近代・管弦楽の硬派なファンとしては僕は分科またぎができる方で、クラシックの中においても雑食派だと思う。ヒマにあかせて受験勉強の要領でレパートリーを一気に作ったから20代から進化してないし、逆にそこから脱落する曲もあってむしろ減ってるのではないだろうか。クラシックは飽きが来ない、だからクラシックになるんだと思っていたがそんな特別なものではない。ちゃんと飽きる。というより、原理原則でいうと、既述の「無関心なもののために*時間を空費することは耐えられない」ということであって、飽きる=無関心(indifferent)となり、しかも人生の残り時間が逓減するにつれ単位時間あたりの限界効用価値の期待値はバーが高くなり、ダブルの逓減効果で飽きる=嫌い(dislike)と進行していくのである

しかし、何百回きいても飽きない曲があるのも事実だ。ビートルズのSgt. Pepper’sとAbbey Road、ベンチャーズやカーペンターズやユーミンの一部はそれに属する。そしてモーツァルトやベートーベンの大半の曲もそこに属する、そういう形で僕の「音楽ユニバース」はできているからそこにクラシックというレッテルは貼らないし、いわゆるクラシックファンの一員ではないし、いわゆるオーディオファイルの一員でもない。レッテルをどうしても貼るなら枕草子で清少納言が400回以上使っている「をかし」しかない。僕は「をかしき音楽」ファンであってクラシックにそうでない “名曲” はいくつもある。僕のユニバースがユニバーサル(普遍的)と思ったことは一度もないし、あれを貴族社会で決然と書いて残した清少納言もそんなことは気にもかけてなかったろう。枕草子は随筆(essay)とされるが、僕流にはあれこそが保守本流のステートメントだ。

 

(この稿のご参考に)

ウィンナワルツこそクラシック音楽

 

プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

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子供、孫にはホンモノを与えること

2019 JUN 29 15:15:14 pm by 東 賢太郎

これはSMC最初期の2013年3月に書いたブログで、この時点では見つけられなかった「ジャン・フルネ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団」のボロディン「中央アジアの草原にて」がyoutubeに出ていた。ずっと探していたが手に入らなかったのでうれしい。

再録「クラシックとベンチャーズ」

それがこれ。ポール・モリヤこと森谷先生はこれを聞かせてくださったのだ(深謝)。このビデオの2分58秒で鳴るホルンの和音があの日の自分の脳内で劇的にスパークし、その後の人生を変えたのだから重い。

中学時代の動画が残っていない僕らの世代にとって耳にしたレコードそのものを再現できるのは貴重だ。その時分の自分の脳内を探検できるからだ。ポップスも他人の曲のカヴァーがあるが、クラシックは自作自演は近現代ものしかなくてほぼ全部がカヴァーだから最初に覚えた演奏がオリジナルになる。

衝撃を受けたという意味では「中央アジア」のオリジナルはフルネなのだが、なにせそれは1度きりの音楽室のレコードだ。家で耳に刷り込まれた本当のオリジナルということになるとアーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップスとなるのはこういう経緯だ。

親父に「中央アジア」を買ってくれとせがんだ。それまでEPという片面6,7分のレコードしかなくそれのつもりだったが、なかったんだろう、買ってきてくれたのは10曲入っているフィードラーのLPだった。他の曲はどうでもよかったのだが、ところが聞き始めるとそうはいかなかった。

まずA面トップの「つるぎの舞い」に度肝を抜かれる。いま聴いてもこいつはアビイ・ロードのCome Togetherのかましに匹敵だ。つづくラデツキー行進曲、ファウストのワルツ、ピッチカート・ポルカ、トルコ行進曲、「天国と地獄」序曲、B面に行って「ローエングリン」第3幕前奏曲、スラヴ行進曲、狂詩曲「スペイン」、そしていよいよ「中央アジア」とくる。一発で目がくらくら。ここで僕はロックにさよならしてクラシックの森に分け入っていくことになる。

これを買ってきてくれた父に頭がさがる。

演奏は、文句なく素晴らしい。あたりまえだ、このオケはボストン交響楽団だから。選曲も音も一級品である。だから米国に留学してこの楽団をこの録音のザ・シンフォニーホールで聴いた時の感慨は言葉にならなかった。皆さま、子供さんお孫さんにはホンモノ、一級品を与えてください。僕はこれが「オリジナル」になったいうことだけ書いておきます。

 

 

 

 

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J.S.バッハ 管弦楽組曲第2番ロ短調BWV1067

2019 JUN 26 23:23:46 pm by 東 賢太郎

秋葉原の石丸電気でLPレコードを買っていたころというと浪人、大学時代。毎週末に行っていたイメージだから数百回は通ったろう。石丸は輸入盤まで品ぞろえは膨大で見識に富んでおり、そこに並んでいるのがいわゆる「名曲」である。全部の代表盤を1枚づつ聴いておけば凡そクラシックはマスターできそうだと思った。「お若いの、どうだ、やってみるかい」という一種の挑発すら感じ、もちろん向こうは商売であるのだがそそられるものがあった。のちにハーバード大学で門に “Enter To Grow in Wisdom.”と書いてあるのを見てこれだなと思った。

クラシックは石丸電気のおかげでenterできたと思っている。地方にこんな店はないだろうから東京に生まれ育ったことは大きかった。中学から神田の古書店街を毎日歩いて通学しアカデミックなのが自然という空気に染まった。隣り街である秋葉原のレコード屋は文字どおりその延長で、欧州へのあこがれの窓でもあった。それで激烈に欧州に行きたくなって、結局そこに住むことになってしまったが、元はと言えば物心つくまえから親父がかけてたSPレコードがルーツだから環境というものは影響が甚大なのだ。自分は子供たちにどんな環境を与えてあげたのだろうと思う。

石丸の売り場にはよくバロックが流れていた。近代、ロマン派、古典派と時代を逆行して親しんだから次はそこに行き着くはずのところまで来たが、どうも肌に合わない。興味がわかないから知識も乏しく、バッハ、ヘンデルすら何を買っていいかわからず結局は古典派以後の既知の曲の異演盤を買って帰るはめになる。そこで冒険できなかったのはひとえにカネがなかったからだ。なけなしの2千円だ、買ってつまらなかったら後悔するからと安全な方に走って、逆にその勇気のなさに後悔してきた。youtube時代の若者には想像つかないかもしれないが。

この記憶は後にアメリカに住んで、家内とマックに行ったときにデジャヴとなって現れる。3ドルもするビッグマックは高嶺の花で、いつも1ドルのバーガーをひとつづつと無料のサラダで空腹を満たしたのだから申しわけなかった。やっぱりカネがなかった。悲しいほどの貧乏学生だったのである。だから僕の中では「バロック音楽=ビッグマック」という恒等式が成立していて、いまも「ビッグマック!」と注文する自分に誇りを感じ、石丸のカウンターでバロックものを大人買いしてたおじさんの身分にやっとなれたという感慨にひたれる。

バロックは親父のSPレコードにも「G線上のアリア」ぐらいしかなかった。僕はチゴイネルワイゼンの方が好きだったがなぜかサーカスの音楽だと信じており、「G線」はゆるくてあんまり好みでなかったが高級感は感じていた。そのまんま大人になったのだろう、バロックは知的でハイソできらきらして見える。クラシックは何が好きですかなんてきかれたら?モーツァルトはミーハーだ、ベートーベンはオタクっぽい、マーラーはダサい、「バロックですね」なんてさらっと言うのがまことに粋であろうと思う。

僕がバロックに引いていたのはもう一つ理由がある。音楽の授業で鳥肌が立つほど嫌いだった笛の実技。バッハの管弦楽組曲第2番のどれだったか、たぶんポロネーズあたりを吹くというのがあった。あれは壮大なバッハの冒涜の試みであった。僕はピッチの外れたリコーダーの合奏音が生理的にだめであり、何の関心も持てないから早く捨てたいと願っており、もちろん自分も非常に下手であって不快感の倍加に貢献させられるわけだ。この調子だから音楽の通信簿は2であった。皆さまは学校教育というものに懐疑的な劣等生の音楽記を読まれている。

おかげで第2番がトラウマになり、あんなものを家でレコードで聴こうなどという気が毛頭起きなくなってしまった。それを救ってくれたのがこれだ。浪人時代に買ったカール・リステンパルト指揮ザール室内管弦楽団による管弦楽組曲全曲である。勉強にあきあきしており、全部すっぽかしてのど骨が刺さったままだったバロックを攻略することにモチベーションが向かっていた。そこでこの演奏に出会ったのは幸運だったが、なんのことない、このLPを選んだのは「ディスク大賞受賞」というキャッチの割に2枚組3千円で安かったから、それだけだ。石丸電気の3号館で買い、よしバッハ攻略だと嬉々として鶴川の自宅に帰ったのを覚えている。

この2番、ロ短調の悲愴さがあまりない。1960年の録音。バッハを精密画風の微細なデッサンで幾何学的に描く演奏が出てくる前のなつかしいスタイルであり、ほっとさせてくれる。フルート協奏曲を思わせる編成だがロジェ・ブールダン(1923-76)のソロは中低音が肉厚で暖色系で良く歌い穏健派かと思えば終曲の運動神経は違う姿を見せる。フランス人なのだがヴァイオリンとユニゾンになると倍音が共鳴して独特のリッチなソノリティを発揮しており、この音は東独時代のドレスデン・シュターツカペレやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管にもあったのが不思議だ。リステンパルト(1900-67)はドイツ人の天文学者の息子。音楽を自然に流しているように聞こえるがフレージングは潔癖でむしろ理知的である。

 

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「音響マニア」と「オーディオマニア」の差

2019 JUN 24 2:02:04 am by 東 賢太郎

クルトマズアがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で録音したブルックナーというと昭和の評論家たちが一顧だにせず、日本では捨て置かれていたに等しい。思うのだが、彼らはどのぐらいヨーロッパのコンサートホールや教会でブルックナーを聴き、自宅ではどんな装置、環境でレコードを聴いていたのだろう?

マズアの指揮は急所の盛り上がりやメリハリがなくてダルだという人がいる。あるはずないだろう、ライプツィヒのトーマスゲルハルト教会の見事な音響の中でゲヴァントハウス管弦楽団を鳴らすのに何故そんなものが要るというのか。本物は何の変哲もない。それを平凡だ、凡庸だという。では彼らはブルックナーにいったい何を求めているのか。本物を知らない人がまさか評論家をやっているとも思えないからそんな疑問が浮かんできてしまう。

オーディオマニアで本物の音楽を知っている人はあまりいない気がする。音楽をわかっているという意味で男女差はないが、女性のオーディオマニアはあまり聞かないという事実がそれを示唆している。しかしオーディオは音楽鑑賞には不可欠だ。MP3も普及という観点では結構だが、クラシック音楽は本来は教会でパイプオルガンやコーラスの風圧まで肌で感じるものだ。イヤホンでポップスはOKでもクラシックではまがいものでしかない。

そういうフェイクの音で覚えると、正統派の本物の演奏は外連味のない退屈なものと思われてしまう。たとえば風邪で鼻がつまると酒の味がわからない。フェイク育ちというのは要は安酒しか知らないということなのだ。安酒はウリが必要になるが、それ用のコクだキレだなんていう意味不明の基準で樽出し中汲みの純米大吟醸を語ってはいけないのである。クラシックについて語るということも、それと同じで語れば語るほどどんな音で育ったかお里が知れてしまう。

僕の基準から全集でいうならマズアのオイロディスク盤は東独のオケの音をアナログで聴かせる特級品だ。楽器の倍音がたっぷりのって教会の空気に融けこむ。これぞヨーロッパの音である。そして、何度も書いているが、ブルックナーはこういう音で再現しないとわからない。僕はオーディオマニアではないし趣味性において完璧な別人種だが、11年半どっぷりとひたっていたあのヨーロッパの音を再現したいという点においてはオーディオの選択に徹底的にこだわったものだからオーディオマニアと思われたんだろう、「ステレオ」誌に写真入りの記事が載ったのはお門違いも甚だしく、照れ臭かった。

お聴かせできないのが残念だが、このマズアの音を平凡でつまらないという音楽愛好家はあんまりいないと思う。こういうことを書けば嫌みだろうが僕は物書き商売でないから嫌われても構わない。真実を書くほうが大事だ。ブルックナーはカネがかかる。バイアンプの大型システムで再現しないと無理である。東京のホールは全部三流だからウィーンフィルを聴いてもだめ。ということは、大型システムを据え付けたリスニングルームを作って、マズア盤のような本物の音がする録音を聴くしか手はない。

クルマ好きでないから何故フェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニがいいのかわからないが、何かマニアなりの理由はあるのだろう。僕は音響マニアだからもちろんそれがある。クラシックはもとは貴族の道楽だ、やっぱりカネがかかる。それをけしからんのどうの言ったってそうなんだから仕方ない。庶民に理解できないというのはウソだ、そうではない、本物の音を聞かないとなかなかわからないが、それを聞くのにはちょっとカネがかかるというのが事実である。ワインに似ている。

装置がOKとなると今度は音源の限界という問題が初めて見えてくる。我が家の場合、ざっと8割は不合格だ。演奏がだめなのと、同じほど録画技師がだめなのがある。センスの悪い奴が余計なことをするなと腹が立つばかりである。だから1万枚ほどはもう二度と聞かないし捨ててもいいものになるが、何故棚にあるかというと、買ったときのあれこれをいちいち覚えてるからだ。情けないが捨てられない。男は別れた女をいつまでも忘れられないというが、それと同じことかもしれない。

クラシック徒然草―最高のシューマン序曲集―

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64本のスピーカー・オーケストラに絶句

2019 JUN 18 1:01:14 am by 東 賢太郎

ヒビノ株式会社は「音と映像のプレゼンテーター」として類のないわが国を代表する企業である。今回あるプロジェクトで新木場にある工房「シンフォキャンバス」を訪問した。

ビルの7階を占める大空間に64本のスピーカーが並ぶ壮観。一本一本がオーケストラの個々の楽器音を出すシステムは僕も夢想はしていていずれ作りたいと思っていたが、まさかそれがこの世にあるとは!

そう思ったのは僕自身がシンセサイザーを演奏してMIDIで多重録音を膨大にしたことがあるからで、楽器を重ねていくと徐々に音の混濁がさけられなくなり、マルチトラックの本数を泣く泣く減らして本物っぽくした経験があるからだ。しかし作曲家が心血注いだスコアに無駄があるはずはなく、それをさせられる不快感を解消する唯一の方法はシングルトラックをマルチにする、すなわち、楽器の数だけスピーカーを鳴らすしかないという結論に至っていた。だからこの「スピーカー・オーケストラ」は究極の世界なのであって、それをやっていただいた方がこの世にいるということ自体が夢のようであった。

これを作られたのはシニアネットワークスペシャリスト宮本宰(みやもと つかさ)さん。このシステムはまさに人生賭けた入魂の作品である。早稲田大学理工学部在学中にフォークグループを結成してアルバム1枚、シングル3枚をリリースするが、そこで録音作業の妙に魅せられて音響技術者を志すこととなり、故冨田勲氏に信頼された斯界の大家である。「部屋(空気)が音楽を作る」という哲学が合致することを知り、僕が「リスニングルームを石壁にした」意味を完璧に理解していただいた。写真の通りバスドラにウーハーが組み込まれエレキベースはアンプが置いてある。お察しいただけるだろうか、これは空気を振動させる道具であるという合理的思考の貫徹である。素晴らしい。隣で聞いていた岩佐君によると僕は「鳴るのは部屋。スピーカーじゃない」と自宅で力説したらしく(覚えてないが)、宮本さんと「まるで兄弟の会話」だったらしい(氏は7つ先輩)。たしかに、こんなお兄ちゃんがいても不思議でないと思うほどそっくりな嗜好で似た路線を追求されておられ、ただ、こだわりの徹底ぶりは足元にも及ばない。

どんなものかこの動画をご覧いただきたい。

宮本さんはクラシックはベートーベンの運命から入り、オーマンディーで覚えた。「だからカラヤンも小澤もぜんぜんだめなんです。物足りない。第4楽章へのブリッジなんかもね。だから自分でMIDIで作ってしまいました。音質は落ちますが音楽はやっぱりグルーヴなんで酔えるんですよ」なんと、まったく僕と同じことをされている。ひとりぼっちじゃなくてよかった!こうしていきなり話がストライクゾーンに入って延々と続いてしまい終わりがない、仕方なく、ではそろそろと「演奏」していただいたのがこの曲。ワーグナーのタンホイザー大行進曲である(このビデオではない)。

名古屋フィルを合唱付きでマルチマイク録音したその迫真の音は衝撃だった。正直のところこの手のもので僕が驚くなどということは自分で想定もしていない。かつて人生でスピーカーからこれ以上のものを聞いたことはないし、オーディオなどというものの次元であれこれやってきた自分が馬鹿らしくなってしまった。音ではなく音楽に心から感動し、鳥肌が立った。弦楽器の生々しさ、管の質感、重低音の空気感!目をつぶれば掛け値なしにそこにオーケストラが「ある」。奏者が「いる」。

「宮本さん、これで春の祭典とダフニスとクロエをやりたい」とほざきながら、もうそれが頭の中で響いている。あのブーレーズのCBS録音の質の演奏をこれでやったら、もう鼻血ものだ。ワーグナーをサンプルに選ばれたのにも表敬したい。僕自身の経験からマルチトラックの混濁はスコアのパート数だけではなく作曲家のオーケストレーションの癖にも依拠して発生する。中音部が厚くてだぶる傾向のあるワーグナーは非常に鳴らしにくい作曲家なのだ。MIDIでないとはいえ、そこに声楽まで出されてしまうと二の句がつけない。これで作曲したらとぞくぞくするが、人生それで終わってしまうかと不安にもなってくるほど。

ポップスもということでホイットニー・ヒューストンのライブを、これは映像付きできいた。劇場の特等席で舞台を見上げている感じだ。これまた絶句するほど凄い。故人のアーティストが生きてそこで歌っているようにというコンセプト。まさにそう感じる。DVDなのにサラウンドで鳴るのはどうして?ときくと、「ピアノを含めて楽器をダビングしました。だから40数本のスピーカーは楽器ごとに鳴ってます。ぜんぶ耳コピです」。いや耳も素晴らしい。

宮本さん、そしてご紹介いただいたヒビノサウンドDiv.大坂ブランチ所長の徳平さん、ありがとうございます。末永くよろしくお願いします。

 

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シュトックハウゼンは関ケ原に舞う

2019 JUN 8 2:02:41 am by 東 賢太郎

シアターピースに興味を持ったのは、高校に上がる春に家族で行った大阪万博(Expo’70)でのことだ。西ドイツ館(左)はプラネタリウムのような巨大なオーディトリウムで中は薄暗く、半球の天井に星の様にスピーカーが設置されている。演奏されていたのはシュトックハウゼンの曲だったが、音(音源)が天球を無作為に移動していく三次元空間の宇宙的な感覚は訴求するものがあった。曲名は記憶にないが、これだったかもしれない。

あの空間の莫大な容積に満ちる空気はまるで液体のように重く感じ、瞬時に天井を前後左右に駆け巡る音はフォトンの様に無質量に感じ、理屈ではなくこの世のものではない。シアターピースに劇場はない。あるのはスペース(空間)であって、舞台、客席、通路などというものは、お仕着せのホールだから仕方なくあるだけで、存在しない(という意識に聴衆になってもらう)。さらには演奏する人間もいらなくなってテープ、コンピューターが奏者となる。

旋律、和声、リズムというものは生身の奏者から客の耳に音を届けるという空間構成に特有のものだ。その空間は点と点の二次元だ。シアターピースは音源の定位(居場所)が無限で三次元になる。西ドイツ館の経験でそれが肌でわかった。しかし無限と言っても移動可能範囲は半球内だ。「宇宙的」でなく「宇宙」にするためには球体の中心点に聴き手が位置しなくてはならない。真下からも音が聞こえる空間だ(=スペース=宇宙、あたりまえだ)。二次元、三次元と書いたが、音楽はそれ自体が時間を内包しているから実は三次元、四次元であって、本質的に宇宙的なアートだ。

旋律、和声、リズムが三次元空間(時間を除く)に存在するマーラーの8番があっても良いが、必然性はない。温泉の大浴場に10人が各所に点在して自由に風呂桶をたたけば、その残響音も入れて三次元のシアターピースになる。そんなものがアートか?Yes. 誰か一人でもアートだといえばすべてのものはアートだというのがモダン・アートの定義だ。そんな馬鹿なと思う人は、空間から「客席」(という概念)が消えた瞬間に「楽音」は消えることを理解していない。あれ以来、シュトックハウゼンを聴ける限り全部聴いたし、音楽は耳だけで聴くものではないと信じるようにもなった。

いま、歴史上の空間、例えば関ケ原合戦でどんな音がしたか関心を持っている。4月に現地をご案内いただいた時から気になっている。合戦場は三次元のシアターである。日本を代表する音響のスペシャリスト、ヒビノ株式会社の幹部の方々とその件でお会いもした。別件だがということでスピーカー64本がシンクロして別々の楽器音を出す “オーケストラ” が新木場の研究所にあると伺い、即刻近日の訪問アポをいただいた。オーディオは原音のシミュレーターだがそれこそ究極の姿だ。64本を別個に駆動するプログラムを書くことで、きっと僕の頭にある完璧な「ダフニスとクロエ」を演奏することができるだろう。想像してもぞくぞくする。

さらには64本のパート譜を持つスコアを書けばオーケストラ曲が作曲できる。生身の奏者はいないから演奏に指揮という行程はいらない。シュトックハウゼンの電子音楽同様に作曲、即、演奏だ。そういう「指揮」ならやってみたい。人間は感情もミスもあるからめんどうくさい。全部を工房の中で完全に支配できるのがいい、全部が自分であり、自己責任であり、自分のクレジットになる。音楽につき、聴いたり弾いたり書いたりしてきたがどうも何かが違う、僕の場合、究極の愛の結実はそれをやることではないかと思う。

そう考えると音大でなく慶応大学を出た富田勲さんが浮かんでくる。あれはいいなとうらやましく思う。そうしたらヒビノの重鎮から不意に「富田先生をご紹介したかったですね」といわれ、「新日本紀行のテーマをシンセで作りました。もしご存命だったらスコア見せてほしかったですね」という会話になった。世のなか面白い。

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猫語と第九交響曲の関係について

2018 DEC 31 10:10:33 am by 東 賢太郎

去年の年の瀬にこういうものを書いていました。

語学コンプレックス

まったくそのとおりなのですが、今年ウチに来てくれた猫、シロとクロの “言葉” をきいて、これも語学であろうと思ったのです。猫はいっぴきいっぴき、言葉が違うのです。というのは、野良猫を見るとわかりますが、猫同士はほとんど鳴き声で意思疎通はしません。鳴くのは「人間用」だからです。

ではなぜ鳴くか?人間に何かをさせたいからです。エサをくれ、遊んでほしい、甘えたい、放してくれ・・・と人間を支配するための信号であって、どんな音を出せば我々がどう反応するかを彼(女)らは注意深く観察して記憶しています。これを僕はクロ様の「長鳴き」(かなり長い)で気がついた。信号にはけっこう個体差があって、どこか似てはいるものの、それらを一元的にネコ語であるとして文法的類型化はできそうもありません。

でも、わかるのです。いっぴきいっぴき、何をいいたいのか・・・。

これはおそらく、ネコ語にはおおもとになる標準の文法のようなものがあって、それがいっぴきごとがしゃべると別々の方言にはなるのですが、たくさん聞いていると枝葉が取れて幹だけが伝わるようになるのです。

それはクラシック音楽に似ています。と突然に言われてもどなたもにピンとこないでしょう。ご説明します。僕はべートーベンの第九交響曲のディスクを58枚持っていますが、その第1号は大学1年の年末に買ったクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のLP(右)です。全くの初心者であった当時として、演奏者は誰でもよく、5番(これは第3号)と2枚組で1800円と少し安かったからこれを選びました。

ところが調べてみると、翌年の2月に2枚目の第九としてリスト編曲の二台ピアノ版(左)を買っています。当時、この曲は「合唱付き」と副題をつけてレコードが売られており第4楽章の声楽こそが目玉でしたが(今でもそうですが)、僕はそれは無視だったわけです。理由は簡単で、マズア盤を聞いてもこの曲がよくわからなかった。むしろ歌が邪魔でオーケストラがよく聞こえず、輪郭がつかめなかった。そこにいいタイミングでこのLPが出て、第九の「幹」だけを知りたくて飛びつきました。僕は第九をピアノで覚えたのです。

この方法は、「ネコ語にはおおもとになる標準の文法のようなものがあって」、という感じにとても似ています。標準の文法さえつかめば枝葉の違いは飛び越えておおよそが理解できる、それは理屈ではなく感性なのでうまく説明できませんが、たとえば英単語でラテン語っぽい接頭語や接尾語をまとめて覚えてしまうと初めて見る類語がすいすい理解できる、それに近いでしょう。利点はとにかく記憶が速いことで受験などには有利です。

ところで、ブラームスは22才の誕生日をデュセルドルフのシューマン家で迎え、14歳年上であったクララとこのリスト編曲の「第九」二台ピアノ版を弾いています。

「それは素晴らしい響きがした。続く数日間というもの、真の喜びを味わいながら、毎日毎日、それを弾いた」(クララの日記より)

演奏しているコンティグリア兄弟はマイラ・ヘスの弟子で、無味乾燥のリダクションものではなく独自の音楽性を感じます。ピアノはボールドウィンSD-10でリッチな低音と高音の輝きが第九にとてもふさわしい。僕の原点です。お聴きください。

さて、もう一つの原点である上掲のマズア盤ですが、録音は1973年で今聴いても悪くないです。彼の最初のLGOとの全曲録音で、合唱団はライプツィヒ、ベルリン、児童合唱団がドレスデンと当時のオール東ドイツの布陣で、独唱も新人だったアンナ・トモワ・シントウにペーター・シュライヤー、テオ・アダムと最強。その割にエキサイティングなパンチ力には欠けますがオーソドックスな安定感は捨てがたい。終楽章、児童合唱のピュアなソプラノパートはなかなかです。弦だけの歓喜の歌にからむファゴットのオブリガートはスコア通り1本で、これで覚えたので2本版は僕は非常に違和感を覚えますし(セル盤は優れていますがその1点だけで聴きません)、主旋律とユニゾンとなる部分の美しさはこれを凌ぐ演奏を未だに聴いたことがありません。ドレスデン・ルカ教会の豊饒な残響も最高で、これでドイツ音楽の醍醐味を知りました。おふくろの味の第九というところです。

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大人買いCDセットによるクラシック音楽市場の死

2018 AUG 25 22:22:01 pm by 東 賢太郎

アマゾンからマーキュリー・リヴィング・プレゼンス・コレクターズ・エディション3が届きました。アンタール・ドラティ、ポール・パレー、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー、アナトール・フィストラーリという気になる指揮者の1960年前後の録音が中心に53枚組というブロッキーなものです。

それが、昨日の午後にネットで見つけて注文したら今朝に家に届いている。店舗で買って、重たい思いをして持ち帰って一晩で53枚聴けるわけありません。でも、3日もたっての配達だとやや熱が冷めてしまう。翌朝のお届けは絶妙ですね。事務用品通販のアスクルは明日来るが売りでしたが、アマゾンの出現で全商品それが当たり前になってしまいました。

だからほとんどの実店舗型小売りは売上が減少し、米国でついにトイザらスが倒産というショッキングなニュースに至ったのはご記憶に新しいでしょう。残酷なようですが自由主義、資本主義はこういうもの、「アマゾンによる死(Death by Amazon)」は盛者必衰の理の一断面であります。

米投資情報会社ビスポーク・インベストメント・グループが2012年に設定した指数で、アマゾン躍進で負け組になりそうな実店舗型小売業を集めた「アマゾン恐怖銘柄指数」(Bespoke “Death by Amazon” index)の株価パフォーマンスを見ると2016年からの2年間でまさに恐ろしいことになっています。


思えばその昔、石丸電気などでLPレコードをあれこれ迷うのは絶大な楽しみでした。LPレコードは収録されているコンテンツの是非以前に、塩化ヴィニールの表面を擦過する針音が一品ごとに微妙に異なるという是非がありました。だから購買にはレジでの検盤という重要なプロセスがあり、それでも帰宅してターンテーブルに乗せてみないと針音はわからないというリスクは除去できず、さらにコンテンツである演奏が気に入るか否かというダブルのリスクがあったのです。

それをCDが駆逐して電子的読み取り信号が商品となった瞬間に目視による検盤は無意味となりました。「第1のリスク」は除去できたものの擦過がなくなり、購買という行為は均質な工業製品の仕入れと変わらなくなりました。しかしそれでもCDはモノではありました。それが今やEコマースだ。僕らはもはや物体でない「虚像(イメージ)」を紙幣という物体すら介さずにプラスチックのカードに記載されている無機質な数字列と引き換えているのです。

まあここまでは百歩譲って「利便性」の勝利と認めましょう。自由主義、資本主義はこういうものだと。しかし均質な工業製品は品質を落とさずに大量生産が可能で小型化により輸送費も在庫管理費も低下して物体としての製造、小売り単価は劇的に圧縮されます。すると「第2のリスク」である「コンテンツである演奏が気に入るか否か」は大方の購買者にとってリスクではなくなってきます。たかが1枚150円のCDがハズレでも大したことはないからです。

そこまで割り切ってしまった自分でしたが、新品53枚組のケースを開けてみると、しかし、これはなんということだと絶句してしまったのです。ドラティのブラームス交響曲全集がドーンと目に飛び込んで・・・。

ここから53枚目に至るまで、一枚一枚のジャケットに感嘆の声をあげながら中のCDを取り出し、いつくしみ、こんなやつが出てくると狂喜し、

こんなのが出てくるや、これは単品では絶対に買わなかったぞと嘆息するという塩梅でした。

このさまを観ていた家内にはわからないだろうと咄嗟に「子供の時にメンコのセットを買ってもらった時の気持ちだよ」と、我ながらうまいことを言うなと納得の説明をしたのですが、さらにわからなくなったようでした。ところがです、一連の出会いの感動からだんだん覚めてくると、この僕にもわからないことが頭をもたげてくるのです。

ちょっとまてよ、セットはいいが53枚組で8千円?なんだそれは、1枚150円かよ?カラのCDRがそんなもんだったじゃないか、ということはコンテンツはタダのおまけか?何かおかしいぞ、ドラティのブラームス、俺は1万円でもいいぞ、コープランドは5千円でも。

ほんとうです。まったくイラショナル(非合理)なことですが、僕は150円じゃなく1万円、5千円払いたいのです。もしそれで昔の価値観の時代に戻るなら・・・。

2000年ごろ不良債権のバルクセールというのがよくありました。纏め売り、バナナのたたき売りであって、単品では売れないクズ不動産を「オトナ買い」させたい銀行の窮余の一策でした。「53枚組はあれと同じか?そんなにCDは売れないのか?」、危機感が僕の頭をよぎりました。現実に売れ残りのバルクの中に箱根の土地があった。芦ノ湖、プリンスホテルを眼下に望む景観があって、えっ、こんな安くていいのという値段でした。

リゾート地が売れなくなる。業者は資金効率のために売らんかなの姿勢になる。すると売れる市場価格まで値が下がる。すると景観の価値は度外視になるのです。駅近、治安、生活インフラなど万人が気にする要素(地価を決めるハードとしての要素)に比べ趣味性が高い景観は先に無視される要素なのです。CDにおいてコンテンツである音楽は趣味性の要素で、売らんかな姿勢の業者がバルクセールをすれば、値段はハード(工業製品)原価であるCDR1枚の値段まで下がり得るということです。

それは購買者としてはむしろ有難いことです。しかし、マクロ現象として長期的な目で見るならば危機をはらんでいます。53枚組のどの1枚だってLPの頃は1500円はしていた。インフレを加えると10分の1超に至る価格破壊が「第2のリスク」を軽減してはくれます。しかし、その背景で由々しきことが進行しています。購買者は選択の安心と引き換えに鑑賞への集中力を無意識に放棄しているということです。まあ安いから聞いてみようか、1枚150円のCDがハズレでも大したことはないや。10倍のお金で買った場合とは集中力はおのずと違います。それが常態化すると人間は徐々に不要となった能力を失うのは進化の歴史が証明しています。

供給者側でも、アダムのジゼルの程度のクオリティの音楽、つまりたいして売れそうもないコンテンツを当代一人者のフィストラーリのような演奏家、最新鋭の録音システムでコストをかけて商品化しようというインセンティブは著しく低減するでしょう。英Deccaがヘルベルト・フォン・カラヤン / ウィーン・フィルを起用したジゼルは1分当たりの(音楽の価値)÷(製造者原価)の値が最も低い録音だろうと思われ、収録した1961年あたりにクラシック音楽ソフト市場の数値のボトムがあった可能性が高いと考えております。

需給の両サイドでの質の低下は確実に文化を変質に追い込みます。経済学のわかる人は本稿の趣旨である「アマゾンによる死(Death by Amazon)」との類似性を見抜かれるでしょう。大人買いCDセットはクラシック音楽ソフト市場の断末魔になりかねないのです。

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