Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______音楽と自分

LPレコード回帰計画が再スタート

2021 FEB 12 18:18:03 pm by 東 賢太郎

昨日は久々にLP漬けの一日でした。昨年浸水で中断していたレコードプレーヤー選びを再開することにしたのです。これから何機種か自宅のシステムとつないで試聴しますが、最初に届いたLINNのKlimax LP12にすでに度肝を抜かれています。ひとことでいうなら塩ビの盤を針が擦ってる感覚が消え、マスターテープを回している感じですね。まったく、66にもなって何を今さらなんですが、音盤にこんな膨大な情報が入るものかとですね、子供みたいに物理現象として改めて感嘆している自分が情けなくなります。驚くべきは三次元に広がる音場感、音の立ち上がりのキレと速度、低音にブーミーさが皆無で締まり良く、クリアな音像追求派と思いきや耳元にリッチに伝わる倍音はハモった我が声を包み込んで聞こえなくしてるし、このクオリティは尋常でありません。

OSCAR PETERSON、
At The Concertgebouw

まずはチック・コリアのSecret Agent。こいつはショック。初めて値打ちを知りました。オスカー・ピーターソン・トリオのアムステルダム・コンセルトヘボウのライブ(これはシカゴだったらしい)。唸り声がリアルで、客の拍手の粒立ちまでわかる。すると奏者の定位がおぼろげに出てきます。でもあり得ないんです、だってモノラルなんだからね、あまりにリアルなんで頭がそう変換して聴いてるんですね。ディスクが生き返るとはこのことだ。

カーペンターズは楽器音のクリアネスは言うに及ばずコーラスのざらっとした質感、クオリアまでわかる。そして何よりカレン・カーペンターの声にはまいりました。これぞ肉声。SACDもかなりのレベルですがこっちの方が上でしょう。僕は微小な舞台ノイズに喜びを覚える趣味はありませんが、それが歌手の心の気配を感じるレベルともなるともう別である。写真や動画でも人の喜怒哀楽はわかりますが、目の前にいる人に喜んだり泣かれたりしたらその比ではないわけです。ライブ感とはフェイクが前提の言葉ですが、ここまでいくと機器の存在が消えてもはやライブになってます。伝わってくるのは彼女の心の動きで、これは音楽演奏が人を感動させるエッセンスなのかもしれません。

この3人はみな自作を演じてます。作曲家でもあって、おざなりでない何かを伝えたい意思と力を感じます。そういうエネルギーは音を超えたもので、言葉や演技でも、いや、時に料理にだって感じることがあるんです。それを我々は目や耳や舌で受け取るわけですが、それが何かを言葉で説明するのはとても難しい。「気」とでもいうものでしょう。3人にそれを初めて感じたのだからレコードプレーヤーの威力です。業界のレファレンスの呼び声高いKlimax LP12、見てくれの割に半端でないお値段なんですがこの音ならどこからも文句など出ようがない。実力がよくわかりました。

オーディオは奥が深いと思ったのは、この最上級の名器でも、クラシックでは少々僕の趣味とずれがあることです。それがどうしたんだ?というぐらいほんの少々なのですが、ヴァイオリンの高音域がですね、スピーカーがスタジオモニターにもなる位そのまんま出てくるB&Wなんで、そのダイヤモンド・ツィーターが解像度の高いLP12だとキツめに反応していると思われます。これは僕にはダメなんです。ジャズ、フュージョン、ポップス系ではこれを凌ぐ音を聴くことはまずないだろうと思うレベルですが、オーケストラは難しい。ただし歌はいいですね、ルチア・ポップのモーツァルト・アリア集、僕は彼女が好きなんで至福の時を過ごせました。きれいなだけの声じゃありません、喜怒哀楽も色香もあってね、ポップはキャリアのスタートは演劇だったんです。そんなことまで伝わってくる、恐るべしです。

もうひとつ、感動したのがケルテス / ウィーン・フィルの「魔笛」です。64年8月12日のザルツブルグ音楽祭のライブで、63年に僕が愛聴するクレンペラーのEMI盤で夜の女王を歌ったルチア・ポップがここでは第一童子です。なんと贅沢な!クレンペラーは侍女にシュヴァルツコップを起用していてそういうことに見えますが、実はそうじゃない。ポップはこの時まだ25才の小娘だから分相応なのです。ケルテスの夜の女王はベーム盤の同役をつとめたロバータ・ピーターズです。ポップは元々スーブレットで強い声質ではなくピーターズの方が一般論的には向いてますが、申しわけないがポップの方が数段うまいです。そう、だからこそですね、老クレンペラーが、それもこのザルツブルグの前の年にですね、ぽっと出のお姉ちゃんだったポップを夜の女王に抜擢している。これはヤクルトが20才の村上を4番にすえたようなもんですが、そんな程度の話じゃない。巨匠にとって人生最後の大事な録音となることがわかっていた「魔笛」だったのです。クレンペラーの慧眼には凄みすら感じますね。というわけで貴重な全曲盤なのですが、このイタリア盤、モノラルは仕方ないとしても録音がボヤッとした音であまりに冴えません。完全に諦めてましたが、ひょっとしてと思いかけてみました。結果は合格。初めて楽しみました。ありがとう。

Klimax LP12、大変な威力です、なにせお蔵入りを次々と蘇生させるんだから悩ましい。手放したくないなあ・・でも来週はドクトル・ファイキャルトが来るんだっけ。困りました。

 

(PS)

なんと、チック・コリア氏が死去?ついさっきニュースで知りびっくりしました。本稿執筆時はつゆしらず、彼のレコードを取り出したのも虫の知らせか・・・?

今年の演奏会ベスト1

2020 DEC 24 0:00:38 am by 東 賢太郎

1位 読響定期・グバイドゥーリナ:ペスト流行時の酒宴

恒例のベスト5ですが、すみません、なにせ今年はコンサートというとこれしか聴いてませんからベスト1。それにしても、1月15日にこの曲を選んだのは指揮者の下野竜也氏に神のお告げでも下ったのでしょうか。コロナ流行時の酒宴は自粛になろうとはこの時点では誰も知りませんでしたね。

コンサートばかりではありません、CDはここ数年買ってなくてCD屋にすら行ってません。コロナのせいばかりでもないです。あんなにワクワクして毎週買いこんでたのが何だったんだろうと考えてしまいます。僕はクラシック界においては相当な大手顧客でしたから今後が真面目に心配です。

クラシックは難しくて、百年二百年まえのもんだって意識がどうしてもついてきます。僕の世代の聞き始めのころはフルトヴェングラーやバックハウスって亡くなったばかりのお爺ちゃんがベートーベンの語り部みたいに扱われていて、カラヤンは青二才だったわけです。

いってみれば、古老の講談師が忠臣蔵や四谷怪談を語って伝承するみたいな世界で、ぽっと出の若いお兄ちゃんが「時は元禄・・」なんてやったところで古手の聴衆からしたら「てやんでえ」みたいなところがある。若かったころはうるさいジジイと思ってましたが、いつのまにか自分が言われるトシなのです。

つまり若い指揮者が「春の祭典」やってくれても、こっちは50年前からきけるのは全部きいてるんで「兄ちゃん、えらい元気いいなあ」って見てる自分に気づくわけです。困ったもんですがどうしようもない。「エロイカ」「ブラームス4番」ぐらいになると「おとといおいで」なんです、ほとんど。

この境地、もう鑑賞ではなくて曲に「はいっちまってる」のです。すると指揮者もヒトだから気が合うあわないが出てきて、僕は合わない方が圧倒的に多いのです。それが古老だとひょっとして俺が間違ってるかと謙虚にもなりますが、もうほとんど亡くなってしまいましたね。年下だと往々にして一刀両断になってしまう。クラシック音楽の宿命と思います。

むかしレコ芸で大木正興さんや高崎保男さんの批評を読んで、そんな印象を懐いてました。僕の思い込みもあるかもしれませんが、若手に厳しかった。切り捨てだった指揮者たちはやがて大家になり、現在は多くがあの世に行ってしまいました。でも、いまは先生方の気持ちもわかる気がする。

つまり、何百年たっても、常に一定数のこういうジジイと若手演奏家が対峙する。そこでバチバチと火花が散ってアウフヘーベンして、演奏が進化するのです。そうじゃなければ古典芸能は博物館行きです。そうならないこと祈るし、よし、そのために徹底的にうるさいジジイでいてやろうと思うのです。

とはいえ百回に1度ぐらいは、耳タコの曲で革命児の解釈に「そうくるか」となって、スコア見てみると「なるほど」なんてのがある。これはライブに多いのです。熱い評を書いたファビオ・ルイージの「巨人」、トゥガン・ソヒエフの「プロコフィエフ交響曲第5番」なんかがそうだったのですね。

それに出会うのが演奏会の醍醐味ですが、百回に1度ということは99度の無駄があるということなんで、だんだん時間が無くなってくると辛いなとなってきます。冒険しなくなってくるのです。音楽に関心が薄くなるのではなく、残り時間の配分をどうしようかという問題ですね。

僕は骨の髄まで「プレーヤー志向」なんです。死ぬまで選手でグラウンドに立っていたい。では自分が何のプレーヤーかというと、もちろん証券業なんです。それ以外はすべて、その他大勢、観衆、聴衆でしかない。外野席で他人のプレー観てああだこうだなんてつまらない余生は送りたくありません。

今年は3月からリモートワークでしたが、全然変わりなく仕事して、逆にリモートでしかできない会社まで作りました。12月に入って俄かに忙しくなってきて、案件はひとつ終わりましたが、ひょんなことからでっかい新規の芽が3つ4つも出てきて寝る間もなくワクワクしてます。逝くならこのままコロリがいい。

もう欲しい物もなく功名心もプライドもなし。仙人と違うのはワクワクして生きたいことぐらいです。もちろんクラシックには求め続けます。でも興奮より安寧ですね。慰めでなく精神のふるさとでおふくろの味にホッとするみたいな、そういうものを与えてくれるのもやっぱりクラシックなんです。

ブルックナーがいいですね、どっぷり浸っているだけで。すると、どうしてもクナッパーツブッシュに行っちゃいます。ロンドン盤のVPOとの5番、僕はあれで入りましたからね、めちゃくちゃなカットがあったりしますが初めてレコードをかけて、一発で気に入ってそれ以来の付き合いです。

いま鳴らしているのは4番です。ベルリンpoを振った1944年9月8日の放送用録音です。これって、あのノルマンディー上陸作戦の3か月後、ヒットラーが自殺してドイツが降伏する半年前なんですよ。スイスに近いバーデンバーデンとはいえ、すぐそこで戦争をやって血の海、死体の山になっているさなかに音楽なんて日本では死刑ものです。いま疫病の流行時で音楽は止まってしまいましたが、ドイツでは戦争でも止まらなかったという生々しい記録です。

彼の4番は1955年のウィーンフィル盤が音も良く一般的にはお薦めということになっていますが、あんまり熱量はありません。音は良くないレーヴェによる初版ですが、フルトヴェングラー(逮捕命令が出ていた)在任中のベルリンpoとのこれはテンションが高く、かたや第2楽章は天国的です。第3楽章のトランペットはじめ管楽器のタンギングの見事なこと!陰影の深さ、緩急、膨らみが自由自在で、国家瓦解の危機で鳴るブルックナーはこうなるのかという代物です。なんという安寧、僕の精神のふるさと、クナッパーツブッシュは神と思います。平和ボケ国の若いお兄ちゃんにはやっぱりあり得ませんのです、この世界は。

 

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佳境に入ったクラシック音楽との付き合い

2020 OCT 9 18:18:08 pm by 東 賢太郎

マーラーの2番「復活」だけ指揮するアマチュアのギルバート・ キャプラン氏にならって、プロの指揮者に1曲だけ習ってやってみたいと思ったことがあります。米国の実業家キャプランは「復活」マニアでした。子息が亡き父のオフィスを整理していたところ、埃をかぶった箱から偶然に出てきたのがこのフィルムだったそうです。初めて振った「復活」です。

この曲だけとはいえ、ロンドン響、ウィーン・フィルを含む世界の75のオーケストラで振っている。音楽の教育は受けなかったが、客観的に見ても才能があったということでしょう。しかし僕が特筆したいのはそれ以前にビジネスの才があったことです。ざっくり書きますと、ニューヨーク大学法学部を出て1963年にアメリカ証券取引所のエコノミストになります。給料は1万5千ドルでした。4年後にインスティテューショナル・インベスターズ誌を創業して主筆をつとめ、17年後に同社株を$75milで売った。当時の為替レートで170億円です。

こういうことができるのが資本主義です。ウォートンスクールの学生のころ、バーで同級生のアメリカ人はみんなわいわいこういう話をしてました。40才でウォールストリートの仕事を辞めて何をしたいかと、お前の夢は何かと。大会社で出世したいなんてのは一人もいない。会社は作るもの、 It’s you. 、おまえ自身だぜ。ビジネススクールはそういう連中の集まりで、そういわれたとき、自分の中でばりばりと何かが崩れました。替え玉受験説はあるが若きドナルド・トランプもそうやってあのあたりのバーで口角泡を飛ばしていたに違いない。 キャプランは音楽界では “an amateur conductor of Mahler’s Symphony No. 2.”(マーラー2番専門のアマチュア指揮者)ですが、ビジネス界ではまさにそうやって夢をつかんだ男、アメリカンドリームを体現した男なのです。

カネで何でもできるのもアメリカだろうという人もいますが、野球好きのおっさんが甲子園球場を借りて夢をかなえるみたいな話とは次元が違います。その理由は下のビデオで明らかにされますが、マーラーの自筆譜を購入して研究に研究を重ね、楽譜が読めないハンディは全部を耳で暗記してスコアなしで振ることで克服しています。棒の振り方を習ったのは40才です。「ワルターやバーンスタインやショルティの録音が残る中であなたが指揮する意味は何か?」と問うインタビュアーに「私は誰より2番を、マーラーを知っているからです」と述べる半端でない没入と情熱と知識と自信が世界中のプロの演奏家を動かしたように思います。

彼は25才までこの曲を聴いたことがなく、カーネギーホールでやるストコフスキーのリハーサルに招かれて初めて知ります。本番を聴いたその夜、旋律が脳裏にまつわりついて眠れなかったと語っています。知的で冷静に見える人ですが、ハートが熱い。本人の口から想いをきくとびしびし心に刺さってきます。

そういうことを自分もやってみたいと思ったのは38か9のころ、フランクフルトにいた時です。娘のピアノの先生がいい人を紹介してあげるわよということになって、習おうかなと傾きかけました。だけどやらなかった。自信がない、仕事が忙しい、そういうものに負けてしまった。じゃあ今やるかというと、もうあの時の情熱も記憶力もありません。アメリカには難病で生きられないかもしれない子供の夢を寄付でかなえてあげる Make-a-wish というNPOがありますが、本気でやるならオトナの夢も叶えてあげようという文化的な土壌もあります。日本で既にプロだったイチローでも、これだけ打ったのは凄いじゃないか、新人王にして讃えてやろうという寛大さ。日本にはないですね、そういう問題もあります。難しいでしょう。

トーマス・ビーチャムみたいにマイ・オーケストラを作る手もあります。でもプロ・オケさえ財政難の世で到底資金が続きません。仮に資金があっても、アートはそういうものではない。ビーチャムの楽団への情熱が持てるか、キャプランの復活への愛があるかという事です。それなくして誰も真剣についてこないでしょう。ちなみにキャプランは、ワルターもバーンスタインもショルティもそうであるようにユダヤ系と思われます。彼らにはマーラーへの心的、スピリチュアルなつながりを自らが信じられる何かが有ります。同じ民族だから共振できるのかルサンチマンなのか僕には知るすべがありませんが、メンデルスゾーン3番の稿で主題にしたとても深いことで、わかる方はわかるでしょう。作曲家と交信、共振できたから皆がついてきた。うらやましいことです。

僕はドイツにいてドイツ語さえままならない自分がどうしてモーツァルトを理解できるのかと感じてしまった。困ったものです。バッハもベートーベンもブルックナーも、みんな遠ざかってしまいました。日本語世界で理解していた彼らとはおよそ程遠い人間だということを知ってしまった気がしたのです。みんな同じ人間だ、音楽はその共通語である。これは20世紀のアメリカ人が作ったマーケティングコンセプトです。19世紀以前の人間にそんな概念があろうはずがありません。モーツァルトは、「こういうパッセージを入れればパリでうける」と父親宛の手紙に書いている。ヨーロッパの中ですら文化はローカル色豊かであったのであり、アメリカ人はそこからハンバーガーをみつけだし、マーケティングという手法で国中で同じものを食べさせて膨大な売り上げを作り出すことに成功したのです。

クラシック音楽でなぜそれが必要だったかというと、ナチスのころ大勢のユダヤ系音楽家が亡命してきたからです。知識人には歓迎された。しかし大衆に売れないと彼らは食っていけませんからビジネスする必要があった。ロス・フィルに雇われたクレンペラーは悲愴交響曲を盛り上げて第3楽章で終わらせてくれとマネージャーに頼まれてます。そんな田舎者に音楽は「共通語」だなどとクレンペラーが思ったはずもなく、啓蒙しようという意欲もなかった。うまいこと妥協できてスターダムに登ったトスカニーニは忖度でスーザまで録音し、常識的にはイタリア人に頼まないだろうベートーベンsym全集や、ヒットラーの臭いがするが売れそうなワーグナーも、ドイツ人でない男ならという事でオハコにできた。田舎者に一切の妥協もせず極貧に陥ったバルトークは、クーセヴィツキーの手管でボストン響の委嘱という形をもって「アメリカ人でもわかる」オケコンを書いたのです。共産主義や資本主義という政治とアートの相克はソ連だけと思ったら大間違い、アメリカにも生々しくありました。

そういう事ですからアメリカ人にとってドイツの音楽は良くも悪くも特別なものでした。それは敵国、ユダヤ人問題という要因を論じる以前に、がっちりと胡桃のように固いドイッチェランド(Deutschland)なるものが英米(アングロサクソン)とは本質的に異質だという事に発しています。このことは、日本通の英国人が日本について持っているイメージと通じるものがある。韓国、中国と違うのはそれだと見抜いています。日本人とドイツ人に似たものはかけらもありませんが、総合的、俯瞰的に似たものがあるとするならそれでしょう。僕は16年の海外生活でずっと英語で仕事をしましたが、ドイツだけは公私ともにどうもうまくいかなかった。あの3年はやっぱり自分の中でばりばりと何かを崩したのです。ここでは書きませんが、哲学もプロテスタントも印刷術も科学技術もグリム童話もナチス党も混浴風呂も、なぜあの国で出てきたか確固たる理由がある。したがって、同様に、音楽にもあるのです。

アメリカでマーラーはドイツ語を話すユダヤ人の音楽であり、ニューヨーク・フィルを率いた指揮者の音楽でもある。しかしクレンペラーは「マーラーがどんな人であるかを認識した人は(ニューヨークに)誰もいなかった」と述べ、「アメリカで何が一番気に入ったか」と尋ねるとマーラーは「ベートーベンの田園交響曲を指揮したことだね」と答えたそうです。ここはさすがに悲愴交響曲を知らない西海岸とは違うとも考えられますが、田園がああいう風に終わることを独墺の客は知っていてニューヨーカーは知らなかった、ないしは、本場の大先生が振るものは何でも有難がって聴いたとも考えられます。どちらにせよ彼は自由にオケを使えました。その彼の交響曲を半世紀後のユダヤ系指揮者が次々と十八番にし、ユダヤ資本のレコード会社が商売ネタにして広まりました。カトリックのブルックナーはそれがありません。日本人の朝比奈がシカゴで振ってうける土壌がないのです。僕を含め日本人は彼らの宗教を知りませんからクラシックは高級なエンタメの一部門であり、いわば料理界のフレンチであり、カレーとラーメンで済む人には縁がありません。改宗することもないので僕はカトリック、プロテスタントを「お勉強」することで、カレーもラーメンも好きだけど同じ土俵でフレンチもいいねという付き合いになってます。

だからあれ以来僕はモーツァルトはエンタメとしてつき合うことになりました。ドイツ語を母国語としないアメリカ人のドン・ジョヴァンニを日本人がエンタメとして楽しむ。何国人が作ろうとフレンチは上等であれば美味なのだからそれはそれで結構。楽譜を音にしてもらわないといけない以上は格別に技量が高いシカゴ響にお願いしたいと思うし、そこにモーツァルトが意図してない喜びを発見する余地はあるでしょう。しかし、その姿勢でどんどん遊離して行ってフレンチにワサビが入ったり寿司でアヴォガドを巻いたりするヌーベルなんたらという流れ、僕はあれはまったく受け付けません。食とアートは別物ですが、創造者にリスペクトのないものは型破りでなく型なしです。そういう思想の持ち主なので、エンタメ国アメリカの人間であるキャプランが2番の自筆譜をめくりながら、まるで霊的なオーラがあるかのごとくマーラーという人間を感じ取るビデオの場面は、本当にそれができたかどうかはともかく、演奏家の姿勢としては畏敬を覚えます。だからロンドンでもストックホルムでもウィーンでも、敬意を持って迎えられたのでしょう。

この楽譜に忠実にという姿勢はもちろん日本の音大でもあるでしょうが、聖書が絶対という姿勢に通じるものがあって、単なるテキストは大事にという程度のものでない。宗教的なものがあります。ユダヤ教、イスラム教が聖書に厳格なのは周知でしょう。カトリックでは離婚ができないから英国国教会ができてしまう。プロテスタントも福音派が進化論(=科学)は認めないし、コロナに罹患しようとマスクはしないのです。どれも仏教徒の理解をはるかに超えるものです。作曲家のスコアが聖典であるという原理。キャプランはそれに従い、聖典に対する深い情熱が人々の心を動かしたということです。思い出しますが、韓国人のH.J.リムという女性ピアニストが12才でパリに留学し、感ずるものがあり、ベートーベンの伝記や書簡など手当たり次第に読んだそうです。そこで彼女なりの作曲家の人間像ができ、ソナタをベートーベンの人生の局面局面のカテゴリーごとに分類し、全曲録音した。まったくもって彼女の主観であり本当にそうかどうか学問的にはわからない。しかし誰も反論できないのも事実であり、学問的に知りうる範囲で忠実にやりましたなんて安全運転の演奏よりずっと面白いのです。そう思う人は彼女にリスペクトを持ちます。もっと勉強しなさいなんて書いた日本の音楽評論家がいる。こういう馬鹿な人がクラシックを滅ぼしているのです。

異国人、異教徒の音楽ではありますが、彼女のアプローチは世界で堂々と通用するでしょう。キャプランの手法に通じるものがあるからです。まず作曲家の人間を深く知る。知識だけでなく感性でも霊感でも動員して。そこで初めて記号にすぎない楽譜の行間が読める。資料が乏しいバッハのような人物でも、アプローチのメソッドとして一貫してそうすべきなのです。そういうことは教科書に書いてないし先生に教わるものでもない。自分で体感し創造するものです。アカデミックに正しい古楽器の選択をという博物館長みたいな道よりよほど重要です。演奏する人にその曲、その作曲家への没入と情熱と知識と自信なくして聴衆に何のメッセージが伝わるでしょう?コンテンツの貧弱なプレゼンでは、どんなに構成が巧みだろうと英語の発音が良かろうと、絶対にビジネスはできません。僕にとって異国人のモーツァルトという人間は充分にはわかりかねますが、文字という理性で書かれた手紙はわかる。理性は万国共通です。そこで共通するものを発見して喜ぶ。たぶんリムさんも同じと思います。それだけで演奏できるとは思いませんが、共感する演奏の背景に奏者のそうした同化があるなということぐらいは感じ取れるのです。

クラシック音楽との付き合いという事を考えてきて65才になっています。キャプランのような能も財もありません。相当遅れてしまったけれど、この先にアメリカンドリームがあるんだろうか。自分はどういう人間で、本当は何がやりたかったんだろう?仕事はそれのためにやるもので、仕事がそれというのも寂しい。でも、それを取ったら何も残らない程度の人間である気もします。こういうとき、いつもそうだったのですが、偶然に誰か運命的な人の影響でバーンと景色が変わる。そういうことがまたあるんだろうか。たぶんそれはもうレールが敷かれていて、あるのかないのか、わからないのです。

 

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音楽のテレワーク

2020 MAR 31 23:23:20 pm by 東 賢太郎

さっきBSプライムニュースで共産党・志位委員長の話をじっくり聞いた。普段こう言っては何だけど共産党の意見はあまり真剣にとりあってなかったが、自分の言葉でびしっと語られるのは傾聴。現在の状況分析と政策提言は正攻法で説得力があった。

ところで、番組で志位氏が紹介していた新日本フィルの「テレワーク」。興味があったので試聴してみた。

新日本フィルの皆様

ブラボー!素晴らしい!舞台では見えないひとりひとりの表情がいいですね。演奏会できなくて辛いでしょうが、われわれ聴衆も気持ちはひとつです。クラシック音楽を愛する者として来る日を心待ちにしております。

そうしたら大分に帰省されている広津留すみれさんからメールをいただいて、ご自身のyoutubeでやはり楽しいテレワークを聴かせてくれました。

すみれさん、ありがとう。暗い気持ちが一気に晴れました。音楽のパワーは無限だね。いま東京は危ないから来ない方がいいけど、落ちついたらまたお寿司いきましょう。

 

ドイツのモニカ・グリュッタース文化大臣のメッセージです。

文化は良い時にのみ与えられる贅沢ではありません。暫くの間、文化なしで済まさなければならない状況に置かれたとしたら、その喪失感の大きさはどれほどのものでしょうか。私は彼らを失望させません。私たちは彼らの思いを受け止め、文化とクリエイティブのセクターのために支援と財政面でのサポートを確実に実行するため力を尽くします。

 

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すみれさんへのメール

2020 JAN 23 0:00:23 am by 東 賢太郎

すみれさん

ありがとうございます。

Janine Jansenのバージョン、濃いですね。folkのルーツにつながる感じがとても良いと思います。Yo-Yo MaとSilk Road Ensembleのセンスはお送りしたバルトークのシナゴーグ版などにもおなじDNA があるように聞こえますね、これから聴いてみます。東洋人と西洋人が同じノリで楽しめるというのはシルクロードでDNAが連鎖してるからと理解しております。ちなみに僕がクラシックにはまったきっかけはボロディンの「中央アジアの草原にて」だったので、このテーマはいろんな角度から我が事として深く考えてます。

音楽にはそういう人間の奥深いものを抉り出すパワーがありますね。他の芸術と違います。先日友人の医者と話していたら、六感のうち嗅覚だけが脳に直接届くそうです。他はいったん脊髄に届いてから脳に信号が来るので、ワンクッションのない嗅覚は一番本能的にインパクトがあるそうです。猫、犬の嗅覚は人間の数万倍だそうで実感として想像もつきませんが、空気中に浮遊する分子を直接に捕らえる体感認知の方が音波(耳)や光波(目)によって間接的に捕らえる推定認知より生存するために信頼度が高かったのです。だから我々にも神経回路にその痕跡が残っています。人間の認識力は視覚が圧倒的に優位になるように進化したので気づいてませんが。

ここからは僕の空想になりますが、胎内で聞いていたもの、リズムは母の心拍、歌は母の声と意識の奥深い所でリンクしていて、 音楽は物理的には確かに聴覚で認識はするのですが実はボディにルーツがあって六感における嗅覚に近い(ワンクッションのない)処理がされているのではないでしょうか。だから音楽を聴くと体が動くし、それがダンスとなったのでは?言語は左脳、音楽は右脳が処理という説は証明されてませんが、メカニズムはともかく、音楽は本来「右脳的」なインパクトが強いと思います。

バルトークは東西民族の入り混じったマジャール人でおそらく自分の血を体感して民謡を採譜・研究したのではないでしょうか。しかし信号を受け取って処理した彼の高度に進化した脳がそれをそのまま出すことを許容せず、満足できるところまでいわゆる西洋音楽的な抽象化を施してあの6曲のカルテットを書いたと思うのです。Sz.56は生身の彼に近い音楽で貴重ですね。

ここにもそう言う事を書きました。

バルトーク 「子供のために」(sz.42)

でもピアノよりgeigeがいいね、より直接に右脳的に訴える気がします。音楽を平均律に封じ込める過程でデジタル化、抽象化して左脳的になってしまうのでしょう、バルトークの楽器はピアノだったから。ピアノがなぜ両手で10本の指で弾かれるか?片手で単音でやってもつまらないからです。弦楽器、管楽器は自然音階で純正調に微調整してリッチな音楽が弾けるからバッハがそれ1本であれだけの曲を書けました。第九の第3楽章の音階を吹くホルンソロ、あれはスコアは変ハ長調だけどピアノ版だとロ長調になってなんか変ですね。それが、すみれさんご指摘の「例のラ#を高く期待する聴感」なんでしょう。

和声というのは本来は教会の残響の調和で発見された自然倍音の累積ですが、平均律という転調に好都合の非自然的音律が便利さの代償として大事なものをそぎ落としてしまったので、そのまた代償として鍵盤上で進化したお化粧です。しかし面白いもので、それが「お化粧術」として独自に高度に知的に進化して和声学になった。ところがこれはこれで、僕の場合ですが、実に右脳的に効くものですから、以上書いたことと矛盾してしまうのです。音楽は謎です。一生探求しても理解できない神秘です。

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プリアンプに金をかけなさい

2020 JAN 7 0:00:38 am by 東 賢太郎

きのう2か月ぶりにプリアンプ(ブルメスター808)が修理から帰ってきた。たまたまテーブルにあった牧神の午後への前奏曲をかけてみる。まったくすばらしい。オーディオの存在が消える。10分身動きできず、終了。まだ動けず。

きいたのは50年も前に買ったブーレーズ / ニュー・フィルハーモニア管のLPだ。その評はこちら(ドビッシー 「牧神の午後への前奏曲」)。これをレファレンス的ニュアンスで挙げているのはフランス的な音色、エロティシズムがプライオリティーだったからだ。しかしブルメスター808が新品のように蘇って、「微視的なアナリーゼ能力と聴覚の鋭さが群を抜いている」のはドビッシーにおいては不可欠の美質であり、マルティノンやモントゥーよりもっとエロティックじゃないかと思えてきた。俺がいままで聴いてた音は何だったんだというほど。

デジタル時代になってプリアンプ不要論が語られた。音量調節などコントロール機能はCDプレーヤーで足りフォノイコライジング機能もいらないなら介在回路は少ないほうが良い。理屈はそうだ。僕もいらないと思っていたが、ドイツ人はそう考えていなかったということだ。ブルメスターのパワーアンプをドイツで買って惚れこんでいたからひょっとしてと思い808を試聴してびっくりした。音質、音場感、空気感、定位が比較にならず軽自動車が一気にベンツの600に化けたかの激変。人生でいろんな機械を買ったが、あらゆるジャンルで満足度において808は圧倒的にNo1だ。

フラッグシップだから20年顔も変えない。この頑固さもドイツだ。車もそうだが、売らんかなでころころモデルチェンジする日本製はいかにも薄っぺらい。日独の技術の差はないだろうが、こういうアンプは日本にないのはひとえに哲学の差と思う。ハイエンドのスピーカー、パワーアンプに凝る人は多いがプリアンプに金をかける人は少ないらしい。808が高いかどうかは音楽に何を求めるかだろう。これ1台で牧神の午後への前奏曲の評価が違ってしまうなんてマジックは僕にとってほかの手段でおきようもないから妥当と思うが。

 

クラシック徒然草-僕のオーディオ実験ノート-

 

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我がオーディオ論

2019 OCT 31 18:18:45 pm by 東 賢太郎

前に書いたとおりオーディオのアナログ回帰作戦をしているが、まず、ショップのSさんが我が家のプリアンプ(ブルメスター808)を修理のため持ち帰り、同じブルメスターの099という中級機を「代車」として置いていってくれた。808のオーナーになって15年になるが、鳴らすたびに衝撃を受ける空前絶後のプリと断言したい。拙宅来訪者にはクリスチャン・ツィンマーマンのショパン(バラード集)、カーペンターズのSACDをレファレンスにお聞かせすることをルーティーンとしているが、絶句しなかった人はいない(写真)。495万円するが、音楽にこだわる方は車をあきらめてでも買って後悔はしないだろう。

代車の099(250万円)も見事だが808を知ってしまうとやや寂しい。808で3台駆動しているパワーアンプが許容量から2台になるせいもあるが、ただこっちのほうがむしろサントリーホールのライブの音響に似ていることがわかってHiFi(高忠実度)とは何なのか考えさせられる。巨匠たちはみなあの世に旅立ってしまったし東京のどのホールより自室の音の方が良いと感じるので、あんまり演奏会には進んでいく気がしなくなっている。ちなみに099の設定でコンセルトヘボウ管のハイドン93番(C・デービス指揮)をCDとLPとで聴いてみたが、結果は明白で比べるべくもない。結局、CDが勝ると思うのはピアノだけだ。

こういう諸条件を勘案したうえでどうしたら好みの音になるかと空想するのだが、作戦敢行にはターンテーブル・トーンアーム・カートリッジ・フォノイコライザーの4つを買い替える必要がある。現状使用中のものはCDへの切り替えを前提にグレードアップする以前からのものでクオリティが大幅に劣る。アナログはエジソンの方法で原理的に録音現場で鳴った音そのもの(原音の空気振動)を音溝に直接刻んでおり、電子的に0,1に記号変換していないから、先を丸めて尖らせた紙筒や小指の爪で溝をたどってもかすかに音が聞こえる。ということは高精度の装置なら原音通りの空気振動をリス二ングルームに再生できるはずだ。

何事もこの原理的な「はず(sollen)」という信念が僕に火をつける。LPはCDの勃興で一度は市場を喪失したのだが、そこから今に至る雌伏期に負けじと進化して僕らがLPは死んだと信じた80年代初頭のレベルとは比較にならない音がするようになっていると聞いている(未聴だ)。だからやろうとしているのは回帰ではなくて、アナログにグレードアップというべきだ。いったん全面的にCDに切った舵を切りなおすということは、要するに1万枚以上たまってしまったCDは「全部捨てる」という意味である。ここからの余生をLPに付託するのだから半端なことではない。

そうかんがえるのは、あと何年生きるかわからないのに気に入らないもので我慢する理由など何もないと思うからだ。食事だってクルマだって人づき合いだってそうだろう。ただ社会生活をする以上は万事でそうするわけにもいかないから、一つぐらいは徹底的に我が儘させていただきたい。そうなると、僕の場合は音楽になるということだ。グランドピアノもファツィオリにしようかなと思ったが、それを味わうには練習しないとピアノに失礼だ。となると時間がない。ならばきくだけで楽なオーディオにしようという結論になる。

Hovland 社の Stratos

オーディオは超がつくマニアックな世界だ。例えば米国のホヴランド社のストラトス(成層圏)と名付けられたパワーアンプをデモ段階の試作機で聴いて、大いに気に入った。発売前に2台注文したら社長から手紙が来た。お買上げ感謝状ではなく、心からの「わかってくれて有難う」なる謝意であった。まぎれもない正統派路線の高級な音だが、マニアが自慢できそうな HiFi っぽい尖ったものはない。どれだけ売れるかなと思ったが案の定わかる人が少なかったんだろう、同社は消えた。演奏家でいえばハイティンクやコリン・デービスが評価されない日本のクラシック界と似ている。かようにマニアといっても多種族が生息するのであって、作る側もそうだが聴く側もそうだ。お互いに趣味の範囲は針の先のように狭隘で、針先と針先がピタッと合う事は稀だが、だからこそ合ったときの喜びは海の向こうに感謝状を書く気になるほど格別なものということだ。

そういうマニアの集結基地というと、例えば僕が仕事で関わっているシリコンバレーがそのひとつだ。理系オタクのクラブみたいなものだが、ぶっ飛んだ発想でdisruptive(非連続的、破壊的)なテクノロジーを開発・実現し、それを事業化して企業価値を高める文系的感性もないと成功はおぼつかない。理系バカではいくら優秀でも不足であり、オール5の学校秀才タイプは概ねだめだ。オーディオの世界もおそらくそんなものであり、まず一にも二にも良い音(テクノロジー)ありきではあるが、質を落とさずに大量生産して販売しないと事業はサステナブルにできない。そこは経営のセンスが問われる部分であり、ストラトスを作る製作上のセンスとテクノロジーがあるホヴランドの破綻は実にもったいない。もう遅いが僕が買収していたらよかった。

扱い、保存の難しいレコードは洗浄したり面を裏返したり手間もかかる。しかしお釣りがくるぐらい良い音で音楽が聴けるならやるっきゃないだろう。かように音楽という物は僕の人生において多大な時間と労力を消費する存在であり、それをすべて仕事に傾注していればもっと楽に暮らせたと思う。でもそれは無理なのだ。こんなストレスだらけの日々を安らがせてくれるのは音楽であり、だから自宅には鉄筋の地下室を掘って、そこは何でもやり放題の桃源郷にさせてもらってる。こればっかりは誰とも共有できないだろう超微細な関心事に子供みたいに寝食忘れて没頭できる空間であり、そこにいる間、僕は世間の誰も想像しない最も僕らしい姿でいられるのだ。

 

「音響マニア」と「オーディオマニア」の差

 

プリアンプに金をかけなさい

 

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LPレコード回帰宣言(その3)-ショーペンハウエル-

2019 SEP 29 16:16:51 pm by 東 賢太郎

Sさんに部屋の音響特性をわかってもらうためピアノの生音を聴いてもらった。機材はスペックの数字で決まるのではなくて、部屋との相性が問われる。前回は名器とされるアンプを3つ不合格にした。しかし2004年に念頭にあったのは「CDをうまく鳴らす」ことだ。それもモノラル、ステレオ初期の、「僕にとって宝物である特定の音源」をCDフォーマットで聴くことがバージョンアップの動機だった。その時点で「僕にとって宝物である特定の楽曲」はほぼ限定的に決まっており、それを聴くべき極めて少数の音源もほぼ限定的に決まっていたようだ。「ようだ」と書くのは15年経過した今も変わっていないからだ。

そうして決定した現在のセットアップを変えるのはリスクのある投資だが幸い僕にはクルマの趣味がない。社用車をテスラXにした程度で、しかもそれはプログラムのバージョンアップを通じてメーカーとつながっているというB to Cモデルの革命を投資家として体験するビジネス上の動機だ。1985年前後から始めたCDへの転換と投資は音楽産業の最前線とつながっている意味は多少はあったもののテスラのようにメーカーとオンラインの関係にない、消費者であり続けること(すなわち永遠にしゃぶられる古典的B to C)を前提にした関係であった。有用性が永遠にあるなら結構だが、実はないことを体験を通じて知った。それがこれだ(CDはだめになるので要注意)。

LPよりCDが保存がきくというdurabilityのセールストークはウソであった。この稿は「スポンジ」に起因するものだが、スポンジがなくてもだめになったもの(例・Eurodisc、ヨッフムのベートーベン序曲集等)が複数存在する。観察するに文字面のインクの透過によると思料する。1964年に買ったLPが美音を奏で、その後集めた千枚以上のLPに1枚たりとも経年劣化が生じていない事実と照合するなら、durabilityという観点からの1985年からのCDへの投資は間違いであったと結論せざるを得ない。

「このCDルームにある1万枚、実は9割はもう聴きません。僕は是々非々なんでつまらないのは1回でおしまいです。なぜ捨てないかというと、店で買った時のわくわく感を覚えてるから。記念写真ですが捨てられないんです」。Sさんにそう言ったが、バレンボイム / シカゴ響のシューマン交響曲第2番も記念写真の一部だったのは厳然たる事実だ。LPで聴いてみて、何度も聴きたいと思う演奏だったことを「発見」したわけだ。とすると第2、第3のそれが出てくるかもしれず、CDで初めて知った音源を今度はLPで買いなおす必要があるかもしれない。

僕は海外16年で40か国訪問し、旅行でも出張でもどこへ行ってもレコード(CD)ショップがあればビジネスを少々押しのけてでも何か買ってきた。だから業界の人より詳しい部分もあろうし、そうして購入したものは記念写真であり自分史でもある。それは同時に『「僕にとって宝物である特定の」楽曲と音源』という、まったくプライベートな精神的帝国でもあって、それを現実の音にする場がリスニングルームという石壁に囲われた城である。そこに置かれたピアノという工具で「宝物」の分解、研究をする人生は楽しく、天文学者が星の観測、研究をするのと変わらない。

「プライベートな精神的帝国」を作ることがショーペンハウエルが「意志と表象としての世界」に論じた幸福であるならば(僕はそう理解しているが)、還暦にしてとうとうそこに到達できたような気がしていることを有難いと思う。帝国を何処に構築しようが勝手であり、それが何に依拠していようと自由であるが、僕の場合はポップスやAKBではなくクラシック音楽と呼ばれるものになった。理由はそれが僕にとって「音楽」であり、それが表象(フォアシュテルングだからだ(「世界は私の表象である」ショーペンハウエル)。

 

我がオーディオ論

 

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LPレコード回帰宣言(その2)-イコライザーカーブ-

2019 SEP 29 2:02:53 am by 東 賢太郎

CDが決定的にダメだと確信したのはバレンボイム/シカゴ響のシューマン交響曲第2番(DG)だ。最初この演奏をロンドンでCDで買って、一度だけ聴いてあっさりお蔵入りとなって忘れてしまった。その後帰国してたまたまドイツプレスのミント(美品)の中古LPを見つけたので購入して聴いてみた。これが素晴らしいのだ。同じ演奏と思えない別物である。

LPは音溝幅の物理的事情から高音過大のカッティングなことは周知だが、デフォルトのイコライザーカーブをEQで修正して聴くわけだ。カーブは全米レコード協会の周波数基準があるにもかかわらず各レーベル個性があるというのが定説だ。同感である。いずれにせよLPとCDはマスターテープと異なるカーブになるがDGのエンジニアがCDトランスファーでそれをいじったかどうかは不明だ。しかしシューマン2番におけるCSOの弦のボディ感、木管のブレンド、金管のバランスなどは明らかに違う。

ホールでも部屋でも同じく、オーケストラの場合でいうと、低域の音圧と締まりがないとその倍音と溶け合う中粋の色香がうまく出ない。弦の高域はきつくざらつき気味になる。パイプオルガンを野外で聴いたらと想像すればいい。教会のたっぷりした空気と反響による残響が倍音を共鳴させ混合するから、あの荘厳で色彩的な演奏が可能となるのだ。総合するならこのCDは高域が薄っぺらくチープで中粋の色彩に欠け、低域はブーミーで締まりがない。だからお蔵入りしたのであり、そのまま僕の中のバレンボイムの評価も下がってしまっていた。

それが本CDエンジニアによるイコライザーカーブ調整の固有の問題なのかCDというフォーマットの可聴域外カットのユニバーサルな問題なのかは結論できないが、私見では後者も少なくとも原因の一部であると考える。音として出てないものは機材で調整しようがないから、LP回帰するしかないのである。ひとつ課題があって、僕はリスニングルームを地下室として設計するにあたってアムステルダム・コンセルトヘボウの音を念頭に置いたから部屋に残響がある。スピーカーの生音にイコライジングしたカーブを自室の固有のアコースティックに合わせて再調整なくてはならない。ここは自分の耳だけが頼りだ。

オーディオには疎いので機材選択とセッティングはプロのSさんのご指南に頼ることになる。15年前にバイアンプにするためパワーを2台買ったときは自室で4機種を聴き比べさせてもらった。ドイツで買ったブルメスターを低音に、4度目にもってきてもらったホヴランドのストラトス2台を中高音に割り振って、うまく鳴らすのが意外に難しいB&W801Dが完璧に駆動した時の喜びは忘れがたい。これにブルメスターのプリ(500万したが)をつないだ音はもう他のものは聴く気しない天上の音色で、ヨッフムのブルックナー、ハイティンクのシューマンはコンセルトヘボウS席の気分となれて目的を達した。

ただ、一つだけ寂しいのはプレーヤー、カートリッジの選択がCDだと存在しないことだった。プレーヤー操作は面倒だがそれが楽しいということはあって、カートリッジで音が変わる(さらにはケーブルで)という泥沼にはまりだすと抜けられない。スピーカーケーブルはついに直径5cmのアナコンダみたいなのに落ち着いたが、たしかに音が変わるのは魔力で、オーディオファイルの方の気持ちはわからないでもない。

 

LPレコード回帰宣言(その3)-ショーペンハウエル-

 

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LPレコード回帰宣言(その1)-光と音-

2019 SEP 26 23:23:00 pm by 東 賢太郎

ブルメスターのプリアンプの修理でオーディオショップに電話したら担当のKさんがはずれていてSさんが来てくれた。初対面だ。「この業界、ユーザーが高齢化で大変なんです」。若者に売れないのもあるが、若い者では耳の肥えた客のニーズにお応えできないから担当者も40代ぐらいのベテランになる。「音にこだわる文化がなくなるんでしょうかねえ」と42才のSさん、ちょっと寂し気だ。

機材についてはKさんから引き継いで知っているSさんが、配置や配線を調べて歩き回り、スピーカの間の壁の前に来て立ち止まった。「ええっ、このレコードお持ちなんですか!」「なんで?」「探してたんです、初めて見ました、実物」「この音源、CBSのアメリカ盤LPも持ってるし、CDフォーマットでもアメリカ、日本、ドイツの3種のプレスがあっちの棚にあるけどね、ぜんぶダメですね。いいのはこの初盤だけです。」

こういう客がいる限り、オーディオ業界は生きのこる。僕は生まれたらそこいら中に親父のSPレコードがあり、それを縁側で割ってやばいと思ったのが初めての記憶というレコード是人生の人間である。「つまりね、プレス重ねると劣化する、LPもね。CDは論外だ。可聴域だけでね、まがいもんだね」。そう感じだしたのは可視光線と色の波長の関係を中村修二教授に教わってからだ。

簡単に書くと、青、赤、緑の光を混ぜると白色光ができるが、それは本当の白ではない。何が「本当」かというと太陽光のもとでの白色だ。太陽光には紫や暗赤色があるが、今のLEDはそれが出ない。だから我々が見ているスマホやテレビのバックライトの白は、白っぽい色を白と思い込まされているに過ぎないのである。教授のデモを見て、スマホの白がまがい物であることを確認した。

人間の可聴域外の周波数をカットしたCDの音も同じくまがい物であるといえないことはない。可聴域外の音域の倍音の共鳴音は聞こえないが、だからといって現実には響いているものがいらないと誰が証明できるだろう。私見では音色、楽器の色香に大いに影響があると感じる。LP、CDの音の差異は、アナログ、デジタルの信号読み取り原理に起因する部分はCDに軍配が上がる効果もあると認めるが、倍音共鳴の遮断デメリットの方が大きい。それを消しては音楽の喜びは半減と感じる今日この頃だ。

「Sさん、僕はLPレコード回帰するからいいプレーヤーとカートリッジ教えてください。それでここでご執心のブーレーズの春の祭典を聴きましょう、あなたの知ってるCDの音がいかに倍音がない干物みたいなものかわかりますよ」。問題の僕の初盤LPの音はDAコンバータでCDRに焼いたのをyoutubeにアップしてあるのでどなたも聴けるし、CDとの差異もaudible(聴いてわかる)なレベルと思う。ただし、ヘッドホンで聴かないとわからないでしょう。

 

LPレコード回帰宣言(その2)-イコライザーカーブ-

 

 

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