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カテゴリー: ______音楽と自分

佳境に入ったクラシック音楽との付き合い

2020 OCT 9 18:18:08 pm by 東 賢太郎

マーラーの2番「復活」だけ指揮するアマチュアのギルバート・ キャプラン氏にならって、プロの指揮者に1曲だけ習ってやってみたいと思ったことがあります。米国の実業家キャプランは「復活」マニアでした。子息が亡き父のオフィスを整理していたところ、埃をかぶった箱から偶然に出てきたのがこのフィルムだったそうです。初めて振った「復活」です。

この曲だけとはいえ、ロンドン響、ウィーン・フィルを含む世界の75のオーケストラで振っている。音楽の教育は受けなかったが、客観的に見ても才能があったということでしょう。しかし僕が特筆したいのはそれ以前にビジネスの才があったことです。ざっくり書きますと、ニューヨーク大学法学部を出て1963年にアメリカ証券取引所のエコノミストになります。給料は1万5千ドルでした。4年後にインスティテューショナル・インベスターズ誌を創業して主筆をつとめ、17年後に同社株を$75milで売った。当時の為替レートで170億円です。

こういうことができるのが資本主義です。ウォートンスクールの学生のころ、バーで同級生のアメリカ人はみんなわいわいこういう話をしてました。40才でウォールストリートの仕事を辞めて何をしたいかと、お前の夢は何かと。大会社で出世したいなんてのは一人もいない。会社は作るもの、 It’s you. 、おまえ自身だぜ。ビジネススクールはそういう連中の集まりで、そういわれたとき、自分の中でばりばりと何かが崩れました。替え玉受験説はあるが若きドナルド・トランプもそうやってあのあたりのバーで口角泡を飛ばしていたに違いない。 キャプランは音楽界では “an amateur conductor of Mahler’s Symphony No. 2.”(マーラー2番専門のアマチュア指揮者)ですが、ビジネス界ではまさにそうやって夢をつかんだ男、アメリカンドリームを体現した男なのです。

カネで何でもできるのもアメリカだろうという人もいますが、野球好きのおっさんが甲子園球場を借りて夢をかなえるみたいな話とは次元が違います。その理由は下のビデオで明らかにされますが、マーラーの自筆譜を購入して研究に研究を重ね、楽譜が読めないハンディは全部を耳で暗記してスコアなしで振ることで克服しています。棒の振り方を習ったのは40才です。「ワルターやバーンスタインやショルティの録音が残る中であなたが指揮する意味は何か?」と問うインタビュアーに「私は誰より2番を、マーラーを知っているからです」と述べる半端でない没入と情熱と知識と自信が世界中のプロの演奏家を動かしたように思います。

彼は25才までこの曲を聴いたことがなく、カーネギーホールでやるストコフスキーのリハーサルに招かれて初めて知ります。本番を聴いたその夜、旋律が脳裏にまつわりついて眠れなかったと語っています。知的で冷静に見える人ですが、ハートが熱い。本人の口から想いをきくとびしびし心に刺さってきます。

そういうことを自分もやってみたいと思ったのは38か9のころ、フランクフルトにいた時です。娘のピアノの先生がいい人を紹介してあげるわよということになって、習おうかなと傾きかけました。だけどやらなかった。自信がない、仕事が忙しい、そういうものに負けてしまった。じゃあ今やるかというと、もうあの時の情熱も記憶力もありません。アメリカには難病で生きられないかもしれない子供の夢を寄付でかなえてあげる Make-a-wish というNPOがありますが、本気でやるならオトナの夢も叶えてあげようという文化的な土壌もあります。日本で既にプロだったイチローでも、これだけ打ったのは凄いじゃないか、新人王にして讃えてやろうという寛大さ。日本にはないですね、そういう問題もあります。難しいでしょう。

トーマス・ビーチャムみたいにマイ・オーケストラを作る手もあります。でもプロ・オケさえ財政難の世で到底資金が続きません。仮に資金があっても、アートはそういうものではない。ビーチャムの楽団への情熱が持てるか、キャプランの復活への愛があるかという事です。それなくして誰も真剣についてこないでしょう。ちなみにキャプランは、ワルターもバーンスタインもショルティもそうであるようにユダヤ系と思われます。彼らにはマーラーへの心的、スピリチュアルなつながりを自らが信じられる何かが有ります。同じ民族だから共振できるのかルサンチマンなのか僕には知るすべがありませんが、メンデルスゾーン3番の稿で主題にしたとても深いことで、わかる方はわかるでしょう。作曲家と交信、共振できたから皆がついてきた。うらやましいことです。

僕はドイツにいてドイツ語さえままならない自分がどうしてモーツァルトを理解できるのかと感じてしまった。困ったものです。バッハもベートーベンもブルックナーも、みんな遠ざかってしまいました。日本語世界で理解していた彼らとはおよそ程遠い人間だということを知ってしまった気がしたのです。みんな同じ人間だ、音楽はその共通語である。これは20世紀のアメリカ人が作ったマーケティングコンセプトです。19世紀以前の人間にそんな概念があろうはずがありません。モーツァルトは、「こういうパッセージを入れればパリでうける」と父親宛の手紙に書いている。ヨーロッパの中ですら文化はローカル色豊かであったのであり、アメリカ人はそこからハンバーガーをみつけだし、マーケティングという手法で国中で同じものを食べさせて膨大な売り上げを作り出すことに成功したのです。

クラシック音楽でなぜそれが必要だったかというと、ナチスのころ大勢のユダヤ系音楽家が亡命してきたからです。知識人には歓迎された。しかし大衆に売れないと彼らは食っていけませんからビジネスする必要があった。ロス・フィルに雇われたクレンペラーは悲愴交響曲を盛り上げて第3楽章で終わらせてくれとマネージャーに頼まれてます。そんな田舎者に音楽は「共通語」だなどとクレンペラーが思ったはずもなく、啓蒙しようという意欲もなかった。うまいこと妥協できてスターダムに登ったトスカニーニは忖度でスーザまで録音し、常識的にはイタリア人に頼まないだろうベートーベンsym全集や、ヒットラーの臭いがするが売れそうなワーグナーも、ドイツ人でない男ならという事でオハコにできた。田舎者に一切の妥協もせず極貧に陥ったバルトークは、クーセヴィツキーの手管でボストン響の委嘱という形をもって「アメリカ人でもわかる」オケコンを書いたのです。共産主義や資本主義という政治とアートの相克はソ連だけと思ったら大間違い、アメリカにも生々しくありました。

そういう事ですからアメリカ人にとってドイツの音楽は良くも悪くも特別なものでした。それは敵国、ユダヤ人問題という要因を論じる以前に、がっちりと胡桃のように固いドイッチェランド(Deutschland)なるものが英米(アングロサクソン)とは本質的に異質だという事に発しています。このことは、日本通の英国人が日本について持っているイメージと通じるものがある。韓国、中国と違うのはそれだと見抜いています。日本人とドイツ人に似たものはかけらもありませんが、総合的、俯瞰的に似たものがあるとするならそれでしょう。僕は16年の海外生活でずっと英語で仕事をしましたが、ドイツだけは公私ともにどうもうまくいかなかった。あの3年はやっぱり自分の中でばりばりと何かを崩したのです。ここでは書きませんが、哲学もプロテスタントも印刷術も科学技術もグリム童話もナチス党も混浴風呂も、なぜあの国で出てきたか確固たる理由がある。したがって、同様に、音楽にもあるのです。

アメリカでマーラーはドイツ語を話すユダヤ人の音楽であり、ニューヨーク・フィルを率いた指揮者の音楽でもある。しかしクレンペラーは「マーラーがどんな人であるかを認識した人は(ニューヨークに)誰もいなかった」と述べ、「アメリカで何が一番気に入ったか」と尋ねるとマーラーは「ベートーベンの田園交響曲を指揮したことだね」と答えたそうです。ここはさすがに悲愴交響曲を知らない西海岸とは違うとも考えられますが、田園がああいう風に終わることを独墺の客は知っていてニューヨーカーは知らなかった、ないしは、本場の大先生が振るものは何でも有難がって聴いたとも考えられます。どちらにせよ彼は自由にオケを使えました。その彼の交響曲を半世紀後のユダヤ系指揮者が次々と十八番にし、ユダヤ資本のレコード会社が商売ネタにして広まりました。カトリックのブルックナーはそれがありません。日本人の朝比奈がシカゴで振ってうける土壌がないのです。僕を含め日本人は彼らの宗教を知りませんからクラシックは高級なエンタメの一部門であり、いわば料理界のフレンチであり、カレーとラーメンで済む人には縁がありません。改宗することもないので僕はカトリック、プロテスタントを「お勉強」することで、カレーもラーメンも好きだけど同じ土俵でフレンチもいいねという付き合いになってます。

だからあれ以来僕はモーツァルトはエンタメとしてつき合うことになりました。ドイツ語を母国語としないアメリカ人のドン・ジョヴァンニを日本人がエンタメとして楽しむ。何国人が作ろうとフレンチは上等であれば美味なのだからそれはそれで結構。楽譜を音にしてもらわないといけない以上は格別に技量が高いシカゴ響にお願いしたいと思うし、そこにモーツァルトが意図してない喜びを発見する余地はあるでしょう。しかし、その姿勢でどんどん遊離して行ってフレンチにワサビが入ったり寿司でアヴォガドを巻いたりするヌーベルなんたらという流れ、僕はあれはまったく受け付けません。食とアートは別物ですが、創造者にリスペクトのないものは型破りでなく型なしです。そういう思想の持ち主なので、エンタメ国アメリカの人間であるキャプランが2番の自筆譜をめくりながら、まるで霊的なオーラがあるかのごとくマーラーという人間を感じ取るビデオの場面は、本当にそれができたかどうかはともかく、演奏家の姿勢としては畏敬を覚えます。だからロンドンでもストックホルムでもウィーンでも、敬意を持って迎えられたのでしょう。

この楽譜に忠実にという姿勢はもちろん日本の音大でもあるでしょうが、聖書が絶対という姿勢に通じるものがあって、単なるテキストは大事にという程度のものでない。宗教的なものがあります。ユダヤ教、イスラム教が聖書に厳格なのは周知でしょう。カトリックでは離婚ができないから英国国教会ができてしまう。プロテスタントも福音派が進化論(=科学)は認めないし、コロナに罹患しようとマスクはしないのです。どれも仏教徒の理解をはるかに超えるものです。作曲家のスコアが聖典であるという原理。キャプランはそれに従い、聖典に対する深い情熱が人々の心を動かしたということです。思い出しますが、韓国人のH.J.リムという女性ピアニストが12才でパリに留学し、感ずるものがあり、ベートーベンの伝記や書簡など手当たり次第に読んだそうです。そこで彼女なりの作曲家の人間像ができ、ソナタをベートーベンの人生の局面局面のカテゴリーごとに分類し、全曲録音した。まったくもって彼女の主観であり本当にそうかどうか学問的にはわからない。しかし誰も反論できないのも事実であり、学問的に知りうる範囲で忠実にやりましたなんて安全運転の演奏よりずっと面白いのです。そう思う人は彼女にリスペクトを持ちます。もっと勉強しなさいなんて書いた日本の音楽評論家がいる。こういう馬鹿な人がクラシックを滅ぼしているのです。

異国人、異教徒の音楽ではありますが、彼女のアプローチは世界で堂々と通用するでしょう。キャプランの手法に通じるものがあるからです。まず作曲家の人間を深く知る。知識だけでなく感性でも霊感でも動員して。そこで初めて記号にすぎない楽譜の行間が読める。資料が乏しいバッハのような人物でも、アプローチのメソッドとして一貫してそうすべきなのです。そういうことは教科書に書いてないし先生に教わるものでもない。自分で体感し創造するものです。アカデミックに正しい古楽器の選択をという博物館長みたいな道よりよほど重要です。演奏する人にその曲、その作曲家への没入と情熱と知識と自信なくして聴衆に何のメッセージが伝わるでしょう?コンテンツの貧弱なプレゼンでは、どんなに構成が巧みだろうと英語の発音が良かろうと、絶対にビジネスはできません。僕にとって異国人のモーツァルトという人間は充分にはわかりかねますが、文字という理性で書かれた手紙はわかる。理性は万国共通です。そこで共通するものを発見して喜ぶ。たぶんリムさんも同じと思います。それだけで演奏できるとは思いませんが、共感する演奏の背景に奏者のそうした同化があるなということぐらいは感じ取れるのです。

クラシック音楽との付き合いという事を考えてきて65才になっています。キャプランのような能も財もありません。相当遅れてしまったけれど、この先にアメリカンドリームがあるんだろうか。自分はどういう人間で、本当は何がやりたかったんだろう?仕事はそれのためにやるもので、仕事がそれというのも寂しい。でも、それを取ったら何も残らない程度の人間である気もします。こういうとき、いつもそうだったのですが、偶然に誰か運命的な人の影響でバーンと景色が変わる。そういうことがまたあるんだろうか。たぶんそれはもうレールが敷かれていて、あるのかないのか、わからないのです。

 

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音楽のテレワーク

2020 MAR 31 23:23:20 pm by 東 賢太郎

さっきBSプライムニュースで共産党・志位委員長の話をじっくり聞いた。普段こう言っては何だけど共産党の意見はあまり真剣にとりあってなかったが、自分の言葉でびしっと語られるのは傾聴。現在の状況分析と政策提言は正攻法で説得力があった。

ところで、番組で志位氏が紹介していた新日本フィルの「テレワーク」。興味があったので試聴してみた。

新日本フィルの皆様

ブラボー!素晴らしい!舞台では見えないひとりひとりの表情がいいですね。演奏会できなくて辛いでしょうが、われわれ聴衆も気持ちはひとつです。クラシック音楽を愛する者として来る日を心待ちにしております。

そうしたら大分に帰省されている広津留すみれさんからメールをいただいて、ご自身のyoutubeでやはり楽しいテレワークを聴かせてくれました。

すみれさん、ありがとう。暗い気持ちが一気に晴れました。音楽のパワーは無限だね。いま東京は危ないから来ない方がいいけど、落ちついたらまたお寿司いきましょう。

 

ドイツのモニカ・グリュッタース文化大臣のメッセージです。

文化は良い時にのみ与えられる贅沢ではありません。暫くの間、文化なしで済まさなければならない状況に置かれたとしたら、その喪失感の大きさはどれほどのものでしょうか。私は彼らを失望させません。私たちは彼らの思いを受け止め、文化とクリエイティブのセクターのために支援と財政面でのサポートを確実に実行するため力を尽くします。

 

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すみれさんへのメール

2020 JAN 23 0:00:23 am by 東 賢太郎

すみれさん

ありがとうございます。

Janine Jansenのバージョン、濃いですね。folkのルーツにつながる感じがとても良いと思います。Yo-Yo MaとSilk Road Ensembleのセンスはお送りしたバルトークのシナゴーグ版などにもおなじDNA があるように聞こえますね、これから聴いてみます。東洋人と西洋人が同じノリで楽しめるというのはシルクロードでDNAが連鎖してるからと理解しております。ちなみに僕がクラシックにはまったきっかけはボロディンの「中央アジアの草原にて」だったので、このテーマはいろんな角度から我が事として深く考えてます。

音楽にはそういう人間の奥深いものを抉り出すパワーがありますね。他の芸術と違います。先日友人の医者と話していたら、六感のうち嗅覚だけが脳に直接届くそうです。他はいったん脊髄に届いてから脳に信号が来るので、ワンクッションのない嗅覚は一番本能的にインパクトがあるそうです。猫、犬の嗅覚は人間の数万倍だそうで実感として想像もつきませんが、空気中に浮遊する分子を直接に捕らえる体感認知の方が音波(耳)や光波(目)によって間接的に捕らえる推定認知より生存するために信頼度が高かったのです。だから我々にも神経回路にその痕跡が残っています。人間の認識力は視覚が圧倒的に優位になるように進化したので気づいてませんが。

ここからは僕の空想になりますが、胎内で聞いていたもの、リズムは母の心拍、歌は母の声と意識の奥深い所でリンクしていて、 音楽は物理的には確かに聴覚で認識はするのですが実はボディにルーツがあって六感における嗅覚に近い(ワンクッションのない)処理がされているのではないでしょうか。だから音楽を聴くと体が動くし、それがダンスとなったのでは?言語は左脳、音楽は右脳が処理という説は証明されてませんが、メカニズムはともかく、音楽は本来「右脳的」なインパクトが強いと思います。

バルトークは東西民族の入り混じったマジャール人でおそらく自分の血を体感して民謡を採譜・研究したのではないでしょうか。しかし信号を受け取って処理した彼の高度に進化した脳がそれをそのまま出すことを許容せず、満足できるところまでいわゆる西洋音楽的な抽象化を施してあの6曲のカルテットを書いたと思うのです。Sz.56は生身の彼に近い音楽で貴重ですね。

ここにもそう言う事を書きました。

バルトーク 「子供のために」(sz.42)

でもピアノよりgeigeがいいね、より直接に右脳的に訴える気がします。音楽を平均律に封じ込める過程でデジタル化、抽象化して左脳的になってしまうのでしょう、バルトークの楽器はピアノだったから。ピアノがなぜ両手で10本の指で弾かれるか?片手で単音でやってもつまらないからです。弦楽器、管楽器は自然音階で純正調に微調整してリッチな音楽が弾けるからバッハがそれ1本であれだけの曲を書けました。第九の第3楽章の音階を吹くホルンソロ、あれはスコアは変ハ長調だけどピアノ版だとロ長調になってなんか変ですね。それが、すみれさんご指摘の「例のラ#を高く期待する聴感」なんでしょう。

和声というのは本来は教会の残響の調和で発見された自然倍音の累積ですが、平均律という転調に好都合の非自然的音律が便利さの代償として大事なものをそぎ落としてしまったので、そのまた代償として鍵盤上で進化したお化粧です。しかし面白いもので、それが「お化粧術」として独自に高度に知的に進化して和声学になった。ところがこれはこれで、僕の場合ですが、実に右脳的に効くものですから、以上書いたことと矛盾してしまうのです。音楽は謎です。一生探求しても理解できない神秘です。

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プリアンプに金をかけなさい

2020 JAN 7 0:00:38 am by 東 賢太郎

きのう2か月ぶりにプリアンプ(ブルメスター808)が修理から帰ってきた。たまたまテーブルにあった牧神の午後への前奏曲をかけてみる。まったくすばらしい。オーディオの存在が消える。10分身動きできず、終了。まだ動けず。

きいたのは50年も前に買ったブーレーズ / ニュー・フィルハーモニア管のLPだ。その評はこちら(ドビッシー 「牧神の午後への前奏曲」)。これをレファレンス的ニュアンスで挙げているのはフランス的な音色、エロティシズムがプライオリティーだったからだ。しかしブルメスター808が新品のように蘇って、「微視的なアナリーゼ能力と聴覚の鋭さが群を抜いている」のはドビッシーにおいては不可欠の美質であり、マルティノンやモントゥーよりもっとエロティックじゃないかと思えてきた。俺がいままで聴いてた音は何だったんだというほど。

デジタル時代になってプリアンプ不要論が語られた。音量調節などコントロール機能はCDプレーヤーで足りフォノイコライジング機能もいらないなら介在回路は少ないほうが良い。理屈はそうだ。僕もいらないと思っていたが、ドイツ人はそう考えていなかったということだ。ブルメスターのパワーアンプをドイツで買って惚れこんでいたからひょっとしてと思い808を試聴してびっくりした。音質、音場感、空気感、定位が比較にならず軽自動車が一気にベンツの600に化けたかの激変。人生でいろんな機械を買ったが、あらゆるジャンルで満足度において808は圧倒的にNo1だ。

フラッグシップだから20年顔も変えない。この頑固さもドイツだ。車もそうだが、売らんかなでころころモデルチェンジする日本製はいかにも薄っぺらい。日独の技術の差はないだろうが、こういうアンプは日本にないのはひとえに哲学の差と思う。ハイエンドのスピーカー、パワーアンプに凝る人は多いがプリアンプに金をかける人は少ないらしい。808が高いかどうかは音楽に何を求めるかだろう。これ1台で牧神の午後への前奏曲の評価が違ってしまうなんてマジックは僕にとってほかの手段でおきようもないから妥当と思うが。

 

クラシック徒然草-僕のオーディオ実験ノート-

 

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我がオーディオ論

2019 OCT 31 18:18:45 pm by 東 賢太郎

前に書いたとおりオーディオのアナログ回帰作戦をしているが、まず、ショップのSさんが我が家のプリアンプ(ブルメスター808)を修理のため持ち帰り、同じブルメスターの099という中級機を「代車」として置いていってくれた。808のオーナーになって15年になるが、鳴らすたびに衝撃を受ける空前絶後のプリと断言したい。拙宅来訪者にはクリスチャン・ツィンマーマンのショパン(バラード集)、カーペンターズのSACDをレファレンスにお聞かせすることをルーティーンとしているが、絶句しなかった人はいない(写真)。495万円するが、音楽にこだわる方は車をあきらめてでも買って後悔はしないだろう。

代車の099(250万円)も見事だが808を知ってしまうとやや寂しい。808で3台駆動しているパワーアンプが許容量から2台になるせいもあるが、ただこっちのほうがむしろサントリーホールのライブの音響に似ていることがわかってHiFi(高忠実度)とは何なのか考えさせられる。巨匠たちはみなあの世に旅立ってしまったし東京のどのホールより自室の音の方が良いと感じるので、あんまり演奏会には進んでいく気がしなくなっている。ちなみに099の設定でコンセルトヘボウ管のハイドン93番(C・デービス指揮)をCDとLPとで聴いてみたが、結果は明白で比べるべくもない。結局、CDが勝ると思うのはピアノだけだ。

こういう諸条件を勘案したうえでどうしたら好みの音になるかと空想するのだが、作戦敢行にはターンテーブル・トーンアーム・カートリッジ・フォノイコライザーの4つを買い替える必要がある。現状使用中のものはCDへの切り替えを前提にグレードアップする以前からのものでクオリティが大幅に劣る。アナログはエジソンの方法で原理的に録音現場で鳴った音そのもの(原音の空気振動)を音溝に直接刻んでおり、電子的に0,1に記号変換していないから、先を丸めて尖らせた紙筒や小指の爪で溝をたどってもかすかに音が聞こえる。ということは高精度の装置なら原音通りの空気振動をリス二ングルームに再生できるはずだ。

何事もこの原理的な「はず(sollen)」という信念が僕に火をつける。LPはCDの勃興で一度は市場を喪失したのだが、そこから今に至る雌伏期に負けじと進化して僕らがLPは死んだと信じた80年代初頭のレベルとは比較にならない音がするようになっていると聞いている(未聴だ)。だからやろうとしているのは回帰ではなくて、アナログにグレードアップというべきだ。いったん全面的にCDに切った舵を切りなおすということは、要するに1万枚以上たまってしまったCDは「全部捨てる」という意味である。ここからの余生をLPに付託するのだから半端なことではない。

そうかんがえるのは、あと何年生きるかわからないのに気に入らないもので我慢する理由など何もないと思うからだ。食事だってクルマだって人づき合いだってそうだろう。ただ社会生活をする以上は万事でそうするわけにもいかないから、一つぐらいは徹底的に我が儘させていただきたい。そうなると、僕の場合は音楽になるということだ。グランドピアノもファツィオリにしようかなと思ったが、それを味わうには練習しないとピアノに失礼だ。となると時間がない。ならばきくだけで楽なオーディオにしようという結論になる。

Hovland 社の Stratos

オーディオは超がつくマニアックな世界だ。例えば米国のホヴランド社のストラトス(成層圏)と名付けられたパワーアンプをデモ段階の試作機で聴いて、大いに気に入った。発売前に2台注文したら社長から手紙が来た。お買上げ感謝状ではなく、心からの「わかってくれて有難う」なる謝意であった。まぎれもない正統派路線の高級な音だが、マニアが自慢できそうな HiFi っぽい尖ったものはない。どれだけ売れるかなと思ったが案の定わかる人が少なかったんだろう、同社は消えた。演奏家でいえばハイティンクやコリン・デービスが評価されない日本のクラシック界と似ている。かようにマニアといっても多種族が生息するのであって、作る側もそうだが聴く側もそうだ。お互いに趣味の範囲は針の先のように狭隘で、針先と針先がピタッと合う事は稀だが、だからこそ合ったときの喜びは海の向こうに感謝状を書く気になるほど格別なものということだ。

そういうマニアの集結基地というと、例えば僕が仕事で関わっているシリコンバレーがそのひとつだ。理系オタクのクラブみたいなものだが、ぶっ飛んだ発想でdisruptive(非連続的、破壊的)なテクノロジーを開発・実現し、それを事業化して企業価値を高める文系的感性もないと成功はおぼつかない。理系バカではいくら優秀でも不足であり、オール5の学校秀才タイプは概ねだめだ。オーディオの世界もおそらくそんなものであり、まず一にも二にも良い音(テクノロジー)ありきではあるが、質を落とさずに大量生産して販売しないと事業はサステナブルにできない。そこは経営のセンスが問われる部分であり、ストラトスを作る製作上のセンスとテクノロジーがあるホヴランドの破綻は実にもったいない。もう遅いが僕が買収していたらよかった。

扱い、保存の難しいレコードは洗浄したり面を裏返したり手間もかかる。しかしお釣りがくるぐらい良い音で音楽が聴けるならやるっきゃないだろう。かように音楽という物は僕の人生において多大な時間と労力を消費する存在であり、それをすべて仕事に傾注していればもっと楽に暮らせたと思う。でもそれは無理なのだ。こんなストレスだらけの日々を安らがせてくれるのは音楽であり、だから自宅には鉄筋の地下室を掘って、そこは何でもやり放題の桃源郷にさせてもらってる。こればっかりは誰とも共有できないだろう超微細な関心事に子供みたいに寝食忘れて没頭できる空間であり、そこにいる間、僕は世間の誰も想像しない最も僕らしい姿でいられるのだ。

 

「音響マニア」と「オーディオマニア」の差

 

プリアンプに金をかけなさい

 

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LPレコード回帰宣言(その3)-ショーペンハウエル-

2019 SEP 29 16:16:51 pm by 東 賢太郎

Sさんに部屋の音響特性をわかってもらうためピアノの生音を聴いてもらった。機材はスペックの数字で決まるのではなくて、部屋との相性が問われる。前回は名器とされるアンプを3つ不合格にした。しかし2004年に念頭にあったのは「CDをうまく鳴らす」ことだ。それもモノラル、ステレオ初期の、「僕にとって宝物である特定の音源」をCDフォーマットで聴くことがバージョンアップの動機だった。その時点で「僕にとって宝物である特定の楽曲」はほぼ限定的に決まっており、それを聴くべき極めて少数の音源もほぼ限定的に決まっていたようだ。「ようだ」と書くのは15年経過した今も変わっていないからだ。

そうして決定した現在のセットアップを変えるのはリスクのある投資だが幸い僕にはクルマの趣味がない。社用車をテスラXにした程度で、しかもそれはプログラムのバージョンアップを通じてメーカーとつながっているというB to Cモデルの革命を投資家として体験するビジネス上の動機だ。1985年前後から始めたCDへの転換と投資は音楽産業の最前線とつながっている意味は多少はあったもののテスラのようにメーカーとオンラインの関係にない、消費者であり続けること(すなわち永遠にしゃぶられる古典的B to C)を前提にした関係であった。有用性が永遠にあるなら結構だが、実はないことを体験を通じて知った。それがこれだ(CDはだめになるので要注意)。

LPよりCDが保存がきくというdurabilityのセールストークはウソであった。この稿は「スポンジ」に起因するものだが、スポンジがなくてもだめになったもの(例・Eurodisc、ヨッフムのベートーベン序曲集等)が複数存在する。観察するに文字面のインクの透過によると思料する。1964年に買ったLPが美音を奏で、その後集めた千枚以上のLPに1枚たりとも経年劣化が生じていない事実と照合するなら、durabilityという観点からの1985年からのCDへの投資は間違いであったと結論せざるを得ない。

「このCDルームにある1万枚、実は9割はもう聴きません。僕は是々非々なんでつまらないのは1回でおしまいです。なぜ捨てないかというと、店で買った時のわくわく感を覚えてるから。記念写真ですが捨てられないんです」。Sさんにそう言ったが、バレンボイム / シカゴ響のシューマン交響曲第2番も記念写真の一部だったのは厳然たる事実だ。LPで聴いてみて、何度も聴きたいと思う演奏だったことを「発見」したわけだ。とすると第2、第3のそれが出てくるかもしれず、CDで初めて知った音源を今度はLPで買いなおす必要があるかもしれない。

僕は海外16年で40か国訪問し、旅行でも出張でもどこへ行ってもレコード(CD)ショップがあればビジネスを少々押しのけてでも何か買ってきた。だから業界の人より詳しい部分もあろうし、そうして購入したものは記念写真であり自分史でもある。それは同時に『「僕にとって宝物である特定の」楽曲と音源』という、まったくプライベートな精神的帝国でもあって、それを現実の音にする場がリスニングルームという石壁に囲われた城である。そこに置かれたピアノという工具で「宝物」の分解、研究をする人生は楽しく、天文学者が星の観測、研究をするのと変わらない。

「プライベートな精神的帝国」を作ることがショーペンハウエルが「意志と表象としての世界」に論じた幸福であるならば(僕はそう理解しているが)、還暦にしてとうとうそこに到達できたような気がしていることを有難いと思う。帝国を何処に構築しようが勝手であり、それが何に依拠していようと自由であるが、僕の場合はポップスやAKBではなくクラシック音楽と呼ばれるものになった。理由はそれが僕にとって「音楽」であり、それが表象(フォアシュテルングだからだ(「世界は私の表象である」ショーペンハウエル)。

 

我がオーディオ論

 

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LPレコード回帰宣言(その2)-イコライザーカーブ-

2019 SEP 29 2:02:53 am by 東 賢太郎

CDが決定的にダメだと確信したのはバレンボイム/シカゴ響のシューマン交響曲第2番(DG)だ。最初この演奏をロンドンでCDで買って、一度だけ聴いてあっさりお蔵入りとなって忘れてしまった。その後帰国してたまたまドイツプレスのミント(美品)の中古LPを見つけたので購入して聴いてみた。これが素晴らしいのだ。同じ演奏と思えない別物である。

LPは音溝幅の物理的事情から高音過大のカッティングなことは周知だが、デフォルトのイコライザーカーブをEQで修正して聴くわけだ。カーブは全米レコード協会の周波数基準があるにもかかわらず各レーベル個性があるというのが定説だ。同感である。いずれにせよLPとCDはマスターテープと異なるカーブになるがDGのエンジニアがCDトランスファーでそれをいじったかどうかは不明だ。しかしシューマン2番におけるCSOの弦のボディ感、木管のブレンド、金管のバランスなどは明らかに違う。

ホールでも部屋でも同じく、オーケストラの場合でいうと、低域の音圧と締まりがないとその倍音と溶け合う中粋の色香がうまく出ない。弦の高域はきつくざらつき気味になる。パイプオルガンを野外で聴いたらと想像すればいい。教会のたっぷりした空気と反響による残響が倍音を共鳴させ混合するから、あの荘厳で色彩的な演奏が可能となるのだ。総合するならこのCDは高域が薄っぺらくチープで中粋の色彩に欠け、低域はブーミーで締まりがない。だからお蔵入りしたのであり、そのまま僕の中のバレンボイムの評価も下がってしまっていた。

それが本CDエンジニアによるイコライザーカーブ調整の固有の問題なのかCDというフォーマットの可聴域外カットのユニバーサルな問題なのかは結論できないが、私見では後者も少なくとも原因の一部であると考える。音として出てないものは機材で調整しようがないから、LP回帰するしかないのである。ひとつ課題があって、僕はリスニングルームを地下室として設計するにあたってアムステルダム・コンセルトヘボウの音を念頭に置いたから部屋に残響がある。スピーカーの生音にイコライジングしたカーブを自室の固有のアコースティックに合わせて再調整なくてはならない。ここは自分の耳だけが頼りだ。

オーディオには疎いので機材選択とセッティングはプロのSさんのご指南に頼ることになる。15年前にバイアンプにするためパワーを2台買ったときは自室で4機種を聴き比べさせてもらった。ドイツで買ったブルメスターを低音に、4度目にもってきてもらったホヴランドのストラトス2台を中高音に割り振って、うまく鳴らすのが意外に難しいB&W801Dが完璧に駆動した時の喜びは忘れがたい。これにブルメスターのプリ(500万したが)をつないだ音はもう他のものは聴く気しない天上の音色で、ヨッフムのブルックナー、ハイティンクのシューマンはコンセルトヘボウS席の気分となれて目的を達した。

ただ、一つだけ寂しいのはプレーヤー、カートリッジの選択がCDだと存在しないことだった。プレーヤー操作は面倒だがそれが楽しいということはあって、カートリッジで音が変わる(さらにはケーブルで)という泥沼にはまりだすと抜けられない。スピーカーケーブルはついに直径5cmのアナコンダみたいなのに落ち着いたが、たしかに音が変わるのは魔力で、オーディオファイルの方の気持ちはわからないでもない。

 

LPレコード回帰宣言(その3)-ショーペンハウエル-

 

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LPレコード回帰宣言(その1)-光と音-

2019 SEP 26 23:23:00 pm by 東 賢太郎

ブルメスターのプリアンプの修理でオーディオショップに電話したら担当のKさんがはずれていてSさんが来てくれた。初対面だ。「この業界、ユーザーが高齢化で大変なんです」。若者に売れないのもあるが、若い者では耳の肥えた客のニーズにお応えできないから担当者も40代ぐらいのベテランになる。「音にこだわる文化がなくなるんでしょうかねえ」と42才のSさん、ちょっと寂し気だ。

機材についてはKさんから引き継いで知っているSさんが、配置や配線を調べて歩き回り、スピーカの間の壁の前に来て立ち止まった。「ええっ、このレコードお持ちなんですか!」「なんで?」「探してたんです、初めて見ました、実物」「この音源、CBSのアメリカ盤LPも持ってるし、CDフォーマットでもアメリカ、日本、ドイツの3種のプレスがあっちの棚にあるけどね、ぜんぶダメですね。いいのはこの初盤だけです。」

こういう客がいる限り、オーディオ業界は生きのこる。僕は生まれたらそこいら中に親父のSPレコードがあり、それを縁側で割ってやばいと思ったのが初めての記憶というレコード是人生の人間である。「つまりね、プレス重ねると劣化する、LPもね。CDは論外だ。可聴域だけでね、まがいもんだね」。そう感じだしたのは可視光線と色の波長の関係を中村修二教授に教わってからだ。

簡単に書くと、青、赤、緑の光を混ぜると白色光ができるが、それは本当の白ではない。何が「本当」かというと太陽光のもとでの白色だ。太陽光には紫や暗赤色があるが、今のLEDはそれが出ない。だから我々が見ているスマホやテレビのバックライトの白は、白っぽい色を白と思い込まされているに過ぎないのである。教授のデモを見て、スマホの白がまがい物であることを確認した。

人間の可聴域外の周波数をカットしたCDの音も同じくまがい物であるといえないことはない。可聴域外の音域の倍音の共鳴音は聞こえないが、だからといって現実には響いているものがいらないと誰が証明できるだろう。私見では音色、楽器の色香に大いに影響があると感じる。LP、CDの音の差異は、アナログ、デジタルの信号読み取り原理に起因する部分はCDに軍配が上がる効果もあると認めるが、倍音共鳴の遮断デメリットの方が大きい。それを消しては音楽の喜びは半減と感じる今日この頃だ。

「Sさん、僕はLPレコード回帰するからいいプレーヤーとカートリッジ教えてください。それでここでご執心のブーレーズの春の祭典を聴きましょう、あなたの知ってるCDの音がいかに倍音がない干物みたいなものかわかりますよ」。問題の僕の初盤LPの音はDAコンバータでCDRに焼いたのをyoutubeにアップしてあるのでどなたも聴けるし、CDとの差異もaudible(聴いてわかる)なレベルと思う。ただし、ヘッドホンで聴かないとわからないでしょう。

 

LPレコード回帰宣言(その2)-イコライザーカーブ-

 

 

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クラシックの「メロディー派」と「メカ派」

2019 SEP 10 21:21:00 pm by 東 賢太郎

ミステリー好きのクラシック好きはけっこう多いらしい。横溝正史のような作家もいる。何か理由があるのかもしれないが、根っこはただの洋物好きかもしれないとも思う。というのは、我々の爺さんあたりの世代はデカンショ節を高吟して哲学を気取り、ミステリーは洋書でクラシックは輸入SPレコードでなじみ、それが文化人でハイカラだという気風があったからだ。

東京の神保町に古本屋街、洋書屋、洋物文房具屋、画材屋があり、隣の秋葉原に電器部材屋が密集しオーディオ屋、輸入レコード屋ができたが、洋物とセカンダリーマーケット(中古卸し・小売り)という共通項が底流にあったように感じる。自分は中学生から大学卒業までこの界隈を日々徘徊し、そこにムンムンするほど充満してた雑多だけど西洋への憧れを刺激するB級アカデミズムの空気を吸って育ったからこうなった気がする。

非文学的だから洋書に関心はない。クラシックはバリバリの洋物で、ミステリーも洋物なのだが、それが共通項ではなく「メカニック好き」だからはまった。クイーンの謎解きはゾクゾクするほど僕にはメカであり、バッハやベートーベンのスコアもストラスブール大聖堂の精巧な天文時計みたいにメカニックだ。メカニックという共通項で僕はミステリー好きのクラシック好きなのである。両者の「代表作」を20代までに知ってしまったのは、たぶん遺伝子的に、「メカ派」の嗜好が強かったからだ。

洋物ミステリーの名作は子供だったからもう犯人も忘れている。どこか孤島で片っ端から読み返したい。とにかく初読のパンチの強烈さは比類がなかった。それに比べて日本人作家は印象が薄い。メカが弱くて、旅情ロマン小説か逆にメカ・オタク過ぎてマニア向けのエロ本の風情になってる。後者は本格モノというらしいが英語は素直に “puzzler” で、その他は本格にもとる風の偉そうなニュアンスはない。驚愕の結末やらなにやらその快感に焦点を絞っていてもうSMの世界だ。

日本人の書いたクラシックはもっと影が薄い。申しわけないが人生を変えるほど凄いと思ったものがない。僕が最初にノックアウトを食らったのはストラヴィンスキーだが、春の祭典の、まさにこのブーレーズのレコードの19分40秒から20分21秒までである。

これを聴いて、得体の知れぬ奇っ怪な黄泉の花がぽっかりと宙に浮かんで次々と咲く妖しい幻覚を見た。そして、それこそがこのジャケットの絵だと思った(なんとも素晴らしい絵だ)。こういう桁違いの音楽を日本人が書いていけないことはない。でも、ない。

この部分のスコアはこういうことになっている。

12音のうちラ以外の11音を使った複調である。しかしそういう理屈としての技芸が事の核心ではない。ロシア人の脳みそからは時にこういう破壊的なものが出てくるとしか書きようがないが、3大Bの系列にない、クラシックでは田舎圏であるロシアからこれが出てどうして日本から出ないんだろう。

文化人類学的な興味はあまりない。なぜこんな黄泉の国みたいな妖しい音がするんだろう?というのがメカ派のプライマリー・クェスチョンだ。ピッコロ・クラリネットのC7の駆け上がるアルぺジオが高音域のフルート3本が作るCとコントラバスのフラジオレットの不思議な和声(d-g#-c#)を導く(ように聞こえる)。妖精が魔法の杖を振り上げると金の花粉が天空に舞い散る。そこに第2VnとVcの3連符のB♭7の和音が薬味のように混ざる。しかしこれをピアノで鳴らしてもそれほど目覚ましい音はしない。これは管弦楽の魔法なのだ。

こういう型破りは日本人は不得手なのだろう。どうも世間常識や慎ましさや手堅さや師匠へのソンタクみたいなリミッターがかかってしまう気がする。車がそうだ、トヨタから自動運転やファルコン・ウィングのテスラみたいな発想は出ない。技術に非の打ちどころはないがとんがりきれない。それじゃいかん、なんてとんがると今度は無用にそれが目的化してオタク専科になってしまう。そうじゃない、芸術は爆発でなく計算である。春の祭典は天のギフトをもらった者が緻密に計算して数学の答案みたいに書いたスコアで成り立っている、ストラスブール大聖堂の天文時計なのだ。これを爆発と勘違いして意味なく「ぶっ飛んだ」ナンチャッテが世界各地で作られた。

こういうアートが、エラリー・クイーンの「オランダ靴の謎」のような数学美をたたえたミステリーを彷彿とさせるといって、いったいどれほどの方にご賛同いただけるのだろう。「音楽は美しいメロディーです」という主張を退ける自信はないが、ベートーベンの後期のカルテットにそんなものは出てこない。メロディーはたくさん出てくるがメカがお粗末な一部のオペラがその対極であり、それを無視する僕はオーディオマニアでないのと同じぐらいクラシックファンではないし、メロディー派の洗礼儀式である音楽の授業が大嫌いだった理由がいまになってわかる。音楽は理科の授業で習えば楽しんだと思う。

音楽の通信簿は2だったから授業は不要だったわけで、要は、興味のないものは無視で人生何も困らないという結論に至る。美しいメロディー皆無の春の祭典が僕を震撼させるのはJ.S.バッハのフーガの技法やベートーベンの後期のカルテットと同じことであり、オランダ靴に「衝撃の幕開け」や「驚愕の最後の一行」はないのと僕の中では同義である。宗教が違う。そして残念ながら、その関係の連鎖に日本人制作のクラシックもミステリーも出てこない。別に欧米礼賛ではない、是々非々で、出てこないものはどうしようもないのである。

それがどうしてブラームス礼賛なのか。たしかに彼は美しいメロディーを書いたけれども、メカ派なのだ。そんなことはない、彼はロマンティストだという反対意見はあろうが、それとメカ派は矛盾しない。ベートーベンも彼も、さらにはもっと異論が出そうだがモーツァルトもメカ派である。それを度外視して、さあ美しいメロディーをと「日本流クラシック」を強要するのは僕には拷問であり、かつての同盟国だからドイツ人とは気が合うぞと信じるぐらいお門違いである。

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クラシックはこころの漢方薬(2)

2019 JUL 20 1:01:58 am by 東 賢太郎

(1)音楽には作曲家の魂がこもっている

ここでいう魂とは根性論で「魂をいれろ!」の魂ではなく、オカルトや霊的な意味の魂でもない。プラグマティックな意味で「作曲家の思考回路の痕跡」とでもいう意味だ。

思考回路は誰にもある。あることに遭遇した時に「どう考えるか」「どう行動するか」ということにすぎないがすべての人の人生はそれの集大成であるということも可能だ。それは十人十色でありその特性は「性格」(character)という言葉でおおよそ集約されることが多い。

つまり性格は脳の使いかた(思考回路)の産物だ。回路はロジカルで即物的なものでしかないが、その形成にあたっては遺伝的な要素に加えて境遇、感情、身体的事情、肉親や周囲の人間との関係など非即物的なものも大いに関与するだろう。それが性格を形成し、それが人生を決めるなら我々の一生にはそこかしこに思考回路の痕跡があるはずである。

例えば僕が今書いている「文章」がそれである。sentenceの語源はラテン語のsententiaだがこれはまさに “way of thinking”(思考回路)の意味だ。文章を書く(作文)とは文法規則に思考回路を当てはめていく作業であって、それは音楽を書く(作曲)という作業が対位法、和声法などの作曲上の規則に思考回路を当てはめる作業であるのと本質は同じである。だから作文も作曲も英語ではコンポジション(composition)なのである。

(2)ウマが合う人とは?

ここまでくると本稿の趣旨が明らかになってくるだろう。つまり、あなたが好きな文学や絵画や映画や音楽というものはあなたと似た思考回路の人が作ったものなのだ。好きな落語家やお笑いタレントはあなたと似たsense of humour(笑いのツボ)を持っている。その「ツボ」が落語家であれ友達であれピタリと合うとあなたは爆笑していないだろうか。音楽にもツボはある。それが合うとあなたは気持ちよく感じ、その曲を好きになるだろう。なぜならその落語家、友達、作曲家と思考回路が同じであると感じるからであり、それは別な表現ではウマが合う、気が合うということになるのである。

思考回路の合致⇒ウマ(気)が合う⇒相手が好きになる、という「人と人を寄せ合う引力」の存在を証明するのは僕には難しい。ウマ(気)が合う人を好きになるのは納得できても「回路」となると抵抗を感じる方も多いだろう。しかしウマ(気)という目に見えないものを他人が感知できるメディアに置き換えて発信(文学、絵画、映画、お笑い、音楽どれもが発信が必要だ)するには、しようというモチベーションと技術が必要であり、それらはすべてが発信者の脳の作業であって、その作業の脳内プログラムのことを思考回路と呼んでいる。

「友を見ればその人が分かる」という言葉はウマ(気)が合う人同士が引力で結びつく傾向が一般にあることを表現している。「友」を「好みの文学、絵画、映画、お笑い、音楽」に置き換えてもある程度はこの文章は成り立つだろう。Aimez-vous Brahms?(ブラームスはお好き?)とコンサートに女性を誘うのは意味があるのだ。そんな難しいことを言わなくてもウマ(気)さえ合えばいいではないかと思う方もおられよう。そうかもしれないが、僕は最終的には回路が合わないとその関係はどこかで破綻すると考えている。「友」というのは回路の結びつきである。僕は猫好きの人と猫を前にすればウマ(気)が合う人にはなれるだろうが、さて猫が去ってもそうかという自信はない。

作曲は回路の痕跡であるから、ある作品を通して結びついた作曲家との関係は回路を介さない感覚だけの結びつきである猫好きのそれとは違う。一生切れることがない。さらには、同種の人間であるゆえに彼が作曲時に抱いていた感情が自分に共振することがある。散文、ポエムというアートはそうしたものを言語をメディアとして成立しているが、音楽でもそれはあり、特にロマン派以降は音の素材がどんな共振効果をあげうるかのあらゆる実験が百花繚乱の作品によってなされたと言える。言語と音と、どちらが共振を喚起する力があるかは答えが見つからないが、音楽は何度でも喚起力が持続するという特性があることは特筆されるべきだろう。それは皆さんがお好きな料理を月に一度、さらには週に一度は食べたくなるのに近い。僕はこれを音楽の常習性と呼ぶが、生命維持に不必要なものにもかかわらずそうなるのは誠に不思議としかいいようがない。

(3)音楽がなぜ漢方薬になるのか?

ツボを共有する人の思考回路の痕跡があなたの好きな音楽である。作曲家は何かのモチベーションでその曲を書いたのだが、その契機となったもの、喜び、悲しみ、期待、勝どき、不安、絶望といったものに遭遇した時にあなたは彼と似た反応をする思考回路の持ち主なのだ。それゆえに、彼が期待に満ちて勝どきをあげんと書いた音楽はあなたの心にじわりと効いて、その勝どきがあなた自身のものであるかのような精神の高揚をもたらす。不安や絶望に駆られて書いた音楽は逆ではあるが、それを書き記したということは彼はそこからひとまず救済されている。だから書けたのだ。その救済の思考に寄り添っていけばあなたも救済されるだろう。

音楽は劇薬ではなく、ゆっくりと効く。ある種の曲を好んで聴いていればあなたはいつしか積極的で前向き思考の性格になっているだろう。ある種のものは創造力をかきたて、緻密で論理的な思考を好む性格に変え、ある種のものは人や動物を愛する優しさを涵養してくれる。ベートーベンの田園交響曲は自然の神々しさをいつくしむ心の萌芽となるだろう。そして、あなた自身が不幸であったり突然の悲しみに沈んだ時、人生が嫌になった時、夜がつらい時、その沈鬱な感情をどこの誰よりも身近に共有してくれ、一緒に泣き、悲しみ、その結果として痛みを鎮めてくれるのも音楽なのだ。

それらはすべて僕自身が経験したことだ。それがどの曲だったか、お教えしてもいいがそれが万人に同じく効くという自信はない。なぜならその効能は、蓋し僕という人間がベートーベンのある側面と思考回路が似ているためにエロイカ交響曲から非常に強いインパクトを頂戴できているという類のものだからだ。それは各人各様であり皆さん個々人が自分に合う人を探すほうが余程いい。当然ウマが合わない作曲家もいるわけで、僕の場合すでに明白で時間の無駄だから聴かない。相性というものはいうまでもなくundebatableな(論議の余地のない)ものだが、大作曲家全員が友などということが不自然だということはdebatableだろう。

クラシックをいくら聞いても馴染めない人は他のお好きなジャンルに行けばいいし、そちらに薬効がある可能性も大いにあろう。僕がクラシックオンリーでないのはそれが理由でもあって、ジャズにしか求められない効き目もある。漢方は対症療法には向かないが、じんわりと体質改善するにはもってこいで、例えばジャズを聴きこむと現れる特有の思考回路というものがあって、それも自分のものにしたいと思うから時々ひたっている。それは認めつつも、僕はやっぱりこう書いて本稿を閉じるしかない、クラシックの中におそらく皆さんが必要とされる薬はほとんど全部あるだろうと。

 

(ご参考)

ベートーベン 交響曲第2番ニ短調 作品36(その1)

 

クラシック音楽と広東料理

 

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