Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______音楽と自分

我がオーディオ論

2019 OCT 31 18:18:45 pm by 東 賢太郎

前に書いたとおりオーディオのアナログ回帰作戦をしているが、まず、ショップのSさんが我が家のプリアンプ(ブルメスター808)を修理のため持ち帰り、同じブルメスターの099という中級機を「代車」として置いていってくれた。808のオーナーになって15年になるが、鳴らすたびに衝撃を受ける空前絶後のプリと断言したい。拙宅来訪者にはクリスチャン・ツィンマーマンのショパン(バラード集)、カーペンターズのSACDをレファレンスにお聞かせすることをルーティーンとしているが、絶句しなかった人はいない(写真)。495万円するが、音楽にこだわる方は車をあきらめてでも買って後悔はしないだろう。

代車の099(250万円)も見事だが808を知ってしまうとやや寂しい。808で3台駆動しているパワーアンプが許容量から2台になるせいもあるが、ただこっちのほうがむしろサントリーホールのライブの音響に似ていることがわかってHiFi(高忠実度)とは何なのか考えさせられる。巨匠たちはみなあの世に旅立ってしまったし東京のどのホールより自室の音の方が良いと感じるので、あんまり演奏会には進んでいく気がしなくなっている。ちなみに099の設定でコンセルトヘボウ管のハイドン93番(C・デービス指揮)をCDとLPとで聴いてみたが、結果は明白で比べるべくもない。結局、CDが勝ると思うのはピアノだけだ。

こういう諸条件を勘案したうえでどうしたら好みの音になるかと空想するのだが、作戦敢行にはターンテーブル・トーンアーム・カートリッジ・フォノイコライザーの4つを買い替える必要がある。現状使用中のものはCDへの切り替えを前提にグレードアップする以前からのものでクオリティが大幅に劣る。アナログはエジソンの方法で原理的に録音現場で鳴った音そのもの(原音の空気振動)を音溝に直接刻んでおり、電子的に0,1に記号変換していないから、先を丸めて尖らせた紙筒や小指の爪で溝をたどってもかすかに音が聞こえる。ということは高精度の装置なら原音通りの空気振動をリス二ングルームに再生できるはずだ。

何事もこの原理的な「はず(sollen)」という信念が僕に火をつける。LPはCDの勃興で一度は市場を喪失したのだが、そこから今に至る雌伏期に負けじと進化して僕らがLPは死んだと信じた80年代初頭のレベルとは比較にならない音がするようになっていると聞いている(未聴だ)。だからやろうとしているのは回帰ではなくて、アナログにグレードアップというべきだ。いったん全面的にCDに切った舵を切りなおすということは、要するに1万枚以上たまってしまったCDは「全部捨てる」という意味である。ここからの余生をLPに付託するのだから半端なことではない。

そうかんがえるのは、あと何年生きるかわからないのに気に入らないもので我慢する理由など何もないと思うからだ。食事だってクルマだって人づき合いだってそうだろう。ただ社会生活をする以上は万事でそうするわけにもいかないから、一つぐらいは徹底的に我が儘させていただきたい。そうなると、僕の場合は音楽になるということだ。グランドピアノもファツィオリにしようかなと思ったが、それを味わうには練習しないとピアノに失礼だ。となると時間がない。ならばきくだけで楽なオーディオにしようという結論になる。

Hovland 社の Stratos

オーディオは超がつくマニアックな世界だ。例えば米国のホヴランド社のストラトス(成層圏)と名付けられたパワーアンプをデモ段階の試作機で聴いて、大いに気に入った。発売前に2台注文したら社長から手紙が来た。お買上げ感謝状ではなく、心からの「わかってくれて有難う」なる謝意であった。まぎれもない正統派路線の高級な音だが、マニアが自慢できそうな HiFi っぽい尖ったものはない。どれだけ売れるかなと思ったが案の定わかる人が少なかったんだろう、同社は消えた。演奏家でいえばハイティンクやコリン・デービスが評価されない日本のクラシック界と似ている。かようにマニアといっても多種族が生息するのであって、作る側もそうだが聴く側もそうだ。お互いに趣味の範囲は針の先のように狭隘で、針先と針先がピタッと合う事は稀だが、だからこそ合ったときの喜びは海の向こうに感謝状を書く気になるほど格別なものということだ。

そういうマニアの集結基地というと、例えば僕が仕事で関わっているシリコンバレーがそのひとつだ。理系オタクのクラブみたいなものだが、ぶっ飛んだ発想でdisruptive(非連続的、破壊的)なテクノロジーを開発・実現し、それを事業化して企業価値を高める文系的感性もないと成功はおぼつかない。理系バカではいくら優秀でも不足であり、オール5の学校秀才タイプは概ねだめだ。オーディオの世界もおそらくそんなものであり、まず一にも二にも良い音(テクノロジー)ありきではあるが、質を落とさずに大量生産して販売しないと事業はサステナブルにできない。そこは経営のセンスが問われる部分であり、ストラトスを作る製作上のセンスとテクノロジーがあるホヴランドの破綻は実にもったいない。もう遅いが僕が買収していたらよかった。

扱い、保存の難しいレコードは洗浄したり面を裏返したり手間もかかる。しかしお釣りがくるぐらい良い音で音楽が聴けるならやるっきゃないだろう。かように音楽という物は僕の人生において多大な時間と労力を消費する存在であり、それをすべて仕事に傾注していればもっと楽に暮らせたと思う。でもそれは無理なのだ。こんなストレスだらけの日々を安らがせてくれるのは音楽であり、だから自宅には鉄筋の地下室を掘って、そこは何でもやり放題の桃源郷にさせてもらってる。こればっかりは誰とも共有できないだろう超微細な関心事に子供みたいに寝食忘れて没頭できる空間であり、そこにいる間、僕は世間の誰も想像しない最も僕らしい姿でいられるのだ。

LPレコード回帰宣言(その3)-ショーペンハウエル-

2019 SEP 29 16:16:51 pm by 東 賢太郎

Sさんに部屋の音響特性をわかってもらうためピアノの生音を聴いてもらった。機材はスペックの数字で決まるのではなくて、部屋との相性が問われる。前回は名器とされるアンプを3つ不合格にした。しかし2004年に念頭にあったのは「CDをうまく鳴らす」ことだ。それもモノラル、ステレオ初期の、「僕にとって宝物である特定の音源」をCDフォーマットで聴くことがバージョンアップの動機だった。その時点で「僕にとって宝物である特定の楽曲」はほぼ限定的に決まっており、それを聴くべき極めて少数の音源もほぼ限定的に決まっていたようだ。「ようだ」と書くのは15年経過した今も変わっていないからだ。

そうして決定した現在のセットアップを変えるのはリスクのある投資だが幸い僕にはクルマの趣味がない。社用車をテスラXにした程度で、しかもそれはプログラムのバージョンアップを通じてメーカーとつながっているというB to Cモデルの革命を投資家として体験するビジネス上の動機だ。1985年前後から始めたCDへの転換と投資は音楽産業の最前線とつながっている意味は多少はあったもののテスラのようにメーカーとオンラインの関係にない、消費者であり続けること(すなわち永遠にしゃぶられる古典的B to C)を前提にした関係であった。有用性が永遠にあるなら結構だが、実はないことを体験を通じて知った。それがこれだ(CDはだめになるので要注意)。

LPよりCDが保存がきくというdurabilityのセールストークはウソであった。この稿は「スポンジ」に起因するものだが、スポンジがなくてもだめになったもの(例・Eurodisc、ヨッフムのベートーベン序曲集等)が複数存在する。観察するに文字面のインクの透過によると思料する。1964年に買ったLPが美音を奏で、その後集めた千枚以上のLPに1枚たりとも経年劣化が生じていない事実と照合するなら、durabilityという観点からの1985年からのCDへの投資は間違いであったと結論せざるを得ない。

「このCDルームにある1万枚、実は9割はもう聴きません。僕は是々非々なんでつまらないのは1回でおしまいです。なぜ捨てないかというと、店で買った時のわくわく感を覚えてるから。記念写真ですが捨てられないんです」。Sさんにそう言ったが、バレンボイム / シカゴ響のシューマン交響曲第2番も記念写真の一部だったのは厳然たる事実だ。LPで聴いてみて、何度も聴きたいと思う演奏だったことを「発見」したわけだ。とすると第2、第3のそれが出てくるかもしれず、CDで初めて知った音源を今度はLPで買いなおす必要があるかもしれない。

僕は海外16年で40か国訪問し、旅行でも出張でもどこへ行ってもレコード(CD)ショップがあればビジネスを少々押しのけてでも何か買ってきた。だから業界の人より詳しい部分もあろうし、そうして購入したものは記念写真であり自分史でもある。それは同時に『「僕にとって宝物である特定の」楽曲と音源』という、まったくプライベートな精神的帝国でもあって、それを現実の音にする場がリスニングルームという石壁に囲われた城である。そこに置かれたピアノという工具で「宝物」の分解、研究をする人生は楽しく、天文学者が星の観測、研究をするのと変わらない。

「プライベートな精神的帝国」を作ることがショーペンハウエルが「意志と表象としての世界」に論じた幸福であるならば(僕はそう理解しているが)、還暦にしてとうとうそこに到達できたような気がしていることを有難いと思う。帝国を何処に構築しようが勝手であり、それが何に依拠していようと自由であるが、僕の場合はポップスやAKBではなくクラシック音楽と呼ばれるものになった。理由はそれが僕にとって「音楽」であり、それが表象(フォアシュテルングだからだ(「世界は私の表象である」ショーペンハウエル)。

 

 

 

LPレコード回帰宣言(その2)-イコライザーカーブ-

2019 SEP 29 2:02:53 am by 東 賢太郎

CDが決定的にダメだと確信したのはバレンボイム/シカゴ響のシューマン交響曲第2番(DG)だ。最初この演奏をロンドンでCDで買って、一度だけ聴いてあっさりお蔵入りとなって忘れてしまった。その後帰国してたまたまドイツプレスのミント(美品)の中古LPを見つけたので購入して聴いてみた。これが素晴らしいのだ。同じ演奏と思えない別物である。

LPは音溝幅の物理的事情から高音過大のカッティングなことは周知だが、デフォルトのイコライザーカーブをEQで修正して聴くわけだ。カーブは全米レコード協会の周波数基準があるにもかかわらず各レーベル個性があるというのが定説だ。同感である。いずれにせよLPとCDはマスターテープと異なるカーブになるがDGのエンジニアがCDトランスファーでそれをいじったかどうかは不明だ。しかしシューマン2番におけるCSOの弦のボディ感、木管のブレンド、金管のバランスなどは明らかに違う。

ホールでも部屋でも同じく、オーケストラの場合でいうと、低域の音圧と締まりがないとその倍音と溶け合う中粋の色香がうまく出ない。弦の高域はきつくざらつき気味になる。パイプオルガンを野外で聴いたらと想像すればいい。教会のたっぷりした空気と反響による残響が倍音を共鳴させ混合するから、あの荘厳で色彩的な演奏が可能となるのだ。総合するならこのCDは高域が薄っぺらくチープで中粋の色彩に欠け、低域はブーミーで締まりがない。だからお蔵入りしたのであり、そのまま僕の中のバレンボイムの評価も下がってしまっていた。

それが本CDエンジニアによるイコライザーカーブ調整の固有の問題なのかCDというフォーマットの可聴域外カットのユニバーサルな問題なのかは結論できないが、私見では後者も少なくとも原因の一部であると考える。音として出てないものは機材で調整しようがないから、LP回帰するしかないのである。ひとつ課題があって、僕はリスニングルームを地下室として設計するにあたってアムステルダム・コンセルトヘボウの音を念頭に置いたから部屋に残響がある。スピーカーの生音にイコライジングしたカーブを自室の固有のアコースティックに合わせて再調整なくてはならない。ここは自分の耳だけが頼りだ。

オーディオには疎いので機材選択とセッティングはプロのSさんのご指南に頼ることになる。15年前にバイアンプにするためパワーを2台買ったときは自室で4機種を聴き比べさせてもらった。ドイツで買ったブルメスターを低音に、4度目にもってきてもらったホヴランドのストラトス2台を中高音に割り振って、うまく鳴らすのが意外に難しいB&W801Dが完璧に駆動した時の喜びは忘れがたい。これにブルメスターのプリ(500万したが)をつないだ音はもう他のものは聴く気しない天上の音色で、ヨッフムのブルックナー、ハイティンクのシューマンはコンセルトヘボウS席の気分となれて目的を達した。

ただ、一つだけ寂しいのはプレーヤー、カートリッジの選択がCDだと存在しないことだった。プレーヤー操作は面倒だがそれが楽しいということはあって、カートリッジで音が変わる(さらにはケーブルで)という泥沼にはまりだすと抜けられない。スピーカーケーブルはついに直径5cmのアナコンダみたいなのに落ち着いたが、たしかに音が変わるのは魔力で、オーディオファイルの方の気持ちはわからないでもない。

 

 

 

 

 

 

 

LPレコード回帰宣言(その1)-光と音-

2019 SEP 26 23:23:00 pm by 東 賢太郎

ブルメスターのプリアンプの修理でオーディオショップに電話したら担当のKさんがはずれていてSさんが来てくれた。初対面だ。「この業界、ユーザーが高齢化で大変なんです」。若者に売れないのもあるが、若い者では耳の肥えた客のニーズにお応えできないから担当者も40代ぐらいのベテランになる。「音にこだわる文化がなくなるんでしょうかねえ」と42才のSさん、ちょっと寂し気だ。

機材についてはKさんから引き継いで知っているSさんが、配置や配線を調べて歩き回り、スピーカの間の壁の前に来て立ち止まった。「ええっ、このレコードお持ちなんですか!」「なんで?」「探してたんです、初めて見ました、実物」「この音源、CBSのアメリカ盤LPも持ってるし、CDフォーマットでもアメリカ、日本、ドイツの3種のプレスがあっちの棚にあるけどね、ぜんぶダメですね。いいのはこの初盤だけです。」

こういう客がいる限り、オーディオ業界は生きのこる。僕は生まれたらそこいら中に親父のSPレコードがあり、それを縁側で割ってやばいと思ったのが初めての記憶というレコード是人生の人間である。「つまりね、プレス重ねると劣化する、LPもね。CDは論外だ。可聴域だけでね、まがいもんだね」。そう感じだしたのは可視光線と色の波長の関係を中村修二教授に教わってからだ。

簡単に書くと、青、赤、緑の光を混ぜると白色光ができるが、それは本当の白ではない。何が「本当」かというと太陽光のもとでの白色だ。太陽光には紫や暗赤色があるが、今のLEDはそれが出ない。だから我々が見ているスマホやテレビのバックライトの白は、白っぽい色を白と思い込まされているに過ぎないのである。教授のデモを見て、スマホの白がまがい物であることを確認した。

人間の可聴域外の周波数をカットしたCDの音も同じくまがい物であるといえないことはない。可聴域外の音域の倍音の共鳴音は聞こえないが、だからといって現実には響いているものがいらないと誰が証明できるだろう。私見では音色、楽器の色香に大いに影響があると感じる。LP、CDの音の差異は、アナログ、デジタルの信号読み取り原理に起因する部分はCDに軍配が上がる効果もあると認めるが、倍音共鳴の遮断デメリットの方が大きい。それを消しては音楽の喜びは半減と感じる今日この頃だ。

「Sさん、僕はLPレコード回帰するからいいプレーヤーとカートリッジ教えてください。それでここでご執心のブーレーズの春の祭典を聴きましょう、あなたの知ってるCDの音がいかに倍音がない干物みたいなものかわかりますよ」。問題の僕の初盤LPの音はDAコンバータでCDRに焼いたのをyoutubeにアップしてあるのでどなたも聴けるし、CDとの差異もaudible(聴いてわかる)なレベルと思う。ただし、ヘッドホンで聴かないとわからないでしょう。

 

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クラシックの「メロディー派」と「メカ派」

2019 SEP 10 21:21:00 pm by 東 賢太郎

ミステリー好きのクラシック好きはけっこう多いらしい。横溝正史のような作家もいる。何か理由があるのかもしれないが、根っこはただの洋物好きかもしれないとも思う。というのは、我々の爺さんあたりの世代はデカンショ節を高吟して哲学を気取り、ミステリーは洋書でクラシックは輸入SPレコードでなじみ、それが文化人でハイカラだという気風があったからだ。

東京の神保町に古本屋街、洋書屋、洋物文房具屋、画材屋があり、隣の秋葉原に電器部材屋が密集しオーディオ屋、輸入レコード屋ができたが、洋物とセカンダリーマーケット(中古卸し・小売り)という共通項が底流にあったように感じる。自分は中学生から大学卒業までこの界隈を日々徘徊し、そこにムンムンするほど充満してた雑多だけど西洋への憧れを刺激するB級アカデミズムの空気を吸って育ったからこうなった気がする。

非文学的だから洋書に関心はない。クラシックはバリバリの洋物で、ミステリーも洋物なのだが、それが共通項ではなく「メカニック好き」だからはまった。クイーンの謎解きはゾクゾクするほど僕にはメカであり、バッハやベートーベンのスコアもストラスブール大聖堂の精巧な天文時計みたいにメカニックだ。メカニックという共通項で僕はミステリー好きのクラシック好きなのである。両者の「代表作」を20代までに知ってしまったのは、たぶん遺伝子的に、「メカ派」の嗜好が強かったからだ。

洋物ミステリーの名作は子供だったからもう犯人も忘れている。どこか孤島で片っ端から読み返したい。とにかく初読のパンチの強烈さは比類がなかった。それに比べて日本人作家は印象が薄い。メカが弱くて、旅情ロマン小説か逆にメカ・オタク過ぎてマニア向けのエロ本の風情になってる。後者は本格モノというらしいが英語は素直に “puzzler” で、その他は本格にもとる風の偉そうなニュアンスはない。驚愕の結末やらなにやらその快感に焦点を絞っていてもうSMの世界だ。

日本人の書いたクラシックはもっと影が薄い。申しわけないが人生を変えるほど凄いと思ったものがない。僕が最初にノックアウトを食らったのはストラヴィンスキーだが、春の祭典の、まさにこのブーレーズのレコードの19分40秒から20分21秒までである。

これを聴いて、得体の知れぬ奇っ怪な黄泉の花がぽっかりと宙に浮かんで次々と咲く妖しい幻覚を見た。そして、それこそがこのジャケットの絵だと思った(なんとも素晴らしい絵だ)。こういう桁違いの音楽を日本人が書いていけないことはない。でも、ない。

この部分のスコアはこういうことになっている。

12音のうちラ以外の11音を使った複調である。しかしそういう理屈としての技芸が事の核心ではない。ロシア人の脳みそからは時にこういう破壊的なものが出てくるとしか書きようがないが、3大Bの系列にない、クラシックでは田舎圏であるロシアからこれが出てどうして日本から出ないんだろう。

文化人類学的な興味はあまりない。なぜこんな黄泉の国みたいな妖しい音がするんだろう?というのがメカ派のプライマリー・クェスチョンだ。ピッコロ・クラリネットのC7の駆け上がるアルぺジオが高音域のフルート3本が作るCとコントラバスのフラジオレットの不思議な和声(d-g#-c#)を導く(ように聞こえる)。妖精が魔法の杖を振り上げると金の花粉が天空に舞い散る。そこに第2VnとVcの3連符のB♭7の和音が薬味のように混ざる。しかしこれをピアノで鳴らしてもそれほど目覚ましい音はしない。これは管弦楽の魔法なのだ。

こういう型破りは日本人は不得手なのだろう。どうも世間常識や慎ましさや手堅さや師匠へのソンタクみたいなリミッターがかかってしまう気がする。車がそうだ、トヨタから自動運転やファルコン・ウィングのテスラみたいな発想は出ない。技術に非の打ちどころはないがとんがりきれない。それじゃいかん、なんてとんがると今度は無用にそれが目的化してオタク専科になってしまう。そうじゃない、芸術は爆発でなく計算である。春の祭典は天のギフトをもらった者が緻密に計算して数学の答案みたいに書いたスコアで成り立っている、ストラスブール大聖堂の天文時計なのだ。これを爆発と勘違いして意味なく「ぶっ飛んだ」ナンチャッテが世界各地で作られた。

こういうアートが、エラリー・クイーンの「オランダ靴の謎」のような数学美をたたえたミステリーを彷彿とさせるといって、いったいどれほどの方にご賛同いただけるのだろう。「音楽は美しいメロディーです」という主張を退ける自信はないが、ベートーベンの後期のカルテットにそんなものは出てこない。メロディーはたくさん出てくるがメカがお粗末な一部のオペラがその対極であり、それを無視する僕はオーディオマニアでないのと同じぐらいクラシックファンではないし、メロディー派の洗礼儀式である音楽の授業が大嫌いだった理由がいまになってわかる。音楽は理科の授業で習えば楽しんだと思う。

音楽の通信簿は2だったから授業は不要だったわけで、要は、興味のないものは無視で人生何も困らないという結論に至る。美しいメロディー皆無の春の祭典が僕を震撼させるのはJ.S.バッハのフーガの技法やベートーベンの後期のカルテットと同じことであり、オランダ靴に「衝撃の幕開け」や「驚愕の最後の一行」はないのと僕の中では同義である。宗教が違う。そして残念ながら、その関係の連鎖に日本人制作のクラシックもミステリーも出てこない。別に欧米礼賛ではない、是々非々で、出てこないものはどうしようもないのである。

それがどうしてブラームス礼賛なのか。たしかに彼は美しいメロディーを書いたけれども、メカ派なのだ。そんなことはない、彼はロマンティストだという反対意見はあろうが、それとメカ派は矛盾しない。ベートーベンも彼も、さらにはもっと異論が出そうだがモーツァルトもメカ派である。それを度外視して、さあ美しいメロディーをと「日本流クラシック」を強要するのは僕には拷問であり、かつての同盟国だからドイツ人とは気が合うぞと信じるぐらいお門違いである。

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クラシックはこころの漢方薬(2)

2019 JUL 20 1:01:58 am by 東 賢太郎

(1)音楽には作曲家の魂がこもっている

ここでいう魂とは根性論で「魂をいれろ!」の魂ではなく、オカルトや霊的な意味の魂でもない。プラグマティックな意味で「作曲家の思考回路の痕跡」とでもいう意味だ。

思考回路は誰にもある。あることに遭遇した時に「どう考えるか」「どう行動するか」ということにすぎないがすべての人の人生はそれの集大成であるということも可能だ。それは十人十色でありその特性は「性格」(character)という言葉でおおよそ集約されることが多い。

つまり性格は脳の使いかた(思考回路)の産物だ。回路はロジカルで即物的なものでしかないが、その形成にあたっては遺伝的な要素に加えて境遇、感情、身体的事情、肉親や周囲の人間との関係など非即物的なものも大いに関与するだろう。それが性格を形成し、それが人生を決めるなら我々の一生にはそこかしこに思考回路の痕跡があるはずである。

例えば僕が今書いている「文章」がそれである。sentenceの語源はラテン語のsententiaだがこれはまさに “way of thinking”(思考回路)の意味だ。文章を書く(作文)とは文法規則に思考回路を当てはめていく作業であって、それは音楽を書く(作曲)という作業が対位法、和声法などの作曲上の規則に思考回路を当てはめる作業であるのと本質は同じである。だから作文も作曲も英語ではコンポジション(composition)なのである。

(2)ウマが合う人とは?

ここまでくると本稿の趣旨が明らかになってくるだろう。つまり、あなたが好きな文学や絵画や映画や音楽というものはあなたと似た思考回路の人が作ったものなのだ。好きな落語家やお笑いタレントはあなたと似たsense of humour(笑いのツボ)を持っている。その「ツボ」が落語家であれ友達であれピタリと合うとあなたは爆笑していないだろうか。音楽にもツボはある。それが合うとあなたは気持ちよく感じ、その曲を好きになるだろう。なぜならその落語家、友達、作曲家と思考回路が同じであると感じるからであり、それは別な表現ではウマが合う、気が合うということになるのである。

思考回路の合致⇒ウマ(気)が合う⇒相手が好きになる、という「人と人を寄せ合う引力」の存在を証明するのは僕には難しい。ウマ(気)が合う人を好きになるのは納得できても「回路」となると抵抗を感じる方も多いだろう。しかしウマ(気)という目に見えないものを他人が感知できるメディアに置き換えて発信(文学、絵画、映画、お笑い、音楽どれもが発信が必要だ)するには、しようというモチベーションと技術が必要であり、それらはすべてが発信者の脳の作業であって、その作業の脳内プログラムのことを思考回路と呼んでいる。

「友を見ればその人が分かる」という言葉はウマ(気)が合う人同士が引力で結びつく傾向が一般にあることを表現している。「友」を「好みの文学、絵画、映画、お笑い、音楽」に置き換えてもある程度はこの文章は成り立つだろう。Aimez-vous Brahms?(ブラームスはお好き?)とコンサートに女性を誘うのは意味があるのだ。そんな難しいことを言わなくてもウマ(気)さえ合えばいいではないかと思う方もおられよう。そうかもしれないが、僕は最終的には回路が合わないとその関係はどこかで破綻すると考えている。「友」というのは回路の結びつきである。僕は猫好きの人と猫を前にすればウマ(気)が合う人にはなれるだろうが、さて猫が去ってもそうかという自信はない。

作曲は回路の痕跡であるから、ある作品を通して結びついた作曲家との関係は回路を介さない感覚だけの結びつきである猫好きのそれとは違う。一生切れることがない。さらには、同種の人間であるゆえに彼が作曲時に抱いていた感情が自分に共振することがある。散文、ポエムというアートはそうしたものを言語をメディアとして成立しているが、音楽でもそれはあり、特にロマン派以降は音の素材がどんな共振効果をあげうるかのあらゆる実験が百花繚乱の作品によってなされたと言える。言語と音と、どちらが共振を喚起する力があるかは答えが見つからないが、音楽は何度でも喚起力が持続するという特性があることは特筆されるべきだろう。それは皆さんがお好きな料理を月に一度、さらには週に一度は食べたくなるのに近い。僕はこれを音楽の常習性と呼ぶが、生命維持に不必要なものにもかかわらずそうなるのは誠に不思議としかいいようがない。

(3)音楽がなぜ漢方薬になるのか?

ツボを共有する人の思考回路の痕跡があなたの好きな音楽である。作曲家は何かのモチベーションでその曲を書いたのだが、その契機となったもの、喜び、悲しみ、期待、勝どき、不安、絶望といったものに遭遇した時にあなたは彼と似た反応をする思考回路の持ち主なのだ。それゆえに、彼が期待に満ちて勝どきをあげんと書いた音楽はあなたの心にじわりと効いて、その勝どきがあなた自身のものであるかのような精神の高揚をもたらす。不安や絶望に駆られて書いた音楽は逆ではあるが、それを書き記したということは彼はそこからひとまず救済されている。だから書けたのだ。その救済の思考に寄り添っていけばあなたも救済されるだろう。

音楽は劇薬ではなく、ゆっくりと効く。ある種の曲を好んで聴いていればあなたはいつしか積極的で前向き思考の性格になっているだろう。ある種のものは創造力をかきたて、緻密で論理的な思考を好む性格に変え、ある種のものは人や動物を愛する優しさを涵養してくれる。ベートーベンの田園交響曲は自然の神々しさをいつくしむ心の萌芽となるだろう。そして、あなた自身が不幸であったり突然の悲しみに沈んだ時、人生が嫌になった時、夜がつらい時、その沈鬱な感情をどこの誰よりも身近に共有してくれ、一緒に泣き、悲しみ、その結果として痛みを鎮めてくれるのも音楽なのだ。

それらはすべて僕自身が経験したことだ。それがどの曲だったか、お教えしてもいいがそれが万人に同じく効くという自信はない。なぜならその効能は、蓋し僕という人間がベートーベンのある側面と思考回路が似ているためにエロイカ交響曲から非常に強いインパクトを頂戴できているという類のものだからだ。それは各人各様であり皆さん個々人が自分に合う人を探すほうが余程いい。当然ウマが合わない作曲家もいるわけで、僕の場合すでに明白で時間の無駄だから聴かない。相性というものはいうまでもなくundebatableな(論議の余地のない)ものだが、大作曲家全員が友などということが不自然だということはdebatableだろう。

クラシックをいくら聞いても馴染めない人は他のお好きなジャンルに行けばいいし、そちらに薬効がある可能性も大いにあろう。僕がクラシックオンリーでないのはそれが理由でもあって、ジャズにしか求められない効き目もある。漢方は対症療法には向かないが、じんわりと体質改善するにはもってこいで、例えばジャズを聴きこむと現れる特有の思考回路というものがあって、それも自分のものにしたいと思うから時々ひたっている。それは認めつつも、僕はやっぱりこう書いて本稿を閉じるしかない、クラシックの中におそらく皆さんが必要とされる薬はほとんど全部あるだろうと。

 

(ご参考)

ベートーベン 交響曲第2番ニ短調 作品36(その1)

 

クラシック音楽と広東料理

 

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音楽の偏食はあたりまえである

2019 JUL 15 17:17:34 pm by 東 賢太郎

演奏家にはレパートリー(repertoire)がある。何でも初見で弾けるピアニストはいても、それが即レパートリーというわけにはいかない。演奏家は自分の何らかのステートメント(statement、声明、自己証明)を他人の書いた楽曲に乗せて発信する人という認識が19世紀後半に主流になり、聞き手はそれを愛でに会場に来るというのが現代に至ってオペラやコンサートの定型的な図式となった。つまり演奏家とはステートメントによって自らを世にアピールする存在であって、その一点において「弾ける曲」と「レパートリー」とは決定的に違う。

自分で音を紡ぎだす肉体的制約のない指揮者はレパートリー選択の自由度は高いと書いてそれほど間違いではないように思う。カラヤン、オーマンディー、ネーメ・ヤルヴィは何でもござれのイメージがある。実はカラヤンはそうでもないが、守備範囲は前任フルトヴェングラーよりずっと広かった。かたやジュリーニやカルロス・クライバーは狭かったが、だからふたりがカラヤンに劣ると思う人は少ないだろう。ステートメントの品質は物量で決まるわけではない。

このことは演奏する側ばかりでない、聴く側にもあると思うがいかがだろう。僕は幼少時に偏食だったので「なんでも食べなさい」と言われて育ったが結局そうはならなかった。おそらく多くの方がちょっと苦手なもの、嫌ではなくて出てくればいただくが、自らレストランではあまり注文しないものがあるのではないだろうか。食物と違って音楽は生命維持に必要なわけではないから好き嫌いで選んで文句を言う人はいないし、一切聞かないという選択肢だってある。

つまり音楽は偏食があたりまえなのであり、僕のようにベンチャーズもモーツァルトもメシアンも半端なく日常的に好きだという雑食はむしろマイノリティである。好きの根っこは古典派にありそうな気がするが今は音楽室に入るとラフマニノフPC3Mov2冒頭とブルックナー7番Mov2冒頭を弾くのが日課であり、どうしてもその欲求に負ける。それがどこから湧き出てくるのかわからない。その5人の音楽家の作品に僕に響く何らかの共通因子があるということだけは確実だが解明したところで誰の役にもたたないし日本のGDPにも世界平和にもならないからしない。響く器のほうが僕なのだと定義すれば足りる。畢竟、それがステートメントの本質である。

僕のレパートリーは学生時代にできて、そこからは忙しくてあまり進化していない。浪人して若さとヒマが両立しており、当時だと3回で暗記OKだから図書館でかたっぱしから聞き、それはできた。万事興味ないことは覚えないから花や木の名前は数個しか言えないが、好きな曲はオペラでも室内楽でもバスを暗譜で歌えるまで記憶しており、そうなったものを僕は自分の鑑賞レパートリーとして認識している。ブログで曲名タイトルで書いた楽曲はすべてそれに属している。ブログもステートメント発信だからそれが自分であるという表明であり、レパートリーでない音楽への意見表明は僕の価値基準からは不適格だからそれに自分を代表させようということはあり得ない。

お気づきかもしれないがイタリアオペラはボエーム1曲しかない。プッチーニは多少好きということでスカラ座、コヴェントガーデン、メットなどで代表作はぜんぶ聞いているがそれでも記憶には至っていない(つまり続けて3回聞いてない)。「ボエーム」と「その他全部」でボエームのほうが重い。ボエームの音源は17種類もっていて魔笛の18種に次ぐから全オペラの堂々第2位なのであって、どうしてそれがイタオペという鬼門のジャンルに鎮座しているのか不思議でならない。10余年ヨーロッパに住んでいてヴェルディを歌劇場できいたのは数回で、そんなに少ないのに回数すら覚えてないしアイーダは白馬が舞台に出たのしか覚えてない。レコード、CDを家で全曲通したことはない。

ちなみにイタリア国や文化が嫌いなのではない。イタメシもブルネッロ・ディ・モンタルチーノもローマ史も半端なく好きだし、カエサルは尊敬してるし、スキー場もゴルフ場もグッドだし、クルーズは2回したし観光で一番たくさん訪れた国だし、アマルフィの油絵を居間に掛けて毎日眺めている。しかもミラノではイタオペ大権現トスカニーニの墓参りまでしたのだ。なんで「オペラ好き親父」でないの?わからない。出てくればいただくが自分からは食べないというのは英語で indifferent (どっちでもいい)であるが、無関心なもののために4時間を空費することは耐えられないという理由から僕はヴェルディはマーラーと同じく嫌い(dislike)だといって差し支えない。

それでヴェルディ、マーラーの音楽に身勝手な優劣を論じているつもりはまったくない。記憶してもいない曲を論じる資格はないというのが僕の絶対の哲学である。単に、二人の音楽の効能、一般には予期される化学反応が僕にはいささかも発揮されないということだ。「効きますよ」という薬を何度飲んでも効かないだけのことで、だから何百万人が「効きます」と声高に言っても僕には関係ないのである。正確に繰り返せば、薬は indifferent な存在なのだが、飲む時間の空費が dislike なのだ。イタリアはいつでも行きたいが、行って音楽を聴かないでOKな欧州唯一の国だ。ベニスでもフィレンツェでもナポリでもボローニャでもジェノバでも聴いてないし、ミラノではスカラ座には3回入ったが2回はワーグナーとグルックであり、一番時間を費やしたのはモーツァルトの足跡巡りだった。

石井宏著「反音楽史」(新潮文庫)は僕が教育の過程でドイツ人学者たちの洗脳の餌食になっていた可能性を示唆してくれた。そうかもしれないしそれではイタリア音楽にとって不遇でアンフェアとも思うが、仮にそうだとしてその洗脳がなければ僕がヴェルディ好きになったかといえば全くそうは思わない。学者がいくら頑張ってもモーツァルトやベートーベンの音楽が優れていなければこういう世の中にはなっていないし、逆に、「反音楽史」でなるほどとなってもイタリア音楽の魅力がそのことで倍加するわけでもない。似たことで、近隣国が我が国に対してそれ同様の歴史評価逆転劇を狙っていろいろの仕掛けを考案されご苦労様なことだが、ドイツ音楽と同じことで、古より和をもって貴しとなしサムライの精神で研ぎ澄まされた我が国の精神文化の優位性が揺らぐはずもないのである。

クラシックと一口に言ってもバロック前、バロック、ロココ、古典、ロマン、後期ロマン、近代、現代に分科し、演奏形態で教会音楽、オペラ、声楽、協奏曲、管弦楽、室内楽、器楽、電子音楽に分科して両者がマトリックスを成す。その個々に硬派な演奏家とファンがおり、通常はあまりまたがらない。僕の記憶ストックは時代として古典前後が多いがそれはユニバースがそうなためで、ユニバース比でマトリックスのセグメントでは近代・管弦楽のシェアが高い。そこに位置する著名作曲家がレスピーギしかおらず、ロマン・オペラしかないイタリアは国ごと視野になく、後期ロマン/近代・オペラであるプッチーニだけが残ったということだと思われる。

近代・管弦楽の硬派なファンとしては僕は分科またぎができる方で、クラシックの中においても雑食派だと思う。ヒマにあかせて受験勉強の要領でレパートリーを一気に作ったから20代から進化してないし、逆にそこから脱落する曲もあってむしろ減ってるのではないだろうか。クラシックは飽きが来ない、だからクラシックになるんだと思っていたがそんな特別なものではない。ちゃんと飽きる。というより、原理原則でいうと、既述の「無関心なもののために*時間を空費することは耐えられない」ということであって、飽きる=無関心(indifferent)となり、しかも人生の残り時間が逓減するにつれ単位時間あたりの限界効用価値の期待値はバーが高くなり、ダブルの逓減効果で飽きる=嫌い(dislike)と進行していくのである

しかし、何百回きいても飽きない曲があるのも事実だ。ビートルズのSgt. Pepper’sとAbbey Road、ベンチャーズやカーペンターズやユーミンの一部はそれに属する。そしてモーツァルトやベートーベンの大半の曲もそこに属する、そういう形で僕の「音楽ユニバース」はできているからそこにクラシックというレッテルは貼らないし、いわゆるクラシックファンの一員ではないし、いわゆるオーディオファイルの一員でもない。レッテルをどうしても貼るなら枕草子で清少納言が400回以上使っている「をかし」しかない。僕は「をかしき音楽」ファンであってクラシックにそうでない “名曲” はいくつもある。僕のユニバースがユニバーサル(普遍的)と思ったことは一度もないし、あれを貴族社会で決然と書いて残した清少納言もそんなことは気にもかけてなかったろう。枕草子は随筆(essay)とされるが、僕流にはあれこそが保守本流のステートメントだ。

 

(この稿のご参考に)

ウィンナワルツこそクラシック音楽

 

プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

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子供、孫にはホンモノを与えること

2019 JUN 29 15:15:14 pm by 東 賢太郎

これはSMC最初期の2013年3月に書いたブログで、この時点では見つけられなかった「ジャン・フルネ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団」のボロディン「中央アジアの草原にて」がyoutubeに出ていた。ずっと探していたが手に入らなかったのでうれしい。

再録「クラシックとベンチャーズ」

それがこれ。ポール・モリヤこと森谷先生はこれを聞かせてくださったのだ(深謝)。このビデオの2分58秒で鳴るホルンの和音があの日の自分の脳内で劇的にスパークし、その後の人生を変えたのだから重い。

中学時代の動画が残っていない僕らの世代にとって耳にしたレコードそのものを再現できるのは貴重だ。その時分の自分の脳内を探検できるからだ。ポップスも他人の曲のカヴァーがあるが、クラシックは自作自演は近現代ものしかなくてほぼ全部がカヴァーだから最初に覚えた演奏がオリジナルになる。

衝撃を受けたという意味では「中央アジア」のオリジナルはフルネなのだが、なにせそれは1度きりの音楽室のレコードだ。家で耳に刷り込まれた本当のオリジナルということになるとアーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップスとなるのはこういう経緯だ。

親父に「中央アジア」を買ってくれとせがんだ。それまでEPという片面6,7分のレコードしかなくそれのつもりだったが、なかったんだろう、買ってきてくれたのは10曲入っているフィードラーのLPだった。他の曲はどうでもよかったのだが、ところが聞き始めるとそうはいかなかった。

まずA面トップの「つるぎの舞い」に度肝を抜かれる。いま聴いてもこいつはアビイ・ロードのCome Togetherのかましに匹敵だ。つづくラデツキー行進曲、ファウストのワルツ、ピッチカート・ポルカ、トルコ行進曲、「天国と地獄」序曲、B面に行って「ローエングリン」第3幕前奏曲、スラヴ行進曲、狂詩曲「スペイン」、そしていよいよ「中央アジア」とくる。一発で目がくらくら。ここで僕はロックにさよならしてクラシックの森に分け入っていくことになる。

これを買ってきてくれた父に頭がさがる。

演奏は、文句なく素晴らしい。あたりまえだ、このオケはボストン交響楽団だから。選曲も音も一級品である。だから米国に留学してこの楽団をこの録音のザ・シンフォニーホールで聴いた時の感慨は言葉にならなかった。皆さま、子供さんお孫さんにはホンモノ、一級品を与えてください。僕はこれが「オリジナル」になったいうことだけ書いておきます。

 

 

 

 

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J.S.バッハ 管弦楽組曲第2番ロ短調BWV1067

2019 JUN 26 23:23:46 pm by 東 賢太郎

秋葉原の石丸電気でLPレコードを買っていたころというと浪人、大学時代。毎週末に行っていたイメージだから数百回は通ったろう。石丸は輸入盤まで品ぞろえは膨大で見識に富んでおり、そこに並んでいるのがいわゆる「名曲」である。全部の代表盤を1枚づつ聴いておけば凡そクラシックはマスターできそうだと思った。「お若いの、どうだ、やってみるかい」という一種の挑発すら感じ、もちろん向こうは商売であるのだがそそられるものがあった。のちにハーバード大学で門に “Enter To Grow in Wisdom.”と書いてあるのを見てこれだなと思った。

クラシックは石丸電気のおかげでenterできたと思っている。地方にこんな店はないだろうから東京に生まれ育ったことは大きかった。中学から神田の古書店街を毎日歩いて通学しアカデミックなのが自然という空気に染まった。隣り街である秋葉原のレコード屋は文字どおりその延長で、欧州へのあこがれの窓でもあった。それで激烈に欧州に行きたくなって、結局そこに住むことになってしまったが、元はと言えば物心つくまえから親父がかけてたSPレコードがルーツだから環境というものは影響が甚大なのだ。自分は子供たちにどんな環境を与えてあげたのだろうと思う。

石丸の売り場にはよくバロックが流れていた。近代、ロマン派、古典派と時代を逆行して親しんだから次はそこに行き着くはずのところまで来たが、どうも肌に合わない。興味がわかないから知識も乏しく、バッハ、ヘンデルすら何を買っていいかわからず結局は古典派以後の既知の曲の異演盤を買って帰るはめになる。そこで冒険できなかったのはひとえにカネがなかったからだ。なけなしの2千円だ、買ってつまらなかったら後悔するからと安全な方に走って、逆にその勇気のなさに後悔してきた。youtube時代の若者には想像つかないかもしれないが。

この記憶は後にアメリカに住んで、家内とマックに行ったときにデジャヴとなって現れる。3ドルもするビッグマックは高嶺の花で、いつも1ドルのバーガーをひとつづつと無料のサラダで空腹を満たしたのだから申しわけなかった。やっぱりカネがなかった。悲しいほどの貧乏学生だったのである。だから僕の中では「バロック音楽=ビッグマック」という恒等式が成立していて、いまも「ビッグマック!」と注文する自分に誇りを感じ、石丸のカウンターでバロックものを大人買いしてたおじさんの身分にやっとなれたという感慨にひたれる。

バロックは親父のSPレコードにも「G線上のアリア」ぐらいしかなかった。僕はチゴイネルワイゼンの方が好きだったがなぜかサーカスの音楽だと信じており、「G線」はゆるくてあんまり好みでなかったが高級感は感じていた。そのまんま大人になったのだろう、バロックは知的でハイソできらきらして見える。クラシックは何が好きですかなんてきかれたら?モーツァルトはミーハーだ、ベートーベンはオタクっぽい、マーラーはダサい、「バロックですね」なんてさらっと言うのがまことに粋であろうと思う。

僕がバロックに引いていたのはもう一つ理由がある。音楽の授業で鳥肌が立つほど嫌いだった笛の実技。バッハの管弦楽組曲第2番のどれだったか、たぶんポロネーズあたりを吹くというのがあった。あれは壮大なバッハの冒涜の試みであった。僕はピッチの外れたリコーダーの合奏音が生理的にだめであり、何の関心も持てないから早く捨てたいと願っており、もちろん自分も非常に下手であって不快感の倍加に貢献させられるわけだ。この調子だから音楽の通信簿は2であった。皆さまは学校教育というものに懐疑的な劣等生の音楽記を読まれている。

おかげで第2番がトラウマになり、あんなものを家でレコードで聴こうなどという気が毛頭起きなくなってしまった。それを救ってくれたのがこれだ。浪人時代に買ったカール・リステンパルト指揮ザール室内管弦楽団による管弦楽組曲全曲である。勉強にあきあきしており、全部すっぽかしてのど骨が刺さったままだったバロックを攻略することにモチベーションが向かっていた。そこでこの演奏に出会ったのは幸運だったが、なんのことない、このLPを選んだのは「ディスク大賞受賞」というキャッチの割に2枚組3千円で安かったから、それだけだ。石丸電気の3号館で買い、よしバッハ攻略だと嬉々として鶴川の自宅に帰ったのを覚えている。

この2番、ロ短調の悲愴さがあまりない。1960年の録音。バッハを精密画風の微細なデッサンで幾何学的に描く演奏が出てくる前のなつかしいスタイルであり、ほっとさせてくれる。フルート協奏曲を思わせる編成だがロジェ・ブールダン(1923-76)のソロは中低音が肉厚で暖色系で良く歌い穏健派かと思えば終曲の運動神経は違う姿を見せる。フランス人なのだがヴァイオリンとユニゾンになると倍音が共鳴して独特のリッチなソノリティを発揮しており、この音は東独時代のドレスデン・シュターツカペレやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管にもあったのが不思議だ。リステンパルト(1900-67)はドイツ人の天文学者の息子。音楽を自然に流しているように聞こえるがフレージングは潔癖でむしろ理知的である。

 

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「音響マニア」と「オーディオマニア」の差

2019 JUN 24 2:02:04 am by 東 賢太郎

クルトマズアがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で録音したブルックナーというと昭和の評論家たちが一顧だにせず、日本では捨て置かれていたに等しい。思うのだが、彼らはどのぐらいヨーロッパのコンサートホールや教会でブルックナーを聴き、自宅ではどんな装置、環境でレコードを聴いていたのだろう?

マズアの指揮は急所の盛り上がりやメリハリがなくてダルだという人がいる。あるはずないだろう、ライプツィヒのトーマスゲルハルト教会の見事な音響の中でゲヴァントハウス管弦楽団を鳴らすのに何故そんなものが要るというのか。本物は何の変哲もない。それを平凡だ、凡庸だという。では彼らはブルックナーにいったい何を求めているのか。本物を知らない人がまさか評論家をやっているとも思えないからそんな疑問が浮かんできてしまう。

オーディオマニアで本物の音楽を知っている人はあまりいない気がする。音楽をわかっているという意味で男女差はないが、女性のオーディオマニアはあまり聞かないという事実がそれを示唆している。しかしオーディオは音楽鑑賞には不可欠だ。MP3も普及という観点では結構だが、クラシック音楽は本来は教会でパイプオルガンやコーラスの風圧まで肌で感じるものだ。イヤホンでポップスはOKでもクラシックではまがいものでしかない。

そういうフェイクの音で覚えると、正統派の本物の演奏は外連味のない退屈なものと思われてしまう。たとえば風邪で鼻がつまると酒の味がわからない。フェイク育ちというのは要は安酒しか知らないということなのだ。安酒はウリが必要になるが、それ用のコクだキレだなんていう意味不明の基準で樽出し中汲みの純米大吟醸を語ってはいけないのである。クラシックについて語るということも、それと同じで語れば語るほどどんな音で育ったかお里が知れてしまう。

僕の基準から全集でいうならマズアのオイロディスク盤は東独のオケの音をアナログで聴かせる特級品だ。楽器の倍音がたっぷりのって教会の空気に融けこむ。これぞヨーロッパの音である。そして、何度も書いているが、ブルックナーはこういう音で再現しないとわからない。僕はオーディオマニアではないし趣味性において完璧な別人種だが、11年半どっぷりとひたっていたあのヨーロッパの音を再現したいという点においてはオーディオの選択に徹底的にこだわったものだからオーディオマニアと思われたんだろう、「ステレオ」誌に写真入りの記事が載ったのはお門違いも甚だしく、照れ臭かった。

お聴かせできないのが残念だが、このマズアの音を平凡でつまらないという音楽愛好家はあんまりいないと思う。こういうことを書けば嫌みだろうが僕は物書き商売でないから嫌われても構わない。真実を書くほうが大事だ。ブルックナーはカネがかかる。バイアンプの大型システムで再現しないと無理である。東京のホールは全部三流だからウィーンフィルを聴いてもだめ。ということは、大型システムを据え付けたリスニングルームを作って、マズア盤のような本物の音がする録音を聴くしか手はない。

クルマ好きでないから何故フェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニがいいのかわからないが、何かマニアなりの理由はあるのだろう。僕は音響マニアだからもちろんそれがある。クラシックはもとは貴族の道楽だ、やっぱりカネがかかる。それをけしからんのどうの言ったってそうなんだから仕方ない。庶民に理解できないというのはウソだ、そうではない、本物の音を聞かないとなかなかわからないが、それを聞くのにはちょっとカネがかかるというのが事実である。ワインに似ている。

装置がOKとなると今度は音源の限界という問題が初めて見えてくる。我が家の場合、ざっと8割は不合格だ。演奏がだめなのと、同じほど録画技師がだめなのがある。センスの悪い奴が余計なことをするなと腹が立つばかりである。だから1万枚ほどはもう二度と聞かないし捨ててもいいものになるが、何故棚にあるかというと、買ったときのあれこれをいちいち覚えてるからだ。情けないが捨てられない。男は別れた女をいつまでも忘れられないというが、それと同じことかもしれない。

クラシック徒然草―最高のシューマン序曲集―

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