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カテゴリー: ______音楽と自分

音楽の良い聴き手になるのに学習はいらない

2022 SEP 16 18:18:24 pm by 東 賢太郎

先だってkinoko様に「東さんは独学でどのように音楽や楽譜を学ばれたのですか」と質問をいただきました。ありがたいご質問と思いました。思えば同じことを学生時代に友人にきかれ、米国で家に来た学友たちにきかれ、ロンドンでお招きした英国人ご夫妻にきかれ、豊洲シビックセンターでもきかれましたが、僕は誰に頼まれたわけでもなく、一文のお金にもならないことを時間をかけてやってる物好きな好事家にすぎません。

音楽も楽譜も、学んだことも重視したこともないのです。独学という言葉には「学」の文字があるのでお勉強っぽいのですが、英語だと self-taught で自分で自分に教えるということです。先生が自分という素人だから素人以上にはなりません。僕は野球もゴルフも勉強も、プロである仕事以外はぜんぶそれですというお答えにどうしてもなってしまいます。

そこで、いつもそうしてますが、「とにかく曲をたくさん聴いて耳コピしてしまっただけです」と返信させていただきました。その努力はしましたし、それ以外にここまでのめり込んだ理由も見当たらないからです。誰でもその気になればできますので、もう少し丁寧にご説明しておこうと思います。音楽を「聴く」とは何か、「耳コピ」とは何かということをです。

音楽をきいて楽しむのに学習はいりません。なぜなら楽しめるように音楽は書かれているからです。退屈して寝てしまった人は決して自分が悪いとは言いませんね。「退屈な曲だ」というんです。皆がそういえば評判が悪くなって作曲家は仕事が来ません。だからあの手この手で仕掛けをします。演奏会で第九の第三楽章で居眠りしてる人は結構いますが、家路につくほとんどの人は「感動」してます。だから第九は人気なんです。ベートーベンがうまかったということですね。

ハイドンは「驚愕」の第二楽章でどかんとやります。寝てる人をおこすため。あそこで寝るならば、第九の第三楽章までおきてるのは奇跡ですね。ハイドンの技を学んでいるベートーベンは、普通はゆっくりの第二楽章でいきなりばーんとやり、次のアダージョでまた寝られても終楽章の出鼻で今度は強烈な不協和音をばーんとやる。さすがに会場の全員がびっくりして目が覚めます。そこから歌が入って、気がつくと壮麗な神殿にいるようで、何やらわからないまんま、あれよあれよで「ブラボー!!」が飛ぶのです。

初めて第九に連れていかれた人はそんな感じでしょう(僕もそうでした)。感動したのでレコードを買いましたが、でも、やっぱり第三楽章まではつまらないんですね。終楽章だけ聞くのも変だし、しかも当時はLPですから第三楽章の途中で面がかわるんです。レコードをひっくり返さなくちゃいけない。幻想交響曲もそうでしたが、それでだんだん疎遠になってしまいました。

モーツァルトはもっとだめなんです。だってどかんもばーんもありません、最初の楽章から寝てました。ロックから移住してきたからでしょう、僕にとっていちばん退屈な作曲家はモーツァルトだったんです。レコード棚に初めて加わったのは大学に入ってからでフリッチャイ指揮の交響曲でしたね、それも廉価版で安く、生協で割引になるからという理由でした。

その頃、僕がクラシック初心者だったかというと、そうではないんです。もう5、6年は真剣に聴いていて、ストヴィンスキー、バルトークの主要曲は何度も聴いて覚えてました。春の祭典のことは何度も書きましたが、火の鳥もアンセルメ盤が頭に擦りこまれていて、寝ても覚めても全曲演奏が鳴ってました。プログレッシブ・ロックみたいで違和感がなかったのです。

そんな僕が豊洲シビックセンターで300人のクラシック愛好家のかたにモーツァルトの素晴らしさを語るなんて天変地異なんです。だから「あれから学習してモーツァルトに目覚めたんです」と言えれば楽で格好もいいわけです。しかし困ったことにそうではないんですね。知らないうちに魔笛もフィガロもレクイエムも覚えていて、知らないうちに口笛で出るようになっていた、それだけなんです。

曲を覚えている方はたくさんおられます。ただそれは聞けば曲名がわかることなのか「耳コピ」なのかは違います。ここで「耳でコピーする」それのご説明が必要になるでしょう。譜面なしに歌や楽器で再現できることを言いますが、僕は中学生の時にギターを買ってもらい、ベンチャーズやビートルズをまねた時期があります。楽譜はないですからまねするには「耳をかっぽじって」きくわけです。すると3分ぐらいの曲が耳に焼きついて、頭の中で「リプレー」(再現)できるようになります。

だんだんそれが習慣になって、クラシックでも耳がそういう風に勝手に動くようになりました。そこで大きな経験がやってきます。後に留学して、カーチス音楽院の大ホールで、セルジュ・チェリビダッケのオケ・リハーサルを、ガランとした客席に一人だけの状態で見せてもらったことです。これを説明するにはその時のムードを書かなくてはなりません。ピンと張りつめた空気の中をマエストロは舞台左手から悠然と歩いてきて、客席の前の方にひとりポツンといた僕に気がつきました。指揮台からにらまれ、何か言われそうになり凍りつきましたが、ほどなく彼は無言のままオケの方を向きました。

オケの第1Vnには畏友の古沢巌さんがいて(彼の手引きで、学校に懇願して、そこに立ち入らせてもらったのです)安堵の目を合わせようとしましたが彼の方がそれどころではありません。舞台ではみな顔がこわばっていて、細心に細心を重ねた注意を払ってドビッシーの音を要求されてゆく。それがまた凄くいい音なんです。こうやって作った音楽は、受け取る側もそうやって聴かないといけないものなのだと感じ入りました。耳コピ当たり前ぐらいの集中力とテンションで聴いて初めてあの美はわかるんです。これからもそうしようとなって今に至っております。

「そんな疲れることはしたくない、音楽はリラックスして楽しむものだ」という方はもちろんそれでいいと思います。どなたにとってもそれが音楽をきく目的というものでしょう。ただ、「耳コピ」すると別な演奏に接して比較する楽しみが出てくるという効用はあります。聴き方が critical(批評的)になるので、違いを「言語化」できるようになるんですね。演奏会が終わって「感動しました」で結構なんですが、人間の感覚的な記憶は定着しにくいそうでその感動がどういうものだったかはやがて忘れてしまうでしょう。

ところが言語化できていると(日記にでも書き残せば特にですが)それを何年たっても覚えていて、そのメモリーが蓄積し、増幅していくのです。やればすぐわかります。これはソムリエが「ワインの味の覚え方」でいってることと同じです、彼らは飲んだワインの味、ブケ、アロマという感覚的なものを干し草の香りとか、猫のおしっことか「言語」で覚えているのです。その蓄積がないと知らないワインを評価する基準ができず、ソムリエ試験に合格できないそうです。音楽でもそれは有効だと思います。

「耳コピ」ができるようになる方法は「耳をかっぽじって聴くこと」に尽きます。それでどなたでも出来ます。1音たりとも聴き逃さない気持ちをもって、心の録音(REC)ボタンを押してから聴くのです。これを何回かやれば、覚えます。皆さん受験勉強をしたわけですから間違いありません。音質は良いに越したことはありません。さっき、娘にマ・メール・ロワをRECモードで聴きなさいと僕のヘッドホンを与えました。「人類最高の精巧な美を味わうんだよ、安物じゃダメでしょ」と言って。これで彼女は宝石を一つ得るはずです。

では楽譜は我々にどう関わるのか、はたして聞くだけの人に必要なのだろうか。クラシックのような複雑な音楽になると耳だけでは見当もつかない部分がたくさんあります。ここで、楽譜が登場するのは僕の性格からかもしれないのですが、未知の病原体を顕微鏡でのぞく科学者の気分になってくるのです。ですからこれは趣味の世界であって必要とは思いません。曲が頭に入っておれば、どなたでも十分にソムリエになれますし、外国へ出ても、ご自分の意見を堂々と語ってリスペクトされますから何の不足もないと思います。

英国時代のお客様で演奏会、オペラをよくご一緒した方にD.P.さんがおられます。僕が最も尊敬する英国人です。ケンブリッジ大の首席で、博覧強記のインテリですが彼の音楽の聴き方はとても趣味が合いました。年上なのでクレンペラーをリアルタイムで聴いていて高く買っておられましたが、理由は「楽譜の奥に隠された secret のありかを知っているただ一人の指揮者」というのです。それは何かときくとcommon senseだと。常識ではなく、彼の意味は文字通り「作曲家と同じ(共通の)センスがある」ということでした。

クラシック音楽は欧州生まれです。それを欧州人の感覚(センス)でないとと言われると日本人は困りますが、彼は「ミツコ・ウチダのモーツァルトは西洋人の誰よりいい」ともいうのです(内田さんは英国人ですが彼には日本人なんです)。英語は忘れましたが、たしか、「昨今は技術がパーフェクトな演奏家は多くいるが、Perfectionism sounds vacant. (センスに欠ける完全主義は空疎である)」ともおっしゃいました。common sense が大事なことは同感です。だから演奏家は何国人でも構いませんがそれを探求する意欲が大事で、こればかりは現地に行かないとどうにもなりません。そういう日本語のツアーがあればお薦めですし、どなたか識者と一緒に回られるのでもいいのではないでしょうか。

僕の場合、12年も住みましたからD.P.さんの意図が何となくわかって有難いのですが、住んだといってもモーツァルトの時代ではないわけですからそれだけでは意味はありません。東京に12年住んでも江戸時代がわかるわけではないのです。そのためには、江戸時代はどんな光景だったのだろう、江戸の町人はどんなふるまいをしていたのだろうと好奇心をたぎらせ、良いサンプルである浮世絵とそれが描かれた現在地を比べて回ってみようぐらいの探求心は必要です。そうやって北斎や広重の絵の流儀を知り、時代背景を知り、観るものの心を鷲摑みにしてきたsecret のありかを悟ることができると思います。

楽譜の話に戻りますと、僕にとってハイドンやモーツァルトの楽譜は、ウィーンを知るための浮世絵のようなものでありました。その音を頭でリプレーしながらウィーンの音楽史跡をくたくたになるまで探索し、そこで時間を過ごし、すでに僕は僕なりの「ウィーンの原像」を心に持っています。確信をこめていいますが、モーツァルトを演奏する人はラウエンシュタインガッセ8番地ぐらいは行ってもらわないと困るんですね。墓地やフィガロハウスじゃないんです、あそこで彼は旅立った、そのずっしりとした悲しい重みをどう自分の中で消化したか、そういうものが演奏に出てしまうのがモーツァルトの音楽なんです。球を転がすような真珠のタッチで弾いたモーツァルトはきれいですが vacant です。

国立歌劇場でパルシファルやこうもり、アン・デア・ウィーン劇場でメリー・ウイドウを聴いたり、ムジークフェラインでニューイヤーコンサートを聴いたり、ウィーンではいろんな機会に恵まれてオペラ、演奏会をたくさん堪能させてもらいましたが、それとこれとは別個のものです。所詮は現代のシチュエーションでの鑑賞ですからね、それを何百聞いてもハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、ブルックナー、ブラームス、マーラーの時代とは関係ありません。極論すれば、ウィーンで一度も音楽をきいたことがなくとも、好奇心、探求心さえあれば「ウィーンの原像」を心に持つことは可能と思います。

パリでも真夏に丸一日歩き回ったことがあります。メシアンのトリニティ教会、ロッシーニのカフェ、モーツァルト(22才)とショパンの住んだホテル、リストのエラール屋敷、旧オペラ座跡、オッフェンバックが「ホフマン物語」を書いて亡くなった家、リュリの館、大クープランの終の家、モーツァルトがパリ交響曲を初演してアイスクリームを食べたパレ・ロワイヤル、そして彼のお母さんの葬儀をしたサン=トゥスタッシュ教会。現在のオペラ座の近く(1区)ですが、こんなに重たいものが至近距離にごった返してるんですね。漂うのはいまのパリの空気ではない。こういう足で歩いたものは劇場でホフマンを1度聴くよりパリの原像を理解する助けになっています。

楽譜は江戸なら浮世絵と書きましたが、絵描きでない我々が技法のことをあれこれ知る必要はぜんぜんないでしょう。僕は純然たる好奇心から対位法、和声法、管弦楽法の教科書を買って読みましたが、それでグレードの高い聴き手になったという感じはまったくしません。聴き手としては単なるアカデミズムで、耳コピできる方が10倍もご利益がありますからそちらに傾注された方が見返りはずっと大です。ただ、ピアノが弾ける方は二手リダクション版で新世界や未完成を弾いてみるのは一興です。ブルックナーとなると難しいですが好きな方ならしびれることはお墨付きです(petrucciで検索すれば無料で手に入りますよ)。これができるようになったのはビートルズの耳コピの副産物です。ギターが弾けたからです。なんでも結構なので楽器をやることは良い聴き手になる一助だと思います。

 

 

二胡の「ハナミズキ」になぜ涙が出るの?

2022 AUG 9 8:08:57 am by 東 賢太郎

ヴィヴァルディの「四季」って知ってるよね。たしかテレビCMで使ってたっけね。ああいう曲ね、昔は『名曲』っていったんだよ、知らないよね。いい曲のことかって?ちょっとちがう。じゃあベートーベンとかシューベルトとか?うん、それはそうなんだけど、でも彼らの曲が全部ってわけでもないのよ。面倒くさいね、じゃあどういう曲?そうね、クラシックなんだけどみんな知ってて、知らないとちょっとね・・みたいな感じかな。

今は音楽の教科書に米津玄師さんがのってる時代だね、そうそう、僕が大好きな一青窈さんの「ハナミズキ」もそうらしいね。この曲、サスペンスドラマのエンディングだったかな、初めて聞いた時にね、サビのところで、凄い!天才だ!って叫んじゃったんだよ。ほんとうに素晴らしい曲だ。

ラブソングかと思ったらぜんぜんちがうんだ。歌っているのはあの9-11で犠牲になった父親(僕)と子供(君)なんだね。「空を押し上げて」というのは瓦礫の下になったからなんだ。庭に咲く5月の花ハナミズキと共に蘇る君との幸せな想い出。「水際まで来て欲しい」は三途の川、「波」は戦争。庭にハナミズキが咲いて君の幸せが永遠に続くことを願う。

『名曲』は昭和のニッポンの定義なんだね。あの時代限定っていうか、あの空気を吸ってた人しかわからないんだろうなあ。どういう曲のこと?って孫に聞かれたらこう答えるしかないかな。

「名曲喫茶でかかってた曲だよ」

昭和生まれの僕らは音楽をそういうものだと教えられて育ったんだ。ちょっと違うんじゃないのって、ビートルズも好きだった僕はそう思ってたけどね。四季や運命をきいて、世の中にこんないいものがあるって知ってね、「だから名曲なんです」って学校で教わるの、でもそれはそれ、ほんとうに楽しかったよ。まだ見ぬ西洋への憧れがどんどんふくらんでね。僕だけじゃない、きっと、名曲喫茶で何時間も粘っていたあの人たちみんなそうだ。外国なんて知らない。どこも行ったことがない。でも、まだ未知の場所があるって、実はものすごく幸せなことなんだ。

もう僕はそれがない。昭和の『名曲』にどきどきもしない。

ちょっとちょっと、もっとわからないよ。名曲喫茶?なにそれ?そうだね、まずそれから説明しなきゃいけないね。

名曲喫茶ウィーン

僕がそれにお世話になったのは浪人・大学時代だから1970年代だけど、もっともっと前からあったんだ。有名だったのは御茶ノ水駅前の「名曲喫茶ウイーン」と渋谷道玄坂の「名曲喫茶ライオン」かな、ひと言でいえば「泰西名曲鑑賞専門珈琲店」ってとこだ。立派なオーディオ装置とレコードコレクションがあってね、コーヒー頼んで聞きたいレコードを紙に書いてリクエストすると、お姉さんが順番でかけてくれるんだ。そこでかかるのが、クラシック好きの人が金払っていい音で聴きたい曲、そう『名曲』なんだね。そういうものだから他のお客さんにそこそこ気をつかうんだ、これ注文して大丈夫かなってね。クラシックはポップスみたいに2,3分で終わらないの、平気で1時間かかるからね、皆さんのコーヒー冷めちゃうわけで、僕もそうだったけど新しい曲やら演奏家を発掘したいって人もいる。だから「あいつ、いいのかけてくれたな、ありがと」ってのが望ましいんだ。でも僕はそのころ変なの専門でね、シェーンベルクのピエロなんてそのスピーカーで思いっきり鳴らしてみたいの。そんなのやっちゃうと皆さんアウトだもんね、そういう配慮をくぐりぬけた、皆さん納得の集合知みたいなのが『名曲』だっていうことになるの。もし外国にあったらきっと『名曲』は違うものになってたね。

でも好きだったんだ。あれはひとつの文化でね、智の殿堂って雰囲気もあった。友達もよくひっぱっていったさ。いまはyoutubeあるもんね、ハイエンドのオーディオの味知らない人をお客にするには難しい時代になった。「名曲喫茶ウイーン」をググると漫画家ヤマザキマリさんのブログがあって、若いころここでバイトしてたらしい。僕は『テルマエ・ロマエ』で彼女のファンになったのでうれしい。レコードかけてくれたかもしれないしね。しかもあのアテネ・フランセでイタリア語やったって、僕も少しだけ英語で行ったことあるんでそれもうれしい。あの辺は中学から大学まで庭だったから地元愛みたいなのがあってね。ウィーンはビルはそのままに居酒屋・焼き鳥屋の雑居ビルになってる。ご時世だね。お世話になりました。ここで覚えた曲、けっこうあるよ。

名曲喫茶「ライオン」

もうひとつ、道玄坂の「ライオン」は嬉しいことに健在みたいだ。渋谷は渋谷でね、駒場の教養学部にいた2年間だけはこっちが根城だったからよく行ったっけ。まわりはストリップ小屋とラブホでいけない。ライオンは大正時代からあるからこれも世相なんだけどね。お値段的には貧乏学生にはなかなかハイソでね、ここでコーヒーは高いってすりこまれたもんだからアメリカ旅行に行ってずっこけたの。安いけど珈琲フレーバーのお湯だもんね。あんなのをこっちじゃアメリカンなんて気取って飲んでんだから気が知れない。名曲喫茶のは本格的だ。旨かったよ。で、その感じがクラシック音楽にコラボしててね、どっちも舶来品だしね、でっかいスピーカーだって高級品でとても手が届かないし、耳の穴かっぽじって聴かなくっちゃってなるよね。だから集中してるんで曲をすぐ覚えた。コーヒーはいい投資だったってことになるね。そこで「四季」が朗々とかかってる。いい音だったね、おお、これがストラディヴァリウスか、イ・ムジチかってね・・・

なんて麗しき昭和の世だったんだろう。

ファンの方のブログによるとこうだ。イ・ムジチの「四季」のレコード売り上げは、1995年時点の日本において6種の同曲録音の合計で280万枚を売り上げている。1976年に100万枚を突破し、その他のレコードを合わせると1977年のイ・ムジチ創立25周年には何と1000万枚を突破する大記録を達成した。1987年来日公演中に「四季」だけでクラシックのレコード界では空前の200万枚の売上を達成。カラヤンの運命もびっくりだ。

四季は立派なクラシックなんだけど堅苦しくなくって、昭和の日本人がややこしいことぬきで楽しめて、たくさんの人が癒されたと思うんだ。そういうのがいい音楽なんだね。イタリアっていいな、行きたいなと憧れたよ。イ・ムジチは一度だけライブで四季を聴いたんだ。香港時代にね、家族を連れて行ったよ。舞台が目の前の席だった。女性奏者のかたと目が合ってね、ウチの小さい子供3人を見つけてうれしそうに微笑みかけてくださったっけ。レコードのとおり、いい音だったよ。

僕はイタリアの弦が大好き。モーツァルトのカルテット全集で一番好きなのはイタリア四重奏団ってくらいでね。なんでかってのはいろいろ考えてみたけどやっぱりわからない。こういうのは食とか女性の好みと一緒で本能的なもんなんだろうね、とにかくぱっと明るくてしなやかでふくよかで、アンサンブル神経質にそろえようなんて雰囲気がなくってね、それでもちゃんとモーツァルトになっちゃう。ああこの気分の軽さとそれでもはずさない品格って、地中海気候で育ったラテン系の人たちだなって。僕はどうやら人も文物もそれが合うんだね、とにかく男も女もね、明るくて面白い人が好きだよ。自分はそれと真逆だからね、気がついてないものを引き出してもらえる感じがするからかもね。

やっぱり弦はいい。ピアノは何でも弾ける。オーケストラの曲だってね。だから僕の中ではシンセサイザーなんだ。では弦楽器はっていうと、ひとりじゃあんまり細かいことはできない。でも、絶対にピアノにできないことができるんだ。歌うことだ。ピアノもシンセも、人を泣かせるって容易じゃないよ。でも弦楽器はできる。泣かせるのは歌なんだ。そんなにうまくなくたって、それこそヨーロッパの街角でヴァイオリン弾いてる大道芸人だってね、ハートに飛び込んできて、感情をグイッとつかみとることができる人を何人も見たよ。

ここからその泣かせる弦楽器の話をしよう。『名曲』と何の関係があるかって、もうちょっとガマンして欲しい、おしまいになってわかるから。

二胡

弓で弦をこする弦楽器を撥弦楽器っていうんだ。西洋ならヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスだね。その起源の話をイギリスやドイツでしたことがあるけど、事ここになると西洋人はプライドがあるんだろうね、東洋から伝わったかもしれないは認めるけどやっぱり不明だってことにされる。素材はなんたって羊の腸、馬のシッポだよ、弦を糸巻で引っ張ってこするっていう音の出し方だってね、羊と馬といっしょに暮してたアジアの遊牧民が発祥でないと主張する方が大変なの。とすると、じゃあ欧州起源ですかってことになるけどね、スパゲティがイタリアで生まれてラーメンになるかって?そんなわけねえだろって。いっぽうで、遊牧民の文化は漢民族にもいろいろ伝わってて、そっちでは同じものが「二胡」という撥弦楽器になったんだ。素材はやっぱりおんなじ、音の出し方もおんなじ。張ってる皮は砂漠地帯にいるヘビだけど、胴体が共鳴板になってアンプ役をするって発想は東西でおんなじだよ。

内モンゴルの馬頭琴(モリンホール)

だから弦楽器の発明者はユーラシア大陸の真ん中を行き来してた遊牧民だ。僕はそう思ってるよ。とするとご本家は今ならモンゴル族がそのひとつってことになって、彼らには馬頭琴(モリンホール)というチェロぐらいの大きさの弦楽器があるね。彼らはよく飲んでよく歌う。有名な歌唱法にホーミーがあるよね、祖先の叙事詩も、戦勝も、酒も、男女の愛も、慶事も弔いも、モンゴル音楽は感情をのせた歌なんだ。楽器なら打楽器のピアノでなく弦楽器ってことになるよね。それが漢民族に渡っていく。遊牧民が作れるってことは複雑な工業製品じゃない、馬と羊がいれば庶民でもできる。どんどん広がる。そして歌も人の心に乗って広がる。それが二胡になるんだ。

二胡を聴いてごらんなさい。あの心に響く音色は一度耳にしたら絶対に忘れないよ。すごくオリエンタルで西洋にはないものだね、あれがモンゴルの歌から来た情感で、女真族から朝鮮半島を通るうちにそこの民族の情感もまとって日本に来ていると思うんだ。日本の伝統音楽は宮廷に残ってる雅楽ってことになってるけど、あれは楽器ごと古代中国宮廷からきた天上界の音らしい。中国の学者はもう母国にあの古代楽器は残ってないので、正倉院の御物と宮廷雅楽は宝だって言ってる。笙、篳篥の音ってたしかにどこか宇宙っぽいよね。でもキュンと泣かせるメロディーや唄なんかはないのね。ところが二胡は正反対でしょ、ヴィヴラートかけまくってとろけるみたいに訴えるメロディーはとっても人間くさい。あれはまぎれもなく庶民のもの、遊牧民起源のもので、思うにその唄バージョンの末裔が日本では演歌、艶歌になっていると思う。百済の都だった扶余に旅行した折に遊覧船に流れていた歌を日本の演歌だと思っていたんだ。なんでこんな所でって不思議でね。ところがよく聞くと韓国の唄だったんだ、同じルーツのものだろう。

ヴィオラ

で、今度は西側の話だ。弦楽器はシルクロードからペルシャと地中海世界に渡ったんだね。だからイタリアに名工がいたのは不思議じゃないんだ。思い出してごらん、2年前、中国の武漢で最初のコロナ患者が出て騒ぎになりだしたころね、春節で帰国した中国人労働者が陸路でヨーロッパにわっーと戻ってね、だからあっちで最初に感染爆発した国はイタリアだったんだ。いまは海路も入れて一帯一路って言ってるけど、絹の道だった昔からそういう地理的な関係なんだ。西洋で最初にできた弦楽器は「ヴィオラ」だったんだよ。ヒザにはさんで弾くのがヴィオラ・ダ・ガンバだね。ブランデンブルグ協奏曲第6番は2丁のヴィオラ、2丁のダ・ガンバが主役でヴァイオリンはなし。なんで?と思ったけど当時は不思議じゃなかったんだね。「ヴィオラ」と「二胡」。なんか因縁あるでしょ、ちなみに、二胡の音域は中央のレから2オクターブなんだけどね、これってヴィオラが気持ちよく歌える音域なんだよ。遠く離れた兄弟かもしれないね。

音楽喫茶と四季と弦楽器。『名曲』でつながってるね。そこにヴィオラと二胡がはいるって楽しくないかな、だって文化と歴史がね、国も時代も超えてシルクロードでつながった感じでしょ?それってなんか『テルマエ・ロマエ』だよね。ヴィオラがイタリアの楽器じゃないし、二胡が中国の楽器じゃないって、イメージふくらましてもらえたかな?頭の中がごちゃごちゃになったって?いやいや、だいじょうぶ、ゆっくり寝て3日もしてごらん、きっと君の凄い発想が時空を飛び交ってるからさ。

ハナミズキの作曲家、マシコタツロウさん。ありがとう。よくわかりました。『名曲』は昭和と共に去ったんだね。そして僕たちも古くなった。あるのは「いい曲」だけなんだ。心に寄りそってはなれず、知らないうちに涙が流れてる曲。それがいい曲でなくてなんだろう。マシコさんをヴィヴァルディやベートーベンと共に讃えたい。えっと思う人はまだ『名曲』の世界の人かもよ。

この曲に二胡の響きがいかにあうか、ピアノじゃないんだね、人の声もそうだけど、弦が歌うとね、9-11の歌になって魔法のように涙をそそる。僕はそんな自分がいたのかって不思議なぐらいやさしい人になってる。どうしてかな。この見事な演奏を聴いて考えてくださいね。おしまい。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

我がチャレンジ「エロイカを全曲弾く」

2021 DEC 7 12:12:12 pm by 東 賢太郎

野球を見ていると、ときどきファウルチップしたバットのにおいを嗅いでる打者がいる。外人に多い。きくところによると摩擦でボールの牛皮が焦げたいい匂いがするらしい。といって別に衆人環視の打席で嗅がなくてもよさそうなものだが、この匂いはバットとボールが150キロの高速で擦り合わないと出ないから僕の野球のレベルの選手は知らないし、プロ選手でも普段は嗅げない希少性がある。もし戦闘モードにある男をさらに猛々しく燃えさせる何かがあるのだとすれば、とても動物的本能に近い行動だろう。そういえば悪童だった頃、僕は電車の線路に侵入して、火花となって溶けて飛び散ったブレーキの鉄片を拾って匂いを嗅いでいた。危ないという気持も多少はあったが、それを振り払って余りある魅力だったのだ。それを嗅ぎたい衝動も本能だったと思うしかないから生物学的に何か意味があるんだろう。牛は太古の昔から食物でありわかる気もするが、鉄は食えないし、なんだって僕の遺伝子は「溶かさないと常温では嗅げない鉄の匂い」なんてめんどうくさいものをわざわざ好ましく感じさせようとしているんだろう?ひょっとして遠い遠い先祖が鉄の生産に関わっていて、もっと嗅ぎたいから働こうというインセンティブのある者がダーウィンの法則で勝ち残ってきたかもしれないなどと想像する。

きのうベートーベンのエロイカを聴いているうち、ふとその事を思い出した。この曲のある部分は、僕にとって、あの鉄片と同じいい匂いがするのだ。その「いい」という感じは文字にはしにくい。でも、あの溶けた鉄の匂いがまた嗅ぎたくなって僕は線路に入っていた(やばい話だ)。エロイカもおんなじだ、また聴きたくなる「常習性」があるのだ。これは僕だけだろうか。ベートーベンが脳内でいい匂いの音を見つけ、それを書き留めてふくらませていったらこうなった。人類の本能に訴えるから常習的に魅かれてしまう人が時代を超えてたくさん出てきて、それが積もり積もってこの曲は「クラシック」になったのだという説明は、シャネルの5番はそうやって香水の女王になったのだという現実のケース・スタディも伴っていて、ベートーベンが天才だとかナポレオンがどうしたなんて文学的な説明よりずっと説得力がある。

「エロイカの常習性」を唯物論的に探究する試みは、これまた魅力的だ。シャネルの5番には「ジャコウネコの肛門から取れる分泌物」が使われているが、音楽もそうやって組成を分解していくと非常にユニークな発見があって面白いのである。分解するとスカスカで何も見るべきもののない音楽は言うまでもなく安物である。よくできたもので、人々はそこまで見てないが、結果として安物は市場から淘汰され記憶からも消える。逆にエロイカはあらゆるクラシック音楽の中でも異例なほど新奇な成分が絶妙に配合され、人々はそこまで見てないが、結果として人類が滅びるまで地球に永遠に残るのである。シャネル5番は年間で250億円も売れるほど人間に常習性を植えつけることに成功したが、エロイカだってもしベートーベンに著作権があればお城が買えるぐらいは売れただろう。

その「新奇な成分が絶妙に配合された」一例をお示しする。下のピアノ・スコア(Edition Peters, Otto SingerⅡ版)でいうと右ページの2段目の終わりの小節から始まる弦のスリリングな下降が上昇に切りかわる4段目の最初の2小節だ。

ソソーソラレ|シシーシラファという単純なメロディ。実に何でもない2小節だ。その直前の6小節は、突然背後から敵軍に斬り込まれ、剣を振り上げて応戦する英雄のピンチである。ところが、半音階上昇するバスが加わって和声が Cm – C7 – F – D7 – Gm – E♭7 – A♭- F7と息もつかせぬ早業で突き進むこの2小節で(たった2,3秒だ)、駿馬にまたがる英雄は一気に形勢を逆転し、怒涛の勢いで突進して敵をなぎ倒すのである。う~ん、カッコいい。この和声連結は、連結法としては古典的でジャコウネコの分泌物ほど新奇ではないが、バスの半ば強引な(つまり旋律ではない)対位法によって機関銃の如く転調して人間の保守的な和声感覚を破壊してしまう凄まじい効果は、やってる中身に何もインテリジェンスはないが人智を超えた1秒に数百万回の高速売買という一点によって株式市場を根底から変えたアルゴリズム取引さながらである。こんな例はハイドンにもモーツァルトにもなく、ベートーベンの大発明である。彼は「和声感覚、リズム感覚の破壊」という新奇な成分を香水に配合したのだ。

冒頭、2発の号砲とともにチェロで現れる英雄のテーマは何とも生ぬるい。音量も力ない p (ピアノ)で、まるで寝起きであくびしてるみたいだ。それが減七の和音でいっそうのくぐもりを見せ、「ああ仕事したくねえなあ」という感じになるから最悪の出だしである。「どこが英雄だ」と初めて聴いた時に拍子抜けしたのをはっきり覚えているが、それこそベートーベンの周到な戦略だ。テーマをもう一度、木管とホルンが出しつつ変ロ長調に転調するとだんだん目が覚めてくる。そこで楽譜の左ページの4段目だ、3拍子なのに2拍子でガン、ガンと土俵に上がる力士が紅潮した顔を叩くみたいなぶちかまし(スフォルツァンドの衝撃、これぞリズム感覚の破壊だ)が入り、英雄はしかと目覚め、フル・オーケストラでテーマが堂々たる本来の威容を現すのである。

周到だ。この寝起きの人間くさいプロセスを見せるから、カッコいい2小節が俄然輝きを増すのである。いきなり冒頭からスーパーマンが現れて英雄だ!とやってもマンガである。リアリティがない。ではハイドン流に「序奏」をつけるか?いやいや、古臭いね。そこでこうなる。英雄主題はいわばライト・モチーフで、不意に幕が開いて準備中の主役にスポットライトが当たってしまう「現代劇」なのだ。これはほぼ同時期(前年)に書いたピアノソナタ第18番で使った手であることを指摘しておく(どちらも変ホ長調だ)。

ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31-3

エロイカ第1楽章の提示部をピアノで弾くことは僕にとって人生最大の喜びの一つである。たびたびブログでいろいろな曲の楽譜をお示ししているのはそういう「部分」であって、なぜそうするかというと、そこに「匂いの秘密」が封じ込められているという確信があるからだ。音楽は物理現象である。だから採譜できる。それを分解すれば秘密は解き明かせるはずだという強い思いが僕にはある。このモチベーションは、恐らく、天文学者が137億光年かなたの星雲のスペクトルを解析したり、物理学者が素粒子をさらに分解したら何が出てくるだろうと全周26.7 kmの陽子ビームの加速器を作ってしまう好奇心に近いかと自分では思っている。

しかし、ソソーソラレ|シシーシラファという音列と、Cm – C7 – F – D7 – Gm – E♭7 – A♭- F7 の和声連結は単に「そうである」という以上のものをもたらさない。何か数学に置き換えられる原理や規則性はない。とすると、なぜそれが「いい匂い」を発するのかの答えは受容する人間の脳の側にある(しかない)ことになる。こういう「ある」は哲学における「存在する」に他ならず、明日から地球が猿の惑星になればエロイカはこの世から消える。楽譜は残っても存在はしない。「明日から人間だけの惑星になればこの色は消えるよね」と小鳥たちは森でささやき合っているだろう。人間は色に見えないから「紫外線」と呼んでいるその色は鳥には「存在」している。

つまり、音楽は採譜はできてもメタ・フィジカルな「存在」なのだ。だから、音楽を演奏し聴くという行為は、「発色させた人間」(作曲家)と、それを受容する人間(聴き手)の脳の交信に他ならない。味覚は「甘味は食べろ、酸味、苦みは危険だから食べるな」のようにセンサーの意味があるが、音列、和声連結で子供が育ったり、腹をくだしたりすることはない。ならばなぜ「いい匂い」と感じさせられているのか?それはまさに「鉄の匂い」に僕が引き寄せられていたのと同じ謎なのだ。仮にそれが「甘味」だとすれば、ベートーベンは人間が甘味に感じる音の組み合わせを発見したことになる。エロイカに限らず人気作品にそれは散りばめられているが、それをそういうものだと「わかる」人が多くないのでまとめて「**味」のように呼ぶ言葉がないということだ。

音楽に限らない話だが、人が何かを「わかる」というのはどういうことかという点について含蓄ある論考がある。哲学者・國分功一郎氏の興味深い著書『暇と退屈の倫理学』に「人は何かをわかった時、自分にとってわかるとはどういうことかを理解する」とあるのがそれだ。哲学者スピノザの言葉だが、まさにそれだと思う。同書はこうも言う。「数学の公式の内容や背景を理解せず、これに数値を当てはめればいいと思っていたら、その人はその公式の奴隷である。そうなると『わかった』という感覚をいつまでたっても獲得できない」。そういう人は間違いなく数学ができない。よってこの論考は正しいと実感できる。何事につけ、「わかる」ための自分なりの方法を見つけることはより良く生きるための実習である。

僕の場合、「ある音楽をわかる」ということは、それが発する匂いを嗅ぎ、その匂いは作曲家も好んで音楽に封じ込めたものだと実感(=交信)することだ。理屈でなく、それこそ嗅覚や味覚のような「本能」の次元の結びつきだから強固であり、その状態をもって「エロイカがわかった」と宣言してもまったくおかしくない。僕はその瞬間にその作品は自分のものになったという感じがする。レパートリーというものは演奏家だけでなく聴き手にもある。それを得るには自分で弾くに限るというのが僕の方法だ。僕の腕で人前で演奏できるわけではない。つっかえても止まっても、自分の眼と指で音を解きほぐし、匂いの元を探り当てる。弾くというより解明する。万人にお薦めはしないが、ピアノを習ってない僕ができることは誰でもできるだろうし、ポップスでビートルズのコピーバンドをやるのは全く同じことだ。どんな苦労をしても「あの音を出してみたい」という情熱、衝動、要はそれがあるかないかだ。エロイカを全曲弾く。これは僕にとってはアイガー北壁を登覇するぐらいの壮大なチャレンジだが、挑んでみたい。

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LPレコード回帰計画2(オーディオはエロスである)

2021 FEB 28 10:10:25 am by 東 賢太郎

オーディオショップのSさんには教わることが多い。先日のLINN Klimax LP12だけの設定にあった点を補正しようとLINNのフォノイコライザーをはずしてBurmester 100 Phono EQに、カートリッジはEMT JSD VMに替える実験を行った。素人なので個々の機材の特性はまったく知らない。

僕の趣味は「教会の音」であり、石を感じる音響である。シュヴェツィンゲン音楽祭の教会でロッシーニのスターバト・マーテルをきいてこれだと思った。音響もさることながら、俗世間から隔絶されてちょっと厳粛で背筋がピンとする異空間。そこに入ったぞという気分の変容は「精神のスパイス」とでもいうべきもので、それをふりかけると音楽をリッチなものにしてくれる感じがしたのだ。それを再現したい。

とすると、日本家屋の木の壁がオルガンに共振するイメージは懐きがたい。リスニングルームの壁面、床は石材にした。部屋に仄かな残響がありスピーカーから7mの距離で聴く。残響は音源に入っているからHiFiに取り出せばいいというのがオーディオの本流なら僕はぜんぜん別人種だ。残響が前方からしか来ないなんて非現実に忠実なHiFiなど存在意味不明である。そこで5chが出現するのだろうが、サラウンドを人工的に作ったところでまだ音源依存だ。部屋の残響に包まれたほうが自然なのは、そこでピアノを弾いてみれば誰でもわかる。

ただし、それをするには2つのリスクを覚悟する必要があることを経験的に理解した。低音がブーミーになり、中音が混濁することだ。従って、それを可能な限り減殺してくれ、低音と倍音の振動を耳元と身体で感じれば仮想現実としては満点の機材だという思想に行きつくのである。オーディオ好きには邪道なのだろうが、僕は音源に完全依存して残りの音楽人生を委ねるほどレコード会社のプロデューサーやミキサーの耳を信用していない。だから部屋も鳴らして全部の音源を好みの音世界に引き込みたい我田引水リスナーなのである。結論から言うと、この実験で2つのリスクはかなり減った。良い装置ということと思う。

オーディオは面白いとだんだん思うようになった。ZOOMとこの装置でリモート飲み会をやったらけっこうリアル感出るだろうなあ、いや、満員の居酒屋のガヤガヤにまじって「大将、あと熱燗3本追加ね」「へ~い、シシャモはどうします?」なんて聞こえてくるCDはどうか。『日本めぐり一人酒』新橋編、歌舞伎町編、北新地編、道頓堀編、栄編、中洲編、すすきの編、流川編なんてあって、銀座編は「あ~らあ~さん、いやだわおひさしぶりで」から入る。買ってもいいかなあ。

前にSさんに「オーディオはエロスだ」と言ったことがある。教会からいきなり飛んで面食らったろうが、非常に少数派だがブーレーズの春の祭典はエロティックだという人はいる。第2部の序奏でバスドラのどろどろのところ、その後で弦のハーモニクスにフルートの和音が乗っかるところなど物凄く妖しく色っぽく、高校時代から参っていた。これはエロスの本質が何かという大命題にふれるからここでは書かないが、あのレコードに何を聴きたいかということではあり、それがうまく出るのが良い装置だという意味において、僕にとって、まぎれもなくオーディオはエロスなのである。

もっというならミュージックの語源ミューズ(ムーサ)は女神だ。これをなんとしよう。ショパン弾きは美女がよくてむさくるしいおっさんはいかんとかいう芸能話ではない、良い音楽というものには隠し味としてエロスが潜んでいて、だから常習性があるんですかねっていう類のことだ。リスニングルームに教会トーンを持ち込んだ僕としては、カトリック教会が女性司祭を認めないことに厳粛に思いをいたしているし、だから少年合唱団やカストラートがいたのだと知ってもいるが、18世紀に教会を出るやいなや音楽がむくむくとミューズの本性を露わにし、エロスのパワーで男も女も席巻した驚異に圧倒されてもいる。

だから演奏家に求めるのはそれを解き放つ司祭の役なのだ。四角四面に譜面を読んで、コンプライアンスは万全ですみたいな演奏があまりに多い。そんなもの色気などあろうはずもないし、そもそも司祭に役人や評論家みたいな毒にも薬にもならない人種は向いてない。イエスが意図的に男のみを弟子に選んだことに対しローマ法王フランシスコは「完全に不適切」ではなく「司祭に女は永遠にだめだ」と言った。森さんは改宗すればいい法王になるだろう。クラシック音楽の司祭はそのぐらいのアクの人の方がふさわしい。ブーレーズの祭典はコンプラだと思う人がいてもいいし、バーンスタインやカラヤンの方が盛り上がっていいという人がいても結構だが、僕は話が合うことは永遠にないだろう。定型などない、合うか合わないかだけのエロスが潜んだ話だからだ。

そしてオーディオに求めるのは司祭のパッションを伝えることだ。熱いかクールかは別として、それのない司祭は用がない。パッションがアトモスフィア(atmosphere)となったものが東洋でいう「気」であり、会場を包み込んで聴衆の「気」を導き出してこの世のものとも思えぬ感情の奔流を生む。これを僕はベルリンのカルロス・クライバーで体験し、NYのプロコ3番で恐山の巫女が失業しかねない昇天ぶりであったアルゲリッチ、フィラデルフィアのシベリウスで涎を垂らしそうなほどピアニッシモに恍惚となったクレーメルで味わった。そういうものはもはや楽器の音だけが生むのではないし、ビデオで視覚情報を付加すれば伝わるものでもない。会場で目を閉じていても伝わる「気」というものを我々は空気振動という物理現象で耳だけでなく身体ぜんぶを使って感知していると思われる。

良い装置と教会的密閉空間で「精神のスパイス」として効いてくる鑑賞体験が可能かもしれない。まだそこまで経験していないがそのうち出てくるかもしれないという期待はしたい。

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LPレコード回帰計画が再スタート

2021 FEB 12 18:18:03 pm by 東 賢太郎

昨日は久々にLP漬けの一日でした。昨年浸水で中断していたレコードプレーヤー選びを再開することにしたのです。これから何機種か自宅のシステムとつないで試聴しますが、最初に届いたLINNのKlimax LP12にすでに度肝を抜かれています。ひとことでいうなら塩ビの盤を針が擦ってる感覚が消え、マスターテープを回している感じですね。まったく、66にもなって何を今さらなんですが、音盤にこんな膨大な情報が入るものかとですね、子供みたいに物理現象として改めて感嘆している自分が情けなくなります。驚くべきは三次元に広がる音場感、音の立ち上がりのキレと速度、低音にブーミーさが皆無で締まり良く、クリアな音像追求派と思いきや耳元にリッチに伝わる倍音はハモった我が声を包み込んで聞こえなくしてるし、このクオリティは尋常でありません。

OSCAR PETERSON、
At The Concertgebouw

まずはチック・コリアのSecret Agent。こいつはショック。初めて値打ちを知りました。オスカー・ピーターソン・トリオのアムステルダム・コンセルトヘボウのライブ(これはシカゴだったらしい)。唸り声がリアルで、客の拍手の粒立ちまでわかる。すると奏者の定位がおぼろげに出てきます。でもあり得ないんです、だってモノラルなんだからね、あまりにリアルなんで頭がそう変換して聴いてるんですね。ディスクが生き返るとはこのことだ。

カーペンターズは楽器音のクリアネスは言うに及ばずコーラスのざらっとした質感、クオリアまでわかる。そして何よりカレン・カーペンターの声にはまいりました。これぞ肉声。SACDもかなりのレベルですがこっちの方が上でしょう。僕は微小な舞台ノイズに喜びを覚える趣味はありませんが、それが歌手の心の気配を感じるレベルともなるともう別である。写真や動画でも人の喜怒哀楽はわかりますが、目の前にいる人に喜んだり泣かれたりしたらその比ではないわけです。ライブ感とはフェイクが前提の言葉ですが、ここまでいくと機器の存在が消えてもはやライブになってます。伝わってくるのは彼女の心の動きで、これは音楽演奏が人を感動させるエッセンスなのかもしれません。

この3人はみな自作を演じてます。作曲家でもあって、おざなりでない何かを伝えたい意思と力を感じます。そういうエネルギーは音を超えたもので、言葉や演技でも、いや、時に料理にだって感じることがあるんです。それを我々は目や耳や舌で受け取るわけですが、それが何かを言葉で説明するのはとても難しい。「気」とでもいうものでしょう。3人にそれを初めて感じたのだからレコードプレーヤーの威力です。業界のレファレンスの呼び声高いKlimax LP12、見てくれの割に半端でないお値段なんですがこの音ならどこからも文句など出ようがない。実力がよくわかりました。

オーディオは奥が深いと思ったのは、この最上級の名器でも、クラシックでは少々僕の趣味とずれがあることです。それがどうしたんだ?というぐらいほんの少々なのですが、ヴァイオリンの高音域がですね、スピーカーがスタジオモニターにもなる位そのまんま出てくるB&Wなんで、そのダイヤモンド・ツィーターが解像度の高いLP12だとキツめに反応していると思われます。これは僕にはダメなんです。ジャズ、フュージョン、ポップス系ではこれを凌ぐ音を聴くことはまずないだろうと思うレベルですが、オーケストラは難しい。ただし歌はいいですね、ルチア・ポップのモーツァルト・アリア集、僕は彼女が好きなんで至福の時を過ごせました。きれいなだけの声じゃありません、喜怒哀楽も色香もあってね、ポップはキャリアのスタートは演劇だったんです。そんなことまで伝わってくる、恐るべしです。

もうひとつ、感動したのがケルテス / ウィーン・フィルの「魔笛」です。64年8月12日のザルツブルグ音楽祭のライブで、63年に僕が愛聴するクレンペラーのEMI盤で夜の女王を歌ったルチア・ポップがここでは第一童子です。なんと贅沢な!クレンペラーは侍女にシュヴァルツコップを起用していてそういうことに見えますが、実はそうじゃない。ポップはこの時まだ25才の小娘だから分相応なのです。ケルテスの夜の女王はベーム盤の同役をつとめたロバータ・ピーターズです。ポップは元々スーブレットで強い声質ではなくピーターズの方が一般論的には向いてますが、申しわけないがポップの方が数段うまいです。そう、だからこそですね、老クレンペラーが、それもこのザルツブルグの前の年にですね、ぽっと出のお姉ちゃんだったポップを夜の女王に抜擢している。これはヤクルトが20才の村上を4番にすえたようなもんですが、そんな程度の話じゃない。巨匠にとって人生最後の大事な録音となることがわかっていた「魔笛」だったのです。クレンペラーの慧眼には凄みすら感じますね。というわけで貴重な全曲盤なのですが、このイタリア盤、モノラルは仕方ないとしても録音がボヤッとした音であまりに冴えません。完全に諦めてましたが、ひょっとしてと思いかけてみました。結果は合格。初めて楽しみました。ありがとう。

Klimax LP12、大変な威力です、なにせお蔵入りを次々と蘇生させるんだから悩ましい。手放したくないなあ・・でも来週はドクトル・ファイキャルトが来るんだっけ。困りました。

 

(PS)

なんと、チック・コリア氏が死去?ついさっきニュースで知りびっくりしました。本稿執筆時はつゆしらず、彼のレコードを取り出したのも虫の知らせか・・・?

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今年の演奏会ベスト1

2020 DEC 24 0:00:38 am by 東 賢太郎

1位 読響定期・グバイドゥーリナ:ペスト流行時の酒宴

恒例のベスト5ですが、すみません、なにせ今年はコンサートというとこれしか聴いてませんからベスト1。それにしても、1月15日にこの曲を選んだのは指揮者の下野竜也氏に神のお告げでも下ったのでしょうか。コロナ流行時の酒宴は自粛になろうとはこの時点では誰も知りませんでしたね。

コンサートばかりではありません、CDはここ数年買ってなくてCD屋にすら行ってません。コロナのせいばかりでもないです。あんなにワクワクして毎週買いこんでたのが何だったんだろうと考えてしまいます。僕はクラシック界においては相当な大手顧客でしたから今後が真面目に心配です。

クラシックは難しくて、百年二百年まえのもんだって意識がどうしてもついてきます。僕の世代の聞き始めのころはフルトヴェングラーやバックハウスって亡くなったばかりのお爺ちゃんがベートーベンの語り部みたいに扱われていて、カラヤンは青二才だったわけです。

いってみれば、古老の講談師が忠臣蔵や四谷怪談を語って伝承するみたいな世界で、ぽっと出の若いお兄ちゃんが「時は元禄・・」なんてやったところで古手の聴衆からしたら「てやんでえ」みたいなところがある。若かったころはうるさいジジイと思ってましたが、いつのまにか自分が言われるトシなのです。

つまり若い指揮者が「春の祭典」やってくれても、こっちは50年前からきけるのは全部きいてるんで「兄ちゃん、えらい元気いいなあ」って見てる自分に気づくわけです。困ったもんですがどうしようもない。「エロイカ」「ブラームス4番」ぐらいになると「おとといおいで」なんです、ほとんど。

この境地、もう鑑賞ではなくて曲に「はいっちまってる」のです。すると指揮者もヒトだから気が合うあわないが出てきて、僕は合わない方が圧倒的に多いのです。それが古老だとひょっとして俺が間違ってるかと謙虚にもなりますが、もうほとんど亡くなってしまいましたね。年下だと往々にして一刀両断になってしまう。クラシック音楽の宿命と思います。

むかしレコ芸で大木正興さんや高崎保男さんの批評を読んで、そんな印象を懐いてました。僕の思い込みもあるかもしれませんが、若手に厳しかった。切り捨てだった指揮者たちはやがて大家になり、現在は多くがあの世に行ってしまいました。でも、いまは先生方の気持ちもわかる気がする。

つまり、何百年たっても、常に一定数のこういうジジイと若手演奏家が対峙する。そこでバチバチと火花が散ってアウフヘーベンして、演奏が進化するのです。そうじゃなければ古典芸能は博物館行きです。そうならないこと祈るし、よし、そのために徹底的にうるさいジジイでいてやろうと思うのです。

とはいえ百回に1度ぐらいは、耳タコの曲で革命児の解釈に「そうくるか」となって、スコア見てみると「なるほど」なんてのがある。これはライブに多いのです。熱い評を書いたファビオ・ルイージの「巨人」、トゥガン・ソヒエフの「プロコフィエフ交響曲第5番」なんかがそうだったのですね。

それに出会うのが演奏会の醍醐味ですが、百回に1度ということは99度の無駄があるということなんで、だんだん時間が無くなってくると辛いなとなってきます。冒険しなくなってくるのです。音楽に関心が薄くなるのではなく、残り時間の配分をどうしようかという問題ですね。

僕は骨の髄まで「プレーヤー志向」なんです。死ぬまで選手でグラウンドに立っていたい。では自分が何のプレーヤーかというと、もちろん証券業なんです。それ以外はすべて、その他大勢、観衆、聴衆でしかない。外野席で他人のプレー観てああだこうだなんてつまらない余生は送りたくありません。

今年は3月からリモートワークでしたが、全然変わりなく仕事して、逆にリモートでしかできない会社まで作りました。12月に入って俄かに忙しくなってきて、案件はひとつ終わりましたが、ひょんなことからでっかい新規の芽が3つ4つも出てきて寝る間もなくワクワクしてます。逝くならこのままコロリがいい。

もう欲しい物もなく功名心もプライドもなし。仙人と違うのはワクワクして生きたいことぐらいです。もちろんクラシックには求め続けます。でも興奮より安寧ですね。慰めでなく精神のふるさとでおふくろの味にホッとするみたいな、そういうものを与えてくれるのもやっぱりクラシックなんです。

ブルックナーがいいですね、どっぷり浸っているだけで。すると、どうしてもクナッパーツブッシュに行っちゃいます。ロンドン盤のVPOとの5番、僕はあれで入りましたからね、めちゃくちゃなカットがあったりしますが初めてレコードをかけて、一発で気に入ってそれ以来の付き合いです。

いま鳴らしているのは4番です。ベルリンpoを振った1944年9月8日の放送用録音です。これって、あのノルマンディー上陸作戦の3か月後、ヒットラーが自殺してドイツが降伏する半年前なんですよ。スイスに近いバーデンバーデンとはいえ、すぐそこで戦争をやって血の海、死体の山になっているさなかに音楽なんて日本では死刑ものです。いま疫病の流行時で音楽は止まってしまいましたが、ドイツでは戦争でも止まらなかったという生々しい記録です。

彼の4番は1955年のウィーンフィル盤が音も良く一般的にはお薦めということになっていますが、あんまり熱量はありません。音は良くないレーヴェによる初版ですが、フルトヴェングラー(逮捕命令が出ていた)在任中のベルリンpoとのこれはテンションが高く、かたや第2楽章は天国的です。第3楽章のトランペットはじめ管楽器のタンギングの見事なこと!陰影の深さ、緩急、膨らみが自由自在で、国家瓦解の危機で鳴るブルックナーはこうなるのかという代物です。なんという安寧、僕の精神のふるさと、クナッパーツブッシュは神と思います。平和ボケ国の若いお兄ちゃんにはやっぱりあり得ませんのです、この世界は。

 

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佳境に入ったクラシック音楽との付き合い

2020 OCT 9 18:18:08 pm by 東 賢太郎

マーラーの2番「復活」だけ指揮するアマチュアのギルバート・ キャプラン氏にならって、プロの指揮者に1曲だけ習ってやってみたいと思ったことがあります。米国の実業家キャプランは「復活」マニアでした。子息が亡き父のオフィスを整理していたところ、埃をかぶった箱から偶然に出てきたのがこのフィルムだったそうです。初めて振った「復活」です。

この曲だけとはいえ、ロンドン響、ウィーン・フィルを含む世界の75のオーケストラで振っている。音楽の教育は受けなかったが、客観的に見ても才能があったということでしょう。しかし僕が特筆したいのはそれ以前にビジネスの才があったことです。ざっくり書きますと、ニューヨーク大学法学部を出て1963年にアメリカ証券取引所のエコノミストになります。給料は1万5千ドルでした。4年後にインスティテューショナル・インベスターズ誌を創業して主筆をつとめ、17年後に同社株を$75milで売った。当時の為替レートで170億円です。

こういうことができるのが資本主義です。ウォートンスクールの学生のころ、バーで同級生のアメリカ人はみんなわいわいこういう話をしてました。40才でウォールストリートの仕事を辞めて何をしたいかと、お前の夢は何かと。大会社で出世したいなんてのは一人もいない。会社は作るもの、 It’s you. 、おまえ自身だぜ。ビジネススクールはそういう連中の集まりで、そういわれたとき、自分の中でばりばりと何かが崩れました。替え玉受験説はあるが若きドナルド・トランプもそうやってあのあたりのバーで口角泡を飛ばしていたに違いない。 キャプランは音楽界では “an amateur conductor of Mahler’s Symphony No. 2.”(マーラー2番専門のアマチュア指揮者)ですが、ビジネス界ではまさにそうやって夢をつかんだ男、アメリカンドリームを体現した男なのです。

カネで何でもできるのもアメリカだろうという人もいますが、野球好きのおっさんが甲子園球場を借りて夢をかなえるみたいな話とは次元が違います。その理由は下のビデオで明らかにされますが、マーラーの自筆譜を購入して研究に研究を重ね、楽譜が読めないハンディは全部を耳で暗記してスコアなしで振ることで克服しています。棒の振り方を習ったのは40才です。「ワルターやバーンスタインやショルティの録音が残る中であなたが指揮する意味は何か?」と問うインタビュアーに「私は誰より2番を、マーラーを知っているからです」と述べる半端でない没入と情熱と知識と自信が世界中のプロの演奏家を動かしたように思います。

彼は25才までこの曲を聴いたことがなく、カーネギーホールでやるストコフスキーのリハーサルに招かれて初めて知ります。本番を聴いたその夜、旋律が脳裏にまつわりついて眠れなかったと語っています。知的で冷静に見える人ですが、ハートが熱い。本人の口から想いをきくとびしびし心に刺さってきます。

そういうことを自分もやってみたいと思ったのは38か9のころ、フランクフルトにいた時です。娘のピアノの先生がいい人を紹介してあげるわよということになって、習おうかなと傾きかけました。だけどやらなかった。自信がない、仕事が忙しい、そういうものに負けてしまった。じゃあ今やるかというと、もうあの時の情熱も記憶力もありません。アメリカには難病で生きられないかもしれない子供の夢を寄付でかなえてあげる Make-a-wish というNPOがありますが、本気でやるならオトナの夢も叶えてあげようという文化的な土壌もあります。日本で既にプロだったイチローでも、これだけ打ったのは凄いじゃないか、新人王にして讃えてやろうという寛大さ。日本にはないですね、そういう問題もあります。難しいでしょう。

トーマス・ビーチャムみたいにマイ・オーケストラを作る手もあります。でもプロ・オケさえ財政難の世で到底資金が続きません。仮に資金があっても、アートはそういうものではない。ビーチャムの楽団への情熱が持てるか、キャプランの復活への愛があるかという事です。それなくして誰も真剣についてこないでしょう。ちなみにキャプランは、ワルターもバーンスタインもショルティもそうであるようにユダヤ系と思われます。彼らにはマーラーへの心的、スピリチュアルなつながりを自らが信じられる何かが有ります。同じ民族だから共振できるのかルサンチマンなのか僕には知るすべがありませんが、メンデルスゾーン3番の稿で主題にしたとても深いことで、わかる方はわかるでしょう。作曲家と交信、共振できたから皆がついてきた。うらやましいことです。

僕はドイツにいてドイツ語さえままならない自分がどうしてモーツァルトを理解できるのかと感じてしまった。困ったものです。バッハもベートーベンもブルックナーも、みんな遠ざかってしまいました。日本語世界で理解していた彼らとはおよそ程遠い人間だということを知ってしまった気がしたのです。みんな同じ人間だ、音楽はその共通語である。これは20世紀のアメリカ人が作ったマーケティングコンセプトです。19世紀以前の人間にそんな概念があろうはずがありません。モーツァルトは、「こういうパッセージを入れればパリでうける」と父親宛の手紙に書いている。ヨーロッパの中ですら文化はローカル色豊かであったのであり、アメリカ人はそこからハンバーガーをみつけだし、マーケティングという手法で国中で同じものを食べさせて膨大な売り上げを作り出すことに成功したのです。

クラシック音楽でなぜそれが必要だったかというと、ナチスのころ大勢のユダヤ系音楽家が亡命してきたからです。知識人には歓迎された。しかし大衆に売れないと彼らは食っていけませんからビジネスする必要があった。ロス・フィルに雇われたクレンペラーは悲愴交響曲を盛り上げて第3楽章で終わらせてくれとマネージャーに頼まれてます。そんな田舎者に音楽は「共通語」だなどとクレンペラーが思ったはずもなく、啓蒙しようという意欲もなかった。うまいこと妥協できてスターダムに登ったトスカニーニは忖度でスーザまで録音し、常識的にはイタリア人に頼まないだろうベートーベンsym全集や、ヒットラーの臭いがするが売れそうなワーグナーも、ドイツ人でない男ならという事でオハコにできた。田舎者に一切の妥協もせず極貧に陥ったバルトークは、クーセヴィツキーの手管でボストン響の委嘱という形をもって「アメリカ人でもわかる」オケコンを書いたのです。共産主義や資本主義という政治とアートの相克はソ連だけと思ったら大間違い、アメリカにも生々しくありました。

そういう事ですからアメリカ人にとってドイツの音楽は良くも悪くも特別なものでした。それは敵国、ユダヤ人問題という要因を論じる以前に、がっちりと胡桃のように固いドイッチェランド(Deutschland)なるものが英米(アングロサクソン)とは本質的に異質だという事に発しています。このことは、日本通の英国人が日本について持っているイメージと通じるものがある。韓国、中国と違うのはそれだと見抜いています。日本人とドイツ人に似たものはかけらもありませんが、総合的、俯瞰的に似たものがあるとするならそれでしょう。僕は16年の海外生活でずっと英語で仕事をしましたが、ドイツだけは公私ともにどうもうまくいかなかった。あの3年はやっぱり自分の中でばりばりと何かを崩したのです。ここでは書きませんが、哲学もプロテスタントも印刷術も科学技術もグリム童話もナチス党も混浴風呂も、なぜあの国で出てきたか確固たる理由がある。したがって、同様に、音楽にもあるのです。

アメリカでマーラーはドイツ語を話すユダヤ人の音楽であり、ニューヨーク・フィルを率いた指揮者の音楽でもある。しかしクレンペラーは「マーラーがどんな人であるかを認識した人は(ニューヨークに)誰もいなかった」と述べ、「アメリカで何が一番気に入ったか」と尋ねるとマーラーは「ベートーベンの田園交響曲を指揮したことだね」と答えたそうです。ここはさすがに悲愴交響曲を知らない西海岸とは違うとも考えられますが、田園がああいう風に終わることを独墺の客は知っていてニューヨーカーは知らなかった、ないしは、本場の大先生が振るものは何でも有難がって聴いたとも考えられます。どちらにせよ彼は自由にオケを使えました。その彼の交響曲を半世紀後のユダヤ系指揮者が次々と十八番にし、ユダヤ資本のレコード会社が商売ネタにして広まりました。カトリックのブルックナーはそれがありません。日本人の朝比奈がシカゴで振ってうける土壌がないのです。僕を含め日本人は彼らの宗教を知りませんからクラシックは高級なエンタメの一部門であり、いわば料理界のフレンチであり、カレーとラーメンで済む人には縁がありません。改宗することもないので僕はカトリック、プロテスタントを「お勉強」することで、カレーもラーメンも好きだけど同じ土俵でフレンチもいいねという付き合いになってます。

だからあれ以来僕はモーツァルトはエンタメとしてつき合うことになりました。ドイツ語を母国語としないアメリカ人のドン・ジョヴァンニを日本人がエンタメとして楽しむ。何国人が作ろうとフレンチは上等であれば美味なのだからそれはそれで結構。楽譜を音にしてもらわないといけない以上は格別に技量が高いシカゴ響にお願いしたいと思うし、そこにモーツァルトが意図してない喜びを発見する余地はあるでしょう。しかし、その姿勢でどんどん遊離して行ってフレンチにワサビが入ったり寿司でアヴォガドを巻いたりするヌーベルなんたらという流れ、僕はあれはまったく受け付けません。食とアートは別物ですが、創造者にリスペクトのないものは型破りでなく型なしです。そういう思想の持ち主なので、エンタメ国アメリカの人間であるキャプランが2番の自筆譜をめくりながら、まるで霊的なオーラがあるかのごとくマーラーという人間を感じ取るビデオの場面は、本当にそれができたかどうかはともかく、演奏家の姿勢としては畏敬を覚えます。だからロンドンでもストックホルムでもウィーンでも、敬意を持って迎えられたのでしょう。

この楽譜に忠実にという姿勢はもちろん日本の音大でもあるでしょうが、聖書が絶対という姿勢に通じるものがあって、単なるテキストは大事にという程度のものでない。宗教的なものがあります。ユダヤ教、イスラム教が聖書に厳格なのは周知でしょう。カトリックでは離婚ができないから英国国教会ができてしまう。プロテスタントも福音派が進化論(=科学)は認めないし、コロナに罹患しようとマスクはしないのです。どれも仏教徒の理解をはるかに超えるものです。作曲家のスコアが聖典であるという原理。キャプランはそれに従い、聖典に対する深い情熱が人々の心を動かしたということです。思い出しますが、韓国人のH.J.リムという女性ピアニストが12才でパリに留学し、感ずるものがあり、ベートーベンの伝記や書簡など手当たり次第に読んだそうです。そこで彼女なりの作曲家の人間像ができ、ソナタをベートーベンの人生の局面局面のカテゴリーごとに分類し、全曲録音した。まったくもって彼女の主観であり本当にそうかどうか学問的にはわからない。しかし誰も反論できないのも事実であり、学問的に知りうる範囲で忠実にやりましたなんて安全運転の演奏よりずっと面白いのです。そう思う人は彼女にリスペクトを持ちます。もっと勉強しなさいなんて書いた日本の音楽評論家がいる。こういう馬鹿な人がクラシックを滅ぼしているのです。

異国人、異教徒の音楽ではありますが、彼女のアプローチは世界で堂々と通用するでしょう。キャプランの手法に通じるものがあるからです。まず作曲家の人間を深く知る。知識だけでなく感性でも霊感でも動員して。そこで初めて記号にすぎない楽譜の行間が読める。資料が乏しいバッハのような人物でも、アプローチのメソッドとして一貫してそうすべきなのです。そういうことは教科書に書いてないし先生に教わるものでもない。自分で体感し創造するものです。アカデミックに正しい古楽器の選択をという博物館長みたいな道よりよほど重要です。演奏する人にその曲、その作曲家への没入と情熱と知識と自信なくして聴衆に何のメッセージが伝わるでしょう?コンテンツの貧弱なプレゼンでは、どんなに構成が巧みだろうと英語の発音が良かろうと、絶対にビジネスはできません。僕にとって異国人のモーツァルトという人間は充分にはわかりかねますが、文字という理性で書かれた手紙はわかる。理性は万国共通です。そこで共通するものを発見して喜ぶ。たぶんリムさんも同じと思います。それだけで演奏できるとは思いませんが、共感する演奏の背景に奏者のそうした同化があるなということぐらいは感じ取れるのです。

クラシック音楽との付き合いという事を考えてきて65才になっています。キャプランのような能も財もありません。相当遅れてしまったけれど、この先にアメリカンドリームがあるんだろうか。自分はどういう人間で、本当は何がやりたかったんだろう?仕事はそれのためにやるもので、仕事がそれというのも寂しい。でも、それを取ったら何も残らない程度の人間である気もします。こういうとき、いつもそうだったのですが、偶然に誰か運命的な人の影響でバーンと景色が変わる。そういうことがまたあるんだろうか。たぶんそれはもうレールが敷かれていて、あるのかないのか、わからないのです。

 

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音楽のテレワーク

2020 MAR 31 23:23:20 pm by 東 賢太郎

さっきBSプライムニュースで共産党・志位委員長の話をじっくり聞いた。普段こう言っては何だけど共産党の意見はあまり真剣にとりあってなかったが、自分の言葉でびしっと語られるのは傾聴。現在の状況分析と政策提言は正攻法で説得力があった。

ところで、番組で志位氏が紹介していた新日本フィルの「テレワーク」。興味があったので試聴してみた。

新日本フィルの皆様

ブラボー!素晴らしい!舞台では見えないひとりひとりの表情がいいですね。演奏会できなくて辛いでしょうが、われわれ聴衆も気持ちはひとつです。クラシック音楽を愛する者として来る日を心待ちにしております。

そうしたら大分に帰省されている広津留すみれさんからメールをいただいて、ご自身のyoutubeでやはり楽しいテレワークを聴かせてくれました。

すみれさん、ありがとう。暗い気持ちが一気に晴れました。音楽のパワーは無限だね。いま東京は危ないから来ない方がいいけど、落ちついたらまたお寿司いきましょう。

 

ドイツのモニカ・グリュッタース文化大臣のメッセージです。

文化は良い時にのみ与えられる贅沢ではありません。暫くの間、文化なしで済まさなければならない状況に置かれたとしたら、その喪失感の大きさはどれほどのものでしょうか。私は彼らを失望させません。私たちは彼らの思いを受け止め、文化とクリエイティブのセクターのために支援と財政面でのサポートを確実に実行するため力を尽くします。

 

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すみれさんへのメール

2020 JAN 23 0:00:23 am by 東 賢太郎

すみれさん

ありがとうございます。

Janine Jansenのバージョン、濃いですね。folkのルーツにつながる感じがとても良いと思います。Yo-Yo MaとSilk Road Ensembleのセンスはお送りしたバルトークのシナゴーグ版などにもおなじDNA があるように聞こえますね、これから聴いてみます。東洋人と西洋人が同じノリで楽しめるというのはシルクロードでDNAが連鎖してるからと理解しております。ちなみに僕がクラシックにはまったきっかけはボロディンの「中央アジアの草原にて」だったので、このテーマはいろんな角度から我が事として深く考えてます。

音楽にはそういう人間の奥深いものを抉り出すパワーがありますね。他の芸術と違います。先日友人の医者と話していたら、六感のうち嗅覚だけが脳に直接届くそうです。他はいったん脊髄に届いてから脳に信号が来るので、ワンクッションのない嗅覚は一番本能的にインパクトがあるそうです。猫、犬の嗅覚は人間の数万倍だそうで実感として想像もつきませんが、空気中に浮遊する分子を直接に捕らえる体感認知の方が音波(耳)や光波(目)によって間接的に捕らえる推定認知より生存するために信頼度が高かったのです。だから我々にも神経回路にその痕跡が残っています。人間の認識力は視覚が圧倒的に優位になるように進化したので気づいてませんが。

ここからは僕の空想になりますが、胎内で聞いていたもの、リズムは母の心拍、歌は母の声と意識の奥深い所でリンクしていて、 音楽は物理的には確かに聴覚で認識はするのですが実はボディにルーツがあって六感における嗅覚に近い(ワンクッションのない)処理がされているのではないでしょうか。だから音楽を聴くと体が動くし、それがダンスとなったのでは?言語は左脳、音楽は右脳が処理という説は証明されてませんが、メカニズムはともかく、音楽は本来「右脳的」なインパクトが強いと思います。

バルトークは東西民族の入り混じったマジャール人でおそらく自分の血を体感して民謡を採譜・研究したのではないでしょうか。しかし信号を受け取って処理した彼の高度に進化した脳がそれをそのまま出すことを許容せず、満足できるところまでいわゆる西洋音楽的な抽象化を施してあの6曲のカルテットを書いたと思うのです。Sz.56は生身の彼に近い音楽で貴重ですね。

ここにもそう言う事を書きました。

バルトーク 「子供のために」(sz.42)

でもピアノよりgeigeがいいね、より直接に右脳的に訴える気がします。音楽を平均律に封じ込める過程でデジタル化、抽象化して左脳的になってしまうのでしょう、バルトークの楽器はピアノだったから。ピアノがなぜ両手で10本の指で弾かれるか?片手で単音でやってもつまらないからです。弦楽器、管楽器は自然音階で純正調に微調整してリッチな音楽が弾けるからバッハがそれ1本であれだけの曲を書けました。第九の第3楽章の音階を吹くホルンソロ、あれはスコアは変ハ長調だけどピアノ版だとロ長調になってなんか変ですね。それが、すみれさんご指摘の「例のラ#を高く期待する聴感」なんでしょう。

和声というのは本来は教会の残響の調和で発見された自然倍音の累積ですが、平均律という転調に好都合の非自然的音律が便利さの代償として大事なものをそぎ落としてしまったので、そのまた代償として鍵盤上で進化したお化粧です。しかし面白いもので、それが「お化粧術」として独自に高度に知的に進化して和声学になった。ところがこれはこれで、僕の場合ですが、実に右脳的に効くものですから、以上書いたことと矛盾してしまうのです。音楽は謎です。一生探求しても理解できない神秘です。

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プリアンプに金をかけなさい

2020 JAN 7 0:00:38 am by 東 賢太郎

きのう2か月ぶりにプリアンプ(ブルメスター808)が修理から帰ってきた。たまたまテーブルにあった牧神の午後への前奏曲をかけてみる。まったくすばらしい。オーディオの存在が消える。10分身動きできず、終了。まだ動けず。

きいたのは50年も前に買ったブーレーズ / ニュー・フィルハーモニア管のLPだ。その評はこちら(ドビッシー 「牧神の午後への前奏曲」)。これをレファレンス的ニュアンスで挙げているのはフランス的な音色、エロティシズムがプライオリティーだったからだ。しかしブルメスター808が新品のように蘇って、「微視的なアナリーゼ能力と聴覚の鋭さが群を抜いている」のはドビッシーにおいては不可欠の美質であり、マルティノンやモントゥーよりもっとエロティックじゃないかと思えてきた。俺がいままで聴いてた音は何だったんだというほど。

デジタル時代になってプリアンプ不要論が語られた。音量調節などコントロール機能はCDプレーヤーで足りフォノイコライジング機能もいらないなら介在回路は少ないほうが良い。理屈はそうだ。僕もいらないと思っていたが、ドイツ人はそう考えていなかったということだ。ブルメスターのパワーアンプをドイツで買って惚れこんでいたからひょっとしてと思い808を試聴してびっくりした。音質、音場感、空気感、定位が比較にならず軽自動車が一気にベンツの600に化けたかの激変。人生でいろんな機械を買ったが、あらゆるジャンルで満足度において808は圧倒的にNo1だ。

フラッグシップだから20年顔も変えない。この頑固さもドイツだ。車もそうだが、売らんかなでころころモデルチェンジする日本製はいかにも薄っぺらい。日独の技術の差はないだろうが、こういうアンプは日本にないのはひとえに哲学の差と思う。ハイエンドのスピーカー、パワーアンプに凝る人は多いがプリアンプに金をかける人は少ないらしい。808が高いかどうかは音楽に何を求めるかだろう。これ1台で牧神の午後への前奏曲の評価が違ってしまうなんてマジックは僕にとってほかの手段でおきようもないから妥当と思うが。

 

クラシック徒然草-僕のオーディオ実験ノート-

 

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