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我がチャレンジ「エロイカを全曲弾く」

2021 DEC 7 12:12:12 pm by 東 賢太郎

野球を見ていると、ときどきファウルチップしたバットのにおいを嗅いでる打者がいる。外人に多い。きくところによると摩擦でボールの牛皮が焦げたいい匂いがするらしい。といって別に衆人環視の打席で嗅がなくてもよさそうなものだが、この匂いはバットとボールが150キロの高速で擦り合わないと出ないから僕の野球のレベルの選手は知らないし、プロ選手でも普段は嗅げない希少性がある。もし戦闘モードにある男をさらに猛々しく燃えさせる何かがあるのだとすれば、とても動物的本能に近い行動だろう。そういえば悪童だった頃、僕は電車の線路に侵入して、火花となって溶けて飛び散ったブレーキの鉄片を拾って匂いを嗅いでいた。危ないという気持も多少はあったが、それを振り払って余りある魅力だったのだ。それを嗅ぎたい衝動も本能だったと思うしかないから生物学的に何か意味があるんだろう。牛は太古の昔から食物でありわかる気もするが、鉄は食えないし、なんだって僕の遺伝子は「溶かさないと常温では嗅げない鉄の匂い」なんてめんどうくさいものをわざわざ好ましく感じさせようとしているんだろう?ひょっとして遠い遠い先祖が鉄の生産に関わっていて、もっと嗅ぎたいから働こうというインセンティブのある者がダーウィンの法則で勝ち残ってきたかもしれないなどと想像する。

きのうベートーベンのエロイカを聴いているうち、ふとその事を思い出した。この曲のある部分は、僕にとって、あの鉄片と同じいい匂いがするのだ。その「いい」という感じは文字にはしにくい。でも、あの溶けた鉄の匂いがまた嗅ぎたくなって僕は線路に入っていた(やばい話だ)。エロイカもおんなじだ、また聴きたくなる「常習性」があるのだ。これは僕だけだろうか。ベートーベンが脳内でいい匂いの音を見つけ、それを書き留めてふくらませていったらこうなった。人類の本能に訴えるから常習的に魅かれてしまう人が時代を超えてたくさん出てきて、それが積もり積もってこの曲は「クラシック」になったのだという説明は、シャネルの5番はそうやって香水の女王になったのだという現実のケース・スタディも伴っていて、ベートーベンが天才だとかナポレオンがどうしたなんて文学的な説明よりずっと説得力がある。

「エロイカの常習性」を唯物論的に探究する試みは、これまた魅力的だ。シャネルの5番には「ジャコウネコの肛門から取れる分泌物」が使われているが、音楽もそうやって組成を分解していくと非常にユニークな発見があって面白いのである。分解するとスカスカで何も見るべきもののない音楽は言うまでもなく安物である。よくできたもので、人々はそこまで見てないが、結果として安物は市場から淘汰され記憶からも消える。逆にエロイカはあらゆるクラシック音楽の中でも異例なほど新奇な成分が絶妙に配合され、人々はそこまで見てないが、結果として人類が滅びるまで地球に永遠に残るのである。シャネル5番は年間で250億円も売れるほど人間に常習性を植えつけることに成功したが、エロイカだってもしベートーベンに著作権があればお城が買えるぐらいは売れただろう。

その「新奇な成分が絶妙に配合された」一例をお示しする。下のピアノ・スコア(Edition Peters, Otto SingerⅡ版)でいうと右ページの2段目の終わりの小節から始まる弦のスリリングな下降が上昇に切りかわる4段目の最初の2小節だ。

ソソーソラレ|シシーシラファという単純なメロディ。実に何でもない2小節だ。その直前の6小節は、突然背後から敵軍に斬り込まれ、剣を振り上げて応戦する英雄のピンチである。ところが、半音階上昇するバスが加わって和声が Cm – C7 – F – D7 – Gm – E♭7 – A♭- F7と息もつかせぬ早業で突き進むこの2小節で(たった2,3秒だ)、駿馬にまたがる英雄は一気に形勢を逆転し、怒涛の勢いで突進して敵をなぎ倒すのである。う~ん、カッコいい。この和声連結は、連結法としては古典的でジャコウネコの分泌物ほど新奇ではないが、バスの半ば強引な(つまり旋律ではない)対位法によって機関銃の如く転調して人間の保守的な和声感覚を破壊してしまう凄まじい効果は、やってる中身に何もインテリジェンスはないが人智を超えた1秒に数百万回の高速売買という一点によって株式市場を根底から変えたアルゴリズム取引さながらである。こんな例はハイドンにもモーツァルトにもなく、ベートーベンの大発明である。彼は「和声感覚、リズム感覚の破壊」という新奇な成分を香水に配合したのだ。

冒頭、2発の号砲とともにチェロで現れる英雄のテーマは何とも生ぬるい。音量も力ない p (ピアノ)で、まるで寝起きであくびしてるみたいだ。それが減七の和音でいっそうのくぐもりを見せ、「ああ仕事したくねえなあ」という感じになるから最悪の出だしである。「どこが英雄だ」と初めて聴いた時に拍子抜けしたのをはっきり覚えているが、それこそベートーベンの周到な戦略だ。テーマをもう一度、木管とホルンが出しつつ変ロ長調に転調するとだんだん目が覚めてくる。そこで楽譜の左ページの4段目だ、3拍子なのに2拍子でガン、ガンと土俵に上がる力士が紅潮した顔を叩くみたいなぶちかまし(スフォルツァンドの衝撃、これぞリズム感覚の破壊だ)が入り、英雄はしかと目覚め、フル・オーケストラでテーマが堂々たる本来の威容を現すのである。

周到だ。この寝起きの人間くさいプロセスを見せるから、カッコいい2小節が俄然輝きを増すのである。いきなり冒頭からスーパーマンが現れて英雄だ!とやってもマンガである。リアリティがない。ではハイドン流に「序奏」をつけるか?いやいや、古臭いね。そこでこうなる。英雄主題はいわばライト・モチーフで、不意に幕が開いて準備中の主役にスポットライトが当たってしまう「現代劇」なのだ。これはほぼ同時期(前年)に書いたピアノソナタ第18番で使った手であることを指摘しておく(どちらも変ホ長調だ)。

ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31-3

エロイカ第1楽章の提示部をピアノで弾くことは僕にとって人生最大の喜びの一つである。たびたびブログでいろいろな曲の楽譜をお示ししているのはそういう「部分」であって、なぜそうするかというと、そこに「匂いの秘密」が封じ込められているという確信があるからだ。音楽は物理現象である。だから採譜できる。それを分解すれば秘密は解き明かせるはずだという強い思いが僕にはある。このモチベーションは、恐らく、天文学者が137億光年かなたの星雲のスペクトルを解析したり、物理学者が素粒子をさらに分解したら何が出てくるだろうと全周26.7 kmの陽子ビームの加速器を作ってしまう好奇心に近いかと自分では思っている。

しかし、ソソーソラレ|シシーシラファという音列と、Cm – C7 – F – D7 – Gm – E♭7 – A♭- F7 の和声連結は単に「そうである」という以上のものをもたらさない。何か数学に置き換えられる原理や規則性はない。とすると、なぜそれが「いい匂い」を発するのかの答えは受容する人間の脳の側にある(しかない)ことになる。こういう「ある」は哲学における「存在する」に他ならず、明日から地球が猿の惑星になればエロイカはこの世から消える。楽譜は残っても存在はしない。「明日から人間だけの惑星になればこの色は消えるよね」と小鳥たちは森でささやき合っているだろう。人間は色に見えないから「紫外線」と呼んでいるその色は鳥には「存在」している。

つまり、音楽は採譜はできてもメタ・フィジカルな「存在」なのだ。だから、音楽を演奏し聴くという行為は、「発色させた人間」(作曲家)と、それを受容する人間(聴き手)の脳の交信に他ならない。味覚は「甘味は食べろ、酸味、苦みは危険だから食べるな」のようにセンサーの意味があるが、音列、和声連結で子供が育ったり、腹をくだしたりすることはない。ならばなぜ「いい匂い」と感じさせられているのか?それはまさに「鉄の匂い」に僕が引き寄せられていたのと同じ謎なのだ。仮にそれが「甘味」だとすれば、ベートーベンは人間が甘味に感じる音の組み合わせを発見したことになる。エロイカに限らず人気作品にそれは散りばめられているが、それをそういうものだと「わかる」人が多くないのでまとめて「**味」のように呼ぶ言葉がないということだ。

音楽に限らない話だが、人が何かを「わかる」というのはどういうことかという点について含蓄ある論考がある。哲学者・國分功一郎氏の興味深い著書『暇と退屈の倫理学』に「人は何かをわかった時、自分にとってわかるとはどういうことかを理解する」とあるのがそれだ。哲学者スピノザの言葉だが、まさにそれだと思う。同書はこうも言う。「数学の公式の内容や背景を理解せず、これに数値を当てはめればいいと思っていたら、その人はその公式の奴隷である。そうなると『わかった』という感覚をいつまでたっても獲得できない」。そういう人は間違いなく数学ができない。よってこの論考は正しいと実感できる。何事につけ、「わかる」ための自分なりの方法を見つけることはより良く生きるための実習である。

僕の場合、「ある音楽をわかる」ということは、それが発する匂いを嗅ぎ、その匂いは作曲家も好んで音楽に封じ込めたものだと実感(=交信)することだ。理屈でなく、それこそ嗅覚や味覚のような「本能」の次元の結びつきだから強固であり、その状態をもって「エロイカがわかった」と宣言してもまったくおかしくない。僕はその瞬間にその作品は自分のものになったという感じがする。レパートリーというものは演奏家だけでなく聴き手にもある。それを得るには自分で弾くに限るというのが僕の方法だ。僕の腕で人前で演奏できるわけではない。つっかえても止まっても、自分の眼と指で音を解きほぐし、匂いの元を探り当てる。弾くというより解明する。万人にお薦めはしないが、ピアノを習ってない僕ができることは誰でもできるだろうし、ポップスでビートルズのコピーバンドをやるのは全く同じことだ。どんな苦労をしても「あの音を出してみたい」という情熱、衝動、要はそれがあるかないかだ。エロイカを全曲弾く。これは僕にとってはアイガー北壁を登覇するぐらいの壮大なチャレンジだが、挑んでみたい。

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Categories:______ベートーベン, ______音楽と自分

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