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カテゴリー: ______シベリウス

2020年を追想し、総括するクラシック音楽はこれだ

2020 DEC 31 19:19:51 pm by 東 賢太郎

今年は大晦日の午後9時半から海外とビデオ会議です。まだ仕事してます。元旦もします。ブログはしばらく書けません。

そんな中ですが、歴史的な大異変に見舞われた2020年を追想し、総括するクラシック音楽は何だろうかと考えました。

ゴーンの漫画みたいな逃亡に始まり、コロナが世界を揺さぶり尽くして多くの人命が奪われた年でした。五輪も政権も吹っ飛び、米国ではそれに乗じて大統領選で壮大なイカサマが決行されました。

音楽は何もないように春を待ち望み、喜びを歌います。そして第2、第3楽章で行方なくさまよいます。悲しみの沈静の中で失われた魂に黙とうし、不安げにあてもない暗闇を疾走もします。こんな運命が待ちかまえていたのか・・・。そしていよいよ終楽章に至るのです。まるで希望の灯を見たかのように高らかに昂揚していきますが、ちがうのです、それはフェイクの国の悪魔のファンファーレなのです。世界のマスコミがつるんでたれ流したウソ、イカサマ、隠蔽、陰の恫喝。なんと壮麗で豊饒な未来なんでしょう!でもウソなんです。音楽は悲しみの淵に落ちます。

コーダの大団円に進みます。絶望と悲しみが晴れます。真相はぜんぶ明らかになります。白日の下にさらされ、悪党どもに天誅が下り、正義の国に金色の後光がさしこみます。最後の3分です。

シベリウスの交響曲第2番。

みなさん、今年も有難うございました。良い年をお迎えください。

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シベリウス交響曲第7番の名演

2018 NOV 21 0:00:18 am by 東 賢太郎

この曲にはどこか聴く者の魂を吸い寄せて浄化するものがある。4番や交響詩タピオラのごとく徹頭徹尾きく者を拒絶することなく愛や慕情が交差もしている。それがスケルツォの峻厳な自然界の試練を経てこの世への別れのようなコーダに至って天国の情景が彼方の明るみに茫洋と浮かび来るのである。

それをシベリウスは切り詰めた管弦楽で描ききった。スコアは金管がHr4、TrpとTrb各3だが木管は2管編成で、5、6番と同じか小さい。書法は精緻で室内楽的な透明感に満ち、スタート地点に位置する1、2番が劇的 / 散文的とするならシベリウスは6,7番に向けて徐々に切り詰めた俳諧的小宇宙を形成していった。5才年長のグスタフ・マーラーとは真逆のベクトルをもって同時代を生きた人で、僕は彼の人生観、美感のほうを支持する。

一般に「単一楽章ながら各部に交響曲のエレメントを見出せる」と説明されるが、あまり無理せず初演時の『交響的幻想曲』なるコンセプトがこうなる宿命のものだったと考えればいいのではないか。というのは、シベリウスがこれを交響曲と呼びたくなったのは交響曲が書けなくなったからではないかと思っているからだ。現にこれを7番として次にとりかかった形跡はあるが、シベリウスは「第8番は括弧つきでの話だが何度も “完成” した」と語った。妻アイノは1945年に夫が楽譜を火にくべたのを目撃しており一部がそれだったといわれる。

シベリウスは1926年に最後の完成作である交響詩『タピオラ』を完成させたが、その完成後さらに30年生きた。交響曲第8番を仕上げると約束し1931年にベルリンで「交響曲は大きな歩みで進んでいる」と報告し、同年12月の日記には「私は『第8番』を書いている。青春のまっただ中だ」と記している。そして焼却した後である1950年代になってもまだ「第8番の作曲に取り組んでいる」と述べていた。そして亡くなるまで勤めた秘書には「死の前に主要な作業を完了するだろう」と言っていた。しかし彼は書けなかったのである。

彼が7番を「交響曲」として着想し、様々な紆余曲折を経て「幻想曲」として初演し、思い直して交響曲第7番と呼んだ。そこで心に起きていたと思われる葛藤は壮絶なものだったにちがいない。明らかに「青春のまっただ中」にはない自分。世の期待にこたえて書かなくてはいけない義務感。保持しなくてはいけないシベリウスという名声。そしてはるか高みに輝いてしまった前作の7番。僕はいま仕事で昔の自分と戦っている最中で、もうかなわないと思った時に辞めるしかないと感じている。7番の最後の1ページ。これをシベリウスはもう書けなかった。行き着く場のない草稿は燃やすしかなかったのだろう。

これがその「最後の1ページ」である。

E♭7、E♭7⁻5、A♭、D7、ここでホルンがレを引っ張りティンパニがドをトレモロでたたく。低音の2度音程の濁り。そこに弦のピッチカートを伴って低音域の木管合奏によるG7が響き渡り(この音域だとオーボエが目立つ)、それに重ねてコントラバス、チェロ、ティンパニ、ホルン4本の強烈なドが鳴らされる。これはベートーベンの田園の第5楽章の入りのところ(下の楽譜)、ハ長調トニック和音に主音の完全5度下のファがバスとして侵入してヘ長調に転調するのと同じである。

このマジカルな衝撃と同時に、コントラバスとファゴットを除く全部の弦と木管がレ→ドのトロンボーン・ソロの旋律(アイノのテーマ)の特徴であった倚音をユニゾンで鳴らし、弦だけがシ→ドと再度の倚音よりクレッシェンドしながら天空の高みに消えるのである。何と凄まじいエンディングだろう。

ところがここにひとつの重大な問題がある。①最後のシ→ドにトランペットを重ねる、②ティンパニ、金管をシベリウスの指示と正反対にクレッシェンドするという改変(①のみ、②のみ、①②両方の3パターンあり)を行っている指揮者がいるのだ。最も古い録音であるクーセヴィツキーの改変がオリジナルと思われる(彼はボストン響で8番の初演を任されていた)。

7番が完成された1924年にはシェーンベルクが5つのピアノ曲 op.23を作曲して12音技法に移行し音楽は新しい世界へ向かっていた。一方でシベリウスの国際的な受容は欧州大陸ではなく英国、米国で進みつつあった。彼は自作のラジオ放送を受信し、演奏してくれる指揮者は誰にも好意的であったという。ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、オネゲルらの新作をボストン響で初演し米国での伝道師的立場にあったクーセヴィツキーの意見を聞いた可能性はあろう。

ご参考までに分類すると以下のようになる。

トランペット改変版で振っているのは、オーマンディ、ビーチャム、渡邊暁雄、ムラヴィンスキー、ボールト

ティンパニ、金管の音量改変版はバーンスタイン、ロジェストヴェンスキー、アシュケナージ、ザンデルリンク

ほぼスコア通りがマゼール(VPO)、カラヤン(BPO)、ギブソン、デイヴィス

完璧なのはセル、カラヤン(PO)、バルビローリ、ヴァンスカ、セゲルスタム、ベルグルンド(ボーンマス、ヘルシンキ、COE)、サロネン、ミッコ・フランク、ラトル、インキネン、コリンズ、ハーディング、ブロムシュテット、ニーメ・ヤルヴィ、カム(ラハティ)、エルダー

言うまでもないことだが音楽は結尾で印象が大きく左右される。ましてそこは既述のように7番の生命線ともいえる重要な着地点であり、いずれの改変も改悪でしかない。渡邊暁雄のようにごく控えめにTrpを重ねるだけであってもシ→ドの色彩、質感は変わってしまう事は皆さんご自身の耳でお確かめいただきたい。Tim、金管の増音に至っては7番全体のコンセプトをどう解釈しているのか疑うばかりで全くお門違いの論外と言うしかない。

 

オッコ・カム / ラハティ交響楽団

東京(オペラシティ)で聴いたこのコンビの7番には打ちのめされた。フィンランド語で語られたシベリウスだった。ラハティ響団員の曲への深い愛情と敬意。要所要所の語り口、歌いまわし、トロンボーンソロの神々しさ、どれをとってもこういうものだったのかと唸らされ、奇異に思っていた部分も自然であることを知った。7番のスコアに無駄な音など1音もないのだ。それはこの録音でもわかる。終結は素晴らしく感動的であり、まさにシベリウスはこう書いているのである。

オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス5-7番を聴く

 

ヘルベルト・ブロムシュテット / サンフランシスコ交響楽団

この人のシベリウスを僕は高く買っている。実演のブラームスやチャイコフスキーは筋肉質で固く感じ好きになれなかったがシベリウスではその特性がプラスに出て、この7番も硬質に磨かれたアンサンブルで間然するところなしだ。シベリウスにしては細部まで見通しが良すぎるほどで、オケが下手だと逆効果だがSFSOの独奏、合奏の機能性は完璧でクリスタルのような微光を発している。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / フィルハーモニア管弦楽団

1955年の旧録音。後のBPO盤よりこちらがずっと良い。ドイツ語圏の指揮者でシベリウスを振れた人はカラヤンしかいない。それも作曲家存命中だ。彼をほめると軽蔑されるのが日本のクラシック界だったのが懐かしい。彼はEMIの初レコーディングに当時ほとんど誰も知らないブルックナー8番を選び、僕が生まれた年にシベリウスの4番、7番を録音した人だ。それがこの見事な出来である。彼が「虚飾のきれいごとだけの指揮者」というのは音楽センスのない人にしか言いえない言葉だろう。

 

オスモ・ヴァンスカ / ラハティ交響楽団

ヴァンスカも上掲カムと同じくシベリウス生誕150年だった2015年12月に読響で聴いて感銘を受けたがやや怜悧さが勝った印象だった。しかしこのCDは実演同様にクリティカルにスコアを読み込んだ精密な細部を持つが、表現のタッチがデリケートな皮膚感覚を感じさせるというラハティ響の特質が出た素晴らしい7番。1度目のトロンボーンソロに至る過程の和声の感じ方は最高で、スケルツォ風の5番を思わせる部分のアンサンブルも血が通っている。

 

ヴァンスカ・読響のシベリウス5-7番を聴く

 

パーヴォ・ベルグルンド / ヨーロッパ室内管弦楽団

指揮者3回目かつ最後の全集。少しく小編成の管弦楽で緻密に繊細に内声部の対位法的な書法を浮き彫りにすることにフォーカスしたベルグルンドの集大成の録音だ。それでいて室内楽的にこじんまりした演奏ではない。それはスコアに茫漠たる空間を暗示する何かが内在しているためで、作曲家が封じ込めた宇宙に指揮者が感応してオーケストラが反応している様を感じる。シベリウスを知り尽くした人でなくては成しえない感動的なプレゼンテーション。

 

レイフ・セゲルスタム / デンマーク国立交響楽団

Chandosレーベルの特徴である暖色系のこってりした音色。残響、倍音成分のリッチなアコースティックを持つホールでの音だ。シベリウスの冷涼感はまったく薄いが音響的に心地よい録音の最右翼の一つである。ゆったりしたテンポ、シンフォニックで雄大なスケール、こういう角度から見るとこうなるのかという面白さに満ちるがシベリウス好きには受けないかもしれない。北欧系の人ながらドイツ系に近い音感でユニークではあるが解釈に無意味な恣意はない。

 

エサ・ペッカ・サロネン / スエーデン放送交響楽団

これはyoutubeのビデオなので消えるかもしれないがその前にぜひ一聴をおすすめしたい。サロネンは80年代にロンドンでトゥーランガリラ交響曲を聴いて才能に震撼した。この7番は素晴らしい。速めのテンポで一切の虚飾なくストレートで辛口。しかし要所で十分に熱いという稀有の演奏。エンディングの見事さは言葉なし。改定した演奏など足元にも寄せ付けぬ本物だけの凄みと言うしかない。

シベリウス 交響曲第7番ハ長調作品105

 

シベリウスの7番はイエスタディである

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シベリウスの7番はイエスタディである

2018 NOV 18 0:00:09 am by 東 賢太郎

シベリウスの神々しい7番は最も好きな交響曲の一つで、ロンドンで買ったこのスコアを持って新幹線によく乗った。全曲を記憶しているが、目視で正確にたどるのはとても難しいと思う。というのは、完全な和声音楽なのに精妙かつ意外感のある転調と非和声音がそこかしこに散りばめられていて、絶対音感のない素人耳は難所でどうしても迷子になってしまう。ところが悔しいことにそこがこの曲の魅力なのであって、正解にたどり着くまでくそっと繰り返す羽目になる。そうこう苦労しているうちに名古屋ぐらいにはあっという間についてしまうという寸法だ。

あのトロンボーン・ソロを導く感動的なヴィオラのメロディー、2度目にそれが出てくる2番の終楽章に似た部分から宇宙のこだまのような終結に至る部分は心で何度演奏しても飽きるということがない。いや、気に食わないへたくそな演奏なんかより自分のハートの中で鳴らした方が絶対にいい。

そうやってあのソロのところに来るとホルンでもいいなといつも思うのだが(ブラームスならそうしただろうか)やっぱりトロンボーンなんだとなる。草稿にはこのメロディーに “Aino” と書いてある。奥さんの名だ。彼は山荘の名もそうしたしシューマンと同じことをしている。確かにそれに値する素晴らしいメロディーで、誰も一度聴いたら忘れないだろう。僕は最初これがビートルズの「イエスタディ」だなと思った。

どこがというと最初の「レ」だ。これは楽理で倚音(いおん)というやつで、ポール・マッカートニーが歌う出だし、「イエス」がレで「タデー」が和声音のドに戻るが、このレもそうなのだ。どちらもいきなり倚音で始まるというのが強烈なインパクトで耳に残る。

ちなみに酒豪のシベリウスは7番を書いたころは毎日ウィスキーびたりで「音符を書く手を安定させるためだ」と主張していたらしい。ということは飲まないとペンがぶるぶる震えたわけでむしろアル中なわけだが、それでドがレに行っちまったんだろうか(笑)。ちなみにイエスタディのFの次のEm7は酔っぱらって弾き間違えたら「けっこういいじゃん」になったと知人に聞いた。

7番のこの倚音は、最後の最後でまた響き、またまた強烈なインパクトを与えてくれる。ピアノ譜でこうだ。

この最後のページは何度聴いても心奪われる。レ(倚音)⇒ドと「解決」したと思ったら今度は行き過ぎてシ(また倚音)になり、最後にとうとう運命の最終到達点のドに落ち着くわけである。この安堵感、すべての苦悩を超えて広大な宇宙の「在るべき所」に収まった収束感覚は絶対無比のものだ。こうしてシベリウスは交響曲の旅を終えたのであり、そこから33年も生きたがついに第8番は現れなかった。

 

オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス5-7番を聴く

シベリウス 「アンダンテ・フェスティーヴォ」とフリーメイソン

 

 

 

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シベリウス 交響曲第7番ハ長調作品105

2018 NOV 12 22:22:11 pm by 東 賢太郎

悲愴交響曲を、僕がいろんな人の演奏にどういう気持ちを抱いたかをブログに記録しておこうと思って、週末にたくさん聴きました。しかしこれはなかなか辛い作業だった。あの曲には世を去ろうと決めた人の情念が籠っているからです。それが強い作用を及ぼしてくる。それにすっかり当てられてしまって「もう行きたい所なんかないし、欲しいものも何もない」と思わず家内に口走ったわけです。それは本音なんですが。

ソナーを立ちあげる前にかなりの不眠症になりました。かつてないことだしそもそも生来の閉所恐怖症だから危ないと思ったんでしょう、家内に心療内科に連れていかれた。女医さんが丁寧に対応して下さったのですが、何だったか仕事の質問をされてカチンと来てしまい診察中に席を立って出てきてしまいました。別の医師にかかり、彼はきっと年季でうまくやったんでしょう、なんとかという向精神薬をもらって帰った。それを飲むと病気かとさらに不眠になって絶ったら眠れるようになりました。

あの時そんな状態から救い出してくれたのはエロイカでした。しかしどうも今はそのムードでもない。いろいろ試してぴったり来たのは音楽ではなくて「星座表」なるアプリでした。これを息子に教わって時々眺めてる。面白いですよ、スマホを向けた方向の天空にある星座が実にリアルに出てくるのです。そこで夜に真下(地面)に向ける。当然ですがそこ(地球の反対側)には太陽がある(左)。この瞬間、不思議なことに、足元の地球が消失して宇宙空間をひとりでふわふわ浮遊する感覚に包まれるのです。嘘だと思ったらご自分でお試しください(無料アプリ)。

このふわふわ感は気持ちがいい。太陽の先にはしし座のレグルス、ふたご座のカストール、ポルックス、小犬座のプロキオンが見えて広大な宇宙の「立体図形感」に覆われるのですね。この「見えないけどある感」が五感を刺激してくる。自分の体内にある宇宙と共振してくる感じです。ふと思ったのですが、とても突拍子もない空想なのですが、この「包まれている」「共振している」という感じはお袋の胎内にいたときの感覚なんじゃないか?五感が覚えていてそれが甦ってるんじゃないか?などと妄想が膨らむのです。去年見送ったお袋もこの空間のどこかにいて、やがてまた会えるんだろう、そんな気になってきます。

この感覚にぴったりの音楽がないだろうか?ないものねだりかと思ったが、あるのです、ひとつだけ。ジャン・シベリウスの交響曲第7番。

僕は以前からシベリウスの音楽の奥底にフィンランドの自然だけではなくcosmic なもの、広大無辺、普遍、超自然なものを感じてきました。宇宙(space)とはその名のとおり空間です。とてつもなくでっかい。人間が自然(nature)と思ってるものでなく、人知を超えた、文字にも感覚にもならない、京の京乗ぐらいの数字(見えるどころか誰も想像すらつかない)、それを彼は自然から感知した、空海が洞窟で太陽を見たかのように。それを民にわかる文字(音符)で表した経典、彼の交響曲はそんな性質のものかもしれないと感じるのです。

交響曲第7番でもっとも有名な箇所というとトロンボーンのソロが出てくる場面です。ここの神懸かったご来光のような至福!どんな宗教であれ、天空から神が降臨する場面に聞こえる音楽はこれだと思うのです。ふわふわ浮かんでる宇宙空間で、ふるさとの青い地球の荘厳な姿に出あってもこれが聞こえるでしょうか。

シベリウスは7番に自分の過去の交響曲のエコーを響かせ、とりわけ5番と6番の音を色濃く漂わせています。交響曲第6番で彼はお別れの音楽を書きました(シベリウス 交響曲第6番ニ短調作品104)。そして最後の7番で邂逅(かいこう)の音楽を書いた。邂逅とは人と思いがけず巡り合うことです。誰だろう、初めて会う人かな、でも近づいてみると、よく知っている人だった‥と。

ハ長調のこの音楽では、ハ音(ド)の重力がほかの音を引っ張っています。トロンボーンも二音(レ)から神々しく降臨してきて低いハ音に降り立つのです。そして2度目のソロがやってきて、音楽は二音、そして長い長いロ音(シ)がハ音を周回しつつ、ついに半音あがってハ音の重力に収束して、盤石の安定感、充足感をもって曲を閉じる。なんと神秘的な終結でしょう。

 

昨日ここまで書いておりましたが、本日午後に従兄の訃報があり以上とします。

 

 

(こちらへどうぞ)

シベリウス交響曲第7番の名演

 

 

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N響定期(シベリウス「4つの伝説」など)

2018 MAY 14 1:01:57 am by 東 賢太郎

ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
シベリウス/交響詩「4つの伝説」作品22 ―「レンミンケイネンと乙女たち」「トゥオネラの白鳥」「トゥオネラのレンミンケイネン」「レンミンケイネンの帰郷」
指揮 : パーヴォ・ヤルヴィ
ヴァイオリン : クリスティアン・テツラフ

テツラフは4年前にカルテットを聴いて面白かった。この日のベートーベンも期待はあったが、結果としてやや考えさせられる。プログラムによるとヤルヴィは曲によって異なる「サウンド」を重要な要素と考えるそうだが、ここでは古楽器演奏に近いものだったように思う。管も弦もここというパッセージは強めに浮き出て主張する。ティンパニは皮である。

ところがテツラフのカデンツァは独自なのは結構だがティンパニが入るなど、アーノンクールとやったクレメールほどではないがやはり現代を感じさせる。これが擬古的なオーケストラと調和しない感覚が断ち切れなかった。古楽器オケで伴奏するドン・ジョバンニが革ジャンで出てくる感じとでもいおうか。テツラフは音量があり熱演であったがピッチは甘く、そういう曲でないとしか言いようがない。

シベリウスはなかなか実演がない「4つの伝説」。これは良かった。こっちに時間をかけたのだろう、オケのサウンドはまさにシベリウスではまっている。4曲で1時間近くかかるこの曲は交響曲に匹敵する充実感が得られ、久々にシベリウスを堪能した。親父は十八番であり、パーヴォの2番はあんまり気に入らなかった記憶があるが、これならいい線だ。N響で交響曲をぜひ全曲やってほしい。

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N響・パーヴォ・ヤルヴィのシベリウス2番

2017 FEB 13 13:13:25 pm by 東 賢太郎

指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
アコーディオン:クセニア・シドロヴァ

ペルト/シルエット ― ギュスターヴ・エッフェルへのオマージュ(2009)[日本初演]
トゥール/アコーディオンと管弦楽のための「プロフェシー」(2007)[日本初演]
シベリウス/交響曲 第2番 ニ長調 作品43

 

 
トゥールが面白い演目でした。アコーディオンがはいるクラシックは初めてですが、管とも弦とも音色の親和性があって意外に溶け込みます。音量はマイクで拾っていましたが十分にコンチェルトが成り立つように思いました。シドロヴァ はチャームのある人でアンコールも魅了されました。ぺルトの曲はパーヴォに献呈されたもののようですがよくわからず。

シベリウスは親父もこのオケで聴いたので比べてしまいます。

ネーメ・ヤルヴィのシベリウス2番を聴く

これがあまりにインパクトがあり、こういう家の子は大変だなと思うことしきり。息子は曲想に応じて振幅の大きな表現で、長い音符は長く、急速なパッセージはより急速にと変化をつけますが、どうも後期ロマン派ぶって聞こえてしまう。弦がそれに呼応して熱演してしまうものだから、どうも僕のイメージからどんどん乖離していきました。ff の弦の質感もよろしくない。去年聴いたラハティ響はこんな弾き方はしていませんでしたが音楽は内面からエネルギーを放射していましたね。この路線で息子の全曲を聴きたいとは思いませんでした。終楽章コーダのティンパニ・ロールに g を入れるのは大変に耳障り、勘弁してほしい。ベルグルンドも1回目のボーンマスSOではやっていますがヘルシンキSO、イギリスCOとの2,3回目は d のまま。どうしてスコア通りでいけないのかわかりません。お気に召した方は多そうでしたが、趣味の違いですぐ失礼しました。

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ルロイ・アンダーソン 「そりすべり」 (Sleigh Ride)(その3)

2015 DEC 8 0:00:59 am by 東 賢太郎

LA-Photo-42シベリウスのようなシリアスな曲をききながら僕がルロイ・アンダーソンを愛好するのはどうしてかというと、どっちも和声が抜群に面白いからです。和声フェチとして、シリアスかライトミュージックかは二の次。美人に国籍なし、です。

シベリウスの和声というとあまり語られていませんが、とても興味深い。彼の楽器はヴァイオリンですが交響曲のような構造のロジックを問う音楽ではやはりピアノで思考したのかなと思います。調性が自由なように聞こえるのはドイツ音楽の視点から予定調和的でない事件が数々おきるからですが、それが元のあるべき調に帰還する- ロジックがあるとはそういうことだ- その手続きは見事に計画されています。そのプロセスに僕はピアノ的なものを見ます。

一方のルロイ・アンダーソンはというと、これはまったくもってピアノ的であって、それ以外の楽器を逆さにしても「そりすべり」の転調なんかは出てこないでしょう。ビートルズが奇矯なコード進行を見つけたといっても、それはAとかB♭といった「コード」という名のもとに色彩のくっきりした三和音という原色に固まった和音の連結が風変りだということであって、中華料理のフルコースにフランス料理の一皿が供されてあれっと思ったという風情のものである。

ところが「そりすべり」の変ロ長調(B♭)が咄嗟にホ短調(Em7)に色が変わってしまうあの増4度のマジカルな転調は、B♭の主旋律の伴奏の最初の和音がb♭-aの長7度を含むという輪郭の「ぼかし」が下敷きにあって、しかも最初の2小節だけで2度のぶつかりが5つもあるのであって、原色に混じりの入った、ギターじゃ弾けない「固まってない和音」が前座にあるから奇矯に聞こえないという裏ワザでなりたっています。

しかも楽器法もうまくて、B♭にはスレイベル(鈴のシャンシャンシャン)が入っていてEm7で突然ウッドブロック(馬のパッカパッカ)が闖入し、耳をとらえてしまいます。調がぶっ飛んだ意外感がもっと意外な音で中和されます。Em7はD(ニ長調)の前座だったことがわかると今度はDm7に変化し、それがC(ハ長調)になったと思いきや、それをB♭へ回帰させるために曲頭の前奏がE♭(変ホ長調)を背景に現れる、ここのぶっ飛びも段差がありますが、今度はグロッケンシュピールが可愛らしく闖入して、またまた転調の意外感を消してしまう。しかもEm7のところから裏に入っていたチェロの魅惑的な対旋律がずっと並行してきて意外感なくE♭へいざなってくれる。う~ん、すごい、プロの技です。

この転調、ウルトラC級でドイツ音楽にもフランス音楽にも現れないレア物であり、この曲を「歌もの」にアレンジするとホ短調部分(歌詞でいうとGiddy-yap giddy-yap のところ)がどうしても浮いてしまいます。唐突すぎてポップスとしてサマにならないのです。だからみなここだけ子供の声にしたり、その段差を正当化すべく苦労してます。このアレンジはばっさり切り捨ててしまっています。この女性の太めの声であの転調はズッコケになるとアレンジャーが諦めたのでしょう、主部を半音ずつ上げていくという単調を避ける変化球で逃げています。これはこれで味はありますし、ひとつの解決策ですね。

どうしてそうかというと、声で歌うと伴奏和音の7度のぼかしが聞こえにくいのです。だからギター風に「固まった和音」でB♭からEm7にドスンと落っこちて、階段でころんで尻餅をついたようになってしまう。一方、伴奏が良くきこえるピアノやオーケストラだと「ぼかしの7度、2度」が作用して「にごり」を作って原色イメージが和らぎ、ソフトランディングができる。要はB♭のコードが明瞭でなく、中華料理が中華中華してないのでフレンチの一皿が闖入して驚きはしても、それなりにしっくりきてしまうという風情なのです。しかし、そうはいっても奇矯な転調だから強いインパクトを残すのであって、永遠のヒット曲になっている隠し味という所でしょう。

ピアノで弾いてみるとルロイ・アンダーソンの和声はこうしたマジックに満ちていることを発見しますが、こういう「当たり前に固まった和音」に「にごり」を入れて輪郭をぼかすようなことはギターの6弦で、しかも短2度のような近接音を出しにくい構造の楽器では困難です。ピアノのキーボードの利点をフル活用した作曲であり、ドビッシーが開拓した音の調合法の末裔でしょう。ちなみにアンダーソンの先祖はスェーデン人ですが、グリーグやシベリウスら北欧の人の非ドイツ的な和声感覚に僕は魅かれるものがあります。

andersonニューヨークの楽譜屋で見つけたこの楽譜は宝ものです。アンダーソン代表作25曲のピアノソロ譜です。Almost completeというのがぜんぜんそうじゃなくって、いい加減なおおらかさがアメリカらしいが、たしかにこの25でいいかというぐらい有名曲は入ってます。「そりすべり」はチェロの美しい対旋律がなかったり2手の限界はあるのですが、弾いていると無上に楽しい。ほんとうにいい曲だなあと感服するばかりであります。

 

「そりすべり」はいろんなアレンジが百花繚乱です。気に入ったものをいくつか。

アメイジング・グレイスを歌ったニュージーランドのヘイリー・ウェステンラの歌です。伴奏のギターの和音は手抜きですが、ピッチの合った器楽的な声で転調をうまくこなしているレアなケースです。ポップス的にあまり面白くはないが絶対音感がある彼女の転調の先読みは知性を感じます。好感度大。

カーペンターズ版です。70年代のアメリカの匂いがぷんぷんしますね。カレンの歌は群を抜いてうまい。どう転調してもぴたっとキーが合ってしまう。単に表面ずらでなく、ミとシの具合まで完璧に瞬時にアジャストしてます。この凄い音感とピッチ、どこにボールが来てもミートできるイチローみたいな天性の動物的感性を思わせます。

次、カメロン・カーペンターのオルガン。このひとりオーケストラ、驚異です。

ギターです。いいテンポですね、この人、音楽レベル高いです。

前回のTake 6のアレンジ。これもすばらしい!アカペラも含めて歌バージョンで増4度のホ短調への転調を音楽的にうまくのりきっているのはヘイリー・ウェステンラとカレン・カーペンターと彼らだけでした。この6人の和声感覚は世界最高レベルの洗練をみせています。

最後にアメリカ海兵隊バンド (The President’s Own United States Marine Chamber Orchestra)。うまい!やっぱりこれだ。ウィーン・フォルクス・オーパーのヨハン・シュトラウスです、参りました。

(こちらもどうぞ)

 

ルロイ・アンダーソン「トランペット吹きの休日」 (Leroy Anderson: Bugler’s Holiday)

ルロイ・アンダーソン 「そりすべり」 (Sleigh Ride)

ルロイ・アンダーソン「そりすべり」 (Sleigh Ride)(その2)

 

シベリウス 「アンダンテ・フェスティーヴォ」とフリーメイソン

2015 DEC 6 2:02:23 am by 東 賢太郎

この作品番号のない小曲をご存知の方は多いでしょう。シベリウス・プログラムのアンコールピースとしてフィンランディアと共に定番のひとつですね。

1922年に自宅近郊の製材所(Säynätsalo sawmills)の25周年記念祝賀会のために祝祭カンタータを委嘱されましたがシベリウスは Andante festivo という数ページの弦楽四重奏を書きました。この時まだ56才の彼はその後35年も生きるのですが、以前から書いてきた交響曲第6,7番を完成し、タピオラを書いたほかは抑うつ状態とアルコール依存で作曲ができなくなったのです。

まずはその弦楽四重奏版です。

の曲の素材はポヒョラの娘、第3交響曲を書いていたころ構想していたオラトリオ(Marjatta)に由来するという説もあり、1929年に姪の結婚式で2つの弦楽四重奏団の合同で演奏されており、そこで編曲された可能性も指摘されています。30年ごろから彼は重要な作品を作っていませんが、ラジオで自作の演奏を熱心に聴いていました。しかし当時のスピーカーの音の限界を察しており、ラジオ用には異なる作曲法が必要と考えていたようです。

そこにニューヨーク万博(1939年4月開幕)のための祝賀作品の委嘱が来ました。それは世界にラジオで放送されるため、彼はAndante festivo をラジオ用に異なる作曲法で編曲しました。それが現在広く流布している弦楽オーケストラにティンパニを付加したバージョンなのです。最後だけ使われるティンパニに、当時の乏しい音しか出なかった「ラジオ用」という意図が感じられるように思います。これがその版です。

どなたも容易に気づかれることと思いますがこのト長調の冒頭の旋律はドヴォルザークの新世界第4楽章そのものです(長調にしたもの)。

andante

第2主題にはどこか郷愁を感じる長7度の和声(g-f#)が響きます(赤枠部分)。和声はレ・ファ#・ラ(ドミナント)に移行しますがバスはg(ソ)のまま(オスティナート)であるためです。

andante1

これは第2交響曲の冒頭、T-SD-Dと移行するDの部分の和声(A)とオスティナートバス(d)が衝突しておこる赤枠内のチェロパートのd-c#と同じものです。この長7度がどれほど自然の息吹と陰影を与えているかお分かりでしょうか。

andante2

第7交響曲終楽章の最後の感動的な和音はやはりドミナント(G)の和音にトニックのバス(c)が侵入してこの長7度を形成し、最後の最後に至ってソプラノ(h)がおごそかに半音上がってハ長調で曲を閉じます。シベリウスの作曲の奥義であり、Andante festivo が我々の心をゆさぶるにはわけがあるようです。

ただ、このスコアで僕が最も重要と思う部分はここです。2つ上の楽譜の青枠部分です。

andante3

これがモーツァルト「魔笛」の第2幕の僧侶たちの合唱「おお、イシスとオシリスの神よ」のコーダに出てくる特徴的な和声連結であることは魔笛を記憶されている方ならお気づきではないでしょうか。魔笛がフリーメイソンと関係があることは証明はできませんが可能性は高いと思われます。そしてシベリウスは確実にフリーメイソンであったのです。しかも入会日がわかっていて1922年8月18日、そして Andante festivo となった曲を注文されたのは同年のクリスマス前なのです。

しかもそれは25周年記念祝賀会のための「祝祭カンタータ」だった。モーツァルトが自作の作品目録に記した最後の作品がフリーメーソンのためのカンタータ「我らの喜びを高らかに告げよ」 (K.623)だったのにご注目ください。発注主のサイナトゥサロ製材所(Säynätsalo sawmills)がメイソンだったのではないかと想像したくなってしまいます。JS29という作品番号なしの作品に「The American Miller’s Song」(紛失)というのがあるのですが、ドヴォルザーク新世界を引用したのも気になります。

Jean_Sibelius_1939メイソンのメッセージが刻印された曲をニューヨーク万博に送ったとしたらシベリウスの意図は何だったのか?一篇のミステリーのようになってきました。この万博開催中の1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻、英仏がドイツに宣戦布告して第2次世界大戦が始まっているのもきな臭い。73才のシベリウス(写真)は39年のニューイヤーズ・イヴにこの曲を自ら指揮(フィンランド放送交響楽団)、1月1日に世界に向けてラジオ放送されました。それがこれであり、これはシベリウスが残した唯一の録音でもあります。

テンポはかなり遅めです。びっくりしたのはスコアによれば14小節目からクレッシェンドして f  となり meno で弱くなると22小節目でもう一度 f になるのですが、シベリウスはこの2度目のフォルテを完全に無視してピアノのまま入っています。

ティンパニのトレモロに乗ってサブドミナントの光明をたたえたアーメン終止で終わるこの曲のもたらしてくれる安息感は忘れがたいのですが、僕には魔笛やアヴェ・ヴェルム・コルプスがかぶさって聞こえてくるのです。フリーメイソンが出てくるといかがわしく思われる方もおられるでしょうから書いておきますが、シベリウスの書いた117曲の作品の最後から5番目である作品113は「フリーメイソンのための典礼音楽 」です。

 

(こちらへどうぞ)

モーツァルト「魔笛」断章(第2幕の秘密)

 

モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503

 

 

 

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ヴァンスカ・読響のシベリウス5-7番を聴く

2015 DEC 5 0:00:52 am by 東 賢太郎

シベリウス生誕150年だった今年のご利益でしょう、札響・尾高、ラハティ響・カム、そして今日の読響・ヴァンスカと「交響曲第5,6,7番」というプログラムを3度聴けました。リントゥ指揮でも5,6,7を聴いてますから各曲を1年で4回、特にあまり舞台にかからない6番を4回聴けたのは幸運でした。もうこういうことは人生二度と望めないでしょう。

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ヴァンスカの指揮は雄渾でメリハリがはっきりと付きます。ロマン的な表現の対極といえましょう。5番はピアノとフォルテの振幅が大きく、第1楽章のファゴット・ソロの部分のppからコーダへ向けてのオーケストラのパースペクティブの拡散は見事。彼は音の霧を作るより精緻に音符を刻んでスコアに語らせるタイプでしょう。低音の響かないサントリーホールのせいかコントラバスだけ指揮したりする場面もあり、木管の大事な旋律が金管に埋もれて聞こえなかったり、バランスにはやや問題があった。しかし5番を構造的にどう解釈するかという点においては第1楽章の終結へのアッチェレランドが過度でないこと、終楽章の終結へ向けてはたっぷりした遅めのテンポをとり安易な興奮をかきたてないのが好感を覚えました。

6番の開始は音量をことさら抑えずあっさりと入ります。こういうところがロマン的でない。この曲は主題の論理的な発展、展開というよりエピソードごとのエモーション(感情)の動きを辿るところにエッセンスがありますが、ヴァンスカのいわば楽譜追求再現型のザッハリヒな表現は的を得ていたと思います。終楽章は激情ともいえる強い表現で、失った人の追想がしめやかさでなく激しい感情の吐露で語られます。いままで聴いたことのない表現であり、今日の白眉でありました。

7番は6番のような表現があまり適さない。幻想曲の趣のある曲ですが、あまり理性が勝つと感動が削がれます。トロンボーンソロに至る和声、クレッシェンドはワーグナーを踏襲する観がありますが、ヴァンスカの音作りの感触はリングにおけるブーレーズのやり方を連想しました。それはそれで説得力あるものなのですが、僕の趣味としては先日のオッコ・カムとラハティ響の方が好みであります。

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オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス5-7番を聴く

2015 NOV 30 2:02:08 am by 東 賢太郎

flyer_Lシベリウスの交響曲という7つの高峰を順番に全部、それも4日間で一気に聴くというのはワーグナーのリング体験に匹敵します。今回の生誕150年、本家本元のラハティ交響楽団と名匠カムによるそれは一生ものの音楽体験であり、日本にいながらよそ行きの手抜きがない渾身の演奏に接することができたのは夢のような幸運でありました。

ベトナム出張まえからくすぶっていた風邪がこじれ体調は音楽鑑賞できるぎりぎりの線でありました。昨日は帝国ホテルで安倍首相来賓の某家結婚式に出席しましたが2次会は失礼せざるを得ず、今日も咳き込むようなら断念するつもりでした。幸いなんとかなりそうで、周囲の方にご迷惑をかけないよう装備して初台まででかけました。

まず5番です。ライブですから金管の音程など些細な傷はありますが、この拙文に述べた効果をじわりとかみしめた演奏でした(シベリウス 交響曲第5番 変ホ長調 作品82)。4番の病苦を脱したシベリウスの回帰の喜びはまだ留保があって、それは緩徐楽章の主音の増4度上のトライトーンの不安な響きが象徴します。彼は16羽の鶴が舞って天空に消えるのを見て神に感謝し、この交響曲の終楽章の主題を書きますが、そうした素材のもたらす生への光明と明るさに焦点を当てるのかより内在的な効果に基点を置くかは指揮者の主張です。

カムは後者を強く感じさせ、第1楽章で虚ろなファゴットの部分からコーダへ向けて一直線に音楽は微光を発しつつ熱をおびます。おそらくこの音楽を作曲者と同じ血脈(vein)で理解しないとできないものであり、傷に不満を唱える僕の理性を体が知覚するその熱が圧倒してしまいます。こういう音楽体験を後から文字に書き残すのは難しいことであるのは記憶は頭で考えて再生し言語に変換するからです。聴き終って全身が覚えた感動はもっと原初的なものであって、稚拙なヴォキャブラリーで恐縮ですがサウナ効果とか記しようのない肉体的性質のものです。

6番はこのラハティ響を振ったヴァンスカ盤の直截的な解釈が素晴らしくオケの性能、表現力は証明済です。カムの演奏はさらにおおらかでヒューマンな感情をもりこんだものでした。冒頭の第2ヴァイオリンからヴィオラがからみチェロが加わって悲しい和音が響く。ここに記しましたが、この悲しみという感情の素材は別な音型ながら同じ弦の合奏で交響曲の最後に円環形に回帰するのです。「文字にするそばから陽の光を浴びてどんどん消え去ってしまう悲しみという雪の結晶」です( シベリウス 交響曲第6番ニ短調作品104)。曲尾の虚無感はマーラーの9番に通じるかもしれないという発見を与えてくれる熟達の解釈でした。

7番は今回シリーズ最高の感動的な名演であり、これを聴くことができたことを僕は今年の僥倖の一つとします。ところが残念だったのは、よりによってあの至高のトロンボーンにいたるクレッシェンドで、なんとしたことかあめ玉のチャラチャラが始まってしまい前列の心ある方が咄嗟に後ろを向いて注意された。オケの音が大きくなれば構わないだろうというのはまさしく大迷惑の誤解であり、本当に勘弁してほしい。ホール、主催者はアナウンスするなりチラシを挿むなり、おかしな話ではあるが事前に厳しくウォーニングをすべきでしょう。

この音楽はあらゆる交響曲の中でも、ベートーベンを加えても、人間の精神の営みとして最高度の充足感を与えてくれるものであり、これを書くに至ったシベリウスの心と頭脳のなかで何が起きていたのかは我ら凡人にはかり知れません。この超俗の、しかし我々凡俗の心の奥底まで深く共鳴する奇跡的な音楽!カムとラハティ響の造り出した純度の高い有機的な凝縮された音楽は見事としか書きようもなく一生の思い出となりました。

同じ5-7番のプログラムを組んだ尾高さんもアンダンテ・フェスティーヴォをアンコールにしましたが、シベリウスが自演の録音を残している愛奏曲で7番のあとにそぐわしいと思います。「ある情景のための音楽」も良し。フィンランディアはファンサービスでした。こんな平明な音楽を書いてた人が7番を書くまでの軌跡。そこに4番が在ったわけです。その4番と7番がずっしりと心に残る3日間でした。

シベリウスを愛する聴衆の方々の鳴りやまぬカーテンコールにカムがひとり呼び戻され、いったん楽屋に去った団員を全員舞台に集合させる場面もありました。フィンランドの演奏家の皆様のシベリウスへの真摯な献身には感動しました。心からの敬意と感謝の念に堪えません。

 
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