スッペ 軽騎兵序曲
2023 JUL 25 15:15:43 pm by 東 賢太郎
広島カープが好調だ。立ったり座ったりの熱い応援は「軽騎兵序曲」のファンファーレで始まる。
これを応援団が選んでくれたのはうれしい。またしてもカープとは深い縁を感じるしかない。なぜなら僕が父に初めて買ってもらったクラシック・レコード(EPなる17センチ盤)がこれだったからだ。解説をお読みいただきたい、「現代ソヴィエトのホープ」とあるロジェストヴェンスキーはなんとまだ35才だった!そしてこのレコードを繰り返し聞いていた僕も中学生だった。
欲しかったのは誰もがご存じの「馬のギャロップ」の所をどこかで知っていたからで、ディズニー(https://youtu.be/rNr7nWtkBi8)でも見せられたか父のSPレコードにあったかだろう。僕が小学生あたり(1960年代)のレコード事情だが、歌謡曲やポップスはやっぱり17センチで真ん中に大きな穴があるシングル盤(ドーナツ盤とも)で片面がせいぜい5分ぐらいだった(両面で2曲。A面、B面といった)。A面がお目当てのヒット曲でB面はオマケ(売れない曲)のイメージがあった。EP盤は穴が小さく(LPと同じ仕様)、片面が最大10分ぐらいで、ベンチャーズは両面で必ず4曲入っていた。値段はEP盤が500円だった(ドーナツは忘れたが300台円だったか)。
EP盤のクラシックは中学生ぐらいまであったと思う。小品だけ2曲で売れるなんて今の世では想像もできないが、昭和40年代初頭はそういう時代だったのであり、クラシックにはプレミア感があった証拠だろう(だから僕はフランス料理に喩えてるが、そっちもプレミア感が落ちた現在、この比喩はうまく伝わってないかなとも思う)。上掲の渡辺学而氏の解説を精読していたはずだが、ポップスより学究的な香り、味わいがあるのがまた良かった。それでレコード芸術を購読するようになったが、読むとなると僕は精読しかなく、かような解説文こそ僕のクラシックの教科書であり国語の教科書だったことがトレースできる。ちなみに氏の解説の「ここにおさめられた四曲は」は四曲だと片面20分で、そんなフォーマットはないからLPから切り出したか誤植だ。いずれにせよ装丁はいい加減だったこともわかる。
日本のクラシック・リスナーは楽器演奏でなくこういう経緯で入った人が多くおられるように思うし、僕のブログのようなマニアックなものにおつき合い頂いている皆様は、やはり学究的な香り、味わいを好む性向をお持ちであり、おそらくはそういう職業に就かれておられる方も多いと想像している。証券業などというおよそほど遠い職業に就いた僕を不思議に思われるだろうが、まったくミスマッチな人間だからこの世界をうまく渡れたと思っている。精読したレコ芸は甚大な影響があったはずであり、こうして文章を書くことが文筆業でもないのに何の苦もなくなった。だからこれを口述すればアドリブでいくらでも何時間でもプレゼンができ、政治家と同じぐらい言葉依存である証券業でここまできたから感謝しなくてはいけないし、クラシック作品、演奏を大真面目に精読ならぬ精聴をして大上段から語る文化が衰退しないことを願っている。
フランツ・フォン・スッペ(Franz von Suppè , 1819 – 1895)の「軽騎兵序曲」がA面、「詩人と農夫序曲」がB面というのが僕が買ってもらったもの(下の写真)だ。A、B格差はない(「詩人」もいい曲だ)。定価は450円の印刷の上に500円のラベルを貼って値上げしたことがわかる。今だと5千円のイメージで、いかに嬉しかったかご想像いただけるだろうか。僕は「もったいない精神」が旺盛であるから高いゆえに根(こん)を詰めて精聴したというところがある。単に聞き流すのではなく、学校で授業だから多少は真剣に聴くというのの何倍もの集中力で聴くだけのもったいない精神があった。だから結果として完璧に記憶してしまう。後々までその姿勢だったから頭の中に音のライブラリーができた。だから安ければいいというものではないのだ。「コスパ」はビジネスには良いが文化には敵かもしれない。
当時、我が家の再生装置は安物だった。父はオーディオに興味はなく僕がせがむので仕方なく買った。ポータブルではないが子供が持ちあげて箪笥の上におけるぐらいの軽さであり、横長の箱型で両側にスピーカー、真ん中がプレーヤーという一般家庭に普及したモジュールタイプであった。ステレオ再生はできたから左右の分離はしっかり確認してきいていた。それでベンチャーズばかり聞く日々だったが、音楽の時間に「中央アジアの草原にて」を聴いてクラシックに目覚める。同曲はLP盤でプレゼントされたことはだいぶ前に書いたが、そこに至るまでにベンチャーズの延長線上でほんの数枚だけEP盤に手を出したのだ。その1枚がこれ。僕にとっては歴史的な一品だ。
この曲、さらに縁がある。これを演奏会で聞く事は僕の場合まずないが、偶然に1度だけある。それがウィーンフィルのニューイヤーコンサートだった。そしてそれが、これまたフィラデルフィアで2年間お世話になったリッカルド・ムーティ指揮だったのだから神様が仕組んだのだろうか。その録音だ。
ウインナワルツが苦手なので後半のはじめのこの曲ばかり楽しみだった。自分の拍手も入っていると思うとあの時の素晴らしいムジーク・フェラインのアトモスフィアが蘇る気がしてくる(勝手流ウィーン・フィル考(2))。いま聴くとオペラ指揮者としてのムーティの良さが全開で旋律を表情豊かに歌い場面ごとのメリハリをくっきりつけている。歌劇場楽団であるオケの楽し気な反応にはうきうきするしかない。この曲の最高の演奏のひとつだ。
あまりに有名曲なので黒澤明が「影武者」に使っている。これはさっき見つけてなんとも言えない、言葉も出ない気持ちになった。まあ気持ちはわかるが・・・
曲はこうなっている。
1. マエストーソ、イ長調。2本のトランペットによるファンファーレ。
2. アレグロ、イ短調。ヴァイオリンによる高速な楽句。
3. アレグレット・ブリランテ、イ長調。馬のギャロップ。
4. アンダンティーノ・コン・モート、イ短調。ジプシー風旋律。
5. ギャロップ、そしてファンファーレからコーダになだれこむ。
ロジェストヴェンスキーは僕が初めて聴いた外国の指揮者で、初めて実演で聴いた悲愴交響曲の指揮者で、最後の来日公演(ブルックナー5番)も聴いている、なんというかすごくご縁のある人だった。スッペを振るイメージはなかったしソ連のオケだからバリバリやるイメージがあるが、意外に温和で2は遅めで3も軍隊調でない。聴き比べたこともない曲だから長らくこういうものだと思っていたが、一般的は2,3でメリハリをつけて4で情感を深々と歌いあげるのがスタンダードのようだ。彼はあんまり練習せずに一発録りした感じで弦のアンサンブルも乱れがあるが、これで覚えたのでいま聴いてもこれがしっくりきてしまう。クラシックは「三つ子の魂」が大いにある世界だ。
マニアックに聴くなら4だ。この旋律、第1,2ヴァイオリン(Vn)、ビオラ(Va)、チェロ(Vc)がレガートで弾くがチェロ以外はuna corda(一弦で)と指定されており、低いソをVnは最も低い弦、Vaは二番目に低い弦で弾くしかないから、確かめたわけではないが全旋律をその弦だけで弾いているはずである。とすると後半(fpの部分)はハイポジションになるわけで、その音色の変化をVn、Va、Vcのユニゾンで聴ける曲はレアだから耳を澄ます価値がある。
Vnの最低弦はG線(バッハのアリアが有名)だが、僕にとってはリムスキー・コルサコフの「シェラザード」第3楽章の冒頭(赤枠)だ、これぞG線の蠱惑であって何度きいてもゾクゾクする。
D線で始めておいてぱっと音色を変えるところが実にニクい。この瞬間にシャリアール王でなくてもシェラザードさんの妖艶な千夜一夜物語にぐぐっと引き込まれるではないか。リムスキー・コルサコフは「管弦楽法原理」(Principles of Orchestration)を著した大家だが、その技術は管楽器の用法で例示されることが多い(W・ピストンの「管弦楽法」など)。しかし僕はこの地味で何でもないように見える sul G. こそ彼の大家の証しだと思っており、スッペが旋律の東洋的なムードを高めるためにG線を使ったことも同様のセンスであり、スッペの方がずっと早いことに注目したい。
最後に、youtubeにあるものを聴いてみたが、完成度が高い録音というとこれだと思う。カラヤンが1955年にフィルハーモニア管と録音したEMI盤だ。69年にベルリン・フィルと再録しているがややオケを流した感があり、僕はこちらを採る。
カラヤンはこういう曲でも手を抜かない。すべてのパートがコントロールされ磨き抜かれていて1~5のバランス感覚もプロ。2は速すぎず、3はショルティ(ウィーン・フィル)など超特急のアレグロだが楽譜はアレグレットでカラヤンはそれである。1度目は節度を保ち2度目の全奏でパワー全開、抜群の切れ味を見せもはや快感だ。コーダで伴奏のトランペットをクレッシェンドする処など楽譜にはないがまさにこれ。文句なしだ。
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僕が聴いた名演奏家たち(ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー)
2018 AUG 4 16:16:39 pm by 東 賢太郎
6月の読響定期。サントリーホール、入り口に見慣れぬコーナーがあり、近寄るとロジェストヴェンスキーさんの写真が目に入りました。去年のあの凄まじかったブルックナー5番シャルク版のポスターもある。あれ、また来るのかな?まずい、買ってないぞ。いやいや、そんな話はきいてない、指揮棒やスコアが展示してあるし、そうではないぞ、まさか、まさか・・・。嫌な予感がしてネットを検索し、最悪のニュースを知りました。
恐れていた日がいよいよやってきてしまった。僕がクラシックにめざめた中学のころに大家~中堅だった指揮者は本年6月16日のロジェストヴェンスキーさんの逝去をもってすべて故人になったということです。巨星墜つ。同世代のクラシックファンの皆さん、大家の時代の終焉です。
若い皆さん、いま大家である小澤、メータ、ハイティンク、プレヴィン、レヴァイン、インバル、ムーティ、ブロムシュテット、デ・ワールト、デュトワ、シャイー、ラトルらは、当時はまだまだ小僧か青二才の扱いで、一部の人は極東の島国ではレコード市場の表舞台に現れてもいなかったのです。
高2だった1972年に、夢に出るほど没入していた悲愴交響曲がどうしてもききたくて、清水の舞台から飛び降りる心持で高価なチケットを買ったのがロジェストヴェンスキー / モスクワ放送交響楽団の来日公演でした。プログラムは紛失し前半の曲目もまったく覚えてませんが、今はなき渋谷公会堂だったことは確か。そこで「海外オーケストラ来日公演記録抄」というブログを拝見すると、これだったことが判明しました。
5月27日(土曜): 渋谷公会堂
チャイコフスキー / ピアノ協奏曲第1番 (Pf・ヴィクトリア・ポストニコワ)
チャイコフスキー / 交響曲第6番
これぞ僕が人生初めて聴いたオーケストラの演奏会でした。行った理由はもう一つあって、中学生のころ父に買ってもらったスッペの「軽騎兵序曲」と「詩人と農夫」のEP盤(右)が1万枚あるレコード/CDの記念すべき最初の1枚でその指揮者がたまたまロジェストヴェンスキーだったからです。初物づくしの指揮者でした。
高2の5月27日というと僕は硬式野球部で夏の大会予選に向けて投げまくって故障した頃でした。我慢してましたがやがて激痛で右ヒジをまっすぐに伸ばせなくなりました。鍼灸師、電気治療院に通いましたが治癒せず、背番号1番から14番に降格された絶望のときです。クラシックという違う道の喜びを見つけたのか偶然そうなったのかは覚えてませんが、運命だったと思うしかありません。
後の欧米赴任時代にはロジェストヴェンスキーのライブを聴いた記憶はなく、もっぱら彼はレコード上の大家でした。スヴェトラーノフと違い独奥系レパートリーのイメージが薄く、交響曲がプロコフィエフとシベリウスの全集、シュニトケ2、3、4番、ミヤスコフスキー1,2,5,22番、マーラー5番、ブルックナー5、8番、チャイコフスキー4,6番、幻想、ショスタコーヴィチ5、12番、グラズノフ2、6番、あとラヴェルのダフニスを買っていました。
ライブでは帰国してから読響で何度か。奥さんとのR・コルサコフのP協、チャイコフスキーのイオランタなんて珍しいものも聴かせていただいたし、この人はどんな複雑な楽譜でもすぐ読めて解析できるんだという鮮烈な印象があります。なんといっても火の鳥と春の祭典は、なぜこれを録音しないんだと不思議なほどの深みある演奏でした。そして昨年のブルックナー5番(右)。その前のショスタコ10番を仕事でパスしていたのでこれが聴けて本当に良かった。芸劇で5月19日、母が亡くなる10日前でその前日も病室で泊まりでしたが、この演奏は衝撃でした。きっとこれは母が行かせてくれたんでしょう。
僕のクラシック音楽史は彼の「軽騎兵序曲」によってはじまり、これによって幕を閉じました。思えばウィーンで初めて聴いたニュー・イヤー・コンサートは軽騎兵で始まり、やっぱり最後のコンサートになったオイゲン・ヨッフムの演奏会もブルックナー5番でした。
「エースと4番は育てられない」(野村克也監督)。そう思います。名指揮者もそうでしょう。長らくお世話になり、たくさんの楽しみをいただきました。心よりご冥福をお祈りします。
(PS)
1966年8月21日、ロイヤル・アルバートホール(プロムス)でのライブ。ここに書いた1972年の東京公演はこうだったのかと推測する演奏。人生初めて聴いたオーケストラの演奏会で何もわかるはずないが打ちのめされて帰宅したのだけがうっすらと記憶に・・・。
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