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カテゴリー: ______ストラヴィンスキー

音楽にはツボがある

2017 AUG 27 13:13:45 pm by 東 賢太郎

音楽を聴いて感動するとはどういうことか?これをもう50年近く考えてきたように思う。空気振動という無機質なものから有機的なものを感じるのは不思議で仕方ない。それをいうなら味だって舌の上の無機質な化学現象だ、同じではないかと思われるかもしれないが、味は食材を選別する生きるための知覚だ。動物だって感じてる。しかし音楽は生きるためには不要で、人間だけが知覚できるのだ。

感動は「こころ」で生じる。というより、脳のどこで生じたかわからないので「こころ」という場所をつくって納得している。それは自分自身の有様だから見えない。自分とは鏡に映った顔のことであって、世界でただ一人、自分の顔を直接見ることができない人間は自分なのだ。夏目漱石が円覚寺に止宿して管長釈宗演老師に与えられた公案「父母未生以前本来の面目」を雑誌で読んではたと膝を打ったのは、そうか、こころは鏡に映らないが、自分が空っぽになれば見えるかもしれないと思ったからだ。

ところが困ったことに、空になるには僕の場合「音楽に入ってしまう」のがベストの方法なのだ。なんのことない、音楽に響く自分のこころの有様は音楽を聴くとよくわかるぞというどうどうめぐりになってしまうのである。そこで、先祖から授かった心の空間には生まれながらに響きやすい「ある特定の波長」があり、それに共振する音楽だけが深く入ってくる、どうもそう考えるしかなさそうだと思い至った。

どうしてそれがプリセットされてるのか、生存に関わる何のためにか、それはわからない。神はサイコロを振らない(アインシュタイン)なら何か意味があるかもしれないが、未だ人のこころの深奥の闇だ。闇にサーチライトをあてて何も見えないなら、響いてくる空気振動のほうから攻めてみようというのは科学的な態度ではないかと考える。しかも、こころを共振させるエネルギーを与える側は空気分子、つまり即物的な物体だから分析可能である。

高校1年のときそこまで考えたわけではないが、1年分の小遣いほど高かった「春の祭典」のスコアを神保町の輸入書籍店で買った。そして、穴のあくほど、興味ある部分を「調査」した。音楽学者のするアナリーゼの真似事ではない。あれは誰の何の役に立つのかいまだにわからないからまったく興味がない。僕のは物理学者が物質を原子に解体して原子核、電子という物質の最小単位を見つけ、もっと解体できるのではと疑ってさらに小さな単位である陽子と中性子を発見し、陽子・中性子はもっと分解できないかと調べるのによほど近い。

習ったこともないピアノに触りだしたはそこからだ。理由はただ一つ、ラボラトリーの実験器具として必要だったからだ。たとえば「何だこの怪しい音は?」と思った「春の祭典」第2部の冒頭はこころが共振するのを感知した「ツボ」であった。オーケストラスコアは複雑でわからなかったが、ピアノに落とすとこれだけのことだった。なんと便利だろう!

この「ツボ」が自分のこころを掻き立てるのは強力なレシピである「複調」というものの作用あるでことを知った。しかし両親がこんな音楽を聴いていたことはなく、複調を楽しんでいた形跡は皆無だ。ということは、僕の共振は、まさしく両親が生まれる前に由来があるということになるではないか。ここで禅僧の説く「父母未生以前本来の面目」が出てくるのだ。

そして、これが大事なことだが、前回ベルクのソナタの稿で書いた演奏者との超認識的な共感はほとんどが「こころ」にプリセットされた「ツボ」でおこるのである。逆に言うなら、ツボで何も感じてない演奏家は別の惑星の人であって、時間もお金も費消するクラシック音楽でそういう人の演奏に付き合うのはコストパフォーマンスが悪いという結論になる。僕の好みというものは、意識下でのことではあるが、万事そういうプロセスを経てできているということがだんだんわかってきた。深奥の闇にサーチライトがあたってきたのだ。

それなしにどのレコードがいいかと議論するのも時間の費消だ。カネはかからないから暇な人だけに許される大衆娯楽である。皆さん「自動車」といって、唯一絶対の自動車はないから知っているのは実はトヨタでありベンツなのだ。同様に皆さんの「第九」とはカラヤンなりフルトヴェングラーのものだ。ベンツしか知らない人にトヨタの良さを説いても無駄なように、第九はフルトヴェングラーと思い込んでいる人にカラヤンはいいよと言っても難しいだろう。つまり方法論なき批評は白猫、黒猫どっちが好きかと同じであって、大の男がまじめにやるものとは思わない。

具体的にお示しする。第2部冒頭の譜面をどう音化するかはその人の問題だ。楽譜通り淡々とやってもいいが、この部分になみなみならぬ関心と感応度を示し、「こころがふるえている」という特別なメッセージをこめてくる人だっている。僕はピエール・ブーレーズがここの裏でひっそりと鳴るグラン・カッサの皮の張りを緩め、ティンパニとは明確に区別のつくボワンとした音色でやや強めにドロドロドロ・・・とやる、それを聴いて背筋に電流が走ったのを忘れない。

音でお聴きいただきたい、これは高1の時に買って衝撃を受けたそのLPからとった。この後にカセット、米国盤LP、CD2種、SACDなど出たものは片っ端から比べたが、このLPを上回るものはない。譜面の部分は16分53秒からだ。

ブーレーズのこころがこの複調部分で振動し、それを伝えるべくオケの音を操作し、その物理的波長が空であった僕のこころに入り、その空間の固有の波長に共振した、だから僕は電流を感じた、という風に理解できる。

それは僕も彼も、共振する波長をこころの少なくとも一部分に共有していることの証左だろうという推論が合理的に成立するのであって、それだけで彼の指揮したもの、作曲したものは全部聴いてみようというモチベーションに発展する。結果的にそれは正しくて、ブーレーズの指揮したバルトーク、ラヴェル、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクによって僕はさらなる未知の領域へきわめて短時間のうちに一気に辿り着くことができた。僕にとってブーレーズは数学で満点が取れるようにしてくれた駿台の根岸先生みたいなものだ。この春の祭典が嫌いだ、カラヤンの方が好きだ(何らかの確たる理由で)という方もいるだろう。それは先祖伝来のこころの波長が違うのだから必然のことで、そういう方はカラヤンのレコードをどんどん聞けばいいだけだ。

ブラームスの第2交響曲、シューマンのライン交響曲、ラヴェルのダフニスとクロエ、シューマンのピアノ協奏曲など、ブログで演奏につきあれこれ書いた曲はラボラトリーでさんざんピアノ実験済みでチェックポイントが確立していて、例えばブラ2の最後でアッチェレランドする指揮者はブログで全員ばっさり切り捨てている。曲の波長を感知する重要箇所であり、そこをそうしてしまう人の波長には微塵も共振しないからだ。ちなみに、されると一日不愉快だから、ブラ2のライブは絶対にいかない。

こころの波長は十人十色だ、僕の好き嫌いは無視していただきたい。お示ししたいのは結論ではない、プロセスだ。こう鑑賞していくとクラシックは簡単ですよというケーススタディだ。「誰の第九がいいですか?」の類がいただく質問の最上位だ。「それはあなたしか知りません」がお答えで逆に「第九はなぜ好きですか?」「どこがジーンときますか?」と尋ねる。「あそこです」。これが返ってくれば完璧だ。僕になどきかず、ご自分で探すことができる。

 

メシアン「8つの前奏曲」と「おお、聖なる饗宴よ」

ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

クラシック徒然草-モーツァルトは怖い-

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メシアン「8つの前奏曲」と「おお、聖なる饗宴よ」

2017 FEB 2 11:11:07 am by 東 賢太郎

僕がメシアンに興味を持ったのは音と色彩の共感覚への関心からです。以前にブラームスのクラリネット・クインテットの稿で書いたものですが、

「僕の色覚が他の人と共有されていないのであくまで自分が知っている色としての話になるが、レ(D)の音(これをブラームスのヴァイオリン協奏曲の出だしの音と覚えている)はオレンジ色、 ミ♭(E♭)の音(これをシューマンのラインの始めの音と覚えている)は青緑色のような気がする。こういうのを共感覚と呼ぶらしいが、12音のうちこの2音しかないからそういうものではないだろう。ただニ長調、変ホ長調にはその色がついて見える。 ニ長調の並行調であるロ短調を主調とするこの五重奏曲はクラリネットの質感(クオリア、これも赤色系の暖色だ)によってオレンジ色が増幅されて感じる。それがこの曲特有の粘着質のコード・プログレッションのクオリアを増幅して、こちらの気分と体調によっては誠に強い効果を及ぼしてくる。第2楽章はところどころで鳥肌が立っては消え、平静な鑑賞ということがかなわないことがある」

ということがあって、僕はこの五重奏を名曲と思いながらどこか敬遠してしまっているのです。「コード・プログレッションのクオリア」というのは非常に強い心理作用があって、正月に整理していた書庫から大昔に自分で作曲した楽譜が出てきて、書いたことも完全に忘れていたのを弾いてみると「強い作用」がある。そういう、ある意味客観的に、まったく恥ずかしい話なのですが和声の化学変化の発見メモとして自画自賛の心理になっています。

メシアンが子供のころクリスマスにもらったドビッシーの「ペレアスとメリザンド」のスコアをボロボロになるまで読み込んだのは有名ですが、このスコアは僕も尋常ならざる何ものかを感じており、このビデオでメシアンはオペラ冒頭主題を二カ所弾いて最初を「灰色がかった紫」、二つ目は「青みがかったオレンジ」といっています。貴重な証言です。

青緑色の変ホ長調の曲を僕は異常に好きであり、モーツァルトが39番をニ長調で書いていたらどうだったろうと思いますが、恐らくそういう理由で半音低い古楽器のオレンジの39番は忌避しているわけで、同じ評価はしなかったかなと思います。ブリュッヘンは同曲の尊敬できる解釈者でしたが、それが理由で実演をあんまり集中して聞けなかったのが残念でした。

「トゥーランガリラ」、「彼方の閃光」になぜ妖しい魅力を感じるかというと色彩の嵐を感じるからです。前者の生々しいライブをロンドンで聴いて「脳に電極をさしこまれて色を見る感じ」とつぶやき、先輩が「おい、こわいな」と漏らしたのを覚えています。そうとしか表現できない感覚があって、そういう音楽はメシアン以外にいまだに出会っていないのです。

彼の発想の根源にドビッシーがあるのが興味深い。プレリュードⅠ・Ⅱ巻は万華鏡のような色彩の嵐ですが、その脈絡でメシアンを聴く、つまり三和音の耳を断ち切って空虚な頭で色だけを追うとだんだん違う世界が見えてきます。少々の慣れはいるのですが、とにかく聴き込めばいい。ここへ至ると豊穣な果実が得られるのは驚くばかりです。

ブーレーズはメシアンの弟子でその色彩を受け継ぎますがルネ・レイボヴィッツが指揮したシェーンベルクの木管五重奏曲作品26を聴いて衝撃をうけセリーに入っていきます。両者が合体してル・マルトー・サン・メートルができた。アフリカ、ガムラン、日本のスパイスが混入するのもドビッシー、メシアンの末裔ゆえですが高等数学をやった感性で独自の異界の色彩へと進みます。

末裔が出たのは彼らの色彩を技法化するメソドロジーに普遍性があったからです。それをお示しするのが以下の若書きの2作品であります。

メシアンがプレリュードのスコアからくみ取った色彩、彼が受け取った「強い作用」の痕跡はまずこの20才の作である「ピアノのための8つの前奏曲」に残っています。第1曲にはペレアスが聞こえるのが興味深い。

もうひとつ、ドビッシー夜想曲に「楽器」として女声が使用されるように声のクオリアは両者の和声表現に好適に思えますが、代表作にそれほどは使われなかったのも面白い点です。ドビッシーの歌曲とペレアスは音韻(フランス語)と一体化した独自のものですが彼自身それ以上は踏み込まずシェーンベルグがピエロで画期的な新領域を開きました。

メシアンがペレアスの詩的コンテクスト、音韻にどこまで反応したかはフランス語がわからない僕には不明ですが、オルガンを楽器とした点で違う道を行った彼には声はピアノ、打楽器と同様に単色の楽器であり、神性の領域ではむしろ不要だったと推察しております。

29才の作である「おお、聖なる饗宴よ」(1937)はドビッシー「シャルル・ドルレアンの3つの歌」の豊饒な和声の世界がエコーしてきこえます。メシアンの和声感覚の個性が声だときわだって感知できるのは非常に興味深く思います。

この2作はパリで進化した「色彩の系譜」の原点に当たるものとして注目しております。ここからセリー、偶然性等の技法の進化に囚われず色彩を極める作法が出なかったのは不思議なことです。それだけメシアンの天才が抜きんでていたということでしょうが、キリスト教の神の法則の支配に必ずしも服さない日本人、たとえば武満がそれに近かったでしょうが、その系譜が栄える可能性を十分感じます。まだ美しい音楽がそれで書けそうな気がするからです。

(ご参考)

メシアン トゥーランガリラ交響曲

ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

ストラヴィンスキー バレエ・カンタータ 「結婚」

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N響定期 「春の祭典」と「花火」に驚嘆

2016 OCT 16 1:01:10 am by 東 賢太郎

なぜ驚嘆したのか?は少々のストーリーがございます。

昨日、SMCメンバーである作曲家の唐澤宏毅氏が拙宅に来てくれました。氏は高校からオケ部(ヴィオラ)であり、音楽への情熱がそのままプロの道に続いて大活躍されているのはうらやましい限りです。演奏会でストラヴィンスキーの交響曲第1番をやったら面白かったそうで、我が家で「春の祭典」をぜひききたいというリクエストがあったのです。おたがい時間が合わず、たまたまこの日になりました。

氏は僕を「おじさん」と呼んでいて、僕のほうはひろきクンであります。というのは氏はウチの子供たちと同年代ですが、親のフランクフルト駐在が重なっていて、小学校もいっしょで両家を行き来して遊んでいた坊やだったのです。みんなまだ幼稚園か1年生ぐらいだったかな。そこで生まれた長男は1,2才の赤ん坊だったから、遅れてイタリア料理屋に現れるとびっくりでした。

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みんなでわいわい食事を終えて(僕は酔っぱらって)家に戻り、さっそくピアノを弾き音楽の話に没入です。このところ滅茶苦茶いそがしく神経がすり減っていて音楽という気分でもなくなっていたのであり難かったですね。これが始まるともう仕事は忘れてます。

10時を回ってましたが地下というのはありがたく、まずはビル・エヴァンスのサンデイ・アット・ザ・ヴィレッジバンガードから(これがいいんです)。そしていよいよ大音量で春の祭典(こういう場合、MTトーマス/BSOが定番)。最初は「生贄の踊り」だけ。どう、いいだろ、はじめからいく?となって当然のごとくやっぱり全曲で。あとはアンセルメのダッタン人、ツィマーマンのショパン(バラード1番)、カーペンターズのSACD(ここにいたると当方もピアノでセッション参加)。

そうしてついでに僕がシンセ演奏したバルトークの管弦楽のための協奏曲の第5楽章も。「いい出来でしょ?」と自画自賛には「すごいオタクですね」とのご評価?をいただきます。彼のプロ仕様のPCは容量も何百倍だしシンセの楽器音源の種類もすごく音色も完全にテーラーメード、僕の石器時代のMIDIプログラムを最新鋭のモデルにアップロードできるか?死活問題なので「やってみましょう」とのご返答は何より心強い。

しかしいろんな人がここで音をきいて遊びましたが彼ほど(今日はもう眠れませんと)感動した人はひとりもいませんね。あのまま夜明けまで行けましたね。やっぱり作曲家だ。こんなに喜んでいただければこっちも本望というもの、よかったです。近くに引っ越してくるそうで、この地下室はスタジオ代わりに使っていいよということに。

無名だったストラヴィンスキーがディアギレフに見いだされたのは「花火」という4分で終わる曲だったんだ、それで火の鳥を頼まれて、ほぼ同時にペトルーシュカと春の祭典もできたんだよ。彼は27才だったんだ。「そうですか、おれ27ですよ、いま。やばいすね」「そうさ、やれやれ、おもいっきり」こんな会話があって、こっちもエネルギーをもらい、ガスが満タンになって夜中におひらきとなったのです。

そして翌日のきょう、N響定期に出かけて行って曲は何かな(毎度のごとく、事前には知らない)とプログラムを開くと、これがなんと「春の祭典」と「花火」だ!もう運命の冗談としか思えない。

いや、ときどき僕はこういう不思議なことがあるんです。新世界や未完成じゃないんです、花火なんて超マイナーで何年に一度もやらん曲で、僕といえども実演は50年聴いてきて初めてです。びっくりでした。ひろきクンは大物になれるぞ。動画のほうもぜひいっしょにやろう。

 

 

 

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クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典―

2016 OCT 5 19:19:08 pm by 東 賢太郎

故ネヴィル・マリナーのバッハ、モーツァルトが「おふくろの味」と書いたが、もっとひろく、クラシック音楽全体のそれはというとやっぱりこれ、ピエール・ブーレーズの春の祭典CBS盤であり、お固く言うならこの曲の「イデア」である。

それがストラヴィンスキーのイデアかどうかは不明なので「完璧」という言葉は使えないが、この1929年の自演を聴くと彼はやりたかったこと(つまりこの演奏)をほぼ正確にスコアに記号として書いている(細かく言えば大太鼓がティンパニだったりはあるが)。

とするとブーレーズCBS盤はそのスコア情報のテンポやダイナミクスをより「彼なりの高次元」にリファインしたものとは言えるように思う。

この「彼なりの高次元にリファイン」するという行為は、すべての解釈者(演奏家)が直面する難題だ。バイエルを弾く子供でも音にする以上は自分のテンポや強弱で「解釈」はしていることになる。かように演奏家は常にフィルターとなっているのである。

ピアニストのホルヘ・ボレが「自己流解釈者」との自分への批判に対して「作曲家の創造行為への敬意を払いつつ、彼の全作品を深く学んだうえで、自分のフィルターを通じて咀嚼し演奏する表現者」を是としているが、僕はこの意見に賛成だ。

問題は「彼の全作品を深く学んだうえで」が欠落するケースが甚だ多いというだけのことだ。彼の交響曲やカルテットをまだ知らないA子ちゃんが発表会で弾いた月光ソナタが至高の名演と評されることは、音楽は好みに過ぎないというリベラルな立場からは別に構わないことだろうが、そう評価する人の音楽的素養の問題としては議論されうるだろう。

音楽を語るという行為に商業的価値があると僕は思わないが、ソムリエや口うるさいグルメの存在がワインや料理人の質を高めるような作用を演奏行為に及ぼすのだという意見には賛成である。そして、ときにワインや料理の方が一歩進んで客の舌にチャレンジしてくることだってある。

ブーレーズの感性でリファインされた春の祭典はその一例であり、驚いた客の方が百万もの言語を費やしてその味の新しさを評価、論考したものだ。その末席に高校生の僕もいたのであり、味を言葉に置換する方法を覚えた。あらゆる文化や芸術はこうして言語によっても伝承される。それを包括した次元で演奏は評価されるが、その言葉は評価する人間の評価として吟味され、言語の伝承のほうのクオリティも担保されていくのである。

ではリファインをストラヴィンスキー自身が強くNOと評価したら、そのことはどう評価されるべきなのだろう?カラヤンの64年盤でそれがおきたのは有名だ。この手慣れた如くに滑らかな展開は現代では違和感がないと感じられる方が多いのではないかと思うが、作曲家は気に入らなかった。それがバイアスとなってこの演奏を評価しない人が多いが、そんなことはないこれはうまく弾けた演奏のひとつだ。生贄の踊りの金管に耳慣れない和音があるが、カラヤンでない人が現代のコンサートホールでこれを聞かせれば大層な名演と喝采されることは想像に難くない。

この曲の創造主に音楽的素養の議論をふっかけるのは粗暴というものだ。版権、印税の問題でもめた影響を指摘する人もいるが、きのうソナーHPに書いた広島カープ球団の内幕みたいに表舞台には見えないものはどんな世界にもある。演奏頻度は高くなかった64年当時(ブーレーズ盤の5年前)に演奏者が手慣れていることは考え難く、カラヤンの譜読み力とベルリンPOの技術がいかに高次元にあったかに驚いた方が妥当な態度だろう。ストラヴィンスキーは想定もしていなかった「手慣れ感」「美しすぎ」に抵抗を覚えたのではなかろうか。いまはこのレベルが当たり前とするなら、演奏解釈というものはそれ自体が「進化」するという命題の勝利と考えるのがいいのだろうか。

ブーレーズの演奏解釈がどこから進化してきたか?CBS盤にはお手本があると書いたら天下のブーレーズを冒涜したことになるだろうか?

僕の憶測にすぎないが、彼の師匠であるルネ・レイボヴィッツが1960年にロンドン・フェスティバル管弦楽団という実態不明のオケを振ってCheskyレーベルに録音したものを聴いて、僕はそう結論せざるを得ない気持ちになった。これは、驚くほど、コンセプトがブーレーズ盤に似ているのである。

以下、CDを聞き直しながら書き取ったメモをそのままのせる(青字、比較対象は記憶にあるブーレーズCBS盤である)。

61xntkbuwvl序奏、ホルンのdがシンクロしてしまっている。心もちブーレーズより遅いが演奏のコンセプトはそっくりである。木管合奏としてミクロに視点を当てながら全体は嵐の前の静かさと緊張があり倍音に富む。

若い娘たちの踊りのテンポはほぼ同じだ。そっくり。

誘拐はやや遅いが管弦のバランスはこれまたそっくりだ。春のロンドは極少し遅いがバスドラの活かし方が同じ。シンバル、銅鑼はかなりおとなしい。

敵対遊戯 ごく少し遅いがティンパニの出し方が似ている。ホルンの和音による旋律的部分もそっくり。大地の踊りはテンポほぼ同じ。

第2部序奏、心もち遅いがシェーンベルグっぽい、似ている。トランペット交差、音が半音高い、アクセントがつくところは全く違う。これはスコアからは変だ。

アルトフルート奏者はいつも遊びが過ぎて気になる。生贄の踊り、ティンパニが違う。オケが乱れる、かなりへた。最後のティンパニが一発余計に鳴る。

ブーレーズより速い部分は一つもない。

祭典フリークの方はじっくりお聴きいただきたい。

この解釈をさらにリファインして高性能のクリーブランド管に教え込んだのがCBS盤だというのが僕の仮説だ。レイボヴィッツはクールで通している生贄の踊りが終結に向けて一糸乱れぬまま加熱するなど、アンサンブルの精度へのこだわりはブーレーズの専売特許ではある。祭典フリークの方しかご関心はわかないかもしれないが・・・。

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

 

(追補)1963年6月5日、カナダ放送交響楽団を振ったもの。第2部序奏のあと現れる2本のトランペットによる主題提示で第2トランペットの第2音が半音高いのを除くとCBS盤のテンポ、コンセプトに近い(ほぼ同じ)。ここからそれまで変化がなくレイボヴィッツ盤の3年後に解釈が確立していたことがわかる。

 

 

 

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モーツァルト「魔笛」断章 (私が最初のパミーナよ!)

2016 MAY 18 0:00:35 am by 東 賢太郎

 

「僕が無駄口をたたいたすべての女性と結婚しなければならないのだとしたら、僕は200人もの妻を持たなければならないでしょう」

(ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

 

すばらしい。孔子にきかせて論語に入れてほしかった。これは親父にお前は女に軽いだらしないと叱責され、彼一流の知的なレトリックで反論したことばで別に200人オンナがいたわけではないのですが、なんでもよかった数字が100でなく200になる豪快なところが実に大物でいいですねえ。舛添都知事は見習った方がいい。アウトプット・パワーがない普通の男はせいぜい20だろうなあ、それでも立派に同じ意味だし。

モーツァルトの女性関係は こんな本ができてしまうぐらいでした。

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「苦悩と困窮のなかで早世した薄幸の天才」なんて像は後世の狂信的なファンが「そうでなくっちゃこの私の偶像(アイドル)にふさわしくない」と祭り上げたもの、自分がかわいいための像です。彼は貴族を得意客としていた、つまりそういう自意識とプライドのかたまりみたいな種族の人間をこそ音楽でうならせる達人であり、彼らからカネを無心する営業の天才でもありました。

実の彼はというと、弟子は客である貴族の令嬢や奥方であって、浮名の連続。そういうセレブ女にとって、ダンナが称賛するオペラのヒットメーカーでピアノの超絶技巧的名手でカネばらいもよく、如才ないジョークを飛ばせてバクチ好きのちょいワル男は魅力があったのでしょう。風采はあがらないがカラオケとギターの並外れた腕前でモテてしまうプレイボーイに近かったと思います。

そんなモーツァルトの女性のうちで僕が特にかわいそうと思う人が二人います。

一人目はマグダレーナ・ホーフデーメルです。

モーツァルトが死んだ日から5日目のウィーンで猟奇的な事件がありました。最高裁書記官ホーフデーメルが(モーツァルトの子?を)妊娠中の妻を殺害しようと企て、剃刀で妻の顔と頸に切りつけ、そのあとで自殺したのです。死ななかった彼女は出産したが、「その子ヨーハン・アレクサンダー・フランツがヨーハン・ヴォルフガング・アマデーウスの名とフランツ・ホーフデーメルの名とを持っているのは、はなはだ意味深長である」(アインシュタイン『モーツァルトーその人間と作品』浅井真男訳、白水社、p.109)。

そして二人目が、今回の主役、アンナ・ゴットリープです。

魔笛のパミーナのアリア「ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが」  (Ach, ich fühl’s, es ist verschwunden)はアンナに書かれた曲でした。

350px-AnnaGottliebColorDetailまじめなタミーノに話しかけても口をきいてくれない。「しゃべるな」という試練の最中なので仕方ないのですがパミーナはそれを知らない。そこで愛想をつかされたと思い歌うのがこのアリアなのです。魔笛の中では唯一、シリアスで悲痛な感情のこもったト短調の音楽です。

パミーナ役を17才で初演したソプラノがアンナ・ゴットリープ(左、Anna Gottlieb、1774-1856)でした。フィガロのバルバリーナ役の初演も12才でしており、モーツァルトのお気に入りでカノジョだったともいわれます。本当にそうだったのか生涯独身で、彼の死後すぐにウィーンを去ってしまいました。

その後レオポルドシュタットの劇場で歌いますがナポレオン戦争で休場してからは声が衰え、最後は老け役となって舞台を去ります。年金がもらえず生活は困窮しますが、彼女が「最初のパミーナ」だと知った新聞がキャンペーンを張って資金を集め1842年にザルツブルグで行われたモーツァルト像の除幕式に参加しました。そこに現れた彼女は周囲に「私が最初のパミーナよ!」とまるで歌劇場の聴衆に告げるかのように、モーツァルトと同様の称賛を受けてしかるべきであるかのように叫んだと記録されています。82才でウィーンで亡くなった彼女は、モーツァルトと同じ墓地に埋葬されたのです。

このビデオは僕の好きなルチア・ポップです。彼女はパミーナがあってますね。夜の女王はどこかコロラトゥーラの軽さがないのであのテンポなんでしょう。ただピッチの正確さにあんなに微細な神経の通ったものはなく、だからクレンペラーが起用したのではないか。彼は軽快にすいすい歌うが音程があぶないという夜の女王は許し難かったのだろうと思います(そうならば全く同感)。

このアリアはト短調ですが、ロマン派に近接するほど豊かな和声がつけられているのにお気づきでしょうか。それが表す悲痛で繊細な感情の襞(ひだ)はこのオペラでは例外的なもので、至高の名アリアと思います。

パミーナという役の設定は、

夜の女王の娘でもザラストロの娘でもあり、タミーノの救出する相手であり許婚であり、モノスタトスが狙う女であり、パパゲーノと愛らしいデュエットがあり、剣で自殺しようとして童子に止められたり、タミーノと火と水の儀式をくぐり抜けたりするお姫様

というものです。夜の女王とザラストロがオペラ・セリア的、超人的であり、タミーノは優等生であまり生身を感じず、3人の侍女と童子は天界の非人間的存在である。女性で庶民派代表のパパゲーナは老婆姿と最後のパパパとやや出番が少なくパパゲーノの片割れ的存在。そうなるとパパゲーノとモノスタトスの人間くささが目立ちますが、女性で唯一生身の存在がパミーナと言ってよいでしょう。

モーツァルトはお気に入りだったアンナ・ゴットリープに大サービスでいい歌をたくさん書いているのであり、そういう流儀が彼のオペラ作法だった。体に合わせて服を仕立てるようにですね。おそらくこのト短調のアリアはその白眉だったし、気合を入れて書いた、そしてアンナも入魂の表情で歌ったに違いない。「私が最初のパミーナよ!」という叫びは、そうでなくては出なかったと思うのです。本当にかわいそうな女性です。

ただどうしてこれがト短調なのか?Gmは特別な調だったのだという説が根強くあります。僕はそうではなく、こういう質のリッチな和声の音楽を書くのにGmがよかった、それも絶対的なピッチがというより(当時、基本ピッチはいい加減だったでしょう)メカニックな「運指が」ということではないかと考えます。作曲過程の発想と運指の関係であり、転調へのいざないというか、白鍵ばかりのイ短調とまったく同じということもないように想像するのです。

どうしてそんなことを思うかというとこのアリアのピアノ伴奏パートを弾くと、う~んという和声が出てくるからなのです。イ短調だったらこれあったのかな、という指の動きで。それは楽譜のsein, so wird Ruh’…….のところ、左手がcis、d、esと動きますが(ビデオの3分55秒から)esのところのes-a-cis-gの和声が問題のそれです。

pamina

これはA7のコードのドミナントのeを半音下げたもの(第6小節にも一度現れています)。この和音は耳に残ります。どこかで聞いたことがあるぞ・・・・(こういう音の記憶を看過できない習性が僕にはございます)。

これです。みなさんよくご存じのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番変ロ短調の第1楽章、オーケストラによる第2主題を切々とこう奏でる、それの青枠の和音をご覧ください。

tchaikovskyPC1-2des-f-b-f-gですがD♭7のコードのドミナントのasを半音下げたもの。つまりパミーナのアリアの和音を短3度平行移動したものです。

このユジャ・ワンの演奏ビデオ(どうでもいいが、最も重要な出だしで関係ないトロンボーンがアップになって笑えます。ホルンなんですけどね)、6分43秒からが上の楽譜になります。よ~くお聴きください。

いや、しかし、まだあるぞ、もっとすごいのが・・・・。

ストラヴィンスキー「火の鳥」です!

fire

どこかおわかりでしょう。「子守歌」の直前のブリッジ部分です。青枠部分の音の構成要素はb-es-f-aの転回形なのです。B7のコードのドミナントのasを半音下げたもの、つまりパミーナのアリアの和音を長2度平行移動したものです。

このビデオの15分34秒からが青枠です。

何の話をしてるのかわからなくなってきました。そうかモーツァルトでした、魔笛でしたね・・・。このチャイコフスキーもストラヴィンスキーも、どこか暗めで切々とした情念、なにものかの呪縛、そしてあきらめきれない哀惜の念みたいなものを訴える場面で問題の和音が使われているように思うのです。

この悪魔の増4度をふくむ和音は今の僕らの耳にはなんでもないがハイドンまではなかったのかもしれないし、あっても希少だったでしょう。上記のsein, so wird Ruh’…….のところ、時が止まってしまうような、いったんナポリの6度(A♭)に行っておいてGm、DときてGmに収まるかと思いきやA#に!。そこから始まる「死だけが私を苦しみから救う」への和声のおそるべき混沌!!

アンナ・ゴットリープはモーツァルトに大変なものを書かせてしまった女性、人類の歴史に名を刻んだ女性であります。

モーツァルト「魔笛」断章(モノスタトスの連体止め)

 

 

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クラシック徒然草-舞台のヤバい!は面白い?-(追記あり)

2015 DEC 2 1:01:29 am by 東 賢太郎

僕は人様にご披露する芸などなにもありませんが、証券マンというのは売るものが目に見えないので言葉だけで食ってる人種ですから落語家に近いかもしれません。特にスピーチでひな壇に登ったりするとそういう気がします。

立場上、「ようなもの」まで入れるとスピーチは数えきれないほどやりました。起債調印式、仲人、現法社長あいさつ、大学講義、クリスマスパーティ、部店長会議、転勤、就任、退任、日本人学校運動会、ゴルフコンペから他愛ないテーブルスピーチなどなど。

僕は原稿を読まない主義です。あると棒読みになりそうで怖い。だから100人集めて1時間しゃべった時もなし。英語でもなし。時計を見ながら30分なら30分でぴったり終ります。原稿の事前丸暗記でもなくて全編アドリブで、たくさんやって体で覚えた相場カン?です。

一度冷や汗をかいたことがあります。関西の某大学で90分講義をしたときのこと、「証券市場論」をやっていて「ところで・・・」と雑談で脱線しました。毎度のことで、ちょっと笑わせて目を覚まさせた程度の頃合いで本論に戻るのですが、この時は戻ろうとしたら「脱線箇所」がどこだったか忘れてしまったのです。

なんとか切り抜けたものの、頭が真っ白で動転。べつに二日酔いでも予習不足でもなく、この経験をしてからですね、暗譜で弾くコンサートのソリストやオペラ歌手を尊敬するようになったのは。楽譜を覚えたことをではありません、誰にでも起こり得る「ヤバい、忘れちゃった!」の恐怖にうち勝って日々生きておられることをです。

誰にでも起こる?例えば、ストラヴィンスキーは自作のピアノ協奏曲の第2楽章の出だしを忘れてしまい指揮者が歌ってみせて思い出した。自分の曲をですよ。岩城宏之の著書によると彼はピクチャーメモリーがあったらしく現代曲でも暗譜でしたが、頭の中の譜めくりが1ページ飛んで春の祭典を振り違えて止まってしまったそうです。記憶力の良し悪しだけというわけでもないようですね。

そんな人たちの次元ではないのですが、やっぱり何百人の前に立つといくら慣れても緊張はします。あがるのはいけません。あがり症だったシベリウスはウィーン・フィルのヴァイオリン入団試験に落ちてます。僕の場合、原稿ではなく見ているのは時計であって、しゃべりながら先を考えてます。あと5分か、ではあれをしゃべろう、なんて。そういう人間は予習しすぎがよくないかなと思いつき、やめてみたらうまくいくようになりました。

コンサートで目撃した「ヤバい!」はいろいろあります。ピアニストのアルフレート・ブレンデルが展覧会の絵である部分が終わらずくりかえしたり、リストの第2協奏曲で腕を振り上げたらメガネがひっかかって客席まで飛んでしまい(彼のレンズは厚そうだから)はらはらしたこと(ちゃんと弾ききった)。ロンドンでラフマニノフ第2協奏曲の第2楽章冒頭部でクラリネットのソロが1小節早く入ってしまい指揮者グローヴズが身を挺して乗り切ったこと。

マゼールの第九(ロンドン)第2楽章でティンパニソロの1拍たたき違いでオケ凍る、同じくマゼール(バイエルン放送響)でティンパニのバチがヴァイオリンの端まで飛ぶ、モスクワ放送SOの春の祭典(香港)でティンパニが「ああ勘違い」の強烈な一撃を思いっきりぶちかましてオケは粉みじんに空中分解という身も凍る事件もありました。

フランクフルト歌劇場(マイスタージンガー)では上演中に巨大なセットがメリメリと音を発して倒れかけ、歌手より多い裏方が舞台に総出演。なんとかもとに押し戻すと演奏そっちのけで喝采。ベルリン国立歌劇場(同曲)では某有名歌手が歌詞を忘れしどろもどろの口パクになって(彼はこれでも有名だったらしい)、ややだるかった演奏に一興を添えました。

忘れちゃったでもヤバい!でもないのですが最高傑作は、どこだったかな(たしかダルムシュタット)で、トスカがえらい太めだなと思ってたら、皆さんそうだったんですね、クライマックスの自殺シーンで飛び込んだ瞬間ドスンと轟音?がとどろいて満場がこらえきれず失笑。悲劇が一転して喜劇になりましたが、まあ彼女の身を挺した熱演にカーテンコールはあったかいもんでした。

面白いけどやってるほうは必死ですよね。失礼しました。

(追記)

何といっても抜群に面白いのはこのビデオでしょう。マゼールの春の祭典の稿に書きましたがURLが違っていたのでここに再録します。

「前回、ティンパニのミスの話を書いた。しかしあんなものは可愛いものであり、春の祭典の演奏がどれほど難しいかということまでを教えてくれる映像がある。ズビン・メータ指揮ローマ放送交響楽団の69年のライブである。これだけいい加減な春の祭典というのも希少である。笑ってはいけない。前半だけでも、トランペットが一音符遅れて入りちゃんと吹ききる、フルートが一小節ずれてちゃんと吹ききる、クラのトリルが抜ける、ティンパニが間違ってドカン、オーボエが一小節早い・・・少なくとも5か所の尋常でない「事故」がある。後半もペットが落っこち、ティンパニはズレまくる。圧巻はコーダに入る所でティンパニが一小節飛ばして入り、気がついて立て直したつもりがひきつづき間違った音をバンバン叩き続けるためついにアンサンブルが崩壊。止まりかけの緊急事態となるがホルンと木管が何とかつないでティンパニは落ちたまま終わる。歌劇場ではミスに情け容赦のないローマの聴衆がブーのひとつもなく大喝采、スタンディング・オベーション。なんとも微笑ましい。」

驚くべきことにローマの聴衆でこの事件に気づいた人は会場にひとりもいないようだ。そして、この演奏会があった同じ1969年に、あの歴史的なブーレーズ/クリーブランドO.の春の祭典が録音されるのです。メータには大変申しわけないが同じ指揮者と称しても別種の人間としか思えないが事故をよく収集して終わらせたという評価はできるかもしれません。いずれにせよこのVTRは何かのジョークでなければ彼の名誉のために消された方がよろしいでしょう。

 

 

 

 

 

 

ドビッシー 「3つの夜想曲」(Trois Nocturnes)

2015 JUL 8 8:08:18 am by 東 賢太郎

僕は70年代のブーレーズのLPでいろんな曲を初めて知り、耳を鍛えられた者なので良くも悪くも影響を受けていますが、その後者の方がこれです。この曲が好きな方は多いでしょう。クラウディオ・アバドはこれが振りたくて指揮者になったとききます。

しかし、僕はだめなのです。どうも真剣になれない。「海」(第1楽章)と「牧神」はシンセでMIDI録音するほどはまりましたが、これはまったくその気なしです。随所に好きな、というか好きになっていておかしくない和声や音響はあるんですが。

IMG_8832cそれはおそらくブーレーズの演奏(右がLP)がつまらなかったせいと思います。彼も万能ではなくて、牧神もポエジーに乏しくていまひとつですが「夜想曲」はさらにそのマイナスが出ていて、音に色気、霊感がないのです。

ちなみに「遊戯」の冒頭部分などお聴きなってください、春の祭典の最初の数ページに匹敵する素晴らしさです。倍音まで完璧に調和するピッチ、精巧な楽器のバランス、神経の研ぎ澄まされたフレージング、聴く側まで息をひそめるしかない緊張感!

こんなに「そそる」音楽が出てくる録音はそうあるものではなく、これを今どき多くなっているライブ録音CDと比べるならプロ写真家の式典写真と素人のスマホ写真ぐらいの差があります。それと比較してこの「夜想曲」は同じ指揮者とオケ(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)とは信じがたい。

録音プロデューサーが海、牧神、祭典とは別人でテクニカルな理由もあるかもしれません。とにかくブーレーズを神と崇め、LPはどれも微細なノイズまで耳を凝らして聴かされてしまっていた当時の僕が何回聴いてもそういうことだったので、そこには何か峻厳たる理由が横たわっていたに違いなく、本稿はその関心から書いています。

「夜想曲」の着想はペレアスを書いている1893-4年ごろと考えられています。第3曲シレーヌ (Sirènes)にヴォカリース(母音唱法)の女声合唱があるなどその一端を伺えます。これはラヴェル(ダフニス)、ホルスト(惑星の海王星)などに影響したでしょう。

最も驚くべきは第2曲祭 (Fêtes)の中間部でppのトランペット3本を導入する低弦のピッチカート、ハープとティンパニがpppでおごそかな行進のリズムを刻む部分です。

nocturn

これは春の祭典の「祖先の儀式」(楽譜下)になったに違いないと僕は思います。

rite

こういう想像を喚起するだけでも「夜想曲」に秘められた作曲者の天才の刻印とその影響ははかりしれませんが、同時期の作曲でそれが最も認められるペレアスのスコアと比べるとこれは若書きの観が否めません。ぺレアスと同次元に達している管弦楽曲は「海」であると僕は確信します。

ということですが、全部ブーレーズに責任があるわけではなく僕自身が夜想曲のスコアからマジカルなものを見いだせていないということでもあります。いいと思うのはシレーヌの最期の数小節ぐらいです。主だった録音は持っていますし実演も聴いていますが、どうしても自分の中からは冷淡な反応しか得られない。

こちらはラヴェルによる二台ピアノ編曲で、僕はこっちの方が好奇心をそそられ満足感が高いです。

(補遺、15 June17)

そのブーレーズCBS盤です。これも発売当時の世評は高かった。僕の趣味の問題かもしれず、皆様のお耳でご検証を。

音響的にゴージャスで耳にやさしいのはシャルル・デュトワ/モントリオール響の録音でしょう。これが世に出た80年代初期、ちょうどLPからCDに切り替わる時期でクラシックのリスナーにとっては革命期でした。CD+デジタル録音というメディアにまだ一部は懐疑的だった世評も、このデュトワの見事な音彩とDeccaの技術によるアナログ的感触は批判しきれなかったと記憶します。

ドビッシーというのはラヴェルに比べてフランスの管と親和性が希薄で、ロシアはさすがに抵抗があるがドイツ、中欧のオケでもいいものがあります。クリュイタンス/パリ音楽院管やミュンシュ/パリ管の艶っぽい管に彩られたラヴェルを信奉する人たちからもドビッシーでそういう主張はあまりききません。ベルナルト・ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管(ACO)のこれはその好例で、名ホールの絶妙のアコースティックが見事にとらえられ、ほの暗い音彩で最高にデリケートで詩的な管弦楽演奏が楽しめます。ノクターンの夜の質感はフレンチの管でなくACOの方に分があると僕は感じます。技術的にも音楽性も最高水準にあり、ハイティンクという指揮者の資質には瞠目するばかりです。ちなみにこれの発売当初(1979年ごろ)、日本の音楽評論家は彼を手堅いだけの凡庸な中堅指揮者と半ば無視していたのでした。

(補遺、17 June17)

ヨーゼフ&ロジーナ・レヴィーン(pf)

モスクワ音楽院ピアノ科の金メダリストはアントン・ルービンシュタインからの伝統の系譜、ロシア・ピアニズムの真の後継者です。このご夫妻は両者がそれであり、僕にとってレジーナのショパンP協1番はあらゆる録音でベストです。これはラヴェル編曲の「祭り」で黄金のデュオの音彩は見事の一言に尽きます。

(参考)

ドビッシー 交響詩 「海」

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

 

 

 

 

 

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ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

2015 MAR 5 0:00:12 am by 東 賢太郎

僕がこの曲を母の一言で知ったひょんな経緯はこれに書きました。

ストラヴィンスキー好き

このアンセルメ盤「火の鳥」ブーレーズ盤「春の祭典」を買った高校1年が自分の音楽史の真の元年といってよく、のちに肩の故障で思うようにいかなくなった野球をあきらめようという契機になり、それならついでに受験も頑張ってみようかなという気にもなったという、ひとえに人生の導師のような存在です。

コタニの売り場のお兄さんに言われた「組曲より全曲版がいいよ」という教えを順守してアンセルメ盤を全部覚えてしまい、しばらく組曲版の方を知りませんでした。それを初めて耳にした時の衝撃は忘れません。なんじゃこりゃ?もう全然別な曲であり、オーケストラが妙でフィーナーレに変なホルンのグリッサンドが鳴るに至ってはディズニーの漫画かよという感じです。

しかしもっとも怒りを覚えたのは、大好きなところである「火の鳥の嘆願」がばっさりと切り捨てられていることでした。これです。

firebird

ここのゾクゾクするエロティックな和声はどうだろう!ドビッシー風なんだけども火の鳥にしかないたまらない色香!寝ても覚めても四六時中これが頭の中で鳴るほど惚れ込んでしまい、以来ずっとストラヴィンスキーはもちろん、誰のであれこういう音のする音楽を探し求めてきましたが、ひとつもありません。弾ける方はこの楽譜だけでも鳴らして3小節目の「火の鳥和声」を味わってみて下さい。

これはもう音の魔法なんです。僕はバレエには皆目無関心で観たことがなく、火の鳥がなにをどう嘆願しているか知りませんが、この音の動きを目をつぶって追っているだけで恍惚として法悦の境地をさまよっており、たのむから舞台でドタバタと余計な雑音やほこりをたてんでほしいと願ってしまうのです(バレリーナのかた、すみません・・・)。

これを書いたストラヴィンスキー、そして組曲でこれを捨てたストラヴィンスキー、どっちが本物なんだろうとさんざん迷うことになりました。

魔法はいくらでもあります。まず、冒頭の「導入部」は低弦の不気味なユニゾンで幕をあけます。それにファゴットの低音の和音がからむ部分の雰囲気は一気に我々を魔法の園に引き入れますが、これは森の洞窟を暗示するワーグナーの楽劇ニーベルンゲンの指輪の第2日(3曲目)である「ジークフリート」の幕あけの「序奏」そっくりです。「カッチェイの死」の2小節も「ジークフリート」の第2幕序奏にホルンの重奏で出てくる音型、和声にそっくりです。

感心するのは「王女たちのロンド」のバスのピッチカートの後です。3小節目でアルトがd♮になる、こんな簡素な譜面でたったそれだけなのに、ほのかにサブドミナントのあの希望の灯りがさしこむところ!彼がやたら音の洪水みたいな騒然たる曲で有名と思ったら大間違い、こんな繊細な和声感覚があるからああいうものでも人を魅了できるのです。

firebird1 ところがです。これは作曲者によるピアノ版なのですが、8小節目のf#は全曲版にはなく、ここはファゴットとヴィオラがeを鳴らしています。音まで変えているというのはどうかと思います。あんな素晴らしいスコアを書いておきながらこんないい加減なことがどうしてできるのか神経を疑う。またしてもわからなくなります。

この後に出てくる「魔法のカリヨン」、ここのスコアは春の祭典の先駆けであり、幻想交響曲の第5楽章の妖気を孕んだ傑出した部分です。アンセルメ盤のここの異界の音響のおどろおどろしさはききものです。ところがこれも組曲版はあえなくカット、ひどいものです。ひとことで言ってしまえば、組曲版はいくつか種類がありますが、全曲版の版権が認められない米国で印税稼ぎするためにあえて差異を作りだした改悪版なのです。

特に最も演奏頻度の高い1919年版というのは魔王カッチェイの宮殿にたちこめていた邪悪な霧や火の鳥の魔法の痺れるようなオーラは消し飛び、ディズニーランドのBGMみたいにド派手で子供受けするショーピースになってしまった無残なカリカチュアです。これがプログラムにのっているコンサートは昭和の食堂にあった日の丸が立ってる「お子様ランチ」を思い出し、足を運ぶ意欲が一気に萎えます。正直のところ、なくてもいい楽譜と思います。

むかし音楽誌に「全曲版は冗長なので1919年版が良い」などと書いている人がいて、評論家のあまりのレベルに低さに絶句しました。しかしそういう輩が出かねないぐらい作曲者本人が米国での版権目当てに、要は金儲けのために混乱を生んでいる部分もあるのです。やっぱりこれはドビッシーだなと思う和声は多いし、「魔王カッチェイの踊り」は師匠リムスキー・コルサコフの歌劇「ムラダ」の「悪魔のロンド」とムソルグスキーの「禿山の一夜」の影響が明白なことは禿山のピアノバージョンを聴けばすぐわかります。彼自身、習作に近いと認識していたかもしれず、この曲に深い愛情があったかというとやや疑問のようにも思います。

友人であり作品へのアドバイザーでもあったアンセルメはスコアにあれこれ意見していました。その結果、やがて解釈のちがいから喧嘩して口をきかない中になりました。N響に来演したビデオがありますが、フィナーレの4分の7拍子をザクザク切って全曲版のスコアと程遠いものになっています。この辺にも愛情不足を感じてしまいます。かたや、やはりN響を振ったアンセルメはずっと自然です。喧嘩の影響だったんでしょうか。

さて、この曲の魔法の極点はフィナーレにやってきます。

カッチェイが死ぬと15パートに分割した嬰ニ短調の弱音器付の弦の和音が上昇、そしてトレモロで徐々に霧が晴れるように下降して、ラファエロの絵のような神々しい空気を作ります。ホルンが牧歌的なロ長調の主題を歌う。悪の消滅、そして感謝。ここは田園交響曲の終楽章、嵐の後の神への感謝のムードそのものです。

天使の導きのようなハープのグリッサンドがその歌をヴァイオリンに渡すと、コントラバスがそっと基音のシを添え、ハープのハーモニクスが天への階段を一歩一歩登るようにやさしく歌を支えていきます。そして空からの一条の光のようなフルートがさしこむと、音楽はゆっくりと大団円に向います。

スコアのこの1頁のこの世のものとも思えぬ神々しい響きはあらゆるクラシック音楽のうちでも絶美のものというしかなく、いかなる言葉も無力、無価値です。それをここにお示しして皆さんで味わっていただくしかございません。

firebird3
そしてここから 4分の7拍子の歓喜の円舞がロ長調からハ長調へと高潮し、もういちどロ長調に半音下に戻すところのティンパニとチューバの f# の一発!これをアンセルメは渾身の力でズーンとやりますが、これに何度しびれたことか。半音ずれるだけの転調がこの1発で正当化されてしまう天才の一撃!そして2コーラス目に入るところの h の一撃!

この半音下にずれる転調は、僕のブログを読んでいただいている方は思い出されるでしょう。そう、ボロディンの交響曲第2番の第2楽章トリオに稀有な例があるのです。ストラヴィンスキーがそこから発想したかどうかわかりませんがあれを知らなかったということは考えられません。ただ火の鳥の方は背景の和声の事後的な正当化は何もなくf#のドスンでいわば暴力的にロ長調におさまってしまう。とてもストラヴィンスキー的ではありますが。

この曲の演奏は何回、何種類きいたか記憶にもありませんが、実演で感動したのはゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが東京芸術劇場で読響とやったものです。拍手が延々と鳴りやまず、指揮者が指揮台のスコアを手に取って高く掲げ、聴衆と一緒にそれを讃えたのも感動的でした。

もうひとつは95年3月30日にフランクフルトのアルテ・オーパーできいたヴァレリー・ゲルギエフ / キロフ管弦楽団で、ドイツの家に遊びに来ていた母と行った演奏会でした。フィラデルフィア、ロンドン、フランクフルト、チューリヒと言葉もわからないのによく一人で何度も訪ねて来てくれたものです。そのたびに好きな音楽会にたくさん連れて行きましたが、母の一言で知ることになった火の鳥をいっしょにきけたというのも幸せでした。実は今日、母が手術をして、うまくいって先ほど家に戻ったところで、だいぶ前に書き溜めていた縁のある火の鳥を投稿させていただこうということに致しました。

全曲をそのゲルギエフの演奏で。

 

この曲を知っている方も知らない方も、僕が母とコタニのお兄さんのおかげで買うことになったエルネスト・アンセルメの最後の録音(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団を振ったDecca盤)をお聴きになられることを心よりお薦めします。作曲者とひと時代を共有したアンセルメが丹精をこめ、いっさい性急なテンポをとらずにスコアの隅々にまで光を当ててすべての美を描ききった演奏であり、オーケストラが見事にそれを具現しているという文化遺産級の録音であります。

唯一の対抗馬としてピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団のCBS盤をあげますが、こちらも指揮者の眼光紙背に徹する空前絶後の名演です。オーケストラのつややかな音響とそれのブレンドによる光彩陸離たる音色美はいまだに並ぶものはなく、当時のブーレーズの音のテクスチュアを分解整理する高度に知的な能力に圧倒されるしかありません。自分もそうでしたが、アンセルメ盤で耳を作ってからこれを聴かれるという順番が理想的かと存じます。

ブーレーズのフィナーレです。

 

(補遺)

下のビデオを聴くと「f#のドスンでいわば暴力的にロ長調におさまってしまう」部分からをストラヴィンスキーは一音一音をスタッカートで演奏している。来日した折のN響とのビデオも同じであって、それが作曲家の意図だったことは明白だ。現代の指揮者でそうやる人がいないのはどういう経緯があったのか不思議である。

ストラヴィンスキー バレエ音楽「ペトルーシュカ」

 

(こちらへどうぞ)

 

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

読響定期 グザヴィエ・ロト を聴く

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

ボロディン 交響曲第2番ロ短調

ボロディン 交響詩「中央アジアの草原にて」

 

 

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僕が聴いた名演奏家たち(サー・コリン・デービス)

2015 JAN 10 0:00:11 am by 東 賢太郎

コリン・デービスの名はずいぶん早くから知っていた。それは名盤といわれていたアルトゥール・グリュミオーやイングリット・ヘブラーのモーツァルトの協奏曲の伴奏者としてだ。リパッティのグリーグ協奏曲を伴奏したアルチェオ・ガリエラやミケランジェリのラヴェルト長調のエットーレ・グラチスもそうだが、超大物とレコードを作るとどうしても小物の伴奏屋みたいなイメージができて損してしまう。

それを大幅に覆したのが僕が大学時代に出てきた春の祭典ハイドンの交響曲集だ。どちらもACO。何という素晴らしさか!演奏も格別だったが、さらにこれを聴いてコンセルトヘボウの音響に恋心が芽生えたことも大きい。いてもたってもいられず、後年になってついにそこへ行ってえいやっと指揮台に登って写真まで撮ってしまう。その情熱は今もいささかも衰えを知らない。

彼は最晩年のインタビューで「指揮者になる連中はパワフルだ」と語っている。これをきいて、子供のころ、男が憧れる3大職業は会社社長、オーケストラの指揮者、プロ野球の監督だったのを思い出した。ところが「でも、実は指揮にパワーなんていらない。音楽への何にも勝る情熱と楽団員への愛情があれば良いのだ」ともいっている。これは彼の音楽をよくあらわした言葉だと思う。

サー・コリンが一昨年の4月に亡くなった時、何か書こうと思って書けずにきてしまったのは、ロンドンに6年もいたのに驚くほど彼を聴いていないのに気がついたからだ。彼が晩年にLSOとライブ録音した一連のCDを聴いていちばん興味を持っていた指揮者だったのに・・・。youtubeにあるニューヨーク・フィルとのシベリウス3番のライブを聴いてみて欲しい。こんな演奏が生で聴けていたら!

僕がクラシック覚えたてのころ彼のお決まりの評価は「英国風の中庸を得た中堅指揮者」だ。当時、「中庸」は二流、「中堅」はどうでもいい指揮者の体の良い代名詞みたいなものだった。それはむしろほめている方で、ドイツ音楽ではまともな評価をされずほぼ無視に近かったように思う。若い頃のすり込みというのは怖い。2年の米国生活でドイツ音楽に飢えていた僕があえて英国人指揮者を聴こうというインセンティブはぜんぜんなかった、それがロンドンで彼を聴かなかった理由だ。

それを改める機会はあった。93年11月9日、フランクフルトのアルテ・オーパーでのドレスデンSKを振ったベートーベンの第1交響曲ベルリオーズの幻想だ。憧れのDSK、しかも幻想はACOとの名録音がある。しかし不幸なことに演奏は月並みで、オケの音も期待したあの昔の音でなかったことから失望感の方が勝っていた。これで彼への関心は失せてしまったのだ。もうひとつ98年5月にロンドンのバービカンでLSOとブラームスのドッペルを聴いているが、メインのプロが何だったかすら忘れてしまっているのだからお手上げだ。ご縁がなかったとしかしようがない。

davisしかし彼の録音には愛情のあるものがある。まずLSOを振ったモーツァルト。ヘレン・ドナートらとの「戴冠ミサ」K.317、テ・カナワとのエクスルターデなどが入ったphilips盤(右)である。このLPで知ったキリエK341の印象が痛烈であった。後にアラン・タイソンの研究で 1787年12月〜89年2月の作曲という説が出て我が意を得た。ミュンヘン時代の作品という説は間違いだろう。

5969523僕のデービスのベスト盤はこれだ。ACOとのハイドン交響曲第82,83番である。もし「素晴らしいオーケストラ演奏」のベスト10をあげろといわれたら彼のハイドン(ロンドンセットは全曲ある)は全部が候補だが、中でもこれだ。なんという自発性と有機性をそなえた見事なアンサンブルか。音が芳醇なワインのアロマのように名ホールに広がる様は聞き惚れるしかない。こういう天下の名盤が廃盤とはあきれるばかりだが、これをアプリシエートできない聴き手の責任でもあるのだ。

16668gこのハイドンと同様のタッチで描いたバイエルン放送SOとのメンデルスゾーン(交響曲3,4,5番と真夏の夜の夢序曲)も非常に素晴らしい。オーケストラの上質な柔軟性を活かして快適なテンポとバランスで鳴らすのが一見無個性だが、ではほかにこんな演奏があるかというとなかなかない。昔に「中庸」とされていたものは実は確固たる彼の個性であることがわかる。5番がこういう演奏で聴くとワーグナーのパルシファルにこだましているのが聞き取れる。

51BSnT5oJxL__SX425_シューベルトの交響曲全集で僕が最も気に入っているのはホルスト・シュタインだが後半がやや落ちる。全部のクオリティでいうならこれだ。DSKがあのライブは何だったんだというぐらい馥郁たる音で鳴っており1-3番に不可欠の整然とした弦のアーティキュレーションもさすが。僕は彼のベートーベン、ブラームス全集を特に楽しむ者ではないが、こういう地味なレパートリーで名演を成してくれるパッションには敬意を表したい。4番ハ短調にDSKの弦の魅力をみる。

41AQABHVRZL春の祭典、ペトルーシュカだけではない、この火の鳥もACOの音の木質な特性とホールトーンをうまくとらえたもので強く印象に残っている。この3大バレエこそ彼が中庸でも中堅でもないことを示したメルクマール的録音であり、数ある名演の中でも特別な地位で燦然と輝きを保っている。 オケの棒に対する反応の良さは驚異的で「火の鳥の踊り」から「火の鳥の嘆願」にかけてはうまさと気品を併せ持つ稀有の管弦楽演奏がきける。泥臭さには欠けるがハイセンスな名品。

51k8eFkIMIL__SX425_ブラームスのピアノ協奏曲第2番、ピアノはゲルハルト・オピッツである。1番はいまひとつだが2番はピアノのスケールが大きくオケがコクのある音で対峙しつつがっちりと骨格を支えている。オピッツはラインガウ音楽祭でベートーベンのソナタを聴いたがドイツものを骨っぽく聞かせるのが今どき貴重だ。この2番も過去の名演に比べてほぼ遜色がない。ヘブラーやグリュミオーのモーツァルトもそうだがデービスはソリストの個性をとらえるのがうまい。録音がいいのも魅力。

 

あとどうしてもふたつ。 ヘンデル メサイアより「ハレルヤ」(Handel, Hallelujah) に引用した彼のヘンデル「メサイア」は彼のヘンデルに対する敬意に満ちた骨太で威厳のあるもので愛聴している。そしてLSOとのエルガー「エニグマ変奏曲」も忘れるわけにはいかない代表盤である。

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

エルガー「エニグマ変奏曲」の謎

 

 

 

 

 

 

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ストラヴィンスキー バレエ・カンタータ 「結婚」

2014 NOV 3 0:00:25 am by 東 賢太郎

ストラヴィンスキーの最高傑作として春の祭典と並んで挙げたいのはこの曲です。今はどちらか選べと言われれば断然この「結婚」になります。

ストラヴィンスキーは1910年にザンクト・ペテルブルグからスイスに移って10年の間、レマン湖の北側のモントルー、クララン、モルジュに住み火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典、結婚、兵士の物語、プルチネルラなどの代表作を書きました。新古典主義の作風に移行する前のこの10年にスイスの風光明媚な地でロシア色の強い作品を次々生んだというのも面白いものです。それはバレエ・リュスを通してパリの市場でその需要が強かったからだと思われます。

野村スイス本社はチューリヒにあって、僕は96-7年にチューリヒ湖畔のクスナハトに住みましたが、ジュネーヴ支店長も兼任していたためレマン湖もよく行きました。モントルーはジャズ・フェスティバルで有名ですがそのメイン会場名がストラヴィンスキー・オーディトリウムです。クラランには「春の祭典通り」(Rue-du-Sacre-du-Printemps)まであるのです。ラヴェルもそのあたりに住んでいてダフニスをストラヴィンスキーに聞かせたはずです。

692824_186_zそれはどんな所か?この写真のような所です。モントルーのやや西にあるヴェヴェイ(Vevey)はチャップリン、ヘップバーンが晩年に住み、世界的食品会社ネスレが本社を置いていますが丘の上にあるホテル・ミラドール(Mirador、それが右の写真)は僕がスイスで家族で泊まったうちでも3本の指にはいるもの。眼下にレマン湖、その向こうに雪をかぶったアルプスが望める絶景で、天皇陛下もお茶をされたという名ホテルです。今はケンピンスキー系列になったようですが、ぜひ一度宿泊されることをお薦めします。

ここで書かれ1923年にバレエ・リュスによりパリで初演された「結婚」は当初は大オーケストラで書くことを想定されました。そうならなかったのは、曲想からして春の祭典の二番煎じになってしまうからではないでしょうか。シンプルな民謡風旋律と複雑な変拍子、結尾のh音の鐘(ベル)とアンティーク・シンバルが鳴る部分の印象的なピアノのリズムが春の祭典の「生贄の踊り」のティンパニのリズムで短3度を含むなど、両曲の血縁関係は明白です。

結局、4台のピアノ、打楽器アンサンブル、4人の独唱、混成四部合唱という変則的なものに落ち着きましたが、それが非常に成功したと思います。特に声の強烈なインパクトは大オーケストラだと埋もれてしまったでしょう。家には図書館並みの20万冊もの蔵書を持っていたストラヴィンスキーの父はマリンスキー劇場のバス歌手でした。そのためでしょう、彼の声楽書法の自然さと巧みさはあまり指摘されませんが僕はこの作品でそれを強く感じます。それが春の祭典を上回る魅力なのです。

初めて聴くとわかりにくく聞こえるのですが、歌のメロディーは全音階的できわめて単純で土くさい民謡調です。数回聞けば誰でもすぐ覚えられますから第一印象で敬遠しないように願います。この土俗的なハレの場が変拍子がいりくんだ乱れ打ちの打楽器で高潮していく様はまったくもって春の祭典の分身であり、ピアノも打楽器としてその祭りに組み込まれます。祭典の4台ピアノ版に打楽器と歌を加えた感じといったら最も近いでしょう。

「結婚」とはロシアの農民の婚礼のようですが描写音楽ではないと作曲者は述べています。春の祭典が生贄という死の儀式であり、結婚は誕生の儀式である。この曲は前者を作曲中でその初演の前年である1912年に着想されています。両者がペアの音楽と考えてよろしいのではないでしょうか。何とも蠱惑と興奮に満ち満ちた音楽であり、決して有名ではありませんが僕は世紀の大名曲と確信しております。

その証拠といってはなんですが、春の祭典の色が濃厚とはいえ、自作のペトルーシュカも彷彿とさせ、後に書かれるオルフのカルミナ・ブラーナ、バルトークの弦チェレ、レスピーギの「ローマの祭り」もこれなくして書かれなかったかと思わせます。逆にシェーンベルグの「月に憑かれたピエロ」を聴いたストラヴィンスキーが「日本の3つの抒情詩」を書き、ラヴェルが「マダガスカル島人の歌」を書きました。かように20世紀初頭は各作曲家が個性を多様に競い合い影響を及ぼし合う時代だったように思いますが、この曲は多方面に遺伝子を残していると信じます。

noces大学時代にニューヨークで買ったピエール・ブーレーズ指揮パリ国立歌劇場メンバーによるLPがあまりに衝撃的で脳天に焼きついており、「結婚」というとこれになってしまうのも春の祭典と同じです。ここでブーレーズが聴かせる鮮烈な音!土俗的ではないが原色的な歌、精密でパンチのある打楽器アンサンブル、音程が明確なティンパニ、知的だが熱い音楽である65年のこの録音に春の祭典CBS盤への血脈がはっきりと感じられます。このLPはB面にプリバウトキ、猫の子守歌、4つの歌、4つのロシアの歌が入っていて、これがまた歌も伴奏楽器群もブーレーズの面目躍如である細密的音色美にあふれていて聴くたびに体も精神も興奮します。これは天下の名盤であり、一人でも多くの方に聴いていただきたいと思います。

41NJ4XKGQPL次にロンドンで買ったバーンスタイン指揮イギリス・バッハ音楽祭打楽器アンサンブルにアルゲリッチ、ツィマーマン、カツァリスのピアノという豪華顔ぶれによるDG盤でした。わりあいしずしずと始まりますが、だんだん音楽が熱してきてリズムの爆発的饗宴となります。この演奏のリズムの現代的な格好よさはこれまたとてつもない魅力で、バーンスタインは春の祭典よりこっちの方に向いています。動物的とさえいえるしなやかな運動神経を感じさせるセクシーな快演であります。ソプラノのアニー・モーリーは艶のある声質で好ましい。アメリカ人ですがロシア語のテクストをよく歌っています。

もうひとつyoutubeでこういうのを見つけました。これは上の2つと対照的に田舎の土俗性丸出しの土臭さ。大変面白いですね。癖になりそうです。

(こちらへどうぞ)

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

 

 

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