ルーセル バレエ音楽「蜘蛛の饗宴」作品17
2022 AUG 25 9:09:30 am by 東 賢太郎

英国からもドイツからも、列車や車でフランスへ入るといつも感じた。キラキラ輝く畑の光彩に感じた胸のときめき。あれは同じフランスでも飛行機でド・ゴール空港に着いてパリの雑踏に紛れては味わえない不思議なものだ。外国はほんとうにいろいろな処に行かせてもらったが、車で真っ暗な砂漠の丘を越えると忽然と現れた巨大な光りの玉みたいなラスヴェガス、車で長い長い橋を何本も渡り、やはり丘を越えてぽっかりと視界に浮かんだキーウエストの不思議な期待に満ちた遠望と同様に、フランス入りの欣喜雀躍は僕の記憶の中では特別なものになっている。
ニース近郊のサン・ポールの丘の上から眺めた地中海、カプリ島の断崖の頂上で昼食をとりながら虜になった紺碧のティレニア海、ドゥブロヴニクの高い城壁からため息をつきながら眼下に見とれたアドリア海と、できれば生きてるうちにもう一度味わいたい風景はいわば「静物画」だ。フランス入りは少々別物で「動画」であり、動きの中から不意に現れた驚き(aventure、アヴォンチュール)の作用というものである。不意であるから恋人との出会いのように一度きりで、流れ星を見たら消える前に祈れというものだ。そう、あれは思いもかけず心地良く頬をなでる風なのだ。
そんな希望をもたらす風のことをフランス語でvent d’éspoir (ヴァン・デスプワール)という。生きていれば誰しも何かのBeau(ボー、美しい)、movement(ムヴマン、動き)を見ているだろう。夕暮れの太陽、流れる雲、小川のせせらぎ、正確に時を刻む時計、競走馬の駆ける姿、みな美しいが、やはり人間の整った肢体が見せる統制された動きは格別だ。それはバレエやスケートはもちろんあらゆる一流のアスリートの競技姿に見て取れる。訓練した舞台人による動きもそうであり、そうした演技を抽象化、象徴化したパントマイム(無言劇、大衆的な笑劇)は古典ギリシア語 pantomimos に発する古代ギリシアの仮面舞踏であるが、初期イタリアのコンメディア・デッラルテが大道芸になり、そこから生まれたものだ。
笑劇、残酷、妖艶。これが融けあった「美(beauté ボテ)」というものは動画でしか表せない特別なものだ。それになるには人が蠢いて生み出すエロスが必要で小川や時計や馬ではいけない。仏語を書き連ねたが、その語感はゲルマンにもアングロ・サクソンにもなくラテン起源のもので、ラテン語は知らないのでフランス語の “感じ” で表したくなる。ニューヨークで全裸ミュージカル『オー!カルカッタ』を観た。初めから終わりまで登場人物は全員が全裸でダンスやパフォーマンスをくり広げる。それはそれで美しい場面がたくさんあったが、あの健康なエロスはからっと乾いたアメリカンなものだ。笑劇、妖艶はあっても残酷を欠くのである。ローマ皇帝を描いた映画にある残酷さ。死と向き合った快楽、その裏にある人間というはかなく愚かな生き物の露わな生きざま。これをへたに理性で隠し立てしないのがラテン文化であることは多くのイタリア・オペラの筋書きを見ればわかるだろう。
ラテン民族である「フランス人」という言葉は多義的で民族的ではなく、植民地をすべからくフランス文化圏にしようとした汎フランス主義の産物とでもいうものだ。スペインもそうで、南米でインカ帝国を殲滅した残虐さは目に余る。現地文化を同化することなく認め生かした英国の植民地政策とは対極にあり、大陸において日本軍が参考にしたのは仏国式だったといわれるが大きな誤りだった。欧州におけるフランス文化圏の東側はライン川だが、その西岸にいたゲルマン系にそれが被さって混血が進んだ地域がベルギー、オランダ、ルクセンブルグのベネルクス三国である。言語も宗教もしかりだ。ベルギーの首都ブリュッセルは当初はオランダ語を話すゲルマン民族のフラマン人が多かったが今はフランス語話者が多数であり、私見だがブリュッセルのフレンチ・レストランはパリに劣らぬクオリティだ。
そういう複雑な文化、宗教の混合がアマルガム状となった結末という意味でのフランス音楽というと、僕の脳裏にまず浮かぶものにアルベール・ルーセル(Albert Roussel、1869 – 1937)のバレエ-パントマイム「蜘蛛の饗宴」がある。蜘蛛が嫌いなためジャケットもを見るのもおぞましかった当初、この曲がこんなに好きになろうとは想像もしなかった。ドビュッシーが7つ年上、ラヴェルが6つ年下のルーセルはベルギー国境の街トゥールワコン出身、フラマン系のフランス人である。海を愛し、18才で海軍兵学校に進んだ経歴の持ち主で、中尉に任命されて戦艦スティクスに配属され当時はフランス領インドシナだった地域(現在のベトナム)に赴き、そこに数年滞在した。海軍の軍人だった作曲家はリムスキー・コルサコフもいるが、軍人の志と音楽愛は別物というのは僕もわかる。第一次世界大戦が始まると敢然と戦地に出て運転手を努めるのだから軍人の志も半端なものではなく、いわば二刀流であったのだろう。
しかし同時就業は無理である。音楽愛が勝った25才で退役し音楽の道に進むことになる。そしてもう中年である44才の1913年4月3日にパリのテアトル・デ・ザールで初演されたこの曲は成功し、堂々パリ・オペラ座のレパートリー入りを果たした。この道は王道なのだ。シャンゼリゼ劇場でいかがわしい興行師ディアギレフがやってる際物のロシアの踊りとは違う。そういう中で5月29日に「春の祭典」が初演されたが、両曲のたたずまいを比べるならそっちの騒動は納得がいくというものだ。1918年にドビッシーが亡くなるとルーセルはラヴェルと共にフランス楽団を率いる存在になるが、ラヴェルとは対照的に交響曲(4曲)および室内楽のソナタ形式の楽曲が多いのはゲルマンにも近い北フランスの血なのだろう。彼の音楽の色彩を考えるに、大戦後はノルマンディーに居を構えたことは示唆を与える。この地というと僕はロンドン時代の夏休みにドーヴィルのホテルに泊まってモン・サン・ミッシェルへ行ったときのことが忘れられないが、海は地中海のようには青くなく灰色で、波もなければきらめいてもいない。それでも、海がもっと青くない英国人は競ってここに避暑に行くのだ。彼の管弦楽はラヴェルと比べるとそういう色だと思う。
この曲の冒頭、d-aの五度に弦がたゆとうBm-Amの和声。これにふんわり浮かんで歌う、ふるいつきたくなるようにセクシーなフルートのソロはこの楽器の吹き手なら誰もが憧れるものではないか。
ここの効果たるや音というよりも色彩と香りが際立つ。これぞフランスに入った時に感じるあのときめきを思い起こさせてくれる。何度だって行きたい。だから蜘蛛がこわい僕がこの曲を愛好するのは仕方ないのである。しかしこのフルートは庭で昆虫が女郎蜘蛛の巣に誘い込まれる「いらっしゃいませ」の様子を描いているのだから恐ろしくもある。音楽は庭の昆虫の生活を描いており、昆虫が蜘蛛の巣に捕らえられ、宴会を始める準備をした蜘蛛が今度はカマキリによって殺され、カゲロウの葬列が続いて「いらっしゃいませ」の回想から平穏で静かなト長調のコーダになり、チェレスタとフルートのほろ苦い弔いのようなa♭が4回響いて曲を閉じる。何度きいても蠱惑的だ。フランスの昆虫学者ジャン=アンリ・ファーブルの昆虫記にインスピレーションを得て書かれたバレエ-パントマイムは笑劇、残酷、妖艶の大人のミックスという所である。
無声劇の痕跡として音楽が昆虫の動きを追って素晴らしく animé(生き生きと快活)であり、デュカの「魔法使いの弟子」を連想させる。このままディズニーのアニメに使えそうな部分がたくさんある。また、誰も書いていないが、オーケストレーションはリムスキー・コルサコフ直伝というほど僕の耳には影響を感じる(シェラザードと比べられたい)。もうひとつ、非常に耳にクリアな相似はペトルーシュカ(1911年、パリ初演)である。ルーセルは当然聴いているだろう。彼の楽曲の真髄は表面的な管弦楽法にはないが、パリに出てきた北フランス人として興隆し始めていたバレエ・ルッスのロシアの空気は無視できるものでなかったろうし、別な形ではあるがバスクの血をひくラヴェルもリムスキー・コルサコフの管弦楽法およびダフニスの終曲にボロディンの影がある。
全曲版と抜粋版(交響的断章)がある。
全曲版
第1部
前奏曲 Prélude
アリの入場 Entrée des fourmis
カブトムシの入場 Entrée des Bousiers
蝶の踊り Danse du Papillon
くもの踊り 第1番 Danse de l’araignée
アリのロンド Ronde des fourmis
2匹の戦闘的なカマキリ Combat des mantes
くもの踊り 第2番 Danse de l’araignée
第2部
カゲロウの羽化 Eclosion et danse de l’Éphémère
カゲロウの踊り Danse de l’Éphémère
カゲロウが止まる Mort de l’Éphémère
カゲロウの死 Agonie de l’araignée
カゲロウの葬送 Funérailles de Éphémère
交響的断章
アリの入場 Entrée des fourmis
蝶の踊り Danse du papillon
カゲロウの羽化 Eclosion de l’éphémère
カゲロウの踊り Danse de l’éphémère
カゲロウの葬送 Funérailles de l’éphémère
寂れた庭に夜の闇は降りる La nuit tombe sur le jardin solitaire
ルーセルは虫眼鏡で観察するほどの虫好きだった。アリ、カブトムシ、蝶を食いながら生きる蜘蛛、そしてカマキリ。これは人間界の生態に擬せられる。懸命に羽化して踊って生を楽しみ、すぐ命が尽きるカゲロウ、これもはかない人間の姿の象徴だ。そしてカブトムシが蜘蛛の巣にいったん捕獲されていたカマキリを逃がし、饗宴の準備をしていた蜘蛛を食ってしまう。これが世だ。こうして笑劇、残酷、妖艶はひとつになるのである。
演奏時間は全曲だと約30分、断章はその半分ほどだ。火の鳥、マ・メール・ロワと同様だ、これだけの素晴らしい音楽はまず全曲版を聴かないともったいない。
デービッド・ソリアーノ / ユース オーケストラ ・ フランス
全曲版だ。とても美しい。フルートの彼女、とっても素敵だ。これぞフランスの音。若い奏者たちが母国の美を守ってることに感動する。アンサンブルの水準も高い。指揮のソリアーノにブラヴォー。
アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団
交響的断章なのが残念過ぎるが、僕はこの演奏で曲の真髄に触れた。冒頭フルートの官能的なけだるさ!あっという間に魅惑の虜である。オーボエ、ホルンのおフランスのおしゃれ、チェレスタの目くるめく光彩に耳を澄ませてほしい。木管はもちろんハープの倍音まで効いていて夢のような17分が過ぎてゆく。西脇順三郎の「(覆された宝石)のやうな朝」はこんなではないか?なんということか、モーツァルトのコシ・ファン・トゥッテの6重唱のように木管があれこれ別なことをしゃべっている。アンサンブルが雑然となるが節目でピシッと合う。パントマイムの面目躍如。こういうのはフランスのオケでないと無理だが、フランスだって今時はこうはしないよ。ドイツ風に縦線を合わたアンサンブルでは綺麗にまとまるが毒にも薬にもならない。それでおしまい。この毒にあたるともう抜け出せない。
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ジョリヴェ「赤道コンチェルト」(1950)
2022 AUG 22 22:22:42 pm by 東 賢太郎

二十歳ぐらいでストラヴィンスキーとバルトークは聴いていて、ちょっと飽きた。もっと何か面白い物はという冒険心で新ウィーン学派を片っ端から聴いたが、どうもしっくりこない。後にブーレーズ盤を知りスコアを追うと幾つか新発見がやってくるが、まだ無調に美を見出す耳がなかったということだろう。
そのあたりで出会ったのがアンドレ・ジョリヴェの「赤道コンチェルト」だった。当時、フィリップ・アントルモンが作曲者の指揮で弾いたCBSのレコードが、確かにそういう名称で売られていた。ところが調べるとジョリヴェの作品目録にそんな曲はない。ピアノと管弦楽の協奏曲はひとつしかなく、題名は、
Concerto pour piano et orchestre
(ピアノと管弦楽のための協奏曲)である。その後、そのレコードは廃盤となり「赤道コンチェルト」はレコード屋からも姿を消すという不思議な事態が続いたのだ。本稿はその経緯を推察するものでもあり、あえてそれをタイトルとしておく。
作曲は1946年にフランス国営放送から植民地に取材した作品を委嘱されたことが契機だ。WW2における仏国はパリをドイツに占拠される屈辱を味わう。それを奪回したのはアルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地で戦ったド・ゴールであり、パリに凱旋した彼を賛美する流れの中での委嘱と思われる。1951年のストラスブール初演は聴衆の怒号、口笛を巻き起こしたという逸話も残っているが、春の祭典のそれになぞらえれば成功したのかもしれない(注)。
同曲がアフリカを意識して書かれたことは間違いなかろうが、仏国植民地で赤道にかかっている部分はほとんどない。つまり、そこからして「赤道コンチェルト」なる命名は的外れであり、アバウトな人が思いついたものだとしか考えられない。さらに、それは西洋人ではなかろう。なぜなら、赤道というと「赤」の文字が映える日本語では熱帯のジャングルなど絵画的イメージが浮かぶが、equatorというと左様な情緒的ニュアンスは皆無で、単なる北半球と南半球を二分する「理論上の線」である。「均等分割線コンチェルト」という感じで、そんなものが作曲家のイマジネーションを刺激するとは思えない。「赤道」「怒号」で春の祭典みたいにどんちゃんやるイメージを売るマーケティングなのだったらその人は春の祭典の価値もどんちゃんだと思ってるわけで的外れも甚だしい。
おそらく「赤道コンチェルト」は日本のレコード会社の売らんかなの命名で、ショスタコーヴィチの5番という革命礼賛でも革命的でも何でもない曲に堂々と「革命」の名をつけてしまうのと同等のトンチンカンな一例と思われ、作曲者か仏国権利者から指摘があって破棄したのではないかと想像する。「運命」、「合唱」もベートーベン本人のあずかり知らぬ名だ。日本において両曲はそれで知られてしまっているが、こちらはもうクレームする権利関係者はいない。売れればまあいいかというアバウトな極東の極地現象であるとはいえ、「運命」「合唱」のノリで「ベートーベン像」なるものができて大多数の人がそれをイメージして分かり合っている閉じた言語空間において、立派なインテリが「この演奏はベートーベン的でない」などと平然と論じて誰も何とも思わないのはある意味で凄いことである。アントルモン盤は図書館で聴いたが、どうもそうした疑念がにおってしまい買わなかった。
音をお聴きいただきたい。春の祭典を思わせるポリリズムが炸裂すると思えば、第2楽章はバルトークの第2協奏曲を思わせる抒情で神秘感を漂わせるといった具合で実に多彩である。
後にCDの時代になってジョリヴェのほとんどの作品を聴くことができるようになったが、彼はひとことで言うなら「赤道」に限らず作風自体が多彩で代表作を選ぶのが難儀という作曲家である。エドガー・ヴァレーズの弟子であり打楽器を交えた実験的音響に創意がある。しかし主旋律または主役となる楽器を置いて伴奏する古典的発想はそのままで、新ウィーン学派が十二音の「主」という概念を葬ろうとしたような原理的アヴァンギャルドではない。同曲の第2楽章に見られるような「雰囲気の醸成」(アフリカンな)は幻想的ではあるがリアリズムあってこそのシュルレアリズムという観があり、ストラヴィンスキーが春の祭典第2部の冒頭でくり広げた、何ら依拠する前例のない、我々の誰もがつゆ知らぬぎょっとするような異界の展望ではない。「革命」と呼んでよいのはこういうものだけだ。
よってジョリヴェの作品に協奏曲の比重が高いのは説明がつこう。旋律を横の流れやクラスターに埋没させず、独自の感性で調性から自由にした和声(フランス人の発想らしいもの)でそれをどう彩るかという点を外さない作法だからだ。メシアンのように横の線における旋法のような素材の縛りはなく、打楽器の多用もストラヴィンスキーのようにリズムを自己の音楽の本源的な骨格として据える音素材としてというより音彩に関心を置くためのように思える。
つまりWW2後の作品としてはアントルモン盤のキャッチコピーが宣伝したほど衝撃作ではなく、既存の技法を好みに応じて巧みに料理し、異教的・呪術的な雰囲気を紡ぎだした作品といったところが僕の評価になる。それはそれで個性なのだから決して悪いわけではないが、それを知って聴いてみると、ピアノが打楽器として機能するため彼の作品の中核となる主旋律または主役の特性がいまひとつになっている。これが怒号、口笛で演奏が危うくなるとは意外で、それなら1949年のトゥーランガリラ交響曲や1955年のル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)の初演でも起こっていそうだがそういう話はない。ボストン、バーデンバーデンの聴衆よりストラスブールのほうが保守的でレベルが低かったということはなさそうに思うのだが(注)。
(注)「赤道」については仏領赤道アフリカ(Afrique Équatoriale Française)由来の可能性はある。ヴィシー政権につかない自由フランスのアフリカにおける活動拠点の名称であり、この曲の委嘱の目的がド・ゴール礼賛という政治的なものであったとすればアルザス・ロレーヌの中心ストラスブールでドイツへの示威、当てつけで初演され、反対派が野次を飛ばしたと考えることができる。いずれにせよ、ジョリヴェの作品の芸術的価値にはふさわしくないと思料する。
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パリというと思いだす名曲たち
2022 MAR 23 3:03:03 am by 東 賢太郎

正月に書きましたが、いま我が家はフランスでもちきりです。昨日、「パリ殺人案内」というサスペンスドラマを家族で観てまして、なかなか面白い。パリのオペラ座が舞台でカルメン歌手の母子が主役で、アリアのシーンが出てくるし、犯人の意外性もある。すっかり現代の設定と思って見てました。でも終わってみると、一ヶ所だけ変だった。「あいつは死んだぜ」と刑事が言った男の墓石に「~1889」と彫ってあったことで、「あれはどういう意味だったんだろうね?」と。まさかと思ってネットで調べると「19世紀を舞台にしたフランス2時間サスペンス」とあるではないですか。ぼーっと見てたんですね。でもこんなこと東京やニューヨークだったらあり得ない、これがヨーロッパです。
気分はすっかりパリになって、何度も行ったけど、ところで、あそこではどんなメロディーが脳裏に浮かんでいたんだっけ、ラヴェルかなドビッシーかなと、これは性分なんですね。仕事ということになってたけどそれは少しでほとんど遊びだったなあ、あそこで**、あそこで++・・・じっくり思い出します。出てきた曲はけっこう意外でした。その顔ぶれはこのようなものです。
フォーレ「ペレアスとメリザンド」よりシシリエンヌ
これ、たしかFMのクラシック番組のテーマ曲で(高校ぐらいだったかなあ)、なぜかパリというすり込みがあって、もうシャルル・ド・ゴール空港の例の白いトンネルをくぐっただけで出てきてました。
フランシス・レイ「白い恋人たち 」(1968年)
販売差止訴訟となった吉本興業のお菓子「面白い恋人」の元ネタはこれ(「白い変人」ってのもあった)。当時僕は中二。甘酸っぱい名曲にまだ見ぬパリを想っていましたっけ。不思議な転調を重ね、謎のホルンが強引に元に戻すのだけどこの不可解さがたまらず耳がクラシックを追っかけるようになってしまった記念碑的音楽でもあります。
サティ「ジュ・トゥ・ヴー」(あなたが欲しい)
いきなりミ・ソ・レとC9のコードで始まる斬新さ。パリ留学したバート・バカラックが名曲『Close to You』でそのまんまパクる(カーペンターズで大ヒット)。無理もない。ラヴェルもドビッシーもサティをパクってるんだから。
ポール・モーリア「恋はみずいろ」(1967年)
一橋中学でお世話になった音楽の森谷先生。あだ名はポール・モリヤでした。原曲はアンドレ・ポップなるイージーリスニングのフランス人らしいですが、モーリア先生のアレンジはいま聴くとチェンバロ、ハープの伴奏がちゃんとフレンチ・クラシックであり、オーボエ・ソロもお品がよろしいですね。他愛ない曲と思ってましたが、弾いてみるとバスが4度づつ3回上がる(a-d-g-c)なんてのが斬新だったんですね。
フランシス・レイ「パリのめぐり逢い」(1967年)
やっぱり僕はレイが好きだったんだと今わかりました。D♭M7-Csus7-C-BM7 - B♭sus7なんてコード進行は当時は高級すぎて不可知。しかし、おしゃれだ。ギターであれこれ試してついに秘密を解き明かしたわくわく感は忘れません。この時の「悔しいけどおしゃれだ」がそのままパリのイメージになったのでした。
シェルブールの雨傘(ミシェル・ルグラン)
戦争が引き裂いた恋人たちの悲劇というと、僕が断トツに愛する映画は『哀愁』(ウォータールー・ブリッジ)です。私事で恐縮ですが、突然に米国留学の社命が下ってまず頭をよぎったのは哀愁でした。もしも2年待っててくれと言って家内とどうなったか・・結局そのままロンドン赴任になって8年帰ってこなかったのだから・・。哀愁は今でも涙なくして観られません。対してパリの傘屋の娘はどうだろう。妊娠していてそれはないだろうなんて思うのは古い人間なんでしょうか。悲恋なのかどうかよくわからないのがフランス映画らしいといえばいえますが、ルグランの音楽は悲しいですね。そういえば「パリ殺人案内」の歌手の娘も冤罪で投獄された恋人の子を宿していて、どうなるか心配しましたが・・。
以上、パリ音楽めぐり、なぜかラヴェルもドビッシーも出てこないのでした。
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オッフェンバック「地獄のギャロップ」(フレンチカンカン)
2020 DEC 1 1:01:36 am by 東 賢太郎

熱海まで気晴らしに行って網代から南の方の青々とした海をぼーっと眺めていたら、ふと昭和の昔の、
「イトウに行くならハトヤ、電話は4126(よいふろ)」
のCMソングを思い出した。まあ関東の方しかご存じないだろうが当時の子供は誰でも知っていた。そうすると不思議なもんで、もうひとつ浮かんできた。
「カステラ一番 電話は二番 三時のおやつは文明堂」
すると、歌じゃないけど
「ナボナはお菓子のホームラン王です」
で一本足打法の王選手がくっきりと出てくるし、
「長生きしたけりゃちょっとおいで ちょちょんのぱ ちょちょんのぱ」
は船橋ヘルスセンターだ。そんなのがあったんだ。
この中でクラシック音楽がひとつある。これだ。一般に「フレンチ・カンカン」と呼ばれる。can canがなんのことかは調べたがよくわからない。
当時僕は7才。もちろんカステラ屋の歌だと思ってたが、のちにこういうもんだと知ることになる。
これはパリのキャバレー「リド」である。トップレスのお姉さんが出てくるが浅草のストリップではない、女性と観ながら食事する大人のショーだ。画家ロートレックが通ったムーラン・ルージュも悪くないが、僕は舞台が派手めなリド派でパリへ行くと寄るのを習慣としている。ただし料理はどうということはない。
この曲はフランスの作曲家ジャック・オッフェンバック(1819 – 1880)が作曲したオペレッタ「地獄のオルフェ」(1858年)の中で演奏される「地獄のギャロップ」である。サン=サーンスは『動物の謝肉祭』で動きがのろい「亀」に逆説的に本作のパロディを用いているが、元をただせば「地獄のオルフェ」のほうもグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」のパロディだから手が込んでいる。
クラシック音楽の内で1,2を争う有名なメロディーであり知らない人はあまりいないと思うが、”文明堂世代” を除くとどこで知ったか大概の人は知らないという恐るべき曲だ。無意識に刷り込まれてしまうステルス戦闘機のごとしである。オッフェンバックはユダヤ系のドイツ人で、本名はヤーコプ・レヴィ・エーベルストだ。そういえばフランクフルトに住んでいたころマイン川の反対側にオッフェンバッハ・アム・マイン(Offenbach am Main)という街があった(バックは英語読み)。何でかなあぐらいは思っていたが、そこが彼の出身地で芸名の由来とはつゆ知らずだった(というより、彼にはその程度の関心しかなかった)。
ちなみにパリでロッシーニと共にグランド・オペラの先駆者となったマイヤベーアもユダヤ系ドイツ人だが、18~19世紀前半のパリはロンドンと並んで外国人音楽家の格好の出稼ぎの地であり、グルックもロッシーニもそうだったし、だからあのモーツァルトも母と一緒にやってきて就職活動をしたのだ。ロンドンもそうだが、ルイ16世がユダヤ人に完全な市民権を与えたためユダヤ系音楽家にとって活躍し易い環境が整っていたことも大きい。米国の科学やロケットや核技術は処刑せずに連れてきたナチのユダヤ系科学者の由来だし、国家、都市の繁栄においては優秀な血を入れることがいかに有効かよくわかる。僕は歴史上の日本国の最大の失敗の一つは、満州国に亡命ユダヤ人の入植を認めなかったことだと考えている。
オッフェンバックはパリに出て劇場を買い「シャンゼリゼのモーツァルト」といわれる評判をとった。勝負師でありやり手のビジネスマンでもあったと思われる興味深い人物だ。「地獄のオルフェ」はブッフェ=パリジャン劇場で1858年10月20日に初演され、翌年6月まで連続228回公演を記録した大ヒットとなり、大赤字だった経営を潤した。その劇場はオペラ座から南東に約200メートルほどのモンシニー通りに今もひっそりとある。これがそれだ。カンカンはここで産声を上げた。
写真のつきあたりのイタリア座(サル・ヴァンタドール)は今は銀行になっていて華やぎの面影もないが、現在のオペラ座(ガルニエ宮)ができるまではパリのオペラ座といえばここで、ヴェルディの椿姫など15の主要作品のパリ初演が行われた。1700席の優雅な劇場で、特権階級が通い貴族の社交サロン的な役割も果たしここのボックス席を購入することが上流客のステイタスとなっていた。
10年前にここへ行ったとき、しばし往時を偲んでたたずんだ。そして思ったことがある。イタリア座の壮麗なファサード(正面)は写真の向こう側で、見えているのは背面だ。こっち側に来たのは中流階級以下の客だ。そこにオッフェンバックの劇場が、まるで尻を向けられ後塵を拝するようにちんまりとある。自信満々の彼はオペラを書きたかったが劇場や出版物の検閲を担当していたフランス内務省の劇場経営規則にひっかかり公演規模からオペレッタ(オペラ・ブッファ)という大衆バージョンしか書けず、それならそれだ、この野郎いまに見てろと爪を研いでいたはずだと強く共感したのだ。まったく非科学的なことだが、「僕は何かが起きた土地」の霊気のようなものに当たってしまうことがある。というのは、そのパリ旅行は、このブログの「運命のとき」(必然は偶然の顔をしてやってくる)にロンドンから気晴らしに立ち寄ったもので、スローン氏への入魂のプレゼンを終えたほやほやの3日後だった。まだどうなるものともわからぬ不安の中で気が立っており、それでもその恐怖を跳ねのけるため「いまに見てろ」と痛烈に思っていたわけだが、写真の場所で何かを強く感じ、そのあたりを長いことひとりでうろつき、写っているホテルに「泊まってみたい」と日記に書いている。
「地獄のオルフェ」はオッフェンバックが満を持して殴り込みをかけ、上流社会の論壇を大炎上させたという意味でモーツァルトのフィガロの結婚に匹敵する価値ある一作である。斯界の大御所グルックの看板作品の筋書きをひねり、アリアまでもじって笑いを取ったわけだが、その笑いそのものが風刺として政治に向けられたものであり、上流社会は貶められたと非難をし、「オルフェ論争」と後世に残るほどの騒動となってパリ中にセンセーションを巻き起こした。その意味が、写真の景色を30分ほど立ちすくんで眺めていて痛いほどよくわかった。いずれ僕は再びこの地に行ってみることになるだろう。そのホテルに泊まってブッフェ=パリジャン劇場でオペレッタを観るのだ。
”文明堂” のカンカンに話を戻そう。これを管弦楽曲としてやる場合は「序曲」ということになる。原曲に序曲もなければ、あのカンカンの形の曲はオペレッタの原曲にはない。なぜならウィーン初演のためにカール・ビンダーが本作から聞きどころを編んだもので、むしろビンダーの作品と考えた方が良い。父が買ってくれたボストンポップスのLPレコードにそれが「天国と地獄」序曲のタイトルで入っていて、最後のカンカンに至って「あっ、カステラ一番だ」と楽しんだが、すぐ飽きてばからしい音楽と思い始める。ガキにこの作品のオトナの事情など分かるはずもなく、それ以来オッフェンバックは三流の作曲家になった。
そうではなかった。「地獄のオルフェ」は彼が敬愛し、やはりパリに定住して人気者になったロッシーニに並ぶ底抜けに楽しい作品だ。浮気している妻がヘビにかまれて死んでラッキーと喜ぶ夫、倦怠期の夫婦の話だ。それを神々の天界にもって行って「オルフェオとエウリディーチェ」の夫婦愛物語にひっかけて思いっきり笑い飛ばしてしまう。僕はこれをドリフターズがコントにして、志村けんが夫を由紀さおりが妻をいかりや長介がジュピターをやったら面白いだろうなーと思う。ぴったりだと思う。日本全国爆笑もんだろう。そういう話なのだ。
カンカンはオリュンポスに退屈した神々が「活気にあふれた地獄」へ行けるとジュピターを讃えて馬鹿騒ぎする、その乱痴気の馬鹿馬鹿しさ加減を(これは国会に飽き飽きした政治家どもをおちょくっているわけだ)あえてにぎにぎしく破廉恥に描いた場面なのである。その意図と出来栄えに喝采だ。譜面づらでなく、オッフェンバックの知性と技を見なくてはならないわけで、こういうものを大指揮者の皆様がどう解釈しているかは大層興味を引く。
まずフランス語圏のエルネスト・アンセルメだ。以下どれも7分ちょっとあたりからカンカンになる。
うーん、遅い。真面目だ。数学者のアンセルメ様にはむいてないのだろう。
ルネ・レイボヴィッツだ。歌入りであり彼はオペレッタも振っていると思われる。
特にどうもないが、ブッファのがやがや感は好ましい。しかし、思うのだ。彼はピエール・ブーレーズの師匠で、彼の春の祭典は各所のコンセプトがブーレーズCBS盤に酷似している。ブーレーズがカンカンを振る気を起こさなくて本当に良かったと思う。
ドイツの巨匠ルドルフ・ケンぺだ。なんとウィーン・フィル。
だんだん速くなる。さすが、シンフォニックだ。でもオペレッタじゃ使えねえな。
ご本家フランスのジャン・マルティノン。オケはロンドンフィル。
良いテンポだ。最後のアッチェレランドで興奮を煽るが、終始お品が良い。乱痴気にはできないお方だ。
あの天下を睥睨する大御所のヘルベルト・フォン・カラヤン様がどう扱うか。フィルハーモニア管だ。
いや参りました。なんというスマートな格好良さだろう!
主部の旋律を吹くトランペットを普通の指揮者は朗々とテヌート気味に響かせ、踊りは盛り上がるが往々にして誠に下品である。ところがカラヤンはそれを短めに、なんと徐々に抑え気味に吹かせて気品すら漂わせるのに成功しているではないか。二度目の「カステラ一番・・」で和声パートの高音部を対旋律にして浮き出させ淡い色香を加えるなど、他の誰も思いもつかぬ達人の技だ。こんなにイケメンで決められると乱痴気などほど遠いが、カラヤンの魔術の前にそんなこと消し飛んでしまった。
彼は後に同曲を再録音する。旧盤の名演奏をもってしてそこまでやるかと思うし、こういうナンバーをベルリン・フィルハーモニーにまじめにやらせてしまう人事力も敬服ものだ。7分30秒からお聴ききになれる。
皆さまご感想はいかがだろうか。
悲しいけど誰もが年をとる。それを老成、晩熟などと評することもあるが、カラヤンはむしろ早熟の人だったと思う。旧盤に書いた美点は見事に全部消えている。テンポは遅くなり主部は弦とティンパニの後打ちリズムが大きくなり、音楽を立体的にしようという意図が見えるが流麗なスマートさよりドイツっぽいごつごつ感が加わっている。メロウだった対旋律作戦は放棄されている。あくまで個々人の好みの問題ではあるが、僕は断然、フィルハーモニア盤をとる。
最後にカラヤンもびっくりのを。美女軍団のヴィーナス管弦楽団だ。
僕は読売巨人軍の公式マスコットガール軍団「VENUS(ヴィーナス) 」の大ファンであるが、美女オーケストラなんてものは想像もつかなかった。誰が考えたのか、畏れ多いというか、もの凄い発想力だ、ちょっと負けるかもしれない。日本でも作っていただきたい。
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サンサーンス 交響曲第3番ハ短調 作品78
2018 APR 10 22:22:56 pm by 東 賢太郎

この曲のレコードを買ったのは高3の時で、当時「オルガン付き」と呼ばれていた。「オルガン付き」とはなんだ?「オルガンなし」もあるんか?それならマーラー6番は「ハンマー付き」だ、幻想は「法隆寺の釣り鐘付き」なんて凝ったのがあってもいいな。友人と高校生にしては結構ハイブロウなジョークで笑っていた。第九の「合唱付き」が最たるもので浅はかなキャッチコピーなのだが、売れないクラシックを何とか売ろうという営業努力は認めてあげたかった。
まず目をつけていたのが、火の鳥で味をしめていたアンセルメ / スイス・ロマンド管のDecca盤だ。そこまで大人界をなめていたのに、アンセルメ盤の帯に「地軸を揺るがす重低音」とあるのに参ってしまったのだ。この曲は音が命だろう。Deccaは音がいい。そんな先入観があった上に「地軸」まで持ち出されたらイチコロだった。パイプオルガンの可聴域外(20ヘルツ以下)音を体感できるという意味だが、うまい表現をしたものだ。
アンセルメが欲しいが2000円のレギュラー盤だ。かたやオーマンディの廉価盤(右・写真)は1500円で音も悪くなさそうである。試聴などできない時代だ。安いし帯に何も書いてないし、もしかしてこっちは地軸が揺るがないのではないかと迷った(笑)。500円は今ならコンビニ弁当の値段だが当時の高校生には大差であって、結局、さんざん悩んでオーマンディーに落ち着いた。もうひとつ笑える話がある。ええい、こっちにするぞ、と決めたのはオルガニストの名前が「パワー・ビッグス(Power Biggs)」だったからだ。パワーとビッグなら地軸も揺らぐだろう。これと500円残るということで、散々迷ってしまったなさけない自分を納得させる必要があった。僕のクラシック入門はそんなものだった。
今ならアンセルメもオーマンディーもネットでタダで聴ける「コンテンツ」にすぎない。コンテンツ・・・なんて塵かホコリみたいに軽薄な響きだろう。それに僕らは大枚をかけて、何日もかけて、批評家の意見などを読みまくって真剣に迷ったのだ。意思決定に迷うというのは脳がいちばん疲れると本にあったが、いってみれば筋トレと同じことであって、クラシックは僕の成長過程で最高の脳トレであった。そしてそれだけ迷えば、当然のことながら、真剣勝負で聴くのだ。どれだけ耳が集中したことかご想像いただけようか。こうやって僕のクラシック・リスナー道は筋金がはいった。おかげでサンサーンスの3番は、どのベートーベンよりモーツァルトよりブラームスよりも早く、新世界と悲愴とともに「完全記憶」して脳内メモリーで再生できる交響曲となった。
もちろんアンセルメ盤をあきらめたわけではない。大学時代にいわゆる「(並行)輸入盤」というものがあることを知り、欧州プレスは日本プレスよりも音が生々しいという評判でもあったからあちこちで探した。日本プレスで地軸が揺らぐなら輸入盤は地割れぐらいできるに違いない。そこでついに発見した3番の英国プレス(右、London、Treasury series、STS15154)は神々しく輝いて見え、しかも新品であるのに価格は1200円(!)と800円安く、キツネにつままれた気分であった。ここから僕は輸入盤をあさっていくことになる。アメリカへ行きたいと思ったのは、レコードが安いかもしれないと思ったせいもある。ともあれ初恋の人を手に入れた喜びは格別でわくわくしてターンテーブルに乗せた。地軸はおろかテーブルの花瓶が揺らぐこともなかったのは装置が貧弱だったせいもあるが、フランス風の上品な演奏だったからだ。
この交響曲は2部に分かれた2楽章形式だから実質4楽章である。魅力はなんといっても心をかき乱す出だしの小刻みなハ短調主題だ。スパイ映画に使えそうで最高にカッコいいではないか。スケルツォに当たる第2部前半の主題もティンパニが効いてイケてる。緩徐部も実に分かりやすいロマンティックな音楽で、オルガンの派手な効果もあいまってどなたも2,3回聞けばおおよそのところは覚えられること請け合いのやさしさだ。
そう思ってすぐにDurand社のオーケストラスコアを買うが、冒頭主題のトリッキーなリズムの1拍ずれが薬味になっているなど高度な隠し味が満載で解読は一筋縄ではいかなかった。僕はサンサーンス(1835 – 1921)の熱心な聴き手ではない。ピアノ協奏曲はほとんどあほらしいと思っており、室内楽も頭と指が勝った作り物に感じてしまう。ただこの3番だけはその才能がスパークしてぎゅっと詰まった天才的な部分があることを認めざるを得ない。
特に和声が面白く、後年にピアノスコアを手に入れた。第1部後半緩徐部のオルガンが伴奏する弦の主題は初心者でも初見で弾けるが、バッハのようで実に気高く気持ちが良い。第2部前半のピアノが活躍する部分が静まったあとモーツァルトのジュピター主題がフガート風に現れ、後半のコーダ、まさに終結に至らんとする快速の部分は幻想交響曲のフィナーレそっくりだ(しかも、どちらもハ長調トニックで終結)。バッハに始まりモーツァルトのハ長調、ベートーベンのハ短調を通って自国の先輩ベルリオーズに至るこの曲は1886年にロンドンで初演された。フランス器楽曲振興のためセザール・フランクと「国民音楽協会」を立ち上げたサンサーンスの面目躍如で最後の交響曲となるが、1885年初演のブラームスの最後の交響曲である第4番がバッハのカンタータ第150番、ベートーベンのハンマークラヴィール・ソナタを辿ったのを意識していないだろうか。
第1部前半の第2主題。白昼夢のように麻薬のように美しい。提示部ではまず変ニ長調で現れ、ハ長調に行ったり来たりふらふらしながら徐々に展開していく部分は見事だ。再現部ではヘ長調になっているがすぐに半音下のホ長調に転調する(!)。こういうことはドイツ系の音楽では聴いたことがなく、半音ずつファからシまで6回下がるバスなどチャイコフスキーなどロシア系、特に同世代のボロディン(1833 – 1887)に近い(楽譜のSubordinate Themeがそれ。上掲オーマンディーの8分49秒から)。
後にいろんな演奏を味わってみるとオーマンディーCBS盤はこのオケにしてはアンサンブルの精度がいまいちで、第1部後半の甘ったるいポルタメントも趣味ではないし全体の解釈のメリハリも薄く平板に感じる。曲の魅力をばしっと教えてくれたのはアンセルメでもなく、シャルル・ミュンシュ / ボストン響のRCA盤であった。彼の幻想に通ずるものがある融通無碍の流動感とメリハリ。フルトヴェングラーのブルックナー解釈のフランス版といったところで、楽譜の読みは主観的だがツボにはまった時のインパクトは大変に強い。米国で最も欧州っぽい音がするボストン響を乗せまくったこれはいま聴いても心をつかむ最高の名演だ。
この3番という交響曲、そんなに愛してたのに、どういうわけか僕の心はすきま風だ。好きな方は多いだろうし申し訳ないが、書いたように細部は非常に優れたところがあるものの、全体として聴後の印象はフランス3大交響曲の幻想、フランクのニ短調と比べると格落ち感がある。立派に知的に書けた曲なんだけど、感情の表層を心地良く撫でてくれるが、あれこれ小道具が満載な割に体の芯があったまらずポップスみたいに通り過ぎてしまう。クラシックファンを名乗るなら知らないことはあり得ない必修曲だし、喜びを返してくれることは保証付きだからまずは完全記憶することを強くお勧めするが、無責任なようだが新世界と同じく僕にとってはもう特に聴くことはない思い出のなかの音楽だ。
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オネゲル 交響曲第3番「典礼風」H.186
2018 JAN 10 7:07:28 am by 東 賢太郎

ニューイヤー・コンサートはヒットラーが始め、ワーグナーも宣伝に使われました。国歌がコンサート・プログラムにならないように、政治と音楽は水と油と思います。音楽は幸福や歓喜だけを描くものではなく、苦悩、怒り、悲嘆、安寧、諦め、恐怖、憧憬、奮起、嘲笑、夢想、欲望、神性などあらゆる人間の心の有り様を想起させる力があります。表面的には戦争を描いたようにきこえるショスタコーヴィチですが、吐露したのは怒り、恐怖、嘲笑でしょう。
昨年の漢字は「北」でしたが、困ったちゃんとトランプの駆引きにやるせない殺伐とした気配を感じる年でした。それに反応して僕の脳裏にいつも浮かんでいた音楽が、アルテュール・オネゲルの交響曲第3番「典礼風」です。知らない方もおられるかもしれませんが、ぜひこの名曲中の名曲になじんでいただきたい。素晴らしい交響曲というのにとどまらず、オネゲルがこれを作曲した当時と現状と、人間というのはなんと変わらないものか、歴史は繰り返すのかということを悟っていただけると思うからです。
この作品の初演は1946年8月17日にチューリヒでシャルル・ミュンシュが指揮していますが、ということは作曲は第2次大戦末期です。平和をニューイヤー・コンサートにラップして偽装したヒットラーの末期はこの曲の第1楽章「怒りの日」に現れています。スイスは永世中立国だから軍隊とは無縁と思われるかもしれませんが、独仏伊の3強国に囲まれたこの国はそれを宣言すれば安全と思うほどボケていません。スイスはれっきとした武装国で徴兵があり、ボーデン湖に潜水艦まで保有しています。平和憲法があれば安全などとまじめに思っている人は壮絶な殺し合いの世界史に無知蒙昧というしかありません。
オネゲル(1892年3月10日 – 1955年11月27日)はフランス六人組の一人とされますがスイス人です。第1次大戦に従軍しています。僕が野村スイスの拠点長をしていた1996年に発行された忘れもしない第8次のスイス・フラン紙幣の20フラン札(下)を見て、彼にそそがれる誇りの眼差しを感じました。とても懇意で母、家族まで自宅に招いてくださったスイス連銀総裁のツヴァーレンさんに、素晴らしいお札ですとオネゲルの音楽への賛辞をこめて申し上げると嬉しそうにされていました。
凄惨な第2次大戦が唯一人類史に貢献したのはこの交響曲の第2楽章「深き淵より」(De profundis clamavi )が迫真の「平和への希求」をもって生まれたことでしょう。この驚くべき楽章はショスタコーヴィチの第5番の第3楽章と並ぶ20世紀最高の緩徐楽章でしょう。この2曲のピアノ譜が手元にないのがいけませんね。ショスタコーヴィチは生涯に3曲だけ他人の作品のピアノ連弾譜を残していて、ストラヴィンスキーの詩篇交響曲、マーラー交響曲第10番、そしてオネゲルの3番なのですが、プラハでこれを聴いて「思想の重要性と情緒の深さをめざしている点で光っていた」と評しています。どうしても手に入れたい。
まずは全曲をその編曲版で。スコアの骨格を知るにピアノ版ほど便利なものはありません。2台のピアノの為のソナタとしても一級品であります。
第3楽章は、あえてそう書いた「馬鹿げた主題の行進曲」で開始します。どっかの国の恥ずかしいほど歩調が合った行軍を連想しながら聴いてはどうでしょう。ここは似たことを5番で試みたショスタコーヴィチが共感したでしょう。オネゲルはこう語っています。
「私がこの曲に表そうとしたのは、もう何年も私たちを取り囲んでいる蛮行、愚行、苦悩、機械化、官僚主義の潮流を前にした現代人の反応なのです。周囲の盲目的な力にさらされる人間の孤独と彼を訪れる幸福感、平和への愛、宗教的な安堵感との間の戦いを、音楽によって表そうとしたのです。私の交響曲は言わば、3人の登場人物を持つ1篇の劇なのです。その3人とは、「不幸」、「幸福」、そして「人間」です。これは永遠の命題で、私はそれをもう一度繰り返したに過ぎません…」(ベルナール・ガヴォティのインタビューに答えて)
何と直截的に現代の世相を言い当てていることか、何と我々は1945年と同じ状況に生きていることか、ぞっとしませんか?愚者が刃物を持っています。あれと同じことはひとつ間違えればいつでも起きる。行進曲は文明が生んだのです。愚者を眺めるオネゲルの嘲りと侮蔑はショスタコーヴィチほど辛辣でも激烈でもないけれど、スイス人の彼には馬鹿に応援ソングを書いてやる必要はありませんでした。から騒ぎで終わらせざるを得なかった5番と違い、彼の3番は典礼風にホ長調で静まり、鳥が天国の至福を囁きながら虚空に消えて行くのです。
エヴゲ二・ムラヴィンスキー / レニングラード管弦楽団
この刃物のように鋭利で氷のように冷ややかなタッチの名演なくしてこの曲の真価を知ることはありませんでした。ピッチ、アゴーギクへの微視的執着。ブラスの原色効果。木管の細かな経過句にまで宿る命。打楽器の強烈なアジテートから静謐な霧の彼方に消えてゆく衝撃さえ感じる後光のような終末の和音!ライブでこれだけ徹底管理下での緊張感でとんがった演奏はもはや世界のどこでも聴けない。どうしてだろう。気骨のある若手が突っ張ってオケを締め上げてみれば面白いのにと思うが、パワハラだブラックだって言われちゃうんでしょうね。女性には目つきがセクハラだなんて。和気あいあいの指揮者からこういう音は出ません、絶対に。ひとつの文化の死滅ですね。
ヘルベルト・フォン・カラヤン/ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ナチス党員だった指揮者がこれを振る。それってヘイト・スピーチしてたやつがハンセーンって叫ぶみたいなものか。しかしこのライブは3番がこれでいいんだっけというほど美しい。御託を並べる気力も失せるほどうまい。1969年のスタジオ録音もありますがこれは最晩年となった84年12月12日ベルリン・フィルハーモニーでの演奏会(後半にブラームス1番をやった)。一発勝負の気迫でそれでもスタジオと変わらぬほどビシッと合ってしまう。録音も見事にあのホールの感じをとらえています。ムラヴィンスキーのぴりぴりは薬にしたくてもないが、カラヤン・BPOが編集の作り物でなくこんな本物感のある壮麗な響きだったことが実証されています。
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ジャン・フランセ「花時計 l’horloge de flore (1959) 」
2017 NOV 24 0:00:01 am by 東 賢太郎

この曲をFM放送でたまたま聴いたのはいつだったか、覚えはないが高校生だったのはまちがいない。すぐに趣味にあうと思った。オーボエが好きだったし、どこか妙薬のようにしみこむ和声のくすぐりで心が動くのを感じたからだ。「花時計」という曲名に興味をいだかなかったのは僕らしいが、フランスの作曲家ジャン・フランセ(左、Jean Françaix、1912-1997) も知らなかったからそれ以前だ。なぜか一目ぼれして急に特別の曲になったが、ほかにそんな経験はない。
曲名は、咲く時刻の異なる花を配置した「リンネの花時計」なるものだと知ったのはずっと後だ。こういうものだ。
午前3時:Galaant-de-Tour 毒イチゴ
午前5時:Cupidone bleau 青いカタナンチュ
午前10時:Cierge a grandes fleurs 大輪のアザミ
正午:Nyctantthe du Malabar マラバーのジャスミン
午後5時:Belle-de-Nuit ハシリドコロ
午後7時:Geranium triste 嘆きのゼラニウム
午後9時:Tilene noctiflore 夜咲く虫トリナデシコ
しかし花オンチでどれひとつ知らないし、分類学の父カール・フォン・リンネ(1707~1778)には敬意を表するがそんなめんどくさい時計を誰が使ったのかと思う。要はこの曲は7楽章から成るオーボエのためのお洒落なディヴェルティスマンで、4つ目がプーランクのP協に似とるなあなんてことの方が僕には余ほど大事だ。どこが毒イチゴか、この曲の和声も怪しくていいなあ。
FMで聴いたのがアンドレ・プレヴィンのだったことだけは覚えている。オーボイストは記憶がない。ところが後で知ったが、それは米国人のジョン・デ・ランシーだった。それどころか、フランセに曲を委嘱したのも彼じゃないか。デ・ランシーは終戦直後の1945年の夏、ドイツに米兵として駐留した折に、すでに大作曲家だったリヒャルト・シュトラウスに会い、あのオーボエ協奏曲を書かせた伝説の人だ。そのことはwikipediaに以下のようにある。
第二次世界大戦終戦直後の1945年に、スイスのチューリッヒ近郊で作曲された協奏曲である。この頃シュトラウスはバイエルン、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの山荘に滞在していたが、そこへアメリカ軍に従軍していたオーボエ奏者のジョン・デ・ランシー[1]が慰問に訪れた。デ・ランシーは「あなたの作品にはオーボエの素晴らしいソロが多く出てきますが、そのオーボエのための協奏曲を書くつもりはないのですか?」と問いかけたが、シュトラウスは「特にありません」と返答した。デ・ランシーが引き上げてしばらくした後、シュトラウスは気が変わり、同年の秋から移住したスイスでオーボエ協奏曲の作曲を始めた。ただシュトラウスはデ・ランシーの名前を正しく憶えておらず、「ピッツバーグ」も「シカゴ」と誤記している。
初演は翌年の1946年2月26日にチューリヒで、マルセル・サイエのオーボエ独奏、フォルクマール・アンドレーエの指揮、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団によって行われた。シュトラウスが独奏者に希望したデ・ランシーは曲の完成すら知らないまま既に除隊・帰国しており、後に行われたアメリカ初演でも、在籍していた楽団の都合で結局吹くことができなかった。その頃ピッツバーグ交響楽団の1番奏者からフィラデルフィア管弦楽団の2番奏者(1番は師であるマルセル・タビュトー)に移籍したばかりで、当時の演奏家ユニオンの規定では、2番奏者は所属する楽団と協奏曲を演奏する事は出来なかったのである。後にタビュトー引退後1番奏者になってから1度だけ演奏(指揮はユージン・オーマンディ)しており、更に晩年には指揮者なしの臨時編成オーケストラと録音している。
彼はその後、フィラデルフィア管弦楽団の主席オーボエ奏者となりオーマンディの名盤の多くは彼が吹いている。まさかそのフィラデルフィアで2年の留学生活をしようなど、高校時代は地味で成績もぱっとしない男であった僕は知る由もなかった。
「花時計」をフランセに委嘱して1961年に初演したのがデ・ランシーだったと知ったのはいっぱしの衝撃だった。というのはブログにした通り僕は留学中の1983年にチェリビダッケとバーンスタインのリハーサルをカーチス音楽院で聴いた。いまや大家であるヴァイオリニストの古澤巌さんが音楽院生で、校長に部外者の入館許可がもらえないかと面会を取りはからってくれたのだが、その校長こそがデ・ランシー先生だったからだ。
ビデオがあった。なつかしい、まさにこの人だ。John de Lancie(1921年7月26日 – 2002年5月17日)。シュトラウスのこともここで語っている。
もうセピア色の思い出だ。面会時間になって先生の部屋におそるおそる入る。背が高い方で威厳があって、紹介されて握手はしたがにこりともせず気難しそうである。いぶかしげにじっと黙って僕の目を見ておられ、あんまり得意な雰囲気じゃない。27才のガキだった僕はすっかり圧倒されてしまい、こりゃ入館は断られるぞとひるんでしまった。いくら紹介があるとはいえ、こっちは只の音楽好きだ。天下のカーチス音楽院に足を踏み入れる理由なんかあるわけがない。
しかしそんなチャンスはもうないから引き下がるわけにもいかない。しどろもどろでウォートンにいるんだけどと自己紹介し、えい、とにかく当たって砕けろだと「指揮を勉強したいんです」と言った。そうしたら気合が伝わったのかひとことオーケーが返ってきた。きっとそれが出まかせと見抜いていたろうし、じゃあ入試受けてねで終わったかもしれなかったが、やさしい方だったようだ。思えばその時点ではR・シュトラウスの話も、この人があの「花時計」の生みの親とも知らなかったのだ。
いまだったらそこから話を切り出すこともできようが、そういうのはむしろNOをくらいそうな感じもあったから何とも言えない。余計なことは考えず、若者は体当たりがいいのかもしれない。思えば24才だった彼もそれをやったし、その時言ったことはシュトラウス先生の作品を知ってます好きですじゃあなく、あなたのオーボエ協奏曲を吹きたい!どうして書かないんですか?だ。その気合が大作曲家を動かして本当に書かせてしまったんだろう。
時間を頂いてシュトラウスやフランセの話を聞くことだってできたと思うと、当時の自分の無知が悔やまれる。しかしこれがきっかけで自分も元気のよい若者にチャンスをあげる人になりたいと思うようになったし、デ・ランシー先生のご恩は僕の中でそういう形で生きていると思っている。
これがそのデ・ランシー / プレヴィン / ロンドン響の「花時計」だ。なつかしい。何てチャーミングな音楽、演奏だろう。それにしても、高校のころFM放送で聴くのは知らない曲ばかりだったのに、どうしてこれだけ覚えたんだろう。
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クラシック徒然草ーフランス好きにおすすめー
2016 SEP 3 2:02:01 am by 東 賢太郎

ジャズやポップスはアルバムが唯一無二の「作品」ですが、クラシックはそうではなくて、作品が富士山ならアルバムはその写真集のような関係です。
しかし、中にはちがうのがあって、ほんのたまにですが、これは「作品」だという盤石の風格を感じる録音があります。風格というより唯一無二性と書くか、音の刻まれ方から録音のフォーカスの具合まで、総合的なイメージとしてそのアルバムが一個の個性を普遍性まで高めた感じのするものがございます。
演奏家と録音のプロデューサー、ミキサーといった技師のコラボが作品となっている印象でブーレーズのCBS盤がそれなのですが、DG盤もレベルは高いがその感じに欠けるのは不思議です。何が要因かは僕もわかりません。
名演奏、名録音では足らず、演奏家のオーラと技師のポリシー・録音機材の具合がお互い求め合ったかのような天与のマッチングを見せるときにのみ、そういう作品ができるのでしょうか。例えばブーレーズCBSのドビッシーの「遊戯」は両者のエッセンスの絶妙な配合が感じられる例です。
いかがでしょう?
冒頭は高弦(シ)にハープとホルンのド、ド#が順次乗っかりますが、ハープの倍音を強めに録ってホルンは隠し味として(聞こえるかどうかぐらい弱く)ブレンドして不協和音のうねりまで絶妙のバランスで聴かせます。聴いた瞬間に耳が吸いよせられてしまいます。
ここから数分は楽想もストラヴィンスキーの火の鳥そっくりでその録音でも同様の効果を上げていますが、いくらブーレーズでもコンサートホールでこれをするのは難しいと思われます。エンジニアの感性と技法が楽想、指揮者の狙いに完璧にマッチしている例です。
録音の品位、品格というものは厳然とあって、ただ原音に忠実(Hi-Fi)であればいいというものではありません。忠実であるべきは物理特性に対してではなく「音楽」に対してです。こういうCDはパソコンではなくちゃんとしたオーディオ装置で再生されるべき音が詰まっています。
僕がハイファイマニアでないことは書きましたが、そういう名録音がもしあれば細心の注意を払って一個の芸術作品として耳を傾けたいという気持ちは大いにあります。それをクラウドではなくCDというモノとして所有していたいという気持ちもです。
ライブ録音に「作品」を感じるものはあまり思い当たりません。演奏の偶然性、感情表現の偶発性などライブの良さは認めつつも、演奏会場の空気感や熱気までを録音するのは困難です。C・クライバ―、カラヤンなど会場で聴いたものがCDになっていますが、仮にそれだけ聞いてそれを選ぶかと言われればNOです。
「音の響き」「そのとらえ方」はその日のお客の入りや温度、湿度によって変わるでしょう。CDとして「作品」までなるにはエンジニアの意志、個性、こだわりの完璧な発揮が重要な要素と思われますが、彼らは条件が定常的であるスタジオでこそ本来の力が発揮されるという事情があると思います。
このことを僕に感じさせたのはしかしブーレーズではありません。右のCDです。これはSaphirというフランスのレーベルのオムニバスですが、同国の誇る名人フルーティストのオンパレードで演奏はどれもふるいつきたくなるほどの一級品。以下、曲ごとに印象を書きます。
ルーセルの「ロンサールの2つの詩」のミシェル・モラゲス(フルート)とサンドリーヌ・ピオ(ソプラノ)の完璧なピッチ、ホールトーン、倍音までバランスの取れた調和の美しさは絶品!これで一個の芸術品である。
ラヴェルの「 序奏とアレグロ」はフランスの香気に満ち、ハープ、フルート、クラリネット、弦4部がクラリティの高い透明な響きでまるでオーケストラの如き音彩を放つさまは夢を見るよう。パリ弦楽四重奏団のチェロが素晴らしい。この演奏は数多ある同曲盤でベストクラス。
ミシェル・モラゲス(フルート)、エミール・ナウモフ(ピアノ)によるプーランクのフルート・ソナタはフルートの千変万化の音色、10才でブーランジェの弟子だったナウモフのプーランク解釈に出会えるが、色彩感と活力、素晴らしいとしか書きようがなく、しかも音が「フランスしてる」のは驚くばかり。エンジニアの卓越したセンスを聴く。同曲ベストレベルにある。
マテュー・デュフール(フルート)、ジュリー・パロック(ハープ)、ジョアシン弦楽三重奏団によるルーセルの「 セレナード 」、これまた「おフランス」に浸りきれる逸品。この音楽、ドイツ人やウィーン人に書けと言ってもどう考えても無理だ。録音エンジニアもフランス、ラテンの透明な感性、最高に良い味を出しておりフルートの涼やかな音色に耳を奪われる。最高!
ドビュッシーの「 フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」は(同曲の本編に書きませんでしたが)、これまた演奏、録音ともベスト級のクオリティ。序奏とアレグロでもルーセルでもここでもフルートとハープの相性は抜群で、その創案者モーツァルトの音色センスがうかがえるが、そこにヴィオラが絡む渋い味はどこか繊細な京料理の感性を思いおこさせる。
以上、残念ながらyoutubeに見当たらず音はお聴きいただけません。選曲は中上級者向きですがフランス音楽がお好きな方はi-tunesでお買いになって後悔することはないでしょう(musique francaise pour fluteと入力すると上のジャケットが出てきます)。CDは探しましたがなく、僕も仕方なくi-tunesで買いました。間違ってもこんな一級品のディスクを廃盤に追いこんでほしくないものですね。
Yahoo、Googleからお入りの皆様
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深化しているシャルル・デュトワ
2015 DEC 18 23:23:53 pm by 東 賢太郎

きのうのデュトワのバルトークをきいていて、指揮者の読譜力というものを感じやはり指揮には指揮の特別の才能があると痛感しました。去年のドビッシーのペレアスとメリザンドも心底楽しませてもらいましたが、彼が読み取るラテン的な透明感と淡い音彩は何国の音楽であれ独特で高貴なデリカシーとパッションを纏うのです。現存の指揮者で、いつでもなんでも聞いてみたく、最も深い充足を与えてくれる一人であります。
これがきのうのマンダリンです(モントリオールSO)。バルトークにしてはエッジが甘いと感じる人もあるでしょう(というより、多いでしょう。僕も彼のストラヴィンスキーのCDを初めて聴いてそう感じました)。しかしその反面ほかの指揮者がバルトークのスコアから発想しない独特の生命感とフランス流の楽器の色彩があり、ソフトフォーカスでいい具合に溶け合う趣味の良さがみえます。当時はムード音楽だと無視していたのですが、一押しにはならないものの最近は魅力を覚えます。昨日のN響の演奏はこの録音より数段良かったです。
もうひとつ僕が気に入っているのがストラヴィンスキーの「兵士の物語」です。名演が多くありますがこれは独特の美質があります。ブーレーズのも傾聴に値しますが、同じくフランスの楽器でより洒落た味を出しており、図らずもストラヴィンスキーとパリの親和性を浮き彫りにしています。これを聴いているとオルセー美術館でバルビゾン派を心ゆくまで観ていた時の充足感が蘇ってきます。
デュトワ・N響Cプロ 最高のバルトークを聴く
2015 DEC 17 23:23:38 pm by 東 賢太郎

N響Cプロ(サントリーホール)でした。
コダーイ ガランタ組曲
バルトーク 組曲「中国の不思議な役人」
サン・サーンス 交響曲第3番ハ短調
80年代にデュトワがモントリオール響で録音したフランスものの色香が評判で、あれは録音のマジックではないかと訝しがる声もありました。僕も半分疑っていたのですが、84年にカーネギーホールで耳にした幻想交響曲はあの音だったのです。今日の素晴らしいバルトークは、あれをデュトワの感性が造っていたということを確認できるできばえでした。
最初のガランタ組曲は実演を初めてききました。貴重でした。ガランタは今はスロヴァキア領ですがコダーイはここで少年時代を過ごしたそうです。彼の思い出を映し出した曲なのでしょう、ハーリ・ヤーノシュほど面白いと思いませんがN響は熱演でした。
さて「中国の不思議な役人」ですが、ドイツ語題名はDer wunderbare Mandarinでありマンダリンと通称してます。バルトークの管弦楽ジャンルの代表作の一つといっていいでしょう、怪異な独創性と音色美を持つ天才的なスコアです。春の祭典の影響を明確にうけて作曲されたのはプロコフィエフのスキタイ組曲(アラとロリー)とこれでしょう。祭典が低音木管群を増強したのに対し、バルトークはそちらには出てこないシロフォン、チェレスタ、ハープ、ピアノ、オルガンを入れた点、両者の音色趣味が伺えます。
なかなか実演で聴けない曲であり、しかも大層な名演であり、大変に興奮いたしました。ブーレーズのCBS盤以外でここまでの演奏は初めてです。デュトワが振ると木管群の光彩が香りたち、金管が浮き上がらず、打楽器の音色まで耳をとらえます(バスドラの皮の張り具合がとても良かった)。フランス風という言葉を安易に使いたくないが、強烈なバーバリズムと調和したこのあでやかさは他に形容が見つかりません。N響から最も高貴なものを引き出し、今年のライブ最高のひとつになりました。デュトワとN響、心から称賛いたします。
ここで帰ろうかなと思い、結局デュトワに敬意があるので聞いたのですが、後半はストラヴィンスキーでもやって欲しかった。サンサーンスの3番については、お好きな方にはあらかじめお詫びしますが、一応僕の趣味を明らかにするために書きますと、トシと供にだんだん嫌いになってきて、いまや壮大な人工甘味料というイメージしかありません。
カラヤンやバレンボイムはオケとオルガンを別々に録音して重ねてますが、この曲はそんなことが許されてしまう。ベートーベンの第九で合唱だけ後で吹きこみましたなんてありえるでしょうか。これは交響曲の衣装をまとったショウピースなのです。フランツ・リストに献呈されていますが彼の管弦楽曲の浅薄さまでコピーしているようであり、サンサーンスという作曲家の技巧には敬服するものの本質は軽いと思ってしまう。
ということで録音では出し得ない皮膚で感じるオルガンの重低音に耳(体?)を澄まし、シンバルが何回ジャーンとやるか勘定するぐらいしか関心がわきません。ピアノとオルガンのための協奏曲とでもしておいてくれれば良かった。熱中していたこともある曲でピアノスコアまで持っているのですが、これを交響曲と称してベートーベンやシベリウスと並べられても・・・。
サン・サーンスは僕のチェロ愛奏曲である白鳥を書いてくれただけで感謝しているのですが。
(こちらへどうぞ)
