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カテゴリー: ______ブーレーズ

ストラヴィンスキー「3楽章の交響曲」

2018 SEP 20 1:01:49 am by 東 賢太郎

ストラヴィンスキーはカメレオンといわれる。長年そう思っていましたが、あの3大バレエ流儀の曲がもう出てこなかった聴き手の欲求不満がこもった揶揄とすればもっともです。それほどあの3曲は劇的に素晴らしい。いや、路線変更なかりせば10大バレエができたかもしれないが、どんな形式にせよあれは彼の才能が20代でスパークした瞬間を記録したブロマイドのようなもので残りの7つは30代の顔を映したもの、つまり結婚、プルチネルラ、きつね、兵士、ミューズ風のものが続いたに違いない。我々はそれを手にしているのだからそれがストラヴィンスキーなのであって、最近はむしろ変転できたことが彼の才能だったと信じるようになりました。

彼の家系はポーランドの貴族でリトアニアに領地がありましたが没落しています。マリインスキー劇場で歌う高名なバス歌手の3男としてペテルブルグ近郊で生まれ、サンクトペテルブルク大学法学部の学友の父リムスキー=コルサコフの個人授業を受けたことが音楽的基盤となりましたが、火の鳥に師の残照はあっても春の祭典に至るともう見えません。その20代の10年間の音楽のプログレスは驚異的で、並行して法学部で学位も得ているように、創造力ばかりが強調して伝わりますがそれ以前に格別の学習能力があったと思われます。彼の父の蔵書は図書館並みの20万冊であり、その血をひいてその家に育ったわけです。

作風変化の”カメレオン”には2つの世界大戦の影響を看過できません。バレエ・リュスの公演は第1次大戦で妨げられて収入が途切れ、終戦後はフランスを転々としますが1945年にアメリカに移住して市民権を得ます。ナチズムゆえ居所をアメリカに移した音楽家は多いですが、彼は土地も作品の版権も失いフランスでの人気も失せた経済的動機が大きく伝記を読む限りあまり悲愴感がない。宗教もカソリックに改宗したし、蜜月だったディアギレフは不仲になったがお墓は一緒でベニスのサン・ミケーレ島にあるという、まさに変転の人生であったわけで作風だけのという話ではありません。

米国人になって書いた最初の作品が『3楽章の交響曲』でした。新天地を賛美するわけでも希望に燃えて見せたわけでもなく、まず書いたのが戦争交響曲だったことは作風変化にそれがもたらした影響を物語ります。第1楽章は日本軍の中国での焦土作戦、第3楽章はドイツ軍のガチョウ足行進と連合軍の破竹の成功というドキュメンタリー・フィルムを見たことにインスピレーションを得たとストラヴィンスキーが語っており、第2楽章は映画音楽として構想された(実現せず)楽想が使われています。戦争と映画。時代の影を色濃く宿している作品ということで彼自身がこれを「戦争交響曲」と呼んだのです。

冒頭、ト長調音階を駆け上りますがオクターヴを半音通り越した短9度(a♭)で着地します。音程としてはブルックナー9番の終楽章冒頭の短9度跳躍を想起させますが、急速な主題のいきなりのパンチはモーツァルトのパリ交響曲冒頭ばりでもあり不安定な印象は倍加しています。非常に面白いスコアで作曲時が63才。いま僕がその年です。30才の作品を思い出せとなっても難しいと思うのですが、彼はここで有難くも春の祭典ばりの短3度ティンパニ、複調、変拍子を復活させてくれています。

新古典主義と評される枠内に留まり、祭典にはないピアノとハープが主役にはなりますが、この作品は僕にとってそのDNAを継いだ曲として稀有の価値を持っており、記憶してしまってからはその代用品としてワークしております。外を歩いていると時に歩調に合わせて不意に元祖の「生贄の踊り」のコーダのティンパニの変拍子が頭に響いてきて、それが始まってしまうと終わりの強烈な一発まで心中でエア演奏しないと気が済まないのですが、それが『3楽章の交響曲』第1楽章のこの部分であることもままあります。

ここのカッコよさ!ピアノの閃光がまるで弦チェレ第2楽章中間部ですが、ピッチカートとアルコ応対する弦セクションは4分音符を3223、3223、322、3223、3322・・・と分割する変拍子で祭典と同様リズム細胞の組み合わせになっていきます。このリズムはストラヴィンスキー以外の何物でもない。リズム、リズム!彼の本質はリズムです。「生贄の踊り」の悪辣な興奮はあの極限までエロティックな変拍子にこれしかないという短3度音程がまるで神が配剤した麻薬のようにふりかけてあるからに違いなく、それと同じものがこの曲のスコアの随所に潜んでいます。

短3度、複調、変拍子(変アクセント)への偏愛。彼は89才まで生きましたが、たしかに古典に帰ったと思うと12音にはまったり、僕も一時そう思っていたように節操なく見えるのです。しかし今はこう感じます。彼の根幹(本能的音楽嗜好)は揺ぎ無く一定であった。ただし常人離れした好奇心、猜疑心そして学習能力が常にその場の行動を駆り立ててしまう。ココ・シャネルら複数の女性にふらふらしたようにですね。しかしその性向こそが、お互いに似ていない3大バレエを同時に着想させた。彼自身が「複調」的な人物であり変拍子のように人生を歩んだと。それを後世の我々がどう評価しようと書いたスコアの前には微塵もなく吹き飛んでしまうのです。

このビデオはエーリヒ・ラインスドルフがクリーヴランド管弦楽団に客演した際の1984年のライブ録音で、フィラデルフィアの自宅でFM放送をカセットテープに録音したものです。ラインスドルフはフィラデルフィア管弦楽団で春の祭典をやりましたが非常に面白かった。楽譜の読み方、パーセプションがオンリーワンのラインスドルフ節であり、ぎくしゃくした腕の振りで明確に振り分ける。リズムに明敏。凄いプロです。彼は火の鳥でもペトルーシュカでもなく、祭典と3楽章です。ここでもそれが目に浮かびます。

(ついでながら、これが彼の春の祭典)

これはyoutubeから。この演奏は支持できますね、指揮者オケも存じませんが女性が戦争交響曲を振ろうという心意気がいいですね。奏者も良くついて行ってます。

 

ハンス・ウエルナー・ヘンツェ / ローマ放送交響楽団

これもyoutubeで拾いました。作曲家ヘンツェの指揮によるライブであり、イタリアの放送オケはへたくそな演奏が多いものだから何ら期待せず聴きましたが、意に反し、なんだこれは?という素晴らしい演奏です。完全にヘンツェの手の内に入っておりリズムへの反応が見事なうえに音色は非常にカラフル。これだけピアノが聞こえる録音はなくスコアリーディングに最適で何度でも聴きたい。これは入手したいですねえ。

 

ピエール・ブーレーズ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

BPOの技量に拠るところ大とはいえ、これだけ整ったアンサンブルを他に求めるのは難しいというレベルの演奏。このコンビのダフニスと管楽器のための交響曲を94年にベルリンで聴きましたが、ライブであれほどの完璧な音響というものは経験がなく、この演奏にもそれを思い出します。ただDGの春の祭典にも言えますが、隙のない絶世の美女の肖像画という印象で悪辣さや危なさに欠け、ニューヨークフィルとCBSでやっておいて欲しかった。野球のたとえで申しわけありませんが、これは単にスピードが160kmでる投手という感じであって、140kmなのにもっと凄みある球を放ってぜんぜん打てない投手はいるよということです。

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ブーレーズ版のアリスだった「マ・メール・ロワ」

2018 SEP 18 18:18:56 pm by 東 賢太郎

このラヴェルの「マ・メール・ロワ」が入ったブーレーズのLP、「来日記念」とシールが貼ってあるのでひょっとしてあれかなと調べたらそうでした。ニューヨーク・フィルがブーレーズとバーンスタインを指揮者として来日したのが1974年9月で、このLPは国内ではそれにひっかけて発売されたのですね。

聴いたのは9月5日の以下のプログラムで僕は浪人中でした。そうかこれNHKホールだったのか。1階向かって右手後方であんまり音は来ず、たいして感動しなかったのですが、あのホールだったらどうしようもなかったわけです。アンラッキーでした。

ベルリオーズ/ベンヴェヌート・チェリーニ序曲
ベートーヴェン/交響曲第2番
ウェーベルン/管弦楽の為の6章
ストラヴィンスキー/春の祭典

バーンスタインのチケットがすぐ完売でしたが僕はそっちはまったく興味なく、ブーレーズの春の祭典が生で聴ける、この事実にすっかり興奮していたのです。ベートーベンの2番はたぶんこれが人生で耳にした初体験でした。そんな初心者の時分から春の祭典はスコアごと写真みたいに暗記しており、それ故にブーレーズの旧盤をふくめた異演盤はどれもジャンク(junk、ゴミ)に聞こえるという抗いがたい事実に直面しておりました。困ったことにその「ジャンク」というのが春の祭典というスコアが孕んでいた特殊性による「誤り、または規範から逸れたいい加減」という風な認識だったものですから、以来そういう物や人は許容できないできない性格になってしまいました。ティーンエイジャーの脳みそは柔らかいのですね、僕という人間はブーレーズの音楽が作っている部分が多分にあります。

74年12月に本LPを買ってます。翌2月にやっと浪人生活から脱出できましたが、入試直前に息抜きが必要だったのか余裕だったのかは忘れてしまいました。春の祭典を別格として影響を受けた演奏はいくつかありますが、度肝を抜かれたのはマ・メール・ロワです。針を盤面におろす。つややかに磨かれたホルン2本が木霊のように響き渡り、ティンパニがドンと最高にいいピアニッシモで鳴ってピッコロとフルートの鳥がピヨピヨ鳴き交わすと弦のザワザワが始まります。なんとなんと眼前に忽然と広大なジブリの森みたいな空間が現れ、空気のにおいまで伝わってくるではないですか!音楽からこんなフルカラーのビジュアル・イメージが現れるなんて想像したこともなく、まるで魔法。一発でKOでした。これぞオーケストラの魔術師ラヴェル様の秘儀でなくて何でしょう。この演奏を知らない方はまずそこだけでいいから聴いてごらんなさい。

このレコードはまさに僕が買った実物。ここでこんな風になろうとはお釈迦様でもご存じなかったでしょう。「SQ quadraphonic」と書いてあるでしょう、これが前々稿に書いた当時CBSが売り出し中のHiFi録音で本LPも4チャンネル録音なのです。ジャケットにはこんな「効能書き」が入ってました。

今どき、こんなものはもう二度と出ないでしょう。いや、出たってこういう手の音響操作は「イフェクト」という味もそっけもないつまらない言葉で片づけられてしまうでしょう。

この録音では舞台上に並ぶオーケストラの音場はなくなってます(仮想音場です)。だから You are there ではない。だって楽器に囲まれてますからね、もはや there ってどこのこと?なのです。大阪万博のドイツ館でドーム型の天井を閃光のごとく音が突っ走ったシュトックハウゼンの音場、あれに近い。そういえば万博は1970年でしたね。ビートルズの後期もそうですよ、サージェント・ペパーズが1967年、アビイ・ロードが1969年で、ポップスの世界では仮想音場はすでに実験されていた。ビートルズがいかに驚くべき先進性を持っていたかという証左です。ロックは僕もそこそこ聴きましたが当ブログに「カテゴリー」を立てたいというのはほかに一つもない。「ビートルズはクラシックだ」というqualificationですね。

ブーレーズのCBS録音はマーキュリーのYou are thereの進化形としての仮想音場のコンセプトが昇華した音響作品集であり、そのアプリケーションがヘンデルからブーレーズ自作まで行われたという「時代の産物」だったのです。1974年のこのマ・メール・ロワはその中でも傑作中の傑作であり、最もポエティック(詩的)なバレエ版のスコアを使用したのも抜群のセンスでした。もちろん録音だけで仮装することは不可能で、ニューヨーク・フィルの奏者たちの演奏技術からブーレーズの耳が選び取った音群の勝利だったわけですが、ラヴェルがこう意図したかどうか疑問なほど全曲が一編の「妖精の園」と化しており、マザー・グースをルイス・キャロルが取り込んでしまった『不思議の国のアリス』に近似します。これはブーレーズ版のアリスなのです。

いまやシンセをいじれば誰でもかけられるイフェクト。それは写真というものが誰でもスマホで自撮りできてしまう時代に呼応しているのではないかと思われます。写真家の畏友・S氏によれば、写真の世界において「写真芸術とは何か」という命題が議論されているそうですが、それを想起させます。写真と写真芸術は厳然と区別されるべきと僕は考えます。誰でも撮れるスマホ写真を駆使して生きている我々にとって、写真という2次元の映像はもはやデジタルの記録媒体に過ぎずコモディティになってしまいました。フイルムは不要になって富士フイルムは売上の約半分をヘルスケアが占める業態転換に成功しましたが、米国の雄だったコダックはチャプター11適用で実質上の倒産会社になってしまった。何という激変でしょう。

我々人間の生活は文明の利器である自動車、飛行機、カメラ、テレビなどのインフラ環境によって大きく左右されてきましたが、インフラの変化は誰もが「便利になった」と即座に感じつつも、それが人間の精神に徐々に及ぼす影響については時間がたってからしか気がつかないのです。そして学者が指摘して社会レベルでそれに気がついた時には、人間の方がすでに変わってしまって取り返しがつかなくなっている。そのことは高々半世紀ちょっとを目撃してきた程度の僕でも、おそらく歴史的事実なのだろうと推論するに足るソリッドな現象のように感じられてならないのです。

ブーレーズのレコードをいま再体験して、はっきりと心に浮かんだことですが、皆さんにこういう質問をお送りしたい。こういう写真はこれから無用になってしまうのでしょうか、人の心を打たなくなってしまうのでしょうか?

 

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ブーレーズ「プリ・スロン・プリ」

2018 SEP 17 0:00:21 am by 東 賢太郎

ブーレーズのCBSコレクション67枚組の白眉の一つがこれでありましょう。後に(84年)「ワーク・イン・プログレス(進行中の作品)」として細かく改定されてゆくプリ・スロン・プリの69年時点の稿の自演盤として貴重であり、1969年5月8‐10日にロンドンのアビイ・ロード・スタジオでの録音ですが、あの春の祭典は同年の7月28日にクリーヴランドで録音されるのです。ここでの前稿で述べた素数のごとき「unbreakableな時間」が生む4次元のレイヤーは顕著で、これがそのまま春の祭典に乗り移った観があります。

ブーレーズの演奏はこの「時間」を分割して正確な位置に音をdotし、完璧な音価とピッチを与えるという行為に尽きます。当たり前ではないかと思われるかもしれませんし、すべての音楽演奏はそうであるべきなのですが、99%はそうではない無価値なものが巷に流れています。ここでのソプラノのピッチは素数そのものが美しいという次元の美を誇っていて彼女の歌が美しいメロディーに聞こえるかどうかというものではありません。aesthetically pleasingという英語表現があって、邦訳すると「審美的喜び」などと意味不明になりますが、要は美しく魅力的だということです。その「美しく」という部分がestheticであって、わが国では女性の通うエステとしてのみ認知される言葉ですが、美しいものに関する哲学的理論のことであります。

マラルメの詩に依拠した点は牧神の午後への前奏曲と同様。詩心はないので読んでません。純粋に音だけで楽しめる作品で、なじみのない方もフリー・ジャズと思って聴いてみてください。以下の5曲から成ります。

  • 第1曲 賓(たまもの)
  • 第2曲 マラルメによる即興曲I
  • 第3曲 マラルメによる即興曲II
  • 第4曲 マラルメによる即興曲III
  • 第5曲 墓

 

以下、だいぶ前に書いた文章を再録します。

 

ピエール・ブーレーズ「プリ・スロン・プリ」

ハリーナ・ルコムシュカ(Sp)  BBC交響楽団 (1969年)
第4曲のハリーナ・ルコムシュカの歌唱、急速なパッセージのソルフェージュ能力が凄い。彼女の声質と独奏楽器群の音彩の混合は完璧でまったく独自の宇宙を構築しています。終曲の砕け散ったステンドグラスのような音群のきらめきと変化値を微分したかのような音価と音量の増減によるリズム細胞。不協和な音の組合せの美を創造して時間支配の元に集積するとこうなるという強烈な主張であり、これを美という概念で感知するかどうかは人それぞれでしょうが、それがどうあれこの時間・色彩感覚でスコアを読み解いたのがあの火の鳥であり春の祭典だったのです。ブーレーズ芸術の底流に存在する血脈の原点を浮き彫りにした名盤であり、3種ある同曲の1番目の録音であるこれがその音楽的な発想の原形を最もクリアに浮き彫りにしていると思います。

 

ラヴェル 「古風なメヌエット」

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ラヴェル 「古風なメヌエット」

2018 SEP 16 17:17:34 pm by 東 賢太郎

僕にとってピエール・ブーレーズはル・マルト・サン・メートルの作曲家であると同時にニューヨーク・フィル、クリーブランド管とCBSに録音した70年代前期、楽器のミクロレベルのつややかな音色美を表現の重要な手段として探求し、同時に、ステレオ録音の立体感の中でオーケストラのマス感と個々の楽器の音色美とのバランスをかつてない精密さでコントロールした人として聳える巨人です(写真は1971年BBC SOを指揮するブーレーズ)。

LPレコードの歴史を振り返ると1950年代にモノラルがステレオに切り替わり、後者の再生装置の普及に伴ってHiFi(高忠実度)録音が商業的フロンティアになったのが60年前後です。45年創業と新興のマーキュリーレコードが映画の35mm磁気テープを3トラック録音に利用したリビング・プレゼンス・シリーズにより”You are there” (まるで演奏現場にいるみたい)という新コンセプトを打ち出したのは革命でした。

ラジオ、ジュークボックスからHiFiオーディオへと音楽を家庭で味わう需要の拡大期で、そこに今のシリコンバレーのように資本も才能もが集まる時代でした。70年ごろマルチトラック録音とミキシング技術は最頂点に達し、CBSはクオドラフォニックなる今なら 4.0 サラウンド・サウンドと呼ばれる4チャンネル録音の商業化を図り、”SQ” (Stereo Quadraphonic) という基準でソフトを製作し新市場の開拓を企図しました。部屋の四隅にピーカーを設置するこれも”You are there” の発展的試行でありましたが、SQは技術、コストの制約から商業的には失敗に終わります。

ちょうどその頃CBSが起用したアーティストがピエール・ブーレーズでした。彼がニューヨーク・フィルと録音したバルトークの管弦楽のための協奏曲はマトリックス式の4チャンネルで指揮者をオケがぐるりと取り囲む配置が売りでしたが、これも本作のみの試行で終ります。ブーレーズ起用はSQ技術の商業化としては結実に至りませんでしたが、そのCBSのモチベーションが”You are there” の近現代作品への適用という画期的副産物を産んだ事は後世に幸いでした。

この67枚のCBS盤はそうしたテクノロジーの完成期と、作曲家ブーレーズが指揮者として完成したがいまだ尖っていた時期がシンクロした奇跡の産物で、そこに自分のクラシック鑑賞の創成期もシンクロしていたという意味深い代物です。この中のストラヴィンスキーやバルトークで僕は育ったといって過言でありませんし、今もこの全集は僕にとって音楽の教科書の役目を果たしています。

通して聴くとこれは最高の知性であるブーレーズの音響世界(それは脳内現象だ)の具現化を種々の作品で試行した、彼にとってもラボラトリーの実験的意味合いがあった作品集なのだと感じます。ヘッドホンでの音像は4チャンネル再生に頼らずとも定位の明確なサラウンディングであり、まさに「まるで演奏現場にいるみたい」であります。すべての楽器は至近距離で室内楽のように聞き取れ、オケのマストーンが種々の “ミニチュア・アンサンブル” の集合体であることが手に取るようにわかります。

これが「レントゲンをかけたような」と当時評された印象を産むのですが、個々の楽器の音像はつややかで洗練の極みであり、そしてなによりピッチとリズムが完璧である。普通の人間の聴覚がミリメーター単位とするとこれはナノメーター単位の精度でコントロールされた音であり、ミクロの基本フォルムの美が構成する数学的均整が集積して巨大な全体像を成し、パルテノン神殿やギリシャ彫刻のような犯しがたい美を描き出すようなもの。これは黄金分割のプロポーションをなぜ人間が愛でるかという類の「美とは何か」なる問い(それに物質的解があるのでなく、あくまで脳内現象だ)に雄弁な例証となる音楽事例と考えます。

ブーレーズが支配しているのはピッチだけでなくアンサンブルの精度もそうで、それは厳格なタイミング(時間感覚)であります。これは優れた演奏家の必修科目と言ってよい。タイミングの良くない中でのルバートなどアバウトなだけです。そういうものを人間的と評価する向きも多く、たしかに人間の鼓動や呼吸は時計のようではありません。そうと認めつつも、演奏家の技術として完璧な時間感覚と支配力は絶対的な「説得力の素材」であり、それ抜きにパルテノン神殿やギリシャ彫刻のような犯しがたい美を描き出すことは不可能であります。

ブーレーズの「強靭な」時間支配力の一例として、ラヴェルの「古風なメヌエット」をお聴きいただきたい。この音楽のリアライゼーションとしてこれがベストかどうか、そういう演奏の好悪論を吹き飛ばしてしまう絶対性があるのがブーレーズの特色で、この演奏を遅すぎる、ラヴェルらしい華がないなどという意見も十分に許容しながらも、僕はここに犯しがたい何物かを感じるのです。

この時間の流れは堅固な組成物として実体があり何十トンの圧搾機で押しつぶそうともびくともしない、どこか人智を超えた宇宙的なものである感じがします。素数が割れないように、浅はかな人間のあらゆる試みをはねのける。僕は素数を美しく感じていて、それと全く同じ宇宙の絶対的な美を感じるのです。その時間の絶対性の規律の中で決然と打ち込まれるティンパニが「最後の審判」のような厳しさをもって聞こえます。凍りつくほどの威厳と恐ろしさを伴って。偶然ですがそれが左チャネル上方からあまり定位がはっきりせず降ってくるのが審判という感じを倍加しており、ティンパニの皮の振動が見えるようなボディのある音像が誠に好適です。

そこまで個々の楽器の音の質感(クオリア)の領域でこだわった録音は記憶になく、カラヤンが録音の新メディアに常にこだわったなどという俗物次元の話とは一線を画します。ここでは広い空間を感じるアコースティック(3次元)に時間軸が加わった4次元世界に、さらにクオリアという肌感覚をのせるという、それまでの録音には想像もつかない高次元の聴取体験を味わえるのです。この「古風なメヌエット」はブーレーズのやはり高次元のレイヤーを強く感じるウェーベルン集とまったく同じポリシーで演奏・録音されており、幸か不幸か僕はこの曲をこの演奏で知ったため他の演奏を聴こうというインセンティブはゼロです。

このような次元のレイヤーの構想がブーレーズだけのものなのかプロデューサーのトーマス・Z・シェパード(左)の意図も入ったものかは不明ですが作曲家でピアニストでもあり12のグラミー賞を受賞したシェパードはブーレーズの春の祭典のプロデューサーとしてもクレジットされており可能性は高いでしょう。恐るべきセンスと申し上げたい。この録音はラヴェルのスコアを素材としたブーレーズとチームの音響作品であり、一個の芸術品でもありました。

この全集はブーレーズの脳と自分とを対話させるプロセスを自分の脳がどう感知するかという実験室であって、そこに何を見出すかは個々の脳次第です。あらゆる音楽を聴く行為はそうであるともいえ、何を聴いて快感を得るかは人それぞれだから音楽の趣味はすぐれてパーソナルなもので、ジョークの質で人がわかるのと似た意味でどんな音楽が好きかでもわかると思います。ブーレーズを聴いてショックを受けたのは自分にもそういう要素があったからでしょうが、聴きながらさらにそういう性質の人になっていったかもしれません。

昨今のコストセーブのためのお手軽なライブのCD化などは、これを入念な芸術写真とするならスマホのスナップショットという体の存在で、そんなものを薄弱なPCのスピーカーで再現して聴けばどんどん奇演、爆演のようなものに関心のはけ口が向かうのも仕方ないでしょう。このブーレーズの全集のような、潤沢な才能ある人たちが腕によりをかけて金をかけた本物の音をそれにふさわしい装置でじっくり聞きこむという鑑賞態度がすたれつつあるなら悲しいことです。クラシックという本物中の本物である音楽を聴く以上、鑑賞スタイルも本物を貫きたいものですね。

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ブーレーズ 「主のない槌」(ル・マルトー・サン・メートル)

2017 OCT 23 1:01:27 am by 東 賢太郎

ブーレーズの代表作である当曲についてとなるとやや話がこみいってしまうがお許しいただきたい。これを初めて聴いたのは大学の時に借りたレコードだった。いきなりなんじゃこりゃで最後まで聴いたかは記憶がない。

ル・マルトー・サン・メートル(Le marteau sans maître)の邦訳は当時「主のない槌」だったと思う。槌とはなんだろう?見たことない。打ち出の小槌を連想し、そんなものを置き忘れてくる奴がいるのかと思った。というのは僕は生来の忘れ魔で、考え事をしていて電車に野球のネット用の鉄柱を忘れ過激派と間違われた前科があるから槌ぐらい忘れるのはなんでもないと思えていた。

この題はルネ・シャールなるシュルレアリスム作家の詩か何からしいが知らない。現代詩というのは読んだことぐらいはあるが、僕にはネコにイタコの呪文をきかせる未満のものであって、大変失敬とは思うがああいうものを愛でる方々とは人種はおろか生物種すら異なるのではないかと感じいるしかない。人間の作ったものに関心がないこっちの方がきっと異種なんだろうが。

音楽だって人間の作ったものじゃないかといわれそうだが、音階や和音の心に与える効果はそうではない。ドミソは明るい、ラドミは暗いと誰かが決めたわけじゃない。聞こえるのは純然たる自然現象の音波であり神様が人間の心の方をそう作ったのだ。だから僕は音楽は物理学、生理学、心理学のどれでもないが、ちょっとずつそれらと「かすっている」サイエンスだと思っている。

和音というのは美しい(少なくとも僕には)がその各音は倍音による音階から生まれたもので、ということは美しさの根源は自然倍音(上)に存在していることになるだろう。右の図は平均律と自然倍音の差異を示すが、ここでは64個目の倍音までのうちで各音の出現回数にご注目いただきたい。Ⅰ(基音)は6個、Ⅴ(完全5度)は5個である。ド(6)、ミ(4)、ソ(5)は出現回数で第1位~3位であり「ドミソが美しい」のは神様が決めた理に適っていると思えないだろうか。第4位のシ♭(4)を加え、各々の5度上(完全調和する)のシ、レ、ファ、その5度上のラを得ると、オクターヴ(2倍の周波数)を12分割する「音階」が得られる。出現回数ランキング上位の倍音を並べて、それが「美しい」となるように人間は神様によって作られていると考えるしかない。

言いたいのは出現回数は物理的、数学的に決まっており、誰か人が決めたものではないということである。だから12分割も宇宙の理であり10でも11でもいけない。それが「調和」の根源だ。縦(和音)であれ横(旋律)であれ、それが無調だろうが12音音楽だろうが不協和音であろうがである。「協和音、不協和音」とはミスリーディングな用語であって、「美人、不美人」と同じくなんら物理的に定義のしようもないな無意味、無価値な単語だ。音楽にはピッチの良い音と悪い音しか存在しないのである。後者は他の音と一切調和しない。だから神の原理にはずれていて、そもそも音楽演奏の素材として根源的に失格である。わかりやすく述べるなら、「音程の悪いドミソ」(協和音ではある)は不ぞろいの真珠をつないだネックレスであり、「音程の良い不協和音」はばらばらに配置した粒のそろった真珠である。

がさわる楽器はピアノであるのはそれが理由だ。平均律なる近似値とはいえ耳に不調和と聞こえないぎりぎりで踏みとどまった不調和で、ピッチの心配がなくどのキーをたたいても許せる調和があるからだ。即興でアトランダムのキーを弾いて(たたいて)楽しむが、それが曲といえようがいえまいが楽しい。アッ今のはいいなと思う瞬間があるが、それを譜面に書きとるのはめんどうくさい。即興してればまた来るさで済ますし、無限の可能性がありそうでわくわくもする。そこで、こうも考える。赤ちゃんは普通は子守唄を聴いて育つが、はいはいの代わりにピアノのランダムたたきをして育つとどうなるのだろう?

赤子のころ母が耳元で歌ってくれていたのがシェーンベルグでなかったことだけは確実だ。世界のお母さんが近未来的に子守唄を12音セリーで歌うようになるとは思わないが、そういう美というのはまだ動物に近い赤ちゃんに訴えかける力はないとされている(千年後の赤ちゃんはわからないが)。しかし、そういう美というものは存在はするのだ。なぜなら、自分の経験として、数学を解いていて美しいと思ったことが何度もあるし、自然倍音図を眺めた印象も似たものがあり、それが赤ちゃんには伝わらないから美しくないと言い切ることは不存在証明としては不完全である。

以下、2016年1月16日に書いたブログから「ル・マルトー・サン・メートル」について書いた部分の要旨を引用する。

 

9曲のセットである同曲は曲順を1-9とすると{1,3,7}{2,4,6,8}{5,9}に三分類され、個々のグループに12音技法から派生した固有の作曲原理が適用されていることがレフ・コブリャコフの精密な分析で明らかになっている。総体として厳格な12音原理のもとに細部では自由、無秩序から固有の美を練り上げるというこの時点のブーレーズの美学はドビッシー、ウエーベルン、メシアンの美学と共鳴するのであり、それを断ちきったシュトックハウゼン、ベリオ、ノーノとは一線を画するとコブリャコフは著書「A World of Harmony 」で述べている。興味深いことに、例えばグループⅠの作曲原理は(3 5 2 1 10 11 9 0 8 4 7 6)の12音(セリー)を細分した(2 1 10 11) 、(9 0)の要素を定義し、それらの加数、乗数で2次的音列を複合し、

(2 1 10 11) + (9 0) = ((2+9) (1+9) (10+9) (11+9) (2+0) (1+0) (10+0) (11+0)) = (11 10 7 8 2 1 10 11)

のように新たな音列を組成する。その原理がピッチだけに適用されるのではなく音価、音量、音色という次元にまで適用が拡張されて異なるディメンションに至るというのがこの曲の個性でメカニックな方法であることに変わりはなく、その結果として立ち現れる音楽において、それまでの12音音楽にないaesthetic(美学)を確立したことこそがこの曲の真価だった。聴き手が感知する無秩序はあたかもフィボナッチ数がシンプルな秩序で一見無秩序の数列を生むがごとしである。これの審美性は数学を美しいと感知することに似ると思う。

「主のない槌」の自筆譜

ブーレーズは自ら自作の作曲原理を明かすことはせず、むしろ聴き手がそれを知ることを拒絶したかったかのようである。しかし原理の解明はともかく聴き手の感性がそこに至らないこと、この美の構築原理がより高次の原理を生む(到達する)ことがなかったことから12音技法(ドデカフォニー)は壁に当たり、創始者シェーンベルグの弟子だったジョン・ケージがぶち壊してしまう。僕自身、12音は絶対音感(に近いもの)がないと美の感知は困難と思うし全人類がそうなることはあり得ないので和声音楽を凌駕することは宇宙人の侵略でもない限りないと思う。

しかし、そうではあっても、ル・マルトー・サン・メートルは美しい音楽と思う。その方法論でブーレーズが読み解き音像化した春の祭典があれだけの美を発散する。ある数学的原理(数学は神の言語であるという意味において)がaestheticを醸成して人を感動させる、それは必ずモーツァルトの魔笛にもベートーベンのエロイカにもあるはずの宇宙の真理であり、それは人間の知能には解明されていないだけで「在る(sein)」。僕はそれを真理と固く信じる者だ。

 

固く信じるとどうなるか?僕は「主のない槌」に、特にアルトが入る章に美を感じるのであって、それは魔笛やエロイカに感じるものと何ら変わりがない。ライブを聴いて帰宅する時の充足感の質は同じだ。とすると、それを生み出した何物かが3つの音楽のスコアに共通して隠れているはずなのである。それを発見したいなあと思うこと、発見は無理でも今日も経験したいなあと思うことが「音楽をサイエンスと考える」ということだ。

例えば、古代より人間が毎日見ている「太陽」(The Sun)をどう考えるか?まったく相いれない2つの道がある。ひとつはスペクトル型はG2V、表面温度約6000度、推測年齢は約46億年で中心部に存在する水素の50%程度を熱核融合で使用し主系列星として存在できる期間の約半分を経過している銀河系の恒星の一つと考える道。もうひとつは、「おてんとうさま」「おひさま」「朝日」「夕日」であり、信仰の対象となり、女性を「君は僕の太陽」などとたたえたり詩の題材ともなるがスペクトル型なんか知らないし気にもしない道だ。両方OKだよという器用な方もおられるかもしれないが、僕は100%前者の世界の人間であり、腹を割ろうが割るまいが後者の人と理解しあえる自信はあまりない。

同じことで、では音楽(Music)をどう考えるか(聴くか)?である。太陽を「銀河系の恒星」と認識するのと同じように、音楽は僕にとって物理現象、サイエンスである。コンサートホールで隣に座っている「太陽をおひさまと思っている人」とは、聴いているのは同じ音にちがいないが同じものを認識している保証はまったくない。これを「音楽に国境はない」「所詮は好き好きでいいんですよ」とまんまるに丸めて思考停止してしまっては元も子もない、それこそが「おひさま系」だ。「今日のエロイカは良かったですね」と話しかけられても、僕は「拷問でした」かもしれないのでそういう会話は歓迎しない。拷問をブラヴォーと讃える会場は太陽信仰信者の薄気味悪い集会場であり、すぐ退散する。

「国境はない」おひさま系は音楽にヒューマンなものを求める傾向がある。人類みな兄弟だからヒューマンなものに国境はないという理屈だろうが、137億光年先でも成り立つ物理現象のどこに国境がいちいち言説を呼び起こすほどの重要度をもって関わってくるのかまったく意味不明だ。兄弟でなくても敵同士でも、ドミソは楽しげだしラドミは悲しげである。音楽を文学的な文脈で聴くこと、あるいはそれを前提に書かれた音楽そのものの存在には、僕は子供のころ女の子が持っていた着せ替え人形に対するほどの関心を寄せることさえ困難である。

「主のない槌」という楽曲を構造論的に解析する力は今の僕にはないように思う。漫然と表現するなら、ピッチの美しさ、曼陀羅、ガムランのイメージを混合したタペストリーのような音色美を根源とした音楽である。その質感はドビッシー、メシアンの、セリー合成はシェーンベルクの遺伝子を継ぎ、必要とするアルト・フルート、ヴィオラ、ギター、ヴィブラフォン、シロリンバ、打楽器でピッチが可変的なのはヴィオラだけ(フルートもある程度)であり、ピッチは基本的に固定的環境で成立する。そこに声(アルト)という可変的な音が加わるため、そのピッチが厳密に問われ、それが達成されてシンクロナイズした時の美しさは誠に格別だ。

こういう質の美の世界の住人であるブーレーズがマーラー全曲を振ったというのは僕には青天の霹靂だった。親友に裏切られた感じすらする。今もって謎だが、本当に彼は共感したのだろうか?それとも僕の方がマーラーを誤解してるのか?

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ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

バルトーク ピアノ協奏曲第1番 Sz.83

2017 AUG 2 12:12:50 pm by 東 賢太郎

バルトークの音楽はきれいなメロディーが出てこない。だから「難しい」ということになりがちだ。しかし雅楽にだってそれはない。信長や秀吉が自ら舞っていた能楽を難解と思っていただろうか?みなさん歌舞伎座へ行って、ずらっと居並ぶ笛、三味線、太鼓の「地方(じかた)さん」からきれいなメロディーを期待するだろうか?それがなかったといって難しかったと思って帰るだろうか?

クラシックの演奏会に行くと何か楽しみを与えてくれる。そう期待するのはもちろんだ。それがきれいなメロディーであることはとても多い。それを持った曲がクラシックのレパートリーの中心になっているからだが、演奏する方もお客に楽しみを提供したいから演目はそれ中心になってしまう。しかし、では、それ以外の曲はつまらないか、喜びをくれないかと言えば、それは全くのお門違いだ。

きれいなメロディーというのは、クラシックであれ歌謡曲であれ三和音をベースにした音楽だ。100%。しかし三和音音楽は作曲側には規制が多く、車の運転なら一方通行の30キロしか出せない道のようなもの。ところが車であるピアノやオーケストラは300キロだって出せるポルシェだ。アウトバーンを飛ばしたい、作曲、演奏側はそうなる。そして、ここが大事だが、ポルシェで300キロは、助手席に乗ってる聞く側にだって、経験すれば病みつきになる快感なのだ。

話を戻そう。きれいなメロディーのない、三和音音楽でないのが速度制限なしのアウトバーンだ。標識を取っ払ったのはドビッシーだから、それ以降、つまり20世紀のいわゆる「近現代音楽」がそれということになる。そしてそれを聞いてはみたが理解できなかった、退屈だったという人は多いと思う。ではそこに快感を覚えるにはどうすればよいのだろうか?

人には経験値というものがある。それが一定のところに達すると考え方や理解度や好みまで変わる。そこに達するまでは、自分でもその先は分からないのだ。例えば子供のころには食べられなかったトマトやマグロのトロがいまは好物だという人がいる。人間生きていればものを食べるから食の経験値は嫌が応にも上がるが音楽はそうはいかない。無理してでも聞こうという気持ちだけは必要だが、そこから先は同じことが起きるから、得られる人生の喜びは計り知れない。

前に数学は暗記科目だと書いたが、受験数学のできる人というのは別に才能があるわけじゃなくて単に練習問題をたくさん解いて解き方をたくさん暗記してる普通の人にすぎない。練習しないと解けるわけないのでたくさん解く気があったかどうか、それだけだ。実は近現代曲にもまったく同じことが言えるのである。僕の独断といわれればそれまでだが、数学偏差値42から80になった経験に免じてぜひやってみていただきたいし、その価値があると確信もしている。

秘訣は、たくさん聞いて、聞くそばから曲を暗記してしまうこと。それに限る。きれいなメロディーがないから難しいかというとそんなことはない。パターン認識で構わない。まるごとイメージとして食ってしまえばいいのであって、みなさんピカソやシャガールの絵を見てピカソだシャガールだとわかるのは知らずにそうしているのだ。メロディーというのは絵なら人物であって、モナリザみたいな美人かピカソみたいな妙ちくりんかは絵の本質とは何ら関係がない。

本題に入ろう。バルトークのピアノ協奏曲第1番はきっと難解に聞こえるが、「弦チェレ」や「2台のpfと打楽器のソナタ」を覚えてる人はイディオムごと丸食いしやすい要素はいくつもある。ピカソをパターン認識するにはピカソをたくさん鑑賞するしか手はないように、バルトークもたくさん聞けば一発でバルトークとわかるようになる。各曲の部分部分の記憶が符合して記憶はますます強くなる(パターン認識が記憶に高まる)から、たくさん聞いて、聞くそばから曲を暗記してしまうことは「王道」なのである(数学もそうだったから「まったく同じことが言える」と書かせていただいている)。

第1楽章冒頭にピアノの低音とティンパニでゴジラが登場するみたいなリズム動機が出るがこれが全曲に展開する同音反復テーマの萌芽だ。だからpfが打楽器的に扱われるのは勿論で、pf、打楽器、管楽器のグルーピングと対立の構図も特徴だ。第2楽章Andanteまでリズム動機(3音反復)が支配するのであって、支配原理を知ってしまえばますます覚えやすい。簡単になる。たくさん聞いてまる食いすればみなさんなりに攻略法も思いついてくるしそれは何でもいい。

僕は94年これをフランクフルトのアルテ・オーパーでポリーニ / ブーレーズ / ロンドン響で聴き強烈なインパクトを受けた。1番は俗化した2番、平明路線の3番より格段に面白いと思った。とんがったバルトーク全開。ピアノソナタ、戸外にての26年の作品で、翌27年に弦楽四重奏曲第3番、28年に同4番が書かれる全盛期の入り口の傑作だ。マンダリン、舞踏組曲、弦チェレ、ミクロコスモスが聞こえてくるし管弦楽のための協奏曲のこだまもある(エンディングなど)。

なお、初演は27年にフランクフルトでバルトーク自身のピアノで行われたが、指揮者はフルトヴェングラーだった。このオーケストラパートは難しく彼の手には余ったのかもしれない、オケに稽古を付けたのはヤッシャ・ホーレンシュタインだそうだ。

まずはレファレンスとしてこれを3回は聴いてほしい。ゼルキンとセル。ピアノの技巧で上回る人がいるが、楽想の把握と詩情まで感じさせる解釈は完璧に近い、オケはこれを凌ぐのは至難というまったくもって素晴らしい演奏である。

こちらがポリーニとブーレーズのコンビだ(パリ、シャトレ座)。94年のブーレーズの指揮姿が懐かしい。ポリーニのキレ味はこれ(2001年)の数段うえだった。

フランス人、ジャン=エフラム・バヴゼのピアノ。これは彼の乾いた情感がぴったりでなかなか良く、ユロフスキのオケ(LPO)のリズム感が見事だ。

さてバルトークのコンチェルトというと、1,2番は手が大きくないと弾けないそうで女性は3番というのが定番化している(3番は渡米後にピアニストであった妻ディッタのレパートリーとすべく書いたとされている)。男勝りのアルゲリッチもアニー・フィッシャーもバルトークは3番オンリーだ。2番はたまにいないことはないが、1番だけは女性が弾いた記憶は皆無。やはりそういわれてきたブラームスの2番はいまや女性進出が進んだが、バルトークの1番は最後に残された男の牙城だったのだ。

そこに彗星のように現れた女性がユジャ・ワンである。僕はこのビデオで彼女を評価するようになった。前回のプロコフィエフ3番もそうだが、運動神経の良さが抜群でリズムの発音と指回りは高レベル。打鍵の強さだけはもうひとつだが充分合格の熱演である(ドレスも普通で安心。暗譜はしてほしかったが)。彼女は2番も弾いていてそれも評価するが、なんといっても1番をやろうというチャレンジングな精神は心より称賛したい。バルトークに心底から理解と関心がないとこれは到底弾けないだろう、コンクールに出ている日本人はどうなのか。こういうものを楽しく味わうためにも、楽曲のまるごと暗記は強力な味方になる。

 

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26

 

 

 

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僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

2017 JAN 5 0:00:22 am by 東 賢太郎

Pierre Boulez (1968)かつて経験したオーケストラ演奏会で最も完成度が高かったのは、群を抜いてこれであります。今後もこれに類するものに接することはよもや望めないだろうという確信はその日からあり、23年たった今もかわることはありません。

1994年初めのことです。このコンサートを知るや、空路フランクフルトからベルリンに直行するという決断は一瞬の迷いもなく電光石火のごとく訪れました。この奇跡のような経験の記録を、かつてダフニスの稿でもふれましたが、昨年の1月5日に逝去したピエール・ブーレーズの思い出として、そして心からの追悼として、あらためて本タイトルのもとに書いておきたいと思います。

ラヴェル バレエ音楽「ダフニスとクロエ」

ブーレーズは晩年にウィーンフィルとブルックナーを演奏しました。そうして欧州のキリスト教文化の深い精神世界に分け入っていることを聴衆に伝えましたが、その彼がル・マルトー・サン・メートルの作曲家でもあること、この連立方程式に解があるというのが感性ではいかようにも量り難く、それでもそれは事実としてあるのだから、西洋音楽には僕の理解できていないディメンションが在ることを認めねばならないという思いに長く駈られてまいりました。

僕はキリスト教徒ではないですが、神の存在は信じます。合理的精神から、そうでなくては宇宙の森羅万象が説明できないように思うからです。聖書の言葉を介さずともそれをshould、sollenと解し思考を突き動かす磁力が心に働くのでキリスト教世界観は漠然と感知できているつもりなのですが、畢竟そんな安易なものではなく、これを知るには理性の力ばかりでは足らず経験をともなった悟り(enlightment)が必要なのだと解釈をしております。

250px-helianthus_whorlブーレーズの音楽に合理的精神を読み取るのは容易でしょう。それが音楽の干物にならないことに先の「解」が存在するのであって、あたかもFn + 2 = Fn + Fn + 1 (n ≧ 0)というフィボナッチ数列が螺旋状に並んでいるヒマワリの種(右)の螺旋の数の中に潜んでいるがごとき自然の調和が干物への堕落から救っているというように思えるのです。

彼は自作に潜む「調和の数列」を開示せず、それを詮索されることも嫌いました。それが神の意志として聞く人間に美の作用をもたらすことを信じ、その作曲プロセスにおいて徹底的に合理的であったわけです。その意味で神、それは僕が存在を信じる神であるわけですが、その使徒として存在した彼の意識がブルックナーに共振しても不可思議ではない、むしろブルックナーというのはそういう音楽なのであろうと僕は理解しております。

そのブーレーズのラヴェルがあれほど劇的に美しい、あの日あの時、ベルリンのフィルハーモニーに満ちた空気の中で奇跡のような完璧さとエロスが神々しい光を放って僕の眼前に広々と存在したというのは、「ダフニスとクロエ」のスコアにはラヴェルが渾身の力で封じ込めた神性のようなものが宿っておって、それを空間に解き放つ秘法を彼が知得していたということに他ならないのではないかと思えるのです。51euu90shnl-_sx318_bo1204203200_

そんなことを考えるのは、ハーバード・メディカル・スクールの脳神経外科医エベン・アレグザンダー医師の興味深い著書(右)に、彼自身の臨死体験として『言葉や地上的概念を超越して、「あなたは完全に愛されている」という“事実”が伝わってくる』とあったのにどきっとして、というのはおもわずあの時のダフニスに陶然として意識が宙を彷徨っていた経験をなぜか反射的に思い浮かべたからなのです。完全に愛されている不安のない自分?これが僕の知らなかった、経験をともなった悟り(enlightment)なんじゃないかと。

弘法大師が洞窟で祈祷していると海の向こうから火の玉が飛んできて口に入った、と大師様は自らの神性の由来を述べたと伝わっている、そんな馬鹿げた空想をと笑う前に、空海にしてもモーゼにしてもイエスにしてもブッダにしてもアラーにしても、超人的感性と理性を具有した彼らは「何か」を見てしまい、悟ってしまい、それを凡俗の民に教え伝えるために予言や聖書や経典を方便としたのではないか。アダムとイヴや林檎や蛇は無知凡俗の経験的理解の及ぶ比喩であり、喩え話こそが彼らの悟りを自分と同じ姿かたちをした登場人物によるわかりやすいストーリーとして人間世界に具象化する最善のツールだったのではないか。

それは、とりもなおさず、宗教の開祖として彼らが超人であったというあまねく敷衍されている主張としてではなく、宗教と定義されている布教行為の本質こそ実はそういうものであって、この世にはのちに教祖と呼ばれることになった彼らを人生を通して駆り立てつづけたもの、つまり、その「何か」が存在するのだという主張において意味を成す考えだと僕は理解しております。

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ブーレーズが悟ったもの。それがダフニスのスコアという具象を通じて心に入ってくるという感覚。それはひそやかに打ち震える弦の囁きだったり、エマニュエル・パユの金粉をまき散らすようなフルートの飛翔だったりするのですが、僕の知っているあのクールに理知的なラヴェルというよりも、それはすべての人類を愛で包みこむオブラートのような、光のエーテルのような未知のものであったのです。

 

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前半のストラヴィンスキー「管楽器のための交響曲」がドビッシーの追悼であり、交響詩「ナイチンゲールの歌」は作曲時期が三大バレエ作曲の前後にまたがるという意味でR・コルサコフからドビッシーへとモデルが変転する中で作風も変わるという、彼の脳内で時々刻々新しい大爆発が起きていた、しかもそれを猛烈な勢いでアウトプットできる才に恵まれたことを刻印した曲です。これもそういう風に朧に響き渡りました。

 

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僕がブーレーズに負う種々のものは実に大きく多彩であって、空海の火の玉みたいに口から突き抜けて脳髄を直撃してくれたのであって、それによって僕は高校時代にクラシック音楽にひかれ、経験的悟りの端緒を得ることができたと信じて今に至っております。精神の波長を共有できた気がしており、駿台予備校の数学教師であられた根岸世雄先生と世の中で只の二人だけ、精神的負債を感じる偉人であります。

 

 

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

______僕が聴いた名演奏家たち (27)

 

 

 

 

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クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典―

2016 OCT 5 19:19:08 pm by 東 賢太郎

故ネヴィル・マリナーのバッハ、モーツァルトが「おふくろの味」と書いたが、もっとひろく、クラシック音楽全体のそれはというとやっぱりこれ、ピエール・ブーレーズの春の祭典CBS盤であり、お固く言うならこの曲の「イデア」である。

それがストラヴィンスキーのイデアかどうかは不明なので「完璧」という言葉は使えないが、この1929年の自演を聴くと彼はやりたかったこと(つまりこの演奏)をほぼ正確にスコアに記号として書いている(細かく言えば大太鼓がティンパニだったりはあるが)。

とするとブーレーズCBS盤はそのスコア情報のテンポやダイナミクスをより「彼なりの高次元」にリファインしたものとは言えるように思う。

この「彼なりの高次元にリファイン」するという行為は、すべての解釈者(演奏家)が直面する難題だ。バイエルを弾く子供でも音にする以上は自分のテンポや強弱で「解釈」はしていることになる。かように演奏家は常にフィルターとなっているのである。

ピアニストのホルヘ・ボレが「自己流解釈者」との自分への批判に対して「作曲家の創造行為への敬意を払いつつ、彼の全作品を深く学んだうえで、自分のフィルターを通じて咀嚼し演奏する表現者」を是としているが、僕はこの意見に賛成だ。

問題は「彼の全作品を深く学んだうえで」が欠落するケースが甚だ多いというだけのことだ。彼の交響曲やカルテットをまだ知らないA子ちゃんが発表会で弾いた月光ソナタが至高の名演と評されることは、音楽は好みに過ぎないというリベラルな立場からは別に構わないことだろうが、そう評価する人の音楽的素養の問題としては議論されうるだろう。

音楽を語るという行為に商業的価値があると僕は思わないが、ソムリエや口うるさいグルメの存在がワインや料理人の質を高めるような作用を演奏行為に及ぼすのだという意見には賛成である。そして、ときにワインや料理の方が一歩進んで客の舌にチャレンジしてくることだってある。

ブーレーズの感性でリファインされた春の祭典はその一例であり、驚いた客の方が百万もの言語を費やしてその味の新しさを評価、論考したものだ。その末席に高校生の僕もいたのであり、味を言葉に置換する方法を覚えた。あらゆる文化や芸術はこうして言語によっても伝承される。それを包括した次元で演奏は評価されるが、その言葉は評価する人間の評価として吟味され、言語の伝承のほうのクオリティも担保されていくのである。

ではリファインをストラヴィンスキー自身が強くNOと評価したら、そのことはどう評価されるべきなのだろう?カラヤンの64年盤でそれがおきたのは有名だ。この手慣れた如くに滑らかな展開は現代では違和感がないと感じられる方が多いのではないかと思うが、作曲家は気に入らなかった。それがバイアスとなってこの演奏を評価しない人が多いが、そんなことはないこれはうまく弾けた演奏のひとつだ。生贄の踊りの金管に耳慣れない和音があるが、カラヤンでない人が現代のコンサートホールでこれを聞かせれば大層な名演と喝采されることは想像に難くない。

この曲の創造主に音楽的素養の議論をふっかけるのは粗暴というものだ。版権、印税の問題でもめた影響を指摘する人もいるが、きのうソナーHPに書いた広島カープ球団の内幕みたいに表舞台には見えないものはどんな世界にもある。演奏頻度は高くなかった64年当時(ブーレーズ盤の5年前)に演奏者が手慣れていることは考え難く、カラヤンの譜読み力とベルリンPOの技術がいかに高次元にあったかに驚いた方が妥当な態度だろう。ストラヴィンスキーは想定もしていなかった「手慣れ感」「美しすぎ」に抵抗を覚えたのではなかろうか。いまはこのレベルが当たり前とするなら、演奏解釈というものはそれ自体が「進化」するという命題の勝利と考えるのがいいのだろうか。

ブーレーズの演奏解釈がどこから進化してきたか?CBS盤にはお手本があると書いたら天下のブーレーズを冒涜したことになるだろうか?

僕の憶測にすぎないが、彼の師匠であるルネ・レイボヴィッツが1960年にロンドン・フェスティバル管弦楽団という実態不明のオケを振ってCheskyレーベルに録音したものを聴いて、僕はそう結論せざるを得ない気持ちになった。これは、驚くほど、コンセプトがブーレーズ盤に似ているのである。

以下、CDを聞き直しながら書き取ったメモをそのままのせる(青字、比較対象は記憶にあるブーレーズCBS盤である)。

61xntkbuwvl序奏、ホルンのdがシンクロしてしまっている。心もちブーレーズより遅いが演奏のコンセプトはそっくりである。木管合奏としてミクロに視点を当てながら全体は嵐の前の静かさと緊張があり倍音に富む。

若い娘たちの踊りのテンポはほぼ同じだ。そっくり。

誘拐はやや遅いが管弦のバランスはこれまたそっくりだ。春のロンドは極少し遅いがバスドラの活かし方が同じ。シンバル、銅鑼はかなりおとなしい。

敵対遊戯 ごく少し遅いがティンパニの出し方が似ている。ホルンの和音による旋律的部分もそっくり。大地の踊りはテンポほぼ同じ。

第2部序奏、心もち遅いがシェーンベルグっぽい、似ている。トランペット交差、音が半音高い、アクセントがつくところは全く違う。これはスコアからは変だ。

アルトフルート奏者はいつも遊びが過ぎて気になる。生贄の踊り、ティンパニが違う。オケが乱れる、かなりへた。最後のティンパニが一発余計に鳴る。

ブーレーズより速い部分は一つもない。

祭典フリークの方はじっくりお聴きいただきたい。

この解釈をさらにリファインして高性能のクリーブランド管に教え込んだのがCBS盤だというのが僕の仮説だ。レイボヴィッツはクールで通している生贄の踊りが終結に向けて一糸乱れぬまま加熱するなど、アンサンブルの精度へのこだわりはブーレーズの専売特許ではある。祭典フリークの方しかご関心はわかないかもしれないが・・・。

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

 

(追補)1963年6月5日、カナダ放送交響楽団を振ったもの。第2部序奏のあと現れる2本のトランペットによる主題提示で第2トランペットの第2音が半音高いのを除くとCBS盤のテンポ、コンセプトに近い(ほぼ同じ)。ここからそれまで変化がなくレイボヴィッツ盤の3年後に解釈が確立していたことがわかる。

 

 

 

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ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

2015 JUL 5 1:01:59 am by 東 賢太郎

7月1日・サントリーホールにて

指揮=フランソワ=グザヴィエ・ロト 
ヴァイオリン=郷古 廉 

ブーレーズ:「ノタシオン」から第1、7、4、3、2番 
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」 
ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉(管弦楽版)

野球のブログが先になってしまいましたがとても面白いプロでした。

ブーレーズ同曲のライブは初めてです。「ノタシオン」は「12のノタシオン」として1945年に書かれたピアノ曲を自らオーケストラ作品に編曲したもので、原曲のテクスチュアは簡素ですがオケ版は18型4管、ハープ3台、打楽器奏者9人の大編成になっています。

通常は(たとえばラヴェルのケースなど)見られないことですが、ブーレーズはWork in Progress(進行中の作品)という概念の持ち主で一連の限定された可能性に焦点を当てた大きな『集合』に対する際立った偏愛がある」としていますから管弦楽版は進行の末の作品と考えてよいのかもしれません。

僕はブーレーズは「プリ・スロン・プリ(Pli selon Pli)」が好きですがこれがWork in Progressの作品であります。いっときの着想を永遠にコメモレートするのが作曲ではなくいわば作曲家と共に変化する音楽という概念です。僕はこれに共感があります。アインシュタインが過去・現在・未来の区別は不可能というように人間と時間の関係とはそういうものだからです。

ノタシオンの管弦楽編曲は現在5曲。1番は特にメシアンの響きを感じますね。パウル・ベッカーが「オーケストラの音楽史」に書いてますが、フランスの管弦楽がオルガンであり「言葉から発した大気のようなハーモニーを包み込む」という質感を感じます。7番(レント)の弦と木管の含む倍音はドビッシーの「遊戯」冒頭の響きを想起します。

ベルクのヴァイオリン協奏曲、この音楽は無調ですが5度が支配しほのかに協和音が現れます。あちらの世界とのはざまの幽界を浮遊する暗示のようで、ヴァイオリンがあまりヴァイオリンらしく鳴ってしまうのは好みません。郷古 廉は無機的な響きに傾きすぎずオケとうまくバランスしていました。良かったです。

この協奏曲、調性的12音音楽といえシェーンベルクの浄夜などとともに前世紀の香りを残したもので、作曲の動機(アルマという少女の死)とともにロマンティックに鑑賞される傾向があるようですが、僕はブーレーズとズッカーマンの録音を音楽として純粋に聴いているだけで特別な関心をひくものはありません。浄夜はカラヤンのライブも聞きましたが、もっとありません。シェーンベルクもベルクも、もっと凄い音楽があるからです。

休憩後はハイドンです。これもライブは初でした。ティンパニは古楽器でしたが弦はヴィヴラートがあったようでアンサンブル(ピッチ)はほんの少しですが甘いかなという部分あり。これが委嘱されたスペインのカディス大聖堂は行きましたがハイドンの音楽とイメージが親和するような風土の場所ではなく、彼がグローバルな売れっ子だったと感服した記憶があります。できれば教会で一度聴いてみたくなりました。

指揮者のロトのプログラミングは高く評価します。前半の無調に対比してハイドンの最もストイックな部類に属する音楽をぶつけるアイデアは斬新ですね。ハイドンはシリアスに聴かれるべきと僕は思っていますから非常に共感します。

彼は20世紀の曲をオリジナル楽器で演奏し最近人気のようで、ストラヴィンスキー(火の鳥)を買ってみましたが、まあ手馴れてうまいねという程度でありました。初演の時にどう聞こえたかは興味深いですが、そういう関心と芸術としてのインパクトは全然別物です。ブーレーズ(NYPO)と比較して論じようというインセンティブがわくものではありませんでした。

 

(追記、16年1月16日、ご参考ディスク)

ピエール・ブーレーズ「プリ・スロン・プリ」

ハリーナ・ルコムシュカ(Sp)  BBC交響楽団 (1969年)

boulez_pier_boulezcon_101bピエール・ブーレーズ  ザ・コンプリート・ソニー・クラシカル・アルバム・コレクション67枚組は宝石のようですが、その16枚目がこれです。第4曲のハリーナ・ルコムシュカの歌唱、急速なパッセージのソルフェージュ能力が凄い。彼女の声質と独奏楽器群の音彩の混合は完璧でまったく独自の宇宙を構築しています。終曲の砕け散ったステンドグラスのような音群のきらめきと変化値を微分したかのような音価と音量の増減によるリズム細胞。不協和な音の組合せの美を創造して時間支配の元に集積するとこうなるという強烈な主張であり、これを美という概念で感知するかどうかは人それぞれでしょうが、それがどうあれこの時間・色彩感覚でスコアを読み解いたのがあの火の鳥であり春の祭典だったのです。ブーレーズ芸術の底流に存在する血脈の原点を浮き彫りにした名盤であり、3種ある同曲の1番目の録音であるこれがその音楽的な発想の原形を最もクリアに浮き彫りにしていると思います。

 

ピエール・ブーレーズ 「ル・マルトー・サン・メートル」

エリザベス・ローレンス(mezzo-sop)、アンサンブル・アンテルコンタンポラン

無題9曲のセットである同曲は曲順を1-9とすると{1,3,7}{2,4,6,8}{5,9}に三分類され、個々のグループに12音技法から派生した固有の作曲原理が適用されていることがレフ・コブリャコフの精密な分析で明らかになっています。総体として厳格な12音原理のもとに細部では自由、無秩序から固有の美を練り上げるというこの時点のブーレーズの美学はドビッシー、ウエーベルン、メシアンの美学と共鳴するのであり、それを断ちきったシュトックハウゼン、ベリオ、ノーノとは一線を画するとコブリャコフは著書「A World of Harmony 」で述べている。興味深いことに、例えばグループⅠの作曲原理は(3 5 2 1 10 11 9 0 8 4 7 6)の12音(セリー)を細分した(2 1 10 11) 、(9 0)の要素を定義し、それらの加数、乗数で2次的音列を複合し、

(2 1 10 11) + (9 0) = ((2+9) (1+9) (10+9) (11+9) (2+0) (1+0) (10+0) (11+0)) = (11 10 7 8 2 1 10 11)

のように新たな音列を組成する。その原理がピッチだけに適用されるのではなく音価、音量、音色という次元にまで適用が拡張されて異なるディメンションに至るというのがこの曲の個性でありますがメカニックな方法であることに変わりはなく、その結果として立ち現れる音楽において、それまでの12音音楽にないaesthetic(美学)を確立したことこそがこの曲の真価だったわけです。聴き手が感知する無秩序はあたかもフィボナッチ数がシンプルな秩序で一見無秩序の数列を生むがごとしであります。これの審美性は数学を美しいと感知することに似ます。ブーレーズは自ら自作の作曲原理を明かすことはせず、むしろ聴き手がそれを知ることを拒絶したかったかのようです。しかし原理の解明はともかく聴き手の感性がそこに至らないこと、この美の構築原理がより高次の原理を生む(到達する)ことがなかったことから12音技法(ドデカフォニー)は壁に当たり、創始者シェーンベルグの弟子だったジョン・ケージがぶち壊してしまう。僕自身、12音は絶対音感(に近いもの)がないと美の感知は困難と思うし全人類がそうなることはあり得ないので和声音楽を凌駕することは宇宙人の侵略でもない限りないと思うのです。しかし、そうではあっても、ル・マルトー・サン・メートルは美しい音楽と思うし、その方法論でブーレーズが読み解き音像化した春の祭典があれだけの美を発散するのです。ある数学的原理(数学は神の言語であるという意味において)がaestheticを醸成して人を感動させる、それは必ずモーツァルトの魔笛にもベートーベンのエロイカにもある宇宙の真理であり、それは人間の知能には解明されていないだけで「在る(sein)」。僕はそれを真理と固く信じる者です。これが1955年僕の生年の作であり、僕が大好きでドイツ駐在時代に二度家族と滞在しブーレーズが亡くなったバーデン・バーデン初演であったことは親近感を覚えます。

上記盤がyoutubeに見つからないのでこれで。

 

ピエール・ブーレーズ ストリュクチュール(構造)第2巻 (1961)

これも特に好きな曲の一つです。ピアノ・ソナタ第2番(1948)、ストリュクチュール(構造)第1巻(52)のをさらに純化させたような書法であり、プリ・スロン・プリ(62)の裸の音響組成を2台ピアノで具現化した観があります。コンタルスキー兄弟盤が大変すばらしい。

(こちらへどうぞ)

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

 

 

 

 

 

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ドビッシー 交響詩「海」再考

2015 MAY 23 0:00:49 am by 東 賢太郎

自然の風景というと我々日本人には山、川、海は定番でしょう。なかでも海は、「海は広いな大きいな」「我は海の子」なんて懐かしい唱歌もあれば(僕は嫌いでしたが)、我が世代には加山雄三やサザンもありました。男のロマンをかきたてるものを感じるという文化ですね。

ところがクラシック音楽は川(ライン、ドナウ、モルダウ、ヴォルガetc)の音楽はあっても意外に海は少ないですね。ユーラシア大陸の北辺は氷結した海であり、南辺の地中海はカルタゴやイスラムと闘う辺境だった。ロマンをかきたてる存在ではなかったのではないでしょうか。海岸線の長さランキングで日本は世界第6位なのに対し、イタリア15位、フランス33位、ドイツ51位というのも関係あるかもしれません。

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ドビッシーが「海」を書いたのは、ですから西洋音楽の視点からはやや特異と思います。彼は8才の頃にカンヌに住んで海を見たはずですが、この交響詩は単にその印象を描写したものではありません。彼は「音楽の本質は形式にあるのではなく色とリズムを持った時間なのだ」という哲学をもっていました。この曲における海は変化する時空に色とリズムを与える画材であり、それはあたかもクロード・モネが時々刻々と光彩の変化する様をルーアン大聖堂を画材に33点の絵画として描いたのを想起させます。この連作が発表されたのは1895年、海の作曲が1905年。ドビッシーはこれを見たのではないでしょうか。左が朝、左下が昼、右下が夕です。

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これをご覧になった上でこのブログをぜひご覧ください。2年半前のものですが特に加えることはありません。

 ドビッシー 「3つの夜想曲」(Trois Nocturnes)

色とリズムを持った時間」!モネの絵画というメディアが33の静止画像だったのに比べ、ドビッシーの音楽は25分の動画です。それも情景の変化を印象派風に描くのではなく、音楽の主題を時々刻々変転させて時間を造形していく。それによりほんの25分に朝から夕までの時間が凝縮されます。第1楽章コーダの旋律が第3楽章コーダで再起し、音楽の時間は円環系に閉じていますが、それはモネの絵のように同じ情景を見ているという感情をも生起させるのです。

交響詩「海」はどの1音をとっても信じ難い感性と完成度で選び置かれた奇跡の名品です。全クラシック音楽の中でも好きなものトップ10にはいる曲であり、これが完成された英国のイースト・ボーンの海岸にいつか行ってみたいと望んでいる者であります。

ブログに書きました、僕のアイドルであり当曲の原点であるピエール・ブーレーズの旧盤(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)です。

ウォルター・ピストン著「管弦楽法」にはこの曲からの引用が14カ所もあり、その幾つかはドビッシーのオーケストレーションの革新性を理解させてくれます。たとえば、第1楽章、イングリッシュホルンとチェロ・ソロのユニゾンブーレーズの6分52秒から)が「1つのもののように混り合い、どの瞬間においてもいずれか一方の方が目立つということがない」(同著)ことをMIDI録音した際に確認(シンセの音でも!)しましたが、その効果は驚くべきものでした。

これまた予想外に溶け合うイングリッシュホルンと弱音器付トランペットのユニゾンもあり、不思議な色彩を生み出している。まさに「時間に色をつけている」のです。第2楽章のリズムの緻密な分化と変化、それに加わる微細な色彩の変化と調和!音楽史上の事件といっていいこの革命的な筆致の楽章に「色とリズム」が時間関数の「変数」としていかに有効に機能しているか、僕はこのブーレーズ盤で学んだのです。

ブーレーズはyoutubeにあるニューヨーク・フィルのライブ映像で細かい指揮はしてないように見えるのですが鳴っている音は実に精密に彫琢され、それでいて生命力も感じる。そして魔法のような管弦楽法による色とリズムの調合がいかに音楽の欠くべからざる要素として存立しているか。オケのプレーヤー全員が指揮から学習した結果なのでしょう。極上の音楽性と集中力を引き出している指揮者の存在感。凄いの一言です。

他のものは譜読みが甘くほとんど心に響くものを感じませんが、これはいいですね。ポール・パレー/ デトロイト交響楽団の演奏です。指揮者の常識とセンスと耳の良さを如実に表しております

(こちらへどうぞ)

 

ドビッシー映像第1集(Images,Book 1)

 

 

 

 

 

 

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