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カテゴリー: ______ブーレーズ

クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典―

2016 OCT 5 19:19:08 pm by 東 賢太郎

故ネヴィル・マリナーのバッハ、モーツァルトが「おふくろの味」と書いたが、もっとひろく、クラシック音楽全体のそれはというとやっぱりこれ、ピエール・ブーレーズの春の祭典CBS盤であり、お固く言うならこの曲の「イデア」である。

それがストラヴィンスキーのイデアかどうかは不明なので「完璧」という言葉は使えないが、この1929年の自演を聴くと彼はやりたかったこと(つまりこの演奏)をほぼ正確にスコアに記号として書いている(細かく言えば大太鼓がティンパニだったりはあるが)。

とするとブーレーズCBS盤はそのスコア情報のテンポやダイナミクスをより「彼なりの高次元」にリファインしたものとは言えるように思う。

この「彼なりの高次元にリファイン」するという行為は、すべての解釈者(演奏家)が直面する難題だ。バイエルを弾く子供でも音にする以上は自分のテンポや強弱で「解釈」はしていることになる。かように演奏家は常にフィルターとなっているのである。

ピアニストのホルヘ・ボレが「自己流解釈者」との自分への批判に対して「作曲家の創造行為への敬意を払いつつ、彼の全作品を深く学んだうえで、自分のフィルターを通じて咀嚼し演奏する表現者」を是としているが、僕はこの意見に賛成だ。

問題は「彼の全作品を深く学んだうえで」が欠落するケースが甚だ多いというだけのことだ。彼の交響曲やカルテットをまだ知らないA子ちゃんが発表会で弾いた月光ソナタが至高の名演と評されることは、音楽は好みに過ぎないというリベラルな立場からは別に構わないことだろうが、そう評価する人の音楽的素養の問題としては議論されうるだろう。

音楽を語るという行為に商業的価値があると僕は思わないが、ソムリエや口うるさいグルメの存在がワインや料理人の質を高めるような作用を演奏行為に及ぼすのだという意見には賛成である。そして、ときにワインや料理の方が一歩進んで客の舌にチャレンジしてくることだってある。

ブーレーズの感性でリファインされた春の祭典はその一例であり、驚いた客の方が百万もの言語を費やしてその味の新しさを評価、論考したものだ。その末席に高校生の僕もいたのであり、味を言葉に置換する方法を覚えた。あらゆる文化や芸術はこうして言語によっても伝承される。それを包括した次元で演奏は評価されるが、その言葉は評価する人間の評価として吟味され、言語の伝承のほうのクオリティも担保されていくのである。

ではリファインをストラヴィンスキー自身が強くNOと評価したら、そのことはどう評価されるべきなのだろう?カラヤンの64年盤でそれがおきたのは有名だ。この手慣れた如くに滑らかな展開は現代では違和感がないと感じられる方が多いのではないかと思うが、作曲家は気に入らなかった。それがバイアスとなってこの演奏を評価しない人が多いが、そんなことはないこれはうまく弾けた演奏のひとつだ。生贄の踊りの金管に耳慣れない和音があるが、カラヤンでない人が現代のコンサートホールでこれを聞かせれば大層な名演と喝采されることは想像に難くない。

この曲の創造主に音楽的素養の議論をふっかけるのは粗暴というものだ。版権、印税の問題でもめた影響を指摘する人もいるが、きのうソナーHPに書いた広島カープ球団の内幕みたいに表舞台には見えないものはどんな世界にもある。演奏頻度は高くなかった64年当時(ブーレーズ盤の5年前)に演奏者が手慣れていることは考え難く、カラヤンの譜読み力とベルリンPOの技術がいかに高次元にあったかに驚いた方が妥当な態度だろう。ストラヴィンスキーは想定もしていなかった「手慣れ感」「美しすぎ」に抵抗を覚えたのではなかろうか。いまはこのレベルが当たり前とするなら、演奏解釈というものはそれ自体が「進化」するという命題の勝利と考えるのがいいのだろうか。

ブーレーズの演奏解釈がどこから進化してきたか?CBS盤にはお手本があると書いたら天下のブーレーズを冒涜したことになるだろうか?

僕の憶測にすぎないが、彼の師匠であるルネ・レイボヴィッツが1960年にロンドン・フェスティバル管弦楽団という実態不明のオケを振ってCheskyレーベルに録音したものを聴いて、僕はそう結論せざるを得ない気持ちになった。これは、驚くほど、コンセプトがブーレーズ盤に似ているのである。

以下、CDを聞き直しながら書き取ったメモをそのままのせる(青字、比較対象は記憶にあるブーレーズCBS盤である)。

61xntkbuwvl序奏、ホルンのdがシンクロしてしまっている。心もちブーレーズより遅いが演奏のコンセプトはそっくりである。木管合奏としてミクロに視点を当てながら全体は嵐の前の静かさと緊張があり倍音に富む。

若い娘たちの踊りのテンポはほぼ同じだ。そっくり。

誘拐はやや遅いが管弦のバランスはこれまたそっくりだ。春のロンドは極少し遅いがバスドラの活かし方が同じ。シンバル、銅鑼はかなりおとなしい。

敵対遊戯 ごく少し遅いがティンパニの出し方が似ている。ホルンの和音による旋律的部分もそっくり。大地の踊りはテンポほぼ同じ。

第2部序奏、心もち遅いがシェーンベルグっぽい、似ている。トランペット交差、音が半音高い、アクセントがつくところは全く違う。これはスコアからは変だ。

アルトフルート奏者はいつも遊びが過ぎて気になる。生贄の踊り、ティンパニが違う。オケが乱れる、かなりへた。最後のティンパニが一発余計に鳴る。

ブーレーズより速い部分は一つもない。

祭典フリークの方はじっくりお聴きいただきたい。

この解釈をさらにリファインして高性能のクリーブランド管に教え込んだのがCBS盤だというのが僕の仮説だ。レイボヴィッツはクールで通している生贄の踊りが終結に向けて一糸乱れぬまま加熱するなど、アンサンブルの精度へのこだわりはブーレーズの専売特許ではある。祭典フリークの方しかご関心はわかないかもしれないが・・・。

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

 

(追補)1963年6月5日、カナダ放送交響楽団を振ったもの。第2部序奏のあと現れる2本のトランペットによる主題提示で第2トランペットの第2音が半音高いのを除くとCBS盤のテンポ、コンセプトに近い(ほぼ同じ)。ここからそれまで変化がなくレイボヴィッツ盤の3年後に解釈が確立していたことがわかる。

 

 

 

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ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

2015 JUL 5 1:01:59 am by 東 賢太郎

7月1日・サントリーホールにて

指揮=フランソワ=グザヴィエ・ロト 
ヴァイオリン=郷古 廉 

ブーレーズ:「ノタシオン」から第1、7、4、3、2番 
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」 
ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉(管弦楽版)

野球のブログが先になってしまいましたがとても面白いプロでした。

ブーレーズ同曲のライブは初めてです。「ノタシオン」は「12のノタシオン」として1945年に書かれたピアノ曲を自らオーケストラ作品に編曲したもので、原曲のテクスチュアは簡素ですがオケ版は18型4管、ハープ3台、打楽器奏者9人の大編成になっています。

通常は(たとえばラヴェルのケースなど)見られないことですが、ブーレーズはWork in Progress(進行中の作品)という概念の持ち主で一連の限定された可能性に焦点を当てた大きな『集合』に対する際立った偏愛がある」としていますから管弦楽版は進行の末の作品と考えてよいのかもしれません。

僕はブーレーズは「プリ・スロン・プリ(Pli selon Pli)」が好きですがこれがWork in Progressの作品であります。いっときの着想を永遠にコメモレートするのが作曲ではなくいわば作曲家と共に変化する音楽という概念です。僕はこれに共感があります。アインシュタインが過去・現在・未来の区別は不可能というように人間と時間の関係とはそういうものだからです。

ノタシオンの管弦楽編曲は現在5曲。1番は特にメシアンの響きを感じますね。パウル・ベッカーが「オーケストラの音楽史」に書いてますが、フランスの管弦楽がオルガンであり「言葉から発した大気のようなハーモニーを包み込む」という質感を感じます。7番(レント)の弦と木管の含む倍音はドビッシーの「遊戯」冒頭の響きを想起します。

ベルクのヴァイオリン協奏曲、この音楽は無調ですが5度が支配しほのかに協和音が現れます。あちらの世界とのはざまの幽界を浮遊する暗示のようで、ヴァイオリンがあまりヴァイオリンらしく鳴ってしまうのは好みません。郷古 廉は無機的な響きに傾きすぎずオケとうまくバランスしていました。良かったです。

この協奏曲、調性的12音音楽といえシェーンベルクの浄夜などとともに前世紀の香りを残したもので、作曲の動機(アルマという少女の死)とともにロマンティックに鑑賞される傾向があるようですが、僕はブーレーズとズッカーマンの録音を音楽として純粋に聴いているだけで特別な関心をひくものはありません。浄夜はカラヤンのライブも聞きましたが、もっとありません。シェーンベルクもベルクも、もっと凄い音楽があるからです。

休憩後はハイドンです。これもライブは初でした。ティンパニは古楽器でしたが弦はヴィヴラートがあったようでアンサンブル(ピッチ)はほんの少しですが甘いかなという部分あり。これが委嘱されたスペインのカディス大聖堂は行きましたがハイドンの音楽とイメージが親和するような風土の場所ではなく、彼がグローバルな売れっ子だったと感服した記憶があります。できれば教会で一度聴いてみたくなりました。

指揮者のロトのプログラミングは高く評価します。前半の無調に対比してハイドンの最もストイックな部類に属する音楽をぶつけるアイデアは斬新ですね。ハイドンはシリアスに聴かれるべきと僕は思っていますから非常に共感します。

彼は20世紀の曲をオリジナル楽器で演奏し最近人気のようで、ストラヴィンスキー(火の鳥)を買ってみましたが、まあ手馴れてうまいねという程度でありました。初演の時にどう聞こえたかは興味深いですが、そういう関心と芸術としてのインパクトは全然別物です。ブーレーズ(NYPO)と比較して論じようというインセンティブがわくものではありませんでした。

 

(追記、16年1月16日、ご参考ディスク)

ピエール・ブーレーズ「プリ・スロン・プリ」

ハリーナ・ルコムシュカ(Sp)  BBC交響楽団 (1969年)

boulez_pier_boulezcon_101bピエール・ブーレーズ  ザ・コンプリート・ソニー・クラシカル・アルバム・コレクション67枚組は宝石のようですが、その16枚目がこれです。第4曲のハリーナ・ルコムシュカの歌唱、急速なパッセージのソルフェージュ能力が凄い。彼女の声質と独奏楽器群の音彩の混合は完璧でまったく独自の宇宙を構築しています。終曲の砕け散ったステンドグラスのような音群のきらめきと変化値を微分したかのような音価と音量の増減によるリズム細胞。不協和な音の組合せの美を創造して時間支配の元に集積するとこうなるという強烈な主張であり、これを美という概念で感知するかどうかは人それぞれでしょうが、それがどうあれこの時間・色彩感覚でスコアを読み解いたのがあの火の鳥であり春の祭典だったのです。ブーレーズ芸術の底流に存在する血脈の原点を浮き彫りにした名盤であり、3種ある同曲の1番目の録音であるこれがその音楽的な発想の原形を最もクリアに浮き彫りにしていると思います。

 

ピエール・ブーレーズ 「ル・マルトー・サン・メートル」

エリザベス・ローレンス(mezzo-sop)、アンサンブル・アンテルコンタンポラン

無題9曲のセットである同曲は曲順を1-9とすると{1,3,7}{2,4,6,8}{5,9}に三分類され、個々のグループに12音技法から派生した固有の作曲原理が適用されていることがレフ・コブリャコフの精密な分析で明らかになっています。総体として厳格な12音原理のもとに細部では自由、無秩序から固有の美を練り上げるというこの時点のブーレーズの美学はドビッシー、ウエーベルン、メシアンの美学と共鳴するのであり、それを断ちきったシュトックハウゼン、ベリオ、ノーノとは一線を画するとコブリャコフは著書「A World of Harmony 」で述べている。興味深いことに、例えばグループⅠの作曲原理は(3 5 2 1 10 11 9 0 8 4 7 6)の12音(セリー)を細分した(2 1 10 11) 、(9 0)の要素を定義し、それらの加数、乗数で2次的音列を複合し、

(2 1 10 11) + (9 0) = ((2+9) (1+9) (10+9) (11+9) (2+0) (1+0) (10+0) (11+0)) = (11 10 7 8 2 1 10 11)

のように新たな音列を組成する。その原理がピッチだけに適用されるのではなく音価、音量、音色という次元にまで適用が拡張されて異なるディメンションに至るというのがこの曲の個性でありますがメカニックな方法であることに変わりはなく、その結果として立ち現れる音楽において、それまでの12音音楽にないaesthetic(美学)を確立したことこそがこの曲の真価だったわけです。聴き手が感知する無秩序はあたかもフィボナッチ数がシンプルな秩序で一見無秩序の数列を生むがごとしであります。これの審美性は数学を美しいと感知することに似ます。ブーレーズは自ら自作の作曲原理を明かすことはせず、むしろ聴き手がそれを知ることを拒絶したかったかのようです。しかし原理の解明はともかく聴き手の感性がそこに至らないこと、この美の構築原理がより高次の原理を生む(到達する)ことがなかったことから12音技法(ドデカフォニー)は壁に当たり、創始者シェーンベルグの弟子だったジョン・ケージがぶち壊してしまう。僕自身、12音は絶対音感(に近いもの)がないと美の感知は困難と思うし全人類がそうなることはあり得ないので和声音楽を凌駕することは宇宙人の侵略でもない限りないと思うのです。しかし、そうではあっても、ル・マルトー・サン・メートルは美しい音楽と思うし、その方法論でブーレーズが読み解き音像化した春の祭典があれだけの美を発散するのです。ある数学的原理(数学は神の言語であるという意味において)がaestheticを醸成して人を感動させる、それは必ずモーツァルトの魔笛にもベートーベンのエロイカにもある宇宙の真理であり、それは人間の知能には解明されていないだけで「在る(sein)」。僕はそれを真理と固く信じる者です。これが1955年僕の生年の作であり、僕が大好きでドイツ駐在時代に二度家族と滞在しブーレーズが亡くなったバーデン・バーデン初演であったことは親近感を覚えます。

上記盤がyoutubeに見つからないのでこれで。

 

ピエール・ブーレーズ ストリュクチュール(構造)第2巻 (1961)

これも特に好きな曲の一つです。ピアノ・ソナタ第2番(1948)、ストリュクチュール(構造)第1巻(52)のをさらに純化させたような書法であり、プリ・スロン・プリ(62)の裸の音響組成を2台ピアノで具現化した観があります。コンタルスキー兄弟盤が大変すばらしい。

(こちらへどうぞ)

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

 

 

 

 

 

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ドビッシー 交響詩「海」再考

2015 MAY 23 0:00:49 am by 東 賢太郎

自然の風景というと我々日本人には山、川、海は定番でしょう。なかでも海は、「海は広いな大きいな」「我は海の子」なんて懐かしい唱歌もあれば(僕は嫌いでしたが)、我が世代には加山雄三やサザンもありました。男のロマンをかきたてるものを感じるという文化ですね。

ところがクラシック音楽は川(ライン、ドナウ、モルダウ、ヴォルガetc)の音楽はあっても意外に海は少ないですね。ユーラシア大陸の北辺は氷結した海であり、南辺の地中海はカルタゴやイスラムと闘う辺境だった。ロマンをかきたてる存在ではなかったのではないでしょうか。海岸線の長さランキングで日本は世界第6位なのに対し、イタリア15位、フランス33位、ドイツ51位というのも関係あるかもしれません。

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ドビッシーが「海」を書いたのは、ですから西洋音楽の視点からはやや特異と思います。彼は8才の頃にカンヌに住んで海を見たはずですが、この交響詩は単にその印象を描写したものではありません。彼は「音楽の本質は形式にあるのではなく色とリズムを持った時間なのだ」という哲学をもっていました。この曲における海は変化する時空に色とリズムを与える画材であり、それはあたかもクロード・モネが時々刻々と光彩の変化する様をルーアン大聖堂を画材に33点の絵画として描いたのを想起させます。この連作が発表されたのは1895年、海の作曲が1905年。ドビッシーはこれを見たのではないでしょうか。左が朝、左下が昼、右下が夕です。

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これをご覧になった上でこのブログをぜひご覧ください。2年半前のものですが特に加えることはありません。

 ドビッシー 「3つの夜想曲」(Trois Nocturnes)

色とリズムを持った時間」!モネの絵画というメディアが33の静止画像だったのに比べ、ドビッシーの音楽は25分の動画です。それも情景の変化を印象派風に描くのではなく、音楽の主題を時々刻々変転させて時間を造形していく。それによりほんの25分に朝から夕までの時間が凝縮されます。第1楽章コーダの旋律が第3楽章コーダで再起し、音楽の時間は円環系に閉じていますが、それはモネの絵のように同じ情景を見ているという感情をも生起させるのです。

交響詩「海」はどの1音をとっても信じ難い感性と完成度で選び置かれた奇跡の名品です。全クラシック音楽の中でも好きなものトップ10にはいる曲であり、これが完成された英国のイースト・ボーンの海岸にいつか行ってみたいと望んでいる者であります。

ブログに書きました、僕のアイドルであり当曲の原点であるピエール・ブーレーズの旧盤(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)です。

ウォルター・ピストン著「管弦楽法」にはこの曲からの引用が14カ所もあり、その幾つかはドビッシーのオーケストレーションの革新性を理解させてくれます。たとえば、第1楽章、イングリッシュホルンとチェロ・ソロのユニゾンブーレーズの6分52秒から)が「1つのもののように混り合い、どの瞬間においてもいずれか一方の方が目立つということがない」(同著)ことをMIDI録音した際に確認(シンセの音でも!)しましたが、その効果は驚くべきものでした。

これまた予想外に溶け合うイングリッシュホルンと弱音器付トランペットのユニゾンもあり、不思議な色彩を生み出している。まさに「時間に色をつけている」のです。第2楽章のリズムの緻密な分化と変化、それに加わる微細な色彩の変化と調和!音楽史上の事件といっていいこの革命的な筆致の楽章に「色とリズム」が時間関数の「変数」としていかに有効に機能しているか、僕はこのブーレーズ盤で学んだのです。

ブーレーズはyoutubeにあるニューヨーク・フィルのライブ映像で細かい指揮はしてないように見えるのですが鳴っている音は実に精密に彫琢され、それでいて生命力も感じる。そして魔法のような管弦楽法による色とリズムの調合がいかに音楽の欠くべからざる要素として存立しているか。オケのプレーヤー全員が指揮から学習した結果なのでしょう。極上の音楽性と集中力を引き出している指揮者の存在感。凄いの一言です。

他のものは譜読みが甘くほとんど心に響くものを感じませんが、これはいいですね。ポール・パレー/ デトロイト交響楽団の演奏です。指揮者の常識とセンスと耳の良さを如実に表しております

(こちらへどうぞ)

 

ドビッシー映像第1集(Images,Book 1)

 

 

 

 

 

 

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ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

2015 MAR 5 0:00:12 am by 東 賢太郎

僕がこの曲を母の一言で知ったひょんな経緯はこれに書きました。

ストラヴィンスキー好き

このアンセルメ盤「火の鳥」ブーレーズ盤「春の祭典」を買った高校1年が自分の音楽史の真の元年といってよく、のちに肩の故障で思うようにいかなくなった野球をあきらめようという契機になり、それならついでに受験も頑張ってみようかなという気にもなったという、ひとえに人生の導師のような存在です。

コタニの売り場のお兄さんに言われた「組曲より全曲版がいいよ」という教えを順守してアンセルメ盤を全部覚えてしまい、しばらく組曲版の方を知りませんでした。それを初めて耳にした時の衝撃は忘れません。なんじゃこりゃ?もう全然別な曲であり、オーケストラが妙でフィーナーレに変なホルンのグリッサンドが鳴るに至ってはディズニーの漫画かよという感じです。

しかしもっとも怒りを覚えたのは、大好きなところである「火の鳥の嘆願」がばっさりと切り捨てられていることでした。これです。

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ここのゾクゾクするエロティックな和声はどうだろう!ドビッシー風なんだけども火の鳥にしかないたまらない色香!寝ても覚めても四六時中これが頭の中で鳴るほど惚れ込んでしまい、以来ずっとストラヴィンスキーはもちろん、誰のであれこういう音のする音楽を探し求めてきましたが、ひとつもありません。弾ける方はこの楽譜だけでも鳴らして3小節目の「火の鳥和声」を味わってみて下さい。

これはもう音の魔法なんです。僕はバレエには皆目無関心で観たことがなく、火の鳥がなにをどう嘆願しているか知りませんが、この音の動きを目をつぶって追っているだけで恍惚として法悦の境地をさまよっており、たのむから舞台でドタバタと余計な雑音やほこりをたてんでほしいと願ってしまうのです(バレリーナのかた、すみません・・・)。

これを書いたストラヴィンスキー、そして組曲でこれを捨てたストラヴィンスキー、どっちが本物なんだろうとさんざん迷うことになりました。

魔法はいくらでもあります。まず、冒頭の「導入部」は低弦の不気味なユニゾンで幕をあけます。それにファゴットの低音の和音がからむ部分の雰囲気は一気に我々を魔法の園に引き入れますが、これは森の洞窟を暗示するワーグナーの楽劇ニーベルンゲンの指輪の第2日(3曲目)である「ジークフリート」の幕あけの「序奏」そっくりです。「カッチェイの死」の2小節も「ジークフリート」の第2幕序奏にホルンの重奏で出てくる音型、和声にそっくりです。

感心するのは「王女たちのロンド」のバスのピッチカートの後です。3小節目でアルトがd♮になる、こんな簡素な譜面でたったそれだけなのに、ほのかにサブドミナントのあの希望の灯りがさしこむところ!彼がやたら音の洪水みたいな騒然たる曲で有名と思ったら大間違い、こんな繊細な和声感覚があるからああいうものでも人を魅了できるのです。

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ところがです。これは作曲者によるピアノ版なのですが、8小節目のf#は全曲版にはなく、ここはファゴットとヴィオラがeを鳴らしています。音まで変えているというのはどうかと思います。あんな素晴らしいスコアを書いておきながらこんないい加減なことがどうしてできるのか神経を疑う。またしてもわからなくなります。

この後に出てくる「魔法のカリヨン」、ここのスコアは春の祭典の先駆けであり、幻想交響曲の第5楽章の妖気を孕んだ傑出した部分です。アンセルメ盤のここの異界の音響のおどろおどろしさはききものです。ところがこれも組曲版はあえなくカット、ひどいものです。ひとことで言ってしまえば、組曲版はいくつか種類がありますが、全曲版の版権が認められない米国で印税稼ぎするためにあえて差異を作りだした改悪版なのです。

特に最も演奏頻度の高い1919年版というのは魔王カッチェイの宮殿にたちこめていた邪悪な霧や火の鳥の魔法の痺れるようなオーラは消し飛び、ディズニーランドのBGMみたいにド派手で子供受けするショーピースになってしまった無残なカリカチュアです。これがプログラムにのっているコンサートは昭和の食堂にあった日の丸が立ってる「お子様ランチ」を思い出し、足を運ぶ意欲が一気に萎えます。正直のところ、なくてもいい楽譜と思います。

むかし音楽誌に「全曲版は冗長なので1919年版が良い」などと書いている人がいて、評論家のあまりのレベルに低さに絶句しました。しかしそういう輩が出かねないぐらい作曲者本人が米国での版権目当てに、要は金儲けのために混乱を生んでいる部分もあるのです。やっぱりこれはドビッシーだなと思う和声は多いし、「魔王カッチェイの踊り」は師匠リムスキー・コルサコフの歌劇「ムラダ」の「悪魔のロンド」とムソルグスキーの「禿山の一夜」の影響が明白なことは禿山のピアノバージョンを聴けばすぐわかります。彼自身、習作に近いと認識していたかもしれず、この曲に深い愛情があったかというとやや疑問のようにも思います。

友人であり作品へのアドバイザーでもあったアンセルメはスコアにあれこれ意見していました。その結果、やがて解釈のちがいから喧嘩して口をきかない中になりました。N響に来演したビデオがありますが、フィナーレの4分の7拍子をザクザク切って全曲版のスコアと程遠いものになっています。この辺にも愛情不足を感じてしまいます。かたや、やはりN響を振ったアンセルメはずっと自然です。喧嘩の影響だったんでしょうか。

さて、この曲の魔法の極点はフィナーレにやってきます。

カッチェイが死ぬと15パートに分割した嬰ニ短調の弱音器付の弦の和音が上昇、そしてトレモロで徐々に霧が晴れるように下降して、ラファエロの絵のような神々しい空気を作ります。ホルンが牧歌的なロ長調の主題を歌う。悪の消滅、そして感謝。ここは田園交響曲の終楽章、嵐の後の神への感謝のムードそのものです。

天使の導きのようなハープのグリッサンドがその歌をヴァイオリンに渡すと、コントラバスがそっと基音のシを添え、ハープのハーモニクスが天への階段を一歩一歩登るようにやさしく歌を支えていきます。そして空からの一条の光のようなフルートがさしこむと、音楽はゆっくりと大団円に向います。

スコアのこの1頁のこの世のものとも思えぬ神々しい響きはあらゆるクラシック音楽のうちでも絶美のものというしかなく、いかなる言葉も無力、無価値です。それをここにお示しして皆さんで味わっていただくしかございません。

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そしてここから 4分の7拍子の歓喜の円舞がロ長調からハ長調へと高潮し、もういちどロ長調に半音下に戻すところのティンパニとチューバの f# の一発!これをアンセルメは渾身の力でズーンとやりますが、これに何度しびれたことか。半音ずれるだけの転調がこの1発で正当化されてしまう天才の一撃!そして2コーラス目に入るところの h の一撃!

この半音下にずれる転調は、僕のブログを読んでいただいている方は思い出されるでしょう。そう、ボロディンの交響曲第2番の第2楽章トリオに稀有な例があるのです。ストラヴィンスキーがそこから発想したかどうかわかりませんがあれを知らなかったということは考えられません。ただ火の鳥の方は背景の和声の事後的な正当化は何もなくf#のドスンでいわば暴力的にロ長調におさまってしまう。とてもストラヴィンスキー的ではありますが。

この曲の演奏は何回、何種類きいたか記憶にもありませんが、実演で感動したのはゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが東京芸術劇場で読響とやったものです。拍手が延々と鳴りやまず、指揮者が指揮台のスコアを手に取って高く掲げ、聴衆と一緒にそれを讃えたのも感動的でした。

もうひとつは95年3月30日にフランクフルトのアルテ・オーパーできいたヴァレリー・ゲルギエフ / キロフ管弦楽団で、ドイツの家に遊びに来ていた母と行った演奏会でした。フィラデルフィア、ロンドン、フランクフルト、チューリヒと言葉もわからないのによく一人で何度も訪ねて来てくれたものです。そのたびに好きな音楽会にたくさん連れて行きましたが、母の一言で知ることになった火の鳥をいっしょにきけたというのも幸せでした。実は今日、母が手術をして、うまくいって先ほど家に戻ったところで、だいぶ前に書き溜めていた縁のある火の鳥を投稿させていただこうということに致しました。

全曲をそのゲルギエフの演奏で。

 

この曲を知っている方も知らない方も、僕が母とコタニのお兄さんのおかげで買うことになったエルネスト・アンセルメの最後の録音(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団を振ったDecca盤)をお聴きになられることを心よりお薦めします。作曲者とひと時代を共有したアンセルメが丹精をこめ、いっさい性急なテンポをとらずにスコアの隅々にまで光を当ててすべての美を描ききった演奏であり、オーケストラが見事にそれを具現しているという文化遺産級の録音であります。

唯一の対抗馬としてピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団のCBS盤をあげますが、こちらも指揮者の眼光紙背に徹する空前絶後の名演です。オーケストラのつややかな音響とそれのブレンドによる光彩陸離たる音色美はいまだに並ぶものはなく、当時のブーレーズの音のテクスチュアを分解整理する高度に知的な能力に圧倒されるしかありません。自分もそうでしたが、アンセルメ盤で耳を作ってからこれを聴かれるという順番が理想的かと存じます。

ブーレーズのフィナーレです。

 

(補遺)

下のビデオを聴くと「f#のドスンでいわば暴力的にロ長調におさまってしまう」部分からをストラヴィンスキーは一音一音をスタッカートで演奏している。来日した折のN響とのビデオも同じであって、それが作曲家の意図だったことは明白だ。現代の指揮者でそうやる人がいないのはどういう経緯があったのか不思議である。

ストラヴィンスキー バレエ音楽「ペトルーシュカ」

 

(こちらへどうぞ)

 

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

読響定期 グザヴィエ・ロト を聴く

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

ボロディン 交響曲第2番ロ短調

ボロディン 交響詩「中央アジアの草原にて」

 

 

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バルトーク 弦楽四重奏曲集

2015 FEB 13 0:00:36 am by 東 賢太郎

unnamed (23)浪人している時に「バルトークのすべて」というLP2枚組(左)を買ってすり減るほど聴いていました。セルのオケコン、ブーレーズの弦チェレ、カサドシュ夫妻の2台ピアノと打楽器、スターン/バーンスタインのVn協2番、アントルモン/バーンスタインのピアノ協2番などが入っていて、そこに第1楽章だけジュリアードSQの弦楽四重奏曲第4番(1928)があったのです。

bartok3これに関心を覚えて大学にはいってジュリアードの全集(右)を買いこみ聴きまくりました。6曲のどれが好きかはそれぞれでしょう。最初はよくわからなかったのですが、だんだん聴きなじむうちにまず2番の神秘感が気に入ったし、5番の終楽章の弦チェレを思わせる対位法の立体構造、6番の宇宙の深遠を覗き見るような不気味さも味が分かるようになってきました。しかしその中でも凄いと思ったのは4番だったのです。

この曲のアーチ構造によるシンメトリカルな構成は非常にロジカル、堅牢です。原子核の陽子と中性子による構成図のようにかっちりと無駄なく出来ています。物体の重さの99.97%が原子核の重さですが、この曲は99.97%が真核のみで組成されているというイメージです。核を構成する主題が第1、5楽章をしめくくるタッタッタッタラランであり、5楽章の1-5,2-4がペアであり第3楽章が3部構造でその1が第1が第1楽章、3が第5楽章と素材共有関係にあって等々はあまりに有名でどこにも書いてありますからご興味ある方はご覧ください。

本稿の目的はそういうことの解説ではなく、これがアートとしてどんなに親しみやすいかを敬遠気味の方にわかってもらうことです。カルテットがバルトークの中でも難解と思っている方も多いでしょうし、1,2度聴いて鼻歌になるような曲でないことはたしかです。まず、4番に入る前に、4番並みの完成度がありながらもっとわかりやすいと思う5番(1934)の第5楽章を聴いてもらいましょう。5番はバルトークが米国に渡ってからの作品で、管弦楽のための協奏曲と同じく曲想が平明です。ジュリアードSQの演奏です。なお5番第5楽章についてはこのブログもご覧いただきたいと思います モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466

これが1935年で翌36年に弦チェレがスイスのパウル・ザッハーの委嘱でできるのですが、最後に長調が回帰するし、リズムや合奏のパターンはこれに木琴とティンパニを入れれば弦チェレみたいと思いませんか?弦チェレ的な要素は4番の第2、4楽章などにも散見されます。僕はこれを完全に覚えて耳を慣らして4番がしっくりくるようになりましたのでドリルと思ってお試しください。

これを覚えたら、もう少し先鋭さよりもハンガリーの伝統に重心を置いた演奏で全曲聴いてみましょう。タカーチQです。

さて4番です。youtubeをいろいろ探しましたが、そこにある中ではこれが最も好感が持てます。フランスのエベーヌ四重奏団(Quatuor Ebène)でメンバーの専攻は全員がジャズという異色のカルテットです。

ややアーティキュレーションがソフト・フォーカスですが第3楽章の神秘感など見事ですし終楽章のエネルギーの爆発は大変よろしいと思います。

ジュリアードSQはモノラル、ステレオ、デジタルとバルトーク全集を3度レコーディングしていますが上掲のは2度目のステレオで、ヴァイオリンがマン、コーエン、ヴィオラがヒリアー、チェロがアダムで、マンが少し音程が甘くなってしまう前のほぼ絶頂期。これで刷り込んだせいもあり、やはりこの筋肉質で直球勝負の全集をファーストチョイスとしてお薦めすることになってしまいます。

XAT-1245530148次点は上記のタカーチQですが上掲は新メンバーによる新録音のほうで、右はオリジナル・メンバーによる84年録音の旧盤です。ジョルジュ・レヘルのブラームス交響曲全集( ブラームス交響曲全集(ジョルジュ・レヘル指揮)で書いた通りのことが当てはまるのですが、共産圏時代の、したがって19世紀欧州のタイムカプセル的な意味合いのある録音で、木質感のあるローカルな味が忘れられません。CDは廃盤のようですがi-tuneで買うことができます。

MI0001114334さて最後に、最近発見した大変な名演をご紹介します。ファイン・アーツQです。昔聴いたことはあったのですが59年録音で音が良くなくそのままになりました。ところがこのMUSIC&ARTSプレスのCDはリマスターが良好で驚くほど音が良く、先日幸いに中古で見つけて狂喜しているところです。ジュリアードの棘はなく丸みのある弦の魅力が支配します。タカーチの木質を保ってスリムにしたような演奏で、シカゴの団体なのに非常に欧州的な味わい。オケにたとえるならウィーンPOがクリーブランドOの精度を持ったようなイメージです。とはいえ4番の第1楽章の機関車のような推進力は快感なうえに、この4人全員の技術とピッチの良さは並ぶ者のない水準なのです。バルトークの不協和音がこんなに音楽的で美しいハーモニーだったのかと目からうろこです。この6曲を敬遠していた人は是非一聴していただきたく、これをくりかえし聴けば必ず名曲だと確信するに至るでしょう。そこから東京SQ、エマーソンQ、ヴェーグQなど多様な演奏を味わうことで、人類史に残る最高峰の弦楽四重奏曲集の多面性を知ることができると思います。

4、5番だけでなく各曲とも個性があり、それぞれについてはいずれ別稿にしたいと思います。

 

(こちらへどうぞ)

バルトーク 弦楽四重奏曲第4番 Sz.91

シューマン弦楽四重奏曲第3番イ長調作品41-3

 

 

 

 

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シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

2015 FEB 7 12:12:17 pm by 東 賢太郎

pierrotこの曲は「ピエロ・リュネール」とも呼ばれる。初めて聴いたのは大学2年の秋に買った、やっぱりブーレーズのレコード(右)だった(ドメーヌ・ミュジカル・アンサンブルによるコロンビア盤)。20世紀音楽を仕込まれた先生はブーレーズをおいてほかにない。実はこのLPで僕が夢中になったのは「室内交響曲第1番作品9」だ。冒頭、4度の積み重ねのホルンの和音で開始し15人の奏者によるぞくぞくする凝縮されたアンサンブルがつやつやした響きで展開する。ブラームスやショスタコーヴィチが聞こえるようになったのはずっと後だが、未熟な耳ながらストラヴィンスキー三大バレエは完璧に聞き覚えていた当時の僕にこの曲は刺激的だった。

さてピエロ・リュネールだ。こっちはよくわからなかった。これの劇的、詩的な側面はさっぱり興味がなく(wikipedia等をお読みいただきたい、なんともおどろおどろしい詩だ)僕の文学面の弱さが出てしまった。ただ春の祭典でも第2部序奏(ここはシェーンベルグ的だ)に痺れていた当時の嗜好からして音に違和感というものはなかったように思う。

ピエロは印象主義に対抗する表現主義といわれるが、1910年に火の鳥、11年にペトルーシュカ、青ひげ公の城、12年にこれ(ピエロ)とアルテンベルク歌曲集とダフニスとクロエ、13年に春の祭典と遊戯(ドビッシー)と西洋近代音楽はこの3年間に大爆発を遂げているのであり、それらの傑作は同時代の息吹を内包している(下記ベルクのヴォツェックは1914年に着手された)。

アーノルド・シェーンベルグはハンガリー人の靴屋の父、チェコ人の母(どちらもユダヤ人)のもとにウィーンで生まれた。8才でヴァイオリンを習ったがチェロは独学。15才で父を亡くして地元の銀行に勤めた。今なら貧しくて中卒で地銀に入った少年が夜に独学で音楽を勉強してこうなってしまったということで、人は環境より遺伝子なのだとつくづく思う。

第一次世界大戦中オーストリア軍に入隊したが、「本当に君が、あの耳障りな音楽を書いたシェーンベルクなのか?」と尋ねた上官に「はい、ほかにシェーンベルクのなり手がないもんで、僕が自分で引き受けることにしたんです」と答えた。彼は晩年にバッハ、J・シュトラウス、ブラームスの編曲をするなど調性への憧憬を見せていると解釈する人もいる。僕も賛成でありピエロの最後にそれを感じることができる。

ピエロについてはこういう指摘がある。興味深い。

Arnold Schoenberg「シェーンベルクは、数秘術に凝っていたので、7音から成る動機を作品全体に適用し、一方で演奏者数は指揮者を含めて7名としている。作品21に含まれる曲数が21であり、1912年に作曲を始めた日付が5月の12日であった。ほかに本作の鍵となる数字が3と13である。各詩は13行から成るのに対して、各詩の第1行は3回登場し、あたかも第7行や第13行であるかのように繰り返される(wikipedia)」。彼は作品番号を作曲年の西暦の下二けたと揃える意識があったという指摘もレナード・バーンスタインがしている(完全には合っていないが)。これが数秘術なのか「数フェチ」なのかは不明だが、数字に強いこだわりがあったことは疑いがないだろう。弟子のアルバン・ベルクは23という数字にこだわったが、23は僕の野村でのセールスコードであり僕のこだわりの数字でもある。子供が23日に生まれ、自宅は23番地だったので、迷わず買った。

またアントン・ブルックナーは「数フェチ」であり、物の数を数える癖があった。僕もそれであり、物心ついて以来登りながら階段を必ず数えている。もちろん今でもそうで、13になりそうになると2段跳びして12にする。会議はまず人数を数えることから始まる。コンサートでは必ず舞台の人数を数え、会場の客数を推定する。口癖のある人と話すとそれが何回出るか数える。コンクリート道路の線から線まで絶対に4歩にならないように歩いている。朝は目覚ましが鳴ってから7数えて起き、顔を洗うのも7回、etc。何十年もやっていて、完全に無意識下のことだ。

作曲家は音程、音符数、小節数にこだわったりの名前を音名化してアナグラムにしたりする人が結構いる。バッハ、シューマン、ショスタコーヴィチ、バルトークなどだ。それが主題労作、変奏の原主題に特別の個性を持たせたものと考えるならベートーベン、ブラームスもそうで、論理的、建築学的に音を構築(compose)する作曲法だからそういうことが意味を持つのであって、その先にシェーンベルクが位置するのは自然だ。

前回、ショパンが嫌だと書いたが、composeする哲学が違う。論理でなく感覚によっている。もっといえば指先感覚かもしれない。昔気質のドイツ音楽ファンは得てしてショパンは女の音楽と下に見ていたが、僕はそういうことでも偏見でもなく非論理的なものが肌に合わない。「数字」を感じない。彼はバッハを尊敬していたそうで音を物理的客体として把握する思考領域がないとそうはならないだろうから、それがあったということだろう。それでいてああいう音楽になるというのは摩訶不思議だ。

無調音楽というのは主題を構成する個々の音の隠されたトーナリティ(調性)を倍音から聴き取れる(推定できる)ようになると面白い。バーンスタインはシェーンベルクに別な惑星の空気を感じるとしながら12音技法にも隠された調性があるとしているが、音の組み合わせとしての調性がなくとも個々の独立した音素材には倍音を発する楽音として調性が含有されているのではないだろうか。だからこそ各音を「平等」に「民主的に」扱おうという12音に行きついたのだと僕は思っている。

それに気づくと、今度はそこに「非楽音の声」が入っても総体として音楽と認識される事実を発見する。耳のパラドックスだ。声は左脳が聴いているはずだが、無調を受容する過程で既に左右のバランスがチューニングされているのかもしれない。その声(歌ではない)がシュプレッヒシュティンメ(Sprechstimme)といわれるもので「音程がない歌のような話し声」(あるいは、話し声のような歌)であり、ドビッシーの「ペレアスとメリザンド」にその萌芽がある。

それが「月に憑かれたピエロ」(第1-3部)で初めて明確に確立し、ストラヴィンスキー「3つの日本の抒情詩」、ラヴェル「マラルメの三つの詩」、ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」に影響を与えた。この曲は1912年10月16日に初演されたのだが「月に酔う」の伴奏は同じく12年作曲のアルバン・ベルク「アルテンベルク歌曲集」の第1曲「 魂よ、お前はいかに美しいことか」の管弦楽を思い出さずにはいられない。先生と弟子の作曲の前後関係の詳細は分からないが非常に興味のある所である。まずはアルテンベルク歌曲集第1曲からお聴きいただきたい。

ちなみにアバドはこの曲を十八番にしていてロンドン交響楽団とやった名録音(DG)は僕の愛聴盤であり、このビデオもいいがDG盤のマーガレット・プライスの歌はさらに素晴らしい。

さて次に本題の「月に憑かれたピエロ」である。これはシェーンベルクが12音を始める前の作品である。

その第1部、

  1. 月に酔う Mondestrunken
  2. コロンビーナ Colombine
  3. 伊達男 Der Dandy
  4. 蒼ざめた洗濯女 Eine blasse Wäscherin
  5. ショパンのワルツ Valse de Chopin
  6. 聖女 Madonna
  7. 病める月 Der kranke Mond

 

をグレン・グールドが指揮しながら伴奏している録音がある(ビデオは1-5)。第1部だけなのが残念だがこのピアノが大変にききもので彼がどれほどこの曲を愛しているかが如実にわかる。先ほどのアルテンベルクと聴き比べていただきたい。

全曲はこちら。あんまりとんがってない解釈だがシノーポリとドレスデン・シュターツカペレの演奏が美しい。僕はこれが好きで、ピエロ・リュネールのこういう要素とペレアスが融合してプーランクの「人間の声」という大傑作につながったと思っている。

 

516XPV6PK9L__SY450_グールドのシェーンベルグは大変に見事である。これだけ作品23を美しく弾いている例を僕は他には思い当たらない。各音の倍音が発するトーナリティを認識して和音を鳴らしている気配があるのは上述の僕の考えを裏書きしているように思うが。この「倍音認識」はピエール・ブーレーズにも感じられ、それが例の春の祭典CBS盤の第1部序奏の木管にあるのだ。あの演奏が特異な音彩を発する原因はまぎれもなくそこにある。そういう音響を生み出しているこのふたりの耳の鋭敏さは驚異的で、等しく20世紀音楽の演奏史に大きな足跡を残したことは疑いがない。グールドのバッハが特異であるのは、このシェーンベルクで明らかになる彼のトーナリティへの独特の感性に一因があると思う。彼の弾く平均律とシェーンベルクの作品23は同質の美感を共有している。この音感でモーツァルトをやっても音楽の方が受容できないのであって、それに飽きたらず曲をいじってしまっているのではないか。彼がショパンを嫌って弾かなかったのはまったくもって当然なことだ。何故か第3ソナタだけ録音があるが、どこかバッハのようでもある。

 

(補遺です、16年1月17日~)

アルバン・ベルク 歌劇「ヴォツェック」

ピエール・ブーレーズ / パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団

CL-120921009僕の真のベルク初体験は94年、アムステルダムで聴いたオランダ国立オペラによる歌劇「ヴォツェック」だった。陰惨な内容の物語と音楽のインパクトは強烈で記憶に焼きついた。そして右のブーレーズ盤だ。クレンペラーの魔笛でパパゲーノを演じた美声のワルター・ベリーのタイトルロールがブーレーズらしい。歌手の音程のコントロール、冷徹なオケ演奏で血の匂いはうすく彼の青ひげ公やペレアスと似た印象を残すが、リングを振っても変わらぬ一流の個性と思う。パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団を振ったブーレーズの音が聴けるのは実に貴重で魅力が尽きない。そんなに上手いオケという記憶がないが彼の手にかかるとこんなに精妙な音が出てしまう!指揮者の耳の良さがいかに実効があるものかわかる。66年パリでこれとメシアンの「われ死者の復活を待ち望む」「天の都市の色彩」がCBS録音のスタートで第3弾がドビッシー「海」だった。僕にとっては記念碑的録音だ。

 

アルバン・ベルク 「ルル組曲」/ 歌曲集「ワイン」

ジュディス・ブレーゲン(Sp:ルル)、ジェシー・ノーマン(Sp:ワイン)ピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

115885935これはブーレーズがNYPOを振った一連のディスクのうちでも火の鳥、ペトルーシュカ、ダフニス、マンダリン、ラヴェル集に並ぶ名盤である。それらと同様、新盤(VPO)より良い。濡れたように光彩を放つオケ、完璧なピッチ、鋭利なダイナミズム、精密微細にクリアに音響をとらえた録音!細身のプレーゲンの声も見事なピッチの楽器として計算されており(それだけに悲鳴が衝撃的だ)素晴らしいとしか言いようがない。一転、ワインでのノーマンの全てを包み込む馥郁たる声はどうだ。音色に対するブーレーズの作曲コンセプトすらうかがわせる恐るべき先鋭なセンスであり、極限までマイクロスコーピックな時間支配にこちらの精神も金縛りになる。

 

アントン・ウェーベルン 作品番号付き作品全集(Op1~31)

ピエール・ブーレーズ / ロンドン交響楽団他

12770_1これも僕の愛聴盤だ。ブーレーズはそのシェーンベルク論のなかで「演奏は様式の理解が足りないのではなく、技術不足によって破壊される」と述べているがそれはウェーベルンにおいてさらに言えるだろう。作品18、ハリーナ・ルコムシュカ(ソプラノ)のギター、クラリネットとの「合奏」は驚異的であり、完璧なピッチが音楽の基本であることが無調音楽でも根本原理であることを明確に示す。作品15のフルート、クラリネット、トランペット、ハープ、ヴィオラとソプラノの音の綾は究極の美しさだ。これはJ.S.バッハやベートーベンの美といささかも変わらず、そう聞こえない演奏は技術不足によって破壊されているのである。

 

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

 

 

 

 

 

 

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ラヴェル 「マ・メール・ロワ」

2015 JAN 28 21:21:42 pm by 東 賢太郎

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この曲を知ったのはやっぱりピエール・ブーレーズのLP(ジャケットは右)で、大学時代のことだ。春の祭典、ペトルーシュカときて、前後関係は忘れたが火の鳥、ダフニスあたりと同じ頃に虜になっていた。光彩陸離たる響きに一気に引きずり込まれ、以来今に至るまで僕の中で絶対の魅惑と気品をもって君臨し、シンセで自分演奏版をMIDI録音するまではまり込むことと相成った。

この曲、楽想の高貴なたたずまいもあるし、マ・メール・ロワ(Ma Mère l’Oye)というの題名の響きもなんとなくおフランスっぽい。貴婦人か何かのことだろうとしばらく思いこんでいた。ところが調べてみるとこれは英語で「マザー・グース」、日本語では「ガチョウ婆さん」でずっこけた。麻婆豆腐(あばた婆さんの豆腐)を連想してしまい困った。

マザー・グースは英米を中心に広く知られる童謡・寓話集であるがルイ14世時代のフランスの詩人シャルル・ペローの『寓意のある昔話、またはコント集~ガチョウ婆さんの話』(Histoires ou contes du temps passé, avec des moralités : Contes de ma mère l’Oye)(1697年)が題名の元になったらしい。文学は疎いが、赤ずきん、長靴をはいた猫、青ひげ、眠りの森の美女、シンデレラ、親指小僧などがペローの童話集にある。

このラヴェルの音楽から僕が想起するのはむしろ英国のルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」だ(そう思って調べたら彼もアリスでマザー・グースから引用した言葉の「もじり」をふんだんに使っている)。両作品ともおとぎ話を素材とした創作であって、子供にインスパイアされた作品という点も同じだ。キャロルは数学者であり、ラヴェルのスコアの筆致も理系的だ。どちらも生涯独身で女っ気はなかったようだ。

ラヴェルはこの曲を友人であるゴデブスキ夫妻の2人の子、ミミとジャンのために作曲し、この7才と6才の姉弟に献呈したが、幼なすぎたため2年後の1910年4月20日にパリ・ガヴォーホールで初演したのはマルグリット・ロンの弟子たち(やはり11才と6才の子供)だった。ちなみに、このお姉ちゃんの方のジャンヌ・ルルーは長じて有名な作曲家になっている。

この時点でこの曲は、第1曲「 眠れる森の美女のパヴァーヌ」、第2曲 「親指小僧」、第3曲 「パゴダの女王レドロネット」、第4曲 「美女と野獣の対話」、第5曲 「妖精の園」から成る四手版(①ピアノ連弾版)でこれがオリジナルである。翌年にこの全てが管弦楽化され(②管弦楽組曲版)、さらにその翌年に「前奏曲」、「紡車の踊りと情景」および4つの間奏曲を加えて③バレエ版が作られた。今日我々が耳にするのは普通はこの3つの版のどれかである。

ところが、作曲の年にラヴェルの友人のジャック・シャーロットが二手版(④ピアノ・ソロ版)というものを作っており(彼は第1次大戦で戦死しクープランの墓の前奏曲を献呈された人だ)、これをコンサートで聴くことはあまりないが厳密には4種のスコアが存在する。僕はこの④を弾いて楽しんでいるがさすがに二手だと難しい部分もあり、手が小さいので第5曲 「妖精の園」は左手の10度の和音をちゃんと抑えるのが一苦労である。どなたか①を一緒に弾いてくれると大変うれしい。

ところで①-④を眺めると、ストラヴィンスキーの「火の鳥」のテキストがバレエ版、管弦楽組曲版(複数)、ピアノ・ソロ版が存在して見た目には似た様相となっていることに気がつくだろう。しかしこっちはバレエ版がオリジナルであって作られた順番が逆だ。あくまで管弦楽で発想された音楽でありピアノ版は興味深いがもの足りない。ところがマ・メール・ロワの清楚でシンプルな佇まいはピアノにこそふさわしく、オケ版はその至らなさをフル・オーケストラならではの豪華な響きが飛び交う間奏でフィルアップしたという感じもある(それはそれで別な意味で壮絶に美しいのだが・・・)。

さてマ・メール・ロワの1910年の初演だが、こんなものだったのかなと想像している(第1,3,5曲)。

中国の姉妹だろうか、とてもよろしいと思います。子供でも弾けるのに非常に「高級な」和声が用いられ万人を黙らせるこの曲を選んだという趣味も素晴らしい。

この曲は全曲にわたってスコアにマジカルな瞬間が満載である。精巧なガラス細工の趣だ。全部書くときりがないから2つだけ。まず第3曲 「パゴダの女王レドロネット」のここだ(以下の楽譜は④のシャーロット版である)。

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5小節目のpp。ここで和音がF#からFm/a#にがらりと変わる!魔法としか言いようがない、これぞ不思議の国のアリスの世界だ。ここを「感じて」弾かなくてはいけないのは言うまでもないが、オケ版でテンポを落す指揮者がいる。モントゥー、マルティノンなど。これには反対である。ラヴェルの気位と格調が崩れて下俗なロマン派みたいになってしまう。何といっても最高にいいのはアンセルメだ。テンポは全く変わらず、見事な弦のハーモニーの綾にバス(ハープのa#)が効いている!このバスとツンと澄ました冷ややかなフルートの鳴らし方ひとつでも彼のセンスの良さを感じ、厳粛な気品に何度聴いてもぞくぞくする。

もう一ヵ所、第5曲 「妖精の園」。第5,7小節のドに長7度でぶつかる「シ」をどう弾くか?これはピアノでも弦でも大変にデリケートな問題で難しく、私見ではセクシーでスリリングで末梢神経が痺れるような音が欲しい。そしてさらに終わりのところのこのフレーズだ。

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このppが命でありテンポは僕ならかなり落とす。ビデオの女の子たち、そこをもう少し気を付ければもっと大人の演奏になる。プロでも全然ダメな人が多く名手といわれるサンソン・フランソワでもこのフレーズを不感症で弾いていて、それじゃあマ・メール・ロワをやる意味なんかないでしょうと尋ねたくなる。ここはアンセルメもいいがちょっとクールすぎる。アバドがもっといい。80年代の彼の感度は素晴らしかった。

さらにいえば、オケ版を判断するにソロ・ヴァイオリンの巧拙が大きい。僕は冒頭に書いたようにブーレーズ盤でこの曲に入門したものの、下宿でカセットで聴いていたのはデジェ・ラーンキとゾルターン・コティッシュ、エリック&ターニャ・エイドシェック、そしてアルフォン・アロイス・コンタルスキー兄弟といずれも①だった。自分もピアノで爪弾いておりそういう耳になると、この音楽に散りばめられた精妙で絶美の和音をオケのいい加減な音程で壊すなと祈りたくなる。

だから第4間奏および第5曲のソロVnの音程やヴィヴラートが気になる。モントゥーのLSOのソロは間奏も実にいい加減だし、第5曲も微妙にずれてこれまた能天気に鳴っている直後のオーボエとピッチが合わない。モントゥーの解釈には敬意を払っているだけに非常に残念だ。そして尊敬するブーレーズ盤のニューヨーク・フィルのコンマスもいただけない。第5曲はヴィヴラート過剰なうえになんとポルタメントまでかける下品さで、せっかくの指揮の品位をぶち壊している。こんなものを彼が望んだとは思えず、放置してしまったのも不可解だ。音楽監督就任したての頃だったし遠慮があったのだろうか?セルが鍛えまくったクリーブランド管でやってたら違ったろう。

この曲は77年にチェリビダッケ初来日の読響演奏会(東京文化会館)で、またロンドンとアムステルダムで2回ジュリーニで聴いているが、さっぱり演奏内容の記憶がない。たいして良くなかったんだろう。子供でも弾ける曲だが良い演奏をするのは大家でも難しく、逆に良い演奏をした時の聴衆へのインパクトは非常に大きい。技術ではなく、演奏家の感性、人間性、やさしさといったものが満場を包み込んで暖かな喝采と敬意が集まる。ソロで弾けるので、ピアノニストの方はなんとかの一つ覚えのショパンではなく、こういうセンスのいい曲を弾かれてはいかがだろう。

②③の管弦楽版では

エルネスト・アンセルメ /  スイス・ロマンド管弦楽団            クラウディオ・アバド / ロンドン交響楽団

をお薦めしたい。アンセルメは最初だけは③であるが間奏曲はないため基本は②という折衷なのが玉に傷だ。オケの機能的にも一流とはいいがたいが、なにしろ上記のようにセンス満点であり、葦笛のようなオーボエを始め管楽器の音色はフランスの伝統美にあふれている。

アバドは③であり、楽譜の読みが深く繊細なことは大変に満足感が高い。表面だけきれいにまとめる印象があったが全く違う。オケが納得してそれを音化しており、非常にうまくて美しい。その「レドロネット」を。

世評の高いのはアンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団だ。華やかでフランスっぽい音と表現だが、しかしじっくり耳を凝らすとオケが精緻でなくうまくない。肝心な部分の感じ方もいまひとつだ。指揮の流れでなんとなくうまくまとめている演奏なので、指揮の気骨で通しているアンセルメと違いそういうことが気になってしまう。餅は餅屋で決して悪くはないが僕は昔懐かしいフランスの管を聴くならアンセルメのクールで厳粛な感じの方を好む。

①で好んでいるのはこの2つ。

モニーク・アース/ イナ・マリカ                                   デジェ・ラーンキ / ゾルターン・コティッシュ

アースの「妖精の園」を。

ラーンキのはフレッシュなみずみずしさが取柄でありよく聴いたのでおなじみというだけで特に優れているわけでもない。

この版はその気になれば素人でもできてしまうので面白い演奏はいくらでもあるだろう。できれば自分で弾きたい。

 

(こちらへどうぞ)

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

 

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ドビッシー 「牧神の午後への前奏曲」

2014 NOV 25 2:02:05 am by 東 賢太郎

ピエール・ブーレーズは「牧神の午後への前奏曲」をもって現代音楽が始まったと評価している。

パーヴォ・ヤルヴィが98年にロンドンのロイヤル・フェスティバルでこれをやった時のことは忘れない。比較的前の方で聴いていたら、オーケストラのいる舞台空間を「音が明滅しながら移動する」のがあたかも点描画を観るように目に見えた気がしてびっくりした。70年の大阪万博のドイツ館でシュトックハウゼンの電子音楽をやっていて、ドーム状の高い天井に設置した多くのスピーカー間を音がすばやく移動していく。それを思い出してしまった。

もしかして牧神のスコアには楽器の物理的な位置(位相)というものが設計されていて、ヤルヴィがそれをシアター・ピース化して表現することを意図したのではないかとさえ思う。印象派的な音のポエムと見なされている音楽が、この日以来がぜん僕の中では現代音楽になった。

ドビッシーは半音階、そして全音ばかりを重ねた音階を使用して、どこの民族風でもない旋法を生んだ。国籍、アイデンティティのない音のブロックに機能和声のルールは適合しないという形で、ワーグナーのトリスタンとは違う形で彼は自由を手に入れたように思う。30歳より着手し、出世作となった。

「詩人 マラルメ の『牧神の午後』(『半獣神の午後』)に感銘を受けて書かれた作品である。” 夏の昼下がり、好色な牧神が昼寝のまどろみの中で官能的な夢想に耽る”という内容で、牧神の象徴である「パンの笛」をイメージする楽器としてフルートが重要な役割を担っている」(このパラグラフはWikipediaより引用させていただいた)。

故意に楽器が機能的に鳴りにくいcis音のpで始める。その不安定でおぼろげな感じが牧神のまどろみをイメージさせる。このcisによる印象的な開始が、ストラヴィンスキーによって楽器をファゴットに替え、やはり鳴りにくい楽器の限界に近い高いc音で意図的に開始する革命的な音楽(春の祭典)を生んだとすれば、まさにブーレーズの指摘通り、この曲をもって現代音楽は始まっている。

この開始は5年前に作曲された交響組曲「春」のそれに似たムードを持っているが音楽の密度と成熟度は格段に差がある。cisから半音階をたどってなめらかに下降した音が最も遠い増4度のgで止まる。その間の5つの音は1小節で全部使っている。伴奏のないこの旋律、調性もうつろにまどろんで聞こえる。なんとも挑発的な開始だ。

このcis-gの増4度(augmented fourth)、主調のホ長調と変ロ長調の増4度について、vagueness(あいまいさ)ということでバーンスタインが講義している。確かにこの曲はTritone(悪魔の音程、増4度)が支配している。

おっしゃるようにホ長調で開始した曲が変ロ長調を経由して、ホルンがbの増4度eを通って上昇しfisに至り、11小節目で音楽はニ長調!になる。そこで f から半音だけそおっと上がるホルンのブレンドがうまくいったゾクゾクする効果 ! セクシーと書くしかなく僕はこれがたまらない。しかもこのホルンはすぐ消えて、同じfisはクラリネットに引き継がれているのだが、ほとんどの人は気づかないだろう(いや、気づかないように演奏されるのが一流の証なのだが)。

そこで微妙に色彩が変化している!

もうため息をつくしかない。ヤルヴィの教えてくれたシアター・ピース的な位相変化、そしてそのfisの管弦楽法による絶妙な色彩変化。これはストラヴィンスキーが春の祭典の各所にもちこんだし、特に後者はメシアン、シェーンベルクを通じてブーレーズに引き継がれていくのである。冒頭の彼の言葉が包含するのはそういうことなのだと僕は解釈している。

さらに、大好きなのはここだ。オーボエの旋律が入るAnimato、次々と調を変えて音楽が大きなうねりを迎える部分だ。ここは僕の中ではギリシャだ(本当にマラルメの詩がそうかどうかは知らないが)、ダフニスとクロエの世界!もう最高である。 debussy1

この先、音楽は変ニ長調で交響詩「海」を思わせる雄大で広々とした歌となる。冒頭のフルートにハープで和声がつき、調性はホ長調、ハ長調、変ホ長調、ロ長調と変化し冒頭のcisで始まるホ長調に回帰する。しかし牧神の心はまだ休まらず、三連符の旋律がかき乱す。もう一度冒頭旋律が今度は嬰ハ長調の7度和音で現れ、徐々に心は落ち着いて音楽は遅くなる。

すると突然にテンポを戻してオーボエが何かを告知するかのようなハ長調の旋律を奏でる(下のa tempo)。そこからの2小節でホ長調に戻す和声のもの凄さには絶句するしかない。ここにくるといつも時が止まったようであり、この音楽の魔法の呪文にかかって動けなくなる。最後のすずやかなアンティーク・シンバルで我に返るまでの金縛りを味わうことになるのだ。本当に美しい。

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何という素晴らしい音楽だろう!ドビッシーはこれを書いたころバイロイトでパルシファルやマイスタージンガーを聴いて、のちにはその限界を感じてアンチワグネリアンとなる。しかしこの牧神のスコアを見ると、和声やチェロの走句など様々な部分にトリスタンやマイスタージンガーを見る。

お示ししたピアノスコアはKun版。僕はBorwick版を買ってしまい三段譜になる部分はお手上げだったが、こちらはより簡明で弾きやすい(petrucciから無料でダウンロードできる)。できればご自分で弾いて、この曲の奇跡のような和声を味わっていただきたい。

 

ジャン・マルティノン/ フランス国立放送管弦楽団

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冒頭の模糊とした情緒、フランス的な管の味わい。オケの各パートからこれはこういう曲だという確信をこめた音が鳴っている。フルートのフレージングと絶妙なテンポの揺れはなまめかしく、オーボエ、イングリッシュホルンのアシ笛のような音色は最高だ。この音楽の雰囲気がダフニスとクロエにつながるフランス音楽の系譜を感じる。それを教えてくれる稀有の名演である。

 

ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

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スコアを一切デフォルメすることなくさらっと自然体で鳴らしているのにこんなに楽器のバランスが素晴らしい演奏はない。最高の気品がある分、エロティックな雰囲気はやや後退するが、耳がくぎづけになるほど各パートのニュアンスが精妙であり、演奏芸術の奥義ここに極まれりという感がある。マルティノン盤とは甲乙つけがたい。両方をぜひお聴きいただきたい。

モントゥー/BSOのライブがあったのでのせておく。デリカシーがすばらしい。

 

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

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旋律が動的でバレエのように表情がある。この音楽の各所の意味するものを熟知した者だけがなしえる至芸であり、デトロイトのオーケストラからフランス的な感性の音を引き出すことに成功している。楽譜をお示ししたコーダの和声変化をテンポを落してじっくりと聴かせるのを聴くとパレーさんがわかってらっしゃるのがうれしくなる。パレーはラヴェルも一級品である。

 

ピエール/ブーレーズ/ ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

51Dd67hBgoL「海」と一緒に入っており僕はこの演奏で曲を覚えた。懐かしいものであり精妙なテクスチャーに今も感銘は覚えるが精度はストラヴィンスキー録音にやや劣り、オーボエがフランス風の色香を欠いているのはこの曲の場合マイナスである。DGの新盤は精度やニュアンスがさらに落ちておりブーレーズを聴くならこっちだが、上記の3つを聴いた上で比較してみるのがお薦めである。ただし上述の「11小節目の fis」 を最もうまくやっているのはブーレーズであり、そういうものが演奏の与える感動の本質とは別種の関心であることを認めつつも、やはりブーレーズの微視的なアナリーゼ能力と聴覚の鋭さが群を抜いていることには言及せざるを得ない。

音楽鑑賞とは、知った道を演奏者という案内人と連れ立って歩くようなものだ。ここは元GHQの本営で、ここに鹿鳴館があって・・・と皇居前を散策したって、そんなことは知ってるよでおしまいだ。マッカーサーはなぜここを選んだか?鹿鳴館はこの敷地のどの辺に建っていたか?そんなことを聞かれると、ちょっとじっくりつき合ってみようかと思う。良い演奏者とはそんなものだ。

このハオ・アン・ヘンリー・チェンの指揮はなかなかだ。インディアナ大学の管弦楽団だがこのレベルにもってくるのは見事である。アマチュアなのにうまいじゃないかではなく、プロだってもうあんまりない「最後までじっくりつき合おう」という次第になった。指揮の力が大きい。弦のユニゾンだけもっとピッチを鍛え上げればへたなプロより聴けるかもしれない。

(補遺、15 June17)

ジョージ・コープランド(George Copeland、April 3, 1882 – June 16, 1971)はパリでドビッシーに4か月私淑して ”I never dreamed that I would hear my music played like that in my lifetime” と言わしめたとされ、ドビッシーの曲の一部を世界初演、多くを米国初演した米国のピアニストである。この「牧神」をドビッシーは聴いたに違いなく感慨深い。まるでオーケストラを聴くようで2手版とは思えない色彩に驚く。

 

ユージン・オーマンディー / サンフランシスコ交響楽団 (ライブ)

これは留学中の1984年に、亡くなる前年のオーマンディーがSFSOに客演した際のライブをカセットに録音しておいたものです。いまとなっては貴重な記録になってしまいました。この後に「海」と後半がブラームスの第2交響曲というプログラムで、その2曲も録音してあります。

(こちらへどうぞ)

ドビッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」

 

 

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ストラヴィンスキー バレエ・カンタータ 「結婚」

2014 NOV 3 0:00:25 am by 東 賢太郎

ストラヴィンスキーの最高傑作として春の祭典と並んで挙げたいのはこの曲です。今はどちらか選べと言われれば断然この「結婚」になります。

ストラヴィンスキーは1910年にザンクト・ペテルブルグからスイスに移って10年の間、レマン湖の北側のモントルー、クララン、モルジュに住み火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典、結婚、兵士の物語、プルチネルラなどの代表作を書きました。新古典主義の作風に移行する前のこの10年にスイスの風光明媚な地でロシア色の強い作品を次々生んだというのも面白いものです。それはバレエ・リュスを通してパリの市場でその需要が強かったからだと思われます。

野村スイス本社はチューリヒにあって、僕は96-7年にチューリヒ湖畔のクスナハトに住みましたが、ジュネーヴ支店長も兼任していたためレマン湖もよく行きました。モントルーはジャズ・フェスティバルで有名ですがそのメイン会場名がストラヴィンスキー・オーディトリウムです。クラランには「春の祭典通り」(Rue-du-Sacre-du-Printemps)まであるのです。ラヴェルもそのあたりに住んでいてダフニスをストラヴィンスキーに聞かせたはずです。

692824_186_zそれはどんな所か?この写真のような所です。モントルーのやや西にあるヴェヴェイ(Vevey)はチャップリン、ヘップバーンが晩年に住み、世界的食品会社ネスレが本社を置いていますが丘の上にあるホテル・ミラドール(Mirador、それが右の写真)は僕がスイスで家族で泊まったうちでも3本の指にはいるもの。眼下にレマン湖、その向こうに雪をかぶったアルプスが望める絶景で、天皇陛下もお茶をされたという名ホテルです。今はケンピンスキー系列になったようですが、ぜひ一度宿泊されることをお薦めします。

ここで書かれ1923年にバレエ・リュスによりパリで初演された「結婚」は当初は大オーケストラで書くことを想定されました。そうならなかったのは、曲想からして春の祭典の二番煎じになってしまうからではないでしょうか。シンプルな民謡風旋律と複雑な変拍子、結尾のh音の鐘(ベル)とアンティーク・シンバルが鳴る部分の印象的なピアノのリズムが春の祭典の「生贄の踊り」のティンパニのリズムで短3度を含むなど、両曲の血縁関係は明白です。

結局、4台のピアノ、打楽器アンサンブル、4人の独唱、混成四部合唱という変則的なものに落ち着きましたが、それが非常に成功したと思います。特に声の強烈なインパクトは大オーケストラだと埋もれてしまったでしょう。家には図書館並みの20万冊もの蔵書を持っていたストラヴィンスキーの父はマリンスキー劇場のバス歌手でした。そのためでしょう、彼の声楽書法の自然さと巧みさはあまり指摘されませんが僕はこの作品でそれを強く感じます。それが春の祭典を上回る魅力なのです。

初めて聴くとわかりにくく聞こえるのですが、歌のメロディーは全音階的できわめて単純で土くさい民謡調です。数回聞けば誰でもすぐ覚えられますから第一印象で敬遠しないように願います。この土俗的なハレの場が変拍子がいりくんだ乱れ打ちの打楽器で高潮していく様はまったくもって春の祭典の分身であり、ピアノも打楽器としてその祭りに組み込まれます。祭典の4台ピアノ版に打楽器と歌を加えた感じといったら最も近いでしょう。

「結婚」とはロシアの農民の婚礼のようですが描写音楽ではないと作曲者は述べています。春の祭典が生贄という死の儀式であり、結婚は誕生の儀式である。この曲は前者を作曲中でその初演の前年である1912年に着想されています。両者がペアの音楽と考えてよろしいのではないでしょうか。何とも蠱惑と興奮に満ち満ちた音楽であり、決して有名ではありませんが僕は世紀の大名曲と確信しております。

その証拠といってはなんですが、春の祭典の色が濃厚とはいえ、自作のペトルーシュカも彷彿とさせ、後に書かれるオルフのカルミナ・ブラーナ、バルトークの弦チェレ、レスピーギの「ローマの祭り」もこれなくして書かれなかったかと思わせます。逆にシェーンベルグの「月に憑かれたピエロ」を聴いたストラヴィンスキーが「日本の3つの抒情詩」を書き、ラヴェルが「マダガスカル島人の歌」を書きました。かように20世紀初頭は各作曲家が個性を多様に競い合い影響を及ぼし合う時代だったように思いますが、この曲は多方面に遺伝子を残していると信じます。

noces大学時代にニューヨークで買ったピエール・ブーレーズ指揮パリ国立歌劇場メンバーによるLPがあまりに衝撃的で脳天に焼きついており、「結婚」というとこれになってしまうのも春の祭典と同じです。ここでブーレーズが聴かせる鮮烈な音!土俗的ではないが原色的な歌、精密でパンチのある打楽器アンサンブル、音程が明確なティンパニ、知的だが熱い音楽である65年のこの録音に春の祭典CBS盤への血脈がはっきりと感じられます。このLPはB面にプリバウトキ、猫の子守歌、4つの歌、4つのロシアの歌が入っていて、これがまた歌も伴奏楽器群もブーレーズの面目躍如である細密的音色美にあふれていて聴くたびに体も精神も興奮します。これは天下の名盤であり、一人でも多くの方に聴いていただきたいと思います。

41NJ4XKGQPL次にロンドンで買ったバーンスタイン指揮イギリス・バッハ音楽祭打楽器アンサンブルにアルゲリッチ、ツィマーマン、カツァリスのピアノという豪華顔ぶれによるDG盤でした。わりあいしずしずと始まりますが、だんだん音楽が熱してきてリズムの爆発的饗宴となります。この演奏のリズムの現代的な格好よさはこれまたとてつもない魅力で、バーンスタインは春の祭典よりこっちの方に向いています。動物的とさえいえるしなやかな運動神経を感じさせるセクシーな快演であります。ソプラノのアニー・モーリーは艶のある声質で好ましい。アメリカ人ですがロシア語のテクストをよく歌っています。

もうひとつyoutubeでこういうのを見つけました。これは上の2つと対照的に田舎の土俗性丸出しの土臭さ。大変面白いですね。癖になりそうです。

(こちらへどうぞ)

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

 

 

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ストラヴィンスキー「春の祭典」(マゼール追悼)

2014 JUL 21 13:13:17 pm by 東 賢太郎

rite写真のマゼール / ウィーン・フィル盤は僕が買った10枚目の春の祭典LP(英Decca盤)である。大学2年の1976年12月18日のことだった。その前の9枚はというと順番に、①ブーレーズ(CBS日本盤)②マルケヴィッチ③メータ(LAPO)④小澤⑤ショルティ⑥ブーレーズ(ORTF)⑦バーンスタイン⑧アバド⑨ブーレーズ(①の米国盤)であった。①購入は72年だからこの曲とは42年の付合いになる。

読者にはどうでもいいことで申しわけないが「自分史」として書いておくと、この後も⑪ドラティ(ミネアポリス)⑫ハイティンク⑬スヴェトラノフ⑭デイヴィス(カセット)⑮M.T.トーマス⑯カラヤン⑰グーセンス⑱ホーレンシュタイン⑲M.T.トーマス(pf連弾)⑳ムーティ㉑ラインスドルフと来て、アメリカでは㉒ストコフスキー、カセットで㉓メータ(NYPO)㉔スクロヴァチェフスキー、そしてロンドンで㉕デュトワ㉖アタミアン(pf)㉗マータ㉘フリッチャイ㉙オッテルロー㉚ドラティ(DSO)㉛アンセルメ㉜ストラヴィンスキー㉝モントゥー㉞コシュラー㉟スワロフスキーとなる。以下CD時代に入り、それを加えると87になる。いずれその各々につきコメントを試み、最近増えているらしい「祭典フリーク」の方々の一興と成そう。

こうして書いてみると、この異演盤購入記録は正に半世紀にわたる自分史であり、こういうことをすることもそのデータをいちいち微細に記録・分類・管理していることも、僕が何者かをこれ以上雄弁に物語るものはないという気がしてくる。しかし春の祭典だってもう最近の新譜を聞きまくる冒険心はない。異演盤収集は30歳代で「終わったこと」だ。だからこれは僕の若気の至りの記録でもある。恋愛やはしか・風疹のたぐいであって、還暦になって金も閑もあるぞさあという性質のものではない。

ワインのムートンなどを年代順に収集して、当たり年ではない故にレア物のカンチャン(足りない年)を何十万円も払って買う人がいるが、僕はそういう「コレクター」ではない。コレクターは収集が目的であってワインテースターとはちがう。僕はテースターであって、聴きたいから買った結果が積もり積もってこうなっただけである。また、テースターというと温度、湿度はもちろんグラスのまわし方の微細な角度と回数にまで凝りまくる人がいるが、音楽鑑賞ではそれがオーディオマニアである。僕はそれでもなく、あえていえばソムリエに近いと思う。

思えばこれは小学校時分に近所の子と勝負してメンコを大量に保有していたことの延長である。メンコは友達の持っていた伊賀の影丸の丸メンを狙って日夜投法を研究した。どうしてかというとメンコの絵はへたくそで影丸らしくない。ところがその丸メンだけは結構リアル感があり、どうしても欲しかったのだ。そうして遂に入手したそれを日夜眺めては勝利の余韻に浸った。①のブーレーズのCBS盤などは今やそれに近い。カセットまで入れて6種類持っており、どれも微妙に音が違っていてどれをかけてもワクワクする。宝物である。そうしてもうひとつぐらいこういうのがあるだろうと探して探して87になってしまった。結局、ひとつもないということがわかったが。

さて、そのマゼール盤だが、ウィーン・フィル(以下VPO)初の春の祭典ということで発売当時大いに話題になったのを昨日のように思い出す。75年録音、76年発売だから早々に買ったことになる。カネのなかった当時、あえて高額のイギリス盤に投資したのはVPOの音を入念に聴きたかったからだ。ところがVPOはオーボエ、トランペットがややたどたどしいものの充分うまく、「オボコさ」を期待したのに裏切られた気もした。それでも、第1部はこってりした木質の響きがソフィエンザールの残響に溶け込み、金ピカに飛び出さない金管、皮革で音程の明瞭なティンパニが実に奥ゆかしく、料理でいえば「いいダシが出ているぞ」とうれしくなった。

ところが「春のロンド」のブラスの咆哮のテンポがガクッと落ちてがっかりする。ダシがいいんだからこういう余計なアクを出さずにやれよと。そしてとうとう極めつけの第2部のティンパニ11連打だ。ここに至るともう許しがたい。これを褒めている評論家もいるが、こんなものは曲の本質に何の関係もない三文芝居である。何かデフォルメしないと個性の刻印ができないのは一流アーティストとはいえない。この頃から90年代にかけて、マゼールは才気が先走ってそう評されて仕方ない音楽をやっていたと思う。だから実演にもあまり感動しなかったのだろう。

しかし、シベリウス4番の稿の論旨に戻るが、細部に注意を払うとやはりVPOの奏者は祭典に慣れていない。「生贄の踊り」のトランペットなど音符をちゃんと吹けてすらいない。そういうオケなのに11連打以降の生気ある音楽、リズムのシャープさ、エッジの立て方、マスの質量感の出し方など凄いなあと思う。彼の棒がそうでなくてはこういう音は出ない。半端でない理性と運動神経がオケの「おぼこさ」を中和していることに気づく。全体にたちこめるピッと張りつめた緊張感はVPOを本気にさせている証拠だ。ネコにチンチンをさせている観なきにしもあらずだが、良くも悪くもこのオケにこういう芸をさせることができる米国人は彼以外に誰もいないし、今後も出ないのではないだろうか。

前回、ティンパニのミスの話を書いた。しかしあんなものは可愛いものであり、春の祭典の演奏がどれほど難しいかということまでを教えてくれる映像がある。ズビン・メータ指揮ローマ放送交響楽団の69年のライブである。

これだけいい加減な春の祭典というのも希少である。笑ってはいけない。前半だけでも、トランペットが一音符遅れて入りちゃんと吹ききる、フルートが一小節ずれてちゃんと吹ききる、クラのトリルが抜ける、ティンパニが一拍早い、オーボエが一小節早い・・・少なくとも5か所の尋常でない「事故」がある。後半もペットが落っこち、ティンパニはズレまくる。圧巻はコーダに入る所でティンパニが一小節飛ばして入り、気がついて立て直したつもりがひきつづき間違った音をバンバン叩き続けるためついにアンサンブルが崩壊。止まりかけの緊急事態となるがホルンと木管が何とかつないでティンパニは落ちたまま終わる。歌劇場ではミスに情け容赦のないローマの聴衆がブーのひとつもなく大喝采、スタンディング・オベーション。なんとも微笑ましい。

若きメータは格好はいいが、まるでダンサーが指揮しているようだ。これと同じ69年に①を録音したブーレーズとはまったく別な人というしかない。このローマのオケは決して二流というわけではないが、イタリアオペラにこんな変拍子は出てこないのだからもっと練習で鍛えて緻密な指揮をするべきだった。同じくピットのオケで変拍子に慣れていないVPOを完ぺきに調教したマゼールは、やはりすごいと思う。

 

 

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