Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______ブーレーズ

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

2015 MAR 5 0:00:12 am by 東 賢太郎

僕がこの曲を母の一言で知ったひょんな経緯はこれに書きました。

ストラヴィンスキー好き

このアンセルメ盤「火の鳥」ブーレーズ盤「春の祭典」を買った高校1年が自分の音楽史の真の元年といってよく、のちに肩の故障で思うようにいかなくなった野球をあきらめようという契機になり、それならついでに受験も頑張ってみようかなという気にもなったという、ひとえに人生の導師のような存在です。

コタニの売り場のお兄さんに言われた「組曲より全曲版がいいよ」という教えを順守してアンセルメ盤を全部覚えてしまい、しばらく組曲版の方を知りませんでした。それを初めて耳にした時の衝撃は忘れません。なんじゃこりゃ?もう全然別な曲であり、オーケストラが妙でフィーナーレに変なホルンのグリッサンドが鳴るに至ってはディズニーの漫画かよという感じです。

しかしもっとも怒りを覚えたのは、大好きなところである「火の鳥の嘆願」がばっさりと切り捨てられていることでした。これです。

firebird

ここのゾクゾクするエロティックな和声はどうだろう!ドビッシー風なんだけども火の鳥にしかないたまらない色香!寝ても覚めても四六時中これが頭の中で鳴るほど惚れ込んでしまい、以来ずっとストラヴィンスキーはもちろん、誰のであれこういう音のする音楽を探し求めてきましたが、ひとつもありません。弾ける方はこの楽譜だけでも鳴らして3小節目の「火の鳥和声」を味わってみて下さい。

これはもう音の魔法なんです。僕はバレエには皆目無関心で観たことがなく、火の鳥がなにをどう嘆願しているか知りませんが、この音の動きを目をつぶって追っているだけで恍惚として法悦の境地をさまよっており、たのむから舞台でドタバタと余計な雑音やほこりをたてんでほしいと願ってしまうのです(バレリーナのかた、すみません・・・)。

これを書いたストラヴィンスキー、そして組曲でこれを捨てたストラヴィンスキー、どっちが本物なんだろうとさんざん迷うことになりました。

魔法はいくらでもあります。まず、冒頭の「導入部」は低弦の不気味なユニゾンで幕をあけます。それにファゴットの低音の和音がからむ部分の雰囲気は一気に我々を魔法の園に引き入れますが、これは森の洞窟を暗示するワーグナーの楽劇ニーベルンゲンの指輪の第2日(3曲目)である「ジークフリート」の幕あけの「序奏」そっくりです。「カッチェイの死」の2小節も「ジークフリート」の第2幕序奏にホルンの重奏で出てくる音型、和声にそっくりです。

感心するのは「王女たちのロンド」のバスのピッチカートの後です。3小節目でアルトがd♮になる、こんな簡素な譜面でたったそれだけなのに、ほのかにサブドミナントのあの希望の灯りがさしこむところ!彼がやたら音の洪水みたいな騒然たる曲で有名と思ったら大間違い、こんな繊細な和声感覚があるからああいうものでも人を魅了できるのです。

firebird1 ところがです。これは作曲者によるピアノ版なのですが、8小節目のf#は全曲版にはなく、ここはファゴットとヴィオラがeを鳴らしています。音まで変えているというのはどうかと思います。あんな素晴らしいスコアを書いておきながらこんないい加減なことがどうしてできるのか神経を疑う。またしてもわからなくなります。

この後に出てくる「魔法のカリヨン」、ここのスコアは春の祭典の先駆けであり、幻想交響曲の第5楽章の妖気を孕んだ傑出した部分です。アンセルメ盤のここの異界の音響のおどろおどろしさはききものです。ところがこれも組曲版はあえなくカット、ひどいものです。ひとことで言ってしまえば、組曲版はいくつか種類がありますが、全曲版の版権が認められない米国で印税稼ぎするためにあえて差異を作りだした改悪版なのです。

特に最も演奏頻度の高い1919年版というのは魔王カッチェイの宮殿にたちこめていた邪悪な霧や火の鳥の魔法の痺れるようなオーラは消し飛び、ディズニーランドのBGMみたいにド派手で子供受けするショーピースになってしまった無残なカリカチュアです。これがプログラムにのっているコンサートは昭和の食堂にあった日の丸が立ってる「お子様ランチ」を思い出し、足を運ぶ意欲が一気に萎えます。正直のところ、なくてもいい楽譜と思います。

むかし音楽誌に「全曲版は冗長なので1919年版が良い」などと書いている人がいて、評論家のあまりのレベルに低さに絶句しました。しかしそういう輩が出かねないぐらい作曲者本人が米国での版権目当てに、要は金儲けのために混乱を生んでいる部分もあるのです。やっぱりこれはドビッシーだなと思う和声は多いし、「魔王カッチェイの踊り」は師匠リムスキー・コルサコフの歌劇「ムラダ」の「悪魔のロンド」とムソルグスキーの「禿山の一夜」の影響が明白なことは禿山のピアノバージョンを聴けばすぐわかります。彼自身、習作に近いと認識していたかもしれず、この曲に深い愛情があったかというとやや疑問のようにも思います。

友人であり作品へのアドバイザーでもあったアンセルメはスコアにあれこれ意見していました。その結果、やがて解釈のちがいから喧嘩して口をきかない中になりました。N響に来演したビデオがありますが、フィナーレの4分の7拍子をザクザク切って全曲版のスコアと程遠いものになっています。この辺にも愛情不足を感じてしまいます。かたや、やはりN響を振ったアンセルメはずっと自然です。喧嘩の影響だったんでしょうか。

さて、この曲の魔法の極点はフィナーレにやってきます。

カッチェイが死ぬと15パートに分割した嬰ニ短調の弱音器付の弦の和音が上昇、そしてトレモロで徐々に霧が晴れるように下降して、ラファエロの絵のような神々しい空気を作ります。ホルンが牧歌的なロ長調の主題を歌う。悪の消滅、そして感謝。ここは田園交響曲の終楽章、嵐の後の神への感謝のムードそのものです。

天使の導きのようなハープのグリッサンドがその歌をヴァイオリンに渡すと、コントラバスがそっと基音のシを添え、ハープのハーモニクスが天への階段を一歩一歩登るようにやさしく歌を支えていきます。そして空からの一条の光のようなフルートがさしこむと、音楽はゆっくりと大団円に向います。

スコアのこの1頁のこの世のものとも思えぬ神々しい響きはあらゆるクラシック音楽のうちでも絶美のものというしかなく、いかなる言葉も無力、無価値です。それをここにお示しして皆さんで味わっていただくしかございません。

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そしてここから 4分の7拍子の歓喜の円舞がロ長調からハ長調へと高潮し、もういちどロ長調に半音下に戻すところのティンパニとチューバの f# の一発!これをアンセルメは渾身の力でズーンとやりますが、これに何度しびれたことか。半音ずれるだけの転調がこの1発で正当化されてしまう天才の一撃!そして2コーラス目に入るところの h の一撃!

この半音下にずれる転調は、僕のブログを読んでいただいている方は思い出されるでしょう。そう、ボロディンの交響曲第2番の第2楽章トリオに稀有な例があるのです。ストラヴィンスキーがそこから発想したかどうかわかりませんがあれを知らなかったということは考えられません。ただ火の鳥の方は背景の和声の事後的な正当化は何もなくf#のドスンでいわば暴力的にロ長調におさまってしまう。とてもストラヴィンスキー的ではありますが。

この曲の演奏は何回、何種類きいたか記憶にもありませんが、実演で感動したのはゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが東京芸術劇場で読響とやったものです。拍手が延々と鳴りやまず、指揮者が指揮台のスコアを手に取って高く掲げ、聴衆と一緒にそれを讃えたのも感動的でした。

もうひとつは95年3月30日にフランクフルトのアルテ・オーパーできいたヴァレリー・ゲルギエフ / キロフ管弦楽団で、ドイツの家に遊びに来ていた母と行った演奏会でした。フィラデルフィア、ロンドン、フランクフルト、チューリヒと言葉もわからないのによく一人で何度も訪ねて来てくれたものです。そのたびに好きな音楽会にたくさん連れて行きましたが、母の一言で知ることになった火の鳥をいっしょにきけたというのも幸せでした。実は今日、母が手術をして、うまくいって先ほど家に戻ったところで、だいぶ前に書き溜めていた縁のある火の鳥を投稿させていただこうということに致しました。

全曲をそのゲルギエフの演奏で。

 

この曲を知っている方も知らない方も、僕が母とコタニのお兄さんのおかげで買うことになったエルネスト・アンセルメの最後の録音(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団を振ったDecca盤)をお聴きになられることを心よりお薦めします。作曲者とひと時代を共有したアンセルメが丹精をこめ、いっさい性急なテンポをとらずにスコアの隅々にまで光を当ててすべての美を描ききった演奏であり、オーケストラが見事にそれを具現しているという文化遺産級の録音であります。

唯一の対抗馬としてピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団のCBS盤をあげますが、こちらも指揮者の眼光紙背に徹する空前絶後の名演です。オーケストラのつややかな音響とそれのブレンドによる光彩陸離たる音色美はいまだに並ぶものはなく、当時のブーレーズの音のテクスチュアを分解整理する高度に知的な能力に圧倒されるしかありません。自分もそうでしたが、アンセルメ盤で耳を作ってからこれを聴かれるという順番が理想的かと存じます。

ブーレーズのフィナーレです。

 

(補遺)

下のビデオを聴くと「f#のドスンでいわば暴力的にロ長調におさまってしまう」部分からをストラヴィンスキーは一音一音をスタッカートで演奏している。来日した折のN響とのビデオも同じであって、それが作曲家の意図だったことは明白だ。現代の指揮者でそうやる人がいないのはどういう経緯があったのか不思議である。

ストラヴィンスキー バレエ音楽「ペトルーシュカ」

 

(こちらへどうぞ)

 

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

読響定期 グザヴィエ・ロト を聴く

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

ボロディン 交響曲第2番ロ短調

ボロディン 交響詩「中央アジアの草原にて」

 

 

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バルトーク 弦楽四重奏曲集

2015 FEB 13 0:00:36 am by 東 賢太郎

unnamed (23)浪人している時に「バルトークのすべて」というLP2枚組(左)を買ってすり減るほど聴いていました。セルのオケコン、ブーレーズの弦チェレ、カサドシュ夫妻の2台ピアノと打楽器、スターン/バーンスタインのVn協2番、アントルモン/バーンスタインのピアノ協2番などが入っていて、そこに第1楽章だけジュリアードSQの弦楽四重奏曲第4番(1928)があったのです。

bartok3これに関心を覚えて大学にはいってジュリアードの全集(右)を買いこみ聴きまくりました。6曲のどれが好きかはそれぞれでしょう。最初はよくわからなかったのですが、だんだん聴きなじむうちにまず2番の神秘感が気に入ったし、5番の終楽章の弦チェレを思わせる対位法の立体構造、6番の宇宙の深遠を覗き見るような不気味さも味が分かるようになってきました。しかしその中でも凄いと思ったのは4番だったのです。

この曲のアーチ構造によるシンメトリカルな構成は非常にロジカル、堅牢です。原子核の陽子と中性子による構成図のようにかっちりと無駄なく出来ています。物体の重さの99.97%が原子核の重さですが、この曲は99.97%が真核のみで組成されているというイメージです。核を構成する主題が第1、5楽章をしめくくるタッタッタッタラランであり、5楽章の1-5,2-4がペアであり第3楽章が3部構造でその1が第1が第1楽章、3が第5楽章と素材共有関係にあって等々はあまりに有名でどこにも書いてありますからご興味ある方はご覧ください。

本稿の目的はそういうことの解説ではなく、これがアートとしてどんなに親しみやすいかを敬遠気味の方にわかってもらうことです。カルテットがバルトークの中でも難解と思っている方も多いでしょうし、1,2度聴いて鼻歌になるような曲でないことはたしかです。まず、4番に入る前に、4番並みの完成度がありながらもっとわかりやすいと思う5番(1934)の第5楽章を聴いてもらいましょう。5番はバルトークが米国に渡ってからの作品で、管弦楽のための協奏曲と同じく曲想が平明です。ジュリアードSQの演奏です。なお5番第5楽章についてはこのブログもご覧いただきたいと思います モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466

これが1935年で翌36年に弦チェレがスイスのパウル・ザッハーの委嘱でできるのですが、最後に長調が回帰するし、リズムや合奏のパターンはこれに木琴とティンパニを入れれば弦チェレみたいと思いませんか?弦チェレ的な要素は4番の第2、4楽章などにも散見されます。僕はこれを完全に覚えて耳を慣らして4番がしっくりくるようになりましたのでドリルと思ってお試しください。

これを覚えたら、もう少し先鋭さよりもハンガリーの伝統に重心を置いた演奏で全曲聴いてみましょう。タカーチQです。

さて4番です。youtubeをいろいろ探しましたが、そこにある中ではこれが最も好感が持てます。フランスのエベーヌ四重奏団(Quatuor Ebène)でメンバーの専攻は全員がジャズという異色のカルテットです。

ややアーティキュレーションがソフト・フォーカスですが第3楽章の神秘感など見事ですし終楽章のエネルギーの爆発は大変よろしいと思います。

ジュリアードSQはモノラル、ステレオ、デジタルとバルトーク全集を3度レコーディングしていますが上掲のは2度目のステレオで、ヴァイオリンがマン、コーエン、ヴィオラがヒリアー、チェロがアダムで、マンが少し音程が甘くなってしまう前のほぼ絶頂期。これで刷り込んだせいもあり、やはりこの筋肉質で直球勝負の全集をファーストチョイスとしてお薦めすることになってしまいます。

XAT-1245530148次点は上記のタカーチQですが上掲は新メンバーによる新録音のほうで、右はオリジナル・メンバーによる84年録音の旧盤です。ジョルジュ・レヘルのブラームス交響曲全集( ブラームス交響曲全集(ジョルジュ・レヘル指揮)で書いた通りのことが当てはまるのですが、共産圏時代の、したがって19世紀欧州のタイムカプセル的な意味合いのある録音で、木質感のあるローカルな味が忘れられません。CDは廃盤のようですがi-tuneで買うことができます。

MI0001114334さて最後に、最近発見した大変な名演をご紹介します。ファイン・アーツQです。昔聴いたことはあったのですが59年録音で音が良くなくそのままになりました。ところがこのMUSIC&ARTSプレスのCDはリマスターが良好で驚くほど音が良く、先日幸いに中古で見つけて狂喜しているところです。ジュリアードの棘はなく丸みのある弦の魅力が支配します。タカーチの木質を保ってスリムにしたような演奏で、シカゴの団体なのに非常に欧州的な味わい。オケにたとえるならウィーンPOがクリーブランドOの精度を持ったようなイメージです。とはいえ4番の第1楽章の機関車のような推進力は快感なうえに、この4人全員の技術とピッチの良さは並ぶ者のない水準なのです。バルトークの不協和音がこんなに音楽的で美しいハーモニーだったのかと目からうろこです。この6曲を敬遠していた人は是非一聴していただきたく、これをくりかえし聴けば必ず名曲だと確信するに至るでしょう。そこから東京SQ、エマーソンQ、ヴェーグQなど多様な演奏を味わうことで、人類史に残る最高峰の弦楽四重奏曲集の多面性を知ることができると思います。

4、5番だけでなく各曲とも個性があり、それぞれについてはいずれ別稿にしたいと思います。

 

(こちらへどうぞ)

バルトーク 弦楽四重奏曲第4番 Sz.91

シューマン弦楽四重奏曲第3番イ長調作品41-3

 

 

 

 

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シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

2015 FEB 7 12:12:17 pm by 東 賢太郎

pierrotこの曲は「ピエロ・リュネール」とも呼ばれる。初めて聴いたのは大学2年の秋に買った、やっぱりブーレーズのレコード(右)だった(ドメーヌ・ミュジカル・アンサンブルによるコロンビア盤)。20世紀音楽を仕込まれた先生はブーレーズをおいてほかにない。実はこのLPで僕が夢中になったのは「室内交響曲第1番作品9」だ。冒頭、4度の積み重ねのホルンの和音で開始し15人の奏者によるぞくぞくする凝縮されたアンサンブルがつやつやした響きで展開する。ブラームスやショスタコーヴィチが聞こえるようになったのはずっと後だが、未熟な耳ながらストラヴィンスキー三大バレエは完璧に聞き覚えていた当時の僕にこの曲は刺激的だった。

さてピエロ・リュネールだ。こっちはよくわからなかった。これの劇的、詩的な側面はさっぱり興味がなく(wikipedia等をお読みいただきたい、なんともおどろおどろしい詩だ)僕の文学面の弱さが出てしまった。ただ春の祭典でも第2部序奏(ここはシェーンベルグ的だ)に痺れていた当時の嗜好からして音に違和感というものはなかったように思う。

ピエロは印象主義に対抗する表現主義といわれるが、1910年に火の鳥、11年にペトルーシュカ、青ひげ公の城、12年にこれ(ピエロ)とアルテンベルク歌曲集とダフニスとクロエ、13年に春の祭典と遊戯(ドビッシー)と西洋近代音楽はこの3年間に大爆発を遂げているのであり、それらの傑作は同時代の息吹を内包している(下記ベルクのヴォツェックは1914年に着手された)。

アーノルド・シェーンベルグはハンガリー人の靴屋の父、チェコ人の母(どちらもユダヤ人)のもとにウィーンで生まれた。8才でヴァイオリンを習ったがチェロは独学。15才で父を亡くして地元の銀行に勤めた。今なら貧しくて中卒で地銀に入った少年が夜に独学で音楽を勉強してこうなってしまったということで、人は環境より遺伝子なのだとつくづく思う。

第一次世界大戦中オーストリア軍に入隊したが、「本当に君が、あの耳障りな音楽を書いたシェーンベルクなのか?」と尋ねた上官に「はい、ほかにシェーンベルクのなり手がないもんで、僕が自分で引き受けることにしたんです」と答えた。彼は晩年にバッハ、J・シュトラウス、ブラームスの編曲をするなど調性への憧憬を見せていると解釈する人もいる。僕も賛成でありピエロの最後にそれを感じることができる。

ピエロについてはこういう指摘がある。興味深い。

Arnold Schoenberg「シェーンベルクは、数秘術に凝っていたので、7音から成る動機を作品全体に適用し、一方で演奏者数は指揮者を含めて7名としている。作品21に含まれる曲数が21であり、1912年に作曲を始めた日付が5月の12日であった。ほかに本作の鍵となる数字が3と13である。各詩は13行から成るのに対して、各詩の第1行は3回登場し、あたかも第7行や第13行であるかのように繰り返される(wikipedia)」。彼は作品番号を作曲年の西暦の下二けたと揃える意識があったという指摘もレナード・バーンスタインがしている(完全には合っていないが)。これが数秘術なのか「数フェチ」なのかは不明だが、数字に強いこだわりがあったことは疑いがないだろう。弟子のアルバン・ベルクは23という数字にこだわったが、23は僕の野村でのセールスコードであり僕のこだわりの数字でもある。子供が23日に生まれ、自宅は23番地だったので、迷わず買った。

またアントン・ブルックナーは「数フェチ」であり、物の数を数える癖があった。僕もそれであり、物心ついて以来登りながら階段を必ず数えている。もちろん今でもそうで、13になりそうになると2段跳びして12にする。会議はまず人数を数えることから始まる。コンサートでは必ず舞台の人数を数え、会場の客数を推定する。口癖のある人と話すとそれが何回出るか数える。コンクリート道路の線から線まで絶対に4歩にならないように歩いている。朝は目覚ましが鳴ってから7数えて起き、顔を洗うのも7回、etc。何十年もやっていて、完全に無意識下のことだ。

作曲家は音程、音符数、小節数にこだわったりの名前を音名化してアナグラムにしたりする人が結構いる。バッハ、シューマン、ショスタコーヴィチ、バルトークなどだ。それが主題労作、変奏の原主題に特別の個性を持たせたものと考えるならベートーベン、ブラームスもそうで、論理的、建築学的に音を構築(compose)する作曲法だからそういうことが意味を持つのであって、その先にシェーンベルクが位置するのは自然だ。

前回、ショパンが嫌だと書いたが、composeする哲学が違う。論理でなく感覚によっている。もっといえば指先感覚かもしれない。昔気質のドイツ音楽ファンは得てしてショパンは女の音楽と下に見ていたが、僕はそういうことでも偏見でもなく非論理的なものが肌に合わない。「数字」を感じない。彼はバッハを尊敬していたそうで音を物理的客体として把握する思考領域がないとそうはならないだろうから、それがあったということだろう。それでいてああいう音楽になるというのは摩訶不思議だ。

無調音楽というのは主題を構成する個々の音の隠されたトーナリティ(調性)を倍音から聴き取れる(推定できる)ようになると面白い。バーンスタインはシェーンベルクに別な惑星の空気を感じるとしながら12音技法にも隠された調性があるとしているが、音の組み合わせとしての調性がなくとも個々の独立した音素材には倍音を発する楽音として調性が含有されているのではないだろうか。だからこそ各音を「平等」に「民主的に」扱おうという12音に行きついたのだと僕は思っている。

それに気づくと、今度はそこに「非楽音の声」が入っても総体として音楽と認識される事実を発見する。耳のパラドックスだ。声は左脳が聴いているはずだが、無調を受容する過程で既に左右のバランスがチューニングされているのかもしれない。その声(歌ではない)がシュプレッヒシュティンメ(Sprechstimme)といわれるもので「音程がない歌のような話し声」(あるいは、話し声のような歌)であり、ドビッシーの「ペレアスとメリザンド」にその萌芽がある。

それが「月に憑かれたピエロ」(第1-3部)で初めて明確に確立し、ストラヴィンスキー「3つの日本の抒情詩」、ラヴェル「マラルメの三つの詩」、ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」に影響を与えた。この曲は1912年10月16日に初演されたのだが「月に酔う」の伴奏は同じく12年作曲のアルバン・ベルク「アルテンベルク歌曲集」の第1曲「 魂よ、お前はいかに美しいことか」の管弦楽を思い出さずにはいられない。先生と弟子の作曲の前後関係の詳細は分からないが非常に興味のある所である。まずはアルテンベルク歌曲集第1曲からお聴きいただきたい。

ちなみにアバドはこの曲を十八番にしていてロンドン交響楽団とやった名録音(DG)は僕の愛聴盤であり、このビデオもいいがDG盤のマーガレット・プライスの歌はさらに素晴らしい。

さて次に本題の「月に憑かれたピエロ」である。これはシェーンベルクが12音を始める前の作品である。

その第1部、

  1. 月に酔う Mondestrunken
  2. コロンビーナ Colombine
  3. 伊達男 Der Dandy
  4. 蒼ざめた洗濯女 Eine blasse Wäscherin
  5. ショパンのワルツ Valse de Chopin
  6. 聖女 Madonna
  7. 病める月 Der kranke Mond

をグレン・グールドが指揮しながら伴奏している録音がある(ビデオは1-5)。第1部だけなのが残念だがこのピアノが大変にききもので彼がどれほどこの曲を愛しているかが如実にわかる。先ほどのアルテンベルクと聴き比べていただきたい。

全曲はこちら。あんまりとんがってない解釈だがシノーポリとドレスデン・シュターツカペレの演奏が美しい。僕はこれが好きで、ピエロ・リュネールのこういう要素とペレアスが融合してプーランクの「人間の声」という大傑作につながったと思っている。

516XPV6PK9L__SY450_グールドのシェーンベルグは大変に見事である。これだけ作品23を美しく弾いている例を僕は他には思い当たらない。各音の倍音が発するトーナリティを認識して和音を鳴らしている気配があるのは上述の僕の考えを裏書きしているように思うが。この「倍音認識」はピエール・ブーレーズにも感じられ、それが例の春の祭典CBS盤の第1部序奏の木管にあるのだ。あの演奏が特異な音彩を発する原因はまぎれもなくそこにある。そういう音響を生み出しているこのふたりの耳の鋭敏さは驚異的で、等しく20世紀音楽の演奏史に大きな足跡を残したことは疑いがない。グールドのバッハが特異であるのは、このシェーンベルクで明らかになる彼のトーナリティへの独特の感性に一因があると思う。彼の弾く平均律とシェーンベルクの作品23は同質の美感を共有している。この音感でモーツァルトをやっても音楽の方が受容できないのであって、それに飽きたらず曲をいじってしまっているのではないか。彼がショパンを嫌って弾かなかったのはまったくもって当然なことだ。何故か第3ソナタだけ録音があるが、どこかバッハのようでもある。

(補遺です、16年1月17日~)

アルバン・ベルク 歌劇「ヴォツェック」

ピエール・ブーレーズ / パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団

CL-120921009僕の真のベルク初体験は94年、アムステルダムで聴いたオランダ国立オペラによる歌劇「ヴォツェック」だった。陰惨な内容の物語と音楽のインパクトは強烈で記憶に焼きついた。そして右のブーレーズ盤だ。クレンペラーの魔笛でパパゲーノを演じた美声のワルター・ベリーのタイトルロールがブーレーズらしい。歌手の音程のコントロール、冷徹なオケ演奏で血の匂いはうすく彼の青ひげ公やペレアスと似た印象を残すが、リングを振っても変わらぬ一流の個性と思う。パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団を振ったブーレーズの音が聴けるのは実に貴重で魅力が尽きない。そんなに上手いオケという記憶がないが彼の手にかかるとこんなに精妙な音が出てしまう!指揮者の耳の良さがいかに実効があるものかわかる。66年パリでこれとメシアンの「われ死者の復活を待ち望む」「天の都市の色彩」がCBS録音のスタートで第3弾がドビッシー「海」だった。僕にとっては記念碑的録音だ。

アルバン・ベルク 「ルル組曲」/ 歌曲集「ワイン」

ジュディス・ブレーゲン(Sp:ルル)、ジェシー・ノーマン(Sp:ワイン)ピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

115885935これはブーレーズがNYPOを振った一連のディスクのうちでも火の鳥、ペトルーシュカ、ダフニス、マンダリン、ラヴェル集に並ぶ名盤である。それらと同様、新盤(VPO)より良い。濡れたように光彩を放つオケ、完璧なピッチ、鋭利なダイナミズム、精密微細にクリアに音響をとらえた録音!細身のプレーゲンの声も見事なピッチの楽器として計算されており(それだけに悲鳴が衝撃的だ)素晴らしいとしか言いようがない。一転、ワインでのノーマンの全てを包み込む馥郁たる声はどうだ。音色に対するブーレーズの作曲コンセプトすらうかがわせる恐るべき先鋭なセンスであり、極限までマイクロスコーピックな時間支配にこちらの精神も金縛りになる。

 

アントン・ウェーベルン 作品番号付き作品全集(Op1~31)

ピエール・ブーレーズ / ロンドン交響楽団他

12770_1これも僕の愛聴盤だ。ブーレーズはそのシェーンベルク論のなかで「演奏は様式の理解が足りないのではなく、技術不足によって破壊される」と述べているがそれはウェーベルンにおいてさらに言えるだろう。作品18、ハリーナ・ルコムシュカ(ソプラノ)のギター、クラリネットとの「合奏」は驚異的であり、完璧なピッチが音楽の基本であることが無調音楽でも根本原理であることを明確に示す。作品15のフルート、クラリネット、トランペット、ハープ、ヴィオラとソプラノの音の綾は究極の美しさだ。これはJ.S.バッハやベートーベンの美といささかも変わらず、そう聞こえない演奏は技術不足によって破壊されているのである。

 

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

 

 

 

 

 

 

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ラヴェル 「マ・メール・ロワ」

2015 JAN 28 21:21:42 pm by 東 賢太郎

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この曲を知ったのはやっぱりピエール・ブーレーズのLP(ジャケットは右)で、大学時代のことだ。春の祭典、ペトルーシュカときて、前後関係は忘れたが火の鳥、ダフニスあたりと同じ頃に虜になっていた。光彩陸離たる響きに一気に引きずり込まれ、以来今に至るまで僕の中で絶対の魅惑と気品をもって君臨し、シンセで自分演奏版をMIDI録音するまではまり込むことと相成った。これがそのLPから録音したものだ。

この曲、楽想の高貴なたたずまいもあるし、マ・メール・ロワ(Ma Mère l’Oye)というの題名の響きもなんとなくおフランスっぽい。貴婦人か何かのことだろうとしばらく思いこんでいた。ところが調べてみるとこれは英語で「マザー・グース」、日本語では「ガチョウ婆さん」でずっこけた。麻婆豆腐(あばた婆さんの豆腐)を連想してしまい困った。

マザー・グースは英米を中心に広く知られる童謡・寓話集であるがルイ14世時代のフランスの詩人シャルル・ペローの『寓意のある昔話、またはコント集~ガチョウ婆さんの話』(Histoires ou contes du temps passé, avec des moralités : Contes de ma mère l’Oye)(1697年)が題名の元になったらしい。文学は疎いが、赤ずきん、長靴をはいた猫、青ひげ、眠りの森の美女、シンデレラ、親指小僧などがペローの童話集にある。

このラヴェルの音楽から僕が想起するのはむしろ英国のルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」だ(そう思って調べたら彼もアリスでマザー・グースから引用した言葉の「もじり」をふんだんに使っている)。両作品ともおとぎ話を素材とした創作であって、子供にインスパイアされた作品という点も同じだ。キャロルは数学者であり、ラヴェルのスコアの筆致も理系的だ。どちらも生涯独身で女っ気はなかったようだ。

ラヴェルはこの曲を友人であるゴデブスキ夫妻の2人の子、ミミとジャンのために作曲し、この7才と6才の姉弟に献呈したが、幼なすぎたため2年後の1910年4月20日にパリ・ガヴォーホールで初演したのはマルグリット・ロンの弟子たち(やはり11才と6才の子供)だった。ちなみに、このお姉ちゃんの方のジャンヌ・ルルーは長じて有名な作曲家になっている。

この時点でこの曲は、第1曲「 眠れる森の美女のパヴァーヌ」、第2曲 「親指小僧」、第3曲 「パゴダの女王レドロネット」、第4曲 「美女と野獣の対話」、第5曲 「妖精の園」から成る四手版(①ピアノ連弾版)でこれがオリジナルである。翌年にこの全てが管弦楽化され(②管弦楽組曲版)、さらにその翌年に「前奏曲」、「紡車の踊りと情景」および4つの間奏曲を加えて③バレエ版が作られた。今日我々が耳にするのは普通はこの3つの版のどれかである。

ところが、作曲の年にラヴェルの友人のジャック・シャーロットが二手版(④ピアノ・ソロ版)というものを作っており(彼は第1次大戦で戦死しクープランの墓の前奏曲を献呈された人だ)、これをコンサートで聴くことはあまりないが厳密には4種のスコアが存在する。僕はこの④を弾いて楽しんでいるがさすがに二手だと難しい部分もあり、手が小さいので第5曲 「妖精の園」は左手の10度の和音をちゃんと抑えるのが一苦労である。どなたか①を一緒に弾いてくれると大変うれしい。

ところで①-④を眺めると、ストラヴィンスキーの「火の鳥」のテキストがバレエ版、管弦楽組曲版(複数)、ピアノ・ソロ版が存在して見た目には似た様相となっていることに気がつくだろう。しかしこっちはバレエ版がオリジナルであって作られた順番が逆だ。あくまで管弦楽で発想された音楽でありピアノ版は興味深いがもの足りない。ところがマ・メール・ロワの清楚でシンプルな佇まいはピアノにこそふさわしく、オケ版はその至らなさをフル・オーケストラならではの豪華な響きが飛び交う間奏でフィルアップしたという感じもある(それはそれで別な意味で壮絶に美しいのだが・・・)。

さてマ・メール・ロワの1910年の初演だが、こんなものだったのかなと想像している(第1,3,5曲)。

中国の姉妹だろうか、とてもよろしいと思います。子供でも弾けるのに非常に「高級な」和声が用いられ万人を黙らせるこの曲を選んだという趣味も素晴らしい。

この曲は全曲にわたってスコアにマジカルな瞬間が満載である。精巧なガラス細工の趣だ。全部書くときりがないから2つだけ。まず第3曲 「パゴダの女王レドロネット」のここだ(以下の楽譜は④のシャーロット版である)。

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5小節目のpp。ここで和音がF#からFm/a#にがらりと変わる!魔法としか言いようがない、これぞ不思議の国のアリスの世界だ。ここを「感じて」弾かなくてはいけないのは言うまでもないが、オケ版でテンポを落す指揮者がいる。モントゥー、マルティノンなど。これには反対である。ラヴェルの気位と格調が崩れて下俗なロマン派みたいになってしまう。何といっても最高にいいのはアンセルメだ。テンポは全く変わらず、見事な弦のハーモニーの綾にバス(ハープのa#)が効いている!このバスとツンと澄ました冷ややかなフルートの鳴らし方ひとつでも彼のセンスの良さを感じ、厳粛な気品に何度聴いてもぞくぞくする。

もう一ヵ所、第5曲 「妖精の園」。第5,7小節のドに長7度でぶつかる「シ」をどう弾くか?これはピアノでも弦でも大変にデリケートな問題で難しく、私見ではセクシーでスリリングで末梢神経が痺れるような音が欲しい。そしてさらに終わりのところのこのフレーズだ。

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このppが命でありテンポは僕ならかなり落とす。ビデオの女の子たち、そこをもう少し気を付ければもっと大人の演奏になる。プロでも全然ダメな人が多く名手といわれるサンソン・フランソワでもこのフレーズを不感症で弾いていて、それじゃあマ・メール・ロワをやる意味なんかないでしょうと尋ねたくなる。ここはアンセルメもいいがちょっとクールすぎる。アバドがもっといい。80年代の彼の感度は素晴らしかった。

さらにいえば、オケ版を判断するにソロ・ヴァイオリンの巧拙が大きい。僕は冒頭に書いたようにブーレーズ盤でこの曲に入門したものの、下宿でカセットで聴いていたのはデジェ・ラーンキとゾルターン・コティッシュ、エリック&ターニャ・エイドシェック、そしてアルフォン・アロイス・コンタルスキー兄弟といずれも①だった。自分もピアノで爪弾いておりそういう耳になると、この音楽に散りばめられた精妙で絶美の和音をオケのいい加減な音程で壊すなと祈りたくなる。

だから第4間奏および第5曲のソロVnの音程やヴィヴラートが気になる。モントゥーのLSOのソロは間奏も実にいい加減だし、第5曲も微妙にずれてこれまた能天気に鳴っている直後のオーボエとピッチが合わない。モントゥーの解釈には敬意を払っているだけに非常に残念だ。そして尊敬するブーレーズ盤のニューヨーク・フィルのコンマスもいただけない。第5曲はヴィヴラート過剰なうえになんとポルタメントまでかける下品さで、せっかくの指揮の品位をぶち壊している。こんなものを彼が望んだとは思えず、放置してしまったのも不可解だ。音楽監督就任したての頃だったし遠慮があったのだろうか?セルが鍛えまくったクリーブランド管でやってたら違ったろう。

この曲は77年にチェリビダッケ初来日の読響演奏会(東京文化会館)で、またロンドンとアムステルダムで2回ジュリーニで聴いているが、さっぱり演奏内容の記憶がない。たいして良くなかったんだろう。子供でも弾ける曲だが良い演奏をするのは大家でも難しく、逆に良い演奏をした時の聴衆へのインパクトは非常に大きい。技術ではなく、演奏家の感性、人間性、やさしさといったものが満場を包み込んで暖かな喝采と敬意が集まる。ソロで弾けるので、ピアノニストの方はなんとかの一つ覚えのショパンではなく、こういうセンスのいい曲を弾かれてはいかがだろう。

②③の管弦楽版では

エルネスト・アンセルメ /  スイス・ロマンド管弦楽団            クラウディオ・アバド / ロンドン交響楽団

をお薦めしたい。アンセルメは最初だけは③であるが間奏曲はないため基本は②という折衷なのが玉に傷だ。オケの機能的にも一流とはいいがたいが、なにしろ上記のようにセンス満点であり、葦笛のようなオーボエを始め管楽器の音色はフランスの伝統美にあふれている。アバドは③であり、楽譜の読みが深く繊細なことは大変に満足感が高い。表面だけきれいにまとめる印象があったが全く違う。オケが納得してそれを音化しており、非常にうまくて美しい。

世評の高いのはアンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団だ。華やかでフランスっぽい音と表現だが、しかしじっくり耳を凝らすとオケが精緻でなくうまくない。肝心な部分の感じ方もいまひとつだ。指揮の流れでなんとなくうまくまとめている演奏なので、指揮の気骨で通しているアンセルメと違いそういうことが気になってしまう。餅は餅屋で決して悪くはないが僕は昔懐かしいフランスの管を聴くならアンセルメのクールで厳粛な感じの方を好む。

①では

モニーク・アース/ イナ・マリカ

                                   デジェ・ラーンキ / ゾルターン・コティッシュ

アースのが非常にいい。

ラーンキのはフレッシュなみずみずしさが取柄でありよく聴いたのでおなじみというだけで特に優れているわけでもない。この版はその気になれば素人でもできてしまうので面白い演奏はいくらでもあるだろう。できれば自分で弾きたい。

アンセルメをお聴きいただきたい。

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僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

 

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ドビッシー 「牧神の午後への前奏曲」

2014 NOV 25 2:02:05 am by 東 賢太郎

ピエール・ブーレーズは「牧神の午後への前奏曲」をもって現代音楽が始まったと評価している。

パーヴォ・ヤルヴィが98年にロンドンのロイヤル・フェスティバルでこれをやった時のことは忘れない。比較的前の方で聴いていたら、オーケストラのいる舞台空間を「音が明滅しながら移動する」のがあたかも点描画を観るように目に見えた気がしてびっくりした。70年の大阪万博のドイツ館でシュトックハウゼンの電子音楽をやっていて、ドーム状の高い天井に設置した多くのスピーカー間を音がすばやく移動していく。それを思い出してしまった。

もしかして牧神のスコアには楽器の物理的な位置(位相)というものが設計されていて、ヤルヴィがそれをシアター・ピース化して表現することを意図したのではないかとさえ思う。印象派的な音のポエムと見なされている音楽が、この日以来がぜん僕の中では現代音楽になった。

ドビッシーは半音階、そして全音ばかりを重ねた音階を使用して、どこの民族風でもない旋法を生んだ。国籍、アイデンティティのない音のブロックに機能和声のルールは適合しないという形で、ワーグナーのトリスタンとは違う形で彼は自由を手に入れたように思う。30歳より着手し、出世作となった。

「詩人 マラルメ の『牧神の午後』(『半獣神の午後』)に感銘を受けて書かれた作品である。” 夏の昼下がり、好色な牧神が昼寝のまどろみの中で官能的な夢想に耽る”という内容で、牧神の象徴である「パンの笛」をイメージする楽器としてフルートが重要な役割を担っている」(このパラグラフはWikipediaより引用させていただいた)。

故意に楽器が機能的に鳴りにくいcis音のpで始める。その不安定でおぼろげな感じが牧神のまどろみをイメージさせる。このcisによる印象的な開始が、ストラヴィンスキーによって楽器をファゴットに替え、やはり鳴りにくい楽器の限界に近い高いc音で意図的に開始する革命的な音楽(春の祭典)を生んだとすれば、まさにブーレーズの指摘通り、この曲をもって現代音楽は始まっている。

この開始は5年前に作曲された交響組曲「春」のそれに似たムードを持っているが音楽の密度と成熟度は格段に差がある。cisから半音階をたどってなめらかに下降した音が最も遠い増4度のgで止まる。その間の5つの音は1小節で全部使っている。伴奏のないこの旋律、調性もうつろにまどろんで聞こえる。なんとも挑発的な開始だ。

このcis-gの増4度(augmented fourth)、主調のホ長調と変ロ長調の増4度について、vagueness(あいまいさ)ということでバーンスタインが講義している。確かにこの曲はTritone(悪魔の音程、増4度)が支配している。

おっしゃるようにホ長調で開始した曲が変ロ長調を経由して、ホルンがbの増4度eを通って上昇しfisに至り、11小節目で音楽はニ長調!になる。そこで f から半音だけそおっと上がるホルンのブレンドがうまくいったゾクゾクする効果 ! セクシーと書くしかなく僕はこれがたまらない。しかもこのホルンはすぐ消えて、同じfisはクラリネットに引き継がれているのだが、ほとんどの人は気づかないだろう(いや、気づかないように演奏されるのが一流の証なのだが)。

そこで微妙に色彩が変化している!

もうため息をつくしかない。ヤルヴィの教えてくれたシアター・ピース的な位相変化、そしてそのfisの管弦楽法による絶妙な色彩変化。これはストラヴィンスキーが春の祭典の各所にもちこんだし、特に後者はメシアン、シェーンベルクを通じてブーレーズに引き継がれていくのである。冒頭の彼の言葉が包含するのはそういうことなのだと僕は解釈している。

さらに、大好きなのはここだ。オーボエの旋律が入るAnimato、次々と調を変えて音楽が大きなうねりを迎える部分だ。ここは僕の中ではギリシャだ(本当にマラルメの詩がそうかどうかは知らないが)、ダフニスとクロエの世界!もう最高である。 debussy1

この先、音楽は変ニ長調で交響詩「海」を思わせる雄大で広々とした歌となる。冒頭のフルートにハープで和声がつき、調性はホ長調、ハ長調、変ホ長調、ロ長調と変化し冒頭のcisで始まるホ長調に回帰する。しかし牧神の心はまだ休まらず、三連符の旋律がかき乱す。もう一度冒頭旋律が今度は嬰ハ長調の7度和音で現れ、徐々に心は落ち着いて音楽は遅くなる。

すると突然にテンポを戻してオーボエが何かを告知するかのようなハ長調の旋律を奏でる(下のa tempo)。そこからの2小節でホ長調に戻す和声のもの凄さには絶句するしかない。ここにくるといつも時が止まったようであり、この音楽の魔法の呪文にかかって動けなくなる。最後のすずやかなアンティーク・シンバルで我に返るまでの金縛りを味わうことになるのだ。本当に美しい。

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何という素晴らしい音楽だろう!ドビッシーはこれを書いたころバイロイトでパルシファルやマイスタージンガーを聴いて、のちにはその限界を感じてアンチワグネリアンとなる。しかしこの牧神のスコアを見ると、和声やチェロの走句など様々な部分にトリスタンやマイスタージンガーを見る。

お示ししたピアノスコアはKun版。僕はBorwick版を買ってしまい三段譜になる部分はお手上げだったが、こちらはより簡明で弾きやすい(petrucciから無料でダウンロードできる)。できればご自分で弾いて、この曲の奇跡のような和声を味わっていただきたい。

 

ジャン・マルティノン/ フランス国立放送管弦楽団

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冒頭の模糊とした情緒、フランス的な管の味わい。オケの各パートからこれはこういう曲だという確信をこめた音が鳴っている。フルートのフレージングと絶妙なテンポの揺れはなまめかしく、オーボエ、イングリッシュホルンのアシ笛のような音色は最高だ。この音楽の雰囲気がダフニスとクロエにつながるフランス音楽の系譜を感じる。それを教えてくれる稀有の名演である。

 

ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

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スコアを一切デフォルメすることなくさらっと自然体で鳴らしているのにこんなに楽器のバランスが素晴らしい演奏はない。最高の気品がある分、エロティックな雰囲気はやや後退するが、耳がくぎづけになるほど各パートのニュアンスが精妙であり、演奏芸術の奥義ここに極まれりという感がある。マルティノン盤とは甲乙つけがたい。両方をぜひお聴きいただきたい。

モントゥー/BSOのライブがあったのでのせておく。デリカシーがすばらしい。

 

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

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旋律が動的でバレエのように表情がある。この音楽の各所の意味するものを熟知した者だけがなしえる至芸であり、デトロイトのオーケストラからフランス的な感性の音を引き出すことに成功している。楽譜をお示ししたコーダの和声変化をテンポを落してじっくりと聴かせるのを聴くとパレーさんがわかってらっしゃるのがうれしくなる。パレーはラヴェルも一級品である。

 

ピエール/ブーレーズ/ ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

51Dd67hBgoL「海」と一緒に入っており僕はこの演奏で曲を覚えた。懐かしいものであり精妙なテクスチャーに今も感銘は覚えるが精度はストラヴィンスキー録音にやや劣り、オーボエがフランス風の色香を欠いているのはこの曲の場合マイナスである。DGの新盤は精度やニュアンスがさらに落ちておりブーレーズを聴くならこっちだが、上記の3つを聴いた上で比較してみるのがお薦めである。ただし上述の「11小節目の fis」 を最もうまくやっているのはブーレーズであり、そういうものが演奏の与える感動の本質とは別種の関心であることを認めつつも、やはりブーレーズの微視的なアナリーゼ能力と聴覚の鋭さが群を抜いていることには言及せざるを得ない。

音楽鑑賞とは、知った道を演奏者という案内人と連れ立って歩くようなものだ。ここは元GHQの本営で、ここに鹿鳴館があって・・・と皇居前を散策したって、そんなことは知ってるよでおしまいだ。マッカーサーはなぜここを選んだか?鹿鳴館はこの敷地のどの辺に建っていたか?そんなことを聞かれると、ちょっとじっくりつき合ってみようかと思う。良い演奏者とはそんなものだ。

このハオ・アン・ヘンリー・チェンの指揮はなかなかだ。インディアナ大学の管弦楽団だがこのレベルにもってくるのは見事である。アマチュアなのにうまいじゃないかではなく、プロだってもうあんまりない「最後までじっくりつき合おう」という次第になった。指揮の力が大きい。弦のユニゾンだけもっとピッチを鍛え上げればへたなプロより聴けるかもしれない。

(補遺、15 June17)

ジョージ・コープランド(George Copeland、April 3, 1882 – June 16, 1971)はパリでドビッシーに4か月私淑して ”I never dreamed that I would hear my music played like that in my lifetime” と言わしめたとされ、ドビッシーの曲の一部を世界初演、多くを米国初演した米国のピアニストである。この「牧神」をドビッシーは聴いたに違いなく感慨深い。まるでオーケストラを聴くようで2手版とは思えない色彩に驚く。

 

ユージン・オーマンディー / サンフランシスコ交響楽団 (ライブ)

これは留学中の1984年に、亡くなる前年のオーマンディーがSFSOに客演した際のライブをカセットに録音しておいたものです。いまとなっては貴重な記録になってしまいました。この後に「海」と後半がブラームスの第2交響曲というプログラムで、その2曲も録音してあります。

(こちらへどうぞ)

ドビッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」

 

 

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ストラヴィンスキー バレエ・カンタータ 「結婚」

2014 NOV 3 0:00:25 am by 東 賢太郎

ストラヴィンスキーの最高傑作として春の祭典と並んで挙げたいのはこの曲です。今はどちらか選べと言われれば断然この「結婚」になります。

ストラヴィンスキーは1910年にザンクト・ペテルブルグからスイスに移って10年の間、レマン湖の北側のモントルー、クララン、モルジュに住み火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典、結婚、兵士の物語、プルチネルラなどの代表作を書きました。新古典主義の作風に移行する前のこの10年にスイスの風光明媚な地でロシア色の強い作品を次々生んだというのも面白いものです。それはバレエ・リュスを通してパリの市場でその需要が強かったからだと思われます。

野村スイス本社はチューリヒにあって、僕は96-7年にチューリヒ湖畔のクスナハトに住みましたが、ジュネーヴ支店長も兼任していたためレマン湖もよく行きました。モントルーはジャズ・フェスティバルで有名ですがそのメイン会場名がストラヴィンスキー・オーディトリウムです。クラランには「春の祭典通り」(Rue-du-Sacre-du-Printemps)まであるのです。ラヴェルもそのあたりに住んでいてダフニスをストラヴィンスキーに聞かせたはずです。

692824_186_zそれはどんな所か?この写真のような所です。モントルーのやや西にあるヴェヴェイ(Vevey)はチャップリン、ヘップバーンが晩年に住み、世界的食品会社ネスレが本社を置いていますが丘の上にあるホテル・ミラドール(Mirador、それが右の写真)は僕がスイスで家族で泊まったうちでも3本の指にはいるもの。眼下にレマン湖、その向こうに雪をかぶったアルプスが望める絶景で、天皇陛下もお茶をされたという名ホテルです。今はケンピンスキー系列になったようですが、ぜひ一度宿泊されることをお薦めします。

ここで書かれ1923年にバレエ・リュスによりパリで初演された「結婚」は当初は大オーケストラで書くことを想定されました。そうならなかったのは、曲想からして春の祭典の二番煎じになってしまうからではないでしょうか。シンプルな民謡風旋律と複雑な変拍子、結尾のh音の鐘(ベル)とアンティーク・シンバルが鳴る部分の印象的なピアノのリズムが春の祭典の「生贄の踊り」のティンパニのリズムで短3度を含むなど、両曲の血縁関係は明白です。

結局、4台のピアノ、打楽器アンサンブル、4人の独唱、混成四部合唱という変則的なものに落ち着きましたが、それが非常に成功したと思います。特に声の強烈なインパクトは大オーケストラだと埋もれてしまったでしょう。家には図書館並みの20万冊もの蔵書を持っていたストラヴィンスキーの父はマリンスキー劇場のバス歌手でした。そのためでしょう、彼の声楽書法の自然さと巧みさはあまり指摘されませんが僕はこの作品でそれを強く感じます。それが春の祭典を上回る魅力なのです。

初めて聴くとわかりにくく聞こえるのですが、歌のメロディーは全音階的できわめて単純で土くさい民謡調です。数回聞けば誰でもすぐ覚えられますから第一印象で敬遠しないように願います。この土俗的なハレの場が変拍子がいりくんだ乱れ打ちの打楽器で高潮していく様はまったくもって春の祭典の分身であり、ピアノも打楽器としてその祭りに組み込まれます。祭典の4台ピアノ版に打楽器と歌を加えた感じといったら最も近いでしょう。

「結婚」とはロシアの農民の婚礼のようですが描写音楽ではないと作曲者は述べています。春の祭典が生贄という死の儀式であり、結婚は誕生の儀式である。この曲は前者を作曲中でその初演の前年である1912年に着想されています。両者がペアの音楽と考えてよろしいのではないでしょうか。何とも蠱惑と興奮に満ち満ちた音楽であり、決して有名ではありませんが僕は世紀の大名曲と確信しております。

その証拠といってはなんですが、春の祭典の色が濃厚とはいえ、自作のペトルーシュカも彷彿とさせ、後に書かれるオルフのカルミナ・ブラーナ、バルトークの弦チェレ、レスピーギの「ローマの祭り」もこれなくして書かれなかったかと思わせます。逆にシェーンベルグの「月に憑かれたピエロ」を聴いたストラヴィンスキーが「日本の3つの抒情詩」を書き、ラヴェルが「マダガスカル島人の歌」を書きました。かように20世紀初頭は各作曲家が個性を多様に競い合い影響を及ぼし合う時代だったように思いますが、この曲は多方面に遺伝子を残していると信じます。

noces大学時代にニューヨークで買ったピエール・ブーレーズ指揮パリ国立歌劇場メンバーによるLPがあまりに衝撃的で脳天に焼きついており、「結婚」というとこれになってしまうのも春の祭典と同じです。ここでブーレーズが聴かせる鮮烈な音!土俗的ではないが原色的な歌、精密でパンチのある打楽器アンサンブル、音程が明確なティンパニ、知的だが熱い音楽である65年のこの録音に春の祭典CBS盤への血脈がはっきりと感じられます。このLPはB面にプリバウトキ、猫の子守歌、4つの歌、4つのロシアの歌が入っていて、これがまた歌も伴奏楽器群もブーレーズの面目躍如である細密的音色美にあふれていて聴くたびに体も精神も興奮します。これは天下の名盤であり、一人でも多くの方に聴いていただきたいと思います。

41NJ4XKGQPL次にロンドンで買ったバーンスタイン指揮イギリス・バッハ音楽祭打楽器アンサンブルにアルゲリッチ、ツィマーマン、カツァリスのピアノという豪華顔ぶれによるDG盤でした。わりあいしずしずと始まりますが、だんだん音楽が熱してきてリズムの爆発的饗宴となります。この演奏のリズムの現代的な格好よさはこれまたとてつもない魅力で、バーンスタインは春の祭典よりこっちの方に向いています。動物的とさえいえるしなやかな運動神経を感じさせるセクシーな快演であります。ソプラノのアニー・モーリーは艶のある声質で好ましい。アメリカ人ですがロシア語のテクストをよく歌っています。

もうひとつyoutubeでこういうのを見つけました。これは上の2つと対照的に田舎の土俗性丸出しの土臭さ。大変面白いですね。癖になりそうです。

(こちらへどうぞ)

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

 

 

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ストラヴィンスキー「春の祭典」(マゼール追悼)

2014 JUL 21 13:13:17 pm by 東 賢太郎

rite写真のマゼール / ウィーン・フィル盤は僕が買った10枚目の春の祭典LP(英Decca盤)である。大学2年の1976年12月18日のことだった。その前の9枚はというと順番に、①ブーレーズ(CBS日本盤)②マルケヴィッチ③メータ(LAPO)④小澤⑤ショルティ⑥ブーレーズ(ORTF)⑦バーンスタイン⑧アバド⑨ブーレーズ(①の米国盤)であった。①購入は72年だからこの曲とは42年の付合いになる。

読者にはどうでもいいことで申しわけないが「自分史」として書いておくと、この後も⑪ドラティ(ミネアポリス)⑫ハイティンク⑬スヴェトラノフ⑭デイヴィス(カセット)⑮M.T.トーマス⑯カラヤン⑰グーセンス⑱ホーレンシュタイン⑲M.T.トーマス(pf連弾)⑳ムーティ㉑ラインスドルフと来て、アメリカでは㉒ストコフスキー、カセットで㉓メータ(NYPO)㉔スクロヴァチェフスキー、そしてロンドンで㉕デュトワ㉖アタミアン(pf)㉗マータ㉘フリッチャイ㉙オッテルロー㉚ドラティ(DSO)㉛アンセルメ㉜ストラヴィンスキー㉝モントゥー㉞コシュラー㉟スワロフスキーとなる。以下CD時代に入り、それを加えると87になる。いずれその各々につきコメントを試み、最近増えているらしい「祭典フリーク」の方々の一興と成そう。

こうして書いてみると、この異演盤購入記録は正に半世紀にわたる自分史であり、こういうことをすることもそのデータをいちいち微細に記録・分類・管理していることも、僕が何者かをこれ以上雄弁に物語るものはないという気がしてくる。しかし春の祭典だってもう最近の新譜を聞きまくる冒険心はない。異演盤収集は30歳代で「終わったこと」だ。だからこれは僕の若気の至りの記録でもある。恋愛やはしか・風疹のたぐいであって、還暦になって金も閑もあるぞさあという性質のものではない。

ワインのムートンなどを年代順に収集して、当たり年ではない故にレア物のカンチャン(足りない年)を何十万円も払って買う人がいるが、僕はそういう「コレクター」ではない。コレクターは収集が目的であってワインテースターとはちがう。僕はテースターであって、聴きたいから買った結果が積もり積もってこうなっただけである。また、テースターというと温度、湿度はもちろんグラスのまわし方の微細な角度と回数にまで凝りまくる人がいるが、音楽鑑賞ではそれがオーディオマニアである。僕はそれでもなく、あえていえばソムリエに近いと思う。

思えばこれは小学校時分に近所の子と勝負してメンコを大量に保有していたことの延長である。メンコは友達の持っていた伊賀の影丸の丸メンを狙って日夜投法を研究した。どうしてかというとメンコの絵はへたくそで影丸らしくない。ところがその丸メンだけは結構リアル感があり、どうしても欲しかったのだ。そうして遂に入手したそれを日夜眺めては勝利の余韻に浸った。①のブーレーズのCBS盤などは今やそれに近い。カセットまで入れて6種類持っており、どれも微妙に音が違っていてどれをかけてもワクワクする。宝物である。そうしてもうひとつぐらいこういうのがあるだろうと探して探して87になってしまった。結局、ひとつもないということがわかったが。

さて、そのマゼール盤だが、ウィーン・フィル(以下VPO)初の春の祭典ということで発売当時大いに話題になったのを昨日のように思い出す。75年録音、76年発売だから早々に買ったことになる。カネのなかった当時、あえて高額のイギリス盤に投資したのはVPOの音を入念に聴きたかったからだ。ところがVPOはオーボエ、トランペットがややたどたどしいものの充分うまく、「オボコさ」を期待したのに裏切られた気もした。それでも、第1部はこってりした木質の響きがソフィエンザールの残響に溶け込み、金ピカに飛び出さない金管、皮革で音程の明瞭なティンパニが実に奥ゆかしく、料理でいえば「いいダシが出ているぞ」とうれしくなった。

ところが「春のロンド」のブラスの咆哮のテンポがガクッと落ちてがっかりする。ダシがいいんだからこういう余計なアクを出さずにやれよと。そしてとうとう極めつけの第2部のティンパニ11連打だ。ここに至るともう許しがたい。これを褒めている評論家もいるが、こんなものは曲の本質に何の関係もない三文芝居である。何かデフォルメしないと個性の刻印ができないのは一流アーティストとはいえない。この頃から90年代にかけて、マゼールは才気が先走ってそう評されて仕方ない音楽をやっていたと思う。だから実演にもあまり感動しなかったのだろう。

しかし、シベリウス4番の稿の論旨に戻るが、細部に注意を払うとやはりVPOの奏者は祭典に慣れていない。「生贄の踊り」のトランペットなど音符をちゃんと吹けてすらいない。そういうオケなのに11連打以降の生気ある音楽、リズムのシャープさ、エッジの立て方、マスの質量感の出し方など凄いなあと思う。彼の棒がそうでなくてはこういう音は出ない。半端でない理性と運動神経がオケの「おぼこさ」を中和していることに気づく。全体にたちこめるピッと張りつめた緊張感はVPOを本気にさせている証拠だ。ネコにチンチンをさせている観なきにしもあらずだが、良くも悪くもこのオケにこういう芸をさせることができる米国人は彼以外に誰もいないし、今後も出ないのではないだろうか。

前回、ティンパニのミスの話を書いた。しかしあんなものは可愛いものであり、春の祭典の演奏がどれほど難しいかということまでを教えてくれる映像がある。ズビン・メータ指揮ローマ放送交響楽団の69年のライブである。

これだけいい加減な春の祭典というのも希少である。笑ってはいけない。前半だけでも、トランペットが一音符遅れて入りちゃんと吹ききる、フルートが一小節ずれてちゃんと吹ききる、クラのトリルが抜ける、ティンパニが一拍早い、オーボエが一小節早い・・・少なくとも5か所の尋常でない「事故」がある。後半もペットが落っこち、ティンパニはズレまくる。圧巻はコーダに入る所でティンパニが一小節飛ばして入り、気がついて立て直したつもりがひきつづき間違った音をバンバン叩き続けるためついにアンサンブルが崩壊。止まりかけの緊急事態となるがホルンと木管が何とかつないでティンパニは落ちたまま終わる。歌劇場ではミスに情け容赦のないローマの聴衆がブーのひとつもなく大喝采、スタンディング・オベーション。なんとも微笑ましい。

若きメータは格好はいいが、まるでダンサーが指揮しているようだ。これと同じ69年に①を録音したブーレーズとはまったく別な人というしかない。このローマのオケは決して二流というわけではないが、イタリアオペラにこんな変拍子は出てこないのだからもっと練習で鍛えて緻密な指揮をするべきだった。同じくピットのオケで変拍子に慣れていないVPOを完ぺきに調教したマゼールは、やはりすごいと思う。

 

 

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バルトーク 「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」 Sz.106

2014 MAY 23 1:01:24 am by 東 賢太郎

バルトークの最高傑作はなにか、この問いは迷います。弦楽四重奏曲のいくつか、2台のピアノと打楽器のためのソナタ、ヴァイオリン協奏曲第2番、中国の不思議な役人、オペラ青ひげ公の城、ミクロコスモスあたりが今の僕の好みであり、「子供のために」の何曲かを弾くのも気に入ってますが、大学のころ夢中になっていたのはこの音楽、通称「弦チェレ」です。

弦楽器とは左右に向き合って2群に分けられたヴァイオリン2部、ビオラ、チェロ、コントラバスとハープ、打楽器とは小太鼓、大太鼓、タムタム、ティンパニ、シロフォン(木琴)、シンバル、ピアノであり、それにチェレスタが加わります。楽器配置はスコアに指定されていて、明確にステレオフォニックな効果が現れるべくスコアが書かれています。ピアノも大活躍しますがは曲名に現れず、チェレスタは表記されるのはそれだけこの楽器の音色効果に重きを置いているからです。それは第3楽章を聴けば分かります。

なにせ不可思議な音響に満ちあふれた曲です。出だしからこれ。弱音器つきヴィオラのピアニッシモが幽界から立ち昇る霊気のような青白い調べを奏でます。

bartok1

この主題はa-eの完全五度に含まれる8個の音で、短3度上がっては半音階的にくねくねと下降という山を4つ作ります。この短3度音程は全曲にわたっての基調となり、第2楽章と終楽章はそれで開始しますし、第3楽章もこの音程でのグリッサンドのずり上がりが印象的です。短3度というと、どうしても僕は春の祭典の生贄の踊りにおけるティンパニの音程を連想してしまいます。

aで開始したこの主題は、e(5度上)、d(5度下)、b(eの5度上)、g(dの5度下)、d#(bの5度上)と5度の数列に従って扇形に広がりつつフーガを織りなします。それぞれの現れる小節数や、バルトークが指定した演奏時間からそれを求める数値がフィボナッチ数列や黄金分割比になっているという音楽学者の指摘があります。楽章の後半は当主題の音型が天地さかさまになるなどバルトークが数学的思考をもって作曲に当たったことはうかがえますが、それらが何かの自然界の法則に則った絶対美を感知させるかというと僕にはそれはわかりません。

それよりも、a-eの「五度ブロック」の上に2つ下に2つの「五度ブロック」がくっついて驚異的な「五度ブロックの五重の塔」になるあたり、ここでうねうねした旋律が重層的にうごめく様は数学的な美しさよりもエロティックなものを感じます。この曲が一聴すると難しく聴こえるのに何度も聴くと蠱惑的であるのは、これがけっして「規則の干物」ではなく、エロスという深い本能を呼び覚ます何かを秘めているからです。音楽はティンパニとシンバルを頂点として減衰し、大きな山を描きつつ幽界に回帰していきます。この主題は第3楽章、終楽章で印象的に回想されます。特に後者は長調になって出てきますが、これが通常の曲と違って明るくもヒロイックでもなく、僕には妖気を孕んだ楽想に聴こえます。

第2楽章は中間部で弦のピッチカートとハープによるタペストリーのような和音を背景に、ピアノと木琴が並行和音(E♭、D、B、C、D♭・・・)でジャズを思わせるリズムを固く鋭くたたき込みます。きわめて印象的でカッコいい部分であり、誰もが一度聴いたら忘れないでしょう。

bartok2

第3楽章はさらに驚嘆すべき音楽であり、暗黒の宇宙空間をさまよいながらブラックホールへ吸い込まれていくような超自然的な世界です。冒頭のシロフォンの固く高いファの音は相撲の拍子木のようで、ティンパニのグリッサンドが重なってきわめて非西洋的なムードを作ります。ヴィオラがハンガリー民謡のコラージュ風のねちっこい旋律を奏でますが、ここはまだ人間界のにおいがしています。

ここからが弦チェレの面目躍如であります。こんな感じです。

第1楽章フーガ主題がゆっくりとヴィオラ、チェロによって幽霊のように現れると、ヴァイオリンがa、g、f、d#の3つの全音を順番に重ねて不思議な半音階トリルを始めます。何だ?とまわりを見るともう人影はありません。血の気が引きます。するとです、はっと後ろを見ると別なヴァイオリンが奇っ怪なグリッサンドを上げ下げ上げ下げ・・・・ひとつづつゼンマイがクルルと渦を巻きます。すると、天上からヴァイオリンとチェレスタによる、冥界にいざなうごとき甘くも不気味なメロディーが降ってきます。それにつられてふらふら歩いていくと、またまたフーガ主題が足元で不気味にひっそりと・・・・。すると、なんということか、突然にチェレスタの分散和音が崩れ落ち、ハープとピアノのグリッサンドの乱れ打ちに襲われ、狂乱の光のシャワーにぶちこまれるのです。

光彩陸離たる夢幻的な光景。こんな音楽を僕は他に思いおこすことはできません。

終楽章は舞曲風であり、そこまでの3楽章のシリアスさがなんだったのかというお気楽さが垣間見えて、大変残念なことに今や僕はあまり価値を見出すことができなくなりました。逆に最もわかりやすい楽章ですから、何百回も聴いてもう食傷気味の人間のたわごとは無視されて楽しんでいただければと願います。

オーマンディー/ フィラデルフィアOの演奏です。これを同オケとムーティがやったのを当地で83年11月に聴きましたが、第2ヴァイオリンのリーダーが入りをミスったのを覚えています。この名人オーケストラでもこれは難物ということが分かります。この演奏もオーマンディーさんには申しわけないが、ちょっと生ぬるい。ただ曲の雰囲気はよくわかるので聴いて下さい。

 

フリッツ・ライナー /  シカゴ交響楽団270

この曲の名演はいくつかありますが、これを凌ぐものはまったく考え難く、まさに永遠の金字塔であります。冒頭から漂う異様な緊張感と妖気。第2楽章の青光りする眩い閃光のスパーク。第3楽章の「光のシャワー」の入りではダイヤモンドの粉がふりまかれ、「チェレスタの分散和音の崩れ落ち」と「グリッサンドの乱れ打ち」の神秘の霧がだんだんと深くなって弦楽器のトレモロが加熱。ついに凶悪なシンバルの強打で砕け散る、というめくるめく展開には唖然とするばかりです。ライナー・シカゴSOのコンビの醸し出した鬼気迫る異常な気合いとテンションは尋常ではなく、こういうものが封じ込められた録音芸術が市場に出てくることはほぼ期待できない時代において本盤にはますますの希少性を感じずにはいられません。僕の中で、完成度においてブーレーズの春の祭典と同じランクにある数少ない音源のひとつです。

その他、いくつか挙げておきます。聴き比べてみてください。

ゲオルグ・ショルティ / ロンドン交響楽団

キリル・コンドラシン/ モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団 

小澤征爾 / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団  

 

ピエール・ブーレーズ / BBC交響楽団 

unnamed (23)CBS盤。これは受験失敗記に書いたど壺まで落ち込んだあの4月に買った、僕の精神史暗黒時代を象徴するレコードです。ライナー盤を1年半ききこんでこの曲がいつも頭で鳴っており、今度はブーレーズに帰依しようとしたんでしょう。弦チェレには数学を解いているイメージが付きまといます。ライナーが動的なら静的。楽器の倍音の「色」を感じる。第2楽章の右側の弦楽器群の和声のくすんだ灰色、ティンパニの群青色、澄んだピアノの銀色、木琴の黄色、チェレスタの金色、まあ僕の色覚ですから一般性はないなりに極彩色を見ております。色が正確なリズムで、ミクロ単位の時間で配置され、「静」の連続がマクロ的には「動」になっている感じですね。積分です。彼の神経は速い部分でも「静」にあるという音が鳴っているのが他人にまねできないのです。音としてはメシアンとの近親性を強く感じます。第3楽章のシンバルなどゾッとする凄みや終楽章の音程のクリアなティンパニは2年後のあの春の祭典を予告していますね。久しぶりに聴きかえし、このころのブーレーズさん、やっぱりすごいなと感服です。

 

エヴゲニ・ムラヴィンスキー / レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

MI0001091436ライナー盤をベンチャーズのキャラヴァンみたいに頭に刻み込んでしまったので別のどれを聴いても他人様にきこえます。65年のこのライブも、う~ん違うなと。ピアノが考えられんほどとちったり(第2楽章)、ムラヴィンスキーのイメージで怜悧だ精緻だと語られている演奏ですがそうでもない。芝居がかった終楽章エンディングも好きでない。印象に残るのは音よりもオケメンバーのピリピリした雰囲気でこれは引きこまれます。ヒットラーか隣国の将軍さまかというタイラントぶりでしょう、こういう音楽はもう地球上に響くことはないかもしれません。

 

フェレンツ・フリッチャイ / RIAS交響楽団

61Nqo2q3CvL._SL500_ベルリンの放送交響楽団がうまい。上掲BBCSO、レニングラードPOよりずっとうまい。1953年にこのレベルの演奏は特筆すべきことで、細部まで相当に厳しく練習し弾きこまれたと想像されます。それが指揮者の力であることは疑うべくもなく、バルトークの弟子であったフリッチャイ(1914-63)の確信に満ちたこのスコアリーディングは永遠にレファレンスとされるべきものといって誰も反論はないでしょう。イエス・キリスト教会のアコースティックをとらえた録音もモノラル最後期のハイクオリティで、低音のきいた打楽器の音は革の振動まで伝えるリアルさでおいしい。

 

レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

MI0000177763これをヘッドフォンで聴いて見て欲しい、見事な音響の渦に酔うことができるでしょう。楽器の定位がサラウンディング録音のように明確で、周囲をぐるりと取り囲み、ホールトーンも豊かで声部は程よくブレンドして最高に耳あたりが良い。細部の細部まで克明に聞こえるのは僕のような者にとって感涙ものです。第3楽章はフレージングがアバウトなのもわかってしまう。解釈は曲のリズム、和声法のカッコいい部分に見事にフォーカスしてますからジャズ、ロック系のリスナーの当曲入門には真っ先にお薦めしたいものですが決して軽いものということではなく、傾聴すべき思考の跡が随所にあります。

(こちらもどうぞ)

クラシック徒然草《クーベリックの弦チェレ》

 

バルトーク 弦楽四重奏曲集

バルトーク 弦楽四重奏曲第4番 Sz.91

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ドビッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」

2014 MAR 3 1:01:02 am by 東 賢太郎

大学の第2外国語はドイツ語だったが深い理由はない。なんとなくだ。フランス語にすればよかったと思う時が今でもある。パリのレストランでフランス語だけのメニューがでてきた時と、フランスオペラを聴くときだ。まてよ、女性のフランス語が京都弁と似て色っぽくていいという下世話な動機もあったりするかな。

フランス語のオペラというと、なんといってもドビッシーの「ペレアスとメリザンド」、そしてけっこう忘れてるが、ビゼーの「カルメン」「真珠とり」、グノーの「ファウスト」、オッフェンバックの「ホフマン物語」、マスネの「ウェルテル」と「マノン」と「タイス」、サン・サーンスの「サムソンとデリラ」、グルックの「オルフェオとエウリディーチェ」、ラヴェルの「子どもと呪文」「スペインの時」ぐらいは聴いたんじゃないだろうか。

カルメンをイタリア語や日本語でやれば、変ではあるが慣れれば聴けるだろう。しかし「ペレアスとメリザンド」はそれができない。なぜなら管弦楽にフランス語が「縫い込まれている」(woven)からだ。オーケストラに声楽が「乗っかる」のが普通のオペラである。独り舞台になるアリアというのがその典型的場面であって、そこだけは「カラヤンとベルリンフィル」でも「ダン池田とニューブリード」でもおんなじ。ズンチャチャの伴奏楽団になり下がる場面でもあるのだ。モーツァルト作品をのぞくとこれは僕には耐えがたい。

そのアリアとレチタティーヴォの安っぽさに気づいてくれたのがワーグナーだ。どういうことか?アリアは管弦楽の生地の上に声がステッチ(stitch)された、いわゆる「アップリケ」だ。それだけが目立つ。「うわー、*子ちゃんのスカート、キレイなお花だね」なんて。キレイなのはお花だけなの?ってスカートを縫ったお母さんは思わないのだろうか。そう思ったのがワーグナーなのだ。ええいっ、布の生地にお花も縫い込んでしてしまえ、ということにだんだんなってきて、それが最も成功したのが「トリスタンとイゾルデ」である。

トリスタンというのはリングみたいな大管弦楽は使わない。彼としては古典的な方だ。もちろんアップリケなし。生地もけばけばしい柄ではなくしっとりした布地の質感で仕上がった逸品である。その質感を紡いでいるのは「解決しない和声」であり、最も特徴的である「トリスタン和声」と呼ばれる4音は、彼を師と仰ぐブルックナーが第9交響曲のスケルツォ開始に使い、トリスタンを全曲記憶していたドビッシーはメリザンドが死んだあとオペラをその構成音のアルペジオを嬰ハ長調に解決して見せて締めくくった。

ドビッシーが「反ワーグナー」でトリスタンに対立するオペラとしてペレアスを書いたというのが通説だが僕はそうは思わない。ペレアスはトリスタンを強く意識して、その強い影響のもとに書かれ、しかしドビッシーの強い和声の個性とフランス語特有のディクションの故にトリスタンとは違うものになったオペラなのである。ワーグナーはアリア(歌)をオーケストラに縫い込む(weave)ことに成功したが、そこまでだ。ドビッシーはもう一歩すすめて、歌だけでなく「フランス語の語感」までweaveすることに成功した、その意味でペレアスとメリザンドは革新的なオペラであり、ストラヴィンスキーの「結婚」、シェーンベルグの「月に憑かれたピエロ」への道を開いた作品でもある。

ついでだが、この路線を最もストレートにいったのがヤナーチェックである。僕がチェコ語やフランス語をわかるわけではないが、音として認識でできる両言語の発音、アクセント、抑揚、ニュアンスが音楽にweaveされているオペラという点において彼とドビッシーは双璧だと思う。どちらもヴィオラやフルートのちょっとした断片のようなフレーズがフランス語やチェコ語に聞こえてくる。それは協奏曲の独奏楽器がヴァイオリンかトランペットかによって曲想まで変わってくるだろうというのと同じ意味において、リブレットがフランス語やチェコ語だから作曲家はこのメロディーを書いただろうという推定に何度も心の中でうなずきながら聴くオペラに仕上がっているということを言っている。

僕は「フィガロの結婚」や「後宮からの誘拐」を日本語で聴いたことがあるが、どうしてもいやだということもなかった。台本がイタリア語の前者とドイツ語の後者で、言語と音楽が抜き差しならぬ関係にあってぜんぜん違うタイプの音楽に出来上がっているという感じはない。何語であってもモーツァルトはモーツァルトの音楽を書くことができ、それが日本語で聴こえてきても、やっぱりモーツァルトになるという性質の音楽なのだ。ところがここでのドビッシーはフランス語の質感、もっといえば、そういうしゃべり方、歌い方をする女性のタイプまで限定して音を書いている。

僕はカルメンはもちろん、ミミや蝶々さんあたりまでは声量重視、リアリティ無視のキャスティング、ズバリ言えば体格の立派なソプラノであってもOKである。子供であるヘンゼルやグレーテルですらぎりぎりセーフだからストライクゾーンは広めだ。しかしメリザンドだけは無理だ。これはどうしようもない。舞台設定や化粧の具合でどうなるものでもなく、音楽が拒絶してしまうからだ。ここがイゾルデと決定的に違う、つまりドビッシーが意図してワーグナーと袂を分かった点だ。僕はドイツで何回も、スカラ座でも、トリスタンを観たがイゾルデに色っぽさを感じたことがない。というよりも、感じるようなタイプの人が歌えない性質の音楽をワーグナーはこの役に書いているのだ。ではメリザンド。こっちはどうだろう?

「ペレアスとメリザンド」はドビッシーが「青い鳥」で有名なメーテルリンクの戯曲を台本として1893年に第1稿を完成した彼の唯一のオペラである。「牧神の午後への前奏曲」とほぼ同時期に着想し完成は少しあと、交響詩「海」を作曲するよりは少し前の作品だ。戯曲の筋は一見なんということもない王族の不倫物語なのだが、細かくたどっていくと不思議の国のアリスなみにファジーである。肝心なところがぼかされているのだが、詩的というのも違う。おとぎ話かと思いきや血のにおいや死臭が漂い、人間の残忍さ、欲望や嘘に満ちている。それでいて、いよいよリアリズムに向かうかなという瞬間になって、いいところで画面にさっと「擦りガラス」のボカシが入る。そんな感じなのである。

筋はこうだ。中世の国アルモンド王国皇子のゴローが森の中で泣いている女を見つけ城に連れ帰って妻にする。メリザンドという素性も得体も知れぬ若い女であった。ところが女はゴローの異父弟ペレアスといい仲になってしまい、嫉妬した兄は弟を刺し殺してしまう。傷を負った女も子供を生み落して静かに死んでいく。 このメリザンドという女が何を考えているのかさっぱりわかないネコ科の不思議娘 なのである。それでいてペレアスが「嘘ついてない?」ときくと「嘘はあなたのお兄さんにだけよ」なんて機転のきいた嘘をついたりもする。兄弟はかわいそうなぐらいにメロメロになってしまうのである。

娘が泉の精かなにかで音楽がメルヘン仕立てかというとそうではない。女の醸し出すえもいえぬフェロモンの虜になる弟、密会を知って殺意を抱く兄。メリザンドは妖精ではなく生身の女であることは、塔の上から長い髪を垂らして弟が陶然として触れる艶めかしいシーンで実感させられる。しかし音楽はロマンティックになることは一切ない。すべてが薄明の霧の中での出来事であったかのようにうっすらと幻想のベールをかぶっている。「見かけはそう」という図式が次々と意味深長に裏切られる。恋でも憎悪でも死でもなく、時々刻々と万華鏡のように移ろうアルモンド王国の情景とはかない運命にドビッシーは音楽をつけているのである。

武闘派で肉食系の兄ゴロー、草食アイドル系の弟ペレアス。メリザンドが選ぶのは弟であり、一見お似合いのカップルだ。これは「ダフニスとクロエ」対「醜いドルコン」の構図であり、美男美女カップルの勝利でハッピーエンドというのが定石だ。ところがここでは美男のダフニスがあっさりとドルコンに刺し殺されてしまう。おとぎ話ではないのだ。では何か?「トリスタンとイゾルデ」というのがその答えだろう。ゴローがマルケ王(叔父)、ペレアスがトリスタン(甥)ではないか。不倫カップルが死んでしまうのも同じだがお騒がせ女が王族の運命を滅茶苦茶にしてしまう顛末はこれも同じである。

「X(男)とY(女)」のタイトルにもいろいろあるが、実生活でもマティルデ・ヴェーゼンドンクと不倫中だったワーグナー、やはり不倫で前妻が自殺未遂するドビッシー。ワーグナーは延々と女に歌わせドビッシーは女を死の床に横たえてオペラを閉じている。ご両人とも眼中にあったのは女だったのだ。メリザンドの死のシーンはラ・ボエームに影響を感じるが、ボエームの主人公がミミであったように「ペレアスとメリザンド」とはいいつつもペレアスは添え物であり、やはり主役はメリザンドなのである。メリザンドを誰が歌っているかこそこの曲の鑑賞の要になることはご理解いただけるだろうか。

2unnamedペレアス「ペレアスとメリザンド」を「王族(ゴロー)の悲劇」と解釈するか「不思議娘の幻想 物語」と解釈するか。これは趣味の問題だがご両人の作曲当時ののっぴきならぬ私生活状況を鑑みるに、僕はどうしても後者として聴いてしまう。例えば初めて買った演奏はやはりピエール・ブーレーズのロイヤル・オペラハウスとのLP(右)だが、これは王族悲劇でも幻想物語でもなく中性的なものだ。エリーザベト・ゼーダーシュトレームのメリザンドはまじめ娘でフェロモン不足。これじゃあ兄弟は狂わないわな。はっきり書いてしまおう、あまり面白くない。

このクールな演奏に僕が負うのは、ぜんぜん別なことだ。ペレアスの音楽史上の影響についてである。多くの人がそれに言及しているがどこまで具体的証拠に基づいてそう言っているのだろう。僕は自分で確認したことしか信用しないので、この演奏から自分の耳で気付いたことだけ列挙してみよう。

第4幕のイニョルデのシーンはほぼ直前に作曲されたフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」の音がする。第1幕は「ラインの黄金」「ローマの泉」、ラヴェル「ソナチネ」、同第3場と第3幕には「ペトルーシュカ」、第5幕は「弦チェレ」「パルシファル」、「中央アジアの草原にて」、第2幕で指輪を泉に落とした後に「パリのアメリカ人」など書けばきりがない。自作は「聖セバスチャンの殉教」、「ピアノのために第2曲サラバンド」、「牧神」「海」などたくさん。作曲時期が近いせいだろうか「海」と似ていると言っている人がけっこういるが、どう聴いてもそこまでは似ていない。オーボエに似たフレーズがあったりはするが、海はリアリズムに接近している音楽でありペレアスはそれとは遠い。

ペレアスunnamed次に買ったのはこのCDだ。フランスのディスク・モンターニュ盤でデジレ・エミール・アンゲルブレシュト指揮フランス国立放送管弦楽団の演奏である。メリザンドのミシェリーヌ・グランシェはちょっと上品なはすっぱだが悪くはない。ペレアスを十八番にしていたジャック・ジャンセンも若気のうぶな感じが出ている。オーケストラの合奏も初演の頃はこんなだったかというムードにあふれていて、これはお薦めできる。どっちかといわれれば「王族の悲劇」型だろう。普通にこのオペラをやればそうなるのがふつうだ。台本がそうなのだから。

ところが、その後、ついに普通ではない演奏に出会うこととなった。アルモンド王国を、このオペラを、指揮者もオーケストラをも振り回す不思議娘がとうとう現れたのである。食わず嫌いしていたそのカラヤン盤をある時に聴いて、まさに脳天に衝撃を受けたのを昨日のように思い出す。カラヤンのペレアス?何だそれは、というのが第一印象。ところが一聴してこれはペレアスの最高の名盤であり、カラヤンの数多あるディスクの中でも1,2を争う出来であり、20世紀のオペラ録音のうちでもトップ10には間違いなく入る名品であると確信。どこへ行ってもそう断言するようになってしまった。

107何をおいてもフレデリカ・フォン・シュターデのメリザンドに尽きる。カラヤンは「ついに理想のメリザンドにめぐりあった」と語ったそうだが、不肖、不遜を顧みずまったく同じセリフをフレデリカさんに捧げたい。降参!参りました。この色香とフェロモンで遊びごころいっぱいのくせに手を出すと不思議なまじめさでさっと逃げる。なんだこいつは?男は迷う。メッツォだから可愛いばかりでもない。急にオトナになってみたりもする。なんだこいつは?またまた男は迷う。リチャード・スティルウェルは、なんでカラヤンがこんな草食系のペレアスを起用したんだと思うほど頼りないが、見事にメリザンドに食われて籠絡されているのを聴くとそういう配役だったかと納得する。ゴローのホセ・ファン・ダムは当たり役だ。このオペラほぼ唯一のTuttiである恋の語らいとキスの場面、そこに背後から闖入して弟を刺し殺すシーンは圧巻であり、そんな罪を負ってしまうことになるメリザンドという不思議娘への愛憎の表現がリアルである。年甲斐なくやはりメリザンドの色香に迷う親父アルケル役はルッジェロ・ライモンディだ。その貫録はメリザンドの死、メーテルリンクの戯曲の主題である静かな死の場面で舞台を圧する。ここをこんなに深みを持って歌った人を他に知らない。

そして忘れてはいけないのがカラヤンとベルリン・フィルの演奏だ。ヘルベルト・フォン・カラヤンは本名をカラヤノプーロスというギリシャ人の血筋でゲルマン人ではない。オーストリア出身のドイツ系指揮者としてレパートリーを築いてきたが、ラテン系の音楽に対する思いは強かったのではないか。僕は彼のラヴェル、ドビッシーは評価しないが、歌の入った場合は違う。彼はやはりオペラハウスで育った人だ。声を縫い込んだ特異なオーケストラ曲であるペレアスでこそ彼は自分の究極の美意識を実現できたのではないか

そうとしか考えようのない空前絶後といっていい絶美の管弦楽演奏はドラマの抑揚をなまめかしい生き物のように歌い上げ、シュターデの声といっしょにフェロモンを発している!こんなオーケストラ演奏を僕は後にも先にも人生一度も耳にしたことはない。それはカラヤンの解釈なのだが、数多ある彼の指揮でもベルリン・フィルがこれほど敬服して真摯に録音に残したということ自体が驚嘆に値する事実であり、これが聴けないとなったら僕は余生に不安になるしかない。それほどのものなのである、これは。

しかしである。やっぱり、この演奏の魅力はメリザンドなのだ。これに抵抗するのはとても困難である。僕はこのカラヤン盤を「不思議ちゃん幻想 物語」の最右翼として永遠に座右に置くことになるだろう。

 

(補遺)

アンセルメ/ スイス・ロマンド管弦楽団、ジュネーヴ大劇場合唱団による1964年録音は悪くない。メリザンドのエルナ・スポーレンバーグはバーンスタイン / LSOおよびクーベリック/ BRSOのマーラー8番にも起用されており、アンゲルブレシュトがPOを振った録音のペレアスであるカミーユ・モラーヌと純情そうなお似合いのコンビを演じている。オケのフランス的な香りをDeccaの録音陣が良くとらえているのを評価したい。

 

 

ドビッシー 「3つの夜想曲」(Trois Nocturnes)

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

 

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ストラヴィンスキー バレエ音楽「ペトルーシュカ」

2014 FEB 5 12:12:09 pm by 東 賢太郎

日露戦争終結(1905年9月5日)

ロシア第1次革命終結(1907年6月19日)

火の鳥(1910年6月25日、パリで初演)

ペトルーシュカ(1911年6月13日、パリで初演)

春の祭典(1913年5月29日、パリで初演)

第1次世界大戦勃発(1914年6月28日、サラエボ)

 

世界はロシアが大きく突き動かしていました。日露戦争敗戦により南下政策を断念して汎スラブ主義へ舵を切ったロシアの矛先がバルカンへ向かいます。それが汎ゲルマンのドイツや、やはりバルカン侵略をもくろむオーストリア・ハンガリー帝国との対立を生んで第1次世界大戦の引き金となったのは言うまでもありません。そんな激動の中で、当のロシアのバレエ団であるバレエ・リュスが夏季にパリ公演を行うために作曲依頼してできたのが上記の「ストラヴィンスキー3大バレエ」です。そしてこの3曲がその後の音楽史を大きく突き動かすことにもなったのです。

160px-Sergei_Diaghilev_02バレエ・リュス(1909-1929年)はマリンスキー劇場、ボリショイ劇場の夏季休暇中の海外引っ越し公演だけを主催する団体でロシアでの活動はありません。人類初の世界大戦勃発直前という緊迫した時勢なのに、ベル・エポックのパリにはそんな需要があったというのには驚きます。花のパリは伊達ではない。フランス人の異国好きもうかがえ、現在はそれがさらに東の日本のアニメに来ているという歴史的脈絡も透けて見えますね。バレエ・リュスはセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929、左)というロシア人の辣腕プロモーターの求心力でのみ成り立っていた「ツアー劇団」で彼の死とともに消えました。フォーキン、ニジンスキー、バランシンという伝説的ダンサーが舞い、ピカソ、ルオー、ブラック、ユトリロ、キリコ、マティス、ミロというキラ星のような画家が舞台や衣装を飾るという豪華さです。音楽はドビッシー、ラヴェル、サティ、プロコフィエフ、ファリャ、レスピーギ、グラズノフ、F・シュミットなどが担当し、ここに無名の若手ストラヴィンスキーも名を連ね、委嘱されてできたのが3大バレエです。ちなみにココ・シャネルも活躍した一人です。ディアギレフ自身もリムスキー・コルサコフに弟子入りして作曲家をめざしたのですが挫折して経営の道に入りました。彼に作曲の才能がなかったことを後世の我々は感謝しなくてはなりません。

「火の鳥」は19世紀ロシアのロマン主義を色濃く残した音楽で、革新的な音も聞こえますが大半がリムスキー・コルサコフの引力圏内に留まっています。それが1年後のペトルーシュカになるとドビッシーに近接し、オーケストレーションは「夜想曲」、管弦楽のための映像の「イベリア」など、ピアノは前奏曲第1、2集を思わせる書法を感じさせます。しかしそれでもメロディーに依存した音楽という性格は火の鳥をひきずっていて、リズムより和声と旋法で新奇さを出す方向性には19世紀の残像があります。

それがさらに1年後の「春の祭典」になると音楽の主要言語としてのメロディーはほぼ姿を消して無機的なイディオムと化し、それに代わってリズムとクラスター化した不協和音による新しい音楽言語によって前作までとは別世界の音楽へと進化します。ドビッシーがペトルーシュカに好意的で「パルシファル以来の作品」とまで持ち上げていながら、春の祭典にいたると一転して「非音楽的な手段によって音楽を作ろうとしている」と批判したのはその2曲の間に横たわる断層の大きさを物語ります。

 

昨日59歳になった僕が、41年前、18歳だった1973年に初めて買ったペトルーシュカのLPはピエール・モントゥー指揮ボスunnamed (47)トン交響楽団(右)でした。ブーレーズ盤は74年発売だからまだ出ていなかったのです。その時点でアンセルメの火の鳥、ブーレーズの春の祭典をすでに持っていて、この曲も何かで耳にはしていたと思いますがその2曲ほど魅かれていなかったかもしれません。人形とはいえペトルーシュカが殺される残酷なストーリー、耳をつんざくトランペット、無機的なドラム、あからさまな複調なんかがあまりピンとこなかったと記憶しています。

ペトルーシュカこの曲の神髄に触れるにはやはり翌年にこれ(左)の洗礼を浴びる必要がありました。待ちに待ったブーレーズ盤。わくわくしながらこれに針を落とすといきなり光のシャワーのように部屋にあふれ出た「謝肉祭の市場」!直撃のKOパンチを食らい、一気にこの曲のとりこになるしかありませんでした。つやつやと磨き抜かれた完璧なピッチの音が見事な音響バランスと透明感で鳴る。広い音場にドーンと響く締まりある低音、虹の色が見えるような木管、金管の倍音。確信をこめた縁取りで躍動するリズム。祭典がクリーヴランドOだったのに対しこちらはニューヨーク・フィルで、禁欲的な凝縮感は一歩譲る感じがあるものの、これも歴史的名盤であることは間違いないでしょう。これを聴いて以来ペトルーシュカというとまずこれが頭に浮かんでしまい、以後は常にこれと比べて聴くという運命に陥ることになりました。

3管編成の1947年版と4管編成の1911年版がありますが、火の鳥ほど決定的な差はありません。オリジナルの11年版をお薦めしますが、演奏さえ良ければあまりこだわる必要はないと思います。バレエ音楽なのでストーリーがあり、それなりに有名ですが僕はあんまり興味も知識もありません。ネットで調べられればいくらも出てきますので悪しからず。今回、本稿を書くために35種類あるペトルーシュカから好きだったものを片端から聴きました。そして、今は3大バレエのうちでこのピアノ付ラプソディのような音楽が一番楽しめるかもしれないなと気がつきました。

若いころのクリストフ・フォン・ドホナーニがハンブルグ国立管弦楽団に稽古をつけてる録画がありました。これは面白い(ドイツ語ですが)。ストラヴィンスキーのスコアがよくわかります。初めての方も、指揮者がただ棒を振っているのではないことが分かりますよ。本番の全曲が続くのでぜひ全部お聴きください(1911年版ではなくコンサートバージョンですが)。79年当時はこの曲にドイツのオケがあまり慣れてない感じがするのが興味深いです。

ドホナーニはハンガリーの高名な作曲家兼ピアニスト兼教師であるエルンスト・フォン・ドホナーニの息子です。指揮者としては当たり前のことをしていますが彼なりの頭の切れ、記憶力、運動神経を感じますね。

しかしながら、この演奏は筋肉質で決して悪くはありませんが、ブーレーズほどの図抜けた煌めきはありません。このレベルの人であっても上には上があるということです。ブーレーズの耳の良さは常人の域でなく、練習は一切の妥協や手抜きなしでオケとは緊張関係に終始したそうです。来日してN響とトリスタンを練習した時には一触即発だったと伝えられます。そうでなければあんな音は出ないと思います。

 

僕のCD棚は7000枚ぐらいが作曲家別に整理されていて、作曲家は出身国別に分類されています。ドイツ人、ロシア人、チェコ人、フランス人…というように。出身国だからヘンデルはドイツ区画に在ります。決してそう意識したわけではないのですが、そのルールに一つだけ例外があって、ストラヴィンスキーはロシアではなくフランス区画の、ラヴェル、ドビッシーの下に位置していることを ”発見” しました。なんと、僕の潜在意識下ではフランス音楽だったわけです。

3大バレエの内で今の僕がフランス音楽的感性がいいなと思うのは断然ペトルーシュカです。冒頭にドビッシーの影響が濃いと書きましたが、ペトルーシュカの部屋、乳母の踊りのオーケストレーションのソノリティなどとてもフランス的であって、後者の木管の書法がラヴェルに影響してダフニスとクロエ(1912年6月8日、パリで初演)の「夜明け」になったのではと想像してしまうほどです。火の鳥では個々の音に旋律、和声として機能的な意味がありましたが、ここではそれを喪失してもはやコラージュの素材、部品という存在になっており、総体としてタペストリーになっているという性質の音に変容しているのです。

そういう音楽はワーグナーのトリスタン、パルシファルに発した書法をドビッシーが牧神午後への前奏曲にて試行し、夜想曲、海、遊戯へと至りますが、他人の手で顕著に記譜された例こそがこのペトルーシュカであり、フランスではフローラン・シュミット、オリヴィエ・メシアン、イタリアでオットリーノ・レスピーギ、アメリカでアーロン・コープランドに伝わっていきます。興味深いことにストラヴィンスキー自身は次作の春の祭典に一見コラージュ手法と見える楽譜を書きますが、それはタペストリーというよりは「和音とリズム」を複合単位としたクラスター手法において連続する和音の各音を別楽器に非連続的に分散した結果としてのコラージュという、上記の脈絡とは違った方向に進化しています。この方向の帰結に「三楽章の交響曲」、「結婚」という傑作が現れるのです。

3大バレエの中でも特にペトルーシュカという作品が音楽史に残したDNAがいかに独特で偉大なものであることがおわかりいただけるでしょうか。フランス系の大指揮者クリュイタンス、ミュンシュ、パレー、マルティノンに録音があるのかどうかよく知りませんがモントゥー、アンセルメ、ブーレーズがフランス的感性、知性にあふれる解釈を残してくれたのが幸いです。特に今回の聴きなおしでは初演者ピエール・モントゥーの3種類の演奏が印象に残りました。ファースト・チョイスとしては冒頭のボストンSO盤がオケの性能が高く録音も優秀でお薦めです。

 

ピエール・モントゥー /  パリ音楽院管弦楽団

unnamed (49)初演のときオケがこう鳴ったのではと想像させる音が聴けます。タペストリーでのフランス風木管の華奢でエッジのある音色は、作曲者がこれをイメージしたと思える色彩にあふれています。ロシア人によるロシア的な楽想の音楽なのにパリでフランス人によって演奏されることを予定していた音楽史上でも異色の作品が3部作であり、これらをロシアの無骨なオケでやるのはお門違いということもわかります。

 

ピエール・モントゥー / フランス国立管弦楽団

unnamed (54)オケの勘違いミスもご愛嬌のライブ録音。「ペトルーシュカの亡霊」のホルンはよれよれでトランペットのソロも危なっかしく、春の祭典なら真っ先にボツの演奏なのですが、そういうことが許せてしまうのがペトルーシュカです。この曲が現代音楽であった息吹を感じることができるという意味でこれは時々じっくりと聴いています。

 

アンタール・ドラティ /  ミネアポリス交響楽団

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知的興奮をそそる名演です。並録の春の祭典を同曲の稿で絶賛しましたが、同じ路線の快速で音響の重心の高いハイドン的なストラヴィンスキーです。因習的な解釈は歯牙にもかけていませんが、なるほどそうも解釈できるのかと感服する説得力があり、ドラティの眼力の凄さに圧倒される思いです。オケは心服して自信を持ってついて行っている感じがスピーカーからうかがえます。こんな指揮者は絶えて久しいですね。

 

コリン・デイヴィス / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

61Z33eQ2rvL__SX425_デイヴィスの同オケによる3部作はスタンダードとしてどなたにでもお薦めできる名演奏です。とにかくオケの技術、音色、ホール音響の3拍子が最高水準でそろっている上に指揮者の解釈もきわめて穏当で模範的であり、非難する部分が全く見当たりません。ブーレーズが冷たくて肌に合わない方でもこれは人肌を感じることができるでしょう。サー・コリンの最高傑作と思います。

 

 

追加いたします(16年1月13日~)

 

マウリツィオ・ポリーニ(p)

アルトゥール・ルービンシュタインの委嘱で書かれたピアノ版(ペトルーシュカより3章)です。

  • 第1楽章:第1場より「ロシアの踊り」
  • 第2楽章:第2場より「ペトルーシュカの部屋」
  • 第3楽章:第3場より「謝肉祭」

大学のころこれが出て、凄いピアニストが出てきたといささかびっくりしたものです。以来ポリーニというとこれとショパンのエチュードとブーレーズのソナタというイメージが定着しました。

 

ルドルフ・アルベルト / セント・ソリ管弦楽団

780大変素晴らしい。聴くたびに興奮を禁じ得ない。このオケはパリ音楽院O、コンセールラムルーO等の楽員による録音用臨時編成らしいが技術は問題なく上級である。ピアノはイヴォンヌ・ロリオでこれもうまく、木管がこれほど細部までカラフルな音色をふりまく録音もそうはない。メシアンの「異国の鳥たち」の初演を指揮したアルベルトはフランクフルト生まれのドイツ人で指揮ぶりは明晰でリズムのエッジも立っているのがペトルーシュカにまことにふさわしい。録音がこれまた明晰で透明。楽器の質感、色彩感いっぱいにクリアに再現され、オーケストラピットを間近で覗き込みながら聴くような心ときめく音楽。i-tunesにあるのでお薦めしたい。

(こちらへどうぞ)

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

 

 

 

 

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