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カテゴリー: ______ベルリオーズ

僕が聴いた名演奏家たち(ジェシー・ノーマン)

2021 JUN 5 14:14:52 pm by 東 賢太郎

かつて聞いたソプラノで忘れられないのが、ジェシー・ノーマンとゲーナ・ディミトローヴァである。後で何を見ても全て霞んでしまう人智を超越したものがごく稀に世の中には存在するが、その “人間版” というとあらゆるジャンルでもそうそうめぐりあえるものでははない。故人になってしまったお二人は、僕の中では野球ならシカゴのリグリーフィールドで目撃したサミー・ソーサの場外ホームランだけが匹敵するという異次元の歌い手だった。

Jessye Norman(1945-2019)

時は1984年2月24日(写真は同年)、フィラデルフィア管弦楽団定期であった。リッカルド・ムーティ―を従えて下手から悠然と現れたノーマンは千両役者の風格で、たしか足元までたっぷりのロングドレスを着ていた。39才とキャリア絶頂期のお姿であり、この大歌手を人生一度だけ聴けた幸運を天に感謝する。ベルリオーズの「クレオパトラの死」は知らない曲で音楽については覚えていないが、その金曜のマチネがこのオーケストラによる初演とプログラムにある。その声は大音声というものではなく、ひと言で喩えるなら排気量6000のベンツでアウトバーンを200キロで飛ばす余裕ある感覚に近い。身体全部が無尽蔵のエネルギーを満々と湛えた楽器というイメージのものである点、他の誰とも違う。音質はバターかビロードの如く滑らかで、ピアニシモにもかかわらず耳の奥まで響く。声量を徐々に増すと鼓膜にびりびりと振動を感じ、オーケストラの全奏の音が薄く感じられた。

かように、最前列の席で聴いていた僕は彼女の音楽ではなく声の「物理特性」にびっくりしたのである。37年も前のことだが、当時も歌はたくさんきいたがみんな忘れてしまい、これだけが焼き付いている。芸術を味わうのにそれは些末なことだと思われる方もおられよう。僕もそう思って渡米したが、フィラデルフィア管弦楽団を2年聴き、その2年目の最後の方にノーマンを聴いて考えが変わった。西洋のアートという概念は “形而上”(形をもっていないもの)のニュアンスがある訳語の「芸術」よりも、即物的な「技術」に近いのだ。もちろんそれを鑑賞者がどう感じるか、その多様性を容認すれば話は形而上の領域に迷い込まざるを得ないのだが、すべて心の表現力は一義的に技術に依存するというそれこそ即物的な事実に変わりはないと思う。技術を生む土台としての体格や運動神経が問われるのは所与の条件で、そこだけとればアスリートとかわらない。それなくして「術」でハンドルできる領域は狭いから「芸術」という言葉で絵画や音楽を受容するのは無理があるのだと。

アスリートでいうなら広島カープにクロンという巨躯の外人選手がいて、三振ばかりである。僕などストレスになるので彼の打席は他チャンネルに逃げる。ところが昨日、めったにないことだがレフト場外に特大ホームランを放つとムードが変わった。それでもカープは楽天にあえなく大敗したのだが、(冒頭のソーサの一発には比べられないが)それでもあんな当たりはそうは観れんなというカタルシスの解消はバントや犠牲フライの1点では到底及ばないもので、まあ1敗ぐらいはいいかという気分にすらしてくれる。こういう破格の超人性を素直に喜ぶ文化が米国には大いにある。欧州にもあるかというと微妙だが、ないことはないし、米国人の多くは欧州から来たのだ。ノーマンをかような文脈で語るのは失礼を承知だが、持って生まれたものも「技術」のうちという不公平な事実の上にスポーツもアートも存立しているのは誰も否定できないことを言っている。オーケストラというアンサンブルを目的とした組織体は公平に民主主義的に運営でき、労働組合すら組成でき、そこに超人はいらない(いるなら全員が超人の必要がある)が、ソリストというものは、いわば中世的、独裁者的な存在なのだ。オペラはその意味で舞台が独裁者オンパレードのアートであり、庶民の組織体であるオーケストラは「しもべ」だ。いまどき稀有な封建的な世界。それはリブレットがその時代を描いていることと直接の関係はないがとても親和性はある。僕はこういう観点からオペラを楽しんでいるが、その発想のルーツこそ1984年のジェシー・ノーマンだった。

後になって知ったことだが、さらにノーマンの声はアフリカ系の特色があって、高音でも金属的にならず、柔らかく包み込む人間味がある。リリック・ソプラノであるバーバラ・ヘンドリックスやR&Bシンガーのアニタ・ベーカーにも共通するそれを僕は美質と感じる。その味はおのずと素朴な指向性があって知的な役どころに向かないきらいがあるが、どの録音でもノーマンはオペラの役どころに染まってしまって歌が軽薄に陥ることがなく、常に知性と気品がある。それが恵まれた声とパレットの上で融合して易々と聴き手を金縛りにしてしまう。これが彼女を別格、別次元の存在にしているのだ。レパートリーは広範でミシガン大学の修士であり、有名作品のディーヴァともてはやされた人でシェーンベルクを彼女ほど歌いこなした人は他には知らない。ハーバード、ケンブリッジ、オックスフォードを含む30の大学から名誉学位を授与されたのも当然だろうという超人であった。

これが彼女の「クレオパトラの死」、僕がきく2年前の演奏だ。

上述の声の特性、知性、気品、陰影はオペラより歌曲に顕著だ。歌曲はごまかしがきかない。ラヴェルの「マダガスカル島民の歌」をお聴きいただきたい。

とはいえ、彼女の超重量級のワーグナー、R・シュトラウスが悪かろうはずがない。このワルキューレはジェームズ・レヴァイン指揮のメットで、ヒルデガルト・ベーレンスのブリュンヒルデ、そしてジェシー・ノーマンのジークリンデである。これぞワーグナーだ。悔しい、聴きたかったなあ・・・。

R・シュトラウスでの当たり役はアリアドネである。このオペラは大好きだ。ツェルビネッタがシルヴィア・ゲスティ(ケンぺ盤)かエディータ・グルベローヴァかという選択もあろうが、僕はこの役がワーグナー級でないと物足りないからノーマンになるのである。

これだけハイベルの心技体が揃った歌手がそう出るわけではない。録音は永遠に聴き継がれるだろう。

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僕が聴いた名演奏家たち(ジェームズ・レヴァイン②)

2021 MAY 2 0:00:26 am by 東 賢太郎

ドイツにいたころ、フランクフルト近隣の中堅都市マインツ、コブレンツ、ヴィースバーデン、ダルムシュタット、ヴュルツブルグ、バーデンバーデン、マンハイムなどそこいらじゅうに歌劇場があることを発見して足しげく通った。なにせアウトバーンを200キロで飛ばせばすぐだ(この感覚は日本ではわかりづらいだろう)。こう言ってはなんだが田舎の芝居小屋でチケットは高くて2千円ほどだ。タキシード姿はなく日本のコンサートに似るがもっと日常的であって、ドイツの年輩のゴーアーにとっては新宿コマ劇場に森進一ショーを見に行く感じに近いと思う。演奏水準はそれなりではあるが、それでもドイツ物はリング、トリスタンやパルシファルも平気でかかってしまうのを堪能したしイタ物はもちろんロシア、東欧、フランス、現代物など何でも聴いた。

Theater Baden-Baden
小ぶりでモーツァルトに似合った

ドイツの指揮者はそうした地方歌劇場のカぺルマイスターを転々としてのしあがる。フルトヴェングラー、クレンペラー、ワルター、ベーム、サヴァリッシュらもそうだしカラヤンもウルム、アーヘンからスタートした。特に気に入っていたダルムシュタット州立劇場はベルクが存命中だった頃にヴォツェックでカール・ベームが成功し現代物が根づいた。ドイツ人以外でもマーラーに始まりショルティ、セル、ライナーなどみなドイツ、東欧圏の歌劇場で鍛えられて世に出たわけで、クラシックの原点といって過言でない。日本でレコードから入ったのでオーケストラ指揮者としての彼らしか知らなかったのは一面的だったことを知る。

レコ芸の月評は交響曲から始まりオペラは最後だがグラモフォン誌は声楽から始まる。ドイツ語圏の交響曲作曲家であるベートーベン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラーはオペラがほぼなく、そちらが明治以来のクラシック受容のメインストリームになったからだろう。英独どちらにも住んでみて両国には文化的距離感が非常にあることを感じた。ドイツでも英語はそこそこ通じるがそういう生易しい話ではない、日韓、日中の互換性のない部分に近いと言っていい感性、思考回路のリモートなものがある。その眼で見ると日本の公的機関はドイツ、それも明治以来のドイツの方の影響が濃く残る。このことは英語世界発祥のIT文化に日本が、それも民間より政府、公的機関の方が大きく乗り遅れたのと底流は同じだろう。今ごろデジタル庁ができる真相はそれだ。

結果的に僕はドイツの地方歌劇場でオペラを覚えた。メット、コヴェントガーデン、フランクフルト、チューリヒそして出張や旅行で行ったウィーン、ドレスデン、ミュンヘン、ジュネーブ、スカラ、ローマ、バイロイト、ザルツブルグ等は「よそ行き」の部類で僕の中では別のUSBメモリーに仕分けされている。日本で欧米歌劇場の引っ越し公演は数々行ったが楽しんだのは懐かしいドイツの田舎ものの香りがあったワルシャワぐらいで、和製となると大武さんが書かれている新国にまだ何度かという程度だ。オペラは全く知らずにぜんぶ外国で覚えたので元々記憶していたオーケストラ曲のようにはいかない。似たことは会計学がそうで、法学部卒だからウォートンで初めて習い今も英語が先に出てくるが、外国で覚えたものはどうしても外国生活のメモリーとくっついている。

僕がドイツにいたころのカぺルマイスターは、フランクフルト歌劇場がシルヴァン・カンブルラン、ヴィースバーデン歌劇場がオレグ・カエターニ(マルケヴィッチの息子)だった。後者はリングをチクルスで聴いたがCDでは興味深いショスタコーヴィチ交響曲全集がありレパートリーは広く、カンブルランはマイスタージンガーが記憶に残るが後の2017年に読響でメシアン「彼方の閃光」と 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」を聴かせてくれ魂を揺さぶられる感動をいただいた。歌劇場を預かって広いオペラ・レパートリーを持つには物凄い能力が要ることは想像がつくが、この二人にはそれを目の当たりにした。特定の曲を深堀りするタイプもいいが、異能のソルフェージュ力、運動能力を感じたカンブルランのようなタイプは真のプロと畏敬を覚える。試験すれば偏差値が計れる能力だが音楽はそれなくして年季で深堀りできるようなものとは思っていない。

その意味で、あらゆる技術的側面で偏差値が抜群に高いと思ったのがジェームズ・レヴァインだ。クラシックでは辺境である米国生まれで欧州に乗り込むにはそれで上位に立たなければ俎上にも載らないだろう。バーンスタインもプレヴィンもそれがあったがプレヴィンはオペラ・レパートリーはいまひとつで、ウィーンフィルまで振ったがプレゼンスは今一つだった。辺境故にオペラを振らないオーマンディも第一線のポストを保持できるのが米国だ。後継者世代にはMTトーマスもいるが、オペラという王道を極めたエースで4番はレヴァインである。CAMIが彼にメットの白羽の矢をたてた眼力は本物だ。モーツァルトを深く味わうのにオペラを避けて通ることはあり得ないし、歌劇場の定職につかなかったジュリーニ、C・クライバーも本領はオペラで発揮した。当時はワーグナーを始めオペラばかり聴いたため、歌手が不在で管弦楽が舞台に乗っているコンサートに行くと「飛車角落ち」のような物足りない感覚があったのを覚えている。それが保守的なヨーロッパ聴衆の感覚だったと思うしグラモフォン誌の順番はそれを反映している。オペラはそういうものとして覚えた僕としては、大武さんの、

オペラ劇場として、我々地域の愛好家(その中には外国人もおられるでしょう。)に支えられ、愛され、一つの有機体として機能し、今回のような未曾有の危機をも芸術監督の見事なリーダシップの下で一丸となって乗り切ることができる、そういう劇場こそが「我らのオペラ小屋」だと言いたい(「新国~我らのオペラ小屋」より)

という主張に賛成だ。欧州レベルの公演が日本で聴けるなら大歓迎だしもちろん定期会員になって通うだろう。演奏者の国籍はもちろん問わない。それを達成するにはしかし欧州式のカぺルマイスターの存在と能力は必須であり、カンブルランやカエターニのような人に欧州の生活をギブアップしてもらうのは無理だからそれだけは日本人ということになるだろう。

レヴァインはオペラに多くの録音を残してくれたが、その能力は声楽曲にも遺憾なく発揮されている。特に素晴らしいのは1987年録音、カラヤンのレパートリーをDGがぶつけたハイドンの「天地創造」(べルリン・フィル)だ。キャスリーン・バトル、エスタ・ウィンベルイ、クルト・モル、ストックホルム放送合唱団とストックホルム室内合唱団の布陣。バトルの清澄な声と深みあるモル、喜びと自発性に満ちた合唱が光、陽の面だけでなく暗、陰とのコントラストを明瞭に描き出す。こういうバランスがレヴァインはうまくBPOものっている。ベルリン・イエス・キリスト協会のアコースティックも誠にふさわしく、僕は近年はこれを愛好している。

しかし全部が良いわけではない。ウィーン・フィルとのベートーベン「ミサ・ソレムニス」はザルツブルグ音楽祭の91年ライブでステューダー、ノーマン、ドミンゴ、モルの超豪華布陣だが僕はステューダーの音程のひどさとずり上げる歌唱法が耐え難い。ドミンゴも音程が甘くまるでオペラアリアでお門違いである。合唱(ライプツィヒ放送、スエーデン放送合唱団)もステューダーにひっぱられたのか高音が上がりきらない所がありこれはだめだ。

大歌手の宗教曲への起用はこちらではうまく行っている。ベルリオーズ「レクイエム」で、パバロッティとベルリン・フィル、エルンスト・ゼンフ合唱団の演奏である。ミュンシュが定盤になっているが、僕は和声とアンサンブルの見通しが良く、メリハリもバランスもあるレヴァイン盤で真価を知った。明るすぎでオペラ的という声もありそうだがそこが彼の個性であり好き好きでもあろう。併録の管弦楽曲も素晴らしい。

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ブロムシュテット/N響の幻想交響曲を聴く

2018 APR 16 0:00:14 am by 東 賢太郎

幻想交響曲を久々に聴いた。ブロムシュテット(N響)ということで、これはどうしてもという気になった。この曲がドイツ語圏(ハプスブルグ王朝支配圏)で どう扱われてきたかはフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、コンヴィチュニー、シューリヒト、E・クライバー(息子も)、ベームが振っていないことで推察できる(トスカニーニも然りである)。フランス人がベートーベンを敬意をもって受容した裏返しのことは100年たってもなかったという風に見える。

ラテン系、ユダヤ系が得意としている事実を知ると上記のワグナー、ブルックナー、シューマン、ブラームスをうまく振る人たちとの断層を感じないだろうか。理由は不明だが、独仏の文化的相違と言っては巨視的に過ぎる。フランス器楽音楽への軽視(蔑視)、和声や対位法やバスの扱いがドイツの作曲法の文法で書かれていないこと、楽器法が斬新極まりない(ドイツ的には妙である)こと、題材が不道徳であること、フランス革命を連想させること等々いくつも論じられようが、総じてこの音楽が作曲当時として、あらゆる意味でいかに特異な音楽かという点に行き着く。

その視点からスコアを観て、4年前にこう記した。こんなブログはもう書けない、愛着あるもののひとつだ。

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

これをスウェーデン系のブロムシュテットが振る。彼はなにやらドイツ物の巨匠とされてしまったが、僕としてはN響とやって心から畏敬の念をいだいたのはシベリウスだけだ。

前半にベルワルド交響曲第3番という自国の作品を置いた。正直なところ僕にはあんまり面白い曲ではなかった。これを50手前で書いた人と27才で幻想交響曲を書いた人を並べてどうのという気には到底ならないが、この配置は指揮者がスウェーデン系という立ち位置で幻想を振るよという宣告なら意味深い。

幻想は1、4楽章の繰り返しありで筋肉質のアンサンブルだがあまり湿度を感じないのはブロムシュテットのドイツ物、チャイコフスキーと同じ印象だ。テンポやフレージングで特にユニークなことはなく正攻法。第4楽章冒頭のミュートのホルン、終楽章のフルートの妖怪風グリッサンドなどは普通に強調され、そういう奇天烈を抑え気味にする傾向のドイツ系指揮者の伝統回帰センスとは異なるものを見せる。

1830年、ベートーベン死後すぐの27才の若者の奇天烈が、188年後の63才の耳を驚かせる。耳にたこができるほど何度も聴いているのに!そのことこそが驚天動地でなくて何だろう。

曲想と調性感は女に狂った若者の心をなぞって時々刻々と変転し、第1楽章の終結部と第3楽章を除いて一時も平静に収まることがない。それが古典派の大枠をぎりぎり超えることがなく、完璧な均整と調和で書かれた三和音による調性音楽となんら遜色ない盤石の満足感を残すのは奇跡というしかない。文法は異なっても、それはベートーベンの音楽が残すそれと対比しても良いのではという思いをもって帰路についた。

これは聴きに来てよかった、ブロムシュテットとN響に感謝。そして何より、ヴィヴァ・ベルリオーズだ。

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僕が聴いた名演奏家たち(サー・コリン・デービス)

2015 JAN 10 0:00:11 am by 東 賢太郎

コリン・デービスの名はずいぶん早くから知っていた。それは名盤といわれていたアルトゥール・グリュミオーやイングリット・ヘブラーのモーツァルトの協奏曲の伴奏者としてだ。リパッティのグリーグ協奏曲を伴奏したアルチェオ・ガリエラやミケランジェリのラヴェルト長調のエットーレ・グラチスもそうだが、超大物とレコードを作るとどうしても小物の伴奏屋みたいなイメージができて損してしまう。

それを大幅に覆したのが僕が大学時代に出てきた春の祭典ハイドンの交響曲集だ。どちらもACO。何という素晴らしさか!演奏も格別だったが、さらにこれを聴いてコンセルトヘボウの音響に恋心が芽生えたことも大きい。いてもたってもいられず、後年になってついにそこへ行ってえいやっと指揮台に登って写真まで撮ってしまう。その情熱は今もいささかも衰えを知らない。

彼は最晩年のインタビューで「指揮者になる連中はパワフルだ」と語っている。これをきいて、子供のころ、男が憧れる3大職業は会社社長、オーケストラの指揮者、プロ野球の監督だったのを思い出した。ところが「でも、実は指揮にパワーなんていらない。音楽への何にも勝る情熱と楽団員への愛情があれば良いのだ」ともいっている。これは彼の音楽をよくあらわした言葉だと思う。

サー・コリンが一昨年の4月に亡くなった時、何か書こうと思って書けずにきてしまったのは、ロンドンに6年もいたのに驚くほど彼を聴いていないのに気がついたからだ。彼が晩年にLSOとライブ録音した一連のCDを聴いていちばん興味を持っていた指揮者だったのに・・・。youtubeにあるニューヨーク・フィルとのシベリウス3番のライブを聴いてみて欲しい。こんな演奏が生で聴けていたら!

僕がクラシック覚えたてのころ彼のお決まりの評価は「英国風の中庸を得た中堅指揮者」だ。当時、「中庸」は二流、「中堅」はどうでもいい指揮者の体の良い代名詞みたいなものだった。それはむしろほめている方で、ドイツ音楽ではまともな評価をされずほぼ無視に近かったように思う。若い頃のすり込みというのは怖い。2年の米国生活でドイツ音楽に飢えていた僕があえて英国人指揮者を聴こうというインセンティブはぜんぜんなかった、それがロンドンで彼を聴かなかった理由だ。

それを改める機会はあった。93年11月9日、フランクフルトのアルテ・オーパーでのドレスデンSKを振ったベートーベンの第1交響曲ベルリオーズの幻想だ。憧れのDSK、しかも幻想はACOとの名録音がある。しかし不幸なことに演奏は月並みで、オケの音も期待したあの昔の音でなかったことから失望感の方が勝っていた。これで彼への関心は失せてしまったのだ。もうひとつ98年5月にロンドンのバービカンでLSOとブラームスのドッペルを聴いているが、メインのプロが何だったかすら忘れてしまっているのだからお手上げだ。ご縁がなかったとしかしようがない。

davisしかし彼の録音には愛情のあるものがある。まずLSOを振ったモーツァルト。ヘレン・ドナートらとの「戴冠ミサ」K.317、テ・カナワとのエクスルターデなどが入ったphilips盤(右)である。このLPで知ったキリエK341の印象が痛烈であった。後にアラン・タイソンの研究で 1787年12月〜89年2月の作曲という説が出て我が意を得た。ミュンヘン時代の作品という説は間違いだろう。

5969523僕のデービスのベスト盤はこれだ。ACOとのハイドン交響曲第82,83番である。もし「素晴らしいオーケストラ演奏」のベスト10をあげろといわれたら彼のハイドン(ロンドンセットは全曲ある)は全部が候補だが、中でもこれだ。なんという自発性と有機性をそなえた見事なアンサンブルか。音が芳醇なワインのアロマのように名ホールに広がる様は聞き惚れるしかない。こういう天下の名盤が廃盤とはあきれるばかりだが、これをアプリシエートできない聴き手の責任でもあるのだ。

16668gこのハイドンと同様のタッチで描いたバイエルン放送SOとのメンデルスゾーン(交響曲3,4,5番と真夏の夜の夢序曲)も非常に素晴らしい。オーケストラの上質な柔軟性を活かして快適なテンポとバランスで鳴らすのが一見無個性だが、ではほかにこんな演奏があるかというとなかなかない。昔に「中庸」とされていたものは実は確固たる彼の個性であることがわかる。5番がこういう演奏で聴くとワーグナーのパルシファルにこだましているのが聞き取れる。

51BSnT5oJxL__SX425_シューベルトの交響曲全集で僕が最も気に入っているのはホルスト・シュタインだが後半がやや落ちる。全部のクオリティでいうならこれだ。DSKがあのライブは何だったんだというぐらい馥郁たる音で鳴っており1-3番に不可欠の整然とした弦のアーティキュレーションもさすが。僕は彼のベートーベン、ブラームス全集を特に楽しむ者ではないが、こういう地味なレパートリーで名演を成してくれるパッションには敬意を表したい。4番ハ短調にDSKの弦の魅力をみる。

41AQABHVRZL春の祭典、ペトルーシュカだけではない、この火の鳥もACOの音の木質な特性とホールトーンをうまくとらえたもので強く印象に残っている。この3大バレエこそ彼が中庸でも中堅でもないことを示したメルクマール的録音であり、数ある名演の中でも特別な地位で燦然と輝きを保っている。 オケの棒に対する反応の良さは驚異的で「火の鳥の踊り」から「火の鳥の嘆願」にかけてはうまさと気品を併せ持つ稀有の管弦楽演奏がきける。泥臭さには欠けるがハイセンスな名品。

51k8eFkIMIL__SX425_ブラームスのピアノ協奏曲第2番、ピアノはゲルハルト・オピッツである。1番はいまひとつだが2番はピアノのスケールが大きくオケがコクのある音で対峙しつつがっちりと骨格を支えている。オピッツはラインガウ音楽祭でベートーベンのソナタを聴いたがドイツものを骨っぽく聞かせるのが今どき貴重だ。この2番も過去の名演に比べてほぼ遜色がない。ヘブラーやグリュミオーのモーツァルトもそうだがデービスはソリストの個性をとらえるのがうまい。録音がいいのも魅力。

 

あとどうしてもふたつ。 ヘンデル メサイアより「ハレルヤ」(Handel, Hallelujah) に引用した彼のヘンデル「メサイア」は彼のヘンデルに対する敬意に満ちた骨太で威厳のあるもので愛聴している。そしてLSOとのエルガー「エニグマ変奏曲」も忘れるわけにはいかない代表盤である。

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

エルガー「エニグマ変奏曲」の謎

 

 

 

 

 

 

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ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

2014 JUL 28 14:14:41 pm by 東 賢太郎

220px-Henrietta_Smithsonほれた女にふられるならまだいいが、無視されるのは堪え難いというのは男性諸氏は共感できるのではないか。まだ無名だった24歳のベルリオーズは、パリのオデオン座でイギリスから来たシェイクスピア劇団の舞台に接し、ハムレットのオフィーリアを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソン(左)に夢中になってしまった。熱烈なラブレターを出すがしかし彼女は意に介さず、面会すらもできない。激しい嫉妬にさいなまれた彼はやがて彼女に憎しみを抱いてゆくことになる。

間もなく劇団はパリを去ってしまい、ハリエットをあきらめた彼はマリー・モークというピアニストと婚約した。ところが、踏んだりけったりとはこのことで、ローマ賞の栄冠に輝いてイタリア留学に行くとすぐに、モークの母から娘を別な男に嫁がせることにしたという手紙が届く。怒ったベルリオーズはパリに引き返し女中に変装してモーク母子を殺害して自殺しようと企んだ。婦人服一式、ピストル、自殺用の毒薬を買い馬車にまで乗ったのだから本気だった。幸いにして途中(ニース)で思いとどまったが彼は危ないところだった。

しかし、この事件の前に、彼はすでに殺人を犯し、自殺していた。

それは1830年にできたこの曲の中でのことである(幻想交響曲)。恋に深く絶望し阿片を吸った芸術家の物語だが、その芸術家は彼自身である。彼はおそらくハリエットを殺しており死刑になる。ギロチンで切られた彼の首がころがる。化け物になったハリエットが彼の葬儀に現れ奇っ怪な踊りをくりひろげる。これと同じことがモークの件で現実になる所だったわけだ。ベルリオーズが本当に阿片を吸ったかどうかはわからない。阿片は17世紀は医薬品とされ、19世紀にはイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、詩人キーツのように常用した文化人がいた。ピストルと毒薬を買って殺人を企図したベルリオーズが服用したとしてもおかしくない。

そう思ってしまうほど幻想交響曲はぶっ飛んだ曲であり、「幻想」(fantastique、空想、夢幻)とはよく名づけたものだ。これが交響曲という古典的な入れ物に収まっていることが、かろうじてベートーベンの死後2年目にできた曲なのだと信じさせてくれる唯一の手掛かりだ。逆にその2年間にベルリオーズは入れ物以外をすべて粉々にぶち壊し、それでいてただ新奇なだけでなくスタンダードとして長く聴かれる曲に仕立て上げた。そういう音楽を探せと言われて、僕は幻想と春の祭典以外に思い浮かぶものはない。高校時代、この2つの音楽は寝ても覚めても頭の中で鳴りまくっていて受験会場で困った。

この曲のスコアを眺めることは喜びの宝庫である。これと春の祭典の相似は多い。第5楽章の冒頭の怪しげなムードは第2部の冒頭であり、お化けになったハリエットのEsクラリネットは第1部序奏で叫び声をあげる。練習番号68の後打ちの大太鼓のドスンドスンなどそのものだ。第4楽章のティンパニ・アンサンブル(最高音のファは祭典ではシに上がる)なくして祭典が書かれようか。第4楽章のファゴットソロ(同50)の最高音はラであり、これが祭典の冒頭ソロではレに上がる。第3楽章のコールアングレがそれに続くソロを思わせる。「賢者の行進」は「怒りの日と魔女のロンド」(同81)だ。第5楽章のスコアは一見して春の祭典と見まがうほどで僕にはわくわくの連続だ。

この交響曲の第1楽章と第3楽章は、まことにサイケデリックな音楽である。第1楽章「夢、情熱」の序奏部ハ短調の第1ヴァイオリンのパートをご覧いただきたい。弱音器をつけpからffへの大きな振幅のある、しかし4回もフェルマータで分断される主題は悩める若者の不安な声である。交響曲の開始としては異例であり、さらにベートーベンの第九のような自問自答が行われる。gensou1

感情が赤の部分へ向けてふくらんでfに登りつめると、チェロが5度で心臓の高鳴りのような音を入れる。そこで若者は同じ問いかけを2回する。青の部分、コントラバスがピッチカートでそれに答える。1度目はppでやさしく、2度目はfで決然と。まるでオペラであり、ワーグナーにこだまするものの萌芽を見る思いだ。

若者は納得し(弱音器を外す)、音楽は変イの音ただひとつになる。それがト音に自信こめたようにfで半音下がると、ハ長調でPiu mosso.となり若者は束の間の元気を取り戻す。この、まるで夢から覚めていきなり雑踏ではしゃいでいるような唐突で非現実的な場面転換、そこに至る2小節の混沌とした感じは、まったく筆者の主観であるが、レノン・マッカートニーがドラッグをやって書いた後期アルバムみたいだ。両者にそういう共通の遠因があったかどうかはともかく、常人の思いつく範疇をはるかに超え去ったぶっ飛んだ楽想である。

この後、弦による冒頭の不安な楽想と木管によるPiu mossoの楽想が混ざり、心臓高鳴りの動機で中断すると、再び第1ヴァイオリンと低弦の問答になる。ここでの木管の後打ちリズムはこの曲全体にわたって出現し、ざわざわした不安定な感情をあおる。やがて弦5部がそのリズムに引っぱられてシンコペートする。これが第2のサイケデリックな混沌だ。ここから長い長い低弦の変イ音にのっかって変ニ長調(4度上、明るい未来)になり、しばし夢の中に遊ぶ。フルート、クラリネットの和音にpppの第1ヴァイオリンとpのホルン・ソロがからむデリケートなこの部分の管弦楽法の斬新さはものすごい!これはリムスキー・コルサコフを経てストラヴィンスキーに遺伝し、火の鳥の、そして春の祭典のいくつかのページを強く連想させるものである。

この変イ音のバスが半音上がり、a、f、g、cというモーツァルトが偏愛した古典的進行を経てハ長調が用意される。ここからハリエットのイデー・フィックス(固定楽想)である第1主題がやっと出てきて提示部となる。つまりそこまでの色々は序奏部なのだ。この第1主題、フルートと第1ヴァイオリンが奏でるソードソーミミファーミミレードドーシである。山型をしている。ファが頂上だが、ミミファーと半音ずり上がる情熱と狂気の盛り上げは随所に出てくる。第2主題はフルートとクラリネットで出るがどこか影が薄い。しかしこの気分が第3楽章で支配的になる大事な主題だ。これはすぐに激した弦の上昇で断ち切られffのトゥッティを経て今度は深い谷型のパッセージが現れる。すべてが目まぐるしく、落ち着くという瞬間もない。ここからの数ページは、やはり感情が激して落ち着く間もないチャイコフスキーの悲愴の第1楽章展開部を想起させる。

展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。第381小節から記してみると、A、B♭m、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Csus4、C、Bsus4、B、B♭sus4、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Dm、D、D#m・・・・なんだこれは?何かが狂っている。和声の三半規管がふらふらになり、熱病みたいにうなされる。古典派ではまったくもってありえないコードプログレッションである。ベルリオーズは正式にピアノを習っておらず、彼の楽器はギターとフルートだった。この和声連結はピアノよりギター的だ。それが不自然でなく熱病になってしまう。チャイコフスキーは同じようなものを4番の第1楽章で「ピアノ的」に書いた。それをバーンスタインがyoung peoples’でピアノを弾いてやっている。

ところで、ハリエットは第4楽章でギロチンに首を乗せると幻影が脳裏に現れてあの世である終楽章でお化けになることになっているが、僕は異説を唱えたい。最初から殺されていて、全部がお化けだ。第1楽章の熱病部分に続くffのハリエット主題はG7が呼び覚ますが、そこでイヒヒヒヒと魔女の笑いが聞こえ終楽章の空飛ぶ妖怪の姿になっている。そこからもう一度ややしおらしくなって出てくるが、それに興奮して騒いだ彼の首がギロチンで落ちるピッチカートの予告だってもうここに聞こえているではないか。しかしそれはコーダの、この曲で初めてかつ唯一の讃美歌のような宗教的安らぎでいったん浄化される。だからとても印象に残るのだ。本当に天才的な曲だ!このC→Fm(Fではなく)→Cはワーグナーが長大な楽劇を閉じて聴衆の心に平安をもたらす常套手段となるが、ここにお手本があった。この第1楽章に勝るとも劣らないぶっ飛んだ第3楽章について書き出すとさすがに長くなる。別稿にしよう。

第2楽章「舞踏会」。ここの和声Am、F、D7、F#7、F#、Bm、G・・・も聞き手に胸騒ぎを引き起こす。スコアはハープ4台を要求しているが、この楽器が交響曲に登場してくるのがベートーベンをぶっ壊している。第3楽章のコールアングレ、終楽章の鐘、コルネット、オフィクレイドもそうだ。ティンパニ奏者は2人で4つを叩きコーダで2人のソロで合奏!になる。ラ♭、シ♭、ド、ファという不思議な和音を叩くがこのピッチがちゃんと聴こえた経験はない。同様に第4楽章の冒頭でコントラバスのピッチカートが4パートの分奏(!)でト短調の主和音を弾くが、これもピッチはわからない。これは春の祭典の最後のコントラバス(選ばれた乙女の死を示す暗号?)のレ・ミ・ラ・レ(dead!)の和音を思い出す。

この交響曲の初演指揮を委ねられたのはベルリオーズの友人であったフランソワ・アブネックであった。彼についてはこのブログに書いた。

ベートーベン第9初演の謎を解く

幻想交響曲はハリエットという女性への狂おしい思いが誘因となり、シュークスピアに触発されたものだが、音楽的には彼がパリで聴いたアブネック指揮のベートーベンの交響曲演奏に触発されたものである。ベートーベンの音楽が絶対音楽としてドイツロマン派の始祖となったことは言うまでもないが、もう一方で、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーを経て標題音楽にも子孫を脈々と残し、20世紀に至って春の祭典やトゥーランガリラ交響曲を産んだことは特筆したい。そのビッグバンの起点が交響曲第3番エロイカであり、そこから生まれたアダムとイヴ、5番と6番である。このことは僕の西洋音楽史観の基本であり、ご関心があれば3,5,6番それぞれのブログをお読み下さい(カテゴリー⇒クラシック音楽⇒ベートーベンと入れば出てきます)。

最後に一言。男にこういう奇跡をおこさせてしまう女性の力というものはすごい。我がことを考えても男は女に支配されているとつくづく思う。そういえばモーツァルトもアロイジア・ウェーバーにふられた。彼が本当にブレークするのはそれを乗り越えてからだ。彼はアロイジアの妹コンスタンツェを選んだ。姉の名はマニアしか知らないだろうが天才の妻になった妹は歴史の表舞台に名を残した。しかしベルリオーズの方は後日談がある。幻想の作曲から2年して再度パリを訪れたハリエットはローマ留学から帰ったベルリオーズ主催の演奏会に行く。そこで幻想交響曲を聞き、そのヒロインが自分であることに気づく。感動した彼女は結局ベルリオーズと結ばれた。彼女の方は大作曲家の妻という名声ばかりか、天下の名曲の主題として永遠に残った。

 

シャルル・ミュンシュ / パリ管弦楽団

406僕はEMIのスタジオ録音でこの曲を知ったしそれは嫌いではない。ただし彼の演奏はかなりデフォルメがあり細部はアバウト、良くいえば一筆書きの勢いを魅力とする。それが好きない人にはたまらないだろうということで、どうせならその最たるものでこれを挙げる。鐘の音がスタジオ盤と同じでどこか安心する。幻想のスコアを眺めていると、書かれた記号にどこまで真実があるのかどうもわからない。そのまま音化して非常につまらなくなったブーレーズ盤がそれを物語る。これがベストとは思わないが、面白く鳴らすしかないならこれもありということ。フルトヴェングラーの運命の幻想版という感じだ。EMI盤と両方そろえて悔いはないだろう。

 

ジェームズ・コンロン/  フランス国立管弦楽団

gensouこの曲はフランスのオケで聴きたいという気持ちがいつもある。マルティノンもいいが、これがなかなか美しい。LP(右、フランスErato盤)の音のみずみずしさは絶品で愛聴している。演奏もややソフトフォーカスでどぎつさがないのは好みである(音楽が充分にどぎついのだから)。パリのコンサートで普通にやっている演奏という日常感がたまらなくいい。料亭メシに飽きたらこのお茶漬けさらさらが恋しい。終楽章のハリエットですら妖怪ではなく人間の女性という感じだからこんなの幻想ではないという声もありそうだが。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

4118SYQZ5PL__SL500_AA300_ロンドン時代にLPで聴き、まず第一に音が良いと思った。音質ではない。音の鳴らし具合である。この曲のハーモニーが尖ることなく「ちゃんと」鳴っている。だからモーツァルトやベートーベンみたいに音楽的に聞こえる。簡単なようだがこんな演奏はざらにはない。第2楽章にコルネットが入る改訂版をなぜ選んだかは不明だが、彼なりに彼の眼力でスコアを見据えていておざなりにスコアをなぞった演奏ではない。ご自身かなりぶっ飛んだ方であられたクレンペラーの波長が音楽と共振している。第4楽章の細部から入念に組み立ててリズムが浮わつかない凄味。終楽章もスコアのからくりを全部見通したうえで音自体に最大の効果をあげさせるアプローチである。こういうプロフェッショナルな指揮は心から敬意を覚える。

 

(補遺、2月29日)

ダニエル・バレンボイム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

51iMEuehZVLベルリン・イエス・キリスト教会の広大な空間を感じる音場で、オーケストラが残響と音のブレンドを自ら楽しむように気持ちよく弾き、良く鳴っていることに関して屈指の録音である。音を聞くだけでも最高の快感が得られる。第1楽章は提示部をくり返し、コーダは加速する。第2楽章はワルツらしくない。第3楽章の雷鳴は超弩級で、どうせ聴こえない音程より音量を採ったのか。第4楽章のティンパニの高いf がきれいに聞こえるのが心地よい。終楽章コーダは最も凄まじい演奏のひとつである。たしかBPOのCBSデビュー録音で、僕は89年にロンドンで中古で安いので買っただけだが、バレンボイムの振幅の大きい表現にBPOが自発性をもって乗っていて感銘を受けたのを昨日のように覚えている。ライブだったら打ちのめされたろう。彼はつまらない演奏も多いが、時にこういうことをやるから面白い。

 

(補遺、2018年8月25日)

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

第2楽章の快速で乾燥したアンサンブルはパレーの面目躍如。これだけ内声部が浮き彫りに聞こえるのも珍しい。第3楽章も室内楽で、田園交響曲の末裔の音を感知させる面白さだ。ティンパニの音程が最もよくわかる録音かもしれない。指揮台にマイクを置いたかのようなMercuryのアメリカンなHiFi概念は鑑賞の一形態を作った。終楽章の細密な音響は刺激的でさえある。パレーは木管による妖怪のグリッサンドをせず常時楷書的だが、それをせずともスコアは十分に妖怪的なのであり、僕は彼のザッハリッヒ(sachlich)な解釈の支持者だ。

 

 

クラシック徒然草―ミュンシュのシューマン1番―

 

 

 

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