安い女
2020 SEP 20 14:14:17 pm by 東 賢太郎
「ワタシ、そんな安い女に見える?」。どういう成り行きだったか、言われてぎょっとしたことがある。いつどこだったのかさっぱり覚えがないからひょっとして夢だったかと思うが、たぶんそうじゃない。女が酔っ払っていたのを覚えてるからだ。いくら若いころでも見知らぬ酔客を口説くなんてことは僕はない。しかし、それなら、じゃあなんだったのか、まったくわからないのである。
安い男ってのはない。男の価値はカネで測れない暗黙の了解があって、口にしたら血を見るかもしれない。もちろん女だってそうなのだが、それを自らぶち破る言葉が飛び出したものだからぎょっとしたのだ。およそ品はないが今になってなかなかハードボイルドである、アイリッシュの幻の女はきっとそんなだったろうという気がしないでもない。
なぜって、「安い」というところに有無をいわせぬインパクトがあるではないか。「兄ちゃん、わて、そんな安もんとちゃいまんねん」こう来たら笑って返すのだ。「おおこわ、高うつきそうでんな」。大阪は都構想が無くても一個の国である。商都文化の蘊蓄でできた大人の練れまくった会話が街でも漫才でも並立する。東京の人間関係は浅薄なもんだ、この会話が成り立たないのだ。
「罪と罰」で高利貸しの老婆を殺したインテリ頭のラスコーリニコフに罪を告白させ自首させるのは、他の誰でもない、売春婦のソーニャである。ロシア正教を盲目的に信じる無知な女だが、地球が太陽を回ってることを知らなくても女は男を動かせる。もしも僕が演出家でこの劇をやったら、インテリ頭は東京弁に、ソーニャは迷うことなく大阪弁にする。
東京ドームで阪神戦を観ると、あなたは7回の表と裏に2度、古関裕而の名曲を聞くことになるだろう。「六甲おろし」と「闘魂こめて」である。福島生まれの作曲家が音で描いた大阪と東京にどちらのファンも何ら違和感なく浸っているが、そんなのはかわいいもんだ、彼は国家も描ける。「東京オリンピックマーチ」である。まさにTPOを心得たモーツァルトの職人技だ、感嘆するしかない。
甲子園に鳴り響く勝利チームの校歌はあまりにつまらなくていつも早く終わらんかなと思ってる。2,3分で限られたコード進行でやれというのも無理があろうが、大方が作曲が素人くさい。安いのである。かたや、こういうのを我々は知っている。本邦音楽史上、最高傑作の一つである涅槃交響曲の作曲家、黛敏郎のNTVスポーツ行進曲だ。
たった1分。それでこのインパクトである。校歌ではないが条件は一緒だ。その昔、プロ野球は巨人、巨人は日テレだった時代、この曲を聴くと胸が高鳴った。サビの部分があって普通そこまで行かないが、このビデオのメインテーマの1分で心拍数が2,3割増え、しかも、何度聴いても飽きないのである。そういう音楽をクラシックと呼ぶのだ。要するに、高い音楽である。
この「題名のない音楽界」は今もやっているが素晴らしい番組だ。大衆は安い音楽しか知らない。高い音楽の一端をわかりやすく教えてくれ僕もとても勉強になったが、収録当時の会場にいる聴衆もこうして見るとそこそこレベルが高そうだ。紅白歌合戦とは違う。黛さんは「スポーツなんかいらない」とのたまわっている。僕はそうは思わないが、音楽家にはきっといらないだろう。というより、サッカーもやりますロックも好きです実はオモロイ人ですよなんてのは、本当にそうなら結構だが、大衆に寄せようという醜い欺瞞以外の何物でもない。
「ワタシ、そんな安い音楽家に見える?」
モーツァルトはいつもそう言いながら欲求は満たされず死んだが、その音楽は高かった。ゴッホの絵は生前は数枚しか売れなかったが、けっして安い画家でなかったことが後日わかる。
大衆に寄せようという欺瞞を盛大に執り行っているうちに、存在そのものが欺瞞な人の集団になってしまったのが今の日本国の政治だ。したがって、後日になればなるほどその安さが見えてくるだろう。
「ワタシ、そんな安い政治家に見える?」
吹けば飛ぶような安い、騒音でしかない常套文句を選挙カーから垂れ流して実は組織票だけ狙ってるアナタ。とっても安いですね。
ヘタすると、あと2,30年もすれば、日本が安い国になってしまわないだろうか?スポーツ行進曲に拍手していた年輩の聴衆の大半はもう世におられないだろう。文化が世代と共に廃退するなら危険だ。強く主張するが、政治は若い世代にまかせるべきである。爺いは退場だ。当たり前だろう、我が世を謳歌した世代が使いまくった膨大な債務を背負うのは彼らだからだ。そして、我が世代は、文化を継承するのである。コロナに負けて灯を消してはいけない。
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黛敏郎「涅槃交響曲」
2019 JUL 22 0:00:03 am by 東 賢太郎
これを初めて聴いたのはNHKのFMで放送でされた岩城宏之指揮N響のライヴである。演奏会は1972年3月19日だから高2の終わり頃だろう。春の祭典漬けだったから並々ならぬ関心をもってオープンリール・テープレコーダーで録音した。後にその録音のCDを買ったが生々しい記憶がよみがえる。梵鐘の音響スぺクトル解析結果の各種楽器の合成音による再現は言われるほど成功しているとは思わなかったが、なんといっても「お経」が出てきたのは新鮮であった。後に駿台予備校の古文の授業で「密教のお経は音楽的効果も視野に入れた、いわばコーラスでした。特に声の良い坊さんはあこがれのスターで朝廷の女房連中に大変人気があったんです。だから彼女たちは読経がある日をわくわくして待っていたのですよ」と習ったとき、なるほどあれのことかと合点がいったのをリアルに覚えている。
もうひとつその頃に気に入っていたのが三善晃の「管弦楽のための協奏曲」である(三善晃 管弦楽のための協奏曲)。大学に入ってニューヨークのレコード屋で同曲のLPレコード(写真)を見つけたのはうれしかった。その Odyssay盤に武満の「Textures」と黛の「曼荼羅交響曲」も入っていてついでにそっちも覚えた。その時分はストラヴィンスキー、バルトークに加えてかような音楽が我が家でガンガン鳴っており近隣は妙に思ったかもしれない。しかし、やはり涅槃交響曲(Nirvana Symphony)のインパクトは大きく、ロンドン時代にホームリーブで帰国の折に外山雄三がN響を振った1978年2月4日のライブ録音(左)も買った。88年5月2日、これも例によって秋葉原の石丸電気でのことだった。こうやって新しい音楽にひたるのは無上の楽しみで法律の勉強そっちのけだった。それも若くて暇だったからできた。いま初めてこれをというのはもう無理。好奇心も記憶力も、そもそも時間もない。
本稿で若い皆さんに申し残したいのは、涅槃交響曲は仏教カンタータとして秀逸な着想を持った、非キリスト教をキリスト教音楽のフォルムに融合した数少ない試みとして世界に誇れる作品だということだ。メシアンがトゥーランガリラ交響曲で異教的なものを融合したが視点はカソリックだ。彼は鳥の声を模したが厳密に写実的な音響模写ではなく耳の主観を通した模写だ。黛にとっては厳密にいえば仏教もキリスト教も異国の宗教であり、第三者的に醒めている。視点は読経というコラールと梵鐘の物理的音響(カンパノロジー)に向いていてオネゲルの「パシフィック231」に類する。そのリアリズムと宗教という対立概念の融合は誠にユニークでありヘーゲルの弁証法的である。
外山盤。
黛を知らなくてもこれを知らない人はいないだろう。
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