モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)
2024 DEC 9 23:23:09 pm by 東 賢太郎
この曲について何度か書こうと思ったがやめた。こういう音楽に軽々に物をいうのはどうかという気持ちになってしまったのだが、思えばそうやってこの曲を神棚に祭りあげてしまっていたのかもしれない。つい先日、ベルリンRIAS室内合唱団による一期一会の演奏に感嘆したことは前稿で述べた。ああいい曲だなあと心が安らぎ、やがて目がしらが熱くなって涙がこぼれてきて、あれ、なんで泣いてるんだろうと不思議に思うが、わけを知る間もなく音楽は淡々と流れ、一時の悲しみを見せつつ天空の棲み家にもどるが如くそっと消え去っていった。
なにかあちらの世に接したかのようだが、我に返ると心は滋味あふれる暖かい喜びでいっぱいに満たされているではないか。あの晩、サントリーホールでこうやって何人の人が泣いただろう。こんな経験が人生で何度できるだろう。半年後に世を去ったモーツァルトへの感謝は言うまでもないが、音楽という芸術がもつ意味深さ、崇高さというもの、それはお高くとまったクラシックの権威主義の表現ではなく、生身の人間に寄り添って安楽と希望と救済を与える霊的、スピリチュアルなものを包含している。
その間3分。46小節のアヴェ・ヴェルム・コルプスはピアノ譜にすればたった1ページのものだ。4、5時間もオペラハウスで頑張ってこんなに感動したことって何度ある?
この感じ、覚えがある。いちどだけ味わっている。フィレンツェのウフィツィ美術館で、ほんの数分ばかりのことだったと思うが、これの前にしばし立ってぼーっと眺めていた時の感覚だ。
ボッティチェリ!何だろうこの世界は?アインシュタインによるとこの宇宙は時間と空間が互いに関連し合って1つの四次元時空間になってるらしい。二次元的、静止画像的なのに触れそうにリアルな質感、重量感があるこの矛盾。それを啓蒙された21世紀の頭で考えず、あるがままに受け入れるとアヴェ・ヴェルム・コルプスの3分間になる。
しかし演奏会場を去り、美術館を後にすると、どうしても啓蒙された頭が働きだす。なぜこんなに感動するんだろう?小宇宙を調和させている隠された数理でもあるんじゃないか。ギリシャ彫刻の肉体美にはそれがあるらしいし、アヴェ・ヴェルムにあったら面白い。そこでいよいよ本稿にとりかかることにした。好奇心だ。それで人類はおろか僕ひとりですら幸福になるわけでもない。でも意味ない無駄に夢中になれるのは人間だけなのだ。
モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)を初めて聴いたのは一橋中学の音楽の授業で森谷先生が選んだレコード鑑賞の時間だった。その中でボロディンの「中央アジアの草原にて」に衝撃を受けてクラシックの道に分け入ったのだから先生に感謝しかない。アヴェ・ヴェルムを聴いたことは、クラスメートのYが長い曲名を面白がって呪文のように何度も口にしていたから間違いない。そしてもっと間違いないことだが、肝心の音楽はさっぱり記憶にない。
ボロディンの衝撃は転調だったが、アヴェ・ヴェルムにも衝撃的な転調がひそんでいるのに、そっちの真価に気づくのに僕は20年もかかった。クラシックといえばモーツァルトとお気軽に言われているが、僕にとってはモーツァルトは難しい作曲家だった。思えばその年月はクラシック音楽の深奥に到達するまでの時間だったのだろう、まるで屋久島の千年杉のごとく、険しい山道を登ってやっとたどり着いた先に朧げに彼の姿があり、ああやっぱり特別な人なんだなあという感じなのだ。
しかし、神棚に祭りあげて思考停止は良くない。アヴェ・ヴェルムの出だしは歌詞にないアーヴェーのくり返しがあり、和声はD➡Em/dになる(一般化してⅠ➡Ⅱ)。これはヘンデルのオペラ「リナルド」のアリア「私を泣かせてください」(Lascia ch’io pianga)のパクリかとも思うがラ、ソ#、ソと2度半音降下するソプラノのメロディーラインで気づかない。どことなく似るドン・ジョヴァンニの「薬屋の歌」もバスをⅠ➡Ⅱにしており、スヴィーテンの図書館でヘンデルを研究したモーツァルトはLascia ch’io piangaが好きだったと思う。
ブルックナー4番の稿に、2005年12月末日の雪の日にウィーンに行ったことを書いた。シュテファン聖堂に近い楽譜店ドブリンガーでアヴェ・ヴェルムの自筆譜ファクシミリを見つけて欣喜雀躍して買ったのが昨日のようだ。
1ページの右上に自身が記したように、1791年6月17日(金曜日)、モーツァルトは身重の妻コンスタンツェがバーデンでのスパ滞在中の宿泊施設を見つけるのを助けてくれたバーデン・バイ・ウィーンのシュテファン教会楽長アントン・シュトールへの感謝として、バーデンの宿屋「ツム・ブルーメンシュトック」で上掲スコアを書いた。左は同教会のオルガンに昇る階段の入り口に掲げられたプレートである(モーツァルトも弾いたであろう)。楽長との関係はその義理の妹アントニア・フーバーがソプラノ・ソロを歌ったミサ曲変ロ長調K.275の演奏をモーツァルト自身が翌月7月10日(日曜日)に指揮したことで伺える。
アヴェ・ヴェルムが「魔笛」の作曲中に書かれたことはモーツァルトが同年6月11日(土曜日)にウィーンから妻へ綴った手紙からわかる。「今日、まったくの退屈しのぎにオペラのアリアをひとつ作った」。結びに「お前に1000回キッスをし、お前と一緒に心の中で言おうー “死と絶望がその人の報いだった”」とある。そのアリアはこれ(第2幕No.11)だ。
アヴェ・ヴェルムに「魔笛」の雰囲気を濃厚に感じるのは僕だけではないだろう。漠然と曲調がそう感じるともいえようが、細部に歴然と根拠がある。番号からして後に書かれただろう同じニ長調の第2幕No.18(O Isis und Osiris)はアヴェ・ヴェルムの特徴的な和声連結が現れるのが一例だ(0分16秒のA➡Gの連結、0分30秒Gmへの移行、1分53秒のD➡f# on G)。
アヴェ・ヴェルムはD(ニ長調)で始まりドミナントのA(イ長調)を経てF(ヘ長調)に印象的な転調をし、A7からDに帰還したと思いきや、さらにGmaj7、Em、A、F#m、Bm、E7、D、A、G、D7、Gm、D#dim、E7、A7、D、G、D、A、D、Bm、Em、D、A7sus4という想定外の旅路を経てD(ニ長調)に帰着し、闇の彼方に消える。これはニ長調のアマデウス・コードd, b, g(またはe), a、およびイ長調のアマデウス・コードa, f#, d(またはb), e上の三和音を組み合わせたものである。そこに f はない。いっぽう、魔笛の第2幕NO.10(ヘ長調)はFからf, e, dと下がる旋律がa#に、No.11(ハ長調)はF➡Aの連結があり、ヘ長調のアマデウス・コードf, d, b♭(またはg), cである。そこにa#はない。どちらも音列を外れた音で、それ上の三和音の登場は目立たないが音楽のディメンションを広げている。僕にはこれが「魔笛的」になる隠し味のように思える。
和声だけではない。アヴェ・ヴェルムが均整の取れたフォルムであることを象徴するのは、前から23番目、および後ろから23番目がこの2小節であることだ。
いわゆる「サビ」の入り、ニ長調からヘ長調へ転調する全曲のハイライトといえる魔法の瞬間がぴったり曲の折り目になっているのは、意図したものでないかもしれないがまるで奇跡を目撃したようだ。
キリスト教徒でないのに僕は宗教音楽が大好きだ。モーツァルトで最も好きなジャンルがそれで、次がオペラだ。宗教には駄洒落も猥談も出てこない。それ嫌いなのではないし、そういうモーツァルトがいけないというのでもない、生身の人間としての彼こそ愛すべき存在で音楽とは関係ない。ただ、いわゆるクラシック音楽というものの本質はシリアス(まじめ)さにあると僕は信じていて、金銭、名誉、情欲、お遊びなど世俗にまみれた精神を断ち切ったところにそそり立つ崖のように峻厳なものだけがシリアス・ミュージックと呼ばれ、いわゆるクラシックのほんの一部分を成す。
モーツァルトは生きるために機会音楽、娯楽音楽もたくさん書いたが大いにそういう面もあったのは信仰心と無縁でない。書簡集から彼のカソリック信仰への帰依が厚かったとは思えないが、神なる超越した存在を信じる心があったことは両親の最期に際しての言葉に読み取れる。フリーメーソンは宗教ではない。クリスチャンでもユダヤ教徒でも仏教徒でも受け入れるが、絶対超越の神の存在を信じることだけが要件だ。だから彼はメーソンに親和性を見出したし、僕もそれを信じるので違和感がない。唯一大事なのはシリアスなことである。ザルツブルグを去った彼は宗教曲を書かなくなり(書いても未完)、完成したほんのわずかな作品のひとつがアヴェ・ヴェルムだ。珠玉と呼ばずしてなんだろう。
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人生で5指にはいる!第643回読響定期演奏会
2024 DEC 4 19:19:06 pm by 東 賢太郎
指揮=鈴木優人
ソプラノ=ジョアン・ラン
メゾ・ソプラノ=オリヴィア・フェアミューレン
テノール=ニック・プリッチャード
バス=ドミニク・ヴェルナー
合唱=ベルリンRIAS室内合唱団
ベリオ:シンフォニア
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K. 626(鈴木優人補筆校訂版)
最高の演奏会であった。アンコールのアヴェ・ヴェルム・コルプスがはじまると同行のビジネスパートナーD氏とともに涙がこらえきれず。べリオは心の底から堪能(Mov3はマーラー3、ラ・ヴァルス、田園、海など響く)。8人の男女声楽ソリストの声、語り、騒音?をマイクで拡声、シェーンベルク「ピエロ」のシュプレヒシュティンメの発展形か(オケとの混合が非常に印象的)。通常オケの音場だがシアターピース的。めちゃくちゃ面白い!指揮、オケにも脱帽。
K.626は自分にとって特別な曲。ジュスマイヤー部分に落差はあるがモーツァルト模倣としてはまあ合格点と思えばいい(彼自身のレクイエムを聴けば良くやったと健闘を讃えたい)。うまいと思ったらベルリンRIAS室内合唱団!(プログラム見てない)。これが聴きたくて本シリーズを選んだ甲斐あった。ソプラノのジョアン・ランが格別に良し!オケともどもの古楽風のピュアな声は生命線であるピッチがお見事(この人のバロックオペラ、リサイタル関心あり)。べリオのソリストはK.626では合唱に加わり、アンコールではそのソリストも合唱に。ああやるなと思ったらニ短調からニ長調の世界が広がって暖かく包み込む。アヴェ・ヴェルム・コルプス(オケパート弾くのが大好きだ)。終演後、このプログラムにして異例のブラヴォーが止まず我々も感動のあまり最後まで残って絶賛の拍手。いかに演奏レベルが高かったか。D氏が「これ見て下さい」とスマホを開くとご自身のサイトのバックはアヴェ・ヴェルムのスコアである!「ちょっと飲みましょう」とパブに入り、K.626にまつわる数奇で神秘的な我が体感を語った。なんという日だろう。
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プロコフィエフ 交響曲第1番ニ長調 作品25
2024 NOV 29 18:18:16 pm by 東 賢太郎
好きな曲は書いておかねばならない。そういうことで言えば、古典交響曲は物凄く好きである。いつ聴いても心はうきうき頭はさえざえで大変な名曲だが、そうほめ称える人は多くないように思う。プロコフィエフは学校でハイドンの大家に交響曲の様式をたたきこまれ、その流儀で作曲してみようと思い立ってこれを書いた。26才、日本経由でアメリカへわたる前だが青二才の試作とは程遠い逸品で、仮に老成してからの遊び心といわれても見抜けない。その後パリで書いた交響曲第2番は当地のアバンギャルドな気風に合わせたもので、両曲は両極端の借り物スタイルで書いたと言えないこともない。作曲家のシグナチャーピースである交響曲でこういう入り方をしたことこそがプロコフィエフ本人の流儀だったのである。
「ハイドンの流儀」とはシンプルな主題と三和音によるソナタ形式の両端楽章にラルゲットとガヴォットを挟んだ15分程度の交響曲であることをさす。対位法も古典派を模し、管弦楽法はMov1第2主題の弦の2オクターブ跳躍、おどけたファゴットの伴奏などハイドンの遊び心のコピーが見える。ただ、和声はTDSの機能和声を保ちながら長2度の転調がこともなげにちりばめられるなど、三和音を崩すとハイドン風には聞こえないのでそれがぎりぎりの現代性だろう。2つのヴァイオリン協奏曲で見せるキリコを思わせる孤独感、無気味、神秘性がここにないのは主題が古典の陽性を纏っているからであろう。
三和音そのものは崩さず機能性を無視して普通ではない調性同士をぶつける感覚は絵画なら原色の対比を連想させ、カンディンスキー(左)やアンドレ・ドランを想起させる。プロコフィエフは終生十二音や厳密な無調には向かわず、ストラヴィンスキーとは異なる形で独特な和声感覚を示した。古典の装束をまとったことでそれが浮き彫りに見えるこの交響曲は類例がなく、くっきりと耳に残る。
ということで全曲を克明にそらんじているが、プロコフィエフがこれをピアノなしで作曲したのは考えさせられる。シューマンは楽想が固まるまで弾くなと述べているが、ふわふわした自由な楽想からあの転調が出てくる。Mov3は想定外で則を超えそうなぎりぎりのところでD⇒Tの機能性を決然と打ち込んで「古典」の世界に聴衆を引き戻す。この曲のエッセンスはそうした現代と古典の絶妙なバランス感覚であり、聴きこんだ人はその造形の素晴らしさを俯瞰して「外郭の古典」を発見するという仕掛けなのである。
これをいつどこでどう知ったか記憶も記録もないが、初めて所有したロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送響のメロディア盤輸入LPを購入した日付は記録によると1976年9月21日だ。大学2年の秋休み明けごろで、そのあたりはほんの少々モーツァルトにめざめ、ブラームスの交響曲第1番のレコードを買い集めていたからこれを買いたくなった動機は不明である。妻と広島で出会うことになった九州旅行から帰ったばかりの気分があったのかもしれない。
1番がいかに好きになったかという証拠はある。ピアノ2手版スコアが本棚にあるが(左)、最後のページに「1978,10,7 銀座ヤマハ」と記載があるからだ。レコードを2年間聴きこんで、ついに自分で弾いてみたくなったのだろうが、調べるとその日は土曜日である。前週が会社訪問解禁で、就職を決め気分が晴れ晴れとしたのだろう、こういうことは書いておくものである。ロジェストヴェンスキーのMov1、4は速い(これで覚えたのでどれを聴いても遅い)。いまもそれが適正と思うがこの速度で弦がちゃんと弾くのは難しくMov4のフルートも破綻一歩手前のぎりぎりだ。ソビエト時代の独特な緊張感を宿したこういう演奏はもう世界のどこでも聴けない。この曲に愉悦感を求める人は好かないかもしれないが、僕は当時のモスクワ放送響あっぱれと思う。Mov1第1主題結尾の和声はモーツァルトのアマデウス和声のmodulationであり、だから自分はこの曲に得も言えぬ親愛の情を覚えているのだという発見はこの速度でなければなかった。ハイドンであるがモーツァルトでもあるのだ。Mov2の音程の良さ、Mov3の品格。どれをとってもこの演奏の王座は揺らがない。
かたや、この遅さはなんだ?というのがチェリビダッケ / ミュンヘン・フィル盤だ。この偉大な指揮者についてはずいぶん書いたのでそっちを是非ご覧いただきたいが、彼はスコアというプラトンの看破した “イデア” でなく、現実にそこで鳴る音響、もっというならそれが後ろにいる聴衆の脳内でどう化学反応を起こすかという現象に視点のあった人だ。ドヴォルザークなら8番は無視で新世界は振るという唯我独尊ぶりは好きな人は信者になり嫌いな人は敬遠というお方である。僕は前者であり、これを耳にすれば彼もプロコ1番を溺愛していたことを悟る。同じぐらいそうである僕としては、まあそれもありだよなとうなずく。ファンクラブで隣に座ったおじさんとの会話という感じだ。
ワルター・ウェラーはかつてのウィーン・フィルのコンマスでカルテットを率いた名手だ。指揮したヴァイオリニストというとオイストラフがいるが、彼は明らかにヴァイオリンを弾くべきで、ウェラーはSQと指揮でも食っていけただろう。そう書いてしまうほど英国でDeccaに録音したプロコ全集は非常にレベルが高い。テンポが良いだけでなく管弦のメリハリが最高でプロコフィエフがオーケストレーションに用いた意趣が生き生きと開示される。一例を挙げれば、快速のMov4、冒頭の裏で叩くティンパニがこんなに活きている例はない。
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ベートーベン ピアノソナタ第28番イ長調 作品101
2024 NOV 8 23:23:51 pm by 東 賢太郎
1815年にインドネシアのタンボラ山で過去1600年間で最大規模の噴火があった。ポンペイを消滅させた79年のヴェスヴィオ山噴火の約20倍の規模で、広島型原爆の約52,000倍に相当するエネルギーであったと見積もられている。噴煙や火山灰が成層圏に達して火山性エアロゾルにより日射が遮られたため夏の気温が平年より4℃も低く7月4日には米国東海岸で降雪が、ハンガリーには茶色の雪が降り、イタリアでは1年を通して赤い雪が降った。大雨でライン川が洪水をおこして農作物が大被害を受け、暴動が相次ぎ、ヨーロッパ全体ではおよそ20万人もの死者が出た。ナポレオンがワーテルローの戦いで敗戦に追い込まれた原因の一つはこの大雨であるといわれ、1816年は欧米で近代史上最も寒い年として夏のない年(Year Without a Summer)と命名されている。
噴火の3年前、1813年12月8日にベートーベンはウィーンにて「ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い」作品91を自らの指揮で初演していた。別名「戦争交響曲」という。ナポレオンを賞賛し、当初は「ボナパルト」と題されていた「英雄交響曲、ある偉大なる人の思い出に捧ぐ」を作曲したが皇帝になったと聞いて激怒し、楽曲の表紙を真っ二つに引き裂き床の上に投げ捨てた。そしてその10年後、今度はナポレオンの敗戦を望む王侯貴族を歓喜させる作品91を轟かせて大人気を博したのである。
翌年の1814年、彼らの望み通りにナポレオンは敗退してエルバ島に流される。諸国の王、外交官が集結して戦後処理のウィーン会議が開かれ、ベートーベンはさらにカンタータ「栄光の瞬間」を書き「戦争交響曲」がもたらした収入は彼の全作品の最高額にのぼった。しかし貴族階級に対して根深いルサンチマンがあった彼の心情が複雑だったことは、エロイカが至高の名曲となったのに対し、戦争交響曲とカンタータはほとんど演奏されなくなったという出来栄えの格差からうかがえる。
そのせいだろうか、人気、収入、そして不滅の恋人の出現と人生の絶頂であった1810~1814年に作曲はスランプに陥っているのである。その期間の彼のメインストリームの作品というと、1810年の弦楽四重奏曲「セリオーソ」、1812年の交響曲第8番、1814年のピアノソナタ第27番しかなく、公衆を喜ばせ金銭を得ることと真に書きたい音楽を書くことへの分裂があったかのようだ。これは一見、フィガロの作曲中にピアノ協奏曲第24番ハ短調を書いたモーツァルトに重なるようにも見える。しかし、真相はそうではない。
1814年4月11日、ナポレオンが島流しになった5日後にベートーベンはウィーンのホテル「ローマ皇帝」で自身がピアノを弾いてピアノ三重奏曲「大公」を初演したが、それが彼の公の場での最後の演奏になった。なぜかというと、弦楽器の音をかき消すほど乱暴にピアノを弾き、演奏は失敗に終わったからだ。近代史上最も寒い年まであと2年。人前での演奏を断念するほどに彼の耳は絶望の崖に向けてさらに悪くなっていたのである。スランプの理由は難聴が最悪になったショック(パニック)だったとシンプルに考えれば筋が通る。その証拠に、問題の1816年には藁をもつかむべく「補聴器」が、そして18年にはいよいよ言葉を聴きとることを断念して「会話帳」が必要になっている。
1815年に弟カスパル・カールが死去し、甥カールの親権をめぐる法定闘争が4年半もあったことがスランプの原因とする説もあるが、私見では、それは原因ではなく結果である。彼は日々心血を注いで育てるべくカールを手元に置くことに異常な執念を見せたわけだが、なぜかというと、ひたひた迫りくる悪魔の如き「音無き世界」の恐怖から逃れるために集中する相手が必要だ。彼が多くの女性、とくに人妻(子連れ)に結婚を迫ったことも同様で、多情だったわけでもプレイボーイだったのでもなく、そうした別の、誰かと一緒にいたいというより切実な「内面からの」切ない欲求だったと解釈ができる。この恐怖はただでさえ人を支配する。しかも、心から気の毒と思うことに、健常者すら平穏に過ごせぬ気象の暗転が追い打ちをかけていた。
以前に書いたが、僕は香港時代にストレスから突然パニック障害に襲われた経験がある。消えたと思うや何の前ぶれもなく現れ、内面の異変から一生逃れられない恐怖は人を打ちのめす悪魔だ。ベートーベンほど細かい神経を持つ人間が絶望の淵に追い込まれ、そんな状態で生きるなら自死して悪夢を絶つ方が余程ましだと追い込まれて書いたのがハイリゲンシュタットの遺書だという理解は僕には自然だ。死ぬまで至らぬとも多くの人が一歩手前で容易に陥る症状であるパニック障害(現代の米国人の2%が罹患)に陥らなかったとは考えにくく、そう記録されていないのは当時の医学では病気と認識されず奇行癖で片づけられたからだ。
そしていよいよ夏のない年、1816年がやってくる。補聴器を携えひとり過ごす日々は歴史に刻まれるほど長く暗く寒かった。前年から手掛け、この年に完成したピアノソナタ第28番イ長調が問題の年のベートーベンの心を映す鏡だったことは多くの方の同意を頂けるのではないか。同年にはもうひとつ、連作歌曲「遥かな恋人に寄せて」も作曲されている。これは史上初のリーダークライス(円環形に閉じた連作歌曲)であり、すでにソナタ第28番においてMov1冒頭主題が終楽章で再現する原型が見られる。連作歌曲はシューベルト、シューマンに連なり、冒頭主題の終楽章での再現はブラームス、フランク、ヤナ―チェックに連なる。「遥かな恋人に寄せて」はシューマンが愛好し幻想曲ハ長調、弦楽四重奏曲第2番に引用しており、第3曲はメンデルスゾーンの真夏の世の夢の「舌先裂けたまだら蛇」にエコーしており、これがメインストリームの作品であることがわかる。困難の最極北にありながら彼は運命に抗い、けっして負けていない。このことほどベートーベンという人の本質をあらわすものはない。
本稿の本題であるピアノソナタ第28番にやっとたどり着いた。僕はこれにベートーベンの内的葛藤を聴いて心苦しくなりもする(Mov2)が、終楽章の圧倒的なフーガ(厳密なフーガでないのはモーツァルトのジュピターと同様)に至って、この理詰めで精緻な音楽構築への没頭こそ彼が病を乗り越えて天寿を全うできた鍵であったことを知るのである。これの同型のバージョンアップが第29番ハンマークラヴィールであり、どちらも絶対の勇気を与えてくれるのは、彼が難事を克服せんと封じ込めた音魂が琴線に触れ、鼓舞もしてくれるからだ。彼の実像は蓋し肖像画がイメージさせる不屈の意志を持った強い超人ではないだろう。我々と同じく弱い一個の人間だ。にもかかわらず、折れかかっては立ち向かい、それが最後に彼を満足させたかどうかは問うまでもないが、為すべきことをしたのである。28番がその入り口とされ、以降は「後期」と呼ばれる彼の最後のピリオドは他のどの作曲家とも違うのはもちろん、それまでの彼自身とも異なる。
28番はドミナントのホ長調で優しげに始まる。しかし調性も曲調もファジーであり、やがてシンコペートされたリズム、増四度のAisの曖昧模糊とした霧にまぎれこみ、終わってみれば何を見ていたか忘れてしまった白昼夢のようだ。そこに唐突なヘ長調で暴力的に闖入するMov2はメフィストフェレスのダンスで、平和な気分を狂気の情動が突き上げる。スケルツォのようだが “生き生きと行進曲風に” とあるこれは心中で彼を追い詰めるカリカチュアだが、諧謔とは程遠い残酷で無気味なものだ。リヒテルとホロヴィッツのライブは一聴に値する。特に後者のスタッカートは悪魔的であり、シューマンのクライスレリアーナ第1曲にエコーしていることがわかるという点でMov2は僕はホロヴィッツを採る。
クライスレリアーナのクライスとはE.T.A.ホフマンの自画像であるヨハンネス・クライスラー楽長に由来するが、Kreisは「円」であり、リーダークライス(Liederkreis)に通じることからも両曲の関連をシューマンは意図したと見える。やがて右手がつまづいたが如くDes durの挿入で切断され、音楽は低音部で調性感を失って浮遊しながら落ちてゆき、地の底に届いて沈殿する。するとピアノはサステインペダルを解放し、大地から立ち昇る陽炎が天使の姿になって無数に空に昇ってゆく風である。右手のつまづきの部分はクライスレリアーナでは闖入するB durの驚くべき和声的イベントとして耳を釘づけにする。中間部は鏡像の対位法的で最後に低音でリズムの律動が裸で脈打つ所はシューマンがライン交響曲Mov1で使う。神は細部に宿るというが、こうした部分に天才たちの感性が光っている。
Mov3は序奏にアダージョがある。アンドラーシュ・シフはこれがチェロ・ソナタ第4番と共通の構造だと看破しているが、僕はMov3序奏を楽章と見た場合に28番の楽章の調性A-F-Am-Aと交響曲第7番のA-Am-F-Aに近親性を見る。このアダージョは通して弱音ペダルを踏み、素材もテンポも類似はないが第7番のMov2を想起させる。緩・急の対比ということでいえば大公でラズモフスキー1番を先駆とする「緩と急(スケルツォ)の逆転」がおきており、ピアノソナタ第28-31番、第九交響曲、弦楽四重奏曲第16番に引き継がれる。28番では逆転した緩徐楽章が終楽章の序奏になっており、これは29番で長大かつ深淵なアダージョ楽章に発展する萌芽である。ちなみに彼を尊敬したシューベルトはこれだけは従わず完成されたピアノ・ソナタで第2楽章にスケルツォが来る作品はなく、ベートーベンを範としたブラームスも交響曲でそれを踏襲しなかったが、シューマン(!)は交響曲第2番で、ブルックナーは8、9番、マーラーは6番で行った。
アダージョの最後にひっそりとMov1冒頭のテーマが再現する。それは旋律的ではあるが後ろの楽章の素材になっていたわけではなく、醸し出すある一定の夢のような感情、アトモスフィアを漂わせるだけの存在であったことがわかる。そして、それをかき消すように精気溢れるアレグロ主題が現れる。こちらは旋律的ではなく運命主題のごとくメカニックであり、技法の限りを尽くした息もつかせぬ展開の末にフーガに至る。彼は11才から先生のネーフェにバッハの平均律をたたきこまれており、これは29番のフーガフィナーレに発展するものだ。ベートーベンにしか書けぬ鋼の如き音楽である。白昼夢、悪夢、悲嘆と辿ってきた音楽は白昼夢の回想で目覚め、意志の力ですべてをふりはらう。
PS
昨日11月7日、インドネシアのレウォトビ火山で大噴火が発生した。それを知ったのは同日の夕刻、出張先の静岡でのことだ。本稿はインドネシアのタンボラ山噴火の話で始まるが、執筆は11月3日からで噴火の前日の6日に脱稿している。何とも奇遇だなあと思った。先ほど帰宅して調べると噴火は11月3日から始まっていて、書き始めたのはほぼ同時だったこともわかった。もちろんそんなこととは夢にも知らない。
ベートーベンの28番に言及するのに噴火の話から書き始めたのは、太陽黒点の数が減少した「ダルトン極小期」と関係がある。僕は太陽活動が人類に影響を与えると考えており(与えないはずがないと言った方がいい)、太陽黒点数の推移データに関心を持っている。この期は1790年から1830年まで続いた。すなわち、ベートーベンの全作品は始めも終わりもほぼぴったり重なってダルトン極小期に書かれているのである。
そこでネットを検索すると、他の多くの極小期と同じくダルトン極小期でも寒冷化の現象が見られ、特に1816年はタンボラ火山の噴火から極めて寒冷となり「夏のない年」となったことを知った。こうなると僕は抗いようのない習性から「その年にベートーベンは何を書いたろう?」となる。それが28番であり、偶々11月2日にそれを聴いており、朝からMov2が頭で鳴っていた。だから11月3日に28番について書こうと思い立ち、夏のない年、タンボラ火山、という流れになったのが顛末だ。
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「もしもピアノが弾けたなら」は辞書になし
2024 OCT 22 12:12:14 pm by 東 賢太郎
西田敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」は、歌詞を調べると、「ピアノで思いを君に伝えたいが持ってないし聞かせる腕もない」という歌だったようだ。ようだというのは、そういうのがあったぐらいは知ってるが一度も聞いた記憶がない。その手のものにとんと興味ないのもあったが、題名をみて、無能が歌にまでなるのか、そんな暇があるなら練習すりゃいいじゃないかと思う性格だ。西田さんは女性にもてたろうが僕がさっぱりだったのは思えば当然のことだった。
ピアノはもっぱら妹がやるもので、当時の世界観として女子のお稽古事であった。だからそんな恥ずかしいものを習おうなど考えたこともない。そもそも学習塾もなにも、何かを習ったということがない。ところが中学あたりでクラシックに目覚めてきて、自分の聴いている面白い音が何かという科学者みたいに即物的な研究心がわき、天体観測をする際の全天恒星図あるいは鉱物標本、人体解剖図を持っていたのとまったく同系統のノリで悲愴交響曲のスコアを買った。暗号のようで何もわからない。「もしもピアノが弾けたなら」と思ったのはこの時だ。
そこから独学にのめりこむ。高校あたりでバッハのインヴェンション1番ハ長調とドビッシーのアラベスク1番が弾けていたから悪くはない。悲愴のスコアはちょっとはわかるようになった。芸大に行きたいなと思ったのはこのころだが両親はそういう考えはまるでなかった。ちなみに野球も受験もそうでゴルフも自己流でスコア75を出したからどれも同じぐらいのレベルまでは行った気がするが、独学の宿命でどれもいい趣味にすぎない。いま職業にしているスキルは証券会社にいたのだからきっと初めは習ったのだろうが、これもそんな記憶はないぐらいに自己流である。証券業は以上のジャンルに比べればまったくもって誰でもできる、西田の歌の主人公だってできるだろうから誰にだって教えられるし、いま仲間になっている40歳あたりの後継者たちを指導することは僕のライフワークだ。
いま、さらに「もしもピアノが弾けたなら」の心境になっている。基礎訓練をしてないから候補は平易な技術の曲に限られ、それでいて自分の耳を満足させるものとなるとさらに限定される。ラヴェルのマ・メール・ロア(二手版)はそのひとつだ。終曲は弾くだけならそう難儀ではないが、出だしのピアニッシモ、とくに2拍目のドミシレは魔法のような7度と9度の音量に絶妙のバランスが要求される。ラヴェルは、マーラーもそうだが、常人の目からすれば変質狂レベルの完全主義者だ。のっけからやり直しの連続で楽譜には何も書いてないが極めて難しいことは弾いた人はわかる。変質狂が書いてない、というか楽譜の記号でも文字でも書けないのだから、これが難しいなら俺の曲は弾くなということに違いない。人間が造った「世の中の最高級品」とはすべからくそういうものによって成り立っているのであって、宣伝やマーケティングやイメージ操作や裏取引をしないと需要のないものは100%間違いなくすべてガラクタである(みなさんたった今そこらじゅうで響いてる選挙演説をお聞きになったらいい)。クラシック音楽は最高級品の中でもトップ中のトップのひとつであって、だからそれがわかる人(理解ではない、アプリーシエイト)に300年も聴かれているのであり、真の喜びというのは神の如く細部に宿っているとつくづく思うのだ。「もしもクラシックがわかったなら」という人は300年たってもわからない、それをせずに死んだら人生もったいないと思うかどうかだけだ。ラヴェルがここぞという場所に絶妙に「置いた」宝石のような音たちのまきおこす奇跡!自分で演奏すれば何度でも好きなふうに味わうことができる天上の喜びだ。
シューベルトの即興曲D.899の第3番変ト長調もそう。何度弾いても飽きることのない6分ほどの白昼夢のような時間である。二分の二拍子を表す記号が2つ書いてあるから二分の四拍子で「出版時は調号が多いことに起因する譜読みの難しさなど、アマチュア演奏家への配慮から、半音上のト長調に移調され、拍子も2分の2拍子に変更されていた」(wikipedia)らしい。ラヴェルに書いたことはここにも当てはまり、弾きやすい調にすれば解決できると思うような類いの人はこれを弾くのはやめたほうがいい。当時の調弦は少なくともオーケストラの a は低く、それを現代ピアノでト長調なら全音近いアップであり狂気の沙汰だ。シューベルトのピアノ曲で変ト長調はこれしかなく何度聴いても弾いても変ト長調しかありえないと思う。速度はAndanteであり、二分音符で歩く速さだろうが、ピアニストにより幅がある。速いのがシュナーベルで、ロマン派ではないからそうなのだろうというのが私見ではある。彼はそれで旋律を歌って見事に呼吸しているが、それがどんなに難しいことかというと、野球をしたことがある者が大谷を見てなんで摺り足であんな打球が打てるんだろうと思う、その感じが近い。ある個所で、アルペジオのたった1音だけ、つまりほんの一瞬、何十分の1秒だけ短調が長調になるのはよく聞かないと気づかないがこういう仄かな明滅がシューベルトにはある。低音で出るまったくもって音楽理論の範疇外の非和声的、非対位法的なトリル、空しく何かを希求するばかりで報われないのがわかっているコーダのT-SD-Tの和声は最期の年のソナタ21番の冒頭主題にそっくりリフレーンしている。感じるのは死にほど近いシューベルトが心で聴いた「何ものか」である。ではそういうものをシュナーベルから聴けるかというと、残念ながら、あれだけのドイツ音楽の名手にしてそれは否なのだ。シューベルトの時代の人間の感性がロマン派を知ってしまった我々に想像もつぬそういうものだったのか、ではどういうテンポでどう弾くのか。僕は技術的問題で遅くしか弾けないが、それでいいのかどうかいまのところわからない。
これからハードルは高いが何事もできると信じないとできない。ベルガマスク組曲ぐらいはいきたい。モーツァルトはヘ長調とイ短調のソナタ、ベートーベンは悲愴、ブラームスは3つの間奏曲作品117。バッハは平均律、ロ短調とハ長調(フーガ)は頑張りたい。著名曲ばかりだが、ニコライ・チェレプニンの「漁師と魚の物語」なんてのもある。
来年70になるが、もうひとつ、仕事をなし遂げたあかつきには社会人講座かなにか東京大学で、それもできれば懐かしい駒場で勉強したい。当時、いくらでもできたのにしないで遊んでしまったのはまさしく若気の至り、後悔でしかない。物理や天文なんかを孫ぐらいの先生に習うなんてのはいいなあと思う、僕の辞書にはなかったから想像するだけでも楽しいことだ。
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読響定期(ブラームスとラフマニノフ)
2024 OCT 12 6:06:13 am by 東 賢太郎
先日、神山先生に会うや「東さん、頭が疲れてるね、胃と脾臓が動いてない。朝晩に蜂蜜をスプーン1杯食べなさい。それで戻るよ、でも純蜂蜜はだめだよ砂糖入りがあるからね100%と書いてあるのにしなさい」といわれた。たしかにそういう感じがあるが、なぜ顔を見ただけでわかるのか未だに不明である。
というわけで疲れてるのでこのプログラムを楽しみにしていた。
第642回定期演奏会
2024 10. 9〈水〉 19:00 サントリーホール
指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
ヴァイオリン=クリスティアン・テツラフ
伊福部昭:舞踊曲「サロメ」から”7つのヴェールの踊り”
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
ラフマニノフ:交響曲第2番 ホ短調 作品27
表現欲の塊のようなテツラフのヴァイオリンは壮絶だった。このホール、ソロの音がぬけないのか美音は犠牲になっても構わぬとばかり全身を揺らし、足を踏み鳴らし弓圧いっぱいの魂を込めた ff を弾ききる。Mov3はかつて知る最速のテンポで、指揮と競奏し齟齬やピッチが危険なほどだが、そうしたことを気にする演奏ではないのだ。こういうブラームスは初めてだがそれでも大きな感動が残ったのだから文句なし。Mov1、コーダ前のtranquilloのところ、第1主題を p で奏でるソロに pp のオケがそっと加わる痺れるようなあの場面、バスがcに下がってト長調になる壮麗な夕焼けを思わせる部分は数多あるコンチェルトでもラヴェルのト長調P協Mov2のフルートの入りの部分と双璧である2大奇跡的音楽だが、テツラフの高音はそこまでのアグレッシブな強奏があったものだから天上の調べのように響いた。tranquilの反対語がaggressiveであり、彼の表現はブラームスの意図の正鵠を射たものなのかもしれない。
それだけではない。アンコールのバッハを締めくくった柔らかいベルベットの感触の最弱音はブラームスの上記の部分の pp とは質がちがう。深く精神の奥底に沈静してゆくのだが、最強音でみせた弦も切れんばかりの緊張感と同じほどのエネルギーが乗っている感じがして耳が吸い寄せられ金縛りになる。同じ楽器から出たものと思われず、ヴァイオリンからこんな音を聴いたのは初めてだ。刮目すべきヴァイオリニスト。
疲れた時のラフマニノフS2番。これは我が定番だ。受験に失敗した時、目の前が真っ暗になったその日からしばらく記憶が完全に消えてしまっているが、これのレコードを落ちた当日に聴いていた記録をずっと後になって見つけた。そういう曲だったのだ。ところがそこまで好きなのにこれのライブを聴いたことがないと思っており、長女に「絶対一緒にきいてる、だって『2番ってP協じゃないよ交響曲だよ』って言ってたもん、きいたから曲覚えてるんだから」と真正面から反論されカードを調べると、たしかに2001年に日フィル、ザンクト・ペテルブルグフィルと2度も聴いていた。ここまで間抜けなことも珍しい。分厚いスコアは持っているがP協2,3番には子細に行った楽曲分析めいたことをしようという気になったためしもないし、大事な恋人のようなものでそういう無粋なことをする対象ではない異例の曲と思う。
ヴァイグレがこれをやってくれたことに感謝しかない。読響も熱演だった。ひとつだけ注文があるとすると、Mov2のシンバルが鳴ってからの急速な弦楽合奏だ。僕は海外のオケの方を多くきいてきたせいかもっと音圧、切れが欲しい。CDでコンセルトヘボウ管、ベルリンフィルと比べるとわかる(単純に表現すれば同じ f を弾いても音の質量感が大きい、BPOのコントラバスの音量などド迫力である)。日本のオケ一般のことだがきれいな音を作る表現力はあるがこういう部分の凄みがあればさらに表現の幅が出ると思う。
おかげで疲れが吹っ飛んだ。音楽を聴いてきてよかった。
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ユーミンのバックコーラスだったんです
2024 SEP 23 9:09:08 am by 東 賢太郎
ひょんなことで女性シンガーの方と話した。
「もうずっと前ですけど、いちおう80年代は ”夜のヒットパレード” の常連でした。○○○○ってバンドですけど・・」年恰好からきっと知ってると期待されたんだろうが「ああ、僕そのへん日本いなかったんです」「じゃ五輪真弓、中島みゆき、竹内まりあなんて・・」「うーん、たぶん知ってると思うけどあんまり」。要は興味ない。
こういうところ、少年時代から乗り物は電車、運動は野球、勉強は星、小説はミステリー、動物は猫ときまって今に至っている事実がある以上、何が身にふりかかろうとこの性格が修復される可能性はなかろう。男だから女性についてはそこまでストライクゾーンは狭くないが、部屋にポスターを貼ったことのある唯一の女性はアグネス・ラム(左)である。この人の笑顔はこうしてしげしげと眺めてみても、いまもって聖母マリア様にしか見えない。たぶん南方系だ。自分にそれがあるということなら起源は長崎のばあちゃんしかない。地中海、アドリア海、エーゲ海にビビッときて二度クルーズしたが、人類はアフリカから来たわけだしその頃の根強いDNAでもあるのだろうか。
一度だけ南国に住んだことがある。香港の2年半だ。異動は1997年の1月だった。雪深い極寒のチューリヒから家族を引き連れ降り立ったカイタック空港。一歩外に踏み出して直撃を食らった強烈な陽ざし、ぼわっと全身を包み込む熱くてねばっこい大気、スイスには絶対にない独特なアジアの匂い。500人もいる会社の社長になるのは気が重く、もともとそういうのに向いてないし研究室にでもこもって思いっきりオタクな仕事をするタチなのだ。ところがそんな緊張とストレスを吹っ飛ばすぐらいあの熱い土地は僕を一気に確実に元気にした。なにかはわからないが、いま思い起こしても図抜けた高揚感というか、コカインか何かを吸うとこうなるのだろうとしか喩えようのないワクワク感が自分を支配しているのに気づいてびっくりした。ヨーロッパは好きだし文化は性に合うしそれは些かも変わってないのだが、遺伝子の眠っていた部分に火がついて僕はいまこうなった。あれがなければそこまで25年もズブズブだった会社を相談もせず飛び出したり、起業してこの年までやろうなんてことはなかっただろう。
アメリカもヨーロッパも日本から見れば既にずいぶん北だ。あそこからもっと北に行こうなんて気はまったく起きなかったし、はっきりいうなら申しわけないが、飯はまずいわ、そもそも竜宮城が流氷のなかにあったら凍死しちまうし乙姫様もいなさそうだしってことで、要するに北方には危険を冒してでも略奪したい豊穣な富がある感じがしない。アレキサンダー大王の東方大遠征も英国人が東インド会社を作るに至ったのも、衝動の中に “これ” があったのではないか。だから東でなく南、それも旧知のアフリカではなく未到の東方における南、すなわちインド、極東を目ざしてやって来たのだ。浦島太郎は亀のおかげだが、竜宮城を求めて行くのは男の本能なのは精子と卵子を見ればわかる。そこを平等だジェンダーだと争うのは個人の自由で構わないが、宇宙の原理にかなった生き方をするのが自然で安心で幸せだというのは僕の幸福論の根底だ。
「最初はユーミンのバックコーラスだったんです」「へえ、僕はね、女性シンガーは彼女とカレン・カーペンター別格なんですよ」「そうですか、松任谷さんと来られて私のステージ聴いてくれたらしくて、電話でやってよって頼まれたんです」「あなたすごいね」「いろいろあって断ったんですけど、彼女のステージ見たら竜や本物の象まで出てきて、こりゃやるっきゃないって」「やってよかったんじゃないの、全国ツアーでしょ、じゃ一緒に食事したり」「ええ、でもツアーは今までの歌い方だと声潰すんでボイストレーナーつけたりダンスの練習まであって大変でした」「彼女はどんな人?」「普通ですよ、でもでっかい竜は中日ドラゴンズに寄贈してました(笑)。この前も原宿歩いてたらばったり会っちゃっておおって」「彼女、喉声で歌下手だって言われるけどね、実は音程いいんですね、ピアノやってるし当然ですね。曲が天才です、荒井由美だったころの」「音楽されるんですか」「しません」「なに聞かれますか」「クラシックだけです」
この方のご芳名は書きません、許可もらってないんで。
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読響 第641回定期演奏会
2024 SEP 12 7:07:27 am by 東 賢太郎
9月5日にこういうものを聴いた。
指揮=マクシム・エメリャニチェフ
チェンバロ=マハン・エスファハニ
メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」作品26
スルンカ:チェンバロ協奏曲「スタンドスティル」(日本初演)
シューベルト:交響曲第8番 ハ長調 D944「グレイト」
二人の若い演奏家の嬉々とした音楽を楽しんだ。生年を見るとフルトヴェングラーやバックハウスのちょうど100才ほど下だ。1世紀たって演奏スタイルや聴衆の好みは変わるがメンデルスゾーンやシューベルトの音楽の本質は微動だにしていない。これから1世紀たってもしていないだろう。2、30年もすれば彼らは先人と同様の大家の列に加わっているだろうが、その若き日の一端をここに記しておくことは何がしかの意味があるかもしれない。
エスファハニが弾いた楽器は何だろうか実に心地よい音で、これならゴールドベルクで眠れるなと悟った。バッハは楽器指定がないから現代ピアノでも許されようが、この音を聴くとやっぱり別の流儀のものだ。スルンカはチェンバロの構造上の音価の制約に着目しているが、その楽器と音価をペダルでコントロールできる楽器では別物の音楽というべきだろう。同曲はチェンバロの機能の極限まで、弦をはじかないカタカタという極北の音響までをコンチェルトという古典的器に盛り込んだ意欲作だ。頭脳で作った即物感はあるものの、12音というデジタル情報で出来た音楽が甘い旋律となって人を酔わせるいかにもアナログ的な効果というものは、ゲノムにあるAGTC4種のデジタル記号から人間というどう見てもアナログ的な存在ができる現象に似ていると思っているのだからメンデルスゾーンのあのコンチェルトが彼の頭脳の産物であって違和感を持ついわれはない。エスファハニがアンコールで弾いた古典も見事でいつまでも聴いていたい嫋やかさだったが、スルンカで開陳した技術、技法の極北的理解は凄みすらあった。
エメリャニチェフはベルリンフィルに登場もして欧州楽壇の寵児らしい。オケは厳密に古楽器奏法かは知らないがアプローチはそれに近い。それでグレートを聴くのは初めてであった。12型でコントラバス4本だと聞きなれたピラミッド型のバランスより弦合奏に透明感が増し、2管編成ではあるが交響曲ではベートーベンが5番で初めて使用したトロンボーンを3本も使っており薄めの弦に対しとても目立つ。使用法も和声ばかりでなくバスラインをなぞったりする場面は極端にいうならトロンボーン協奏曲のようで、同様の印象をショパンの第2協奏曲で1本だけ投入されているバス・トロンボーンで懐いたことがある。両曲はほぼ作曲年代は同じである。
グレートが「グムンデン・ガスタイン交響曲」という説が有力になっているが、スイス時代に母と家族でそのグムンデンに一泊したことがある。ザルツ・カンマーグートの湖畔の愛らしい陶器の街であり、この曲にはその想い出とウィーン楽友協会アルヒーフでシューベルトが提出したそのスコアを眼前で見せてもらった想い出が交錯する。
エメリャニチェフの演奏がシューベルトの意図した音に近いなら新しい経験であったが、Mov1提示部の入りにかけてアッチェレランドがかかるなどロマン派由来と思われる解釈も混入し、博物館の指揮者というわけではない。溌溂とした生命感をえぐり出してみせ、同曲ではかつて覚えのない興奮、高潮で会場を沸かせたのは個性と評価する。この曲は死の兆しが見え隠れする内面世界が希薄で、それに満ちたゆえか放棄してしまった未完成交響曲とは対照的な陽性が支配する。形式的な対比としての短調主題はあるが病魔のおぞましさの陰はないのだからそれでよい。もちろん死の3年前の作曲だからなかったはずはなく、ベートーベンを意識し「大きなシンフォニーへの道を切拓かなくては」と芽生えた大義へのこだわりと気概がそれに蓋をして封じ込め、束の間の躁状態を生んだと思われる。彼はモーツァルト、ベートーベンの全国区的スター性はなくアマチュアと認識されていたから大規模管弦楽作品である大交響曲を権威の殿堂である楽友協会に提出し、受理されアルヒーフに保管されたいという願望があった。寿命が尽きることを悟っていた彼にとって謝礼は少額で演奏もされなかったことは大きな問題ではあるまい。ただ、僕が見た自筆スコアがそれなのだろうが、シューマンが発見しメンデルスゾーンに送って彼の指揮でゲヴァントハウスで初演がなされたそれは兄が管理する「シューベルト宅の机の上」にあったのだ。大規模への拡大の象徴が3本のトロンボーンであるが、この楽器は教会音楽においては死の象徴だ。
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僕が聴いた名演奏家たち(テオ・アダム)
2024 SEP 2 3:03:46 am by 東 賢太郎
オペラは劇でもある。だから配役の人物像はとりあえず役者(歌手)のイメージからできることになる。聴くだけの人としては万人がたぶん同じであり、どうやってその作品を知ったかという各人の自分史だから全部同じということはまずない。LPの時代はオペラのレコードは高価だったし、どれを買うかとなればいっぱしの投資であって、レコ芸の高崎保男さんの意見は大きかったから読者は似通った選択にはなったろう。個性が出るポイントはそこからで、じゃあ別な盤はどうだろうと浮気する好奇心にあかせてあれこれ録音を渉猟し、実演もきいたりして耳が肥え、フィガロや椿姫は誰々じゃないとだめだなんてことになってくる。
これはなにも難しいことでもお高くとまったことでもない、僕の親父が大石内蔵助は長谷川一夫、平清盛は仲代達矢だったし、僕は財前教授は田宮二郎であり、黒革の手帳の原口元子は米倉涼子、金田一耕助は古谷一行じゃないと感じ出ないよねなんて言って爺扱いされ、いまの子は紫式部はきっと吉高由里子なんだろうねってのとまったく同じである。僕は日本一仕事がきついと言われた会社にいて朝から晩まで狂ったように働いたが、幸いなことに7年間も海外の拠点長であったからレコードばかりでなく日本の金融機関の現法社長、要するに同じお立場にある経営者や現地のお客さんとの交流・情報交換、そして日本から来られるお顧客さんの接待などでいくらでもオペラハウスに行く機会を設けることができた。
その結果、僕のオペラレパートリーの人物像は今のものになった。例えばミレラ・フレーニがミミであり、ルチア・ポップが夜の女王で、エディット・マティスがツェルリーナ、ペーター・シュライヤーがフェルランド、ルチアーノ・パヴァロッティがネモリーノであり、ゲーナ・ディミトローヴァがジョコンダ、ヴァルトラウト・マイヤーがイゾルデ、アグネス・バルツァがカルメン、アンナ・トモワ=シントウが元帥夫人という風なものである。最後の5人はステージを観てのことだから贅沢なものだった。そして、決定打はスイトナー / DSKのレコードのザラストロである。どんな大歌手であれ、あの深々とどすが利いているが、それでも伸びやかで格調の高いテオ・アダムの低音と比べられる羽目になっている。
ドレスデン生まれのテオ・アダムの本拠はゼンパー・オーパーだ。ドレスデンというと、「ばらの騎士」が初演されたことよりも第二次大戦末期に英米軍の空襲で無差別爆撃で街の85%が破壊されたことが先に来てしまうのは不幸だ。市の調査結果は死者数25,000人とされるが、不思議なことに、連合軍側において死傷者であれば13万5千人に達するという説が根強く語られている。爆撃は1945年2月13日、14日であり、「東からドイツを攻めるソ連軍を空から手助けするため」という名目に対しては、殺戮を行った側である英国で「戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲だ」という批判があった。ひるがえって、ほぼ同時期3月10日の東京大空襲、半年も先である8月の原爆投下はいったい何だったのだろう。ポツダム宣言受諾への国内事情により、国家消滅、分割、永遠の占領・信託統治等の悪夢を無辜の国民の命の犠牲によって贖う結末に陥った経緯を日本人ならば頭に焼きつけておくべきであろう。
ワーグナーが楽長をつとめ、リヒャルト・シュトラウスがそのオペラの大半を初演したこの劇場も瓦礫になるまで無残に破壊され、1985年2月の同じ日に再建された。その記念公演がハンス・フォンク指揮の「ばらの騎士」で、テオ・アダムはそこでオックス男爵を歌っている。ドレスデンのことを書こうとすると、まず僕にとって1994年は音楽人生の豊穣の年だったことから始めねばならない。フランクフルトのアルテ・オーパーでオーケストラ演奏会は定期会員になって毎週何かを聴いており、フランクフルト歌劇場はもちろん近郊の都市も車でアウトバーンを飛ばせばすぐなので、マインツ、ヴィースバーデン、ダルムシュタットで普段はあんまり食指が動かないイタリア物やロシア物のオペラを小まめに聴いた。大きなものだけをかいつまむと、ベルリンでブーレーズのダフニス、カルロス・クライバーのブラームス、ポリーニのベートーベン、シュベツィンゲンでジェルメッティのロッシーニ、ヴィースバーデンでオレグ・カエタニのリング全曲、ベルリン・ドイツ歌劇場でルチア・アリベルティのベッリーニ、ベルリン国立歌劇場でバレンボイムの「ワルキューレ」とペーター・シュナイダーのマイスタージンガー、8月はバイロイト音楽祭でルニクルズのタンホイザーを聴いて帰途にアイゼナッハのバッハ・ハウスに立ち寄り、翌月9月12日に憧れだったドレスデンに行き、この歌劇場で「さまよえるオランダ人」を聴いたのだった。社長を拝命して2年目で尋常でないほど忙しかったが幸い39歳で元気であり、ピアノの練習やシンセサイザーでの作曲も含め、この年に一気に吸収したことが僕の音楽人生の土台になっている。いずれにせよどこかのサラリーマンにはなったわけだが、野村でなければこんな恵まれたことはなかったろうし、とはいえ社内ではいろいろ不遇、不運なことが重なって、恐らくそれがなければドイツに赴任することはなかったとも思っている。陳腐ではあるが人生糾える縄の如しだ。
指揮者はハンス・E・ツィンマーでオランダ人役が写真のクレンペラー盤と同じテオ・アダムその人であるという信じ難い一夜となった。クレンペラーがフィルハーモニア管と残した唯一のワーグナー全曲スタジオ録音(写真のLPレコード)である同曲をゼンパー・オーパーでシュターツカペレ・ドレスデンで生で聴ける。夢のような話だったが、夢というのは叶わないから夢である。現実になってしまうとこういうものなのかと感じる経験はたくさんある。歌劇場の雰囲気はさすがのものだが、世界中のそれと比してどうというものでもない。肝心のアコースティックはいまいちであり指揮のせいかオケも僕の知るDSKではなかった。この楽団、フランクフルトでコリン・デービスのベートーベン1番だったか、あんまり乗ってない感じの時の音はだめだ。68才だから今の我が身とほぼ同じ高齢者のテオ・アダムを拝めたということに尽きるが、声は散々きいたあのバスであった。コヴェントガーデンでパヴァロッティを後ろの方の席で聴いて、あのレコードの声なんだけど頭のてっぺんからクリーミーな彼特有の高音がピアニシモで飛んできて耳元で囁いたような、およそ平時の現象として想像もつかないような、こういうのはロストロポーヴィチのチェロぐらいだなと感嘆した、そういうものではなかった。ステージで観たロストロやパヴァロッティはいわば超常的な天才であって何が出るかわからない。アダムはそういう人でなく、かっちりした芸風を守り、その中で常に通人を唸らせる最高のパフォーマンスを出せる人で、まさしく「宮廷歌手」の称号にふさわしい。僕はそうしたことができない自堕落な人間である故、ひときわ大きな敬意を懐く。このレコード(ドレスデン初演版)、いまの家で初めてかけてみたところ、装置とアコースティックのせいもあって当時のクレンペラーとして聴いたことがないほど音が良く、42才で全盛期のアダムの声はもちろんのこと圧倒的であり、微光の彼方に徐々に薄れつつある記憶の喜びを倍加してくれることを発見した。
テオ・アダムの声が焼きついてアイコン化しているレコードはオランダ人以外に幾つかある。ベームとヤノフスキの「ニーベルングの指輪」(ヴォータン)、同「フィデリオ」(ピツァロ)、カラヤンの「マイスタージンガー」(ハンス・ザックス)、スイトナーの「コシ・ファン・トゥッテ」(ドン・アルフォンゾ)、同 「ヘンゼルとグレーテル」(父)、ケーゲルの「パルシファル」(アンフォルタス)、カルロス・クライバーの「魔弾の射手」(カスパール)、ペータ
ー・シュライヤーのモーツァルト「レクイエム」、サヴァリッシュのエリア、コンヴィチュニーの第九、マズアの第九、そしてマウエルスベルガーの「マタイ受難曲」(イエス)という綺羅星のようなレコード・CDに録音された彼の伸びやかで強靭なバス(バスバリトン)を聴き、僕は声楽というものの味わいを知った。
とりあえずつまみ食いで美味しいものをというならモーツァルトのアリア集だろう。彼の全盛期をスイトナー / ドレスデンSKのバックを得て良い音で記録したこのLPは宝物になっている。
堂々と厳格で格調高い。モーツァルトにしては遊び心に乏しいという声も聞こえようが、これぞ様式をはずさぬ千両役者、歌舞伎なら團十郎、菊五郎であろう。彼亡きあと世界に何人いるんだか、もう僕は知らない。
マズア / LGO黄金期の第九は懐かしい方も多いだろう。
2019年に92才で亡くなったのを存じ上げず5年も遅れてしまったが、ドイツオペラに導いてくれたことに感謝の気持ちしかない。
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何十年ぶりかの「新世界」との再会
2024 AUG 26 0:00:20 am by 東 賢太郎
気晴らしが必要で、ピアノ室にこもってあれこれ譜面をとりだした。すると、こんなのを買っていたのかという新世界交響曲の二手版があった。この曲、興味が失せて何十年にもなっていて、クラシック音楽は飽きがこないよと言いつつ実はくると諦めた何曲かのうちだった。
ところがだ。ざっと通してみると、これはこれでいい曲ではないかと思えてきた。完全に覚えたのは高1で、コロムビアから出ていたアンチェル盤(左)を買って夢中になった。さきほど聴きなおしたが、まったくもって素晴らしいの一言。数年前にサントリーホールで聴いたチェコ・フィルはこの味を失っていたが、こんなに木管やホルンが土臭くローカル色満点の音がしていたのだ。
とはいえ田舎風なわけではなく、アンサンブルは抜群の洗練ぶりでティンパニは雄弁。トゥッティは筋肉質であり、花を添える管楽器のピッチの良さたるや特筆ものだ。背景でそっと鳴っているだけなのに木管群の pp のハモリの美しさに耳が吸い寄せられ、金管はアメリカの楽団のようにばりばり突き出ずに ff でも全体に溶け込む。録音は年代なりの古さはあるが、見事なルドルフィヌムのホールトーンの中で残響が空間にふゎっと広がり、楽器音のタンギングの触感まで克明に拾っていて鑑賞には何ら支障なし。以上は共産時代の東欧のオーケストラ一般の特色でもあるが(ロシアは別種)、ドレスデン・シュターツカペッレ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管と並んでチェコ・フィルハーモニーはAAAクラスであり、それでも各個の際立った味が濃厚にあって個人的には甲乙つけ難い。そのハイレベルな選択の中においてでも、アンチェル盤は「新世界はこういうものだ」と断言して反論はどこからも来ないだろう。
つまり優雅と機能美が高い次元で調和したのがこの新世界の魅力なのだが、僕はどういう風の吹き回しか一回目の東京五輪を小学生の時に見てびっくりした体操のチャスラフスカ、あの金メダルをとってチェコの花といわれた女性の演技を思い出している(これが録音されたのは1961年だからその3年前だ)。花であり鋼(はがね)でもある。女性が強そうだというのはソ連も東独もそうで共産国のイメージとなったが、共産主義をやめたら普通の女性になったように思う。オーケストラも1990年を境に以前の音が消えた。顕著だったのがソヴィエトで、レニングラード・フィルはムラヴィンスキーが亡くなって名前も ST.ペテルブルグ・フィルになって、以来あんな怜悧な音は一切きけなくなった。
チェコ・フィルの常任指揮者はターリヒ、クーベリックから68年までアンチェルで、次いでノイマンが89年まで率いた。その伝統が93年にドイツ人のアルブレヒトになって途切れたのは大変に驚いた。彼は読響で聴いて良い指揮者と思ったが、それと伝統は違う。新世界で例をあげたらきりがないが、例えば、Mov2のいわゆる「家路」の「まどいせん」の処が和声を替えて3回出てくるが、僕は1度目が大好きであり、なつかしくてやさしい弦の包容力はアンチェルが最高だ。こういうものは表情づけとか思い入れの表現とかではなくシンプルに音のブレンド具合の問題で、誰がやっても音だけは鳴るのだが、京料理の板長が特に気合を入れてる風情でもないがちょっとした塩加減、昆布、鰹節の出汁の塩梅で旨味が俄然引き立つようなものであり、外国人シェフに即まかせられるようなものではなかろう。
ついでに書くが、マニアックな方には一つだけ指摘しておきたい。Mov4第1主題のティンパニは、スコアはE、H(ミとシ)だがコントラバスとチューバに引っ張られて後者がG(ソ)に聞こえ、耳がそう覚えてしまったことだ。Hを叩いていると思うが何度きいてもわからない。もしGでやったらそれはそれでいいんじゃないかと思わないでもなく、ままあるのだが一度疑問が生じてしまうと他の演奏を聴くたびにここが気になってしまう。まあこれは余計なことだ。
チェリビダッケに移る。新世界を振っていることは2017年に野村君がコメントをくれて知った(ドヴォルザーク「新世界」のテンポ)。録音嫌いで有名な指揮者で、メジャーレーベルに録音がないから彼の新世界はこのyoutubeのミュンヘン・フィルハーモニーの1991年のライブ演奏しか良い状態のものがない。全演奏を記録したサイトによると、ドヴォルザークはアンコールピースのスラブ舞曲等を除くとチェロ協奏曲と交響曲第7、9番(新世界)しか振っておらず、中でも9番は1945年から最晩年まで長期にわたってレパートリーになっている。8番がないのは不思議だが、彼は新世界にこだわっていたようだ。
7年前はそこまで認識してなかったが、このたび、まず、自分で弾いて思うところがあった。次いでフルトヴェングラーの著書「音楽を語る」を味読していろいろ知った影響があった。彼の言葉は重い。重すぎて初読の時はわかっていなかった。チェリビダッケのカーチス音楽院の講義もしかりで、10代の学生に語ったので言葉はやさしかったが20代だった僕はよくわかっておらず、フルトヴェングラーの大人向けの言葉で得心した。それは先日8月4日にこれを脱稿する契機になった(フルトヴェングラーとチェリビダッケ)。
ということで、アンチェル=「新世界はこういうもの」のアンチテーゼを見つけてしまった。ドヴォルザークはこの遅いテンポを意図しておらずAllegro con fuocoと記した。しかし、理性がいくら否定しても、作曲家も許容したかもしれないと思わされてしまうものをチェリビダッケの演奏は秘めている。このたび、心から楽しみ、2度きいた。アンチェルを覚えた人はヘッドホンで、良い音で、じっくり耳を傾けてみてほしい。フルトヴェングラーは同曲を振った記録はあるが録音せず、悲愴交響曲は録音はしたが悲劇の表現としてベートーベンに劣るとし、スラヴ音楽を高く評価しない言葉を残した。ドイツを不倶戴天の敵として殺し合いをしてきたロシア側のルサンチマンがちらりとのぞくが(プーチンがNATOの裏に見ているものもそれだ)、ルーマニア人のチェリビダッケにそれはなくむしろフルトヴェングラーが手を出さない空白地帯の両作品で強い自己主張ができた。
チェリビダッケの晩年のテンポは物議をかもしたが、これをきくと(あのブルックナーも)、ミュンヘン・フィルの本拠地ガスタイクの残響が関係あった可能性をどうしても指摘したくなる。Mov4曲頭。シ➡ド(二分休符)、シ➡ド(二分休符)。緊張をはらんだユニゾンの短2度の残響が空間を舞うのにご注目いただきたい。B(B-dur)の音列が上昇して、そのままトニックのホ短調になると予測させておいて、最後にぽんと、まったく不意を突いて想定外のE♭(Es-Dur)に停止する。誰もがあれっ?となるその一瞬の間。残響。ドヴォルザークは意図をもって次の小節の頭に四分休符を書き、「不意」のインパクトを聴衆にしかと刻印したかったと思う。ちなみに彼はMov1の第2主題、提示部ではフルートの1番に吹かせたのを再現部では2番に吹かせたり、ほんのひと節だけピッコロに持ち替えさせたり、細かい人である。
そして、チェリビダッケも細かい人である。ガスタイクの残響だと恐らく速いテンポの楽句は音がかぶる。テュッティの和声は濁る。それを回避し、かつ、ドヴォルザークの休符の意図を盛り込むとすればこのテンポになろう。そう考えれば理屈は通り、現に講義ではピアノに向い、2つの音の間隔を例にチェリビダッケは「曲に絶対のテンポはない、その場の音の響きによる」という趣旨の発言をした(フルトヴェングラーも同じことを述べている)。彼は、当然、聴き手にも細かく聞いてもらうことを想定している。残響のよく聞こえない装置や、ましてパソコンなどで聞けば「間延びしたテンポ」になる。それは聴き手のせいではなく、わかる設定になっていないのである。
チェリビダッケはこのテンポで、そうでなければ語れないことをたくさん語っている。即物的にいえば情報量が多い。そして、彼はそれを饒舌に散発的に提示はせず、意味深く感知させ、二重の意味で他の人にはない、まさしく “新世界” を見せてくれる。彼は「新奇なこと」をやろうとしたのでもボケたのでもない。描き出した情報はひとつの無駄もなく、いちいち懐かしい欧州の田園風景に包まれている心象風景を喚起することに貢献をさせ、ホールで耳を澄ませている人たちが「ああ、いいなあ」と微笑む麗しい空気を醸し出すことに専念している。これこそが、彼が講義で主張したこと、すなわち、「音楽は聴衆の心に生じたepiphenomena (随伴現象)」だということを如実に示している。演奏はそれを発生させる行為であり、演奏のテンポはそこの情報量で決まるとも言っている。音が鳴ってから聴衆の脳にそれが発生するまで間がある。だからテンポはそれに十分なものである必要があり、ホールの残響も情報の大事な一部なのである。
ドヴォルザークは米国で3年間ニューヨーク音楽院のディレクターを務め、ニューヨーク・フィルハーモニックから委嘱を受けてこれを書いた。先住民達の歌、黒人霊歌に興味を持って「両者は実質的に同じでありスコットランドの音楽と著しく類似している」「私は、この国の将来の音楽は、いわゆる黒人のメロディーに基づいている必要があると確信しています。これらは、米国で発展する真面目で独創的な作曲の学校の基礎となることができます。これらの美しく多様なテーマは、土壌の産物です。それらは米国の民謡であり、貴国の作曲家はそれらに目を向けなければなりません」と述べた。これも興味深い。彼はブラームスを師、先人と仰いでおり、ここにもドイツに対するスラヴのルサンチマンがあったかもしれないが、新興国のアメリカからは師と仰がれる関係だった。ハンガリー舞曲集を範としてスラヴ舞曲集を書いた彼は同じフレームワークにアメリカ音楽を積極的に取り入れることで師にとっての空白地帯で強い自己主張ができた点で先述の両指揮者の関係と相似したものがないだろうか(実際にブラームスはチェロ協奏曲には素直に羨望を吐露している)。
類似点が五音音階にあることは通説だが、「アメリカで聞き知った旋律を引用した」とする説は本人が明確に否定した。しかし、このことは少し考えればわかるのだ。作曲は高度に知的な作業である。そうでない人もいるがその作品は残らないという形でちゃんと歴史が審判する。ブラームス、コダーイ、バルトークの場合は民謡を意図的に素材とする作業と認識されるがドヴォルザークの場合はそれを意図した渡米ではないから、真実はどうあれアドホック(ad hoc、行き当たりの)に見られる。彼は既に勲章も名誉学位も得た大家であったが高給を提示されて音楽的に未開の国に来てしまったことに認知的不協和があったと思われ、その地で重要な最晩年の3年も費やせば自分史の締めくくりのシグナチャーピースになる交響曲、協奏曲を書くことは必要であり、それを残そうと身を削っていたはずだ。来てしまったゆえに妻の姉(自身の最愛だった人)の最期を見送れなかった罪の意識がチェロ協奏曲のコーダに彼女の好きだった歌曲の引用をわざわざ書き加えるという形になっている。
つまり、知的な人の「引用」とはそういうものだ。それが現世の特別な人への秘められた暗号だったり、後世へのダイイングメッセージのような意図がいずれ分かるという特殊な場合でない限り、常に試験で満点を狙っている人にカンニングを指摘するようなものだ。だから、その説というものは、はいそうですと本人が認めるはずもないことぐらいもわからない、要するに非常に知的でない人たちが発したものであるか、ドヴォルザークの招聘元だったサーバー夫人なる人物が夢見ていた、アメリカにおける国民楽派的なスタイルの音楽の確立が成功したと歴史に刻みたい人たちの言説かと推察せざるを得ない。ドヴォルザークにとっても、プラハ音楽院の給料の25倍ももらえる仕事なのだから、何らかの貢献の痕跡は残す必要があっただろう。
そういう仮定の下で、彼がアメリカの素材とスコットランドの音楽に「実質的に同じ」要素を見つけ、ハプスブルグの支配下でスラヴ舞曲集を書いた彼の民族意識はその素材に何分かの愛情をこめることを可能とし、教える立場にあった自らが国民学派的米国音楽の範にすべしと意図したのが新世界の作曲動機のひとつとするのが私見だ。音階は和音をつくり、根源的な効果、即ち、なぜ長調が明るく短調が暗いのかという神様しか理由を知らない効果と同等の物を含む。日本でスコットランド民謡が「蛍の光」になったからといって両民族に交流や類似点が多かったわけではないが、五音音階を「いいなあ」と思う感性はたまたま両者にあった。ドヴォルザークとアメリカのケースはそれであり、そこに郷愁も加わった。日本民謡を引用して交響曲を書くスコットランドの作曲家がいても構わないが、ドヴォルザークはそういう人ではなかったということだ。
米国で書いた弦楽四重奏曲第12番にもそれはあり、僕は五音音階丸出しの主題が非常に苦手で、実はこの曲を終わりまで聞いたことが一度もない。「アメリカ」というニックネームで著名だしコンサートにもよくかかるが、だめなものはだめで、3小節目のソーラドラからしていきなりいけない。ところが、チェロ協奏曲もMov1のあの朗々と歌う第2主題だって裸だとソーミーレドラドーソーの土俗的な五音音階丸出しなのに、ぞっこんに惚れているという大きな矛盾があるのだ。なぜかというと、単純だがここはこれ以外は絶対にありえないと断言したくなる極上のハーモニーがついていて、これが大作曲家は歴史に数多あれど、こればっかりは後にも先にもドヴォルザークにしか聞いたことのない真に天才的なものであって、始まると「高貴であるのに人懐っこい」という、もうどうしようもない魅力に圧倒されてしまうのだ。「私が屑籠に捨てた楽譜から交響曲が書ける」とブラームスが彼一流のシニシズムで褒めたドヴォルザークの才能ここにありという好例である。
では新世界はどうか。両端のソナタ楽章の外郭はホルン、トランペットが勇壮に吹きティンパニがリズムを絞めるという交響曲らしいもので、第2楽章と真ん中の緩やかな部分に五音音階が出てくる。僕は両端は好きだが真ん中に弦楽四重奏曲第12番と同様のリアクションがあり、だんだん縁遠くなってしまっていた。それを目覚めさせてくれたのがチェリビダッケだ。彼は五音音階のもっている暖かさ、人懐っこさは人類一般のものと抽象化し、ドヴォルザークはそこに民族意識だけではなく大西洋の向こうからの望郷の念もこめて作曲しており、もとより故郷や父母を思慕する気持ちというものは文化、人種を問わず、世界中の人の心を打つものと見立て、あえてチェコ色を排し、どこの国の人も「いいなあ」と思うバージョンをやってのけた。新世界は作曲された瞬間からインターナショナルな音楽だったが、ボヘミア情緒が濃厚である交響曲第8番はそれができなかったのではないかと考える。
それでは最後に、チェリビダッケの新世界の楽章を追ってみよう。Mov1第2主題の入りの涙が出るほどのやさしさ。コーダのティンパニ強奏は父性的な峻厳さと宇宙につながる立体感で背筋が伸び、この演奏がなよなよ美しいだけのものと一線を画すことを予感させる。Mov2冒頭の金管合奏。前稿を思い出していただきたい、トロンボーンの学生3人を立たせて歌わせた、そういう人でないとこんな音は出ない。「まどいせん」はアンチェルに匹敵するのを初めて見つけた。中間部のオーボエ。この遅さだと普通はだれるが弦合奏に移るとにわかに濃厚になるのは驚く。飽きて退屈だったここのスコアにこんな秘密の音楽が隠れていたのか。フルートの鳥。緻密なリズム、見事な対位法の綾。上品の極みのトランペット。カルテット。なんと素晴らしい弦!なぜ「止まる」のか僕はわかってなかった。これは息継ぎの間なのだ。人と自然。ゆっくり流れる極上の時間である。
Mov3は粗野なだけと思っていたが、普通は弦とティンパニしか聞こえない部分が木管の百花繚乱である。僕にとって半ば故郷であるドイツ、スイスの5月を思い出す。そして、きりっと彫琢されているのにずしっと腰が重いリズムのインパクトは並の指揮者とは全くの別物。その威力が全開になるのがMov4 だ。ホルンとトランペットの吹くこの主題、体制に抵抗する軍楽に聞こえないこともないが、何度聞いても音楽として格好良い。それにかまけてスポーティに駆け抜ける演奏が多い。チェリビダッケはそうしない。これだけ鳴らしてこの残響で音が混濁しない。結尾は通常はすいすい流れる水平面の音楽にティンパニが渾身の力で最後の審判の如き垂直の楔を打ち込む。勿論テンポはさらに落ちる。そして終局のホルンソロではほぼ止まりそうなところまで落ちる。そこに弦がユニゾンで第1主題を強く、レガートで再現し、くっきりと起承転結をつけて曲を閉じるのである。何十年ぶりかの新世界との再会だった。
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