幸福とは分泌されたドーパミンの総量である
2025 JUL 4 8:08:27 am by 東 賢太郎
脳内に出てくる快感ホルモン、やる気物質である「ドーパミン」は年齢と共に減ってしまうが、新しい刺激や報酬があると増える。しかも報酬があると記憶力も強化されると説くこのビデオは勉強になった。
株式投資には新しい刺激、報酬の両方がある。ある株に投資し、売却する行為は科学と同じく仮説と検証による。結果は明白に出るし、正解なら脳内ではドーパミンが大量に放出されて快感とやる気が倍増し、記憶力まで良くなって、おまけとしてお金も得られる。投資先の企業が読みどおり上場したが、こうしてお客様の運用益があがることはアドバイザー冥利に尽きる。
ソナー・アドバイザーズに営業マンはいない。投資案件も探して手に入れたことはない。嘘のような話だがみな紹介だ。僕に人気があるからでも、貸しがある人がたくさんいるわけでもない。人脈という言葉は何の中身もないが、いま周囲にいてくれる人たちでサラリーマン時代の “人脈” だった人はほとんどいない。ではなぜかというと、僕は「人生の幸福の定義は分泌されたドーパミンの総量である」とまじめに信じている。それに尽きる。幸福というふわふわしたものを定量的に捉えるにはそれしかなく、幼時にたくさん失敗して「分泌=リカバリー」という効能の味をしめているから、おそらく、僕は普通よりもそれが出やすい人間になってる。一般的な表現なら、美点凝視で常に前向きで、明るい未来の到来の熱烈な信者である。宗教っぽいと思われても仕方ないが、人は理屈でなく本能的に、ドーパミンが大量に出ている人間に寄っていくのだ。
ブログを始めたのは、クラシック音楽の評論で、自分が読みたい類いの文筆が世の中にないと思ったからだ。だからその種のものを自分で書く以外に飢餓感を埋める手がなかった。なるべく簡明にしようとは試みたが、面白くしようと思ったことはない。その流儀が音楽以外のエリアにも広がって千百三十万回読まれているが、蓋し、これもドーパミンの引き寄せの法則と解釈する。例えばメシアンの『我らが主イエス・キリストの変容』を聴いて僕より分泌量の多い人は世界広しといえどあまりいないだろう。従って、同曲に関してのそんな流儀の文章は恐らく世界のどこにもなく、好きな(ドーパミンが出た)曲しか僕は書かないから、好きな人だけが僕の高揚感に共鳴してくれる。このことは、プロコフィエフ研究の権威であるプリンストン大学のサイモン・モリソン教授から、ご自身の論文に僕のブログを引用したいので許可が欲しいとご依頼があったことで確信した。
先日、大手出版社から本を出しませんかとご提案をいただいた。2度目であり、つまり最初の会社さんはお断りした(10年ぐらい前でこちらが未熟だった)。ビジネスや投資のノウハウ本の類いは、そもそもそういうのを読んだ経験もないし効能があるとも思えないので書きようがない。読んだ人が幸福になれる本なら大いに執筆したいが、困ったことにそれは2,668本のブログにもう書いてしまっている。どの一稿にそれがあるわけでもないし、どこにどう表現したかは覚えてもいないが、13年前からのなんだかんだがそこにはあり、レコードみたいに順次再生してもらえば僕のドーパミンはきっと伝わる。本稿は2,669本目だが、こうやって進化している。この方式で、我が尊敬するピエール・ブーレーズ氏は「プリ・スロン・プリ」を作曲し、Work in progress(漸次作曲型作品)と呼んだ。彼の逝去と共に漸次は終結したが、それは中断でなく、天が決めたコーダなのだ。僕のも同じだ。
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人生の目的は音楽 - H J リムの場合
2025 JUN 28 21:21:20 pm by 東 賢太郎
僕が運用アドバイスの仕事を好きなのは、うまくいけば文句を言う人は世界にひとりもいないからだ。つまり結果を出すことだけに全身全霊を集中でき、権謀術数を弄したり他人の評価を気にしたりお追従を言ったりというくだらないことは一切いらない。好きなことに没頭してるとボケない気がする。いまでも周囲に記憶力いいといわれる。もちろんトシなりに短期記憶は落ちてるが、夕食を食べたのを忘れてて「あなた大丈夫?」とまじめに心配されるのはそれではない。子供のころからそうなのだ。
円周率を覚えたりする記憶術みたいな技があるらしい。そういうのは知らないが自分はピクチャー型っぽい。パッと見て画面をバンと覚えてる感じだ。単語や公式はじっと見て目をつぶって瞼に見えればOK。音楽もそれだ。そのかわり画像も音も興味ないものは瞬時にデリートしていそうだ。父は趣味で97才まで英語を勉強していて記憶はまずまずだったが継いでいる部分はあるかもしれない。
それにしてもピアニストの記憶力は並尋常でないといつも思う。平均律やハンマークラヴィールを暗譜で弾くとなると複雑な多声のフーガを10本の指で弾き分ける運動の記憶だから受験勉強のようなものとは違う。僕は野球のコントロールも同じ感じがする。変化球をコーナーに投げ分ける指先の記憶に近い。要は、体で覚えてるという奴であり、意識なく自然に体が動くまで練習するとバッターをごまかしてうち取れるようになる。
韓国の女性ピア二スト、HJ リムのyoutubeが面白かった。この人はパリ音楽院卒でものすごくピアノがうまいが、良い意味で無手勝流であって、ショパンコンクールで優勝するようなことは目ざしてない稀有なクラシックアーティストだ。音楽家でない普通の家の子だがピアノが好きで12才で単身パリの音楽学校に入学し、16才でパリ音楽院に最年少入学し、4年の課程を3年で終えて最年少で首席卒業という実績は異論をはさむ余地もない異才である。
ベートーベンのソナタ全曲録音がある。親にパリでがんばってるよとアップしたyoutubeがEMIの目に留まり、栄誉ある全集録音に至った。なぜ栄誉かというとアルトゥール・シュナーベルが世界初で成し遂げて以来、ベートーベンのソナタ全曲録音を残したピアニストはたぶん50人もいない。ちなみに過去300人ほど遭難で亡くなっているエベレスト登頂を成し遂げた人は1万人ぐらいだ。
それはこのリムスキー・コルサコフ「熊蜂の飛行」だったらしい。
ベートーベンのソナタ全曲を世界メジャーレーベルであるEMIに29日で録音し終えただけでも超人的(つまり全部覚えている証明)だが、さらにバッハ平均律、ショパン、プロコフィエフ、ラヴェル、ラフマニノフのピアノ曲全曲、メジャーなピアノ協奏曲(ブラームス2番含む)がいつでも弾けるという記憶力は我々凡人に想像のつく次元の話ではない。平均35時間かかるエベレスト登頂を最速記録の8時間10分で成し遂げたようなもので、ビデオで本人が語っているが、曲を自分のものにするには「夜中の3時に不意に叩き起こされて弾けと言われてすぐ弾けるようになってないとだめ」なのだそうだ。
それはもちろん訓練の賜物だ。なにやら昭和の漫画「巨人の星」やゴルフのタイガー・ウッズを思い出すが、数字だけを競うアスリートと決定的に異なるのは、ピアノは速弾き競争でなくフィギュアスケートや体操のいわゆる芸術点(アーティスティック・インプレッション)で評価される点だ。それが難しい。そこだけとればアスリート的である世界レベルのテクニックなくしてコンペには参加もできない。スケートは超絶難度の技を決めれば勝てるが、ピアノの場合、それだけだと馬鹿テクといわれ芸術点で評価されないことがある(デビュー当時のポリーニがそう)。
素人の空想になるが、「夜中の3時に・・」の喩えは、テクニックが完全に自分の体に同化した状態、つまり「意識なく自然に体が動くまで練習するとバッターをごまかしてうち取れるようになる」感じと思う。とすると、それは記憶力なのだ。球は速いがコントロールが悪い投手は短命が多い。球速はアスリート能力で30才で落ちる。しかし記憶力であるコントロールは40才でも残る。リムのベートーベン録音デビューは25才で、アスリート能力優位の速球勝負だった観はあるものの40代のいまからは芸術点を高めればいい。並はずれた記憶蓄積はそれのユニークな土台になる。
しかし謎は残る。なぜにこの人は「夜中の3時に・・」に至る特訓に耐えられたのだろう?巨人の星の主人公も、タイガー・ウッズも、さらにはモーツァルトもベートーベンも、強烈なスパルタ親父に鍛えまくられた。ところがリムの両親は音楽家でなく、彼女はひとりで12才でパリへ旅立ってしまったのだ。
ヒントはあった。これだ。
何とラフマニノフの2番を自身編曲の「ひとりピアノ」でやっちゃう!それにパリっ子が大熱狂である。オーケストラの伴奏で満足感を得られるようにできている曲をピアノ1台でどこまで再現できるかはチャレンジングだが、オケパートまで弾く苦労を考えるとビジネスマンの僕としてはコスパがあまり良くないと思う。弾ける人は普通にオケとやればいいのであり、聴き手も2番を聴きたいなら欲求不満になるこれを家であえて聞こうとはしないだろう。という事はEMIは商売にならないから録音しない。つまり宣伝にも名誉にも生活にもあんまりならないのだ。じゃあなんで?それもインタビューにある。彼女はそういうことのために音楽をしてない。とにかく音楽が好き、人生の目的は音楽というのが唯一のモチベーションのようだ。つまり、この人はたぶん、先生にやれと強制されて、苦悶し涙を流して「夜中の3時に・・」のレベルに到達したのではない。やれと言ったのは自分の後ろにいるもう一人の自分なのだ。
となると、この人はひょっとして自分と似た人間じゃないかと思うのは、はるかに低次元ながら実は僕もそうなったことがあるからだ。あるどころか、僕がピアノに触れるようになったのはそれが契機だ。高校のころ見よう見まねで妹のハノンやツェルニーをひっぱりだして独学し、初めてなんとなく弾けるようになったのがこの「2番ひとりピアノ自分版」の最初の3分間ぐらいだ。動機は自分の手でやりたくて仕方ないから。リムの音符数の半分もないけれど、とにかく初めて弾いた曲がラフ2のサワリというドンキホーテみたいな人間は世界中にそういないだろう。だから全曲やってしまったリムの熱量は完璧にシェアできるし、なにより、誰が何といおうが好きを貫く彼女の意気と度胸と集中力には人間精神の崇高さと無限の可能性をみて心の底から元気をもらえる。伊達や酔狂ではない、彼女はラフマニノフのコンチェルト4曲ともひとりピアノ版を作り韓国で演奏会で弾いている。尊敬しかない。
彼女のベートーベンの評価は二分した。アレグロを快速で飛ばし、大きな緩急とダイナミズムを端から端まで使う解釈には流儀を知らない自己流だ、こんなのはベートーベンではないと否定的な意見が多かった。しかし、彼女は宣伝、名誉、生活のために弾いてない。流儀におもねって自分が後退したら意味ないとはっきり主張している。ベートーベンのソナタでそう述べるのはクラシックそのもののレゾンデトルともいえる “伝統” への挑戦だ。しかし、彼女はこう言い放っている。「楽譜を研究し、作曲家と時代背景を研究していくと、やがて自分がその時代、その音楽に入りこんでしまう時がやって来ます。すると、ベートーベン本人が現われ、『キミ、そこは気に入らないね』なんて言ったりします。でも「先生、私はそう感じるんです、あなたはそう書いていますし、そう弾かないと自分が自分でなくなるんです』と言います」。彼女はそのとき彼に自分の父親と同じ匂いを感じたらしい。こういう人に評論家がどんな御託を並べても無力だ。
たしかに僕も彼女の演奏と伝統のコンフリクトが気になる曲はある。自己流で突っ走ってしまうとどうしても表情が平板になり、緩徐楽章はもの足りなくなる。伝統にこだわる深い意味はここにあるのであって、いかなる演奏家よりその曲の魅力を知ってるのは作曲家だ。その演奏法が伝統となるのだから天才演奏家といえどもリスペクトするに越したことはない。また、これは技量の問題であるはずはないので重視をしてないということになろうが、リムは打鍵の均一さという美感にはやや欠け、これだとモーツァルトは難しいなとも思う。しかし、だからといって没にしていい人ではない。それら欠点は録音時に弱冠25才のピアニストの若さであって個性でもある。音楽はナショナリズムとは無縁だが、日本人にリムのような人はいるのだろうか?教科書的な解釈に服従した範囲で正確に徹し五十歩百歩の競争をするのと、人間としての作曲家に立ち返ってそこに自分という人間をぶつけ、オンリーワンの解釈を創造していくこととどっちが価値があるだろう?人生の目的は音楽だという人であっても、音楽する目的は宣伝、名誉、生活になっていないだろうか。
リムのリサイタル。舞台にぽつんとピアノ1台。その禅寺のように寂然とした光景がラフマニノフのコンチェルトを演じる場に見える人はいない。それをお構いなしにやる。やりたい衝動があるからだ。そしてその衝動こそを、人間らしい尊い姿として愛するパリの人達が集まり、楽しみ、感動し、心をこめて称賛する。音楽というものが神々しく輝く瞬間だ。
本稿に引用したインタビューはこれだ。
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モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」
2025 JUN 17 10:10:26 am by 東 賢太郎
今回ひっぱり出したレコードはモンテヴェルディだ。とても懐かしい。これについてはまず愛読していたレコード芸術誌について述べる必要がある。同紙の柱は評論家による新譜月評であり、順番は、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、器楽曲、オペラ、声楽曲、音楽史、現代曲だった。ちなみに英国のクラシック専門誌グラモフォンの月評は声楽から始まっていたように記憶するが、2000年以降は管弦楽、室内楽、器楽、声楽、オペラの順番で、2番目に映画音楽が入ったりもしてあまり後先にこだわっていないように思える。英国は世情に柔軟であり日本は規範に硬直的なのだ。だからオンラインの波でCDが売れなくなって新譜が減るとレコ芸は廃刊になり、グラモフォンは生き残っている。日本の代表的企業であるシャープや東芝が2000年あたりからITの波に乗り損ね、台湾に買われたりファンド傘下で上場廃止になっているのを思い浮かべる。
長年購読するうちレコ芸の順番が英、数、国・・のように刷り込まれ、「交響曲が一流、オペラは二流」と長らく思っていた。レコ芸はドイツの学者によるイタリア無視の音楽史を信奉していたことになるが、君が代の和声付けをドイツ人がした国だから仕方なかろう。それはいいが、末端に位置する音楽史、現代曲とはなんだ?現代曲にも交響曲、管弦楽曲はあって定義の混交があるがなぜか?それもない音楽史とはいったい何物だ?となり、そもそも楽曲の形態で分類しているのになぜ歴史という異質が出てくるんだ?という不可解さは消えなかった。その結果、音楽史なるもの(境界がアバウトな補集合としての「バロック以前」と思われる)は日本史でいうなら縄文時代みたいなもんだろうというとんでもない結論に至ってしまう(つまり試験に出ないから無視)。
恐るべき愚考であった。西洋音楽は、最古の楽譜史料(グレゴリオ聖歌)として音がわかっているものでも9世紀後半までさかのぼる。それ以前の聖歌は古代から口頭で伝承されており(新約聖書には、最後の晩餐で賛美歌を歌ったことが言及されている)、そこから中世、ルネサンス期にかけて教会の残響の中で旋法と和声が産まれ今に至る。現代の西洋音楽はまぎれもないその子孫である。つまり、僕の「縄文時代」の思い込みは愚考であったものの、1万6千年あった縄文時代に比べてたった150年なのが近代日本だという図式はたしかに似たものなのである。教会の残響に対する我が嗜好だけは捨てたものでもなかったが、仏教の読経を百人の僧侶がサン・マルコ大聖堂でやっても壮大な音響ページェントになろうから東西の優劣という話ではない。日本は木、西洋は石が建造物のスタンダードになった、その違いだ。西洋は家も石だから残響がある(ドイツで最初に住んだ家の居間に置いたステレオの音響が衝撃的で、それが今の家のリスニングルームの発想に至った)。障子と襖の日本家屋は残響ゼロだ。両方に住んだが、子細な音まで明瞭に聞こえる家で育つ日本人の耳は虫の音まで聞き分けるほど繊細になったことは古典文学に記された。音楽におけるこの文化的差異は重要だろう。
従って、西洋音楽という文化を演じるにせよ鑑賞するにせよ、ルーツが教会にある事実は知識だけでなく耳で知っておくことは役にたつ。西洋人は千年以上も前から、それが「良い音」と感じているからである。教会の音は小さくても遠くまで響く。コンサートホールでもそれが良い音だ。実演に接して驚いた演奏家が二人だけいる。ルチアーノ・パバロッティとムスティスラフ・ロストロポーヴィチだ。どちらも座席は後ろのほうだったが小さな音がまるで近くにいるように軽々と響き渡ったのが記憶に焼きついている。良い音は誰もが求める。だからチケットはいつでも完売になり値も高い。ワインテースティングでは「まず一番高いのを飲んで覚えろ」といわれたが同じことで、「有名だから」で群がる成金趣味とは異なる。音楽を分かっていれば、実演のパバロッティのテノール、ロストロのチェロの音が良くないという人は、いくら好き好きを認めてもひとりもいないだろう。というより、そういうものを「良い音」と呼ぶのであって、そうでないといういかなる個人的感想も劣後する。でも、教会の音は誰が発しようと小さかろうと遠くまで響くのだ。
「音楽史なるもの」の誤謬が解けるにはヴェネツィア訪問の実体験を要したことはここに書いた。ずっと日本にいたら知らないままだったかもしれない。百聞は一見にしかず。言うは易しいが僕はそれから42年たってこれを書いている。
サン・マルコ大聖堂で気づいたというなら格好いいのだがそうではない。ガブリエリのレコードやその後の数々の教会体験で大空間のサウンドの魔力を覚えてからのことだ。広く宗教音楽という意味で決定打だったのは2006年クリスマスにウィーンのシュテファン大聖堂で偶然に行事としてやっていたブルックナーのミサ曲第2番ホ短調を耳にしたことだ。51才であった。恥ずかしながらそんなに長くクラシックを聴いていながら、僕は巨匠モンテヴェルディすら知らなかった。いや、というよりも、まさしく「音楽史」を知らなかったのだ。
写真のLP、色に年季がにじむが、これを買ったのは30才を過ぎたロンドンである。バーゲンで3ポンドだったからだ。大いに得した気分だったが実はそういう買い方は良くない。針を通してもさっぱりだったのは未熟者で仕方ないとしても、以来、やっぱり3ポンドなりの扱いになってお蔵入りした。ミシェル・コルボ指揮ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル、1966年録音。令名は日本でも轟いていたエラートの看板アーティストであったが、ジャンルがジャンルゆえ耳にしておらず、これ以後も買っていないから空前絶後の一枚になってしまったわけだ。
これをひっぱり出そうという気になったのは理由がある。ヴェネツィアで無知を悟ってから延々と、暇をみてはルネサンス以降の世界史の勉強をし直してきたことだ。音楽のためではない。12年もヨーロッパに住んでいれば自然に湧きおこる好奇心だ。日記を書くのもそうだがそういう何気ない努力はしてみるもので、いまになって有難味がじんわりと出てきている。音楽史はそこから孤立した特殊ジャンルではない。政治史であるいわゆる世界史の一断面であり、百年後の人類は、放送自粛にまでなったジョン・レノンの「イマジン」をベトナム戦争、湾岸戦争を知らなければ味わい尽くすことは難しいだろう。そういう側面を述べてしまうなら、クラシックは難しい、インテリ趣味だというのはあながち間違いではない。なぜなら、世界史に通暁しておればよりよく味わえるからで、高校で誰でも習う世界史をそれなりに知っているとインテリ呼ばわりされるならクラシックがお高くとまってるというより日本の高校教育が間違っていることになろう。それは単に、歴史を知らずに京都やローマへ観光にでかけてビーチがない、ゴルフ場がないと嘆くようなもので、ならばハワイにでもという話だ。
歴史を知れば楽譜を知らなくても構わないように、キリスト教徒でなくても宗教音楽は味わえる。「聖母マリアの夕べの祈り」(Vespro della Beata Vergine)はカトリック教会の典礼に使用されてきた聖母マリアに関する複数の聖書のテキストから構成されている。現在でも書かれた動機は分かっておらず、音楽学者たちの議論が続いているそうだが、その辺の事情には僕は疎い。モンテヴェルディの生没年(1567洗礼 – 1643)はガリレオ・ガリレイ、独眼竜・伊達政宗とほぼ重なる。この音楽が出版された1610年頃にはまだ世界は太陽が地球を回っていると信じており、日本では江戸幕府が開かれ家康は最晩年だ。興味深いのはその3年後の1613年に政宗が支倉常長ら「慶長遣欧使節」を送り、一行は翌年10月にセビリアに入り、12月から翌年8月までマドリッドに滞在してスペイン国王フェリペ3世に謁見。10月にローマに至って教皇に謁見し、1616年1月まで滞在して帰国したことだ。日本人初の海外渡航、1年3か月の欧州滞在。教会の式典でかような驚くべき音響世界を体験し、打ち震える機会もあったに相違ない。そこから400年、文明は劇的に変わったが、音楽はそうは変わってない。
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フォーレ「夢のあとに」作品 7-1
2025 JUN 15 8:08:40 am by 東 賢太郎
先月書いた「詩人の恋」は僕にとっては平静に聞けない音楽だが、それはシューマンが封じ込めたアウラが心の奥底に深く忍びこんで共振してくるからだ。シューマンの音楽のなにもかもがそうなのではなく「詩人の恋」だけの持っている特別な味だ。それをくみ取って、余計なことをせずに直截に演じてくれる音楽家を探す。クラシック音楽という無尽蔵の宝を渉猟する楽しみはそれに尽きる。
その稿にヴンダーリヒとシュライヤーの歌唱をあげたが、共振という意味で最もインパクトを感じるものをあげろというならシャルル・パンゼラとアルフレッド・コルトーになる。これをあげなかったのは、録音が古いからでもコルトーのピアノが技術的に弱いからでもない。フランス語圏の(パリ音楽院の)パンゼラのディクションがどうかと思ったからだ(ドイツ人に聞かないとわからないが)。しかし、仮ににそうだとしても演奏の魅力をいささかも減じない。39才の彼も伴奏のコルトーもハイネの詩心を深く読んでいると感じるからである。詩人の憧れ、夢、恐れ、怒り、動揺、焦燥、虚勢、諦めを音楽的技法で “解釈” し、その完璧さや知性の透徹を愛でる、フィッシャー・ディースカウがドイツ・リートで成し遂げた歌唱の到達点へのスコアでは計れない魅力がそこにはある。人肌の感情、情動に入りこんで音に堂々と、切々と発露する、こういうことはロマン派の音楽といえども、昨今の演奏家はどういうわけか、古いと思うのか禁欲的になったのか、あまりみられなくなっているようだ。しかし、この曲に関する限り、シューマンはそれを求めている。その起伏の波が心を揺さぶらないはずがない。コルトーが弱いと書いたが、1935年当時、楽器演奏に完全主義を称揚する哲学もまだない。
恋をした男が夢のなかに奇麗な彼女を見て心が動く。ところがある日、彼女は心も姿も変容しており、恋は夢と共に消えてゆく。このモチーフはベルリオーズが「幻想交響曲」で用い、シューマンがこの曲で用い、メーテルリンクが「ペレアスとメリザンド」で用いて4人の作曲家が音楽をつけ、近代ではベルクが「ヴォツェック」で用いた。4人のひとりであったガブリエル・フォーレは「夢のあとに(Après un rêve)」を書いたが、彼は奇麗な女性が大好きな男だった。この詩もそれをモチーフとしている。
君の姿が魅了するまどろみの中
ぼくは夢見てた 幸せを、燃え上がる幻影を
君の瞳は優しく、君の声は澄んで響き
君は光り輝いてた、朝焼けに照らされる空のように
君はぼくを呼び、そしてぼくはこの地上を離れて
君と一緒に飛び立ったのだ 光に向かって
空はぼくたちのために雲の扉を開き
未知なる栄光が、神々しい閃光がほのかに見えた
ああ!ああ!悲しい夢からの目覚め
ぼくはお前を呼ぶ、おお夜よ、ぼくに返してくれ お前の偽りの幻を
戻れ、戻ってくれ、輝きよ
戻れ、おお 神秘の夜よ!
「詩人の恋」の稿に書いた我が夢を思いおこさせる。個人的にそんな経験はないが、夢が去ってしまった後の喪失感は肌身でわかる。去ってしまったすべてのものへの深い深い哀惜の念である。
20代半ばだったと推定されるフォーレがつけた音楽は神々しいばかりの見事さであり、様々な調性でチェロをはじめ様々な楽器で奏でられ女性も歌う。2010年にパリに行った折、オペラ座で来歴の展示をしていた故レジーヌ・クレスパンの歌唱は記憶に残る。
こちらはチェロ。ミッシャ・マイスキーだ。とろけるように美しい。
つぎに、「詩人の恋」をきいたシャルル・パンゼラである。彼はパリ音楽院在学中に当時の院長であったフォーレと出会い、声楽、室内楽を指導された。そこで学生ピアニストのマグドレーヌ・バイヨに会い、彼女は生涯を通じて彼の妻であり伴奏者となった。この録音はパンゼラ、バイヨのものだ。
ほとんどの方に速く聞こえるのではないか。フォーレの指定はAndantinoであるからメトロノームで80ぐらいであり、パンゼラは直伝の解釈だから当然であるが、ほぼ80である。このテンポでこそ、「詩人の恋」とまったく同様のことだが、憧れ、夢、恐れ、怒り、動揺、焦燥、虚勢、諦めを音楽にこめることができると思う。フォーレは歌曲を書いたのであり、だからAndantinoと記したのであって、詩との関連を無視してはいけないのである。
現代の演奏はほぼすべて遅すぎる。多くはただ美しいだけに淫しており、音楽の持つ人間の心に根差した深い内実や重たい心の軋みのようなものをきれいさっぱり洗い流しているように思う。歌曲を楽器でやれば詩とは遊離していき、こういうことになりがちで、大衆はそれに耳が慣れてどんどん淫した快楽を欲するようになる。そういうものはその名の通りポップスであってクラシック音楽ではない。前稿「ペレアスとメリザンド」であげたバレンボイムとBPOの演奏は抗い難い弦の美しさであるが、それは恐らくBPOの高度な技術と鍛錬が生んでいるもので、ライブで聞かないと心が欲して必然として生まれものかどうかは判断できない。音楽界が美音主義に向かうのは悪いことではないが、それが目的となれば演奏会はどんどん空疎となり、名技と音響の展覧会になる。スーパーに並ぶ、本来の香りも味もないが、形と色だけは一律に整ってきれいな野菜みたいにならないだろうか。
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フォーレ「ペレアスとメリザンド」作品80
2025 JUN 14 2:02:35 am by 東 賢太郎
誰かさんの住居からの眺望というなら、圧巻の最右翼であるのは「ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの邸宅」から見おろしたフォロ・ロマーノであろう。絶景ではない、紀元前8世紀 〜 後5世紀のローマである。初めてそこに立って眼下を一望したその刹那、電気に撃たれたようにここに住みたいと思った。28才の夏だった。以来、懸命に働いて会社を移籍したりなんだかんだあったが、一貫したモチベーションはそれだったように思う。そんな場所を東京に見つけたのが52才。1秒で買うと決めた。3階の夜景はローマだ。しばし浸ってから地下室へおり、何かレコードをきこうと思う。レコード/CD収納棚の1万枚から目についたものを好き嫌いなくひっぱりだす。これが日常だ。日常だから平常であるが、人生はその積み重ねである。
先日はフランス音楽が無性に欲しかった。これと思ったのがシャルル・ミュンシュがフィラデルフィア管(PHO)を振った唯一の録音、フォーレのペレアスとメリザンドだ。シシリエンヌもいいが僕は第1曲プレリュードを熱愛する。この家に越してから未聴のレコードがたくさんあるが、そのひとつだった。陶然とするほど素晴らしい。世評は高いが昔の装置では価値が知れなかった。第2曲のVnの伴奏をきくだけでもPHOが一流どころの中でも「超」がつく理由がわかる。当録音は1963年。オーマンディ全盛時代であり派手さだけが喧伝されたが、アメリカにフィラデルフィアサウンドなんて言葉はない。あれはコカ・コーラの日本用キャッチコピー「スカッとさわやか」のようなもので、日本家屋の音響事情に合わせたマーケティング用語だった。何事もそうであるように基礎技術が抜群でなくして一流にはなり得ない。このアルバム、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」、ベルリオーズの「ファウストの劫罰より」とフレンチものをミュンシュという名シェフが調理した逸品だ。ただしデジタルで再生してもいまひとつ。LPの音は替え難い。
この曲は1898年6月21日にロンドンで行われたメーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」の英語公演の付随音楽だ。多忙だったフォーレはオーケストレーションを弟子のシャルル・ケクランに委ねたが、そこから編んだ「前奏曲」「糸を紡ぐ女」「メリザンドの死」の組曲版は自身がオーケストレーションに手を入れ二管編成とした。
フォーレの音楽は驚くべき和声の迷宮だ。とにかく展開が予想できぬ、ちょっと苦手なタイプの女性と話してる感じが近い。しかしその崇高で玄妙なさまはお見それしましたとついていくしかなく、不思議な充足感を約束してくれる。第一曲、第二楽節からそれは全開である。彼はリストの導きでワーグナーのリングをきいて傾倒したが、識者の間では影響はあまり受けていないとされている。そうだろうか?終結でト長調の増三和音(G⁺)のEsをホルンソロが信号音で引っ張り、変ホ長調に転調してから冒頭のメリザンドの主題が回帰するまでの部分は僕にはワーグナー的にしかきこえない。
ワーグナーにないのは、雲間から青空が顔をのぞかせて微光がさしたと思えば暗雲が遮って小雨の気配になるといった塩梅で明暗つかみかねる心の綾だ。語法も感性も異なるがシベリウスを思い浮かべる(彼の初期もワーグナーの影響が顕著だ)。メリザンドは城の男を惑わす不思議ちゃんであり、ドビッシーはドビッシーなりの方法で彼女のとらえようのない曖昧模糊を描いたが、フォーレは特段のことをせずとも、もとよりそうした語法の人だった(シベリウスも同作品の付随音楽を書いたのは偶然ではないかもしれない)。終曲「メリザンドの死」はショパンの葬送行進曲のように始まる。予想外のバスの動きが織りなす滋味深い和声も五臓六腑に染みわたり大変に魅力的である。この味を覚えてしまうとフォーレは抜けられなくなる。
ヴィルトゥオーゾ・オーケストラだから良いという音楽ではない。僕はどうしても一種の「おごそかさ」「しめやかさ」が欲しい。それもゲルマン的な湿気は無用で、ラテン的な乾いたものが望ましいから難しい。
いきなり学生オケがトップにくるが、ジェームズ・フェデック指揮サンフランシスコ音楽院管弦楽団。まったく知らない指揮者だが、細かなニュアンスまでオケが訓練され、指揮の意図をとらえて学生オケが大健闘している。僕は演奏家の知名度やグレードなどどうでもいい、聞こえてくる音楽だけが命だ。第一曲など実に素晴らしい、音楽性満点でベストと言っていい。
もうひとつ気に入ったのはこれだ。クリスティーナ・ポスカ指揮バスク国立管弦楽団。ポスカはエストニア人。この作品への愛情が伝わる。作品をよく研究して知っていることと愛情は別だ。もちろん両方あるのが望ましいがそれが伝わってくる演奏は意外に少ない。終曲の木管の低音の音程がやや苦しいがしめやかで趣味が良い。
書いたことにいきなり反するが、ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・フィルハーモニーは捨て難い。当楽団の湿り気がありバターのごとく滑らかさ極致の弦の魅力ゆえだ。この曲にどうかと思うのだがどうしようもなく美しい。第1曲はまるでワーグナーだが指揮の力だろう、しめやかさの限りを尽くすからなにも文句はない。世界最高峰のオーケストラ演奏が聴ける、なんてゴージャスなCDだろう。
ジェームズ・ガフィガン指揮オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団。米国人の知らない指揮者だがこれもいい。細部までデリケートでバランスが良く、欲しいものを欠いておらず才能を感じる。僕はロンドンからオランダを担当しており、ユトレヒトにアメフという大手の保険屋さんがあって何度も行ったが、この「チボリフレデンブルグ」というホールはなかったと思う。このビデオできく限り音響は非常に良さそうだ。
久しぶりにミュンシュのレコードを取り出し、本稿を書くに至った。偶然の産物だが、日々おきていることなんて実はこんなものだ、その集大成の人生だって。
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シューマン「詩人の恋」作品48
2025 MAY 29 11:11:57 am by 東 賢太郎
この作品の第1曲を初めて耳にしたのは17才だ。なぜトシまで覚えているかというとわけがある。その時は聴いた、というより体験したというべきで、ごくごく僅かではあるが音楽にはそういう禁断の実のようなあぶないものがある。その前奏は曖昧模糊で、調性もよくわからない。あてどもなく白ぽっい霧の中をさ迷う夢みたいで、なんだこれ、参ったなあ、やけにまとわりつくなあと感じ、その実、幾日か経っても不意に脳裏によみがえって憑かれていたような気がする。
それなのに、この作品を理解できたと確信し、心がふるえるほどの感動を味わったのは50才を超えてからだ。通常のクラシックファンとしてはものすごく遅咲きであって、なぜそんなに遅いかを皆様にご説明するのは簡単なことではないときているから困る。音楽がわからなかったというわけではないだろう。なぜなら、もうクラシック音楽を長らく聞いていたからだ。ドイツ語がまったくわからなかったわけでもなかろう。なぜなら、もうドイツ語圏で5年暮らしていたからだ。
長年働いた会社を辞めたのが49才だったというのは無縁でないかもしれない。あれは何やら見えない大きな力というか、天の力学のようなものによって運命の転機がやってきていたのだと思うしかない。ふりかえると心底よくぞ踏み切った、悪くない決断だったとは思うが、失う物もたくさんあった。かけがえのない恋人との別れもきっとそうなのだろうが、若き日から25年にもなるその会社とのご縁、ご恩、仲間、思い出がすっかり消えてしまう気がするのは辛かった。なんということをしたんだという後悔に苛まれたがそれは誰にも言えず、しばらくは強がってみせるだけの日々だった。
仕事は替えがあるが恋人にはないとおっしゃる方はおられるだろう。そう思うし、あまりにロマン派になれない自分が嫌になることもあるが、そのとき味わった喪失感は未曽有の重みであり、傷ついており、シューマンがわかったことは喜びというよりも慰められたというほうに近い。なぜなら、どうした経緯か元の会社に戻っていて、ヨーロッパだかアジアだか、どこだかわからない海外の拠点にまた勇躍と赴任してゆく夢を何度も見たからだ。そこでは、僕は、かつてそうだったように希望に燃え、胸を張って初日の出社挨拶を済ませていた。そしてまず第一にと、新しく住む家を探しに出かけている。それは自分がどうこうよりも、家内が喜んでくれそうかを必死に考えながらのことだ。
すると、いいのが見つかった。遥か眼下に流れの速い川を望む、高く切り立った崖の上に建つ、まるでお城のような家だ。すばらしい!轟々と流れる水が荒々しく岩にあたって砕け散る様を窓からじっと見おろしていると、どうしたことか、自分の意識だけが空中をするすると降りていき、川の中がはっきりと見えた。すると、黒くて獰猛な顔つきをした見知らぬ魚が、べつの魚を襲い、食いついて、腹わたを生きたまま食い荒していた。荒涼とした気分になって家の外を歩いていると、ざわついた人だかりの広場に出くわした。白人とおぼしき若い女性たちが楽しげに連れ立ってこちらを見ている。石畳の道を路面電車が走っている。線路を横切って道の反対にいくと、そこは市場かバザールのようだ。何かのお店のドアを開けて入ろうとしたところで、目が覚めた。
なんだ?これは夢か?いや、そうじゃない、だって俺は覚えてるぞ、たしかにどこだったかそういったことがあったじゃないか、それもヨーロッパだぞ、でもどこの国の店だったんだ?真剣に記憶をたどりながら動揺していて、理性が覚醒し、それは間違いなく夢だよと納得させるまで僕はそこの住人だった。詩心があればきっと詩を、楽才があれば音楽を書いただろう。ハイネの詩にインスピレーションを得たシューマンも、僕が見ていた夢のように、夢を描いたハイネの言葉の余韻の中からありありと中に入りこむことができ、予想もしない恋の展開が現実のようにのしかかってきて感情が鋭敏に反応し、そのいちいちで脳裏に浮かんできた音楽を書き取ったということではないのか。彼にはそんな想像がぴったりくる。ボンにある彼のお墓にクララも眠る。そこに友人たち、崇拝者たちが刻んだ銘にはGrosse Tondichterに、とある。「偉大なる音の詩人」、まさにそうだったと思う。
「詩人の恋」における「詩人」はハイネの主人公ではない、シューマン自身だ。それを知ったとき、すでに16曲のいちいちが耳に焼きついていて、聴くたびに自分もその気分に入りこんでしまい、シューマンと一緒に心が動揺しだした。この曲を聴くとはそういうことだ。ひとつひとつ短い文字にして追ってみたい。
まずは音をきこう。定評あるヴンダーリヒ盤ならあまり異論が出ないかと思うのであげておく。個人的な趣味でいうなら、ドレスデンのルカ教会で録音された若きペーター・シュライヤーの1972年盤になる。終曲を半音上げているのがどうかという原典主義の方もおられようが、シュライヤー37才、この作品には旬の年齢と思う。41才のノーマン・シェトラーによる心の襞に寄り添うピアノは筆舌に尽くし難い。
ヴンダーリヒ盤
シュライヤー盤
できればドイツ語でニュアンスをつかみたいが、テノール歌手・髙梨英次郎さんの日本語注釈はわかりやすいのでお借りする。
ひとつだけ僕の個人的関心事をあげておく。
第8曲のAm Dm B♭ E7 Am Dm6 E7 Am という和声(太字部分)は「子供の情景」(1838年)の「Der Dichter spricht(詩人は語る)」、7度をバスに置いた茫洋とした霧で開始し、あまり子供らしくない苦悩と煩悶を彷徨うかのような終曲の、唯一、決然と聴こえるカデンツであった。
シューマンが意図したかどうかはわからない。むしろ深層心理だったかとも思うが、これが本作にも現れる。それがどこかは後述する。
まず前座のご説明だ。このチクルスが「美しい5月に」(Im wunderschönen Monat Mai )で始まることを僕は何度でも強調するだろう。それほどにドイツの5月は美しく忘れ難い。まるで暗くて寒くて長い冬がうそだったかのように、まるでそれが廻り舞台で地上の楽園に忽然と模様替えしたかのように、野原には色とりどりの花が咲き乱れ、森は鳥のオーケストラで満ちあふれ、庭ではみなが夜まで陽気に唄い踊る。
第1曲。イ長調。Dmaj7- C#の虚ろなピアノが霧から立ち現れる。心はひとつも明るくない、5月なのに・・。それが5月だったから、去った後の悲しみは計り知れないのだ。僕は彼女に打ち明けた、僕の憧れと願いを。詩人はその言葉に、これからおきるすべての遠望への感情をこめている。行く手がみえないままひっそりと消えると、もう聴き手は物語の中だ。
第2曲は前曲で解決しなかった夢想を現実に置き換える。同じイ長調が明るい。ミからファ(サブドミナント)にあがり、眼前には希望しかない。
第3曲。ニ長調。喜びの象徴だったバラ、ユリ、ハト、太陽。それが彼女ただ一人に集約される。人生の絶頂。早口言葉のような歓喜の大爆発。
第4曲。ト長調。天上の喜びに浸りながらも心は静まっている。涙を流すのは頂点に不安の陰がさしたのだろうか。
第5曲。ユリの花が戻ってくる。彼女ではなく。ロ短調。キスに何を感じたのだろう??
第6曲。情景は不意にライン川に飛ぶ。ケルンの大聖堂が現われる。heiligenなる恋愛とは遠い言葉。暗くて重いホ短調。第2節の最後、Hat’s freundlich hineingestrahlt(友のような光を投げ入れてくれた)の後奏で和声が崩壊する!(1835年、シューマンを驚嘆させたベルリオーズの「幻想交響曲」。早くも第1楽章の最後にくるそれか)。聖母マリアの絵に見た恋人はもうイデーフィックスになっている。
第7曲。愛は永遠に失われ、それを分かっていたことが明かされる。でもそれがどうした。Ich grolle nicht!僕は恨まない!ハ長調!!やりきれない強がりを逆説にこめる。ひっそり悲しみと恨みが滲む。夢のなかに蛇が出た。僕は見た、君のハートを食い荒らして闇の穴をあけた蛇を!
第8曲はここでやってくる。
第1~3節は同じ伴奏による早口言葉の回帰。花、ナイチンゲール、星々の各々が詩人を慰めてくれるが、その締めくくりごとに「子供の情景」をひっそりと閉じる 「Der Dichter spricht(詩人は語る)」の印象的なDm6 E7 Amが出てくる。そしてこのカデンツは、第4節目のSie hat ja selbst zerrissen,Zerrissen mir das Herz(彼女が自分で引き裂いたのだから、僕の心を引き裂いたのだから)で、和声を変え、怨念をこめたように決然と否定される。
第9曲。婚礼だが短調で三拍子の舞曲だ。フルート、ヴァイオリン、トランペット、太鼓、シャルマイにのって恋人は輪舞する。ニ短調から変転して気分は定まらない。幻想交響曲終楽章のおぞましき風景そのものだ。
第10曲。ト短調。調性からも魔笛のパミーナのアリアAch, ich fühl’sを想起させる悲嘆。フォーレにつながる無限に悲しい歌だ。アガーテと終わってしまったブラームスの心境かくやと思わせないでもない。
第11曲。ヘ長調。一転して気持ちが弾むのは、詩人は彼女をコメディの客体にすることに成功し、自らの精神を救ったからだ。しかし、当初からduではなくSieと、彼女はずっと客体だったのだが・・。Und wem sie just passieret(これが実際起きようものなら)で和声が一瞬揺れ、動揺の残照をみせてしまう。
第12曲。前曲の半音上、主調の長3度下であるG♭7から F B♭と夢のようにはいる変ロ長調。驚くべき音楽だ。B♭ E♭G Cm F B♭と平穏にくるがロ長調をのぞかせたあげくにト長調になると万華鏡の乱舞をのぞくようで和声の迷宮!高音に煌く伴奏の音感覚はもはやオーケストレーションの領域であり、金粉を天空に散らした様は印象派を予見する。Dichterでなくてはこういうものは書けない。
第13曲。変ホ短調。君が墓に横たわる夢を見た。Sie(あなた)がdu(きみ)になっていることに注目だ。暗い。ぶつ切れの不吉な伴奏。世の中で最も暗い曲がここにくる。きみだった彼女を忘れていないのだ。
第14曲。ロ長調。弱起でやさしく話しかけるようなメロディ。君は親し気に挨拶をしてくれる。心がはずむがこれも夢だ。そして僕にくれる、糸杉の束(死の象徴)を。目が覚めると君は消える。
第15曲。ホ長調。弾むようなリズムで魔法の国、幸福の国の幻影が立ち昇る。よかった!全ての悩みは取り去られ、自由でいられ、天使に祝福されると思うとふっと消え去る。目の前にあるすべては夢、幻影だったのだ・・
第16曲。大きな棺をひとつ持ってこい。嬰ハ短調。ハイデルベルクの樽。マインツにある橋。ケルン大聖堂のクリストフ像。そのたびにピアノが「どうだ!」と胸を張って念を押すTDTDT!皆さんお分かりか?どうして棺がこんなに大きく重いのか。僕は沈めたのだ、自分の恋を、そして苦しみをその中に。嗚咽の虚勢が鎮まるとひっそり歌は消え、第12曲の夢幻が虚空にはらはらと蘇り、夢の中に曲は閉じる。
30分ほどの作品の与えてくれる感動は比類ない。
クララがピアノを弾いている夫にかけた「あなた、ときどき子供にみえるわ」というなにげない言葉から生まれた「子供の情景」。彼は世間一般の子供というものを描いたのではなく、妻の言葉の余韻の中で、たしかに大人の自分の中にいるそれを見つけて13の小品を書いた。「詩人の恋」の表向きの主人公はハイネの詩の主語である ich(僕)だが、作曲しているのはそれを外から眺め、我が事として見つめているシューマンである。すなわち、若くしてジャン・パウルの文学に傾倒し自らを眺めるドッペルゲンガー(Doppelgänger、自己像幻視)の性向を生まれもっていた彼にしか着想し得ない音楽がその二作品なのだ。音楽評論誌「新音楽時報」を創刊して「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、登場させたオイゼビウスとフロレスタンなる分身もそれだ。その性向が生んだより直接的な作品こそがクライスレリアーナである。こういう作曲家は彼とE.T.A.ホフマンの他に僕は知らない。
その性向がどうのというのではない。自分を上空や背後から見ている自分がいると語っている人は現実に何人か知っているし、僕自身、ヴィジュアルはないがそういう自分が確かにおり、この文章は恐らく彼が書くか検閲するかしているし、彼が見ていないとなんでもない場所で躓いて転んで怪我したりもしている。そうした眼で見るに、シューマンは大変に興味深い。1810年に生まれ46才で亡くなった彼の時代、啓蒙主義、個人主義の渦がヨーロッパを席巻し、芸術においてもゲーテやベートーベンまでを否定する革命運動のさなかにあった。音楽ではワーグナーが代表的人物だ。
しかし、ワーグナーもしていないが、人間の心の内面という秘匿された部分にまで光をあてようとするのはまだ一般的でなかった。ハイネが夢の中での恋愛感情の相克を描いたのは文学におけるその先駆とされるが、シューマンが彼の詩に着目したのは彼が持って生まれた性向によって音楽におけるその先駆者におのずとなっていたからであり、その彼がベートーベンの死後わずか3年で書かれた幻想交響曲という、それ以外の何物でもない異形の音楽を最も早い1835年に評論して世に問うているのも、客観的に、ベルリオーズが性向としてフランスにおけるその先駆者だったからだ。僕は自分自身が幻想交響曲になびき、シューマンの二作品になびくのを、客観的に、自然現象のように眺めている。
第6曲と第16曲に現れるケルン。シューマンは晩年に最後の職場となるデュッセルドルフに移り住んでクララとそこを訪問し、大聖堂で得た霊感を第4楽章にして交響曲第3番という傑作を一か月で一気に書きあげる。このクリストフ像の前にハイネはしばし立ちつくして詩の着想を得たろうし、シューマンは若き日の第16曲を思い出したに違いない。ブラームスはシューマンがエンデニヒの病院でクララに看取られつつ天に昇った5年後の1861年に、「詩人の恋」のハンブルグ初演のピアニストをつとめている。先に述べた第8曲のAm Dm B♭ E7 Am Dm6 E7 Am という和声の太字部分、バスが増4度音程のB♭ E7の劇的な連結は前稿に書いた1866年作曲の歌曲「五月の夜」(Die Mainacht)にも顔を出す。たかが和声と思われる方も多いかもしれない。しかしシューマンは「最高の力を持っているのは女王(旋律)だが、勝敗は常に王(和声)によって決まる」と述べている。
最後に書いておくことがある。第1曲「美しい5月に」を17才で覚えていたのは、九段高校の音楽教諭だった坂本先生が、授業で、ご自身のピアノでそれを何度か歌って下さったからだ。美しいテノールと精妙な伴奏の和音が今もくっきりと耳に残っている。感謝したい。
(ご参考)
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ブラームスの “青春の蹉跌”
2025 MAY 24 16:16:45 pm by 東 賢太郎
僕は恋愛小説というものを読んだことがない。これからも読まないだろう。お恥ずかしい話だが実感があまりないのだ。我が家は男優位思想だったが実は母が強く、そのせいかどうかは定かではないが僕には抗い難いある種の女性恐怖症があり、高校まで親しく口をきく関係になった女性はひとりもいない。幼少のころ母に連れられて親類の家やおばさんの女子会みたいなのに行く。あら、ケンちゃん大きくなったわねだなんだでひとしきりいじくり回され、刺身のつまになるが、これが大嫌いだった。そして何のことはない、数分後にはつまらない話で盛りあがって長いこと置き去りになる。退屈極まりない。しかし全権は母にある、この苦行に堪えないと飯にありつけない。そうやって女性には逆らうなという刷り込みができていったように思う。
さらに小学校では口から生まれたような女子がいて、ずっと弁が立ち、強く言われて負けた屈辱の経験がたくさんあるときている。それが父に仕込まれた男優位のドクトリンに反し、俺はいっぱしの男でないという気がして強がってしまい、ますます女子と溝ができた。だから精神衛生上も近寄らないに越したことはないと逃げてしまった。そんな意気地のなさだから中学生になって気になる女子はいたが、どうせだめだろうと話す勇気も出ず、高校になると見かねた野球部仲間がピッチャーとつき合いたい女がいるぞとお膳立てして喫茶店で奇麗な子と引き合わせてくれ、お互いにけっこう気に入ったように思ったが、結局勇気がなく、デートに誘いもせず終わった。
社会人になると大阪で様相がガラッと変わった。先輩に連れられて毎日のように十三なんかの裏路地の飲み屋に行く。あばずれ風の姉ちゃんたちに囲まれ、珍獣を見るような目で見られ、東京言葉で口を開くと、あっ兄ちゃん、ええかっこしいや!ここ大阪やであかんあかん、モテへんで!と猛烈に攻め込まれる。いま思うと、世慣れた先輩たちと何十件も飲み歩いてメンタルを鍛えられ、2年半たってやっと女性なにするものぞとなっていたのだから感謝しかない。というわけで、恋愛も恋愛、絵にかいたような悲しい純愛物である本稿のテーマは、実は僕のような朴念仁に語れる筋合いのものではない。それを承知で書くのは、一にも二にも、ブラームスへの愛情、ブラームスを知らなければ僕の人生は女性が出てこないことの何倍もつまらないものになっていたからだ。
25才のブラームスには2つ下でお似合いの婚約者がいたことから話は始まる。アガーテ・フォン・シーボルト。日本人なら誰もが教科書で知るあのシーボルトの親類だ。医者の家系である。美人で見るからに利発でプライドが高そうだ。どうでもいいが僕ならびびってしまうタイプだが、イケメンでひょっとすると似たタイプだったのだろう、ブラームスは一気にのめりこんでしまう。
しかし二人はうまくいかなかった。男女の事だ、真相は二人しかわからないが、後世の憶測ではない文献による史実は2つだけある。友人たちに態度をはっきりしろとせまられたブラームスが「あなたを愛しています。私はもう一度あなたとお会いしなければならないと思っていますが、束縛されたくはありません。それでも、私があなたのもとに戻ったら、あなたを私の腕で抱きしめることができるかどうか、お手紙でお答えください」と綴り、それを読んだ彼女が婚約を解消したこと。そして老後の回想録に「私は義務と名誉のためにブラームスに別れの手紙を書き、何年もの間、失われた幸せのために泣きに泣いた」と書いたことだ。
出会いは1858年、彼女の家があったゲッティンゲン。長い黒髪、ふくよかな体、悪ふざけが大好き。僕は初めてこの歌をきいたとき、ヨアヒムが “アマティのバイオリン” に例えたアガーテの声を思い浮かべた(同年に書かれた「8つの歌曲とロマンス」作品14から第7番「セレナーデ」)。
ところがこれを書く3年前、ブラームスはあるピアノ曲に劇的な出会いをしていたことがわかっている。クララ・シューマンの「3つのロマンス」作品21だ。第1曲イ短調Andanteをお聞きいただきたい。女性の秘められた切ないロマンが胸をわしづかみにする。もうすさまじいと書くしかない、これを贈られてよろめかない男がいようか?名ピアニストと記憶されている彼女は立派な作曲家なのだ。ツヴィッカウのローベルト・シューマン・ハウスにある第1曲の自筆譜には「愛する夫へ、1853年6月8日」という書き込みがある。この愛憫の情は明らかに、夫ローベルトに向けられたものだった。
ところがウィーン楽友協会にある第一曲の楽譜(左)には「愛する友ヨハネスへ、1855年4月2日作曲」と書き込まれている。これは後世に憶測を呼んだ。「愛する夫へ」と書いた同じ月のクララの日記には、夫が目を覚まし発作に襲われたことが記録され、言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった。そのことからも、第1曲の深い愛情が天に召されつつあるかもしれない夫へ向けられたものだったことは疑いないと僕は思いたい。しかし梅毒であった彼は回復せず、翌1854年2月にライン川に投身自殺を試み、以来、1856年7月29日に逝去するまでエンデ二ヒの精神病院から出られず、医師は身重だったクララとの面会を禁じていた。その間に、弱冠22才のブラームスは夫のために書いた作品21をもらい、36才と女ざかりのクララの「愛する友」になっていたのである。彼にとってこの贈り物は非常に重たいものだったに違いない。アガーテと出会う3年前のことだ。
20才のブラームスがヨアヒムの紹介でシューマン家の門をたたいたのは1853年9月だ。亡くなる3年前のシューマンは既述のようにすでに発作をおこしており、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり5か月後に自殺を図る。そんな中にやってきた見ず知らずの若者がハンマークラヴィール・ソナタ丸出しの開始をする自作のピアノソナタ第1番ハ長調作品1を弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか」といい、ブラームスを紹介するために10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。
このローベルト・シューマンこそ真の天才であり、虚飾も打算もない、真に尊敬されるべき偉人であり、無名の男の才能を即座に認め、病をものともせずそこから熱狂的にとった彼の行動に僕は人類の未来を託すべき崇高なものを感じ取って涙を禁じ得ないのである。ブラームスという人物には僕を熱狂させるものは何もない。まったくもって別な人種だとしか書きようがないが、シューマンとモーツァルトには大いにそれを感じる。今だけ・カネだけ・自分だけの目下の日本にこんな人物が何人いるだろう。だからその音楽が好きという理屈はないが、偶然にも、僕が古今東西で最も愛するピアノ協奏曲は彼のイ短調であり、交響曲は彼の変ホ長調なのだ。そのバイオは可哀想な病気に冒された晩年で悲愴に終焉するが、そんなものがなんだ。変ホ長調交響曲を1850年11月2日から12月9日にかけ1か月で完成した速筆ぶりは、20余年もかけて1番を書いたブラームスと対照的で、性格も天地ほど異なっている。これほど似つかない二人の男を愛したクララは何に惹かれたのか。才能だろう。それを愛する人は、持っている人がどこの誰かは関係ない。そう知るのも持ってる人だけだから、地球上のほとんどの人はそれを知らない。持ってない僕がそれを知ったのは、彼らの音楽を50年も座右に聴いてきたからだ。彼女もそれをもって生まれた特別の人であり、その裏返しでブラームスはクララを必要とした。読んでないものを評する気はないが、こういうものは恋愛小説には掬い取れないのではないかと想像する。
まさにそのころ、1854~1857年に、アガーテと出会う直前のブラームスが書いていたのがピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15だ。初演はおりしもアガーテと婚約したころの1859年1月。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで3人しか拍手のない大失敗となり、傷ついて自信を無くしたことが破局の第一歩だった。かたや、1854年の日記に「私は彼を息子のように愛しています」と書いたクララはブラームスより14才年上だ。どん底に沈んだ彼は失敗に同情したり、心配してくれる歌い手の若妻ではなく、作曲家でもあり頑強に支えてくれるクララを選んだ。身を立てるために彼にとって必要であり、必要なものを手に入れる犠牲をいとわぬ不動の決意ゆえであろうが、もう一つ非常に重要な理由は、彼の母親が父親より17才年上だった家庭環境が大いに影響したと思っている。そうした、宿命的関係とも思えるクララへの思慕が最も現れた音楽が、3つの楽章の最後になって書かれたピアノ協奏曲第1番の第2楽章アダージョだ。それでいて、あろうことかクララの娘に恋愛感情をもったりもしたブラームスの優柔不断な女性観のふらつきは常人にはおよそ測りがたいものだが、それが微妙な内声部の動きで和声が玄妙に移ろう彼の音楽の誰にもない魅力に通暁しているようにも見えないだろうか。
夫の死後、クララは子供たちとともにベルリンに移り、1863年からはバーデン=バーデンを本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。ブラームスはクララに会うため1865~1874年の夏をそこで過ごし『交響曲第1番、第2番』『弦楽六重奏曲第2番』『ピアノ五重奏曲』『ホルントリオ』『アルトラプソディ』『ドイツレクイエム』の一部などを書いた。
1866年に作曲された「五月の夜」(Die Mainacht)は彼の作品で最も好きなもののひとつである(「4つの歌曲」op.43の第2曲)。前稿でバーデン=バーデンについて、そして欧州の5月(Mai)の悦楽について述べたが、それがあってこその悲しさが深く琴線に触れてくる。こういう音楽をベートーベンは書いていない。彼は北ドイツの、厳格なプロイセンの人という感じがするが、やはりハンブルグで北の人間であるブラームスはバイエルンやスイス、オーストリアを好み、その嗜好が現われた曲と思う。その情を包み込む和声は非常に凝っている。
ちなみに詩はこのようである。
銀の月が
潅木に光注ぎ、
そのまどろむ光の残照が
芝に散りわたり、
ナイティンゲールが笛のような歌を響かせる時、
私は藪から藪へと悲しくふらつき回る。
葉に覆われて
鳩のつがいが私に
陶酔の歌を鳴いて聞かせる。
だが私は踵を返して
より暗い影を探し求め、
そして孤独な涙にくれるのだ。
いつになったら、おお微笑む姿よ、
朝焼けのように
私の魂に輝きわたる姿よ、
この世であなたを見出せるのだろうか。
すると孤独な涙が
私の頬を伝ってさらに熱く震え落ちた。
この詩は意味深だ。ブラームスはけっしてアガーテを忘れていない。身を引くつもりなどなかった。ただ言えなかった、失敗した自分を母のように守ってほしいと。しかしそれを口にするような自分ではいけない。大成できない。見ろ、自分の父がそうだったじゃないか。彼の育った家庭環境を忘れてはならない。父が17才年上の母親に書くかのようなあまりに優柔不断な手紙。アガーテはそうとは知らない。おそらくブラームスはその内面を悟られまいと隠していたのではないか。彼女はただただ驚き、自尊心を深く傷つけられ、泣きながら苦渋の別れの手紙を書くしかなかった。名門の医師の家という格式、名誉もあったろう。彼女は婚約が解消された後、実に10年間、誰とも結婚する気持になれず、結婚に際しては彼からの手紙を残らず処分した。しかしブラームスの方も、アガーテからいきなり別れの手紙が来るとは思ってもいなかったと思う。ハンブルグの女郎屋街の一角で生まれた彼の家にはそれに匹敵する格式というものはない。大きなショックに苛まれたが、堂々と、待ってくれ、それは誤解だよといえなかったのは何らかのコンプレックスが彼を支配し、いっぱしの男という強がりがあったかもしれず、なによりも、母のようなクララが心にいたからだと僕は強く感じる。それは救いでもあり葛藤でもあったのだがもう打つ手はなかった。彼はアガーテを深く傷つけ、自分も打ちのめされ、その後4ヶ月ほどはハンブルクに閉じこもり作曲も演奏活動もしなかったという。
弦楽六重奏曲第2番ト長調Op.36は、1864年から1865年にかけてバーデン=バーデンで作曲され、第1楽章の提示部の最後にa-g-a-h-e(アガーテ)の音符が縫いこまれていると指摘される(シューマンもクララの音符をそうしていた)。それが思慕なのか決別なのかはわからない。あるいは偶然かもしれない。
偶然でないのは、第1楽章冒頭の主題がト長調から長三度下の変ホ長調に移行し、同じことが「五月の夜」(Die Mainacht)でもおきることだ(変ホ長調からロ長調)。和声は音楽の根幹で、表面の工夫ではあり得ない。前者がアガーテ六重奏曲であるなら「五月の夜」もそうではないか。そう聞こえてならない。この六重奏曲をブラームスはヨアヒムの助言を受けず書いた。自立心に並々ならぬ気合が入っているのだ。第3楽章冒頭、VnがJ.Sバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻 第24番ロ短調の主題を奏でるのにお気づきだろうか?バッハはこれで大作を閉じた。決別して6年。意を決して、彼はアガーテへの想いを締めくくったのではないだろうか。
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ヴェネツィアの残照
2025 MAY 7 15:15:31 pm by 東 賢太郎
かつて観た都市でもっとも富というものを感じたのはニューヨークでもロンドンでもパリでもない、ヴェネツィアだ。いままで英国式にこの都市名をヴェニスと書いてきたが、イタリア語はヴェネーツィアでネーを強く、ツィアもはっきり発音する。どっちでも通じればよいのだが、イタリアの歴史を書くので本稿ではヴェネツィアとしよう。
ヴェネツィア共和国(697年)の成立は平城京(710年)、平安京(794年)より古い。まず歴代総督が隣国の勢力を巧みにあしらって自治権をもった都市国家となり、東ローマ帝国の制海権に守られ交易で利を得る。さらにアドリア海沿岸の海上防衛を担う代償に貿易特権を得て東地中海最強の海軍国となり、港市の多くを支配下に置く。そして第4回十字軍を事実上率いてコンスタンティノープルを陥落させ、帝国分割で巨利を獲得して政治的にも欧州有数の勢力になったことは皆さん世界史で習った。
いっぽう、以上をヘゲモニーの視点で読み解くなら、この都市の興隆の歴史は日本国の将来にとって興味深い示唆があろうと指摘したい。まず交易、金融、外交のインテリジェンス、そして世界で造船・兵器製造の一大拠点となる資金力の両方がないとこういう芸当はできなかったということだ。現に大航海時代の到来で交易がアドリア海から大西洋、太平洋に移るとビジネスモデルが崩れて資金が枯渇し、ガラスやレースの工芸品を造ってしのいだものの、ついに1797年、ナポレオン・ボナパルトに侵略されたのである。なくなったのはキャッシュフローであり、それゆえの資金調達力であって、富はあった。日本にも富はあるし、あり続けるだろうが、それでいいのかということだ。
この都市には3回行った。まず観光。次はエーゲ海クルーズの発着。最後は仕事だった。アドリア海からクレタ島への船旅は第4回十字軍の航路で感慨深く、仕事ではフライトのキャンセルでヴェネツィア~トリエステをゴンドラで移動し、海上からヴェネツィアを眺めて実感した。その地はもともと異民族に襲撃されて追い込まれた湿地帯であることをだ。農業も産業もないそこを水路で守備して根城にし、ムスリムやフランク王国という、征服されかねない異文化圏と交易で儲けようというのだから複式簿記を発明するような知恵も交渉力も要る。シェークスピアは無知ゆえか偏見かそれをシャイロックに仮託したがここの商人がみなユダヤ人だったわけでもなく、世襲でない有力家門(ドージェ)の寡頭制ではあったがフィレンツェのメジチ家のような僭主がいたわけでもない。選挙で選ばれた歴代総督が賢かったという事だ。しかし、くりかえすが、富がありすぐれた統治者がいたとしても、経済成長力が衰えれば国は滅ぶのだ。
ちなみに、富のバロメーターである地価を調べると一等地サン・マルコ広場の近辺で240㎡の高級アパートが130万ユーロ(約2億2千万円)というのを見つけた。1㎡90万円は新宿区ぐらいだ。この都市の輝かしい富が手に入るわけではないが、富というものは実は多くを所有する必要はない。身近で他人に邪魔されずあるぐらいでいいのだ。新宿駅が身近で便利なのと、こんな財宝を日々眺めて暮らすのと、多数決で決めたら同じ値段だったという厳然たる事実がここにある。世の中はずいぶんおかしなものだと思うしかないが、物もサービスも金も株式も、値段はそうして決まっている。
正面がサン・マルコ寺院だ。この地に寺院が建ったのは9世紀で空海が高野山金剛峯寺を建立したのとほぼ同時期である。10才のヴィヴァルディは手前側にある学校に通い、毎日この景色を見ていただろう。15才のモーツァルトは父と共にこの広場で仮面舞踏会を夜中まで楽しんでいる。
サン・マルコ寺院にはいってみよう。
ビザンチンの教会は、満々と湛えられた空気の膨大な質量が全身に訴えかけてくる異空間である。これが水ならどうだろう。泳いで空間を天使のように浮遊し、我々はこんなものを眺めているにちがいない。
天空の秘密。地上に据え置かれた我々はそれを知らない。
巨大なマスであるここの空気が声や楽器でうち震えると、それは波になり、些かの間をおいて天井の円蓋まで覆い尽くすやこちらに向けてこだまのように降ってくる。それが元の波とぶつかって干渉し、さらに複雑な波となり、我々を体ごと共振させ、なにやら娑婆とは別物だという魂の体験をさせるのだ。音ではなく波動だからそこで経験しないとわからないが、一度味わえば忘れることはない。
無意味なアーという発声であってもそうなのだが、それが楽音のドであればそれが空間に高々と飛散し、数秒間もありありと浮遊し、次に楽音のソを発して重ねてみれば両者は交って完全五度を成して戻ってくる。この発見から和声が産まれた。それでは戻ってくるメロディーに調和するように元のメロディーを書けばという発想でカノンが産まれた。サン・マルコ寺院でどう響くか。テノールがひとり二重唱になる様子がこのビデオでわかる。
つまり寺院、大聖堂なるものは我々が「音楽」と呼ぶものの母体であり、さらに成長させるゆりかごでもあったということだ。物理的に表現するなら楽譜は2次元、演奏は3次元で、時間軸が加わった教会での演奏は4次元のアートという事になる。音楽の4次元化はルネサンス音楽を代表するフランドル楽派の巨匠であり、ヴェネツィア楽派の開祖となったアドリアン・ヴィラールト(1490年頃 – 1562)に発する。
この人はいまでいうオランダ人だ。サン・マルコ大聖堂楽長への就任は大胆な人事だったと思われる。世襲、独裁、汚職の排除と人材の登用は小国ヴェネツィアの生きる知恵であり、1593年にはガリレオ・ガリレイを造船・兵器製造の技術顧問に雇ってもいる。ヴィラールトは1527年の契約から1562年の逝去までポストにあり、この人の起用は西洋音楽史上で最も重大な契約のひとつだったと評価される大きな成果をあげた。それが巨大で複雑なサン・マルコ大聖堂の音響構造を利用した分割合唱様式の発明であった。後の楽長にふたりのガブリエリ、モンテヴェルディという大物が就くが、やがて潮流はバロック様式を経て教会の厳格なポリフォニー音楽を離れて歌と伴奏のオペラへ向かうのであって、分割合唱様式の生んだ作品の位置づけは懐古的なものになろう。しかし「その場所でしかできない」という音響はオンリーワンの存在で、永遠の価値を誇るヴェネツィアそのものという視点からの評価はこれからむしろ高まるのではないだろうか。
1970年の大阪万博で西ドイツ館のシュトックハウゼンが気に入ったことを書いた(シュトックハウゼンは関ケ原に舞う)。シアターピースという位相を導入した概念は分割合唱様式に始祖があると思う。西洋人は教会で賛美歌を歌って育つので大空間の音場の残響と反響は脳への当たり前のインプットとなっているだろう。いっぽう山びこだって珍しい我々はレコード屋のクラシック売り場は「古楽」から「現代」までジャンル分けされているのが当たり前と覚えている。ケルン近郊生まれの敬虔なカトリック信者だったシュトックハウゼンがあの大聖堂の音響を知らなかったはずがなく、レコードが「現代」に置いてある彼が子供のころからなじんだその響きから天上のスピーカーの音が走るあの空間を着想したとしても何ら不思議ではない。
例えば大バッハは15才から数年間リューネブルクの聖ヨハネ教会の合唱隊の一員として歌っているが、そこの音響はこんな具合である。
明らかに残響が実音に「かぶって」いるが、賛美歌は天のこだまと交唱しているかのようなサウンドが「らしさ」を醸し出すので、屋外でこの楽譜を歌っても感じが出ないだろう。想像になるが、若き日をこの音響にどっぷりつかって暮らしたバッハには実音だけを聴いても「かぶり」がきこえる感覚ができあがっていたのではないか。だから自分の脳内に響いている両方を楽譜に書き取ろうと試み、そこから進化した技法の集大成がフーガになったのではないかと思う。
僕が日本で一度も足を踏み入れたことない教会に初めて入ったのは学生時代にアメリカのバッファロー大学に短期留学してホームステイした時のことだった。一緒に賛美歌を歌わされたが、天上にふわっとぬけていくその響きこそ衝撃だった。一気に好きになって、それ以来、海外で知らない処に行くたびに大聖堂や教会に入って音を聴いたからもうマニアと言える。小さいものは忘れたが、覚えてるだけでこんなにある。
ドイツはケルン大聖堂、シュパイアー大聖堂、フランクフルトの聖バルトロメウス大聖堂、マインツ大聖堂、オーストリアはザルツブルグ大聖堂、ウィーンのシュテファン大聖堂/聖ペーター教会/カールス教会/聖ミヒャエル教会、チューリヒのフラウミュンスター、英国はウェストミンスター寺院/セント・ポール大聖堂/チチェスター大聖堂/ヨーク大聖堂/セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、パリはノートルダム大聖堂/サン・トゥスタッシュ教会/サントトリニテ教会、ルーアン大聖堂、ストラスブールのノートルダム大聖堂、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ミラノのドゥオーモ/サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ピサ大聖堂、バルセロナのサグラダ・ファミリア大聖堂、ブラジルのリオデジャネイロ大聖堂
これらの地の多くはクラシック音楽の殿堂でもあり、大聖堂があってオペラハウスがない都市はなかろうから両者の関係は緊密だ(日本は両方ない)。「古楽」も「現代」も「ロック」もない。ポール・マッカートニーは「みんなもう讃美歌は聞き飽きて心に響かないんだ、僕らはむしろ熱心な教会支持者だった」と語っている。教会マニアになったおかげで僕もどうやらそれらしい耳ができあがり、自宅の音楽室は石造りで窓にはステンドグラスまで入ってしまった。日本のコンサートホールでそういう音は記憶にないが、いちどだけ、ライブイマジンの練習で吉田さんに舞台上のピアノを弾かせていただいたとき、ふわっと天井に昇っていく感じがあれに近いなと思ったのは客席が空だったからだろうか。
サン・マルコ大聖堂楽長としてヴィラールトとモンテヴェルディをつなぐ人にヴェネツィア生まれのジョヴァンニ・ガブリエリ(1554または1557 – 1612)がいる。彼が生まれた頃、ちょうど日本では川中島、桶狭間の合戦が行われていた。1579年に織田信長は権勢のピークにあり、豪華絢爛の安土城にはいりセミナリオで西洋音楽を聴いているが、その頃にミュンヘン留学からヴェネツィアに帰国したガブリエリはサンマルコ大聖堂の特性を活かした分割合唱様式でヨーロッパで最も有名な作曲家となってゆく。ほとんどの作品は、祭壇の左右に配置した2つの合唱団ないしは器楽集団が、まずは左手から聞こえ、それを右手の音楽家集団が追うというアンティフォーナルに構成される。このビデオでわかる。
次にサン・マルコ大聖堂の響きを聴く。アコースティックはこの400年の間にほとんど変化していないという。
ひとつ前のビデオもそうだが、発売されたときにFMだったかで耳にして印象に残ったのがフィラデルフィア管、クリーヴランド管、シカゴ響のブラスセクションによる(たしか「ガブリエリの饗宴」と銘打った)1968年録音のLPだ。それぞれオーマンディ、セル、マルティノンの時代でまばゆい金色に輝く。まだ中学生でガブリエリが人名であることも知らず、クラシックは富裕で豪奢なものというイメージができた記念すべき録音だ。ヴェネツィアにもそれが焼きついていたかもしれない。
(ご参考)
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
読響 第647回定期演奏会
2025 APR 24 9:09:07 am by 東 賢太郎
2025 4.21 サントリーホール
指揮=オクサーナ・リーニフ
ヴァイオリン=ヤメン・サーディ
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77
ボーダナ・フロリャク:光あれ
バルトーク:組曲「中国の不思議な役人」
女性指揮者の登場が増えている。性別云々の時代ではないが、ことその職業においてまったくハンディがないこともなかろう。つまりそこで勝ち抜いてポストを得たなら並の男より上等な確率は高いわけで、現に失望したケースはまだない。もうひとつ、リーニフはウクライナ、サーディはイスラエルと時の国の人たちだ。偶然かもしれないが音楽を平和の象徴とするメッセージがあるなら僕はあんまり好きでない。音楽家が軍人や政治家でないことだけは誰が決めたわけでもないのに見事に世の常であって、ポーランドの首相になったパデレフスキー、モーツァルトの三台のピアノ協奏曲の第三を弾いて録音までした英国首相エドワード・ヒースは人類史上稀な人たちである。
予備知識なく会場に来るのでプログラムも奏者も知らない。まずはショスタコーヴィチの作品のうちでも最も好きなひとつヴァイオリン協奏曲第1番ではないか。彼は政治というよりそれへの嫌悪、プロテストが音楽に滲み出た特異な作曲家で、そうした趣味だったわけではなく時代の犠牲者だった。Mov3パッサカリア、冒頭のTimをユニゾンで伴う恥ずかしくも鈍重な主題の恐るべきダサさ。あえてぶちこむ運命リズムはカリカチュアそのものだ。僕は粗野丸出しのこういうのがどうにも耐えられないが作曲者もそうであり、ダフニスとクロエのドルコン、火の鳥のカッチェィにあたろう。大衆の面前で大真面目に物々しく権勢を誇示する権力者ほど下劣でみっともないものはないという感性の共有だ。この主題はやっと死んでくれたスターリンを極限までおちょくった怨念の調べであると僕は解釈している。それに延々と続く気高いVnソロにもおぞましいTrb、Tubaが付きまとう。ああこの時代にこんな国に生まれないでよかったと心から安堵するが、それだけショスタコーヴィチがかわいそうだったという思いが募る。Vnソロの激高にはそれが滲む。この選曲にもしご両人の戦争へのプロテストの思いがあったとするなら、それは作曲者との共振で大いに是とする。
1番には初演者オイストラフとムラヴィンスキーの圧巻の演奏があるが僕はサレルノ・ゾンネンバーグ盤が気に入っている(マキシム・ショスタコーヴィチの伴奏。このCDが廃盤というのだから昨今のクラシック・アルヒーフは絶望的だ)。ソリストはまったく知らない人だが驚いた。いささかの破綻もないフレージング、弦が切れるかと思うほどの魂のこもった ff が汚くならない、 Mov3のカデンツァの意味深い pp が豊穣!客席の奥の奥まで痩せずに訴えかける。体いっぱいで弾いているがなんら苦労しているようには見えない。この余裕たるや、大家然というより全身が才能の塊である。いったいVnソリストというもの昔ながらの伝承でもあるのか、激してくるとこの程度の音程のズレは熱量の証でしょのようなモードに入り、聴衆もそういう事が起きると音楽が高揚していると解釈するのがしきたりのようだが、僕は何であれズレはズレで気になるのでどんどん聴く熱量が下がってしまうという二律背反がおきる。それが少ないソリストは、ちゃんと方程式どおりに熱量がなく、平板で面白くないときている。ところがこの人は驚くべきことにほんの1音符たりともそれがないうえに熱量は2倍もあった。こんなソリストは初めてで、掛け値なしにかつて聴いたヴァイオリニストのNo1だ。休憩でプログラムを見るとこのヤメン・サーディ氏はウィーン・フィルのコンマスではないか。やれやれ、僕は昔のレコードで事足りて時流に乗れてないようだ。楽器が書いてあった。クライスラーが9年弾いた1734年製作のストラディヴァリウス「ロード・アマースト・オブ・ハックニー」とのこと。名器を弾く人は多いが博物館のデモにならず生き返らせてる人はあまりいない。ウィーン・フィルのブランドに埋没しないことだけ祈る。
伴奏のオクサーナ・リーニフ。女性の服にはいたって疎いが、あれはウクライナ風のものだろうか。コンチェルトのオケはTr, Trbを欠きTuba、バスCl、コントラFgありと暗く重めになりがちだがカラフルな音彩にきこえた。この曲はSym10のコンテンポラリーだがSym5のMov3のエコーもあり、僕はその楽章の熱烈な支持者。それを髣髴させるMov1ノクターンは非常に楽しめた。フロリャク。和声の虹彩が美しい。知らない作品に虚心坦懐に浸る喜びを満喫した。トリのバルトークは怪奇趣味に陥らず透明感があって品が良い。春の祭典風のオーケストレーションがあるが1918年の着想であり5年前に初演騒動のおきた作品を意識したとして不思議でない。両作は第1次大戦を挟んで書かれており時代の空気がうかがえるという意味でも傑作だ。リーニフの指揮はダンスのように流動的でビートはメリハリがあって明確。コンチェルトもこの曲も終盤の追い込み、加熱は品格を保ったまま大変エキサイティングだ。この人はバイロイト音楽祭初の女性指揮者としてオランダ人を振ったらしいが大変な才能。読響はコンマスが長原氏から林氏に交代したが洗練されて素晴らしい音を聴かせてくれ、一級品の演奏会であった。
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なぜ《音楽》は女性名詞なのか?
2025 APR 18 2:02:48 am by 東 賢太郎
楽譜の英訳は sheet music です。妙だと思ったことはありませんか。なぜそうなるかというと、日本語では演奏されたものが「音楽」であって、それを音符で紙に書いたら「楽譜」です。しかし英語はどっちも music なのです。だから「楽譜を読む」は read music です。ということで、楽譜は「紙に書いた音楽」と区別して呼ぶわけです。たいしたことでないように思われるかもしれませんが、言語は民族の精神構造の現れです。「music とは何か」をつきつめれば music は常に music であって、それを紙に書くか書かないかで別物になることはない。西洋人はそう認識しているわけです。いっぽう西洋音楽を初めて聞いた明治新政府は文明開化と軍楽隊による国民の教化と鼓舞を目論み、その音響がどう創造され、記録され、再現できるかを研究しました。種子島に伝来した鉄砲を複製したのと同じやり方です。まず音を sheet music におとす。それを設計図として再現してみる。同じ音響が鳴る。成功だ。それが音楽である。music はもともとは日本になかったのだから「music は常に music」という発想はありません。つまり music は楽譜である。そのように受容されたのです。
では西洋では music とは何であったか?これは空気振動がなぜ人を感動させるかという深遠な問いなのですが、ここでは哲学や美学に踏みこまず、その字義からさぐってみましょう。英語以外の西洋語を学んだ方は名詞に男性、女性が(独語には中性まで)あってひと苦労された経験をお持ちでしょう。僕はモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク(Eine kleine Nachtmusik)が、「ひとつの」はアイン、「小さい」はクラインなのにどうしてアイネ、クライネなのかがひっかかっていました。「ムジークが女性名詞だからアイン、クラインに e がつく」と知って疑問は氷解したのですが、では「なぜ音楽は女性なのか?」という根本的な理由は不明です。物質と雌雄の関係性でないことは太陽と月が独語と仏語で男女が逆なので確かです。調べると6~9千年前のインド・ヨーロッパ祖語に男性、女性、中性があったのが起源らしく、理屈はなさそうです。
では角度を変えて、なぜ音楽は music と呼ばれるようになったのか?という方から考えてみます。南イタリアのナポリ、ポンペイに近いカプリ島へ行った時のことです。小舟に揺られて「青の洞窟」へ入ると船頭さんのオ~ソ~~レミ~オ~が朗々としたテノールで始まりました。別の船でもやってる。ここでは誰もが歌える感じで素人にしてはうまい。一説では大歌手パバロッティも簡単な楽譜しか読めなかったようですが、日本の音大生は難しいソルフェージュ(読譜、視唱)の試験に通っています。船頭さんの美声の前にはそれが何だろうと思ったわけです。ポール・マッカートニーは音大は出ていませんが、自宅で一人、ギター片手に思いついたメロディーを歌っていたらイエスタディができたとビデオで語っています。
つまりmusic は常に誰かの頭にあるメタフィジックな(形のない)存在で、紙に書いた楽譜はパート譜、備忘録、贈答品、商品、著作権の対象など「物体」にするためにできたものです。モーツァルトは貴族の館や演奏会やオペラの幕間にクラヴィーアで即興演奏を披露して人気を博していましたが、彼にとって即興と作品の区別はなく、「物体」にすべき理由があって書き取ったものが「作品」として死後に残り、ケッヘルが勘定したら626曲あった。それが我々が「モーツァルトをきく」と言った時の「モーツァルト」になったのです。ピアノソナタヘ長調K.332は、理由は不明ですが第2楽章に2バージョンの楽譜があり、本来は消えていただろう彼の即興が聴けます(モーツァルト ピアノソナタ ヘ長調 K. 332)。
つまり music には楽譜がある必要はないのです。この考えの延長線上にジョン・ケージの “4分33秒” が出てくると考えないと、なぜ無音=音楽か?という謎は解けません(ジョン・ケージ小論《 Fifty-Eightと4′33″》)。逆算して考えるなら、 sheet music は無限に可変的な music のいち態様をフリーズ(凍結)し、再現性を永遠に担保するものです。書き取る前の music は量子論における量子のふるまいのように確率でしか表せないという思想が背景にあるからです。偶然性の音楽はケージが創始者ではなく、実はずっと以前から、古代のギリシャから、暗に音楽はそういうものであったというにすぎません。
musicの語源は「熟考する」「思索する」という意味の動詞 muse(ミューズ)です。その名詞形 Muse がギリシャ神話の9人の女神ムーサ(Moũsa)の英語名です。古代ギリシャでは政治、法律、宗教、道徳、科学、地理、数学、哲学の伝達のいち手段がソクラテスの辻説法のような公開の場での朗読でした。そうした知識を国家や民主主義の運営のために大衆に伝える神官のような役目を司った女性たちが存在し、インスピレーションを与えるようなプレゼンをした。その「技芸」が円形劇場での芸術、演劇の原型となって ムーシケー(mousikḗ)と呼ばれ、 やがてmusic になったのです。もうお分かりと思います。だから音楽は女性名詞なのだと思います。
新約聖書の時代にギリシャはローマ帝国の支配下にありましたが聖書はギリシャ語で書かれていた。ローマ帝国はあらゆる意味で後の欧州の基盤ですから欧州の精神世界のルーツは紀元前5~8世紀ごろのギリシャにあります。だからルネサンス期のフィレンツェで復興されたのは古代のギリシャ悲劇であり、それに付す音楽はマイナーキー(短調)でした。すなわち音階はラから始まり、ドではなくラがABCのAなのです。それを「opera musicale」(音楽的作品)と呼んだのが後に我々がオペラとよぶものになっていった。そしてオペラの序曲が器楽のシンフォニア(sinfonia)であり、それが独立してソナタ形式をもったドイツの Symphonie (交響曲)になっていったことは言うまでもありません。
ムーサの人数は諸説ありますが、この絵のように9人が有力です。
古代ギリシャの女性に政治参加の場はありませんが、神官としてはありました。その象徴がムーサだったと考えられます。今流にいうなら女性グループ、女性ユニットですが、muse(熟考、思索)するのだからエンタメの芸人というより知的な人たちだったのでしょう。名前はカリオペ、クリオ、ポリュヒムニア、エウテルペ、テルプシコレ、エラトー、メルポメネ、タリア、ウラニアで、次世代にオルフェウス、ハルモニアがいます。太字はおなじみのレーベル名になっています。レコードというクラシック演奏のアルヒーフを作る事業家たちにギリシャを希求する美学が共有されていたことはとても興味深いです。
作曲家も例外ではありません。モーツァルトの「魔笛」には王子タミーノをザラストロの神殿に導く「3人の侍女」が出てきます。ワーグナーのニーベルングの指輪もヴォータンの9人の娘「ワルキューレ」が出てきますが、これはゼウスの9人の娘ムーサにぴったり相当します。ベートーベンはギリシャ神話に共感し「プロメテウスの創造物」を書きました。第2幕のパルナッソス山の場面にエウテルペ(楽器)、テルプシコレ(舞踏)、メルポメネ(悲劇)、タリア(喜劇)というムーサの女神たちが登場します。このバレエ音楽は無知で感情や理性も欠けている人間(男女2体の粘土)を教化するストーリーを持ち、思想的背景にはイデアは「永遠不変の理想的な範型」であり、不完全な人間はそれを模倣した宇宙に住んでいるとするプラトンのイデア論があります。
音楽をプラトンにあてはめるなら music は心で響くイデアであって、紙に書き取った楽譜やそれを音化した演奏はその模倣だという哲学をベートーベンは理解していたはずであり、スケッチ帳に書き取った膨大なイデアの断片を試行錯誤して再構築することが彼にとっての作曲でした。イデアが完成品として降ってきた様が自筆譜から伺えるモーツァルトとは違い、不完全な人間界での格闘の跡が残るベートーベンの音楽はその意味でも聴く者に勇気を与えるように思います。その代表作である交響曲エロイカに「プロメテウスの創造物」のフィナーレの動機が、やはり交響曲を締めくくる楽章に現れます。彼は10番目の交響曲を完成することなくゼウスの娘たちの数、9曲を残したのは暗示的です。
クラシック音楽を耳にするうち、同じ楽譜の演奏でなぜ心に響くものとそうでないものがあるかという問いが芽生えたのは高校の頃に買った悲愴交響曲のレコードでした。ケンペンとカラヤンとムラヴィンスキーがあまりに異なるのはなぜかという素朴な疑問からそれは始まったのです。楽譜はひとつなのになぜテンポも表情も違うのか、なぜそれでもいいという風に平然と受容されているのか。それがわからなかったのです。例えばビートルズのコピーバンドはオリジナルといかに似せられるかを競うわけですが、なぜクラシックはそうしないのだろうということですね。
チャイコフスキーの演奏記録がないこともありますが、作曲家の演奏したレコードがありながら違う解釈の演奏も認知されているケースがあります(クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典―)。作曲家の頭にあるイデアを記号で模倣した楽譜はもとより完全ではなく、作曲家もそのようなものとして採譜しています。例えばメトロノームで速度を数値化はできても、テンポ・ルバートやアゴーギクを正確に示すには微分方程式が必要で、そこまで書いた作曲家は知る限り存在しません。つまり演奏者におまかせの余地が必ずあるという事です。彼らは悲愴交響曲に三者三様のイデアをもっており、それは人間性、人生観、音楽的教養の賜物なのだから異なるのが自然と考えるようになりました。同じ楽譜でも心に響くものとそうでないものがあるのは、自分がその演奏家に共振できるかどうかという事です。自分は進化しますから良いと思うものも変わります。
自分にも人間性、人生観、音楽的教養というものが育ってきますから悲愴交響曲のイデアができあがりました。誰のとも異なるので僕にはどの演奏もぴったりこず、仕方なくシンセサイザーで自分のバージョンを全曲録音しました。だから演奏会で誰かの悲愴を聴くという行為はその差を許容する儀式となりました。困ったことにそれが耐えられない数曲の “特別な” 音楽もできてしまい、もうそれをCDや演奏会で聴くことはないと思います。イデアを心の中で演奏して愛でていれば事足りるし、それが最も感動できるからです。
たとえるならずっと昔に好きだった彼女の姿のようなものです。自分の中だけに存在し、その方はきっと生きておられるでしょうがあの姿はもはや幻でこの世にはないのです。音楽演奏の一回性とはそういうものです。ロンドンのヴラド・ペルルミュテールのリサイタル。聴いたというよりウィグモアホールで参加させていただいたという雰囲気で、まるでパリでショパンやフォーレのサロンの片隅に座っているかのような、当時そうしたプログラムに造詣などなかったのですが、どこか茫洋としたセピア色の記憶が蘇ってきます。おそらくロンドンでもパリでも、そうした雰囲気の場は消えつつあるのでしょう、ペルルミュテールのような19世紀のイデアをもった演奏家は多くが亡くなっていますからね。
では録音でそうした音楽家を聴くことに意味があるのでしょうか。あると思います。そこに住んでいたころ、ああヨーロッパだなあと肌で感じたのは毎日きこえる教会の鐘の音でした。どこの都市でもカランコロン、ガーンガーンと聞こえます。ザルツブルグで、夕刻に遠くから近くから立体的に響きわたるその音を浴びて、ああモーツァルトもこれを聞いて育ったんだと思ったし、ミラノではプッチーニ、バイロイトではワーグナーのことを思いました。聴く方も演じる方もそういう空気の中にいる、そこの劇場で響くドン・ジョヴァンニやタンホイザーが金剛峯寺の大法会のような正調の重みを携えて聴こえる。例えばスカラ座に向かって右側の筋を入って少し行った左側の2階にヴェルディ、プッチーニ行きつけだったタヴェルナがあります。そこで食事やワインやひとときのおしゃべりに興じ、その日を楽しみにして集まっている聴衆に囲まれていよいよオペラが始まる。音楽というものは即物的な音響だけでなく、そうした漠たる “アトモスフィア” が産み出すものなのです。僕は蝶々夫人の熱心な聴き手ではないのですが、スカラ座ならまた聞きたいなと堪能しました。音楽は、宗教がそうであるように、そうした文化が染みついた都市の土壌と人々とが一体となったときに真価をのぞかせるという事があります。
さらにいえば、それは吸い込む空気というものにもあって、地中海に浮かぶクレタ島のイラクリオンにあるクノッソス宮殿に足を踏み入れた時の乾いた空気は、これがミノス王や怪物ミノタウロスが吸ったものかと五感を研ぎ澄まされる感覚がありました。ミノスはいわば天照大神のような存在であって史実としてはほぼ無意味なのですが、鼻腔で感じる空気というものはその都市の土壌と同様にアトモスフィアを醸成していて、そうして様々な場所で味わった記憶が蓄積していって交叉し、僕の中でムーサとジョン・ケージがぴんと張った一本の線でつながるのです。するとギリシャ悲劇もイタリアオペラも、ベートーベンもチャイコフスキーもショパンもフォーレも、うまく説明できないのですが、みなその線上に連珠した点のようになるのです。「music は常に music」という境地はこうすることで訪れてきます。
楽譜(sheet music)の話に戻りましょう。音というものは三次元の存在です。なぜならポンと鳴らしたピアノの音(音響)は縦・横・高さのある空間の空気振動だからであり、我々の脳は音高、強弱、音色とともに空間を認識しています。そして二つ目の音が鳴ると、一つ目の音(の記憶)からの経過時間も認識の一部に加わります。つまり、音が音楽になると、次元が一つ進んで四次元の存在になるのです。楽譜には空間の響きを記しようがないので縦・横だけの紙の上、すなわち二次元の存在です。ということは楽譜を単に正確に音にしましたという演奏は次元が二つ足らない不完全な存在でしかありません。もちろん演奏会場という四次元空間の中で響いてはいるのですが、演奏家の頭にある二次元のイデアがそれで救われるわけではなく、つまらない演奏はムジークフェラインやコンセルトヘボウできいてもつまらないのです。
僕は「music は常に music」という場でたくさんの音楽を聴かせてもらい、四次元のイデアが頭にあります。何度もブログに書いたように「演奏会はホールが大事」というのはそれが次元の三つ目のクオリティを決定する不可欠の要素であり、四つ目を決めるテンポと同様なほどに重要なものだからです。ベートーベンの交響曲第4番の終楽章はひっそり始まり、いきなりフォルテが全奏でパンパンパンと短く鳴りますが、鳴った音と同じほど空間にふわっと散っていく響きが耳に残り、ホールの3次元(容積)、4次元(残響時間)が意識されます。公開初演したホールがヨーロッパ最大級の1200人を収容できた旧ブルグ劇場であり、その空間と残響を意識したベートーベンならではの構想だろうと思っております。
そのことはフルトヴェングラーが「テンポはホールで決まる」と語り、彼を師と仰いだチェリビダッケがそれを敷衍して「そのホールで聴衆の認識がついてこられるテンポで、つまり脳内で音が認識されてから次の音が鳴るテンポでやる」という意味の発言をしたことからもうかがえます。それを家の装置で再生して「常識外れの遅いブルックナー」と批判しても、ヘラクレスザールにいないからそう聞こえるわけで批判の一般性がないのです。 music は楽譜であると受容、教育され、大多数の演奏家も聴衆もそのカルチャーの中で「クラシック音楽」なるものを学習し、鑑賞している日本において「ウィーン・フィルを音の貧しいホールで聴いても時間と金の無駄ですよ」と唱えても正しくは響かないでしょう。
ペルルミュテールのリサイタルの感動は演奏の出来不出来というレベルの話ではなく、ウィグモア・ホールの音響と聴衆のクオリティを包括したところでだけ味わうことのできる体験だったということです。それを味わうには行くしかありません。いまインバウンドで多くの欧米人が大挙してやってきて寿司屋でホンモノに舌鼓を打ってる。ニューヨークのすし店で10万円も出してる客がびっくりする。時代は変わったものだと思いますが文化というのはそういうもの、そう簡単には変わらないのです。思えば高一のときに東名を6、7時間かけて家族で出かけた大阪万博で、4時間も並んで観たアメリカ館の月の石。行列は押せ押せで流されていき、ガラスケースをあっさり通り過ぎてなにやら黒っぽい物体でしたねで終わりました。それでも「見たぞ」という高揚した気分にはなったのが昭和でしたね。仮にペルルミュテールが来ていてもカラヤンやホロヴィッツほどの騒ぎにはならなかったろうし、19世紀のパリのサロンはそもそもそういう場ではなかったでしょう。好きだった彼女は思えばいたって地味な子で、クラスで目立つ存在でもなかったように思いますが片想いでほとんど口もきいたことがなかった。なぜ良かったかはわかりませんが無条件に良かったのです。なにか僕の中にメタフィジックに好きなものがあってそれにぴたっと来たんでしょう。音楽もまさにそういうもの。だから女性名詞なんでしょうか。
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