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クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

2014 AUG 4 12:12:59 pm by 東 賢太郎

「歌うチェロパート」、僕が大好きなのはこれです。最高の音楽、最高のチェロパート、それも男性の地声(裏声でない)で自然に歌いやすい。3拍子揃ったモーツァルトのクラリネット五重奏曲の第1楽章です。ンーでもアーでも結構。なるべく大きくていい声で歌ってみて下さい(五つある一番下のパートです)。

どうです、簡単な割においしい音をやらせてもらえるでしょう?中間部は速くて難しいですが無視して結構ですよ。

 

では次に同曲の第3楽章にいきましょう。こっちはもっと易しくて楽しいですよ。

冒頭の9小節のメヌエット主題(下の楽譜)は弱起(四分音符ひとつ)で始まります。弱起とはドイツ語でアウフタクトといい、普通は強拍ではありません。しかしモーツァルトはここでそうしたくない。あえて曲頭の音に (フォルテ)と書いて強拍にしています。そして3小節目の2度目の弱起は (ピアノ)と書いて弱拍にしています。

どうして?

これは物語の伏線なんです。三拍子の頭(イチ、ニー、サンのイチ)にアクセントを置かない。いきなりサンから強く始めてびっくりさせる。弱起というのはドイツ語の歌だと前置詞やデア、ダスのような定冠詞にあてる音符であることが多いので、だからアクセントがない(フォルテでない)のです。

ここのようにいきなりアクセントがつくと、僕の語感では、これは命令形に聞こえます。いきなり「何かしろ」と言われてる。主張されて説得されてるような感じです。

皆さんがわかりやすいように、この楽章のイメージをちょっと寸劇風にしてみました。こういうことなんです。

いきなり強気で迫る男()が女に自信満々にプロポーズする(弦楽器は1拍お休み)。すると女()がやさしく「うれしいわ、でもわたし・・・」と小声で不安げに答える。すると男がまた大きな声で「君、何を心配してるんだ、大丈夫だよ」とそれを打ち消す。(男)と (女)の会話です。

ところが2つあるトリオ(中間部)の最初の方で女の悲しい身の上話しが始まり、「実はわたし・・・」よよと泣きくずれる女を男がそんなこと関係ないさと元気づけます。ここはクラリネットは居場所がなくなって沈黙します。

もう一度冒頭の会話が戻り、女の元気が少し戻ります。

そこでやってくる2つ目のトリオ。上機嫌なクラリネットの伴奏でついに2人は仲よくワルツを踊りはじめる。そして、もう一度冒頭の会話が。女はすっかり安心、2人はめでたくハッピーエンドに。うーん、このカップル、何なんでしょうね?

以上僕の創作ですが、「男」と「女」なのかはともかく、冒頭のメヌエット主題の中の対比、これが重要だからモーツァルトははっきりと f  と p  と書いてるんです。

moz clt qt

さてこの楽譜にやや細かいことですが重要な音があるんです。5小節目の青丸で囲ったd(レ)の音です。

この音が和音をE7というドミナントを7の和音(セブンスコード)にする唯一の音です。ヴィオラのe(ミ)に対してd(レ)を長2度音程でぶつけますが、その音をモーツァルトはわざわざチェロという低音楽器の高い音に割り振っています。

第2ヴァイオリンでもヴィオラでもいいのになぜそうしないのか?

この音はチェロとしては高い方で楽器の特性から必然的に「緊張感を孕んだ目立つ音」になり、ちょっと唐突感すらあります。ただでさえ緊張感のある長2度のぶつかり、それをチェロの高音域の音色の緊張感で倍加したいというのがモーツァルトの意図です。

「君!何を心配してるんだ、大丈夫だよ」、男の言葉はいきなり割って入って女をはっとさせ、たった4小節で安心させて曲が結ばれるのです。短いメヌエット旋律に仕掛けられたドラマ。モーツァルトの天才の秘密がこんなちょっとしたところにもあるんです。

だからこのd(レ)の音がアバウトになってしまうのは絶対にだめなんです。おわかりですね?ちょうど真ん中にあるこの音こそ旋律の頂点で、女をはっとさせ、わかったわともっていく大事な一声。

これが緊張感がなくふにゃっとしてたら?まして音がはずれてたら?

そうね、考えとくわ、でおしまい。プロポーズ失敗。

この楽章のチェロはマッチョでエネルギッシュなイケメンじゃなくてはいかんのです。そうじゃないのに女の方だってよよと泣きくずれたりせんし、楽章全体の寸劇が「なんのこっちゃ?」の茶番劇になってしまうのです。

だから僕たちこの曲を何百回も聴いている手練れの聴衆は、この「レ」がきれいに、しかも緊張感とつややかな張りをもって鳴ることを知っているし、当然に期待しています。だからそうでないと、ああこいつらだめだなという判断に即座になること必至です。

モーツァルトはこわいんです。

僕らは人に聴かせる必要はないのですが、クラシック音楽というのはそういう「ツボ」があって、そういうものを大事にするのが大事だということ、それが暗黙に了解できている「する人」と「聞く人」がいる、そういう場があると素晴らしい演奏というものが生まれます。そういう体験を僕は何度もしています。

それはこのブログに書いた「上級者同士のキャッチボール」に非常に近いものがあると思います(キャッチボールと挨拶)。

ところが、プロの演奏家といってもいろいろあって、この「レ」以前の問題で、女の「うれしいわ、でもわたし・・・」が充分にp にならないなど、のっけから話にならない人はいくらでもいます。いくら指が回ったり超絶技巧があっても、剛速球だけどノーコンのピッチャーみたいなもので・・・。

さて、シロウトの我々ですが、僕の言いたいことは「チェロを歌うというのはただ音を出すんじゃないですよ、作曲家が音にこめた魂、ツボ、カンどころをおさえて、味わいながら歌うことですよ」とお分かりいただけましたでしょうか?

歌ってくださいと僕が申し上げているのは、歌っているとそういうことが自然と分かるようになるからなんです。

そして、その経験の積み重ねこそが皆さんの「クラシックを聞く耳」を鍛えていきます。今ここに書いたことはすぐにわからなくても大丈夫です。歌っているうちにいずれわかる人はわかります。

予習おわり。では第3楽章をどうぞ。

低音のd(レ)はちょっと苦しい(僕はミまでしか出ない)。無視しましょう。こういうことはぜんぜんかまいません。この練習はオケを歌うためのものです。オケでは常にチェロにおいしいメロディーが来るわけではありません。来たときにつかまえればいい。その練習なのでダメな部分は気楽に飛ばしていただいて結構なのです。それでも、ここだ!という所だけはうまく乗っかれること。それが大事です。いずれ楽譜を見ないで自然に乗っかれるようになります。そうなったらしめたものです。練習で第2,4楽章もやってしまってください。

 

モーツァルトではチェロにサン・サーンスやボロディンみたいな息の長いメロディーが出てこないことにお気づきでしょうか。それが古典派とロマン派の違いです。古典派ではオケでもチェロとコントラバスが分離せずバスを担当しています。それが別れてチェロが独立してメロディーを与えられたのはモーツァルトでもキャリアの最後の方(例・ジュピター)あたりで、本格的にはベートーベンからです。

古典派のバスはそういう意味で単純なのですが、これを歌うことで、さきほど指摘した「レ」が大事ですよということとはまた違った学習効果が得られます。つまり和声というものをいかにバス(一番下の音)が作って支えているかを経験的に理解できるようになるのです

覚えておいていただきたいのですが、クラシック音楽というのは和声の流れがいろいろな気分や情景の変化を雄弁に物語る音楽です。英語を学ぶときに「イディオム」というのが出てきましたね。あれと同じで、ギヴとアップという単語があってそれぞれは「与える」、「上に」という意味ですが、ギヴアップというイディオムになると「諦める」という別の意味になります。

和声の連結(英語ではコード・プログレッションといいます)は和声のイディオムであって、C(ドミソ)の次にG(ソシレ)が来るかF(ドファラ)が来るかでまったく雰囲気(意味)が変わります。ドの音を長く伸ばして伴奏にC⇒F⇒CでもいいしC⇒Am⇒CでもいいしC⇒A♭⇒Cでもいいですが、全部気分が違いますね。

クラシックの作曲家はそういう和声連結をパートごとに横の線で行い(対位法といいます)、それを縦に見ると和声になっているという書き方をするのが基本なのです。大学のころ僕はこの対位法と和声法を受験のノリで勉強し、これぞ音楽の「文法」だ!と妙に納得した記憶があります。

バスがドミソのどの音になることもありますが、それを歌っていると連結のルールがよくわかるようになります。このルールに慣れると和声のイディオムの意味がよりよくわかるようになって、音楽の流れの大きな文脈がつかめるようになってきます。

ギターコードだとC⇒Gならバスもドからソに「ドスンと」落っこちますが、クラシックだとそのバスをチェロが弾いてドスンが来るとコントラストが強い。あえてコントラストを強調しているように聞こえてしまいます。ですからドがシに半音だけ下がるという解決が多々出てきます。

そのバス(ド)が半音下がるという動きが次々と継続していくと、例えばC、G、C7、F、Fm、C、G7、Cなんていうもっともらしい和声連結になります。これにメロディーを乗っければ「クラシックっぽい感じ」になるというのがお分かりでしょうか?こういう「階段を下りる(上る)バス」はチャイコフスキーが専売特許みたいに多用します。

モーツァルトだってやってますよ。先ほどの青丸の「レ」をもう一度ご覧下さい。E7のバスのレは唐突感がありますね。ところがそれがド、シ、ラ、ソと音階どおり階段を下りてくるとなーるほどそういうことだったのかとだんだんそれが消えます。最後はミ、ミ、ミ、ラ!と盤石の安定感でE7⇒Aで終了します。

かようにバスの動き方次第でいつもドからソになるギターとは違ったニュアンスのC⇒Gになります。同じC⇒Gというイディオムなのに違う意味、ギヴアップの例なら「あきらめる」ではない新たな意味が出てくるのです。だからクラシックの和声イディオムは実に多種多様で、そこから「転調」という調性の枝分かれの可能性が生まれます。

このクラシックの和声イディオムを機能和声といいます。おおざっぱに言いますと、それを行き着くところまで実験したのがワーグナーで、ブルックナー、ブラームス、マーラーという後期ロマン派の人たちが「使い尽くす」ところまで行きました。

ところがワーグナーがその機能和声という文法をぶち壊す実験もしていて、その実験台として書かれたのが「トリスタンとイゾルデ」です。そして、その実験から発想して和声連結に新たな進化の道を開いたのはブルックナー、ブラームス、マーラーではなくドビッシーです。

だからドビッシーまで行くと「クラシックの文法で書いてない」、いわば異国語になります。そしてクラシック以外の音楽ジャンルで、僕の知る限り機能和声的にできていない音楽はジャズだけです。

ジャズピアノの和声は感覚的ですが非常に洗練されています。ドビッシーを始祖としているかどうかは知りませんが、そうでない機能和声的な音楽はどうしたって強力なクラシックの引力圏につかまります。

そこから脱出するにはああなった、つまりドビッシーもそうなのですが、「バスが支配するロジックを捨てた」んです。ピアノが弾けなかったベルリオーズの音楽もそういう感じがあります。だから斬新になったかもしれません。

「トリスタンとイゾルデ」はバスを追っかけても無意味です。何の調性感ももたらしてくれません。ワーグナーはわざとそう書いたからです。それとドビッシーの掟(文法)破りは正確にいえば違うのですが、ぶち壊しの精神は似たものです。

彼らはバスというものの強力な磁場、引力圏から逃れようとした。つまり、逆説的ではありますが、機能和声音楽というのはバスが支配しているということです。バスというのは?室内楽のチェロパートのことであります。

ですから、バスを歌ってたどるということは、皆さんがふだん耳にしている音楽の99%である機能和声音楽をよく知り、よく味わって楽しむための最強の方法であると僕は信じています。

例えばですが、これが身につくと単純な曲のコードは一発でわかるようになります。このクラリネット五重奏曲のドリルを繰り返しやれば、その程度のことは簡単にできるようになりますよ。

 

さて次回はいよいよヨハン・セバスチャン・バッハの曲を使って、もう少し上級コースに進みましょう。バスでなくアルトとテノールのパートも歌っていただき、いよいよオーケストラスコアに至る下準備のトレーニングをいたします。

 

 

クラシックは「する」ものである(5)-J.S.バッハ「G線上のアリア」ー

(こちらもどうぞ)

モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調 K.622

 

 

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