勝手流ウィーン・フィル考(2)
2013 MAY 4 21:21:23 pm by 東 賢太郎
1996年の年の瀬のことです。野村スイス勤務だった僕は両親、家族とお正月を迎えるために年末から一時帰国して東京の自宅にいました。そこへ突然、秘書室より「社長が所用でウィーンに行くからすぐ現地で待ってお供しろ」という耳を疑う電話があったのです。
当時、欧州ビジネスに力を入れていた野村證券はウィーンに駐在員を置き、ウィーン・フィルを日本に招へいするなどウィーン楽友協会(Wiener Musikverein)と近しい関係を築いていました。その関係で楽友協会長からのニューイヤーコンサートへのご招待だったのです。僕の仕事はそれと関係はありませんでしたがなぜか白羽の矢が立ってしまい、急きょ12月30日のフライトを取って現地へ飛びました。
1997年1月1日、ウィーンは零下20度という極寒の朝を迎えました。世界の40か国以上に生中継され元旦の風物詩になっているニューイヤーコンサートは黄金の間(上)と呼ばれる楽友協会(ムジークフェライン)大ホールで行われます。このホールでウィーン・フィルを聴くのは全クラシックファンの究極の憧れと言っていいでしょう。僕も初めてであり、時差ボケも吹っ飛んで五感を全開にしてコンサートに臨みました。
指揮者がフィラデルフィアで2年聴いたリッカルド・ムーティだったのもご縁でした。右はその時のCDです。この時聴いたウィーン・フィルの音は一生忘れません。まさにレコードでなじんだ「あの音」なのですが、ムジークフェラインという天下の名ホールのアコースティック、空気感の中で聴くと、他のどこでも味わったことのない馥郁たる芳醇な美味とでも表現するしかない、暖かくも細部までクリアな音が体を包むのです。夢のような時間はアッという間にすぎ、終演後はムーティーのサインをもらったりしながらあまりの幸運に頬をつねりたくなる気分でした。これがその時の楽屋の写真です。後方の左から2番目が僕です。
その後、僕らは楽友協会アルヒーフ、つまりウィーン・フィルにまつわる大作曲家たちの自筆楽譜などをしまってある収納室へ招かれました。協会長が白手袋をはめて腫れ物に触るように慎重に開いて見せてくれたのがモーツァルトのピアノ協奏曲第20番K.466、シューベルトの交響曲第9番ハ長調、ブラームスのヴァイオリンとチェロの二重協奏曲などでした。シューベルトの最初のホルンが現行譜と違うのに驚いたら協会長に驚かれ、ブラームスはバーデンバーデンで初演したのになぜここにあるのかと尋ねたら、ウチで働かないか(笑)と言われました。
出てきませんでしたがシュトラウスの青きドナウも、ベートーベンの第九も、エロイカのナポレオンへの献辞もここの書庫に眠っているのです。本当に雇ってもらいたいぐらいです。これは千利休の茶室で彼の茶碗でお点前をいただいたようなものです。指揮者マーラーのコメント入りフィガロの結婚パート譜なんかもあるのです。違う風にフィガロをやろうとすれば、マーラーに挑戦することになるわけです。ショルティは「ウィーンで一番好きな道は?」と聞かれたら「空港へ行く道だと答えるね」、と言ったそうです。このオーケストラを指揮するのがいかに大変か、でもやり遂げたらいかに名誉なことか、何となくわかりますね。
その日は楽友協会幹部とウィーン・フィルのメンバーの方たちとの盛大な夕食会でした。丸テーブルがたくさんあって、僕のテーブルはヴィオラ・セクションの方々でした。僕は昨夜時差ボケであまり寝ておらず、ワインが回ると酒に弱いので眠気もきておりました。しかもこっちはスポンサーですから楽員の方がホストして下さって、野村のことをたくさん質問されたりしました。つまらない説明をしている時間が長く、残念なことに楽員のお話もお名前もけっこう失念してしまいました。「ウィーン・フィルは団員も若くなって変わろうとしている」、「伝統は大事だが時代も変わる」というご発言は印象に残っています。はっきり覚えているのはマーラーの話です。「自分たちはマーラーの演奏の仕方をよく知らなかった(!)。ウィーン・フィルにそれをたたきこんだのはバーンスタインだ。」これは驚きました。バーンスタインは信頼されているという感じでしたね(少なくともヴィオラ・セクションでは。でも、良く考えると彼らが好きな「死んだ指揮者」だったんですが・・・・)。
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花崎 洋 / 花崎 朋子
5/5/2013 | 8:17 AM Permalink
何とも、うらやましい、お話の数々です。このお話、1件で私のクラシック音楽体験の何十年分もの密度の濃さですね。やはり、バースタインとウィーンフィルは相性も良いし、信頼関係もあったのですね。バーンスタインのマーラー、一度だけ1984年に滞在先のニューヨークのカーネギーホールで交響曲4番を聴きました。なんとも自然な流れの名演でしたが、バーンスタインが乗って来て、極端にテンポを速めようと楽員を懸命に煽っても、楽員達が言うことを聞かずに、テンポの加速をかなり抑えめにしている箇所が、何箇所かあったのが、いかにも、ウィーンフィルらしいなあ(元・手兵のニューヨークフィルの場合は「イヌ的に」100%言う事を聞いていましたので)と、印象に残っています。花崎洋
東 賢太郎
5/5/2013 | 11:42 AM Permalink
バーンスタインのマーラー、僕はロンドンのバービカンで4番を聴いたきりです。アムステルダム・コンセルトヘボウで。あれがウィーン・フィルだったら・・・今まで綿々とそう思っていました。それを名ホールであるカーネギーで!!花崎さん、それは誰が聞いてもうらやましいです。バーンスタインがウィーンに行ったのはユダヤ人だったこと、マーラーが売れ筋だった(特に日本)ことと無縁でないと思いました。オペラはだめでしたし。彼が小澤さんの先鞭をつけたかもしれませんね。でも小澤さんはマーラーもだめでした。お茶漬け国民にあれはしんどい。日本人は愛国心でCDを買ったりしないということをウィーン人は読み違えましたね。
花崎 洋 / 花崎 朋子
5/6/2013 | 9:36 AM Permalink
カーネギーホールでのバーンスタインとウィーンフィルは3日連続で聴きました。初日が「ハイドンV字とエロイカ」、二日目が「モーツアルト40番とマーラー4番」三日目が「ブラームス2番(もう片方は失念しました)」というプログラムで、二日目の出来が最も良かったように記憶しております。ライブ演奏は聴いたことはありませんが、CDで聴く限り、いくら指揮者がバーンスタインでもアムステルダム・コンセルトヘボウでは、特に音色の面等でマーラーに必要な要素が欠けていて、私も非常に残念に思っておりました。花崎洋
東 賢太郎
5/6/2013 | 1:41 PM Permalink
88番(V字)はワルターなどなぜか大物がやっているハイドンですが、フルトヴェングラーもウィーンPO盤がありましたしブラームスの2番はウィ-ンPOが初演。その他いわずもがなのオハコばかりです。都をどり=祇園、という感じがぴったりです。こういう幸福なオケは他にないですね。
花崎 洋 / 花崎 朋子
5/7/2013 | 6:29 AM Permalink
おっしゃる通り、たいへん幸福なオケですね。V字はクナッパーツブッシュの録音もありますし。あのフルトヴェングラーも手兵のベルリンフィルとは「正妻」として接し、ウィーンフィルとは「恋人と接するが如く」と、自身で表現していたとか。