勝手流ウィーン・フィル考(1)
2013 MAY 4 19:19:34 pm by 東 賢太郎
彼らが望むのは、死んだ指揮者や死にかけた指揮者ばかりで、他の指揮者には関心を払わなかった (「レコードはまっすぐに」ジョン・カルーショー著)
デッカの大物プロデューサーだったカルーショーのこの本は実に面白いです。レコード会社のサイドから見たウィーン・フィルの生態が生き生きと描かれているからです。ビジネス書としても示唆に富み、このオーケストラに関心のあるかたにおすすめします。
こんな感激を味わって、その上になお報酬をもらえるとは・・・・ウィーン・フィルのクラリネット奏者レオポルト・ウラッハがフルトヴェングラー指揮の或るコンサートの後で(「栄光のウィーン・フィル」オットー・シュトラッサー著)
シュトラッサーはウィーン・フィルのヴァイオリン奏者を45年つとめ、58-67年は楽団長の地位にあった人。この本はオーケストラの中から見た指揮者像、経営の内部事情、政治などが生々しく書かれています。以上の2冊でこの名門オーケストラがどういうものか、彼らが残した録音がどういう背景でできたかおおよその輪郭は知ることができるでしょう。
このシュトラッサーが第2ヴァイオリンとして活躍したバリリ弦楽四重奏団はこのような名録音を残しています。ウィーン・フィル団員がこのように室内楽団をつくる伝統はベートーベンの弦楽四重奏曲のほとんどを初演したイグナーツ・シュパンツィヒまでさかのぼり、ウィーン・フィルが作曲家のオリジナル演奏の遺伝子を脈々と継いでいることがよくわかります。
フルトヴェングラーに感激したウラッハのクラリネットが聴けます。モーツァルトとブラームスの2大クラリネット五重奏曲です。ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団とのアンサンブルはミニ・ウィーンフィル と言っていいでしょう。全楽器がタテに合わせるよりヨコの歌を重視。誰が主役ともつかない自己主張、微妙に流動的なテンポと間、華と艶(あで)やかさのある音程の取り方、クリーミーで暖かい音色の肌触り。これらの独特のねっとりした甘さは五感を刺激してやみません。これがそのままウィーン・フィルの魅力になっているのです。
こちらはより新しい録音でウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団によるハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブラームス。これとは違った流儀の名演はたくさんありますが、これは最高の美音で弾かれたもののひとつであり、何の違和感も抱かせません。のびやかに自然体で奏でられたウィーン流の演奏はやはり作曲家の出自にかなったものと思わされてしまいます。無言の説得力があるのです。
ウィーン・フィルはネコ型だ書きましたが、何が彼らを誇り高いネコ属にしているか、大きな理由はここにあると言っていいでしょう。
この人たちは土地っ子です。こうしてウィーン生まれの音楽を自分たちの流儀で毎日のように演奏しています。ウィーン・フィルというのは、こういう人たちの集団なのです。だからこの人たちの前に立ちはだかって、ベートーベンのカルテットの楽譜を出してよそ者があーせいこーせいと言ったところで「キミ、ところで誰?」と一蹴されるのが落ちでしょう。ウィーン古典派の大作曲家を千利休とすれば、ウィーン・フィルは表千家の家元と許状をもった弟子たちの集団と言ってそうはずれていないと思います。
この人たちは夜はウィーン国立歌劇場のオーケストラピットでオペラの伴奏を弾いています。国立ということは国家公務員ですから、給料はアメリカの一流オケより低い。そこで、アルバイトをしようじゃないかと組織したのがウィーン・フィルです。自主運営団体だから常任指揮者は置かず、団員の意見で誰を呼ぶか決めます。もちろん芸術的な相性を考慮するのですが、「死んだ指揮者」は呼べないし、相性は良くても客が入らず印税が稼げない指揮者では困るのです(なんといってもバイトですから)。
「和音は少しずれたほうがまろやかな音になる」と伝統的に考えているこのオーケストラに対し「私はそうは思わない」と真っ向から立ち向かったゲオルグ・ショルティは、最も好かれなかった指揮者のひとりでしょう。しかしウィーン・フィルは彼とワーグナーの「ニーベルングの指輪」全曲をデッカに録音してレコード史上に残る売り上げを記録しました。その制作上の裏話は前掲書に詳しく書いてあります。
愛憎とビジネスは相反することもあるのです。
ショルティはハンガリー系ユダヤ人でありレナード・バーンスタインはロシア系ユダヤ人です。何より、指揮者としてこのオケに君臨した作曲家グスタフ・マーラーはチェコ系ユダヤ人です。ブルーノ・ワルターはドイツ系ユダヤ人ですが、相思相愛だった彼の遺産はこのオーケストラに相続されています。前掲書には「ユダヤ系指揮者は好きでなかった」とあるのですが、それが愛憎の直因であるほど事は簡単ではないということでしょう。こうした書物も著者の主観があり、一部の奏者に聞いただけの話かもしれず、流布している噂話も尾ひれがついていると思います。
どうせ主観なのですから、自分の耳で聴いたものだけを信じて、これから独断と偏見にもとづいて大好きなウィーン・フィルのことを書いてみようと思います。
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花崎 洋 / 花崎 朋子
5/5/2013 | 8:04 AM Permalink
ウィーンフィルが、ウィーン国立歌劇場管弦楽団員の「アルバイト」の位置づけとは、たいへんスッキリしました。岩城宏之氏の著作の中に、ウィーンフィルの定期演奏会に招かれて、週末に三日間演奏会を指揮しても、最初の2回は、「ゲネプロ」扱いで、ギャラが一切出ないという取り決めの話が載っていましたが、合点です。ショルティのリングの話で思い出しましたが、小沢征爾氏のニューイヤーコンサート、CDの売り上げは大変好調でしたが、楽員達には「楷書体の輪郭の明確な小沢流」が不評だったらしいですね。
それにしても、先の私の「ウィーンフィル」考、東さんのご投稿の「前座」としての内容にも遥かに遠く、お恥ずかしい限りです。花崎洋
東 賢太郎
5/5/2013 | 11:20 AM Permalink
世界のカジノ売上を全部足しても今やマカオにかなわないそうです。クラシック界の日本市場のプレゼンスはそれに近いでしょう。カルロス・クライバーは海賊盤(自分のも!)を秋葉原(たぶん石丸)で買うのを来日の楽しみにしていたそうです(もうひとつはカノジョでしたが)。物故指揮者は(フルトヴェングラーやワルターでさえ)僕はヨーロッパ勤務時代にCDを探すのに苦労しましたからクライバーの気持ちはとてもよくわかります。ベームはおろかカラヤンでさえ、今はきっとそうなってきているでしょう。だから物故指揮者が好きというウィーン・フィルの本音はいとおしく感じるのですが、そこは政治、権謀術数、ビジネス感覚にすぐれたウィーン人です。いずれ中国人指揮者が国立歌劇場音楽監督という日が来るほうに僕は賭けます。でもそれで伝統文化が守られるならいいのではないでしょうか。お金がかかりますからね。京都も、市長をシュトラッサ-さんみたいな人にしたらどうでしょう?
花崎 洋 / 花崎 朋子
5/6/2013 | 9:29 AM Permalink
腕の故障で絶頂期に引退を余儀なくされた、バリリ四重奏団のワルター・バリリも、晩年になって日本でウエストミンスター盤がCDになって復刻され、自分の若かりし頃の音が蘇った時、大いに喜んだそうですね。日本のCD市場の凄さですね。また、「ビジネス感覚の優れたよそ者」に観光政策を任せるのはまさに妙案と思います。京都の今まで表に現れていなかった魅力が、引き出されることでしょう。花崎洋
東 賢太郎
5/6/2013 | 1:19 PM Permalink
ウエストミンスターのLPというのは僕ぐらいの世代にとっては特別の輝きがあったように思います。バリリSQの音もLPで覚えています(ワルターの大地もそうですが)。バリリSQはドイツ統治から解放された世代の新生カルテットなのでウィーンなまりはやや希薄なのでしょうがそれでも戦後のベートーベンの古典となったブタペストSQに比べればミニ・ウィーンフィルですね。懐かしい響きです。
花崎 洋 / 花崎 朋子
5/7/2013 | 6:25 AM Permalink
その懐かしい響き、断然LPで聴くべきですね。CDは香りが薄いです。