モーツァルト交響曲第39番変ホ長調 K.543
2013 JAN 28 16:16:40 pm by 東 賢太郎
理由はわかりません。絶対音感はないのですが絶対調性感のようなものがこの調だけにあります。だからベートーベンの皇帝やシューマンのライン交響曲など、第1音が鳴った瞬間に耳が吸い寄せられるのです。モーツァルトにはこの調の曲が比較的多く、なにか特別な思いがあったのではないかと思っています。フラット3つは管楽器が吹きやすいからという説もききますが、弦楽四重奏やバイオリンソナタにも多用しているのでそれだけが理由とは思えません。
何といってもあの「魔笛」が変ホ長調であるということが重要です。僕にとって、あの序曲の和音が八長調やト長調で始まるというのは太陽が西から登るに等しく、想像しただけで吐き気がします。あの奇跡的なオペラが奇跡たり得たのとこの調性で書かれたことは、厳密な意味で不可分の関係にあるにちがいないと信じています。
そのことは例えば管楽器の扱い方を見ますと、魔笛は当時新鋭の楽器であったクラリネット、バセットホルンを重用するなどいくつかの顕著な特徴があり、変ホ長調でこれらの楽器が発する音の色と曲想が深くかかわっていることに一因があるからだと思われます。交響曲でクラリネットを使ったのはたった4曲(31,35,39,40番)しかなく、35、40番では改訂版に入っただけ、31番もニ長調というクラリネット的でない調性であることを考えると、この39番が曲想をクラリネットと不可分に練った唯一の交響曲といえるのです。作曲に当たってモーツァルトがこの曲に負わせた独特の位置づけが浮かび上がってきます。
以下、僕のお薦め盤を書きますが、モーツァルトの音楽は多様性を秘めていてある特定のタイプの演奏が代表するという想定は到底不可能だろうと考えています。ですから色々なタイプの演奏が並んでしかるべきですし、僕もそれを許容して聴いています。例外は古楽器演奏で、これだけは極めて苦手です。あのキーキーいうバイオリンで半音低い調で聴くなどという拷問は、仮にそれが当時の音であったとしてもまっぴら御免です。モーツァルトが現代のオケを手にしたならこっちを選んだろうことは、彼の手紙などから推察するしかありませんが、僕はそう信じたいです。
クレンペラーの「魔笛」は特筆すべき名演ですが、それを髣髴させる意味深さ。全曲にわたるオケの音程の良さは指揮者が只者でないことを刻印。何も変わったことはしていないが、素晴らしいテンポの中にこの曲に求められるものがすべてある第1楽章の立派さはこれだけで拍手もの。第2楽章のオケの美しい音程(特に木管)、騒がしくない第3楽章メヌエットの音楽的なこと。終楽章はゆっくり目のテンポに木管の合いの手が明滅、弦の内声部がものを言い、ふっとした和声の変化にこの曲が秘める悲しみが魔笛に通じていることを気づかせてくれます。吹きにくいファゴットのパッセージも意味を持たせ、速いテンポだと一陣の風のように通り過ぎてしまうこの楽章に一つの有力な解決を与えています。モーツァルトがこのテンポを意図したとは思いませんが、クレンペラーの懐の深さに脱帽です。
この第1楽章のレベルも非常に高い。トランペット、ティンパニの付点音符リズムの扱いが生ぬるいとこの楽章は死んでしまいますが、ほぼ理想的な演奏が聴けます。第2楽章はやや速めですがアンダンテ・コン・モートはこのぐらいかもしれません。メヌエットのテンポもいいです。終楽章はシャンペンの泡立つ明るいモーツァルトを感じさせるのに「ぎりぎり遅すぎない」絶妙なテンポで、オケのうまさも最高。音はいつも透明です。僕は、自分で実際に行って聴いたホールのうち、ボストン・シンフォニー・ホールを世界のベスト5に入れます。この録音はあそこのアコースティックを感じさせてくれますが、この音響とこの演奏技術があってこそ活きるこの終楽章のテンポに、ラインスドルフの卓越した経験と知性を感じざるを得ません。
ブルーノ・ワルター/ ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
ワルターはこれをステレオで再録していますがこの盤の方が上です。第1楽章は序奏からティンパニを強打し、主部アレグロも堂々とアポロ的に進行します。一見男性的なのですが、弦の部分はややテンポを落として内声部までが徹底的に歌うなどワルターならではの至芸が詰まっています。アンダンテは木管のピッチがあまり良くないのが残念。メヌエットの重量感はベートーベンのようでテンポを落とさず終結。終楽章も快速ですがバイオリンが軽い弓使いではなく重たく弾いていて独特であり、シンフォニーを聴いたという感覚になります。モーツァルトの意図がこうだったとは思いませんしデフォルメを感じますが、スコアにはこう演奏できる要素、萌芽が確かにあります。それを「発芽」させてベートーベンに遺伝する姿として示した、記憶に足る演奏です。単に形だけオーセンティックを装った古楽器演奏などよりはるかに歴史的意味を感じる演奏です。
序奏から肩に力をいれないインテンポ。アレグロも地味にあっさりと進行しているように聴こえますが、耳を凝らすと弦のフレージングや細かいパッセージまで入念に磨かれていて、ちょっとしたスタッカートが音楽に小気味よい推進力を与えているなど奥義が見えてきます。アンダンテはバンベルグの木管が鄙びたいい味。メヌエットもバイオリンがスタッカート気味のフレージングでこの潔癖感はユニークです。ベートーベンのスケルツォに繋がるものがあります。終楽章も弦と管の絡み方が美しく、うるさくはないが雄弁にものをいうティンパニとの3者の絶妙のアンサンブルとなっていてとても室内楽的です。ワルターとは対照的といえましょう。カイルベルトは魔笛にも名演がありますが、それとの近親性を感じます。
イシュトヴァン・ケルテス / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1963年、若くしてVPOに起用され将来を嘱望されたケルテスの録音。新人がモーツァルトのメジャー曲をDeccaにという破格の企画は2年前の新世界が当たったからだろう。しかしここでのオケの自発性と自然体に耳を傾けると楽員も嬉々として弾いているのではないかと思え、ケルテスへの嘱望がセールストークでなかったと確信できる。テンポ、フレージング、プロポーション、どれをとっても文句なく見事な39番である。
エヴゲニ・ムラヴィンスキー / レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
序奏の第1小節からこのオケの尋常でない音に圧倒されます。この精緻で室内楽的なアンサンブルを作り上げたムラヴィンスキー のすごさはチャイコフスキーよりもショスタコーヴィチよりも、このモーツァルトによく表れていると思います。メヌエットのオケ全体の立体感の作り方は究極の名人芸。終楽章アレグロは快速運転のスピード感の中に見事な強弱やニュアンスの変化をつけ、弦のフレージングの使い分けも何種類もあって芸が細かく、それらが何のわざとらしさもなく平然と演じられるのに唖然とするばかりです。いかに時間をかけてオケを仕込みまくったか空恐ろしいほどで、共産主義時代でないともう無理だろうなあとため息が出ます。ただこれで魔笛はできないなという、非オペラハウス的演奏芸術の極致です。
演奏はモーツァルト的なものよりベートーベン的要素が前面に出た、音楽評論家的に言うといわゆる「ドイツ的」なもの。この言葉、ドイツでも英語圏でも聞いたことがなく、「今度はイタリア抜きでやろうぜ」と同じく、日本人が勝手に作った片思いのイメージのようです。例えば評論家が判で押したように「ドイツ的な指揮者」と呼んでいる上記のカイルベルトの演奏をこれと聴き比べてください。この朝比奈盤がドイツ的なら、カイルベルト盤は少しも「ドイツ的」ではありません。このドイツ的という言葉は、「フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュの時代のロマン派音楽演奏における主情的な演奏様式」を包括的に表現する言葉としてならまあまあ適確です。しかしそういう演奏様式が国名を冠するほど代表的なのものと思っているドイツ人はまずいないでしょうし、まして、いまどきそういうタイプの指揮者は世界にもいませんから、朝比奈隆というブランドは日本という特殊なマーケット事情で成り立っていたのだと僕は考えています。アールヌーボーのランプが好きな日本人でエミール・ガレに似た味を出せる日本のガラス職人を追い求めている人を知っていますが、「ドイツ的」という言葉にはそれと同質のものを感じます。この演奏、より正確には「フルトヴェングラー的」です。フルトヴェングラーという人は音楽家以前に「一世一代の名優」であり、彼が振れば何でも彼の音楽になってしまい、誰もそれを批判しないという意味で、演奏史上に稀有の存在でした。少し乱暴に言えば美空ひばりの存在に近いでしょう。「川の流れのように」を彼女並に上手に歌う人はいるかもしれませんが、それが彼女以上と評価されることはありません。もし外国人に彼女の歌を「日本的ですね」と言われたとして、返答に窮するのは僕だけでしょうか。それが「美空ひばり的」ではあっても。さて、この朝比奈盤ですが、フルトヴェングラー的でもなんでも、僕は好んで聴いています。録音も含めて考えると、僕はご本家盤(2種ありますが)より好きです。並録のシューマンのライン交響曲(これも変ホ長調)、フルトヴェングラーもクナッパーツブッシュも振らなかった曲なので、朝比奈の真骨頂はここに現れているかもしれません。
(こちらは大フィルとのライブ)
ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団
速めの序奏に続く主部のテンポが素晴らしい。弦のアーティキュレーションは明確で大きなカルテットのよう。トランペットとティンパニが存分に自己主張します。第2楽章の音程の良さも出色で指揮者の耳の良さを証明。音価を短くとりアクセントを際立たせたシンフォニックな第3楽章はユニーク。終楽章はクリーブランドO.の質量感のある合奏で軽く感じさせません。僕が大学時代に買ったLPが右のジャケットでなつかしい。セルの三大交響曲で最もすぐれたものでしょう。
フェレンツ・フリッチャイ / ウィーン交響楽団
僕はフリッチャイのモーツァルトが好きです。第1楽章大変な名演。推進力あるテンポに生気あるオケ、しかし弦の音色は適度にくすみがかって滋味があり、39番にまことにふさわしい。管弦のバランスも最高で張りのあるフルート、肉感的ですらある内声部のチェロなどが次々に明滅して音楽の発見をもたらすのです。第2楽章のテンポと陰のある表情が内面を鎮静させ、第1楽章との緩急、緊張と弛緩の対比は同じ変ホ長調の魔笛の予感を感じます。第3楽章は第1楽章の密度と味に欠け木管のコントロールと音程の甘さが残念。終楽章は微妙に遅めで、弾き流すことなく明瞭なアーティキュレーションの弦、歌い自己主張する木管と彫の深い表現を心がけています。
カール・ベーム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベームにはモノラルのACO盤、晩年の新しいVPO盤もあるが、このBPO盤が群を抜いて素晴らしいです。どの盤も序奏にティンパニを効かせており(最も強く叩かせているのはフルトヴェングラーでしょう)ごつごつした造りですがBPOとのがそのポリシーを貫徹しているのです。例えばそのティンパニは終楽章にも生かし起承転結の形式感を出している。40,41番より39番は骨格を見失った演奏が多く、軽すぎたり感情移入でプロポーションを崩したりと不満が残りがちで、特に第1楽章が重く終楽章があっさり軽い竜頭蛇尾型が多いのです。最後までソナタを感じさせるこのベーム盤は、それを重く見ない人にとっては平凡でしょうが、僕はしばしば取り出して傾聴しています。
ネヴィル・マリナー / アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
この楽団Academy of St. Martin-in-the-Fieldsはロンドンのトラファルガー広場、ナショナル・ギャラリーの右横にあるセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会の室内オーケストラです。邦訳名のアカデミー室内管弦楽団はどう見てもおかしい。「室内」などないしacademyが好楽家・学生の集まりで楽団のことだから「管弦楽団」は重複だ。この教会でこのオケのバッハを聴いたことがあるが馥郁たる見事な響きでした。この39番、断言するが名演です。我が国ではこういうものをほめると通でないと思われるらしく話題になった形跡がありませんが、そんな通になっても得るものはない気がします。39番を初めてという方に、僕は迷わずこれを薦めてます。
コリン・デイヴィス / シュターツカペレ・ドレスデン
ブリュッヘンの39番は皮張りの小ぶりなティンパニを固いバチで叩かせていました。これは見識で、この曲はクラリネット入りのes-durの特性で地味めに響くのですが、僕はトランペット+ティンパニ入りという性格を重視しています。このデイヴィス盤はそれを古雅なDSKの音響の中に味わえる立派な骨格のもの。木管も要所でクリアに聞こえ、漫然と聴くと平凡なようですが曲のテクスチュアが立体的に描かれています。当たり年のボルドーのしっかり重めの赤ワインというところでしょう。
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Categories:______モーツァルト, クラシック音楽
花崎 洋 / 花崎 朋子
1/29/2013 | 8:38 AM Permalink
福田さん、そうなんですね。変ホ長調は歌いやすい調性なんですね。プロの演奏家は、きっと歌いにくい調性の曲でも、聴く人には分からないように難なくこなしていらっしゃるので、今まで気付きませんでした。自然界はちょっとだけフラットしている・・・。人間に癒しをもたらす優しい顔をしている時には、そうですね。花崎洋
花崎 洋 / 花崎 朋子
1/29/2013 | 8:44 AM Permalink
変ホ長調の曲、英雄交響曲や皇帝今コンチェルトからは、構成美、絢爛豪華、重厚さというイメージが浮かびますが、同じベートーヴェンのピアノソナタの悲愴2楽章など、柔らかく包み込むような曲もあり、良くわからなくなってしまいます。東さんは、同じフラット3つが短調になった「ハ短調」の曲は、お好きですか?
確かブルックナー8番はお好きだったはずです。ちなみに私は「ハ短調」は劇的過ぎ、ストレスが強くて、苦手です。花崎洋
花崎 洋 / 花崎 朋子
1/29/2013 | 9:47 AM Permalink
訂正いたします。アレッと思い、楽譜を見ましたら、ベートーヴェンの悲愴2楽章は「変イ長調」でした。♭1つとは言え、大きな違い。申し訳ございません。花崎洋
東 賢太郎
1/29/2013 | 11:49 AM Permalink
いえ、Es-dur以外に好き嫌いはないといいますか、そもそも耳では調性の判別がついていません。どうしてEs-durだけそれができるのかというと魔笛、39番、ピアノ協奏曲9・10・14・22番、シンフォニーコンチェルタンテ(両方)、ピアノ5重奏、ホルン協奏曲2・3・4番などが好きで、たまたま全部がEs-durであり、聴きこんだので曲を調性ごと(原音で)記憶してしまっているからだと思います。その結果でしょうか不思議なもので興味がなく6、7番あたりは曲をあまり覚えてもいないマーラーまでも、8番だけは少なくとも前半は良く頭に入っています。
花崎 洋 / 花崎 朋子
1/29/2013 | 12:23 PM Permalink
「原音で記憶」とは、なかなか出来ることではないと思います。
東 賢太郎
1/29/2013 | 1:50 PM Permalink
ベンチャーズで音楽に入ったのですが、頭の中でリプレーするクセがついています。曲があまりにすぐ終わってしまうのですが、何度も同じものをかけると親父に怒られるので仕方なくです。だからちょっとピックが弦に触れた雑音などもしっかり覚えていて頭のリプレーでもそれが鳴ります。それと同じものだとおもいます。