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アントン・ナヌートのブラームス4番

2013 FEB 23 22:22:36 pm by 東 賢太郎

最近、コンサートでいいと思うものが少ない。やはり自分の楽曲の記憶を作った大指揮者の演奏、海外各地で16年聴いてきた重みのある演奏の記憶というものと無意識に比べてしまうからだろうか。

今の指揮者たちの演奏というのは傷がない。きれいに整っている。楽器間のバランスもいい。オケの難所はよくトレーニングされている。曲のツボと盛り上げどころを知っているから、その曲なりには感動する。だから、今日はひどいのを聴いた、外れだったというのがない。お義理のブラヴォーぐらいは常に一定量が飛んでもいいぐらいの、ほぼ予定調和的な満足感は保証付きなのだから、もう一度足を運んでもいいかな、まあそのぐらいの感じにはなる。

しかし、どうも、僕にはそこで音楽が産まれ、生成されている感じがしない。海外で何度か目撃した「事件」、たとえば、目の前で尋常ではない精神活動が営まれて、名手たちが電気でも走ったように反応し、一期一会の集中力で誰のせいでもなく150%もの結果を出してしまった、とでも表現するしかない奇跡的な現象は、残念ながら今の日本の演奏会場で起こることはとても期待薄なのではないかと思う。

これはどういう理由でそうなってきているのだろう?ひょっとして  「ブラームス4番、お客が喜ぶ指揮マニュアル」 みたいなものがあって、ここはこう振れ、ここはこう盛り上げろなどと長年の演奏tips(秘訣、ツボ)でも書いてあるんじゃないかと疑うぐらいだ。Tip1・フルトヴェングラー型、Tip2・ワルター型・・・などとstereotype(陳腐な定型)と化しているんじゃないかと。

学生時代にアメリカはグランドキャニオンへ行った。自然の驚異に心底感動した。高所恐怖症なので1000メートル垂直に切り立つ崖はこわかったが、近づいてみるとちゃんとバリアが張ってあって安全だ。落ちようがない。こういう「絶対安全」を保障された状態で感じる「自然の驚異」というのは、僕はその時そう感じたのだが、実はまがい物だ。あれを発見した探検家に、そんな保証はなかった。彼の感じた驚異は本物だ。

どうも最近の指揮者の演奏は、「絶対安全」「落ちようがない」場所から眺めるキャニオンに似て、昔日に僕が感じたまがい物の感じを覚えるのだ。聴衆はブラームス峡谷という景色を見に来た観光客であり、怪我されては困るし、崖までの距離から角度から全部が主催者に計算されたものを見せるだけも充分に「自然の驚異」を感じて帰ってくれるだろう。そうだろうか?いや、そうならば家でCDでも聴いていればいいんじゃないか?

ストラヴィンスキーから春の祭典のスコアを受け取った初演指揮者ピエール・モントゥーがそこに見たものは、バリアのはってないグランド・キャニオンそのものだ。落ちたら即死だ。でもそれから1世紀がたって、今はtipsが確立している。バリアが張られ、学生オケでも安全に弾けてしまう。聴く方のハラハラもない。そこで演奏されている春の祭典は、はたしてモントゥーやアンセルメの時代と同じ春の祭典と言ってしまっていいのだろうか?

前置きが長くなったが、アントン・ナヌートが紀尾井シンフォニエッタを振ったブラームス4番は久々にそんなことを考えさせる演奏だった。僕はこの曲をよく知っている。何百回も聴いている。ピアノでも弾いている。だから少々のものをいまさら聴いても、自分の中で何かの生体反応が起きることはほとんど期待もできない。しかも悪いことに当日は仕事疲れでだるく、気分的にもすぐれず、前半プロはジークフリート牧歌の一部を除き、大変失礼ながら夢うつつでほぼ失念した。

しかし結果として、そんな最悪の状態でこの4番を聴いて、第1楽章が終わると胸が熱く、不覚にも涙があふれ出た。以後は音楽に集中でき、毎度ある自分の席で聴くバイオリンのトゥッティへの不満はここでもあったが、それを払拭してくれるほどの大きな満足感を与えていただいた。81歳のナヌートはこの音楽をお客さん向け安全志向とは程遠い位置から眺めている。ベートーベンの角度に位置する視点から古典派交響曲の精華として。

後期ロマン派寄りに解釈されがちな第2楽章も無用にそちらによることはない厳しいものだ。そう聴こえない第1楽章だって、僕はピアノで弾いて気がついたのだが、ドからシにいたる12音すべての長、短調和音が出てくるという意味で非常に後期ロマン派音楽の相貌を内に秘めている音楽なのである。しかしナヌートはそっちへ接近することを自ら断っている感じがした。一つの見識であり、それはおそらく、彼がバリアの張ってないキャニオンに立って感じ取った「自然の驚異」だと思う。

オケはホルン、ティンパニ、クラリネット、フルートが良く、第1楽章でナヌートの速めのテンポに弦がやや先走ったのを除けばいい演奏であった。第3楽章はトゥッティが良く鳴り、合奏のリズムも明晰であった。第4楽章は寒風吹きすさぶ風情の厳しい表現だった。ヴィースバーデンで若い女に恋した第3番ヘ長調のブラームスはもういない。バッハのパッサカリアという厳格な古典作曲様式に回帰して自らの全交響曲を閉じると決断したブラームス52歳のメッセージはそういうものだ。コーダはピウ・アレグロになって疾走してあっけなく終わる。まさしくこれが4番である。

しばらく涙は止まらず、悲しいわけでもないのに、これは一体なんなのだろうとしばし考えた。わからない。具体的な理由は何も思いつかない。強いていえば、何かアブストラクトな高貴なものに触れた心の衝動だ。それはブラームスが産んだものであり、ナヌートが目の前で再現したものだ。久しぶりにそこで音楽が産みだされ、生成されているのを感じることができた。こういう音楽を、僕たちの時代人はいつまで聴くことができるのだろう。

 

(こちらへどうぞ)

ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

 

 

Categories:______ブラームス, ______演奏会の感想, ______演奏家について, クラシック音楽

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