ベートーベンピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19
2013 OCT 19 22:22:51 pm by 東 賢太郎
なぜ2番からか。これが最初のピアノ協奏曲、つまり1番だからである。後に作曲した1番より先に出版された、だから2番となっているだけだ。
ベートーベンはモーツァルトに会う前の年1786年ごろ、まだボン時代の16歳でこの作品に着手した。モーツァルトはピアノ協奏曲27番に1788年に着手したことがアラン・タイソンの五線譜紙分析により判明しているから、それを着手時の彼はまだ知らない。変ロ長調。ベートーベンが万一88年ごろに何かのつてでその曲がB♭の曲だと知ったとしても、自分の変ロ長調の初稿が完成したのは1790年だ。先輩の変ロ長調が最後のピアノ協奏曲になることは知らない。この一致は奇縁なのだ。
ベートーベンはこの初稿を3回も改訂していて、我々が知っているバージョンは1798年の第3版である。モーツァルトの死後7年目に完成したものだ。管弦楽はフルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、弦5部であり、これはモーツァルトの27番と全く同じ編成なのである。Wikiに「楽器編成が小さい理由は、はじめ貴族の私邸で演奏することを想定して作曲したからではないかといわれている。」とある。
ここはコメントしておいた方がいいだろう。この頃モーツァルトはもうすっかり貴族の人気がなくなっており、予約演奏会は開けなかったので27番の初演は宮廷料理人だったイグナーツ・ヤーンの私邸で行われた。その家は大作曲家がその9か月後に急逝の時をむかえたRauhenstein通りの家の目の前で、現在はこの写真のようなカフェになっている。ヤーンの住居はこの2階だ。このカフェで僕はひとりでコーヒーを飲みながら感無量の思いにひたり、今はデパートになっている彼の最後の家をこの窓からじっと見つめながら、ふと気がつくと27番が頭の中で鳴っていたことがある。
27番の楽器編成はこの広さの演奏会場用ならしっくりくる。20-26番の内トランペットとティンパニを欠くのは23番とこれだけだ。しかし、これから世に出てコンサートホールでこのデビュー曲をバリバリ弾こうというベートーベンがなぜそんな小さな楽器編成を選んだのだろう?そこでWikiのような答えが出てくるわけだ。
ベートーベンは先輩の27番を知ってしまい、どうしようもないレベルの落差から第3楽章ロンドを書き直して3回も改訂した(93-95年)のではないだろうか。奇しくも同じ調性であり、楽器法まで意図的にそろえたのではないだろうか。彼はこの曲でウィーンデビューを飾り、これをウィーンの宮廷顧問官に献呈までしている。皇帝や宮廷の貴族にではない、役人にである。まだ20歳代の意気軒昂な野心を見て取れないか。そしてピアノ協奏曲をシグナチャーピースとして自作自演することでウィーン楽壇の一世を風靡した大先輩の後を襲い、凌駕して見せることこそ彼は出世の糸口と考えたと思う。
彼の変ロ長調にはそれ以外にも明確なモーツァルトの刻印がある。オペラ「魔笛」の序曲のこの部分の引用だ(この連弾譜の赤枠部分)。
ここは変ロ長調でソプラノはB♭、B♮、C、Aを繰り返す。これがベートーベン2番ではこうなる。第1楽章のピアノの登場の少し前だ。調性も音列も魔笛とまったく同じである。
しかし、この音列に彼がつけた和声はB♭-G-Cm-Fであり魔笛と違う。そして2番はその和声連結をそのままに今度はソプラノ音列の方を変えたものを pp でピアノが奏し、それをオケが pp で受け取り、一気にff の全奏になだれこんで全曲を閉じるのだ。
つまり2番は魔笛を知っている人にそのエコーが聞こえるように書かれている。良く考えてほしい。魔笛が作曲されたのはモーツァルト死の年である1791年だ。第3楽章が改訂によって別のものに入れ替えられたのは1793年からだからいい。問題は91年より前に書かれていた第1楽章にこの魔笛音列が出てくることだ。ベートーベンの創作だったのか?確かめられなかったが第1楽章にも94年から改定が加えられたそうで、もしもこの部分も改訂されたものなら仮説は信憑性が出てくる。グールドの聴衆だった貴婦人はグールドも喜ばせたのだが、ベートーベンもそれを聞いたら狂喜したに違いない。
これから俺の時代だよウィーンの皆さん、という風に僕には聞こえる。同じ変ロ長調である交響曲第4番の第4楽章にもこの魔笛和音列を登場させるのも意味深だ。こういう発見はへたな推理小説より面白い。ちょっと脱線するが、こういうのは現在のところ聴き手の脳の中に蓄積した「音楽ビッグデータ」からしか見つからないものだ。グーグルで検索とはいかない。地上の全楽譜がオンライン化すれば可能になるだろうが、ベートーベンが何故そんなことをしたかまでコンピューターが考える時代が来るまでには時間を要するだろう。人間の脳ミソのやることはまだあるのだ。
さて2番である。第1、2楽章は青年がモーツァルトの衣鉢を継いだ作曲家兼ピアニストであることを証明するレベルにあると思う。しかし残念ながらさんざん推敲した第3楽章は落ちる。交響曲第4番のスケルツォを思わせる元気のよい主題が充分に展開されずオケとのベートーベンらしい緊密な拮抗もない。オーケストレーションも大味である。はっきり言って習作の水準を出ない。並み居る大ピアニスト達もそれを補おうとテンポルバートを試みたりするなど苦労している人が多く、演奏の問題というよりも僕はやはりそれなりの曲なのだと思う。
フリードリヒ・グルダ / ホルスト・シュタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン・フィルが魅力全開だ。第1楽章のホルンの合いの手や弦の弾み方などちょっとしたリズムの愉悦がすばらしい。宝石のように煌めくグルダのピアノもウィーン調だ。第1楽章、カデンツァはベートーベン自作。バッハのフーガのように展開するがグルダの手にかかるとなんと音楽が生き生きと脈動することか。ちなみに彼の平均律は僕が好きなものの一つだが、無味乾燥に陥いること皆無である。第2楽章は即興的な味もあって楽しい。問題の第3楽章は強めのタッチ、デリケートなタッチ、レガートなタッチ、リズムを際立たせるクリアなタッチを使いわけ、オケもそれにうまく付けている。曲の弱さを補って飽きさせない。
エミール・ギレリス / ジョージ・セル / クリーヴランド管弦楽団
ギレリスはクルト・マズアとのライブもあり、彼の鋼鉄のタッチが聴けるのはそちらの方だ。ここでは楷書体のセルに合わせたのか大人しめである。しかしそれでもギレリス一流のタッチの冴えは終始ものを言っていて弱音は非常に美しい。ピアノは鳴りきっており、 この若書きが立派に聞こえることに関しては群を抜く。カデンツァの豪壮さはそのままハンマークラヴィールソナタだ。セルの指揮はソリストに合わせるだけでなく速い部分はテンポの主導権を取っているように聞こえる。第3楽章が軽薄に流れず、コーダのピアニッシモがこれほど納得性を持っていて感動的な演奏はない。
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Categories:______ベートーベン, クラシック音楽
花崎 洋 / 花崎 朋子
10/20/2013 | 11:15 AM Permalink
不覚にも、魔笛との関連性、初めて知りました。おっしゃる通り、これからは私の時代ですよと、ウィーンの聴衆に宣言しているベートーヴェンの自信の程が伺えます。グルダの盤は未聴ですが、彼の芸風に正にドンピシャリと合っていて、鳴っている音楽が聴こえて来るようです。交響曲4番の4楽章にも魔笛進行が現れるとの情報提供も有り難うございます。今年の年末に余裕がありましたら、集中して聴いてみようと思います。花崎洋
東 賢太郎
10/20/2013 | 12:38 PM Permalink
論文など文献を全部当たったわけではありませんが、少なくともこのブログに書いた魔笛音列の指摘は見たことがなく僕のオリジナルです。ベートーベンは魔笛の主題によるチェロとピアノの変奏曲を2つも書いています。12の変奏曲ヘ長調op.66(第2幕でパパゲーノが歌う「恋人か女房がいれば」)と、同7つの変奏曲変ホ長調WoO.46(第1幕パミーナとパパゲーノの二重唱「恋を知るほどの殿方には」)です。作品番号に関わらずどちらも1790年代後半の作品であることにご注目ください。ピアノ協奏曲2番を「改訂」し、同1番を作曲していた頃のウィーンでは魔笛が流行っていたのです。2番の上記のあからさまな引用に聴衆が気付かないはずがありません。当時の聴衆は貴族と富裕層であり、チケットも楽譜も買うインテリであり、現代のような大衆ではありません。だから彼らが自宅でオペラを弾いて楽しむ(今ならCDをかけるように)需要もありました。そのための楽譜が売れたのでこういう曲が生まれたのです。新人が流行作を引用して人気にあやかるのは自然だしそれを凌駕しようとするのはブレークするには必須だったと思われます。それだけではなく彼は魔笛の真価を誰よりも見抜いていました。後年出世を果たして自信をつけた彼はとうとうフィデリオという「ガチンコ勝負」に挑みますが、完敗に終わりました。交響曲とカルテットに特化していったのは必然であり、正解でもありました。
花崎 洋 / 花崎 朋子
10/21/2013 | 7:36 AM Permalink
魔笛との関連性、きっと東さんのオリジナルであろうと思っておりました。昨日、P協2番を注意深く聴いてみて、ようやく分かりました。東さんの聴力、及び楽譜の読解力に深く敬意を表します。それにしても、交響曲の大家はオペラが不得意で、逆にオペラの大家は交響曲が苦手ですね。モーツアルトという天才を除いては、ほとんど当てはまると思います。花崎洋
東 賢太郎
10/22/2013 | 12:13 PM Permalink
交響曲はオペラ(序曲)から生まれたのでモーツァルトは自然に両方書けましたが19世紀初頭、ベートーベン、ロッシーニあたりで分化しましたね。オペラはそもそもイタリアのものですから、そこからドイツ音楽が分化したと見てもいいかと思います。
花崎 洋 / 花崎 朋子
10/23/2013 | 11:20 AM Permalink
「イタリア音楽から、ドイツ音楽が分化していった。」、スッキリと良く理解出来ます。その点で、後年、ヴェルディがワーグナーの楽劇から刺激を受け、長年、雌伏して構想を練り、最晩年に「オテロ」を発表した話は、興味深く感じます。
東 賢太郎
10/25/2013 | 12:05 PM Permalink
イタリア人による交響曲というのは現代にいたるまでほとんどありません。Sinfonieはドイツ語です。イタリア語のSinfoniaはオペラの序曲のことです。JSバッハ、Jハイドンはイタリアに留学せず独自の音楽を作りました。その発展形がいわゆる交響曲です。ドイツ語を勉強していて単語がどんどんくっつく粘着性があって、神的・観念的な言葉が多いなと思いました。哲学、交響曲はその産物というと言いすぎでしょうが、何らかのバックボーンにはなったかもしれません。そしてワーグナーの楽劇はそのドイツ語の両方の特質を色濃く持っています。彼がオペラと呼ぶのを拒否したことと無縁でない気がいたします。
花崎 洋 / 花崎 朋子
10/27/2013 | 12:50 PM Permalink
交響曲が「観念的なドイツ語の産物」とのご説、その通りと思います。またワーグナーはイタリア人による「オペラ」に、もの凄くライバル心を持っていたと思いますし、「楽劇」という呼び方に拘ったのも、そのためでしょうね。