僕が聴いた名演奏家たち(クラウス・テンシュテット)
2015 FEB 9 1:01:53 am by 東 賢太郎
クラウス・テンシュテット(Klaus Tennstedt, 1926年6月6日 – 1998年1月11日)は東ドイツに生まれ1971年に西ドイツに亡命し、カラヤンが自ら後継の本命と目したとされる名指揮者である。79年にH・S・イッセルシュミットが作った北ドイツ放送交響楽団の第3代首席指揮者に就任したが楽団との関係が悪化し、1981年の演奏旅行中に辞任してしまう(ギュンター・ヴァントはその次のシェフだ)。83年9月にロンドン・フィルハーモニーの音楽監督に就任したが、85年に咽頭癌が発覚し87年に惜しまれて辞任した。
82-84年にフィラデルフィアに留学していた僕は、フィラデルフィア管弦団に客演に来た彼のドレス・リハーサルを妻と聴いた。どうやって入れてもらったのかは忘れたが本番のチケットが買えず、どうしても聴きたいのでなんとかしたのだった。大変に幸運ななことだった。83年3月10日、LPOシェフ就任の半年前のことである。場所はアカデミー・オブ・ミュージック、曲目はシュロモ・ミンツをソリストに迎えてプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番、そしてブラームス交響曲第4番だった。その時点では80年に買ったマーラーの1番のLP(写真)で知っているだけの人、ずいぶんひょろっと背の高い人だなというのが舞台に出てきた第一印象だった。
ミンツとの合わせは第1楽章展開部と終楽章コーダの大太鼓が入ってからの部分のバランスだけは入念に数回くりかえし、その他細かい部分はあまり覚えていないが比較的すいすいと進んだ。問題はブラームスだった。僕が2年間定期会員としてフィラデルフィア管弦団をきいたアカデミー・オブ・ミュージックの音のデッドさは既にブログにしたが、彼がブラームスをどう響かせるかに気を配ったのは当然だろう。
オケを流しながら管と弦のバランスチェックで何度もストップする。少なくとも細部のことでは一切なく、流れかバランスが悪いと止めたと思われる。指示は第1ヴァイオリンのフレージングと表情の起伏が多く、全奏でそれがどう響くか何度もくり返す。英語はドイツ語なまり。態度はけっして高飛車ではなくブラームスに敬意を払いつつオケを納得させて乗せていく。指揮姿に派手さや大仰なポーズはまったくなく、あおったり微細に振ったりする棒ではない。
曲の総体に確固としたコンセプトを持っていて、一切妥協がない頑固な人という印象だった。それに強いこだわりと熱意があって、オケに体当たりでぶつける。それに奏者が共感すると彼らの持っている音楽性が素直に出てきて自然にいい音楽ができてしまう。そういう感じのリハーサルだった。チェリビダッケともバーンスタインとも全く違う、融通無碍のスタイルだ。細かいことは省くが、僕自身思いの深い曲だっただけにこのことは強く記憶に焼きついた。
この本番は聴けず地元FMがステレオ放送してくれたのでそれをカセットに録音したが、それがこれだ。
翌週の18日にR・シュトラウスのドン・キホーテ、ワーグナーのタンホイザー序曲(パリ版)、ニュルンベルグの名歌手前奏曲というプログラムは聴いた。フィラデルフィア管では82年の11月にマーラー交響曲第3番(5日)、グリーグのピアノ協奏曲とチャイコフスキーの悲愴(12日)を聴いたことがプログラムからわかるが残念ながら記憶の彼方だ。最初の年であり死ぬ思いで勉強していた頃でそれどころではなかった。
卒業後、そこから僕はロンドンに赴任し、彼がLPOを振った演奏会を4回聴いた。まず84年9月29日にマウリツィオ・ポリーニとのブラームスのピアノ協奏曲第2番、そしてベートーベンの交響曲第3番。86年9月28日にはベートーベンを2曲、ピーター・ドノホーとのピアノ協奏曲第2番と交響曲第3番。そして同年10月1日のベートーベンピアノ協奏曲1番(pf・マヤ・ヴェルトマン)とR・シュトラウス「英雄の生涯」、そして、10月5日のマーラー交響曲第3番(Ms・ヴァルトラウト・マイヤー)である。ピアノのヴェルトマンはたしか10才ぐらいのメガネの女の子だった。その後どうなったんだろう。「英雄の生涯」は録音を含めても僕がきいた最高の演奏の地位を今も譲っていない。フィラデルフィアで抱いた印象のとおり、LPOが彼に深く共感し食らいついていて、指揮者への敬意をもつとああいうことになるんだというものだ。
しかし、僕が人生で聴いたベスト10に入るのは、何といってもあのマーラー3番だった。彼の3番は2度目ということになる。これはBBCがCDにしていて(右)、熱烈なマーラーファンの間では有名になっているとある人にうかがった。ご案内のとおり僕はマーラーには疎いし今も共感が持てない。そんな人間があのひょっとして彼が振った最後で最高の3番を聴いたというのは世のマーラーファンのお叱りを受けそうだが、CDを聴きかえしてみて、あることをはっきりと思い出した。恥ずかしながら、あの日涙を流しながらロイヤル・フェスティバルホールを後にして夜陰のなか運転がしばしできなかったことを告白して贖罪としたい。
これがその日の録音である。残っているのが本当に有り難い。
思えばテンシュテットは50才でメジャー・オーケストラにデビューした超遅咲きの大物指揮者だ。同じ東独出身のクルト・マズアは共産党員になった世渡り上手であり、ゲヴァントハウスO.のポストを得て出世街道を登った。それに比べ、妥協知らずの彼はそれが下手で不遇の40代だった。想像だが彼の頑固さと短気さはドイツでは軋轢を生んだのではないか。いわばドイツを追い出されて、米国と英国で花咲いた人だ。
当時、ナチと無縁でドイツものを振れるドイツ人は英米で需要があった。フルトヴェングラーもだめカラヤンもだめだ。しかもマーラーに深く共感しているのだから米英の音楽メディア、マネジメントを牛耳るユダヤ人が歓迎した。彼はロンドンで最高の敬意を集めたクレンペラーの化身として登場したのだ。50になって急に運が開けたが、そうなったのも音楽家として絶対に手を抜かない彼の一途な性格を英米の音楽家、聴衆がしっかりと評価する眼力があったからでもある。
この2回の演奏会は咽頭癌が発覚した翌年であり、そういうえば我々聴衆はみな半分キャンセルを覚悟してチケットを買っていたのだ。この演奏会の後に8番を振り、その次のブルックナーはとうとう病魔の為に本当にキャンセルされた。そして翌年に闘病の為リタイアを余儀なくされてしまったのだ。この3番の終楽章を弾いていたLPOの弦の人たちの、彼をいつくしむように、動作を一つも見逃さぬように見つめる視線が忘れられない。とにかく彼は英国で愛されていた。
陽のあたる道での実働は10年余り、LPOとの蜜月はたったの4年で終わったが、一生忘れない宝もののような思い出をいただいた。思えば彼の人生行路には自分を重ねてしまう部分があって共感があるし、あのマーラー3番の演奏会の時、彼は60才の還暦だったのも何か感ずるものがある。
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東 賢太郎
2/10/2015 | 4:22 PM Permalink
本稿を書くためネットをみるとテンシュテットを「爆演型」と書いている人が多いようですが違和感があります。そんなのは彼にとって汚名です。指揮台でオケを引きずり回して暴れるイメージを持ってしまいますが全くそうではありません。練習を見ても棒はうまくなくて明らかに「気」で指揮する人でした。BBCのインタビューを聴くと「マーラーはずいぶん遅くにやってきた。あるとき急にわかるようになった。それは彼の人生に共感したからだ」と言っています。「演奏はその日によって83分だったり78分だったりするが絶対変わっちゃいけない部分がある」とも言ってます。その「変わっちゃいけない部分」に熱く共鳴したのがLPOだったと思います。舞台からオケの発するオーラをすごく感じました。CDで音だけ聞いて爆発を感じさせるとしたらそれはオケの方であって、自発的ですから現場で聴いていると自然な感情の起伏で、終わったら熱いものがこみ上げていてあれっと思うという感じでした。だからそんなことはめったにないのですが涙が止まらなかったと記憶してます。それは3番という曲のせいだと信じていろいろ聴きましたが2度とそんなことはなく、あの日のテンシュテットの創りだした特別な何物かだったと思っています。