モーツァルト「魔笛」断章(モノスタトスの連体止め)
2016 APR 27 22:22:01 pm by 東 賢太郎
パパゲーノが主役なら表のわき役とでもいう存在がモノスタトスです。
夜の女王からザラストロに寝返るのがタミーノ、寝返ったようで靡(なび)かず中立なのがパパゲーノ、ザラストロから女王に唯一寝返るのがモノスタトスであって、アリアは二つしかないがなかなか強いインパクトのある役です。
ムーア人という設定だからイスラム教徒で色は黒い。オテロのタイトルロールもそうですが、前回書いたように魔笛には後宮からの誘拐という伏線があるのであって、オスミンに原型があると考えてよいのではないでしょうか。僕はモノスタトスにパパゲーノと同じほどの人間味を見てしまい、主人のザラストロから77発のむち打ち刑を食らったあげくに寝返った先の女王と一緒に滅ぼされてしまう哀れな運命には同情さえしてしまうのです。
肌の色が黒いというだけで、身も心も無く、血も通っていないというのか?醜いので恋をあきらめ、女なしに暮さねばならないのか?
といい、眠っているパミーナに「白いってきれいだなあ!この娘にキスしてやれ」と劣情をたぎらせる。このアリア「誰でも恋の喜びを知っている」はピッコロが旋律を吹くなどトルコ音楽の風情があり、「音楽が遠くから聞こえてくるように静かに演奏され歌われる必要がある」とト書きに指示があります。そりゃそうだ、獲物をねらう猫みたいにそ~と近寄って、パミーナが起きてしまったらこまる。この歌は狼藉をはたらこうとするモノスタトスの内面で鳴っている音であって、音量だけでその息をひそめた感じが聴衆にわかる。それがアレグロである。彼の心臓の鼓動が伝わってくる。こういう風に音楽が書けるからモーツァルトのオペラは200年も聴衆のハートをつかんでいるのです。
この短いアリアには驚嘆してやまない和音が一つあります。ピアノ譜の青色部分です。
ハ長調の急速平明なクープレ、話すように軽い声で歌う、その流れの中にそっと置かれたEm!!モーツァルトは何度も何度も各所で僕をノックアウトしているが、これはその最たるもの、瞬間に通り過ぎてしまうのでお気づきになりにくいかもしれませんが、この曲の色合いをさっと変え、どきっとさせ、モノスタトスの人物像まで変えてしまう最も高貴で繊細なやさしさに満ち満ちたもののひとつです。
醜いので恋をあきらめ、女なしに暮さねばならないのか?
モノスタトスの悲しさがこの和音ひとつに滲み出ている。粗暴で野獣のような男でないぞという、パパゲーノを見つめる彼の人間賛歌の目がモノスタトスにも注がれているのです。
これは偽終止というやつで、ハ長調CだとドミナントGからトニックのCに戻らずAm等にいく。これは「アマデウスの連体止め」と僕が勝手に名付けているモーツァルト必殺の得意技で、みなさん国語で習われた和歌や俳句の連体止め、あの効果によく似ているのです。これは別に彼の発明ではないですが、彼はAm(6の和音)に行くのがお好みで、作品の随所に出てきます。
下のK.581だと青色部分でバスがc#に行けばトニック(A)なのにf#に上がってF#mの和音になってます。のちに繰り返しの場面ではAになるので、このF#mという6の和音は明らかに代用で偽終止、これぞ連体止めです。
(例) クラリネット五重奏曲イ長調 K.581 第1楽章冒頭
ところがモノスタトスのアリアはDsus4、Dと来てG(ト長調)に収まると思わせつつ(偽転調だ!)、なんとそこに6の和音であるEmの偽終止を置くという驚くべきダブルの騙しで完全に僕の脳髄を狂わせる。もう凄すぎて語る言葉もなし。魔笛という言葉を聞いて僕にまずひらめくのがこのEmであって、今回、少し気が変わってブログを書いて、とくに、どうしても書かなくてはいけない魔笛にしようと思い立ったのは、このEmのことを残しておかなくてはと思ったからなのです。僕がモーツァルトの信者であるのはこういうことです。細部に宿る神の証し!細部が証明しているのです。なぜといって、こんなメガトン級の威力で耳を直撃する音を書いた人はいない。少なくとも僕にとってはです。
200年近くにわたって、モーツァルトを天才と呼び、賛美する人が世界中にいました。今もきっとたくさんおられます。ケッヘル何番のあそこがいい、ここが天上の調べだという類の書物も手当たり次第に読みました。どれを読んでもピンと来ないのは、僕にはたぶんそういうレセプターがないのであって、それは色覚とおんなじように人それぞれの受容器が脳についていて、僕のはこういう部分に反応してしまうということだと思います。このEmに感動している人はいまだかつて見たことないという一抹の寂しさはございますが、唯一救いに思っているのはそういう人がかつて一人だけは確実に存在した、すなわち、それがこのEmを数多ある音の中から選び取ったモーツァルトだったということです。
このアリアが布石になったかどうか、あんまり興味がないので知りませんが、ロッシーニのセヴィリアの理髪師にフィガロのこういうアリアがあるのですね。
モノスタトスに似てる気がするが、和声的に何の事件も起きないお気楽さ・・・まあ、これがフツーの天才の音楽です。
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花ごよみ
5/14/2016 | 1:57 PM Permalink
モーツアルトの2つの曲とも長調の響きの中で終止のⅠの和音に向かうと予感させながら、Ⅵの短三和音のやさしくデリケートでおしゃれな響きを、一旦チラッと聴かせた後、あらためて本来の長調のⅠに終止するわけですから、にくいですよね。
昔、昔、そのむかし、和声の勉強の世界を少しかじっていた頃、ⅥとかⅢの和音の響きは、なかなか素敵ですよと説明された後、響きを聴いて「なるほど~!」と、思った記憶があります。こういう出会い方はあまりピュアじゃないなと、思ってしまいました。
東 賢太郎
5/14/2016 | 10:36 PM Permalink
本稿は専門家しかわからないだろうしまあわかる人だけわかればいいやということでした。コメント大変うれしく思います。モーツァルトの音楽は基本的に対位法的ではないわけですが、それでこんなに大ヒットしたのはメロディーと和声に魅力の秘密があるはずなんです。それが何かをこうやって発見する旅は最高に楽しくて飽きることがありません。彼は理論家、化学者として和声を合成しつつ見つけたというのではないのですが、それに値する革命的な音を書いています(普通に聞くとわからない。それが革命的に聞こえてしまうベートーベンとの差。)。それは耳が強烈に良かったのともうひとつ、普通のあったりまえな最大公約数的なヤツを書くなんてジョークだろ、自分が許せねえ、という性格ですね、そんなの馬鹿らしくて書けない、あんなボケどもと俺が同じなの?っていう人だったのですね、まあそう思って仕方ないほどすごい耳と記憶力とアウトプットのパワーを持ってたわけですが。彼ほど赤裸々な手紙が残ってる作曲家はいませんから幸いなんですが、それでわかります、僕は何度も読み返して共感してそう確信してます。