クラシック徒然草 ―ドビッシーとインドネシア―
2016 SEP 20 0:00:47 am by 東 賢太郎
前回、微分音を使った武満徹の「雨の呪文」をきいた。微分音とはなにやらおそろしげだが、ちっとも難しいものではない。
これをお聴きいただきたい。「平調 陪臚」という我が国古来の音楽、雅楽である。
冒頭の笛の音からして西洋音楽のドレミファとは合っていない。笙(しょう)は長2度の和声らしきものを奏でるがユニゾンの旋律になるとグリッサンドが入り高音のピッチは不安定である。もちろん、それはそういうものなのであり、「音が外れている」というには当たらない。
次はこちら。インドネシアのガムラン音楽である。
雅楽よりもドレミファに近いが、笛もゴングのような金属打楽器もいわば「調子はずれ」だ。しかしこれも、そういうものなのだ。僕自身、香港時代に初めてジャカルタへ行ってこういうガムラン・オーケストラを聴いた。強烈な音楽を全身で受け止めた。
これに魅せられる西洋人は多いようで、パーカッショングループがやるとこうなる。かなり洗練されてきて、同音型の悠久を思わせる繰り返しはどこかライヒのミニマル・ミュージックを思い起こさせないだろうか。しかし微分音ということでいうと正面左の鉄琴のピッチは明らかに四分音ほど低いのだ。
トルコ、ペルシャの伝統音楽もこうした調子はずれの音が出てくる。つまり教会の残響で三和音のハーモニーから発し、倍音として現れる音でオクターヴを12分割した西洋音楽のスケールというものが世界を席巻しているが、それだけが音楽であると言うには世界はあまりに広いことがご理解いただけるだろうか。
これは言葉の世界で、母国語としている人が5%しかいない英語が世界を席巻してビジネス公用語になっているのに似る。それは確かに便利ではあるが、では「わび・さび」を英語で説明しろと言われればはたと困ってしまう。メートル法に慣れた我々が「体重は何ポンドですか?」と聞かれてもだ。雅楽やガムランを五線譜に書くのは、それと同じく困ってしまうことなのだ。
僕は雅楽もガムランも好きで、どちらもCDを所有している。それは音楽として伝わってくる何かがあるからであって、それ固有のものだ。それをバッハと比べてどうこう言うには値しない。ベトナム料理とフランス料理を比べることは可能だが、どちらもおいしいのであって、料理というものはそれで充分なのだ。
微分音とは、体重50キロの人が「110.231131ポンド」になってしまう、その小数点の部分、0.231131みたいなものだ。相手は110、111,112・・・と整数で考えてる。それがドレミファ・・・というものである。でも、ドレミファを基準に調子はずれとされても困る。雅楽もガムランも、西洋音楽より前から「そういうもの」として存在してきたのだから。
幸い、西洋の教養ある人達はそれを理解している。これは2012年のエジンバラ国際音楽祭で宮内庁式部職楽部が演奏会をやったドキュメントだ。チケットは早々に完売したようであり、「マーラーの9番を思い出しました」というご婦人も出てくる。千年前の音楽がほぼそのまま保存されているのは日本をおいてない。我々はこれをもっと知り、もっと誇りを持つべきだろう。
パリの万国博覧会でガムランを聴いて感銘を受け、そのインスピレーションから音楽を書いたのはドビッシーだ。彼は北斎の浮世絵から交響詩「海」を書いたように、ガムランからこの曲を書いたとされる。1903年の作品、「版画」から第1曲「塔(パゴダ)」である。
これをパーシー・グレンジャーが管弦楽に編曲している。これを聴くとガムランの感じがよくわかるから面白い。
しかしここに微分音は出てこない。あくまでポンド法である平均律に焼き直したもの、デフォルメされた「イメージ」にすぎないと言っていいだろう。僕は微分音でしか表現できない音楽を平均律に「押し込める」ことには少々抵抗がある。
第一に、ビートルズをピアノで弾いてもあの純正調のハーモニーは出ないように、すべての同名異音を同じと読んでしまうエンハーモニックは本当の美を表さない。第二に、雅楽もガムランも、もっといえば演歌の「こぶし」も、ビートルズ以上に西洋楽器にはなじまないものだからだ。
ドレミファにならない音楽を排除してしまうのは間違いだ。良い音楽に対して心が開かれている人にとっては、音をもってスピリチュアルに何かを伝えるものはすべからく音楽である。伝えるものが大きければすべて立派な音楽なのであり、そこに優劣のような価値基準が入り込む余地はない。どこの国の料理も、おいしいものが良い料理なのである。
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Rook
9/20/2016 | 1:45 PM Permalink
東さま、
相変わらず精力的なブログ書き込みに、真似ができないと感心しきりです。
そのエネルギーの源泉は何なのでしょうか?
私も雅楽とガムランは大好きです。とは言っても、そんなに頻繁に聴いている訳ではありませんが、その音楽の良さや価値は充分感じています。私がいつ知るようになったのかは定かではありませんが(大学卒業後です)、東さんはメシアンの『トゥーランガリラ交響曲』からでしょうか?バリのガムランが特に好きです。
ドビュッシーがそれまでの音楽の延長線上でない音楽を作ったのと同じく、ガムランや雅楽もユニークの極みですね。音の要素もご指摘の通りですが、音楽自体もカルチャーショックを受けますよね。仏教思想にもかかわる音楽のように感じます。その哲学的な響きには全ての煩悩を払う浄化作用を覚えます。アジア大陸から伝わったとされるも、雅楽は日本が誇れる固有の音楽だと思います。中国の音楽は馴染めず苦手ですが、欧米人が中国と日本が似ているように思うのは全くの誤解ですよね。
東京文化会館音楽資料室のこと、私も懐かしく思い出します。あのようなボランティア施設は、どこで開花するかもしれない種を育てるインフラとして絶対に必要です。箱物だけでなく、地道な活動を支援するプログラムの重要性を官民共に認識し継続させて欲しいものです。近頃、予算削減の矢面に真っ先に立たせられるケースが増えているようです。私もレコード鑑賞の他、楽譜を半分づつ(著作権がある物は1/2までしかコピーが許されない)2回に分けてコピーさせてもらっていました。国立西洋美術館の世界遺産登録より遙かに重要だと思います。
話がそれてしまいました。雅楽に通じる物として能楽の囃子がありますが笛が重要な役割を果たしています。雅楽、ガムランを武満は意識していたでしょうが、世界の同時代作曲家にも必須科目なのは間違いありません。
ご紹介ありがとうございました。
東 賢太郎
9/20/2016 | 2:56 PM Permalink
Rookさま、音楽資料室でお会いしてたかもしれませんね。そう、楽譜も買えませんでしたからお世話になりましたがコピーはしませんでしたよ。そこまでやられるのは相当なクラシックオタク(失礼!、マニアですね)ですから大いに親近感がございます。
ブログは仕事の息抜きの感じです。電車の中で普段思ってることをざーっと書いてるだけですからエネルギー消費量はとくに高くないと思います(そうなら保存の法則で他が減るので)。高校時代も野球やりながら(それが本業)レコード買って聞いてたのでそのノリでしょうか。
ただ、毎日4~500人の方がフォローしてくださり昨日も1,149タイトルお読みいただいていて、ブログというのは書かれるとわかりますが閲覧データがリアルタイムでわかるいわばPOS機能があって、自分のアウトプット(もっといえば自分自身)の市場価値が如実に確認できるのです。
僕は仕事としてマーケットの住人ですしアドバイザーというアウトプットを売る商人なので、これ自体は商売にはなりませんがネットを利用する経験も含めていろんなことが推察できるバロメーターにはなるのです。ずいぶん学習しました。
こうやって書きためていって、こんなSNSは他にないですから、SMCというものが将来どうなっているか、全く新しいものに進化したら面白いなという酔狂な夢もちょっとあります。誰もやったことないことをやりたくなるのは性癖なのでこれも燃費いいです。
東 賢太郎
9/20/2016 | 6:01 PM Permalink
雅楽については不勉強ですが、竹のリード楽器、横笛、縦笛、弓で弾く弦楽器、ギター状の弦楽器、大小のドラムがあって、これらが西に流れるとオーケストラ楽器に見事に対応しますから、こちらはこちらで同じルーツの中央アジア、中近東起源の音楽が東に行き着いたという理解をしてます。正倉院の御物と同じくシルクロード経由でしょうか。現在の形になったのが平安朝ごろだそうで約千年前です。桓武天皇以来、天皇家とともに形を変えずに保存されてきたそうで音そのものが大変貴重な世界遺産ですね。