うまくやってね
2017 JUL 10 8:08:04 am by 東 賢太郎
ファミリーヒストリーの細々を公に記すのは本意でないが、母のことをどうしても子孫に残したくご容赦をお願いしたい。
母が受けた教育は女学校程度だろう。昭和3年生まれだから開戦時に13、終戦で17という年齢であり、学徒動員で工場で働いたが東京空襲のころには親戚と飛騨高山に疎開していて勉強するという環境ではなかった。花嫁修業みたいなものだろうか英語と英文タイプは終戦後に習っていて、後にひとりで5回も欧米の僕の家に訪ねてきたが、学校で習うような知識には頓着がなく僕に教えたりそもそも勉強しろと叱ったことさえ一度もなかった。
母の父親は明治16年生まれで飯田中学からまだ福澤諭吉が存命中の慶應義塾に進んだ。ケンブリッジに留学して慶應義塾體育會蹴球部を創設し日本のラグビーの父といわれる田中銀之助のまたいとこだが、祖父はラグビーではなく慶應で野球をやって渡米した。「ベースボール」を自らやり熱愛した正岡子規がまだ存命中のことだ。38年に三井物産に入社して後に上海支店長、王子製紙の役員となったが、取引先の三井銀行に「行員でいいのはおらんか」と持ち掛けて末娘を嫁がせたのが僕の父ということになる。
田中銀之助の祖父が田中平八、僕の祖父の祖母「かね」が平八の長姉である。渋沢栄一が回顧録で「明治維新当時の財界における三傑は三井の野村利左衛門(三井銀行の創設者)と鉱山王の古河市兵衛(古河財閥の創設者)と天下の糸平こと田中平八を挙げなければならない」としているが、渋沢はこの三傑の共通点を「揃って無学」とし、日本の近代的大企業を育成した福沢諭吉の慶應義塾の学問閥の対極においている。だからだろうか一族はそろって慶應だ。
渋沢栄一は平八の7才下の深谷の豪農のせがれで親しかった。学があって徳川慶喜の家臣となった栄一は幕臣から維新後は大蔵官僚となり後に現在の社名でいえばみずほ銀行、東急、王子製紙、東京ガス、東京海上、帝国ホテル、清水建設、東洋紡、キリン、サッポロなどを設立したが、そのひとつに東京証券取引所があり、東京米商会所(現・東京穀物商品取引所)の初代頭取だった平八はその初代大株主になった。
祖父は後に国務大臣となる藤原銀次郎が慶應義塾の先輩の縁で三井物産に入り、藤原の辿った上海支店長のコースを経て、藤原が王子製紙の社長となるとついていったようだ。ちなみに当時の上海は長崎から船で23時間かかったが、彼が定宿にしたグラバー邸横の旅館の娘が祖母だ。家格が違いすぎる。それなら橋から身を投げるわと家を捨てての駆け落ちだったようで長崎にもう籍も親類もない。九州の女は熱かったのだ。恋愛結婚のはしりで7人の子供ができたその末っ子が母だ。腹の座った祖母の情熱のおかげで僕がいる。
祖父は僕が2才の時に亡くなったが、彼が生まれた年に大叔父の田中平八が亡くなっている。家系図で平八の祖母・お紋の隣には「お公卿」とだけあって、その謎の人物が平八の祖父である。系図を書いた者は当然知っていたが明らかにするのを厳に憚っている。正室でも側室でもなかったお紋には大層な資産が分与されており、4代下っても母の生家は大森の千坪のお屋敷で乳母が二人ついていた。平八が創業した勝沼の田中銀行社屋(旧田中銀行博物館)は後に北白川宮家など複数の宮家が邸宅などに使用しておりこの辺は興味深い。
面白いのは系図には平八の父方は「武田 五代 武村改姓」とあって武田信玄の子孫である。武田家は勝頼を最後に信州高遠城で滅んでおり、五代末裔と公卿の娘の子である平八は高遠のすぐ西の伊那(赤穂)の人だ。通史では勝頼の子孫は信長軍がしらみつぶしに探して皆殺しにしたことになっていて、調べたがそれが誰かはわからない。わからぬよう隠しおおせたから生き延びたわけだが。
お公卿と武田某は僕のルーツの二大空白であり、「公卿」とは関白、摂政、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議のどれかだ。閑になったら調べたいが、公家の敵であり武田を滅ぼした不倶戴天の敵でもある信長が好きなのだから困ったものだ。そして母は僕を慶應ボーイにしようと成城から中等部を受けさせたが野原で育ったまったくのばかでどこの入試も歯が立たなかった。さらに野球に明け暮れてしまい中高でも成績は人並み未満。そのまま大学入試に至り、ここで絶句する低偏差値にやばいと尻に火がついて東大文1に行くと決めた。親類はいけたのに自分は戦争で断念した父の仇討ちだった。早慶は入学せず自主浪人を決めてしまってがっかりさせたが、やっと受かった本郷の合格発表掲示板の前で母が泣いていたのを思い出す。慶應は代わりに娘がいってくれたので家の帳尻は合った。
こういう家の娘だから母の子育てへのプライドは半端ではなく、男は運動もできないガリ勉などみっともないことで、喧嘩はやるなら勝たなくてはいけなかった。母の兄はフランス車シムカに悠然と乗りヴァイオリンを弾いて甥の目にも格好よかったがそういう男が望ましい。学者、技術者など気まじめな勉強家ばかりの父方は不当にも下に見られており、長崎女の娘だから僕を厨房に入れず、サバイバル術だけはカブスカウトに入れて習わせたが自分で教えた炊事はお米のとぎ方だけだった。
僕はそうして明治の男みたいに好きなことだけやって育ち、家事や育児や身の回りは壊滅的にだめな夫、父になった。おかげで仕事に全神経を集中できる負けず嫌いの性格になり証券会社で幸福な人生を歩ませてもらったが、その世話を引き継いでくれた家内、家族には感謝するばかりである。僕の辞書に定年退職という文字はない。それはおそらく母の眼中にもなかったし、教育ママの対極だった彼女が息子に望む終着点とは程遠いものだったと思う。
定年がない人生への第一歩として、僕が2004年に一大決心で野村の本社部長からみずほに移籍する時、まず両親にそれを知らせた。これは日経ビジネスやダイヤモンド誌が書いて少々の騒ぎになった。しかし母はもう自分の名前が言えないほど認知症がきていたからこういう話は理解できない、事実、まったくわかっていなかったと思う。ところがだ。僕の目を見ながら、ひとこと諭すようにぽつりとこう言ったのだ。
「うまくやってね」
驚いた。これが事実上、母が意思を僕に伝えた最後の言葉である。事を理解してないのにどうして心配したんだろう、どこからこんな言葉が出てきたんだろう・・・。勘の恐ろしく鋭い人だった。いま思い起こしても、この言葉ほど重たいものはない。
そこには息子への絶対の信頼があった。自分の作品だから。なにやら重大なことをしようとしている息子に、一抹の心配はしているけれど、いいわね?いろいろ教えたでしょ?あなたはできるからね、それをうまくやってね・・・だったのだと思う。だからそれをやるのが僕のこれからの務めなのだ。
でも、僕は母に何を教わったんだろう?
それは知識や技術でなければもちろん処世術のようなものでもない。社会に出たこともない姫にそんなことは教えようもないのだ。
それは多分「やさしさ」だったように思う。完全に認知がなくなって介護施設に入っても、何もしゃべれないのに、なぜか母は誰からも人気があった。みんながすすんで助けてくださった。看護師さんにもヘルパーさんにも入所者のお年寄りたちにも、とにかく笑顔がすてき、明るくしてくれるのよねえ、いつもこっちが癒されちゃってます・・・とお世辞と思えないお言葉をいただいていた。
あのやさしさは独特のもので、なにか気高くてふんわりやわらかい。包みこんで安心感をくれるのはべつに息子だからというのではないようだった。母方の血が濃い僕はきっとそういうものも受け継いでるのだろうが、でもそれでは生きられない世界に生きてきたからちっともやさしくない。むしろ自分にも他人にもきびしい。介護施設でしゃべりもしないのに人気が出るなんてまず無理だろう。
そういうのが出てしまって、会社時代に僕は人とたくさんぶつかってきた。勤め人として、うまくやってなかった。プライドが高くて人の話は聞かず、どうしてこんなことができないんだとなってはやさしくなれない。気が強いし短いし、喧嘩すると徹底的にやっつけてしまうし、正直に書くが、僕はこのハゲ~!の例の女性議員を心からは笑えないのである。相手が外人だろうとロンドンの御前会議で英国人ヘッドと激論してぼこぼこにしてしまい、気の毒に彼は首になってしまった。こういうのは恨みを買うし返り血も浴びるのだ。
しかし、母はプライドは僕よりも高いけど、いつでもどこでも、誰にも分け隔てなく慈母みたいにやさしかったのだ。そんなこと、どうしたらできるのだろう? それができてたら僕はサラリーマン界でもう少しなんとかなったかもしれない。
でも、これにはちょっとした免罪符がある。母の父だ。野球をやった(僕も)。東京人なのに遠隔地恋愛(長崎)で嫁をもらった(僕は神戸)。物産上海社長(こっちは野村香港社長)。物産から王子に役員で移籍した(僕はみずほ)。なんと、まるでそっくりさんだが、これが血は争えないということなんだろうか、そうしようと思ってそうなったわけでは決してないのだ。
この前のブログで
「やがて父もいなくなったら日本にいる必要もないかなと思うが、そうなった時のことは結局自らが決めたということではなく、なるべくしてなってしまったということになるだろう」
と書いたのは、そういうことだ。なるべくしてなる。だから頑張ったりしなくてもいい。母はきらきら、ぴかぴかの宝飾品に目がなかったがそれは男の僕においては星と電車のレール好きになった。きれいな場所、人、もの、ヨーロッパ、美食、アート、音楽、ネコ、みんな好みは僕に来た。この趣味が変わることは一生ないだろうし、そういうのに毎日囲まれていればやがて僕もやさしい上品なお爺ちゃんになれるのだろうか?
「うまくやってね」
これは母が教えてくれたすべてのこと、それを適時バランスよく常識をもってやりなさいということだ。そうすれば万事うまくいくのよと。うん、なんて簡単で、しかしできそうもないことなんだろう。
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Categories:自分について
Tom Ichihara
7/11/2017 | 6:25 PM Permalink
東さま
武田信玄系統でしたか。
小生の祖母も武田と言っていました。
何処かでDNAが繋がっているのでしょうか。
祖母は「世が世ならばあちゃんはお姫様じゃ」とよく言ってました。
気の強いお姫様で子供心におっかない人でした。
母は悪さをすると後ろ手にしばられ「そこへなおれ、仕置きをしてくれる」と言って鉢巻きをし、なぎなたでひっぱたかれた事があったそうです。
東 賢太郎
7/12/2017 | 12:57 AM Permalink
市原さん、そうでした、以前書かれてましたね、ということは我々はDNAのどこかを共有してますね。ウチのは武田を改名して落ちのびた武村でも危なかったんでしょう、もういちど竹村に改めて逃がれたそうです。