世界のうまいもの(その11)-スパゲッティ・ナポリタン-
2017 AUG 14 13:13:11 pm by 東 賢太郎

スパゲッティ・ナポリタンという料理がナポリにないのはよく知られている。ナポリどころか、イタリア料理にはそもそも砂糖入りのスパゲッティは存在しないそうだ。アメちゃんの甘ったるいケチャップをオラが誇りのパスタにかけるなんてハンバーガーと混ぜこぜだぜ、許しがたい暴挙だよとイタリア人がテレビでけっこうマジメ顔でいっているのをききながら、僕はむかし香港で見かけた「ウナギ・ラーメン」を連想していた。もっとも注文する勇気はなかったが。
80年代にマンハッタンの寿司バーで初挑戦したカリフォルニア・ロールなるものに複雑な顔をしていたんだろう、「お若いの、ここはニューヨークなんでね、でもロスのは絶品なんだよ、行ったら食いねえ食いねえ、なんたって本場だからね」と隣の席でマグロのニギリをナイフ・フォークで食ってたカリフォルニアンとおぼしきおっちゃんが教えてくれた。食文化というのは面白い。面白いけど他人のセックスといっしょでジェントルマンは笑っちゃいけない、みんなそれなりにマジメにやってるんだ、奥深いと書いておこう。
スパゲッティ・ナポリタンなる料理は終戦後に米国から横浜に入ったときくが、詳しいことは知らない。アメリカン・パウダーがメリケン粉になった流れだろうか。英語の分際で素直に「ナポリタン・スパゲッティ」でいいのに何を気取ったのかちょっとハイソ感だしたかったのか、形容詞を後にするラテン語風の語順だ。そこまでオスマシしながら日本で思いっきりB級フードに定着していったなんて素晴らしい、ビートたけしがコマネチをお笑いネタにしたようなもので江戸庶民を源流とする我が国のサブカルチャー精神のしたたかさを感じるが、米国東海岸でもスパゲッティなんてのは貧しくて英・独・仏移民にいじめられてたイタリア移民の食い物であって、その昔スペインが支配してたナポリにトマトが上陸した、その流れの末裔と思われるから、遠い東洋の異国でお里に帰ったと思えないでもない。
ご存知かどうか、隣国に「ブテチゲ」(部隊鍋)なるC級フードがあって、朝鮮戦争で米軍と韓国軍の兵士が共同生活の中で手持ちのレシピを一つの鍋にぶちこんだものといわれる。唐辛子スープに肉、野菜、豆腐がはいり、米軍のウィンナーソーセージそして韓国軍のインスタントラーメンが合体するが、それはないだろみたいな無粋なことは誰もいわない。おいしいからだ。いまやB級ぐらいにはランクアップしていて、かく言う僕だってソウルへ行くと必ず一度は食べ、ラーメンは替え玉する。そうか、ナポリタンは伊国、米国のレシピぶっこみの合作みたいなもんだ、そう思えばいい。
そうやって何だかんだいいながら、僕はナポリタンの根強い愛好家である。いや、この下町風情のサブカルフードを愛することに誇りすら覚える。子供のころ「お子様ランチ」が出てくると国旗の立ったライスの横にそれが小さく盛り付けられていて、そのケチャップがライスになじんだ部分が好きだった。家は必ず朝にパンと紅茶で一日が始まる洋食系で、魚が苦手だったせいかナポリタンはお袋の定番のひとつだった。のちに和食を覚えたが、だからといって忘れるはずがない。今日はおごるよ、九兵衛の寿司とどっちでもいいよとなって、迷うことなく駅地下食堂のナポリタンを選択する可能性が三度に一度ぐらいはありそうなハイレベルな所に位置している。
そこまで惚れこむには根強い刷り込みのルーツというものもあって、学生の頃、衝撃を受けたこれ(右)だ。宙に浮くスプーン!持ち上がったアツアツの麺から湯気が立ちのぼっているようで、味はもちろんケチャップの甘い芳香、ハフハフいいながら口に放り込んだ食感までがよみがえって、そそり方が半端でない。このリアリティーへのこだわりたるや、英国の名器で原音再生への高忠実度を売りとするB&Wのダイヤモンド・ツィーター付きスピーカーの精神を彷彿とさせるものである。大阪では喫茶店にまでこれがドドーンとあって、朝から外交に出ても昼が待てずにモーニングセットに釣られてふらふらと足が向いてしまう罪な奴であった。
さて、きのうは従妹がビジネスの相談にのってよと旦那様と家にやって来て、ワインとつまみだけで中途半端な時間に帰ったものだから夕食はどうしようかとなってしまった。そこで天啓のようにひらめいた(というより急に食べたくなっただけだが)のがナポリタンであり、どうせなら自分で作ってみようという意欲がむくむくとわいた。きっとそれがどうしたのというほどのものなのだろうが、恥ずかしながら僕はインスタントラーメン以外は自作したことがない、いまどきレアな男である。
娘の指導で玉ねぎ1/2個、ウインナーソーセージ2本、ピーマン1個を切り、フライパンでオリーブ油で炒めた。これが感動ものだった。この炒(チャオ)という強い火力で水分を中に残しつつささっといためる行為は中華料理の基本ときいたことがあって、そこに秘儀の如き奥深いものさえ感じており、人生で初めてやった手ごたえはひとしおである。ハムは使わない。ウインナーのブテチゲを思わせるB級感が望ましいからだ。あとはスパゲッティ130gを5分ゆでて水を切ってそこに入れ、ケチャップをかけてまぶして10分ほどでおしまい。
結論として、我ながら満足な出来であり(左)、これなら駅地下で出てきても文句は言わんと最大級の自画自賛を娘に送りつつ、10分で皿は空になったのである。ナポリタンは偉大だ。米国に敬意を表しつつこれからはスパゲッティ・アメリカーナと呼ぼう。
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blue moon
8/14/2017 | 10:23 PM Permalink
毎日拝読させて頂いております
ナポリタンは素晴らしいですね
トスカニーニも素晴らしい
教育者のハシクレとして結局のところ教育とはする側の方法ではなくされる側の受容力に因るのではないかと怖くなります
その意味でトスカニーニは最高の教育者でしょう
バルトークも素晴らしい
本当に素晴らしいと思う
彼は歌を破壊しようとしたのか
新しい歌を歌い始めようとしたのか
そもそも我々が歌と呼ぶものは要するにそう飼い慣らされただけなのか わからなくなります
でもハイドンも好きです
節操がないのが似ているのではないかと勝手にフフフと思っております
東 賢太郎
8/15/2017 | 12:30 AM Permalink
blue moonさま、いつも拙稿をありがとうございます。「教育とはする側の方法ではなくされる側の受容力に因るのでは」とはまったく同感でございます。それを看破される教育者がどれだけおられるようになるかは国家的な課題かとも思料いたします。
教育者の方、政治家の方、官僚の方には度々きついことを書いてしまっており読みかえすと冷や汗ものです。たかがブログのつもりで始めましたが公開されているわけでもあり、頂戴したコメントを拝読いたしまして「読んでいただく側の受容力に因る」こともあるのだと察しました。
blue moon
8/15/2017 | 11:19 PM Permalink
私の場合、互いの視線が交わらないからこそ、緊張し謙虚になります。
現代的な縁ではありますが、ご意見を頂戴する機会があればよいなと考えます。
以前読んだストラヴィンスキーのインタビューに『作曲は数学に近い』とあり、そののちそれは比喩ではなく実際的な方法になりましたが、そもそも『数学ではない仕事はない』のではないかと考える今日この頃です。バルトークのこともトスカニーニのこともそんな思索の延長線上にあり、彼らの人となりを知ることは出来ませんがそれは私にとって大して重要ではなく、構築されていく様子を美しいと思ってしまいます。
お返事ありがとうございました。
またコメントさせていただきます。
東 賢太郎
8/17/2017 | 10:17 PM Permalink
ありがとうございます。コメント大歓迎です。
作曲は12個の音の順列組み合わせと見れば数学ですね。正解は人が美しいと感じるかどうかで、美しいための法則があればAIでもできます。数学では例えば最大の素数を際限なく学者が追い求めますが、最大の素数があるかないかは証明できてません。ないと信じるか、次に自分が見つけるそれが最大だと信じるしかありません。美しい音楽探しを際限なく追い求める作曲はその意味で似ていると思います。バルトークもストラヴィンスキーもそれに人生をささげた人たちです。あるかないか不明なものをあると確信して命を懸けるフロンティアを僕は何であれ尊敬します。科学者と作曲家はその例です。ですから、作曲家と演奏家は、その両方であったピエール・ブーレーズが指摘したように、僕はまったく別種の仕事と考えています。