バルトーク「ルーマニア民俗舞曲」Sz.56
2019 MAR 20 17:17:29 pm by 東 賢太郎
バルトークの家系と出自に関心を持ったのは理由があります。彼の音楽の多面性、つかみどころのなさは彼の血のせいではないか?と思ったのです。同じことはラヴェルにもあって、彼の母親はバスク人ですが、スペイン情緒への傾斜(ボレロ、スペイン狂詩曲など)がその影響であろうことは定説になっています。母親の出自に関心と愛情をいだくのは人間として自然でしょう。
僕自身、出身は?と問われれば東京と答えますが、祖父母の出身地は母方が長野県、長崎県、父方が石川県、東京都とばらつきがあります。さらにその先祖は京都、山梨県です。場所だけでなく身分も農民、漁民、戦国武将、公家と雑多です。自分はそのどれかではないがどれでもある。アイデンティティというものを意識すると不安定です。60になって、自分の社会的人格は捨てよう、我に忠実に生きようと努力してますが、では我はどこにいるのかとなる。知らなければよかったと思うこともあります。原住民以外は全員が移民であるアメリカという国家はルーツを話題にしない不文律がある。姓で見当はつくので口にしてしまうと会話は止まります。止まらなかったのはピルグリム・ファーザーズの子孫という女の子だけでした。
バルトークの精神の深層におそらくあったアイデンティティの複雑さの投影が気になってしまう理由はそこにあります。父方はハンガリー下級貴族ですがその母(彼の祖母)はセルビア地区の南スラヴ少数民族です。お母さんはドイツ系ですがスロヴァキア出身。そして彼が生まれ落ちたのは当時ハンガリー王国の一部ですが現在はルーマ二アの土地だった。国民国家である日本で育つと理解しづらいですが、国家と民族はちがいます。歴史的にはそれが普通であり、バルトークを単純にハンガリーの作曲家と見るのはほとんど適切でないでしょう。
出身県DNAや血液型占いは信じてませんが、僕はイメージとして仕事は九州人の気宇壮大さを大事に、学習は細かく根気よく北陸人的、趣味はどっちでもなく京都人ということで生きてきた気がします。何々人と言っても多様で、詰まるところその先祖の個性という味気ない結論になりそうですが、例えば証券業という仕事を選んでみると、そこでうまく生存するには自分の中に九州っぽい部分があって、それが自然に優位に働いた。そういうことだと思います。
バルトークも作品ごとにマジャール人、スラヴ人、ルーマニア人、ジプシーが顔を出し、地域を征服・支配したオスマン・トルコが混ざっていておかしくない、だから数学者だったり残忍、野蛮だったりするのだろうと考えるのです。子どもの頃に聞きなじんだ音楽の記憶は消えません。僕にとっては赤子の頃に四六時中、耳元で鳴っていた親父のSPレコードがそれで、チゴイネルワイゼンは3才で諳んじてました。バルトークが幼少にそういう風に諳んじてしまった音楽がどういうものか、起源をたどるのも一興です。
曲は「ルーマニア民俗舞曲」Sz.56です。この曲に僕は並々ならぬ愛着を持っています。まず、バルトーク自身のピアノでお聴き下さい。
次にハンガリー出身のリリー・クラウス女史で。
次にフランス出身のエレーヌ・グリモー女史で。
いかがでしょう?バルトーク、クラウスはフレーズが伸縮し音価どおりではないです(後者の方が振幅が大きい)。グリモーは楽譜から読んだという感じがする(非常に洗練されて魅力的ですが)。バルトークは古老たちの歌を耳で聞いてそれを音符に置き換えたわけですが、当然、記号化には限界があります。例えば日本民謡や演歌のこぶしを五線譜に書けるか?ということです。
この6つの小品の元ネタの故郷が「ルーマニア」だと作曲者が断じているかのような命名ですが、そうではなく、ヴァイオリンと羊飼いのフルートによるトランシルバニア地方の民謡です。発表時のタイトルは Romanian Folk Dances from Hungary という妙なものでした。1914年に隣国でサラエボ事件が勃発しこの曲は動乱のさなか1915年に書かれたからですが、それを契機に始まった第1次世界大戦でハンガリーとルーマニアは敵国同士になったのです。ハンガリー平原がオーストリア、オスマン両帝国のぶつかりあう最前線であった歴史が事情を複雑にしています。
トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、後にハプスブルク家領となりました。ところが1526年にオスマン帝国の属国となり、トランシルヴァニア公国として現代ハンガリーの国民的英雄であるラーコーツィ・フェレンツ2世が君主を務めた。だからハンガリーには大事なところなのです。ついに大トルコ戦争でオスマンを追い出し、18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となったのに、第1次世界大戦で今度はルーマニア領になってしまった(1918年)。そこで from Hungary が削られたのです。
バルトークの生地は広域のトランシルヴァニアに含まれますので、彼にとっても重要な地、心の故郷でした。支配者オスマン・トルコがこの地へ残したものとバルトークは関りがあったのか?大いにありました。彼はトルコで多くの民謡を録音、採譜しています。これがそのひとつです。
「ルーマニア民俗舞曲」の第3、4曲のメロディーにあるアラブ音楽の影は明白です。これはロシア人のリムスキー・コルサコフやフランス人のラヴェルが異国(東洋)情緒を出す目的で入れたようなものではなく、バルトークにおいては「おふくろの味」であった、それは想像の域を出ませんが、僕はそう信じております。
バルトークが聴いた「ルーマニア民俗舞曲」はこんなものだったかもしれません。フィドル2丁とコントラバス、濃いですねえ。縦笛の妖しい調べ・・・何とも言えません。それをオーケストラに落とすとなんて近代的な音になることか。終曲のノリはまるでロック・コンサート、聴衆も体をゆすって目はエクスタシーだ、弦チェレやオケコンの終曲のルーツを感じませんか?
それだけじゃない、僕はこの曲にいつもリムスキー・コルサコフ「シェラザード」を思い出すのです。西洋人がイメージしたオリエンタルはこういうものか。特に第4曲(Bucsumí tánc)の和声がそうですね(ボロディン風でもある)、この曲はそのままシェラザードに入れて違和感はありません。そして終曲の強烈なアッチェレランド、これ、そのものです。
次はシナゴーグ(ユダヤ教会)でのジプシー楽団(ライコ・オーケストラ)による民族色たっぷり、むんむんの演奏です。ジプシーの子供のオーケストラで16才までにチゴイネルワイゼン級のヴィルティオーゾの技を身につけた子だけが残れるそうです。お立ち台の子はまるでヨハン・シュトラウスと思いませんか。彼の一家はユダヤ系ハンガリー人の血を引いているといわれますが、なるほどと思わせられる写真です。
このオーケストラでは楽譜を使わず、先生が指を見せて覚えせさせるそうです。そうすればもちろん暗譜になって、音楽が目と頭ではなく体にしみこむという考えのメソッドです。そのメソッド、僕は音楽の正道と思います。
次に、このヴァージョンを是非ご覧ください。クラシック音楽って何なんだっけ???皆さんの頭に革命が起きます。
渡米後のバルトークは「ハンガリーの納屋のワラ一本」に彼は「一つのよい薫り――それは音に成ろうとしているのだ」と語っています。
最後に、バルトークがフィールド・スタディでエジソン・シリンダーに録音にしたもの(Musicology of the Research Centre for the Humanities of the Hungarian Academy of Science)。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
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chiba
3/10/2020 | 11:23 PM Permalink
はじめまして。先ほどこちらのサイトにたどり着きまして、拝見しました。
grimautのピアノからです。
バルトークのこの曲は初めてなのですが、もう虜になってしまいました。
ルーマニアの民族舞踊とはこんなに奥が深くて人の奥底の部分に訴えてくるものなんだと知り、ヒトにとっての音楽の大切さを初めて考えてしまいました。
ありがとうございます、素敵なサイトでした。
東 賢太郎
3/11/2020 | 7:35 AM Permalink
はじめまして。この曲の虜になっていただいて何よりうれしいです。なにもかも、ルーマニアの民族舞踊とバルトークの魅力のおかげです。
「ヒトにとっての音楽の大切さを初めて考えてしまいました」
このお言葉を拝見して、はっとして、僕もそれに気づかせていただきました。とっても素敵なコメントをありがとうございます。