モーツァルト ピアノソナタ ヘ長調 K. 332
2021 AUG 15 12:12:40 pm by 東 賢太郎

同年輩の皆さんそろって「近ごろ足がね」という話になる。たしかに僕も膝が良くないが、もっと気になるのは目だ。そこで眼科の先生が「黄斑変性防止に効果がある」というルテインと亜鉛の調合された米国の錠剤を飲んでいる。そのおかげなのか、多摩川を走ったらなんだか目が良く見えるではないか。近くも遠くもだ。もともと裸眼で1.2あるが、その見え方はまるで高校生だ。あまりの嬉しさに、家に帰るや「また野球やるぞ」と叫んで相手にされなかったが、一つご利益があった。楽譜が見えるのだ。モーツァルトのK.332を出してきて全部を通して弾けた。つっかえながらだが。
この曲はかつてパリ滞在ごろの作品とされていたが、もっと後のウィーン時代の作品というのが現在の定説だ。アラン・タイソン著 “MOZART, Studies of the Autograph Scores” はその根拠を与えた研究のひとつで、僕の愛読書だ。モーツァルトがザルツブルグでは10段、ウィーンでは12段の五線紙を使ったことはほぼ原則に近いと言ってよく、K.332にはご覧のとおり前者が使用されている。
それが旧学説の根拠だったが、タイソンは原則にも少数だが例外があり、ウィーンに定住してからでも10段譜を使った例があることを見つけた。K.330-332の3つのソナタが、より確かな根拠のある複数の “例外” の一部であるという仮定をたてることで、「1783年のザルツブルグ帰郷の際に書いたためにウィーンの12段譜ではなく当地の10段譜を使用したのだ」と推定している。ただウィーンへの帰路リンツで書いたことが確かなK.333とは紙が違っており、作曲年に絶対の根拠がないのはこの論証の弱みだ。1784年6月の手紙に「姉に送った3つのソナタ」を「アルタリア社が出版する」という記述があることからタイソンは作曲が帰郷前なら既に出版されていたろうし、帰郷中なら姉は写譜を持っていただろうから “送った” の記述はおかしいと指摘(同書232ページ)して、「1783年にザルツブルグで書いたが完成はしていなかった、あるいは写譜の時間がなかったのでは」という結論に帰着している。
彼はもうひとつ推理している。「ウィーンに戻ってから需要があるであろうピアノの生徒への教材としての用途も意識して書かれたのではないか」というものだ。この説については僭越ながら多少の応援をすることができる。モーツァルトのソナタは決してやさしくはないが、K.332はピアノを習ってない僕でも弾けるからである。自分の腕前を披露しようと勇んで乗り込んだモーツァルトがパリで教材を書く理由はなく、就職活動は完全に失敗したところにやってきた不慮の母の死で精神的にもそんな状態ではなかった。完成したのはショックを映し出している悲痛なイ短調ソナタだけだったという現在の定説には大いに納得感があろう(ご参考:モーツァルト ピアノ・ソナタ イ短調 K.310)。
K.332の第1楽章(Mov1と記述、以下同様)は饒舌だ。こんなに主題がてんこ盛りで現れるにぎやかな曲はモーツァルトといえども類がない。ソナタ形式の第1主題、第2主題を男と女に見立てる俗習に従うならこんな感じだ。パーティ会場。冒頭の第1主題(T1、以下同様)はややお堅いフォーマル姿の男だ。するとカジュアルな装いの女(T2)が絡む。すぐ喧嘩になってニ短調の嵐(T3)がくる。やがておさまり台風一過のように清澄なハ長調のT4が出る。二人は意気投合したのだ。そこでダンスをする(シンコペーションとピアノーフォルテの嵐、T5)。終わると二人はお休みする(T6)がまだ胸騒ぎ(シンコペート)が残っており、やおらトリルとアルペジオで興奮をあおるコーダ(T7)に流れ込む。なんともドラマチックでセクシーだ。このMov1の開始、第1主題がいきなり出てくる。最晩年の作品に交響曲第40番、クラリネット協奏曲があるが数は多くなく、K.330-332のどれもそうであるのはK.310の残照だろうか。特にK.332のインティメートナな雰囲気の主題による柔らかな幕開けは本人のどの作品よりもベートーベンのピアノソナタ第18番、28番に遺伝していると思う。
さて、長くなったが、以上がまだまだ「提示部」の話なのだ。T1が第1主題、第2主題は構造的には上述のようにT2ではなくT4と思われるが、主題が7つもあるのだから深く詮索してもあまり意味がない。この現象が交響曲第31番ニ長調k.297(300a)(いわゆるパリ交響曲)のMov1でも起こっていることは注目してよい(ご参考:モーツァルト「パリ交響曲」の問題個所)。K.332がパリ時代に分類されパリ・ソナタと呼ばれた旧学説にも様式的には一理あったと考えられる。たった93小節にこれだけのことが起き、息つく暇もない。弾いていて「これがモーツァルトだ!」と喜々とした気分になる。なる、というか、襲われると言った方がいい。彼のワールドにぐいぐい引きずり込まれてしまう。再現部はあっさりして7つのどれでもないT8で始まり、ダンスT5が再現する。T8はT7の変形、T5はT4の後段だから一応理屈に合わないことはないが。
Mov2は一転して、モーツァルトに語られ、泣かれる。彼は母を追想している。僕もそうなる。K.310は号泣だったが、ここでは声はない。冒頭(T1)変ロ長調がT1’で変ロ短調に暗転する。ここを弾く心持ちは半端なのものでない。母を追って黄泉の国を彷徨っていくと、在りし日への微笑みが訪れる(T2)。やがて悲しみが戻って楽章唯一の32分音符のパッセージが現れコーダで鎮まる。以上が提示部で展開部はなく再現部になる。モーツァルトは即興バージョンも記譜している(彼が実際にこうやって変奏していたという稀有なサンプルだ。でも意外に饒舌でなく品位を崩さない)。そちらのT1’にある64分音符の半音階上昇パッセージは彼の慟哭である。2度目のコーダでファに#がついてる、これと、T1の第3小節のシに♮がついている・・・分かっていただけるだろうか、これがモーツァルトなのだ。
Mov3は陽の極に戻る。無窮動風の疾走する主題T1がパウゼで止まり、ヘ長調のままの第2主題T2が左右のユニゾンに流れ込むあたりはベートーベンのソナタにエコーしている。展開部でT2がふっとハ短調になるところは魔笛のパパゲーノを予言している。再現部は想定外のハ短調で始まる。この楽章はベートーベンのピアノソナタ第25番のMov1に響いており、どちらもMov3はひっそりと消えるように終わる。そう、K.332を彼は愛奏したに違いない、私見ではMov1のごちゃごちゃを彼流に料理するとソナタ28番Mov1になる。ダンス(T5)は分離してMov2(生き生きと行進曲風に)になった。25番は「ソナチネ」と呼ぶように指定され、たった9分で終わる最短のソナタだが献呈者がないことから教材用でもあったと思われ、やはりそうであったK.332と全貌も類似するように思う。
ひとつ前のK.331がトルコ行進曲付きのイ長調でソナタ形式楽章がひとつもない「ソナタ」なのは周知だが、K.332もハイドンの模範的なソナタをはみ出している、しかし、Mov2をそれと認めるぐらい大まかな定義を許容するならば、K.332は逆に3楽章ともソナタ形式である。ベートーベンはピアノソナタで種々の実験を行ったがモーツァルトもそうだろうか。どうも彼にはそぐわしくないように思う。特にK.332は何かの理由で創作意欲が横溢し、一筆書きの如く一気に書かれたように見える。書かれた結実の天衣無縫の美に聞きほれながら、ザルツブルグを後にする彼を何がそこまで舞い上がらせたかに興味が至る。
心はウィーンに向かっていた。
晴れて父と姉にコンスタンツェを認めてもらった、いや認めてなくてもいいさ、それがどうしたんだ、もういいじゃないか息子の勤めは果たしたんだから。やっとウィーンに戻るんだ。妻と二人だけだ、僕は自由だ!スターになって豪邸に住むぞ。僕の演奏会がうけないはずがあるか。あの馬鹿で高慢なパリの貴族どもとは違う、ウィーンではもう僕は知られてるし貴族なんてみんな僕にひれ伏して客になるだけさ、弟子もたくさん取れるから生活は安泰だ、大ヒットの「後宮」があるしソナタの方も流行のトルコ風にしてやったからイチコロだよ。オペラを書くぞ、貴族を思いっきりおちょくった奴をさ。コケにしてやったクソ野郎のコロレード大司教、覚えてろよ、僕がいなくなってザルツブルグは大損だ、吠えづらかかしてやるからな。
リリー・クラウス(1956)
クラウス(Lili Kraus, 1903 – 1986)はバルトーク、コダーイに師事したハンガリー人で下記のシュナーベルの弟子でもある。モーツァルトを珠玉の美で綺麗に弾く人はいくらもいるが、よいタッチで弾ける人はあまりいない。この人は持っているものが格段に違う。変幻自在、曲想によってルバートし強弱も移ろうがタッチもそれに合わせてダイヤモンドの光輝のように色を変える。ステレオの68年盤もあるがこの曲は旧盤の方が良い。あらゆるモーツァルトの名盤の白眉としてモントゥー/BSOとのピアノ協奏曲第12番を僕は挙げるが、このK.322はそれに匹敵する。
アルトゥール・シュナーベル
シュナーベル(Artur Schnabel, 1882-1951)はブラームスに「将来最も恐るべき天才」と絶賛された。ベートーべン弾きのイメージがあるが彼のモーツァルトはどれも一級品で、テンポにはこれしかないという納得感がある。まとめにくいMov1が常に品格を保ち、細かな表情にクラウスの即興性はないが、ドイツの伝統にがっちりと根ざした盤石の安定のうえに玉を転がすようなタッチのMov3は決して機械的に陥らない。ニュアンスに富み、デリケートで奥深く人肌の情感のこもるMov2は最高の演奏の一つである。
グレン・グールド
先日に東京芸大ピアノ科卒で音大講師のH様からお手紙を頂戴し、グールドとリヒテルの本をいただいた。啓発されてK.332を聴いてみた(多分2回目だ)。Mov1の饒舌はグールドの手にかかるとアレグロのソナタになり、リズムの骨格が浮き上がり、バッハのイタリア組曲みたいに聴こえる。Mov2のテンポに奇異さはなく、グールドはモーツァルトへの敬意もあるのかな、もしあるならこれだろうと思った。発見だが全部が平凡ではない。不思議な硬質の透明感が支配し、2度目の変ロ短調は即興なしの版で遊びはなし、コーダの左手のファ#の所の聴感はまるでウェーベルンだ。Mov3はアレグロ・アッサイでなくプレストで疾風の如し。どうしても指の回りに耳が行ってしまうがこの速さだと長調、短調の移り変わりの効果がくっきり鮮明に伝わる。グールドの才能と個性はJ.S.バッハにおいて最高度の開花を示したことは何人も否定のしようがないが、それがモーツァルトという場においてもそうだったかは尚且つ疑問が氷解しない。しかし、これを聴くにつけ、さらにモーツァルトが弾いたのは音が長く保持されないハープシコードであることを考えると、このテンポを彼も支持した可能性はあるし、Mov1のフォルテとピアノの強烈な対比はむしろ本質を突いているとも思う。楽譜を読みこんでも自分で弾けない解答は選択できない。超人的な知性の人が宇宙レベルの超人モーツァルトにどう挑んだかという解答がここにあるわけだが、グールドの技術をもって見事に弾けたからそれに至ったということで、もしそれが万人の予想を裏切ってモーツァルトに支持されるものであったならという想像に耽っている。これだから音楽は面白い。H様、本当にありがとうございます。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
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S.T.
4/1/2022 | 2:10 PM Permalink
懲りずにコメントさせていただきます…
やはり読んでいてとても楽しいです! と言っても譜面の理解が追いつかないのですが、自然言語の手書き原稿より作曲者の自筆譜のほうがずっとピュアにおもえてきました。
わたしは Lili Kraus の演奏でピアノのモーツァルトも大好きになりましたので、Artur Schnabel のCDも聴いてみようとおもいます(友人が音大の図書館に勤めていて、去年、厖大な量のモーツァルトCDコレクションが寄贈されたとのことで幸運なのです)。
日本に住んでいるとオーケストラのコンサートは高くてあまり聴きに行かれませんが(N響の自由席は別ですが)、2019年に Daniel Harding の交響曲39,40,41を聴きました。「予習」をBernstein の演奏で聴いていましたので、拍子抜けしてつい笑いが出てしまいましたが(誰も笑っていませんでした)、楽しい演奏会でした。夫が Harding の「舞い」がカッコいいので好きなのです。ついでに今秋には BACH COLLEGIUM のレクイエムを聴いてみたいのですが……迷っています。ヨーロッパにいらっしゃるかたは羨ましい…。
Glenn Gold はバッハとベートーヴェンをよく聴きますが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの30や31はとても好きですが邪道でしょうか(笑)。
東 賢太郎
4/2/2022 | 7:42 PM Permalink
ありがとうございます。
シュナーベルは一聴に値するモーツァルト演奏家と思います。コンチェルトも良いです。グールドについては書きましたように20世紀音楽界の最高の知性のひとりであることは疑いありません。ベートーベンも「彼の作品」ではありますが30、31は僕も傾聴しています(カルテットもしかりですが後期作品の解釈はアナリティカルかつ哲学的な知性が必要です)。古楽器派の古典演奏は僕はピッチからして苦手でしてハーディングもほとんど聴きません、あしからず。
S.T.
4/4/2022 | 1:10 PM Permalink
お訊きしてみてよかったです、やっぱりレクイエムはやめておこうとおもいました。普段聴いているのが Peter Schreier(←ファンです)指揮の、近所の図書館にあった小学館の「すごい」シリーズのものなので、楽器がノスタルジックだったらあの完璧な調和がどうなるのか、わたしには想像もつかないのですから。
わたしの場合、音楽に関しては耳(の感覚)とか知識とかそういうものよりじぶんなりの感受性のほうが先行してしまうので、わかっていないことが多いです。言語化できるのはどちらかと言えば視覚イメージのほうで、仕事でもそういうことをやっています。
東さんもどこかで書かれていましたけれど、文芸も視覚芸術も、社会との接点から退避した作家か、あるいはポップな町おこし的「個」の表現のどちらかになってしまった現代にわたしは辟易していますので、クラシック音楽界の歴史と精緻な批評を可能にする価値観が完成されていることは、知らないなりに凄みを感じます。
話はまったく違いますが、Hélène Grimaud の自伝のなかに、すこし後のことが「見える」幻視のような体験が書かれていて、東さんの株の夢のことを読んだときに思い出しました。わたしの母も色々と「見える」人なのですが、同じ部屋で眠ったときにわたしにも「来た」ことがありました……オカルト情報は以上です!
東 賢太郎
4/4/2022 | 4:05 PM Permalink
Grimaudさんはオオカミと住んでる方ですね。先が見える話は初耳ですが面白いです。どんな人か一度お会いしてみたい気になりますね。彼女のベートーベンPS28は時々聴いてますよ、重くなく清々と流れるのがいいです。
Peter Schreierのレクイエムですか、これは素晴らしいディスクです。歌手陣の充実、DSKであること、聖ルカ教会のアコースティック、Philipsの優秀録音であることが相まって文句なしに最高位の一つであること間違いございません。いいものをお聴きですね。
日本のクラシック受容はサブカル的です。江戸庶民の歌舞伎や落語好きの伝統にすっぽりはまった感じで世界でも個性的なクローズド・ワールドです。僕はそこの住人ではないので違った受容をしていると思います。欧州に住んでみて欧州の伝統とも違うと思いました。クラシックは現代曲に至るまで宗教と切り離せないからです。宗教・哲学を理解せずにクラシック音楽を論じるのは、味噌や醤油や出汁を知らずに日本食を語るようなものですが、サブカル世界なら許されるということなんですね。評論家ではないので批評しているつもりはありませんが、仕事から何から、自分自身に対してすら、僕は生まれつき批評精神があったのだと思います。
S.T.
4/11/2022 | 6:58 PM Permalink
普段のレクイエム、お墨付きをいただけて嬉しいです。でもテノールはシュライアーさんの若い頃のほうが個人的には好みだったりします。
日本のクラシック音楽受容について、何となくわかるような気がしました。コンサートに行くと毎週通ってきているであろうオジサマたちの雰囲気が…。
しかし、当時近所だったのでキーシンの待ちをした時にわたしは「シャーローム」を書いて渡そうとしたのですが、オジサマたちに「サインを貰わないのは勿体無い」と説得され、色紙まで分けていただきましたから恩があります。キーシンのラフマニノフ3番が大好きです。彼が国籍取得のときにヘブライ大学でヘンな靴下で弾いた、はちゃめちゃなショパンのスケルツォ2番も好きです。
モーツァルトは先日、Rudolf Buchbinder の24番を聞いて魅了されました。まだまだ先が長いです。
東 賢太郎
4/12/2022 | 1:57 AM Permalink
ラフマニノフ3番冒頭の主題はアシュケナージ民謡だとフランス・クリダから聞いたという人のブログを読みました。どういうことなんでしょうか。コンサート事情に疎いせいかキーシンも最近聞かない気がしますがシューマンPCはいいですね。
日本のクラシック音楽受容において不肖私もコンサートに毎週通ってきているオジサマたちの一人でありましたが、あれは昔の高島屋・三越、いまなら高級フレンチか名門ゴルフ場の雰囲気なんです。ということは全部一緒にだめになりますね。音友、レコ芸の部数は公称10万部ですがそんなにあるかなという所に来てますね。お世話になったので寂しいです。とすると日本のクラシック好きはどう多く見ても100万人で、人口の1%いない極めてニッチな市場です。聞き手が増えなければ音大も生き残りが大変ですね。
S.T.
6/25/2022 | 12:51 AM Permalink
こんばんは。
シュナーベルのモーツァルト、いくつかよく聴きました(シューマンもよかったです)。PC21がとても好きになりました。こういう上品なモーツァルトはあまり聴いたことがなかったのですが、第二楽章などハープのように引っ張るような…!!
ヴァイオリンやクラリネットの音が少々ひしゃげている少し古い録音でしたが、それだけでなく、わたしの聴いたシュナーベルはピアノの音が最近のものと違うかんじがして、ピレシュさんが引退の時におっしゃっていたことを思い出しました、スタインウェイはご自分には向かないというようなことです。やわらかい音と硬い音、わたしには子どもの頃はすこし別の色で見えていて、どうしてもまずは硬い音が好きでしたが…(先生のピアノでも家の電子ピアノでも硬い色には弾けなかったのです)最近は色々聴けるようになり嬉しいです。
東 賢太郎
6/28/2022 | 7:06 PM Permalink
エドウィン・フィッシャーが二分音符138は間違いと言って録音しなかったハンマークラヴィール・ソナタ。「ぎりぎり早く弾けという意味と思います」(ポリーニ談)に賛同する僕にとってミスタッチをものともせずアレグロで弾き切ったシュナーベルは神です。19世紀には「世界でリストとクララ・シューマンしか弾けない」と言われた曲ですからね、2人が弾いた(と思われる138に近い)テンポではフィッシャーは弾けなかったというだけでしょう。僕はシュナーベルでこの曲が理解できました。ベートーベン自身が弾けたかどうかはともかく彼の頭に降ってきた楽想はこうだったろう、だからミスタッチを恐れる演奏を戒めた彼が弾いたらこうだったろうと思える演奏です。言いたいのは技術のことではないです、「音楽から何を掴み取るか」です。アレグロで弾けるポリーニやグルダ、最近ではゲオルグ=フリードリヒ・シェンクの良い音の録音が出てきましたがシュナーベル盤の価値が落ちたわけではないということです。技術だけで綺麗に弾いてもどうにもならないモーツァルトも同じことです。
S.T.
7/1/2022 | 11:06 PM Permalink
聴き方についてあまり考えたことがなかったのですが、子どものころは「色がよく見えるように弾きたい」というのがまずあって、つまり聴き方も、例えばすごい夕焼け空を見て「永遠…」とか「バカヤロー」などが別に浮かんでこなくても、単純に感動して、陽が沈み切るまで最後までどうしても見たいとおもうような、そんなふうに聴いていました(?)。何故かわかりませんが、弾き方の指示はどうしてあるんだろう、どうして任せてくれないんだろうと腹を立ててもいました。しかも弾けないのに! 手の大きさからして5/7くらいのサイズのピアノがないとじぶんには弾けないと悟ってしまい(?)さらに左利きも相まって、鍵盤の真ん中が低い音で両端が高いのはどうだろうとか、余計なことばかり考えながら「ブルクミュラー」を終わらせたのは奇跡です。が、5年生の時にレッスンはやめてしまいました。
テクニック(だけ)ではないところに何があるかなどの思考はわたしは専ら視覚専門で、音楽は直接入ってきてしまいますから(あるいはイメージ化されてしまうから?)、弾き手が曲の何を掴みとり聴き手であるじぶんがその何を受け取ったのか受け取っていないのかなど、残念ながらわたしにはわからないことなのかも知れません。
S.T.
7/1/2022 | 11:08 PM Permalink
ピアノソナタ29番は例によってグールドを聴いていましたがあまり好きになりませんでしたので(31番が曲として好き過ぎるせいかも知れません)次回はシュナーベルをリクエストして聴いてみます!
ホロヴィッツ氏ですが、オーマンディのラフ3、まだ聴き途中ですが、ショパンの強迫神経症のpolonaise 5番はホロヴィッツさんのが最高です(毎度違うのかも知れませんが)! 彼のエンターティナーぶりや、隣りの弦も震えているんでしょうか、その轟音が理解できて好きになりました。
東 賢太郎
7/4/2022 | 5:22 PM Permalink
29番は人類史上最も偉大なピアノ曲の最右翼と僕は確信します。しかしなぜ彼が書いたかは謎です。交響曲におけるそれであるエロイカの謎は自分なりに解きましたが、これはまだ不明です。誰の演奏がどうのということは音楽鑑賞において二の次で、まずその楽曲をとことん知ること、それは作曲家を揺り動かしたモチ―ベーション(衝動)を体感して腑に落ちること(いわば宗教の「悟り」に触れることですね)がないと話になりません。良い演奏とはそれをさせてくれるものに尽きます。衝動が薄い作品は駄曲でそもそも歳月を超えて残りませんし、残っているものだけを「クラシック」と呼んでいるわけです。でも作曲家と聴き手も人間同士で相性がありますから、クラシック通はバロックから現代まですべての作曲家に悟りを開いており評論ができるなんてことは僕はのっけから信用してません。聴き手が悟ってないとそれが何か分かりませんし、演奏家が悟ってないとそもそも伝える実体が存在しません。シュナーベルの29番は僕においてそういうものだったということを書いています。
S.T.
7/5/2022 | 6:11 PM Permalink
説明を加えてくださりありがとうございます。わたしの話が分散してしまっていますが、東さんの文章を時々読んでいればおっしゃっていることは承知しているのです(それにしても29番はそんなにですか…)。「実体」とはすなわち作曲者のそれであるということ。しかしライトな聴き手は、まずその楽曲を好きにならなければよく知るためにとことん聴くということじたいが難しいので、はじめに聴いたものの影響がおおきいです。
そしてわたしの聴き方はすこし変わっているのかも知れないということがあり…。ちょうど東さんの色の見え方が多数と違っているように、です。
ところで、ある曲の最良の案内人である演奏家は、聴き手によって違ってよいということですか?
悟りはいくつもあってよいのか、と言われれば、クリエイターが存在するのならそれは駄目です。はい。悟りは感性だけで切り開いていってよいのかと言えば、それは人間が皆おなじか、あるいはその人が完璧であればの話とおもいます。
S.T.
7/6/2022 | 3:54 PM Permalink
というのは、芸術に相対的「ではない」価値を希望してみても、それは無理な話であって、これは20代のわたしにとってはがっかりすることだったのです。美術は物質であり、文学は政治であると捉えた場合に、人間は何も確かなものを持っていない。一神教にとってMuse はやはり異教の神であることをはっきり感じました。価値については、受け継がれてきたコンテクストをつくったもの人間だったというだけのことでした。もしあるとすれば、芸術の目的は創造主讃歌にほかならず、それが人類讃歌である場合の美しさとは何のことだろう。というのが今のわたしの謎です。
ヘンなお話をしてすみません。夫に言わせればわたしには「臓器がすべて左右逆に入っている」ということなので申し訳ありません( *_* )
東 賢太郎
7/7/2022 | 10:32 AM Permalink
物心つく前から父のかけるSPレコードを耳元で聴いて60余年、クラシック音楽を伴侶として生きてきました。その間に受験失敗、仕事失敗、起業、母逝去そしてこの度の父逝去と5度の重大な精神の危機がありました。そこで僕を泥沼の底から救い出してくれたある音楽には一種の「薬理作用」があると思い知ったのです。僕は性格が唯物論派ですので当該作用の由来を究明したく、その音楽を分解・精査しましたが腑に落ちる結論は得られませんでした。還暦を経て少し頭を柔らかくし、こう考えました。作用の源は作曲家の頭に降臨した「何ものか」であり、それが彼に作用して採譜をさせ、それに作用された誰かが音に出すと、それを聴いた万人に作用するのではないかと。唯物論的証明は不能ですが今はこれを信奉するに至っております。ある一点を除き、「作曲家がひらめいた楽想を弾いたら聴衆が感動した」と言っているわけで、それ(即興演奏)をモーツァルトは何度も披露した記録が残っているので誰も反論はできないでしょう。問題は「ある一点」、つまり「何ものかが降臨した」という点です。「降臨は唯物論的に起点がある」という問題です。否定派(世の通説、よって99.99・・・%の人々)は「彼は天才だった」であっさり片づけますが天才の定義はありません。これは難題でしたが量子力学を知って「起点がある」と信じるようになりました。それを創造者、意志としてもいいでしょうが唯物論的立場では天才と変わりません。無念ですが僕には量子力学を理解する言語(数学)能力がないのでここから先には進めません。だからそれはお前の思い込みだ、宗教に過ぎないと言われても仕方ありませんが、他に解が見つからないということです。
S.T.
7/8/2022 | 4:04 PM Permalink
(言語化で遠回りしてしまいましたが)わたしはある楽曲が「完全無欠な曲」であると信ずべき理由のない限り、聴き方(こちらも癖があるので)は出逢いに任せて満足しているフシがあり、主体は常にじぶん自身であり、その割に好きになれば簡単に没入して生活が音楽に乗っ取られるという、不真面目な聴き手です。でも東さんの、尋常でないクラシック音楽愛を感じることはいつも楽しいことですし、勉強になります。お返しするものを何も持っていないので残念です。
inspiration という言葉のニュアンスは時代とともにとても変わってきたと感じます。降臨という言葉が何を指すのかわたしには想像もつきません。ヴィヴァルディの L’estro Armonico ばかり聴いていた時期があるのですが、人間の世界で「霊感」の類いは常に権威・権力(あるいは勘違い)を飾るものでもあったでしょうから、簡単に信じるわけにはゆきません。とはいえこの組曲を聴いていたときはわたしにはこれ以外の音楽は不要でした。好きだからです。「アインシュタインより神のほうが頭いいもんね?」と発言して「小学生…」と返されたのはさほど昔のことではありません。ですから諸々、仕方のないことです(笑)
Hiroshi Noguchi
7/8/2022 | 10:11 AM Permalink
明治政府が西洋音楽(定義は難しいですが)を国家の定める音楽として尋常小学校から必要な教育の一つとしたので、今日の我々の耳は既に西洋音楽の音階に慣らされてしまっていると言って良いのでしょう。歌謡曲などのいわゆる「よなぬき」の感覚は一先ずおくとして、調性から感じる終止感や満足感が、何故言語を全く異にする日本人でも感じ取れるのか、と言う問題はずっと不思議でなりませんでした。昔「現代音楽を語る」の小倉朗が教養で自主ゼミの講師を引き受けて下さった頃以来の問いでもあります。彼は「ベートーベンは人の心を動かすのにドミナントの力と、音の効果を結びつけた」作曲家なんだと言っていたと思います。同時にドミナントを理解している音楽家は余りいない(その当時ですが)とも言っていました。
和声の構造的な力と音色や音量の効果で人の心を動かすことが出来るのは何故なのか、勿論個々人それぞれと言うことはあるでしょうが、これだけ多くの人々が第9に感動できるというのは理由があるはずだと思います。ドビュッシーはドイツの三和音から逃れて五音音階による調性を開発し、そこからバルトークはハンガリーの音階を使うことを考えたのだろうと思っています。
我々の世代はそういう様々な調性音楽を味わえますが、それぞれのドミナントを理解するとやはり感動できます。これを発明したのが日本人ではありませんでしたが、重力を発見したのもニュートンですので、これは従うしかないと思っています。でも将来の脳科学が今より少し我々の心を解明してくれるだろうと楽観しつつ音楽を楽しむことが我々皆を豊かにしてくれると信じております。
東 賢太郎
7/9/2022 | 5:07 AM Permalink
STさん、「実体」は相対的な存在です。僕がマーラーがだめなのは、たぶん人間として(量子力学的に)マッチングが悪く、だから実体を感じず、よって聴かないのだと思います。極端な例ですが、僕は色が違って見えるように創造されているので、違う目の構造の方々が「美しい」という花、それもそちらが多数派だから美しいと言わないと変だと思われてしまうような花の名前も覚えてないなんてことがままあります。別にその花を嫌ったり貶しているわけではなく、関心の持ちようがないのです。相対的とは、そういうことです。おっしゃっている 「主体は常にじぶん自身」で何ら問題ありませんし、僕だってそうですし、聴き手は消費者ですから関心ないものを買ったりほめたりする理由などどこにもありません。
僕がブログを書くモチベーションは「人生を楽しくしてくれた作曲家への感謝」のみであり、では彼の作品の何が僕を感動させてありがとうと思わせたかを書き記すことです。つまり「ラブレター」の公開なんです。他人様にカノジョを「おすすめ」なんてするはずありませんから、好みを読者に押しつけようなどという気はさらさらありません。でも僕の情熱に触れて「そんな麗人なら一度見てみたい」という人が出てくれば作品のファンをひとり増やすことになって彼にささやかな恩返しができる。それだけです。評論家の先生はもしそうでもマーラーは嫌いだなんて言えませんよね。お仕事ですからね。ということはどこかでウソを書くことになるんです。僕はそういうことができません。
演奏は恋人のスナップ写真みたいなもので、どれでもいいと思いますよ。つまりCD屋に置かれるレベルの演奏家のものなら悪いはずがない、なぜなら曲が麗人だからです。これも評論家は言えないことですね。ベルリンフィルがブラ4をやれば気乗りのしない指揮者が振っても立派な演奏になります。金返せというのはありません。でもカルロス・クライバーが振ると心底物凄いものになる。こういう超常体験をすると「はじめに聴いたものの影響がおおきい」というご意見には賛同するしかなくなります。僕はブラ4をつまらない演奏のレコードで覚えて遠回りしてしまいましたが、だんだん「実体」(substance)のある演奏、「物凄いものになる何かを持った演奏」がわかるようになりました。たくさん聴けば(youtubeでタダで聴ける時代です)そこに行きつけると思いますよ。
ちなみに僕にとってのピエール・ブーレーズのようなケースはありますが、ごく稀でしょう。初回でそれに当たってラッキーだったのです。でもブーレーズと相性が合わない、つまり、人間としてマッチングが良くない人にそれを押しつけても意味ないのです。そのギャップを埋めたかったので、僕が良いと思った録音、思わない録音をyoutubeからひっぱって理由が書いてあります。それが僕の趣味の「鏡」であり、僕という主体のdisclosure(開示)です。何事もフェアに透明性を持たせるのが仕事にも通じる僕のポリシーなのです。それをせずに自分の趣味を押しつけるのはアンフェアだからです。その材料から皆様がご判断され、僕とマッチングが悪くない(趣味が近い)というかたは拙ブログをフォローする意味はあるかもしれませんし、合わないという方は読まない方がいいという結論になりますね。
STさんも音楽家ではないので聴衆ですね。もちろん僕もそうで、クラシックは大切な伴侶ではあるが道楽といえば道楽です。でもチケットやCDを買ってくれる道楽者が減っているのに音大だけたくさんあっても音楽家は供給過剰になるばかりで、卒業しても職がないという悲しい事態がどんどん進みます。ただでさえ政府が文化・芸術に理解の薄い日本ですから、やがて我が国のクラシック文化は衰退するのではないでしょうか。僕のブログを読まれて道楽者になる人が増えるかどうかは知りませんが、聴衆にとって音楽は教養でも習うものでもなく、感動するものです。僕のクラシック感動履歴、ラブレターが少しでも意味があれば嬉しいことです。
東 賢太郎
7/9/2022 | 5:49 PM Permalink
Hiroshi Noguchiさま
素晴らしい着眼点をご教示いただきありがとうございます。ドミナント➡トニックと働く「磁力」のようなものは広義のsuspended chordの「解決」(Resolution)ですね。不安定なsuspense(宙ぶらりん)が解決すると気持ちよく感じるように人間は創造されているようです(だから毎日飽きもせずサスペンス・ドラマをTVでやってるのでしょう)。その気持ちよさをダイナミックにフル活用したベートーベン、トリスタンで聴き手を裏切り通してポジでなくネガの美を見つけたワーグナー、その美を継承・発展させたドビッシー、全否定したドデカフォニーが現れたということになろうかと思います。私見ですがトニック➡サブドミナントは「希望」「夢」「歓喜」の心理効果があると考えております(田園交響曲の稿をご参照ください)。『音楽には一種の「薬理作用」がある』と妙なことを書きましたが、以上の磁力はその「薬効成分」(medicinal ingredients)であり、作曲家はそれが聴き手の心に有効に作用するように音を組み合わせていると思われます。第9の感動はそれが大成功した例であろうと思います。ご指摘のように「言語を全く異にする日本人でも感じ取れる」という現象をまのあたりにしますと、それはもはや文化ではなく人類にあまねく作用するものであり、比喩的に「薬理作用」と表すのが近いと考えた次第です。
ST
7/11/2022 | 1:16 PM Permalink
たくさん説明させてしまいました…ありがとうございます。おそらく演奏について、東さんと趣味が近いかというより、大胆に書かれることと、お上品というより面白いラブレターを公開されるので、わたしには楽しく読めます。ごく一般の聴衆からすれば、音大に行っていないとわからない解説だけですと、じぶんが聴いてみても良さや違いがわからないだろう、と感じさせられるのです。
それぞれ個にとって音楽が何であるか、がバラバラな世代に生きていて、かつ文化も価値も多様であって、何か奥深いものを知るには忙し過ぎる時代です。政府の理解や聴衆の質もあるのかとはおもいますが、人々の精神は難しい時代を生きているということもあり、わたしには誰をも責めることができません。
Noguchiさまがわたしの謎にぴったりの第9を引き合いに出し教えてくださいました(ありがとうございます!)。ベートーヴェン神学(?)からは距離を置こうと警戒しながらも(笑)第9には惑溺性があります。「仕組み」をもうすこし理解するよう努めます。
タルコフスキーの「ノスタルジア」、とても好きな映画ですが、この冒頭にすこしだけ挿入されている曲がVerdiのレクイエムなのだとわかり、トスカニーニ、ゲルギエフ、アーノンクールと聴きました(しつこく聴けるのですから大好きです)。“黄金のホール” の響きに心底驚いているところです。