人間の相性は量子力学によって決まっている
2022 MAR 15 9:09:46 am by 東 賢太郎

人の相性というと一般にその人と「気が合う、合わない」ということである。合うというのは、2つの脳の相互作用に何らかの「同期」が測定されるということだと僕は経験的に考えている。その測定を僕らは言葉(音)、表情・行動(光)、匂い(分子)等の五感で行うが、判定するのは脳であり、脳内に形成されているシナプスの結合(回路)がプロセス(計算)した結果と思われる。
では僕の場合は実際にどうだったかというと、本当に(”かなり”)「気が合う」と思った人は67年生きてこの世に一人しかいない。これは、ある意味、非常に驚くべき計測結果である。彼は親族ではない。「彼も合うと思ったであろう」という予測に対して僕は高い確率を付与することができるが、確率でしかないのはもう会わなくなってしまったからで、ここで定義する「気が合う」が社会的に「仲良し」を必ずしも意味しないことを示していよう。
回路の形成は先天的、後天的の両方あるが、ある現象(”問題”)を入力した場合にどんな波長を発したかで僕は即物的に合う、合わないを判定しているだけで、遺伝(ア・プリオリなもの)は少なくとも関係はあっても決定的ではないと結論するしかない。もちろん性別、人種、年齢等それ以外のものは一切関係ない。
では合う、合わないを判定する回路はどう作動しているのだろう。観測はできないが、自分の脳は以下のように感じている。入力に対して起こると予測される自分の脳の反応と同じ反応が相手の脳にも起きる確率(同期率)が有意に高いだろうという予測が成り立つと、「合う」と判定されるのだ。反応の予測が立つということは、それを引き出すための説明がお互いに相当程度省けるということで、ツーと言えばカーという関係になり複雑な情報が正確にすぐ伝わる大きな利点があった。
ということは、たったひとりを除いて、67年間に知った全員が予測を有意な確率で裏切ったということを意味している。複雑な情報伝達の正確性は犠牲にならざるを得ない。お断りするが、そのことと社会的結びつき、おつきあいにおける選択とは関係がない(別次元)。両親もそうだし、妻もその意味でぜんぜん別な人だが結婚相手に選ばせていただいている。
以上、それが「非常に驚くべき計測結果」であるのは、計測方法(ロジック)が誤っているか、回路の同期率は一般に67年にひとり程度なのか、僕の回路固有の同期率の低さなのかであるが、以上のように「言葉」で表記できるということはそれは「実験で証明できる」ということではないだろうか。
というのは、例えば、「数学の問題を解く」という行為はその問題を等位に変換することで作題者が求める結論(”解答”と呼ぶ)に至るプロセスを言葉を補完して一切の論理矛盾なく表現することに他ならない。以上の6パラグラフで僕はそれをしたとするならば、それは「解ける」のではないかという問題提起だ。
いま僕は量子力学に興味がある。それを理解するレベルの数学の回路を脳に作っていないため、誰かが「言葉」で近似的に等位変換してくれたものを楽しんでいるに過ぎないが、例えばこれだ。
この「量子もつれ」を計測することにより、ブラックホール内部の現象(三次元)がその表面に(二次元で)記述されていることを示すホーキング博士の計算結果は、まさしく衝撃的だ。その式はこのビデオで示されている。
僕らが見ている(と思っている)三次元宇宙は実は二次元で書かれたもののスクリーンショットにすぎない。そんな馬鹿なとアインシュタインは言ったがそれが正しい(アインシュタインが間違っている)ことが数学的に証明されている、と説明されている。
ひとつわからないのは、二重スリット実験が光子で行われる必然性だ。光子でその現象が存在することは確実なのだろうが、光(映像)は観測者である人間の目がその知覚をもって「観測」としているからで、人間だって冒頭に書いたように五感すべてで知覚しているし、さらには、人間の五感のどれとも別な器官で観測する別な惑星の生物だったら「観測前は別な状態」という現象はどういう意味を成すのか。三次元トリック(?)にその生物はひっかからないのではないか。もしそうであれば、それは人間(あるいは光で観測する他生物)を想定して設計されたのではないか。とすると、その意志を持った何者か(造物主)の存在を想定する必要がどうしてもあり、その者は人間を少なくとも包含はしている生物を対象に造物したのではないかという疑問が僕の回路からは出てくるのだ。
ビデオで語られる、量子コンピューターが理論からでき能力が進化しつつある(マシーンが理論を追っている)という現実。大栗博士の研究の部分でビデオは「我々の時空で起きているすべての現象がそれを包む空間の表面に量子もつれで書かれている」「それに量子コンピューターの理論と共通する部分がある」「宇宙は数学的に閉じている可能性がある」と語っており、そして何よりも「物理学の最先端の研究をするためには新しい数学を作っていかなきゃいけない」という博士の言葉は数学が科学において何たるものかを如実に理解させてくれる。言葉なくして科学はなく、数学は言葉の一部なのだ。
「気が合う、合わない」を量子で読み解くことはできるだろうか?2020年のノーベル物理学賞受賞者ロジャー・ペンローズ博士の研究が参考になる。次のビデオでシナプス(回路)が説明されているが、ニューロンを作るマイクロチューブルの伸縮が観測前後で量子もつれ状態にあるというのが博士の仮説だ。
ご覧の通り、その脳を持つ人の行動は投資判断に至るまでシナプス(回路)次第という実験結果が示されており、それを継続的に観測することで我々はその人と「合う、合わない」という結論に至るのだが、そのプロセスには量子力学が関与している。つまり、主観的、感情的、本能的と考えられていた「人間の相性」というものは即物的に決まっているという命題が提示されており、そのことの「科学的正しさ」は暗号通貨の真偽がハッシュ関数という数学で証明されたブロックチェーンで担保されるのと同等と僕は理解した。
ということは、後天的にしか獲得できない「学習による回路の有無」は大きな要素になることが証明されたと結論して良い。だから、遺伝的に「合う」はずの両親や親戚一同がそのリストに入ってこないのだ。僕は数学が好きなのでその回路が一般人の平均よりはdevelopしているはずだが、同時に現実世界でのその使い方(アプリケーション)は個性があることを自覚しており、唯一気が合った彼も文系だが数学が非常に強くてその回路の運用方法に共通点があった。それをベースにした世界観が一致したということだったようだ。逆を解くと、そうでない人の脳とは合わないし、合わそうとしても壊滅的にどうしようもないというまったくシンプルなことだったのだ。しかし世の中はよくできたもので、夫婦も会社も、自分とは違う人と組んだ方がトータルではうまくいくのだ。量子力学もそこまでは及ばないのか、それも量子力学が決めたことなのかはよく知らないが。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
Categories:______サイエンス, 若者に教えたいこと

内藤範博
3/17/2022 | 8:25 PM Permalink
東様、
興味深いご論考を拝見しました。
ありがとうございます。
相対性理論と量子力学の原理が背反しているか、または実は誠に補完的であるか等、私個人の興味は尽きませんが、浅学の悲しさ、よく分かりません。長く(解けないでしょうが)私個人の課題とさせて頂きます。
世に言う「ウマが合う」というお話を少々させて頂きます。
職業人生で、いわゆる「面接」担当、取分け最終判断の任につき、数百人の方々にお会いしてきました。
私が最終的にオファーさせて頂くのは概して3割から4割程度でしょうか。それまでに経験・実績のある信頼できるメンバーが既にスクリーンしていますので、「おかしな人」はいません。皆さん、上手にお話されます。
最終面接の場、簡単に言えば、よく分からない。皆さん、嘘もお上手ですし 笑。
最後に私が自分に問うのは「この人と東京から新大阪までの新幹線での3時間弱の出張で隣り合わせに座って嫌ではないか?」です。
東様がおっしゃるレベルではもちろんない、仕事の同僚として迎えたいか否か、という話ですが、「相性」という言葉から連想いたしました。
こんな気のきかない私の最終面接基準について、さほど意識的ではなかったのですが、妄想をさらに広げてみます。五感のうち、匂い、見た目や振る舞いの視覚、声や話し癖からくる聴覚を、私は面接の際、重視していたようです。これは、多分、面接用に準備できない事ごと。果たして私が新幹線で新大阪まで同乗したいか?という馬鹿らしい問いを立てたのが正しかったかどうか、よく分かりませんが、私の商売がお客様相手ですから、一つの方法と割り切っておきます。
私の音楽への想いはさらに好きな「匂い」、好きな「触覚」から選びます。シベリウスの交響曲の5番をバルビローリ指揮、ハレ管弦楽団の演奏で聴いています。メロメロの指揮、痩せたストリングス…ですが、堪りません。大好きです。
ど素人ゆえ、生意気ながら作品にも演奏家にも、「ウマが合うか否か」だけで選んで喜んでいます。
アマチュアの特権、でございますね。
長文投稿、失礼いたしました。
東 賢太郎
3/17/2022 | 11:29 PM Permalink
内藤様
いつもありがとうございます。作品、演奏家に「ウマが合うか否か」は面白い視点ですね。それと同じかどうかわかりませんが、パーヴォ・ヤルヴィが「ベートーベンらしい『サウンド』がある」と言っていて僕もそう思うのです。このブログで「シューマンらしいサウンド」のことを書きました。私見ではベートーベン以上にシューマンに「これでないと」というものを感じています。
クラシック徒然草―最高のシューマン序曲集(sonarmc.com/wordpress/site01/2016/10/09/)
S.T.
3/18/2022 | 4:08 PM Permalink
東さんのお考えには共感できることかたくさんありました。じっさい、愛情を抱いたり譲歩したりせずにも「呼吸」が合う、ということは滅多にありませんし、そのために孤独を感じるのも筋違いかなと考えたり、の堂々巡りで生きてきたようなものです。
またFree will についてすこし整理ができ、有難い記事でした。わたしはFree will を、God’s will の範囲内での限定的な自己選択と捉えています。そしてわたしの好きなこの言葉を想起しました。
“For with you is the source of life; By light from you we can see light.” Psalms36-9
わたしには子ども時代に共感覚がありました。今はほとんど薄れていますが、当時は音質によって別々の色が見えていました。電子ピアノの色々の音を色で見分ける、といった具合です。このことは物事をたんなる「好き嫌い」や「違い」として片付けることを嫌う性質をじぶんのうちに作ってきた一因だとおもっています。
内藤範博
3/18/2022 | 9:13 PM Permalink
東様、
コメントにご返信ありがとうございます。
東様の「相性論(仮題)」は、頭に残ります。
私も算数が大好きで、ビジネスで数字に弱い話を部下が持ってきてもソッポを向いて相手にしませんが(若い頃は完膚なきまでに叩き潰しましたが、段々と相手にしないのが一番薬になるかと考えを変えています)、あくまでも仕事の話です。
面白いもので、全く理解出来なかった人、いわゆる「相性」が悪いと思っていた人がいるから、世の中は面白いとも思いはじめました。
ことビジネスにおいては、大抵の議論は、
・一番合理的な結論を取ると決めた意思決定者がいる
・実質的なその意思決定者が正しい判断を下す
という稀なコンディションがほぼ整わないので、今の私の周囲に関する限り、相対的に「相性」が良い/かつパワフルな人との良好な関係構築・維持と妥協点あるゴール共有(大変嫌な言葉では、「落とし所」に近い)が私の読書と音楽の時間を増やしてくれます 笑。
長々と愚論失礼しました。閑話休題。
本論は、ご紹介頂いた音楽の話です。
シューマン!作品と演奏家との相性について愚説を申し上げましたが、一愛好家にとって、作曲家との相性はより大きいかも知れません。
シューマンは、私が偏愛する作曲家の一人です。
彼の音楽は、実に演奏家とリスナーを選ぶ気がいたします。
シューマンのテンペラメントは、受け付けるか否かを、演奏家にもリスナーにも、殺気を持って迫る(やや大仰。失礼)気がします。
大抵、大作曲家が書いた古今の名曲を訓練された演奏家が弾けば、好き嫌いあるとしても、やはり良きもの、が普通なのですが、シューマンに関しては、「聴いていられない」と「素晴らしい」の幅が大変広いように思います。一例ですが、私はティーレマンのワーグナーやブルックナーを実演にも接して感動し、ディスクも愛聴していますが、彼のシューマンの交響曲は聴いていられません。
ブログでご紹介頂いたシューマン序曲集、ちゃんとCDで聴きなさいとのアドバイスですので、購入したいのですが、HMVでは取り寄せ(実際は、多分買えません)とのこと。しかし、この渋いアルバム、中古屋でいつになれば見つかることか…笑
ただ、「見つけたら絶対買うぜ」リストの長さが音楽ファンの醍醐味ではあります。
ご紹介、ありがとうございました!
東 賢太郎
3/19/2022 | 12:39 PM Permalink
S.T.様
おっしゃること、よくわかります。「我々の時空で起きているすべての現象がそれを包む空間の表面に量子もつれで書かれている」なら、我々も量子ですからFree will=God’s willとなり、残る問いは「Who is the God?」だけになります。その対象が「誰」より「何」に至ると、偶像崇拝を禁じる一神教のスピリチュアル世界と表裏一体です。アインシュタインは「今日の科学が神の存在を証明出来ないのは、科学がそこまで発展していないのであって、神が存在しないのではない。人間の五感は限られており、神の存在を感じることはできない」と述べています。
呼吸が合うことと愛情が別であるなら、我々はそう「書かれている」のでしょうね。量子は対(ペア)なので別個の宇宙にもう一人自分がおり、厳密にはそれ以外に同じ人は他にいないので完全に「合う」人はいないのですね。だから実は万人が確実に孤独なのですが、 それでは人類は殺し合い、生殖もせずに絶滅する恐れがあるので愛がプリセットされているのではないかと思います(例えば女性だけに与えられた母性本能はその一部ですが、プリセットであることは明白と思います)。また、人類全部を愛すると自分の個が埋没して自分を愛せなくなります。だから「みんな仲良く」ではなく、他人との差異に誇りを持ち、それをもって自分を愛する教育が必要ではないでしょうか。それで初めて「合う人」でなくても愛せるようになるのではと考えております。
S.T.
3/21/2022 | 5:31 PM Permalink
「愛がプリセットされている」とは、SF映画のすてきな台詞のようです。ではきっと、神は愛を持っているのですね。神が神(創造主)なのであれば、被造物である人間が科学でもって証明できるはずもないしその必要もないとわたしも感じます。そうであれば拝むための偶像を禁じることは筋が通っています。
この度の国際情勢で正教会が分裂の危機にあると知りました(尤もキリルさんの言い分は理解できます)。これから「自由」と「宗教」は、かつてあった以上に対立する構図にならざるを得ないのではと感じます(それは宗教が政治と結びつき過ぎたからでしょうけれど)。科学は科学的真理によって人々を啓蒙する大義を持っているとおもうのですが、宗教的な意味での真理を人類みずからが知るに至らないことが確実な以上、宗教は「平和」のために「自由」に飲み込まれて行くという気がします。その時「女神さん」は自由の偶像なのではないでしょうか。というのがキリスト教的見地から見たキリスト教の逸脱であり、Psalms 2 からのイメージです。
東 賢太郎
3/19/2022 | 1:06 PM Permalink
内藤範博様
「一愛好家にとって、作曲家との相性はより大きいかも知れません」に同感いたします。何度も拙稿に記しましたように、まさしくその理由でショパン、マーラー、ヴェルディは聴きません。ところが妙なもので、ショパンのワルツの幾つかを弾くのは好きなのです。単に弾ける機械的快感だけかもしれませんが、凄い音楽だと譜面に没入しているのも事実です。でも他人の演奏は全く興味なしで、これは僕の場合ゴルフと似ています(やるのは好きだが見ない。野球は両方好き)。ちなみにシューマンは弾けません、素人にはとても難しいです。ブラームスもそうですが、彼は指のメカニックの無理をおしてでも「欲しい音」先行で、それで指を怪我したのかとさえ思います。オーケストレーションも同様で、「下手くそ」呼ばわりしたワーグナー派のマーラーの趣味などシューマンにはまるでないわけで、彼の改編は改悪でしかありません(ラインの稿に詳しく書いてあります)。
東 賢太郎
3/22/2022 | 10:09 AM Permalink
S.T.様
たしかに『宗教は「平和」のために「自由」に飲み込まれて行く』現象はすでに起きてますね。自由発祥の地フランスでは1986年に国民の約80%がカソリックでしたが2017年には47.4%(キリスト教で54.2%)で、無宗教(無神論、不可知論、なし)が37.8%です。日本のかようなアンケートに散見される「よくわからないが多数」ではなく、無回答は1.1%ですから、無宗教はdecisionです。封建的支配に抵抗して勝ち取る「自由」と、エゴの発現としての「自由」は別物であり、後者は共産主義が宗教と対立したと同様カソリックとは不整合になりつつあるのでしょうか。同じ質問をされれば僕は仏教徒です。
「愛がプリセットされている」とは、造物主は被造物に対してアプリオリ(あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念)であるという前提を述べているに過ぎません(両者が同時に「できた」なら造る・造られるの関係はないのでその前提は証明する必要のないこと、それこそアプリオリです)。「誰」or「何」すら不可知の「それ」が「愛を持っている存在か否か」はさらに不可知です。どちらであれ、被造物の持つ「愛」は「造物」or「進化論的獲得物」となりますが、生殖の原型である細胞分裂は進化以前に存在したので「造物」です。従って「愛」はアプリオリであり、即物的には、造物を作動させるプログラム(DNA)に造物主によって「プリセット」(デフォルト、初期設定)されているという意味です。そうした造物主のwillが即物的存在か否かは造物主自体の存在(being)そのものの問題で、それへのアインシュタインの回答が「今日の科学が神の存在を証明出来ないのは、科学がそこまで発展していないのであって、神が存在しないのではない。人間の五感は限られており、神の存在を感じることはできない」です。彼が答えられないものを僕が答えられる可能性は万に一つもないと考えます。
S.T.
3/22/2022 | 8:08 PM Permalink
頭の中で経由した部分が不明瞭だったのでつい省いてしまいました! が、だんだん見えて来たので追記させていただきます。God’s will が物質宇宙にたいしての法としてもっているのは、人間の選択の「結果」を含んだものであり、その意味で人間のもっている「自由」は限定的であり、またみずからの責任を負わなければならない、という考えです。聖書に書かれている「罪」や「贖罪」や「裁き」や「救い」というのはそういうことだな、と、理解しました。
キリスト教的に自由とは、当初、罪と死からの自由を指していましたから、圧政からの自由であろうとエゴであろうと、宗教的にはズレた目的なのだとわたしは考えています。それが結果的に神からのインデペンデンス・ディを迎えるというシナリオが聖書であろうな、と。
「愛」にかんしては生物進化論がポイントですね…。
(こういう話し相手がいなかったのもので書き過ぎました、すみません…いつもご丁寧に教えてくださり感謝)