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藤井聡太はメンデルスゾーンである

2023 JUN 8 17:17:25 pm by 東 賢太郎

大作曲家のハタチまでの作品で僕が聴いたことがあるのはこんなところだ。特殊な環境に育ったモーツァルトの作品は同列に論じにくく、ご異論はあろうが以下の作品までは習作と見た(カッコ内は作曲時の年齢)。

マーラー 「ピアノ四重奏曲断章 イ短調」(16)

メンデルスゾーン  Vnソナタ ヘ短調 / 弦楽八重奏曲/ 夏の夜の夢 序曲(16)

シューベルト  交響曲第1番ニ長調 (16)

ビゼー    交響曲ハ長調 (17)

モーツァルト  エクスルターテ・ユビラーテ / 交響曲第25番 (17)

R・シュトラウス ヴァイオリン協奏曲 (18)

プロコフィエフ   ピアノソナタ第1番 ヘ短調  (18)

ラヴェル グロテスクなセレナード  (18)

ヘンデル  歌劇「アルミーラ」(19)

ドビッシー 交響曲 ロ短調 (19)

ショスタコーヴィチ  交響曲第1番 (19)

シューマン  アベッグ変奏曲 (20)

ショパン ピアノソナタ第1番 ハ短調(18)/ ピアノ協奏曲第1、2番 (20)

 

ご覧の通りドイツ三大Bは出てこない。人類史上最高の音楽家たちでも音を組み立てる作曲(compose)という作業をティーンエイジで修得し、歴史の評価に堪える作品を残すのがいかに至難の技かという証明だろう。モーツァルトは5才で作品を残したが、一応の作曲技術はあってもここに並ぶだけの内容はまだない。貴族の眼前でピアノの腕前を披歴してで褒美をもらったその作曲版というところであり、17才の上掲2作(k.165,k.183)をもって誰も及ばぬ破格の天才がむくむくと姿を現すというのが私見である。両作品の水準はリストの中では抜きんでるが、それでも17才だという所が、あのモーツァルトにしてもという逆の意外感をもたらす。それをふまえてリストの中で個人的に注目作を挙げるなら、1位・ヘンデルの歌劇「アルミーラ」、2位・マーラーのピアノ四重奏曲断章、3位・ショスタコーヴィチの交響曲第1番であるが、ここに名前が挙がっただけでも学問なら高校生でノーベル賞候補であるぐらいの早熟である。しかし、それでも最年少は16才(高校2年)なのだ。

そこまで知って頂いた上で、本稿はまず、この世にひとつだけ13才(中学2年)による驚嘆すべき質の作品が存在することをお知らせせんとするものである。「メンデルスゾーンの「ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 Op.1」がそれである。その完成度とクオリティの高さをお聴きいただき、リストの最年少より3才若いことの驚きを共有していただければ幸いだ。

ちなみにモーツァルトの同年齢13才での作品、1学年上になった14才での作品、さらに15才での作品は以下の通りである。いかがだろうか。

1769年(13才)

  • K. 73:交響曲第9番 ハ長調
  • K. 141(66b):テ・デウム ハ長調

1770年(14才) 

  • K. 73f:弦楽四重奏曲第1番 ト長調
  • K. 74:交響曲第10番 ト長調
  • K. 84(73q):交響曲第11番 ニ長調
  • K. 87(74a):オペラ・セリア『ポントの王ミトリダーテ』
  • K. 81:交響曲 ニ長調

1771年(15才) 

  • K. 74c (118):オラトリオ『解放されたベトゥーリア』
  • K. 75:交響曲 ヘ長調
  • K. 110:交響曲第12番 ト長調
  • K. 111:祝典劇『アルバのアスカニオ』
  • K. 112:交響曲第13番 ヘ長調
  • K. 114:交響曲第14番 イ長調

 

以上をふまえたうえではっきり書こう。作曲界における人類最高の早熟の天才はモーツァルトではなくフェリックス・メンデルスゾーンである。そしてこの結論は彼が15才で書いた初のフルオーケストラ作品の交響曲第1番ハ短調Op.11でさらに揺るぎないものとなる。

このビデオは大学時代に買ったハイティンク / ロンドン・フィルのそのLPの音である。4番が目あてだったがそっちよりも1番の演奏の質の高さにぞっこんになり(両者は録音の嗜好も異なる)、今でもこのレコードは1番のために宝物として存在し、時々取り出して至福の時を味わいたくなる麻薬的魅力を発散している(ヘッドホンでご鑑賞ただきたい)。録音は1978年でハイティンクは58才。何という本物の指揮者だろう。このオケは後にロンドンで何度も別な指揮者の生を聞いたが、こんなに素晴らしい音とアンサンブルはついぞ経験したことがない。この演奏を何と評すべきか。スコアを典雅な音楽性でリアライズしただけで何の変哲もない。個性?それがなさそうでいながら他の演奏を寄せ付けない位置に自然と鎮座してしまうのが個性なのだ。これをホンモノと呼ぶ。クラシックの奏楽法の極上の品格を主張する管弦のバランス、楽興の粋で耳も心も天国のように彩る木管。これでこそメンデルスゾーンに天から降臨した音楽が何だったかがよくわかるというものだ。

第2楽章。この音楽はモーツァルトが20才以降に書いた緩徐楽章をも和声の深みにおいて凌駕しており、ベートーベンが32才で完成した交響曲第2番のそれであっておかしくない水準にある。驚嘆するしかない。両人が打ち建てた金字塔をいささかも貶めるわけでもないが、彼らとて「文法」を修得するのに20年以上の歳月を要していたものがメンデルスゾーンにおいては15才で易々とマスターされ、翌年に現れる弦楽八重奏曲/ 真夏の夜の夢 序曲によって、まごうことなき彼自身であって後世の誰でもないことが如実に証明された個性というものの片鱗がすでにそこにある。その事実を目の当たりにして言葉を失ってしまうのである。僕はこのことを音楽という芸術の特性のなかだけで論じるのではなく、動物から進化したホモサピエンスの知性の行き着いた最先端の現象、いわば自然の驚異として述べたい。

両人の金字塔がテキストとしてあったから15才の少年が一歩先へ進めたのだという反論はあって当然だ。14才でバッハの「マタイ受難曲」の写筆スコアをクリスマス・プレゼントにくれる超インテリのお婆ちゃんがいた家あってこそでもあるのだが、では10代の両人が(まだ埋もれていた)マタイのスコアを知っていれば事態は違ったかというと、そう主張するほど少年が交響曲第1番において同曲の影響を受けているとは思えず、むしろ、モーツァルトのト短調交響曲k.550のように両人の金字塔がテキストとして机上にあったことの方が大きいだろう。すなわち、芸術でも科学でも同様だが、先人の成果を短時間で学べる後世は常に有利であり、その利を活かしてさらにムーヴメントを進展させたか否かが評価ポイントとなる。それが西洋だ。このmovement(運動)に価値を置く考え方はルネサンスの末に登場したダーウィンの進化論(『種の起源』、1859)から発しており、同時に18世紀末のベンサムの功利主義(社会の幸福の総量を増大させる行為が道徳的に正しい行為であると考える理論)の影響もある。

我々はその思考方法を借り物として芸術を評価するものだと思い込まされている。しかし、我が国では源氏物語絵巻と狩野派の屏風絵とを進化の視点から比較するなどという愚行はあえてせず、各々が時代時代の生んだ代替し難い豊穣な個性と見る。だから誰も前者が古臭いなどと見ないのである。そうではない西洋だからこそマタイはおろかバッハの全作品までも(それどころか19世紀後半にはモーツァルトすらも)過去のものとして埋もれてしまっていた。石器時代の遺跡と思って発掘してみたら、12音技法の迷路で座礁してしまった現代を遥かに凌駕する古代の先進未来都市のようなものであった。これを造った彼らは地球外生命体ではないか?みたいな扱いになり(ルネサンスで発見されたギリシャ、ローマ文明もそうだったが)そこでバッハ、モーツァルト再評価みたいな、これまた視点が常に相対的である東洋人の我々には奇異に映る西洋というものの姿なのだ。東洋より西洋が優れていたり偉かったりなどということはないことを若者は心に刻んで欲しい。

もう少し詳しく書こう。東洋の柔らかな相対価値観に対して常に絶対真理を信奉する西洋は、その対象が聖書の説く神の教えであるか啓蒙思想による人間、科学の力であるかはともかく、決められたものこそ絶対普遍である。例えば地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノは死刑、ガリレオ・ガリレイは終身刑。ほぼ同じ時代の日本では、比叡山を仏像ごと焼き討ちした信長にはお咎めなし。この彼我の差は教科書にいくら宗教だからと書かれてもよくわからないというのが正直な態度であろう。僕はまだ腑に落ちていない。昔のCMにあったが、古いナビの指示通りにスーパーに真面目に進入していってしまう新米女性ドライバーみたいな感じが残っている。

僕は本稿で西洋を、西洋の音楽を語ってはいるが、東洋、西洋を超えてホモサピエンスの驚異を語りたい。これは我々人類への称賛であると同時に、人生観として、良いものを良い、悪いものを悪いと素直に認める澄んだ心があれば人を正しく評価でき、助けることもでき、良い人生を送れると信じているからだ。モーツァルト、ベートーベンの両人が20才をこえた後に打ち建てた金字塔の高みには客観的に見てメンデルスゾーンは到達できなかったが、しかしそのことが、後世の天才たちを含む人類の誰一人として15年では到達できなかった所に彼がいたことの価値を些かも減衰せしむるものではない。

東洋においては将棋の藤井聡太九段が最年少の14才で四段(プロ)昇格してから20才の七冠達成まで22の最年少記録を打ち立てた。七冠を達成した者は1924年の日本将棋連盟創立以来の約1世紀の間に羽生善治九段しかおらず、達成時の年齢は25才であった。「藤井聡太はメンデルスゾーンである」はワイドショーのタイトルのように見えようが、「それを5年短縮した藤井九段がプロ昇格した14才での棋譜こそメンデルスゾーン15才の交響曲第1番のスコアである」という意味だ。プロ棋士になる難しさはよく「将棋で食えないから誰誰は東大に行った」と表現されるが、毎年3千人も入学する学校を引き合いに出してもプロ棋士には到底足りない。まして藤井氏はその歴代トップだ。ここからメンデルスゾーンの能力の高さを類推できないだろうか。

藤井氏の偉業はあくまで現時点でということだが、もし今後彼がすべての対局に負けたとしても、ホモサピエンス史上最高峰の天才であるという判断は残ると思う。なぜなら過去の棋譜はすべての棋士の机の上やパソコンにあり、すべての棋士が学習可能なのであり、それを最速で学習しただけが強さの要因ならば対局を重ねれば2番目に最速の棋士に負ける確率は上がる。それが22の記録を打ち立てるまで起きない理由は彼のオリジナルな戦略がその上に一枚加わっているからだ。すなわち、早熟とオリジナリティの両方を1世紀間において最も短時間で身につけた人という評価だからだ。

ここがポイントだ。

彼らとて「文法」を修得するのに20年以上の歳月を要していたものがメンデルスゾーンにおいては15才で易々とマスターされ、翌年に現れる弦楽八重奏曲 / 真夏の夜の夢 序曲によって、まごうことなき彼自身であって後世の誰でもないことが如実に証明された個性というものの片鱗がすでにそこにある

これがメンデルスゾーンという驚天動地の人間の存在証明であり、ナチスドイツの輪をかけた驚天動地の愚行によって19世紀のバッハ、モーツァルトに劣らぬほど地下深く埋められてしまったリパーカッションがいまだに完全にはぬぐい去られていない可能性があるというのが私見だ。

偏見、レッテルで他人を評価する人間というものは、逆に「それをやっている」という偏見、レッテルで評価されてしまったとしても救い出してやる価値はない人である。優れた人だけを評価しろと言っているのではない。大事なのは事実、客観性への敬意と尊重である。これを教える学科は倫社でも道徳でもない、数学である。数学を真面目に学べば親や教師から習った倫理観が脆弱であれどうであれ自ずとそうなる。学ばなければ偏見、レッテルに流されて生きる世俗的な一般大衆を形成するウンカのような大群の一部になる。事実、客観性を私情で捻じ曲げることなく澄んだ目で、正しいプロポーションで見ることでこそ、本当に救いが必要な人に手をさしのべることができる人間になれると僕は考えている。

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Categories:______メンデルスゾーン, クラシック音楽, 若者に教えたいこと

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