2年前の5月5日午前8時半の出来事
2024 MAY 5 8:08:57 am by 東 賢太郎

父が逝去して今日5月5日で2年になる。ブログにはあえて書いてないが、一昨年は大きな決断をしていて、ある職を辞すことを某社に告げた。それが亡くなる前日のことだった。もちろん翌日にそんなことになるとはつゆ知らない。それだけではない。もう係累はないが先祖は能登だ。今年の大震災の前兆だったのか、去年の5月5日にもM6.5の大地震が能登半島であった。父が何やら言い残したことがあったかと思った。
晩年は僕の肥えた腹を見てやせろやせろとうるさかった。そういえば去年の10月から運動しておらず体重がまずいことになってる。父は60キロもなくて97歳の長寿だったがこっちは80キロ越えだ。そこでGWに6日で28km走った。体重もBMI、体脂肪率もちっとも変わらなかったが6日目になって落ちてきたからやれやれだ。きのうは雲一つない晴天である。僕の棲み処は屋根の上に特設した小屋みたいなもので、斜面の3階だから風呂からそのままデッキに出ても人目がない。素っ裸で寝っころがって富士山を眺める。聞こえるのはピヨピヨ、チチチ、チュンチュン、ホ~ホケキョと360°のサラウンドで近くから遠くから空気をぷるぷる切り裂いてくる鳥のオーケストラだ。このためにここにしたわけではないが、そうしてもいいかなと思うぐらいの上等な音楽である。
このあたりは昼も夜も人がいない。前に住んだ代沢もいい所だが隣の犬がうるさくて閉口した。ここはそれもなし。いつも真夜中みたいに静かだ。その割に交番があり、住んで15年になるが犯罪は全くなく、町内会のつき合いやら妙な押し売りみたいなのも来ない。田園調布双葉学園が近いが上品な子たちで音は聞こえない。この完璧なプライバシーはヨーロッパに住んでた時と変わらず、この環境で猫がいてクラシック音楽をきけるならもう何もいらない。サラリーマンの子であるサラリーマンの僕には本来無縁の処で、他業界だったなら社長にでもならないとなかっただろうが証券会社に働いたおかげで縁ができた。
職業選択といえば、人間、何事も才能というものがある。何かの技能がうまいなあと思う群れの中でも図抜けている者がほんの少しだけいて、その者はそれで飯が食えるようになるのだが、今度はその連中の群れの中でさらに図抜けた「すぐれ者」がいるという塩梅だ。自分はうまいなあぐらいの最低限の群れにはいたかもしれないがそれで飯を食える水準ではなかった。あらゆることでずっと上の人がいるし、なぜ得意でもなかった仕事に従事してうまくいったかは不明だ。それは両親の愛情のおかげと思う以外に説明がつかない。それがツキを呼んでくれ、何かに押し上げられて柄にもないことができてしまった感じしかない。
そして今は自分が親になって、子供や子孫にそうなってほしいと願う番になっている。人の道というものがあって、誰しもちゃんとそこを歩くようになっているようだ。父は僕に野球がうまくなる方法や成績が良くなる術を教えたりはしなかった。「自分の頭で考えろ」が口癖で学習塾に通わせることもしなかった。バカだった僕はそれにかまけて小学校で勉強した記憶はなく、どこだったかすら覚えてないが受験した中学は全部落ちて屁のカッパだった。僕がたどった道は、親の愛情に押されて悩みながら自分の頭ですべきことを見つけ、才能はなかったが頑張れば食えるものについに出会ったというだけだ。だから子供にも方法を押し付けることはしない。自分で悩んで探さないと自分のものではないからだ。親はいなくなる。そこで頼りになるのは自分で考えて見つけたものだけだ。
5月29日は母の命日、8回忌だ。2017年のそのとき、母がいなくなったという事態がのみこめず心身ともおかしくなった。間髪入れずアメリカに飛ぶことがなかったらその後どうなったか知れず、あれこそまさにツキであり母がそれを用意してから安心して逝ったと思っている。大病を何度もして、けっして虚弱な人ではないのに、目、心臓、胆のう、卵巣、大腿骨、手首と6か所も大きな手術をした。ペースメーカーを入れ、手首も足首も注射の跡で痛々しい紫色だった。そういうことも遺伝しているはずの僕は、しかし、いまだに体にメスを入れたこともないのだ。母が身代わりになってくれていたとしか考えられない。そうやって育てられ大人になってからはじめて先祖のことを話してくれ、だからどうということもなく「うまくやってね」とだけ言う柔らかな人だった。うまくやってね
両親がいなくなった2年は何やら空洞の中を彷徨ってきた気がする。仕事のことは相談する気などなかったのに、今となってこれ大丈夫だろうかときいてみたくなる。何度か父にきいたことはあるが、業務内容は知らないのになるほどという大人の知恵と常識があり、そうした巌としたバックボーンに見えないままに守られていたことを悟った。高校の反抗期で父には申しわけない振る舞いをしてしまったことがあったが、そうやって男として自立でき、父は受け入れてくれ、それが受験で仇をとってあげたいという強烈なモチベーションになった。結果的に、それは自分にとっても良いことになった。
世の中には親を大事にしない人がいる。子を殺す親もいるのだからいろんな事情はあるのだろう。しかし動物でも子は守るし子はそれに甘えて健全に育つ。人間も動物であり、それが自然の理にかなった行動であるはずだ。ただし動物は育てば自立を促されて追い出され感謝はしないだろう。人間はする。それが人間の特質だ。だからそうでない家庭には何か自然を妨げる原因がある。感謝はうわべの儀礼ではなく、奥深い心の作用である。だから親に感謝できない人はその人間たる心の作用が働かない人で、他人にも儀礼はできるが感謝はできない。そうした人が増えれば社会を非人間的にすることになり、あわよくば暴力や社会騒乱をひきおこし、ウソつき、詐欺師を出現させることにもなる。
こうして人並みに親に感謝できることの幸福をかみしめていることを父に報告したい。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
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4 comments already | Leave your own comment
桜井 哲夫
5/5/2024 | 11:35 PM Permalink
2007年、母親はお腹から奇妙な音を連発していたので「直ぐに病院へ行って検査を受けるように」と私は口を酸っぱくして言いましたが、母親は頑として病院に行かず、親戚の「女子会」旅行先で倒れてスキルス胃癌と診断され、手術での摘出も出来ず、ほどなく68歳で死にました。
その後、母親と私が11年間可愛がっていた猫を父親が殺しました。私は父親と別居し、父親の最後の4年間は電話も着信拒否にしていました。2017年、父親が86歳で死んで心底安堵しました。
兄は父親が死ぬ11日前に電話で、「遺産分割を500万円多く寄越せ」と電話してきました。相続を10ケ月以内に終わらせるため、やむなく応じました。変えた電話番号は兄には知らせていません。私から兄に連絡することはありません。
父親・母親・兄には憎しみと軽蔑だけです。特に大好きだった猫を殺した父親は地獄で苦しみ続けてほしいものですね。
「人並みに親に感謝できることの幸福」は私には無縁です。
桜井 哲夫
5/6/2024 | 12:04 AM Permalink
カラヤンの「追っかけ」だった母親の葬儀は生前の希望で、私が「音楽葬」にしました。
ブルックナー:交響曲第7番~第2楽章
グリーグ:「ペールギュント」~「オーゼの死」
グルック:精霊の踊り
ベートーヴェン:交響曲第7番~第2楽章
スメタナ:モルダウ
カラヤンのCDからPCでCD-Rにして、葬儀の1時間丁度にしました。
母の親類や友人たちからは「いい葬儀だった」との温かい声をいただきましたが、「何もしなかった」兄は「ショボい葬儀しやがって」と「一言で切り捨て」ました。
東 賢太郎
5/6/2024 | 12:40 AM Permalink
我が父も大の猫嫌いで母より先に猫たちが天国に行ったので事なきを得ました。父と兄(叔父)とは桜井様と兄上のようでしたが幸い遺産がありませんでした。さらに、我が父母も諸事あり、あるとき母は何も言わず僕と妹を連れて名古屋の姉のところにひと月家出しました。物心ついたあたりです。あのまま離婚だったらと後になって事態を悟りましたが、それでも父母それぞれと僕の関係は変わらなかったと思います。
東 賢太郎
5/6/2024 | 12:58 AM Permalink
母の葬儀で同じことをしました。自作した「母を送る」と書いたCD‐R1枚70分ですが辛くてもう聞いておらず何を選んだかも忘れました。お別れですとお棺を閉じる、まさにその瞬間にジュピター終楽章が閉じました。まるで奇跡が起きたようで、母が輝いて見え、天国へ旅立ったと思ったことだけは忘れません。