藤井聡太はメンデルスゾーンである
2023 JUN 8 17:17:25 pm by 東 賢太郎

大作曲家のハタチまでの作品で僕が聴いたことがあるのはこんなところだ。特殊な環境に育ったモーツァルトの作品は同列に論じにくく、ご異論はあろうが以下の作品までは習作と見た(カッコ内は作曲時の年齢)。
マーラー 「ピアノ四重奏曲断章 イ短調」(16)
メンデルスゾーン Vnソナタ ヘ短調 / 弦楽八重奏曲/ 夏の夜の夢 序曲(16)
シューベルト 交響曲第1番ニ長調 (16)
ビゼー 交響曲ハ長調 (17)
モーツァルト エクスルターテ・ユビラーテ / 交響曲第25番 (17)
R・シュトラウス ヴァイオリン協奏曲 (18)
プロコフィエフ ピアノソナタ第1番 ヘ短調 (18)
ラヴェル グロテスクなセレナード (18)
ヘンデル 歌劇「アルミーラ」(19)
ドビッシー 交響曲 ロ短調 (19)
ショスタコーヴィチ 交響曲第1番 (19)
シューマン アベッグ変奏曲 (20)
ショパン ピアノソナタ第1番 ハ短調(18)/ ピアノ協奏曲第1、2番 (20)
ご覧の通りドイツ三大Bは出てこない。人類史上最高の音楽家たちでも音を組み立てる作曲(compose)という作業をティーンエイジで修得し、歴史の評価に堪える作品を残すのがいかに至難の技かという証明だろう。モーツァルトは5才で作品を残したが、一応の作曲技術はあってもここに並ぶ内容はまだない。父親の戦略で貴族の眼前でピアノの腕前を披歴してで褒美をもらったその作曲版というところであり、17才の上掲2作(k.165,k.183)をもって誰も及ばぬ破格の天才がむくむくと姿を現すというのが私見である。両作品の水準はリストの中では抜きんでるが、それでも17才だという所が、あのモーツァルトにしてもという逆の意外感をもたらす。それをふまえてリストの中で個人的に注目作を挙げるなら、1位・ヘンデルの歌劇「アルミーラ」、2位・マーラーのピアノ四重奏曲断章、3位・ショスタコーヴィチの交響曲第1番であるが、この3名の恐るべき早熟性を別としても、ここに名前が挙がっただけであっても、全員が学問なら高校生でノーベル賞候補であるぐらいの信じ難い早熟である。しかし、それでも最年少は16才(高校2年)なのだ。
そこまで知って頂いた上で、本稿はまず、この世にひとつだけ13才(中学2年)による驚嘆すべき質の作品が存在することをお知らせせんとするものである。「メンデルスゾーンの「ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 Op.1」がそれである。その完成度とクオリティの高さを吟味いただきたい。
ちなみにモーツァルトの同年齢13才での作品、1学年上になった14才での作品、さらに15才での作品は以下の通りだ。
1769年(13才)
- K. 73:交響曲第9番 ハ長調
- K. 141(66b):テ・デウム ハ長調
1770年(14才)
- K. 73f:弦楽四重奏曲第1番 ト長調
- K. 74:交響曲第10番 ト長調
- K. 84(73q):交響曲第11番 ニ長調
- K. 87(74a):オペラ・セリア『ポントの王ミトリダーテ』
- K. 81:交響曲 ニ長調
1771年(15才)
- K. 74c (118):オラトリオ『解放されたベトゥーリア』
- K. 75:交響曲 ヘ長調
- K. 110:交響曲第12番 ト長調
- K. 111:祝典劇『アルバのアスカニオ』
- K. 112:交響曲第13番 ヘ長調
- K. 114:交響曲第14番 イ長調
以上をふまえたうえではっきり書こう。作曲界における人類最高の早熟の天才はモーツァルトではなくフェリックス・メンデルスゾーンである。そしてこの結論は彼が15才で書いた初のフルオーケストラ作品の交響曲第1番ハ短調Op.11でさらに揺るぎないものとなるのである。
このビデオは大学時代に買ったハイティンク / ロンドン・フィルのそのLPの音である。4番が目あてだったがそっちよりも1番の演奏の質の高さにぞっこんになり(両者は録音の嗜好も異なる)、今でもこのレコードは1番のために宝物として存在し、時々取り出して至福の時を味わいたくなる麻薬的魅力を発散している(ヘッドホンでご鑑賞ただきたい)。録音は1978年でハイティンクは58才。何という本物の指揮者だろう。このオケは後にロンドンで何度も別な指揮者の生を聞いたが、こんなに素晴らしい音とアンサンブルはついぞ経験したことがない。この演奏を何と評すべきか。スコアを典雅な音楽性でリアライズしただけで何の変哲もない。個性?それがなさそうでいながら他の演奏を寄せ付けない位置に自然と鎮座してしまうのが個性なのだ。これをホンモノと呼ぶ。クラシックの奏楽法の極上の品格を主張する管弦のバランス、楽興の粋で耳も心も天国のように彩る木管。これでこそメンデルスゾーンに天から降臨した音楽が何だったかがよくわかるというものだ。
第2楽章。この音楽はモーツァルトが20才以降に書いた緩徐楽章をも和声の深みにおいて凌駕しており、ベートーベンが32才で完成した交響曲第2番のそれであっておかしくない水準にある。驚嘆するしかない。両人が打ち建てた金字塔をいささかも貶めるわけでもないが、彼らとて「文法」を修得するのに20年以上の歳月を要していたものがメンデルスゾーンにおいては15才で易々とマスターされ、翌年に現れる弦楽八重奏曲/ 真夏の夜の夢 序曲によって、まごうことなき彼自身であって後世の誰でもないことが如実に証明された個性というものの片鱗がすでにそこにある。その事実を目の当たりにして言葉を失ってしまうのである。僕はこのことを音楽という芸術の特性のなかだけで論じるのではなく、動物から進化したホモサピエンスの知性の行き着いた最先端の現象、いわば自然の驚異として述べている。
両人の金字塔がテキストとしてあったから15才の少年が一歩先へ進めたのだという反論はあって当然だ。14才でバッハの「マタイ受難曲」の写筆スコアをクリスマス・プレゼントにくれる超インテリのお婆ちゃんがいた家あってこそでもあるのだが、では10代の両人が(まだ埋もれていた)マタイのスコアを知っていれば事態は違っかたというと、そう主張するほど少年が交響曲第1番において同曲の影響を受けているとは思えず、むしろ、モーツァルトのト短調交響曲k.550のように両人の金字塔がテキストとして机上にあったことの方が大きい。すなわち、芸術でも科学でも同様だが、先人の成果を短時間で学べる後世は常に有利であり、その利を活かしてさらにムーヴメントを進展させたか否かが評価ポイントとなる。それが西洋だ。このmovement(運動)に価値を置く考え方はルネサンスの末に登場したダーウィンの進化論(『種の起源』、1859)から発しており、同時に18世紀末のベンサムの功利主義(社会の幸福の総量を増大させる行為が道徳的に正しい行為であると考える理論)の影響もある。
我々はその思考方法を借り物として芸術を評価するものだと思い込まされている。しかし、我が国では源氏物語絵巻と狩野派の屏風絵とを進化の視点から比較するなどという愚行はあえてせず、各々が時代時代の生んだ代替し難い豊穣な個性と見る。だから誰も前者が古臭いなどと見ないのである。そうではない西洋だからこそマタイはおろかバッハの全作品までも(それどころか19世紀後半にはモーツァルトすらも)過去のものとして埋もれてしまっていたのだ。石器時代の遺跡と思って発掘してみたら、12音技法の迷路で座礁してしまった現代を遥かに凌駕する古代の先進未来都市のようなものであった。これを造った彼らは地球外生命体ではないか?みたいな扱いになり(ルネサンスで発見されたギリシャ、ローマ文明もそういうものだったのだが)そこでバッハ、モーツァルト再評価みたいな、これまた視点が常に相対的である東洋人の我々には何事が起ったかという珍騒動にしか映らぬ、劇的にお粗末な顛末を引き起こす西洋というものの姿なのだ。東洋より西洋が優れていたり偉かったりなどということは微塵もないことを若者は心に刻んで欲しい。
もう少し詳しく書こう。東洋の柔らかな相対価値観に対して常に絶対真理を信奉する西洋は、その対象が聖書の説く神の教えであるか啓蒙思想による人間、科学の力であるかはともかく、決められたものこそ絶対普遍である。例えば中世では神に逆らえば異端者だ。地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノは死刑、ガリレオ・ガリレイは終身刑。ほぼ同じ時代の日本では、比叡山を仏像ごと焼き討ちした信長には何のお咎めもなし。この彼我の差は教科書にいくら宗教だからと書かれてもよくわからないというのが正直かつあるべき態度であろう。僕は西洋に13年半も住んだがまだ腑に落ちていない。昔のCMにあったが、古いナビの指示通りにスーパーに真面目に進入していってしまう新米女性ドライバーみたいな感じという部分が残っている。時事問題を見ればいい。聖書が禁じるLGBT。この禁止が過激化してイジメ問題みたいになり、それを取締まるムーヴメントがおきた。それがマイノリティー人権の尊重という文句になりだから日本もその法案を通せと言ってくる。あのね、俺らはキリストさんいないから昔からLG禁じてないのよ、信長さんもやってたしテレビに毎日Gの人が出て国民的人気者だしね、取締まりの法律なんてかえって和を乱す。バッハ、モーツァルトを埋めちまう君らにつき合えなど余計なお世話なんだ。
僕は本稿で西洋を、西洋の音楽を語ってはいるが、メンデルスゾーンがユダヤ教徒としてマイノリティだったことではなく、ホモサピエンスの驚異だったことを語りたい。これは我々人類への称賛であると同時に、人生観として、良いものを良い、悪いものを悪いと素直に認める澄んだ心があれば人を正しく評価でき、助けることもでき、良い人生を送れると信じているからだ。モーツァルト、ベートーベンの両人が20才をこえた後に打ち建てた金字塔の高みには客観的に見てメンデルスゾーンは到達できなかったが、しかしそのことが、後世の天才たちを含む人類の誰一人として15年では到達できなかった所に彼がいたことの価値を些かも減衰せしむるものではない。
将棋の藤井聡太九段は最年少の14才で四段(プロ)昇格してから20才の七冠達成まで22の最年少記録を打ち立てた。七冠を達成した者は1924年の日本将棋連盟創立以来の約1世紀の間に羽生善治九段しかおらず、達成時の年齢は25才であった。本稿の標題である「藤井聡太はメンデルスゾーンである」はワイドショーのタイトルのように見えようが、「それを5年短縮した藤井九段がプロ昇格した14才での棋譜こそメンデルスゾーン15才の交響曲第1番のスコアであると主張して何かおかしいだろうか?」という主張を実証的な根拠をもってしたつもりのものである。時に耳にすることのある「将棋で食えないから誰誰の兄弟は東大に行った」という言説はプロ棋士になる困難さを比喩的に表現したものと思われるが、知る限りの昔から毎年3千人も合格する大学に仮に中学2年で合格したとしても比喩の対象として不足と思うのでそれよりはましであり、逆にその比喩をもってしても足りない藤井氏の将棋能力を経由してメンデルスゾーンの作曲能力の高さを類推してくれる音楽に詳しくはないインテリの方がおられれば本稿の目的は既達になる。
以上の偉業はあくまで現時点でということであり、今後彼がすべての対局に負けたとしても、現時点での偉業だけでも彼が棋界の風雲児に留まらずメンデルスゾーンに並んでホモサピエンス史上最高峰の天才であると判断するしか選択肢はないと僕は思う。なぜなら過去の棋譜はすべての棋士の机の上やパソコンにあり、すべての棋士が学習可能なのであり、それを最速で学習しただけが強さの要因ならば対局を重ねれば2番目に最速の棋士に負ける確率は上がる。それが22の記録を打ち立てるまで起きない理由は、彼のオリジナルな戦略がその上に一枚加わっているからだと説明されるべきである可能性が非常に高いと考える。すなわち、早熟とオリジナリティの両方を1世紀間において最も短時間で身につけた人という評価になる。よって、ジャンルが何であれ最高度にインテリジェンスを必要とすることに誰も異論のない2分野において、その能力においてメンデルスゾーンに最も近い頭脳の人だと考えるのが論理的なのである。
ここがポイントだ。前述したここ、
彼らとて「文法」を修得するのに20年以上の歳月を要していたものがメンデルスゾーンにおいては15才で易々とマスターされ、翌年に現れる弦楽八重奏曲 / 真夏の夜の夢 序曲によって、まごうことなき彼自身であって後世の誰でもないことが如実に証明された個性というものの片鱗がすでにそこにある
これがメンデルスゾーンという驚天動地の人間の存在証明であり、ナチスドイツの輪をかけた驚天動地の愚行によって19世紀のバッハ、モーツァルトに劣らぬほど地下深く埋められてしまったリパーカッションがいまだに完全にはぬぐい去られていない可能性があるというのが私見だ。偏見、レッテルで他人を評価する人間というものは、逆に「それをやっている馬鹿だ」という偏見、レッテルで評価されてしまったとしても救い出してやる価値は微塵もない人間である。優れた人だけを評価しろと言っているのではない。大事なのは事実、客観性への敬意と尊重である。これを教える学科は倫社でも道徳でもない、数学である。数学を真面目に学べば親や教師から習った倫理観が脆弱であれどうであれ自ずとそうなる。学ばなければ偏見、レッテルに流されて生きる世俗的な一般大衆を形成するウンカのような大群の一部になる。事実、客観性を私情で捻じ曲げることなく澄んだ目で、正しいプロポーションで見ることでこそ、本当に救いが必要な人に手をさしのべることができる人間になれると僕は考えている。
キッシー息子くんの忘年会を叱る
2023 JUN 4 13:13:45 pm by 東 賢太郎

人間が受け取る情報の8割は目からで、写真(画像)のインパクトは大きい。キッシー息子くんの忘年会、その名と違ってこれは何年たっても国民から忘れられることはないだろう。そんな写真が流出したらヤバいぐらいの理性はあったんだろうが、それをかいくぐって出たわけだから只事とは思えない。出席者に猛烈なアホがいたか、確信犯がいたか、騙されて出しちゃったか? いずれにせよこういうワキの甘い家の人が総理やってるんだということになってしまう。世論は。
岸田総理は3世議員。息子くんは4世の予定。世間はみなその箔つけのための秘書官任命と思ってる。総理秘書官は官僚の体感だと事務次官より上らしい。それをどこ吹く風と適材適所で通してしまって適材でなかった。だから親父の自業自得になる。商社に6年いて社会経験だなどと思うまともな人はいない。しかし政界に入れば親の七光りで競争のない人生だろう。だからよほどの馬鹿でない限り誰でも適材なのである。その世間ナメ過ぎな親のエゴの犠牲になった息子くん。まだ若いのに気の毒としか申し上げようもない。だが今回はそこで終わらないだろう。この「よほどの馬鹿でない限り誰でも適材」というのが世襲議員の旨味だ。親バカの母ちゃんまで出てきて「うちの息子を」とやってる。あいつもこいつもやってる。子供はかわいい。だから議員はみんな世襲したい。歌舞伎の梨園状態だ。公職が世襲されるのは公私混同であると世論はなっていくだろう。
世襲議員が30~40%もいる日本は、明らかに、国際的に、異常だ。印象論ではない、数字で明々白々でありなかでも自民党が突出して高い。世界で日本に迫るレベルなのは政治後進国のイタリアだけであり(それでも日本より低いが)、英国で10%、米で5~10%、ドイツや韓国はほとんど無い。しかも英米は「親の地盤をそのまま引き継いで、同じ選挙区から出るケース」は1%程度でほぼない(神戸新聞・豊田真由子氏)。豊田氏は公職が特権的地位になってはいけないという不文律があるからとされるが、やったら大変なことになると考えた方が現実論として近い。フランクフルトの鮨屋でこういうシーンを目撃した。会計をしようとしたインテリ風のドイツ人客が「同じものを頼んだのに日本人と値段が違うのはなぜだ」と店員に質問し、親父が何か説明したが納得せず「訴訟する」と言いだした。現地で誰もが知る店だ。大した金額でもない。でも怒っていた。これが西洋人の「不平等」「差別」への反応だ。お得意さんと一見さんではサービスに違いが出て当然という常識は日本しかない。格別のサービスは構わないが余分に相応のカネを払う。それが「チップ」というものの正体なのだ。自分の子をうまいことやって議員にしたいなどという発想は鮨屋の親父なみなのであって、やったら即死。だからほとんどないのである。
経済的背景もある。相続税だ。誰でもそれなりの財産をもって死ねば国に半分召し上げられる。しかし例外がある。伝統芸能だ。襲名披露してご贔屓筋を引き継げば親父とかわらず食っていけるが、芸名というブランドに相続税はかけようがない。議員の「票田」(地盤や後援会システム)はそれと全く同じであって、田舎で庄屋の子は庄屋のノリで親父が息子をよろしくといえばそのまま票が受け継がれ、それには技術的に相続税の計算のしようがない。よって経済的にも政治的にも目減りなく子孫に継承できてしまい、贔屓筋も息子にたかればおいしい思いをずっとできるから誰も反対しない。歌舞伎や落語は公職でないからそれが許されるが、議員の身分は公職中の公職である。これがおいしいファミリービジネスになるなど論外であること、世界の常識など持ち出すまでもない、国益に尽くすべき議員という立場の憲法第1条、あまりに当然のことである。これが馬鹿息子が続々と当選し、世襲議員が続々と生まれてくる利権メカニズムである。
わかってはいたが、僕はこれ(安倍総裁の眼)で世襲を良しとしようと思った。大臣になるような議員には交渉力で相手を屈服させる能力が必須だ。しかしどう見ても外国の猛者相手にそれができる者は半分もいるとすら思えず国費の無駄である。だから国会議員は半分にしろと言っている。交渉は言葉でと言われるが、眼がものをいうことを何万回もビジネス現場でやってきた僕は知っている。しかしそういうことは練習してできるのではないかもしれない。そう納得してみた。しかしそれは安倍家だけの話であったのかと今回の件が愚考を粉々にしてくれたのである。依怙贔屓やり放題社会になって平等、機会均等を壊せば多くの才能ある若者のモチベーションを根底から削ぎ、やがて民度はさらに凋落して日本国というゆかしき存在は崩壊し、父祖の努力が灰燼に帰することは必定だ。そんな日本は見たくない。世間は「格差社会だ」「二極化だ」と騒いでいるがそれをいうなら「政治の貴族化」であって、対策を打ち出す立場の行政府や立法府の中枢がお血筋によって固定された貴族なのだ。貴族制を廃止して自ら平民になった貴族は歴史上いない。
だからこれを打破するには対抗できる強い野党が出るしかない。一党だけ貴族を辞めて清貧を見せても選挙に勝たなければ無意味だ。しかし、この人たちも同じ貴族を味わっちまった議員である。小ぶりでも地盤を利権として相続したい欲はあるだろう。「ビジネス野党」という、国会質疑でテレビに出られるタレントとして政治を家業としている万年二軍でいい人たちなのではないかという疑念が僕からは申しわけないがいつまでたっても抜けない。その証拠が、自民を倒すには野党共闘しかないのにその気配すら見えないことだ。民族問題と混線して理解されているのもいけない。そこだけは譲れない多種多様な中道右派の有権者をザトウクジラみたいに飲み込む自民党が、あれだけ派閥闘争して政策などわけがわからなくなってるのに勝利という構図はいつまでたっても変わらない。昨今は維新がいい線行ってるなと思っていたが、自らすすんでクジラに飲み込まれることで公明を追い出して後釜に座る路線だろうか。トロイの木馬作戦なんて言ってるがおいしい自民党員になって大臣ポストが欲しいのだろう。維新がくっついた自民の世襲率はやがて5割を超え、三等国だと世界の笑いものになるだろうがファミリービジネスに邁進する貴族の共同体という仮定が正しいのならば領地の農奴がどうなろうとどうでもいいだろう。
志のある若者たちは明治時代までで大半が足りてしまう日本史の受験勉強はいったん忘れて、明治以降、とくに大正~昭和から現代にいたる日本人が最も見たくない部分の生々しい歴史を虚心坦懐に学びなさい。それをせずに日本史を分かったなど、マル経だけで経済学を語るようなものである。
三等国になっていいはずがない。一等国の評価とプライドを勝ち取るのにどれだけ先人の血と汗と涙が流されたことか。これを忘れたり無視をするなら、君らは知覧の特攻平和記念会館へ行って涙一滴流さず帰ってこられる人だろう。きっかけはいうまでもなく下級武士が主体である明治の元勲の志が高かったからだ。アジアにそんな国は日本をおいて一個たりともなかったのは武士は日本にしかいなかったからだ。維新の十傑のうち七人が暗殺、刑死、敗北自決などの異常死を遂げており、結果論とはいえ文字通り命を懸けていたことを疑う者はない。だから元来は国家意識などなく諸藩に属していただけの民が王政復古の号令で天皇という求心力に目覚め、日本国のためと徹底奮起して二つの戦争に勝った。
しかし、大谷翔平選手がWBCのミーティングで選手に警鐘を鳴らした通り「憧れるだけ」で欧米を抜けなかった「科学技術の差」が致命傷になって三つ目に大敗するのである(なぜか日本の役所は文系が偉い)。国家資格まで失うという未曽有の屈辱の底の底まで墜ちた。そこで発足した自民党なる米国礼賛政党に明治の志があったかというと、米国の信託統治下ではもう何でも仰せのままにといいながら「立派な負け犬」になる根性を見せるぐらいでそんなものは到底あるはずもなかったのである。ここは卑屈になることはない。誰が悪いわけでもなく歴史の流れで仕方なかったと思うしかない。人間は失敗から学ぶ者が勝つ。取締役から臨時の見習いに降格にはなったが、また這い上がればよかったのである。
それは実現した。当時の日本人にはその気概があった。その時代に生まれ経済界で生きた人間のひとりとして声を大にして言わせてもらうが、朝鮮戦争の特需で利を得てそれを賢明にも資本に回していわゆる「高度成長期」(1955年~1973年までの19年間に年平均10%を達成した期)を焼け野原からわずか10年で実現して世界の度肝を抜き、しかもそこからたったの16年である1989年に株式時価総額が米国をぬいて日本は世界一になった。
証券市場に詳しくない人はピンと来ないだろうが心に刻んで欲しい。株式時価総額で米国を抜いたということはWBCで米国に勝ったことの1億倍ぐらい凄まじい快挙なのである。だって上場していて株交換で買収しかけられたらひとたまりもないでしょ?フェアプレーだから真珠湾と違ってやられても戦争仕掛ける理屈も立たないでしょ?つまり株価は経済のみならず国力の源泉、最強の武器なのだ。このことは米国が最もよく知っている。欧州も中国もよ~く知っている。日本の政治家、官僚、学者、メディアだけが知らない。頭はいいからわかっていても骨身にしみてないし策もない。
経済力で日本に負けた。これがあったから米国政府は日本の台頭を心底から恐れ、なりふり構わず貿易摩擦戦争を仕掛け、円高誘導を仕掛け、BIS規制(バーゼル合意)で日本経済を徹底的に叩き潰しに出たのである。これは凄まじかった。英国のシティで最前線で世界の金融界の目玉商品であった日本株ビジネスを戦っていた僕はその生き証人である。中国の時価総額はまだ半分だがやがて抜かれるのではないか。そうなれば合衆国は丸ごと買われる。中国が核戦争を仕掛けたり台湾を武力制圧するなんて実は考えてないのに、だから、いま必死に株式市場から中国資本と企業を閉め出し、インド太平洋圏構想で囲い込んで叩こうとしているのである。
これをわけもわかってない左翼やらメディアやらが「昭和末期の空前の馬鹿騒ぎ」だの「バブル崩壊で貧しくなった」だのと負の側面だけ誇張する。それこそ馬鹿も休み休みにしろである。だからその不条理を体感し、24時間戦えますかのリゲインを飲んでふざけんなとなった民間企業の兵士たち、おそらくは多くの皆さんのお父さんの世代が「企業戦士」「経済は一流、政治は三流」というサラリーマン川柳なみに鋭い言葉を職場で飲み屋で自嘲気味に大流行させたのである。戦うどころか戦地にいもしなかった政治家やジャーナリストが「経済も二流になった」などと軽々しくほざくのを見るにつけ、こいつら偉そうに何様なんだと怒りを覚えるしかない。
当時の戦士、戦友の名誉のために特筆しておくが、世界を驚嘆させ、地に落ちた敗戦国だった日本国の評価を一気に “一流国” まで高めた「高度成長」なるものは、民間企業が真面目に勤勉に知的に賢明に壮絶に、それこそ命を賭して頑張った成果物なのである(僕の勤務地では過労で2人が白昼に亡くなった。皆さん信じられますか?)。ひとこと付言しておくが官僚も国の利益と威信のために頑張った。僕はそういうポストではなかったが、共に戦ってくれた印象はある。しかしだ。断言するが、一流国になったのは政治家が優秀だったわけでも命を懸けてくれたからでも何でもない。
歴史をふりかえれば歴然だ。米国の策略は金融(カネ)と貿易(モノ)に国際ルール(のふりをした)改訂の足かせをつけて日本を叩き潰すことだ。仕掛けてきたのは政治レベルの脅しであった。そこで絵に描いたように宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山と冗談にもならない低レベルな政権が続く。結構まともな橋竜が失脚させられ、いよいよ小渕、森という妖怪水準のドツボにはまる。すでに日本潰しは完成しており米国はもうどうでもよかった、米国シンクタンクの幹部と何度か会ってそう感じた。次はポピュリズム巧者の芸を買って2001年に小泉を使い日本収奪の金儲けに出た。IPO幹事に米系を押し込んで唾をつけたNTTに始まり郵政がおいしかった。これがあからさまな米国利権政権の端緒だった。第二の敗戦でまたギブ・ミー・チョコレートが出た。安倍第1次政権がそれに続き、結果は辞任と情けなかったが2次では彼は多くを学んでおりましだった。少なくとも失業を減らし株価を上げた。何偉そうなことをほざいてもその2つができない総理は無能だ。しかし代償もあった。万年与党の自民党が地位に甘え、議員は勘違い貴族化して堕落し、意思決定には官僚人事という裏技まで弄する横暴が目に余るようになった。
このあたりの風景は二・二六事件の背景への教科書的説明である「青年将校たちは政治政党は財閥と結託して堕落している、軍部は利権を握って横暴を極めていると考え決起した」とそっくりだ。財閥を米国中国、軍部を自民党におきかえればほとんどそのままだ。我が祖母の旧姓は真崎である。僕は台湾の警察署長のおじさんとだけきいて育った。息子くんたち、この音声は知ってるかな?
重い。何十回聞いたかわからないが平静に眠れなくなる。こういうことは二度と起こしてはいけない。岸田総理がもしそう思ってるなら、ほぼ確実にそうは思ってない息子くんを怒鳴って制止するぐらいはしたんじゃないかと思いたいが、一緒に写真撮ってたようではある。そこがこれのあった場所だよ。他人も入れてたみたいだが昭和11年の技術でこんなに盗聴されてる。ごめんなさいじゃ済まないだろ、それ。
岸田政権の少子化対策は異次元のあほらしさ
2023 MAY 28 17:17:48 pm by 東 賢太郎

マルサスの人口論(1798年)はこう説く。
➀食料は等差級数的にしか増えない
②人口は性欲により等比級数的に増える
食い物がなければ人は増えにくい。増えてしまうと貧困が生じ、暴力革命が起きる。だから政治は逃げ道を考える。
それが岸田政権の少子化対策だ。子供をつくらないのはお金が不安だから?わかりました、1万円あげます。でも財源は社会保障費で手取りは減ります。国民なめすぎでないか。それならいっそコンドーム禁止令でも出したらどうだ。
日本の高度成長は朝鮮戦争の「特需」である。漁夫の利で食い扶持(ぶち)がばんばん増えた。実力じゃない。あれは戦後の焼け野原に現れた蜃気楼だったのだ。だまされて子供をばんばんつくっちまった。それが人口1億2千万だ。
失われた30年とかいうが、こんなのはお気楽なメディアが無責任に呼んでるだけだ。今年の新入社員は鯛焼き型だとか昔にクソくだらないこと言ってた、あれだ。別に何も失ってない。実力通りのところまで経済が落ちていくだけだ。
ということはこれからも食い扶持は減っていく。AI、チャットGPTに食われてさらに減っていく。意味もなく満員電車で朝早く会社行ってどうでもいい会議で居眠りしてPCの前で仕事したふりしてる9割のサラリーマンはいらなくなる。
そうやって食い扶持が減る。だから男は結婚できない。しても「子供はリスク」になる。だからマルサスのいう通りに人口は減る。減るとGDP成長率は原理に従って落ちる。するとさらに食い扶持が減ってもっと人口は減る。
朝ナマとかいうのを見てたら女性議員が集まって日本は女性の進出が足りない、だから結婚できない子供が産めないなんてことを延々と言ってる。あのね、それ以前に船が沈んでいってるんだ。女も男もないんだよ。
そうしたら田原総一朗が経営者がだらしないという。自分で稼いだこともないジャーナリストなんかが偉そうなこと言うな。儲からないのは日本が既得権益だらけだからだ。そのヌシみたいなこういう爺いがのさばってるからだよ。
社会保障費あげるほど財源ないなら政府が節約しろ。何の足しにもならないくだらない議論でどうでもいい仕事つくってカネもらってる国会議員は半分もいれば十分だ。だんだん2・26に似てくるぞ。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
拡大核抑止は米国のためにもならない(広島サミット)
2023 MAY 22 23:23:27 pm by 東 賢太郎

何度も書いたが、27才から米国で2年の教育を受けた。その間に多くの思慮深い米国人と知り合い、あの戦争のことまでを議論し、それまで学校で習った程度の認識しかなかった米国の民主主義、自由主義というものの一面的ではない奥深さに感動すら覚えた。母校ペンシルべニア大学病院の医師たちの尽力で難病だった家内の子宮筋腫を治していただき子宝にも恵まれた。英国では29才から35才まで勤務し、顧客であるジェントルメンとプライベートに至る付き合いに恵まれ、人間の根幹をつくる時期にたくさんの啓示をいただいた。
「それまで学校で習った程度の認識」というものがどういうものだったかははっきり覚えがない。ふりかえって整理してみると、
(1)日本も明治以降は立憲国家になったが、陸海軍の統帥権は天皇に直属するとして軍部が独走して過ちを犯した
と教わったように思う。それは世界史だか政治経済だったか、教科書には「統帥権干犯問題」とあったが、概ねのところ真実だろう。問題はそこからで、
(2)だから我が国はならず者・人殺しの本性のある国であり、300万人もの同胞が戦争で亡くなったのもならず者のせいであり、天誅を下してくれたアメリカ様のおかげで平和になった
という第2弾が続くのである。
恐ろしいことだが、どこで(2)を吹き込まれたか記憶にない。昭和30年生まれの僕は物心つくとテレビでアメリカ様のディズニー、ポパイ、マイティマウス、早撃ちマック、スーパーマン、コンバット、ベンチャーズなどに夢中になっていた。ポパイの缶詰ホウレン草やハンバーガーは一度でいいから食べてみたいと熱望していた。しかし、一方で、米軍の爆撃で片耳が聞こえなくなった父からは「鬼畜米英」という言葉を教わっており、鉄腕アトムや鉄人28号でも負けてしまったんだという理解をしていた。
子供心に何か変だった。
(2)を喩えるなら、悪事をした男がムショ入りし「心を入れかえて生きていくんだぞ」と看守に背中をポンとたたかれて娑婆に出る映画を見ている気分だ。なんで自分の国を守ったのに悪いんだ?殴られたら殴り返すのは当然だろう?でも、アメリカ様のいうことをきけば楽しい未来がありそうだ。コロロの矛盾をそう解決していた気がするが、その解決自体がさらなる矛盾をはらんでいた。
なぜなら、周囲の友達はギブ・ミー・チョコレート路線で「アメリカかぶれ」が続出していた。テレビに出てくる大人たちも長い物に巻かれ、サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ、すいすいス~ダララッタなんて歌が流行っていたからだ。本能的な正義感でそういうのを許せない性格に生まれついているから友達も嫌いになったりして悩んでいた。
いうまでもなく(2)はマッカ元帥様が占領民を洗脳すべく行使したWGIP(War Guilt Information Program)、すなわち、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画の骨子だ。戦争で焼け太った者が隷属し、見返りをもらって全国民に向けてこのプロパガンダ・ウイルスをたれ流していた。自民党もメディアもそのためにできた。知らず知らず僕もそれに感染していたわけだが、安保反対の学生運動は4、5才上のしている暴力沙汰と思っており参加する気はなかった。
日本には「ならず者」もいるしチョコレート野郎もいる。どこの国でもいる。そこで法律を作り、国家を安寧に秩序立てて運営するのである。軍部が独走してしまったのは、日本人がとりわけ「ならず者」だったからでもなく、サムライだからそんなことはしないわけでもない。大日本帝国憲法に「内閣」「総理大臣」の規程がないという構造的欠陥があったからである。英国式の責任内閣制度(元首が行政権を首相に譲る)は陛下がおられるのだからやめとけと独逸人にいわれ、自分が天皇を統御する前提が頭にあった伊藤博文がビスマルク憲法式にしてしまった。腹があった彼ら維新の元勲が死ぬと前提は溶解し、しからば改正すべきであったその憲法は「不磨の大典」と神格化されて欠陥は温存される。そこを突いて、天皇を奉って統帥権を掌握する内紛が起こり(五・一五、二・二六事件)、昭和の悲劇につながっていった。戦前は法治国家でなかったという者がいるが、見事に法治国家だったという皮肉な見方もできる。
そんな鬼畜米英に何年も居を構えることは僕にとって大きな矛盾、チャレンジであった。米国で学生生活をしていたころ、酔っ払うと議論を吹っかけては「日本は憲法改正して再軍備しろ」と言いまくっていたようで、仲間に恐ろしい奴だと言われた。右翼でも軍国主義者でもない。親を愚弄する者は許せず、WGIPの詐術に篭絡されてしまう自分の姿など身の毛がよだつからそうなったという帰結こそが招かれざる矛盾の産物だった。ドイツ時代にクライン孝子さんにぶったのもそれだったと思われ、スイス時代に日本企業の会合で議長をやって「なぜ防衛庁に入らなかったのですか?いい武官になられたのに」と大使館の同庁出向幹部の方に尋ねられた。文官でなく武官というのが自分らしく愉快だった。
40才までしていた主張はこういうことだ。いまだかつて自国を自分で守る権利のない国は地球上にカルタゴしかなかった。カルタゴは第2次ポエニ戦争でハンニバルで敗戦した戦後処理としてローマに武装解除、対外戦争の禁止を強要され、そこで平和主義を掲げ、貿易に専念して経済大国になった。ところがそれをローマに警戒され、隣国ヌミディアの侵略に反撃したところ「条約違反だ」と言い掛かりをつけたローマ軍に攻められ、総人口50万人は惨殺され、生き残った5万5千人は奴隷として売られて国家ごと消されてしまった。それと現代日本のアナロジーは多くの識者が語り、「アメリカ様の核の傘があるさ」で済んできた。カルタゴは敗戦で丸腰にされてから滅ぼされるまで、それでも55年はあった。我が国はここまで78年も無事だったが、これからもそうだろうか。
このたびの広島サミットは、岸田総理が「核なき世界」(核廃絶)を目指すという理念を掲げつつ、核爆弾使用国(米)、2つの核保有国(英仏)、米国に核依存する3か国(独伊加)が参集し、平和の希求を表に掲げながら核の傘(「拡大核抑止(Extended nuclear deterrence)」)が議論されたと理解している。仕組まれていたと思われるゼレンスキーの登場にバイデンが「F16を貸してやろう、核の傘を広げる必要もあるな」と応じる所定の落し所となったのだろう。G7の日本を除く6か国はNATO加盟国で、西側だけで核廃絶が決められるはずがなく「核なき世界」とは最初から水と油だ。広島市民が怒るのも道理である。
目下の一大事はプーチンに核を使わせないことだ。G20を巻き込む傘の拡大はやむなき一里塚とは思う。対して駐米ロシア大使は「米国は日本に謝罪していない」と批判する。原爆資料館の滞在はオバマの10分が今回は40分になったが様子は外部に公開せずだ。米国が謝罪する可能性は見えない。ということは、人殺しがプーチンに人殺しはするなと制する理は立たず「拡大」で脅すしかない。すると世界にチキンゲームが誘発され、核保有量競争が加速する。これ自体が人類を危機に陥れる。なぜなら原口議員によると核保有の危険性は意図的な攻撃のみではないからだ。ミスコミュニケーションによる錯誤、コンピューターの誤作動、ハッキングなどで発射されてしまうリスクは管理不能で、プログラムされた報復を誘発して人類は短時間に滅亡する可能性があるといわれている。大日本帝国憲法の構造的欠陥が昭和の悲劇を呼ぶことを明治の元勲は想定しなかったこと、福島原発の津波による事故もしかりだったことを熟慮すべきだ。「核なき世界」への一里塚に内在する人類滅亡リスクをG20で共有することが必要で、そのために、唯一の核兵器使用国である米国がその非を認めることで事は進む。DSと一線を画さない現状は自国のためにもならない。
冒頭に述べたように、英米に住んでみると、彼らはぜんぜん鬼畜ではなかった。本稿で書き分けてきた「アメリカ様」と「米国」は別物なのだ。前者は米国の姿をまとったDSで、全員が米国人とは限らず英国の影もある。武器、エネルギー、食物、鉱物、情報が主力商品であり薬もそうだ(麻薬と置き換えて阿片戦争を思い出せばいい。中国人が何万人死のうと廃人になろうと英国人は金儲けのために阿片を売ることを意に介さなかった)。原口一博議員の主張のようにワクちゃんも同じ精神構造の元に日本政府に免責条項付きで取引されたものと想像する。立派である米英の友人のためにも、米英の威信を守り人類を滅亡させないためにも、人間の心のある米国指導者が現れて歴史の殻を破ることを願いたい。
最後にSFっぽい話をひとつ。プラズマ理論物理学者ジョン・ブランデンバーグの論文によると、火星大気にはキセノン129という、自然には発生しないキセノンの同位体が不自然なほど多く含まれているという(左)。また、ウラン235の放射線量が多い地域は大きく2か所存在するが、このウラン同位体も自然にはできないものらしい。ブランデンバーグは、放射性同位体とそれらの堆積物から、火星ではかつて少なくとも2か所で核兵器が使用されたとし、その総エネルギー量は地球上の核兵器100万個分に相当するという。これは大規模な核兵器の使用であって、小規模の核兵器はさらに多く使用され、互いに多量の核兵器を撃ちあった痕跡も認められるという(以下の記事から抜粋)。
東西冷戦時代、地球は自身を複数回破壊できるほど大量の核兵器を有していた。幸いなことにそれが使われることはなかったが、火星ではそれが現実のものになってしまったのではという興味深い説だ。これで思い出すのは月面で5万年前の人間の死体が発見される名作SF「星を継ぐもの」だ。無人どころか猿もいなくなった地球に来訪した宇宙人が5万年前の死体を発見したりしないことを祈る。
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原口一博衆議院議員のyoutubeに思ったこと
2023 MAY 19 10:10:07 am by 東 賢太郎

最初にお断りするが本稿は政治目的でなく、立憲民主党や現職の国会議員としての氏の個別の主張・政策に関わるものではない。短い時間ではあるが感じ取った氏の印象に起因し、つい最近に氏のyoutubeチャンネルを偶然に閲覧して響くものがあったことにのみよっている。
氏とは衆議院議員の原口一博氏である。お会いしたのは2010年だ。もうご記憶にはないかもしれないが、総務大臣だった氏と僕の知人議員およびソナー出資者の英国人を入れた4名でホテルでの夕食であった。氏は僕の5学年下だ。終始英語で些かの支障もなく終わり、その後は会っていないが人物として記憶に残った。難病を公表し、さらに瀰漫性大細胞型B細胞リンパ腫に罹患し治療を受けている事も公表しておられ、最初に閲覧したyoutubeは後者に関するものである。
僕は人間は本性が合うか合わないか、根が良いと思うかどうかだけだと思っている。本性はみな隠すから見抜く経験がいる。そこまで短時間にできたわけではないが、氏に対する一定の印象は残っており、このビデオで再確認した。
僕も冷笑系、追い込み屋は身の毛がよだつほど嫌いなのである。たいして頭も良くない馬鹿がTVでしゃあしゃあと知ったかぶりして相手を見下している滑稽。そういうのをディファクト化して放映する愚鈍なメディア。それを洗脳に使う狡猾なだけの権力。これを佐賀県人の氏が「葉隠」の視点で批判しているのを聞いて腑に落ちるものがあった。そういえば自分の4分の1は佐賀・長崎の血だった。いかなる小理屈を弄しようと揺るがないし、終生変えたくとも変えようがないものである。これを本性という。弱きを助け強きをくじく。これぞ男であり、弱きをくじき強きに隷従する、そんな奴等は性別を問わず問答無用にクズである。「これぞ男」って表現はLGBTの観点から問題でしょ、などという議論は言ってるお前がクズなんだ。日本古来の男である俺の知ったことではない。
3年前のいまごろに世田谷区からお注射の葉書が来た。打つ気満々で7月16日は高齢者なのに遅いなと思ったが、それがよかった。ある情報と忠告があって即刻キャンセルし、家族には絶対打つなと厳命した。社員や周囲に命令はできないが詳しく説明だけはし、打たなかった人もいる。同じことをブログにも書いたはずだ。氏は議員の職務上3回打たれ、新たな難病との因果関係の可能性につき検査結果待ちであることをyoutubeで公開されている。事の本質は、これがあの病のためのお注射だからではなく(それは関係ない)、メッセンジャーRNAワクチンという人類未曽有の「技法」を用いたものであることに存在するのである。
これを野党議員の政権批判ととる人がいてもそれはそれだ。僕も生身の氏を見てなければそう思ったかもしれないからだ。氏はDS(Deep State)という言葉を用いそれを戦争屋と呼んでいるが、僕のブログをお読みいただきたいが、なんと呼ぼうと結構だがその超国家的利益・思想共同体は目には見えないが存在することを僕はビジネスキャリア上ふつうの日本人よりは知り得る立場にいた。そんなものは嘘だ、陰謀論だととる人がいても(というより読売新聞が大衆紙の低能をさらして堂々とそれをぶっているが)それはそれだ。僕も生身の氏の英語力を見てなければそう思ったかもしれないからだ。
戦争屋から買うトマちゃんは他国に売るよりすごく値が高いが、湾岸戦争のお古か、せいぜいそのモデルチェンジだ。時速960キロだから皆さんが乗るジャンボジェット機でも追い越せ、敵国に迎撃される可能性は高いとされる。しかし、お相手様にそういうことはどうでもいい、在庫は経営の敵というセオリーがすべてに優先するのである。そうして膨らむ防衛予算をどうやって確保しようかと国会で議論されたが、ワンマン社長が銀座で飲み歩いた交際費をどうやって落そうか苦労する経理部を思い出した。こういう問題は想像力を駆使してなるべく巨視的に見ることをお薦めする。いま僕の目にはトマちゃんもワクちゃんも同じお相手様による意図の奔流の中に見えている。言うまでもなくSDGsもCO2も太陽光もLGなんたらもコオロギもそうだ。いや78年前から小麦を食わそうと給食はパンになり、種子を毎年売りつけるため発芽しないF1種の野菜や果物を食わされてることを知っていれば奔流は自ずと現前に見えてくるではないか。キリスト教化は天皇がいて難しいから韓国にいま話題のなんたら教会を作ったのだ。天皇もイエ制度(夫婦同姓)も邪魔なのだ。
弱きをくじき強きに隷従する政権を見ていると、元禄時代にワープした感覚にとらわれてくる。「あっ、お犬様が通る」。この犬コロと心では思っていても、民百姓のみならず総理大臣までひれ伏して道をお譲りするのだ。コオロギ?お前が食えよなんて言おうものなら打ち首だ。今に始まったことではない。初代お犬様であるマッカ元帥によいしょの限りを尽くした吉田という男がいた。「この男、元駐英大使らしいから通訳はいらんだろうと1対1で会談に臨んだら、英語があまりにひどくて何を言ってるのかさっぱり訳が分からなかった」。以上はマッカ元帥様の述懐である。吉田の唯一の取り柄は国内では顔が利くいいパシリであることだった。こいつを利用しよう。こうしてそれが日本国総理なるものの原型になり、サンフランシスコで日本国復活を認めてやる条件にもなった。いや、だからこそ、正確に言うと、限定的にしか国家復活を認めなくて済んでしまったのだ。日本を叩き潰して軍備を持たせず丸腰にすることはすでに真珠湾の前からルーズとチャーチの会談で決まっていたのをご存じだろうか。人種差別主義者ルーズは日本を滅ぼす野心があり、ローマ史に精通したチャーチは日本をカルタゴにしたかった。こいつらの目論見通り、名目独立国、実質占領国だが国民はそれに気づいていないという世界史上初の国のようなものが発足した。1952年4月28日のことだった。
こんな連中の目からすれば異教徒である日本人が何人死のうがどうでもいいということが如実にわかる。原爆投下で戦争が終わってあれ以上死ななくて済んだのだから感謝しますと言わされ、東京大空襲で10万人の民間人を殺したルメイには後に勲一等旭日大綬章を謹んでお贈り申し上げている。形式論的にはルメイは任務を遂行しただけということ。戦争は殺戮だが戦時では国家の仕事になり、国際法という置物のルールブックまでできた。殺す側から見た人間はsheepと同じく複数形がない(顔なし)。顔があれば死刑になるものが平和に貢献したから叙勲だ。このDSの理屈を皆さん理解しなくては国際情勢は読めない。だからウクライナでもロシアでも多くの人が亡くなっても武器は売れているのである。もちろん日本にたくさん売れたワクちゃんだって勲章ものなのだ、日本に何人被害者が出ようと。原爆を投下する都市の選定には、人類未曽有の「技法」の実験という要素もあった。まったく同じ思考であり、人道という概念はかけらもない。では、同じ連中が言ってるLGBTの人道は誰のためなのか?それをかついでいる日本の国会議員どもはいったい何者なのか?
やる前から戦後を決めていた英米の罠にかかって開戦してしまった愚。そして終戦後の交渉で押し切る交渉力のある総理がいなかった不幸。我々はそのツケを負わされている。原口一博氏が何党であろうと結構。心から早期のご回復とご健勝を祈る。
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集中力を高めて願ったことは実現する
2023 MAY 8 19:19:21 pm by 東 賢太郎

字にコンプレックスがある。なぜ算数で点が悪いかと思ったら自分の書いたぐしゃぐしゃな数字を読み違えてる。そこでゆっくりと丁寧にかいてみた。すると考える速さも遅くなってもっと害がある。やむなく大き目の字を書くことで解決はした。しかしその字がいかにもヘタクソなのだ。でっかいだけに目立ち、人間まで稚拙にみえる。
かたや家内は書道をやりだして段位をとった。やったらどうと薦められたがコンプレックスまであるものは無理だ。見ていると、床に紙を敷いて集中してゆっくりと大きな字を書いてる。大事な部分は宙に筆を止めて集中している。すぐその横を猫がすたすた歩いてく。よく書けるね。これは僕には絶対に無理だ。
ネットで面白い番組を見つけた。宇宙のすべては素粒子でできている。人の意志もそうでフォトンの波が出ている。喜怒哀楽に応じてその波が周囲の人にも伝播する。興奮したり集中したりすると波がデカくなる。それがデッカく周囲にも及ぶ。すると周囲の環境まで変えるから「集中力を高めて願ったことは実現する」というのだ。でも現実はそうじゃない。なぜかというと、プラス思考が顕在意識(いま考えてること)にいくらあっても、潜在意識(無意識に考えてること)に「そんな馬鹿な」「どうせ無理でしょ」なんてマイナス思考があると相殺されてしまい、波が微弱になって周囲に届かない。だから実現しない。
なるほど。それを量子力学だとされても浅学で理解できないが、しかし、直感的には当たっている。我ながら、人生の中で本気で願ったことはわりあい実現してきた気がするからだ。ただし「できればそうなって欲しい」程度じゃいけない。「不退転の決意でそうしたいと一心不乱に集中したもの」だけだ。気がついてみると、絶対に成功すると信じこんでいる自分がいる。微塵も疑ってない。頭の中は恐山の巫女状態になってる。偶然そうなるのでなく、意図してその状態を作れるのだ。ご想像していただけるようにそれを「スナイパー性格」と呼んでいる。
野球の投手経験者は比較的わかると思う。打たれていいと思って打者に向かう者はいない。常に「必殺」を目論んでマウンドに立っている。上級ゴルファーのパットもそうだ。「打たれるかも」「嫌なラインだな」なんて声が脳裏(潜在意識)に響くともうだめなのである。だから声のスイッチを意図的にオフにする訓練を無意識に積んでいる。では入試や面接やプレゼンの場でもそんな効能があるのか?すでに答えは書いた。そう思う人には効能はない。思わない人にはある。したがって、「集中力を高めて願ったことは実現する」ということになる。
しかし猫が歩いたらいけない。そういう訓練はしてないから僕はストライクもパットも入らないに違いない。
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WBCアメリカ戦(野球のことを少々)
2023 MAR 24 16:16:57 pm by 東 賢太郎

アメリカを完封しろと本気で願をかけていたが見事だった。出会い頭の本塁打2発だけに抑え込んだからだ。以前なら5点は覚悟という感じだったろう。大谷、佐々木だけじゃない、日本のエースと讃えられる山本がそう話題にならないぐらい投手陣は異次元のレベルに達してることがわかった。しかも若い。ハタチの髙橋宏斗がビビりのカケラもなく1回を2三振。余計なもの見せちゃったな、これからたくさんメジャーに持っていかれるんだろうなと心配になるほどだ。栗山監督、よくぞ大会運営側と交渉してこのメンバーを選び集めてくれた。
今回の米国打線はオールメジャーリーガーの**王、MVPだらけで本気モードだった。だから抑え込んだことの価値は計り知れない。ショートの6番ターナーが大会新の5号を左翼上段に打ち込んで1点先取され、重い空気が漂う。それを村上が強烈パンチで木っ端みじんに粉砕した。何という痛快!ただのホームランじゃない、相手をビビらせる一発である。満塁でインハイをどん詰まりだがゲッツーにせず2点目をもぎとったヌートバーも偉かった。そして何食わぬ顔でレフトに叩き込んだ岡本の平常心、あれもかつて日本になかった不気味な静けさだったろう。結局4回のあの3点目が勝負を決めたのだから値千金の1発だった。
先発・今永は本塁打以外は危なげなし。クールに投げ込む右打者のインハイはまったく打たれる気配なし。戸郷はコントロールがやや乱れ、2連続四球で本塁打を打っている絶好調のターナーを迎えてしまった。嫌だな。息詰まる決戦だった。そこでよくぞ投じたインローに曲がり落ちる球で空振り三振。これは球場の空気を変えたろう。山田が2回塁に出て2回二盗を決めたこと。あれも相手に圧をかけた。しかし2回目は危なかった。ワンバウンドの投球をすくって不利な体勢から投げ、楽勝セーフと思いきや絶妙のワンバウンドであわやアウトという信じ難いシーンを見せてくれた捕手リアルミュートが圧を押し戻した。
5~9回の5インニングで日本は1安打の零点。何か手を打ったかといえば何もない。守備固めで1人変えただけで、結局この試合の打席には9人の先発メンバーしか立たなかった。ホームランを放った村上、岡本の5,6番は後半2打席はどちらも三振。打線のムードは下り坂である。結局、この試合、彼ら以外にヒットを打ったのは源田と大谷だけ、期待の近藤、吉田は3タコに押さえ込まれ、たったの4人しか打てなかった。でもそういう印象があまりない。その間の5~7回にマウンドに立った高橋、伊藤、大勢の堂々たる快投があったからだ。
その停滞感のなかで8回、ダルビッシュが被弾して1点差に迫られた。空気が重くなる。彼は試合後インタビューで、口にこそしなかったが、この1発が心にひっかかっていただろう。勝てば自分がどうあれ喜べる野手と、そういうものではない投手は人種が違う。しかし、米国を完封できるレベルの投手陣をここまで仕上げたのは彼だ。早々にWBC参加を宣言してチームを勇気づけ、宮崎キャンプから合流して若手に自信を授けてくれたダルビッシュだ。その若手が後半押され気味の試合を堂々と支えて勝ったのだから、彼こそが功労者だと僕は思う。
そして、しかし、こればかりはどうにもならない、最後はどうしたって大谷さんになるわけだ。投げて打つだけでひと騒動になってるが、バントも盗塁も声出しでも何でもやるのだからそれで驚かれては彼も困るだろう。この男がミーティングで全選手に「今日は憧れるのはやめましょう」と声をかけた。試合前に何か叫ぶなら Let’s do! が普通であって Don’t do. は言いにくい。でもこれは効いたのではないか、憧れの人がそう戒めたのだから。
164キロの速球が引っかかってワンバウンドになる。フルカウント。この大会の掉尾を飾るクライマックスである。トラウトを絶対に歩かせたくない、いや、空振り三振でシメたい。そう考えたに違いない、大谷さんもピッチャーだから。そして捕手の中村もその気脈が通じた一流選手だった。空振りを取っていた164キロの高めストレートでなくスライダー。それもストライクゾーンの!この瞬間に僕は何か叫んだ気がするが忘れてしまった。
ほぼオールスターのアメリカを決勝で倒した掛値なしの「世界一」。それもスモールベースボールではなく力で。それだけではない、もっと素晴らしいことがある。勝利の雄叫びをあげるのでなく、負けた相手に整列して礼をし、ゴミを拾って去っていく。日本人には当たり前のことだが、世界は驚嘆し、なんとクールな!と讃えている。傲慢でない勝者。謙虚という新しくてカッコいい強者の姿。大谷現象が彼だけでなく、実は日本人の姿だと外国人の目に焼きつけることができたなら、この優勝の意味は計り知れないものがある。
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受験秀才の価値は暴落する(チャットGPT)
2023 MAR 15 20:20:36 pm by 東 賢太郎

人は真っ白で生まれてきて記憶力のピークは18才である。凡そ20才までに何に時間を使ったかで「脳の初期化」が終わると考える。それ以後の進化もあるが、脳機能(CPU)、メモリーのキャパは決まる。学校にいる時間はみな共通として自由時間に何をしたかが個性になるだろう。すると僕は20才時点でレコードを1,000枚持っていて10回は聴いているから10,000時間、すなわち20年(=175,200時間)の5.7%はクラシック音楽を聴いていた。その次が野球で、やる・観るで7~17才の10年、ならして日に1時間として2%だ。勉強はというと小1から14年、毎日2時間自習したとして5.8%だから音楽+野球(7.7%)の方が初期化の貢献度が高い。
もし7.7%を塾通いさせられていたら別種の人間になっただろう。音楽・野球のない自分は想像できないが、好きに生きたら勝手にこうなっただけで、なろうという意志があったわけではない。この実感と見事に平仄が合うのは「身体は魂がもらった vehicle(乗り物)」という思想だ。身体のサイズや性能はDNA(設計図)で一義的に決まっているのだからそれ以上でも以下でもなく、行く末も決まってるのでケセラセラで生きればいい。そう思えば人生楽だし死も怖くない。刻苦勉励は為政者が国家を作るための教育でそれも大事かもしれないが、人間の本質には必ずしも根ざしていない。
これから世の中はどうなるか?コロナと戦争で混沌としているが、世界を変えるのは常にテクノロジーである。落合陽一氏によるとAIの進化は想定外に速く、人間を凌ぐシンギュラリティは2025年に来て、頭の中でする仕事は弁護士、会計士、役所仕事など専門職ほどAIができてしまい、人に残されるのはエッセンシャル・ワーカーの仕事、スポーツ、芸術、恋愛、戦争だそうだ。僕は2008年にリーマン・ブラザーズが潰れた時に真っ先に同社に電話をして六本木ヒルズに駆けつけ、東証の株式売買トップシェアだった米国人20人の電子取引チームを口説いて丸ごと引き抜いた。彼らから最先端のアルゴリズム取引を学び、一秒間に百万回の売買注文が執行できてしまう速度を見て人間に勝ち目などあり得ないことを確信した。それから数年で、腕さえ良ければ高年俸が約束される花形ポストだった証券会社のトレーダー職は、案の定、無残に消滅した。これが現実に起きたことで、もう15年も前の話なのだ。AIは資本効率を上げるが失業率も上げる、しかも高度な知的ワーカーのだ。
AIはかように演算速度が天文学的に速いばかりか自習して進化もする。ということは、学校で習う「答えが出る問題」を解くことにおいては人間は確実にAIに負けるということを意味している。だから僕が7.7%を塾通いではなくスポーツ、芸術に割いて育ったのは得だった。「時は金なり」だから1時間の交響曲を聴くと時給分の損だとするのが経済学だ。しかし脳内にAIができない不可侵領域を作り、感動というエネルギーチャージも得る音楽鑑賞の価値の合計は時給より高い。僕は小学校時代に(本当に)勉強した記憶がなく、野原を駆け回っていた。その経験からいうが、中学生になればすぐ理解できる小学校の勉強に6年の塾通いは時間の無駄で、遊びの情操教育をミスする損失の方が大きい。野球という遊びは強い体力と胆力という財産をくれたが、知力よりそっちの方が出世には何倍も物をいった。
ということは受験秀才の「勉強ができる」という価値はAI時代には暴落し、AIは日々人智の及ばぬ速度で学習して更に人を引き離し、学歴というものは出身県と同様の「群れるためだけのもの」になる。しかし仕事がない人の群れに何万人いても何も生まず、数の力にすがって互助のための政治や宗教をするようになる。しかし、そのリーダーのできることはAIにできないことだけだからAIを論破できず、やがて各党とも党首にはAIを起用し、国会はオンライン開催となる。chat gpt(チャットGPT)はそれが絵空事でないと実感させる。ウォートンMBAの試験に通る知能を持ち、論文はスワヒリ語でも10秒で書け、3分の好みの音楽を10秒で何通りでも作ってくれるなんてことになる。しかも演算速度はこうしている今も毎秒速くなって、やがてアルゴリズム取引と同じ百万分の一秒単位になる。ちなみに岸田総理の国会答弁は、AIにやらせれば自分で考えるので官僚のペーパーは不要だし、少なくとももっとうまく読むだろう。
AIの職業浸食は、起きない方が不思議だ。なぜなら資本家はROE(自己資本利益率)を求める。AIは人の何万倍も仕事が速く、口ごたえせず、正確で、24時間働き、飲み会はいらず、不要不急の出張もせず、賃上げ不要で、組合は作らず、歳もとらないから、人を減らして置きかえるほど人件費・管理費は激減してROEは上昇し、従って株価も上がる。それを望まない経営者はいない。社長もAIでいい。所有と経営は完全分離し、AI社長には預金通帳が与えられ報酬が入り、自らの機能を高めるためオンラインで買い物もする。これが究極の姿だが、ここまで行くと社会問題になるので政治家が介入し「そこそこの二極化」に収まる所で浸食は止まるだろう。そこでAI社長は何をするか。政治家の性格を瞬時に分析し、ぴったりの宴会部長(人間)を雇って接待、ゴルフ、ハニトラを仕掛け、賄賂を贈る。贈収賄罪が立件されると政治家と部長は牢屋に入りAI社長は没収されるが、贈賄はしないプログラムに書き換えたものをまた買えばいいのである。
そんな馬鹿なと思われるだろうが、AIの出現は決してブラック・スワン現象ではない。黒い白鳥がドカンと世界に衝撃を与えるわけでなく、普通の白い白鳥に見えるが気がついたらそこいらじゅうに居たという性質の侵略なのだ。1990年代前半にインターネットが出現し、こわごわメールを送って「届きました」と電話で返事が来た懐かしいあの頃に、SNSなしで生きられないほどネット社会に同化した自分の姿を誰が想像しただろう。同様に「士業」「経営者」「医師」「教師」「役人」etcがチャットGPT搭載のロボットになっていくが、その環境にいずれ我々は慣れっこになり、何とも思わなくなるだろう。人間は環境適応し進化するからだが、人の頭の進化速度よりAIの演算速度の上昇は速いので大衆の目にはAIは万能に見えてきて、拝む信者が増え、人でなくAIこそが安心安全という時代が来るだろう。
ビル・ゲイツやイーロン・マスクの見ている世界はそんな感じだろうか(もっと向こうだろうが)。世界は国籍人種宗教を問わず資本家とそれ以外に二分され事実上一国になるが、戦争需要を生むため上層部が通じ合った見せかけの三国体制でもいい(オーウェル「1984年」がそう)。これを陰謀論と言う人は百万分の一秒で株が買える現場をトレーディングルームでお見せしても陰謀だと言う人で、AIはおろか人類の平均進化速度にすら後れを取り、宗教、アミニズム、自然回帰に向かうか、あるいは暴力、戦争に向かうだろう。私見では日本人は前者に親和性のある民族であり、個々人としてそれはそれで幸せな人生かもしれないが、事は他国でも起きることであり後者に向かう国も出よう。陰謀論者が低学歴とは思わない、むしろ高学歴で頭の固い人が多い。つまりもと受験秀才であり、その価値はこういうプロセスを経て暴落するのである。先の稿に書いたが、これからはオン・デマンド型の人しか出世しない。学んだことがすべからくAIの得意分野と競合する受験秀才は、論理的に、最も demand のないタイプの人になるだろう。
国家の存立はいかがなものか。国会議員、官僚にこの現象の危うさを科学的に理解して対策を講じられる人が何人いるか。文系ばかりでほとんどいないだろう。すると、事が起きてから騒ぎだすのが日本の得意技だが、いまさらデジタル庁なんか作ってる異次元の辺境国だ(同庁は何をやるんだろうと思いきやマイナンバーカードだ。絶句するしかない)。こんな役所に手に負えるはずがなく、そこで放っておけば、東京五輪の現場のごとく役人は何もできないから電通さんに丸投げみたいな悲劇的なことになる。しかしどこに丸投げするんだろう?「AI省をつくれ」となるしかない。すると大臣はチャットGPTさまが適任ではないか。しかし待てよ、彼は何党員なんだ?そこで自公と野党の間で、国会の貴重な時間を使って壮絶な田舎のプロレス対決が繰り広げられ、「チャット君と呼ぶわ💛」の歌とダンスが気に入られたAKB48党に決まる(AIは感情もある)。彼は一秒間に百万回の計算をして日本国のAI政策の最適解を導き出し、見事に国を救う。そして、20××年、世界初のAI総理大臣に任命されるのである。
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ポジショントークやる奴は例外なくクズ
2023 MAR 14 2:02:35 am by 東 賢太郎

ポジショントークなんて英語はない。こういう和製英語を誰が発明するかは知らない。馬鹿がシミュレーションをシュミレーションと英語できます顔で言ってるのと変わらないレベルだが、要はそれが横行しているから名前が付くのだ。ポジショントークは自分が利益を得る我田引水の主張を気づかれないようにそれとなくすることで、誰が見てもその売り子ですよという者が堂々とやるセールストーク(これも和製っぽい。米語はpitchだ)とは異なる。
要するに、象徴的にいうなら、自分が持ってる株を「上がりますよ」と言って皆に買わせて株価を吊り上げようとする行為のことであり、そういう魂胆があるなら「それとなく」だろうが「堂々と」だろうが品性を問われることに変わりない。資産(持ち高)を “position” と呼ぶのは金融業界の用語であることから、和製英語「ポジショントーク」の発生源には我が業界が関与していた可能性は否定できないように思う(ちなみにこの業界はグローバルを気取る者の巣窟だが、英語がまともにできる者はほとんどいない)。しかし品性の是非はともかく、金融業界はおカネを商品とするそういう業界なのであり、嫌なら入るなというものだ。日本だけでない、この業界は世界的にそうであり、そこの住人である僕はその是非を論じる気はない(それこそポジショントークである)。
そうではなく、問題と思うことは、金融業界の住人ではない人たち、つまり社会的地位はあってもこの一点において僕の目には一般人、シロウトにすぎない人達が国会やテレビなどの公の場でポジショントークをしゃあしゃあと展開する風潮の世の中になってしまったことなのだ。立ち位置(例えば「私はこの会社の社員です」「その株を持ってます」)を明確にお断りしておいてからその会社をほめるならそれはセールストークであって許容される。さらにいうなら、自分で自分をほめる行為だって宣伝、広告、PR、マーケティングであって何の問題もない。しかし自分のポジションを隠しながら巧妙にそれをやろうとする魂胆(悪だくみ)があるのがポジショントークであって、一歩間違えば詐欺と変わらない。そういう輩が増えたことと、電話で老人を騙す詐欺師が増えたことは同根の社会現象と僕は考えている。理由は簡単だ。どちらも表向きはどうあれカネ目あてなのである。とすれば、金融界というカネを商品として扱って稼ぐそのプロの世界で100年かけて磨きぬかれた手法が世にはびこるのは道理があることだ。
しかし、カネが商品でない業界がそれを真似ることに僕は一抹の危惧を覚えざるを得ない。学生だった頃、「レコード芸術」誌の音楽評論を熟読しながら「推薦盤」の裏にコネの癒着はないか疑った。ひねた学生だったのは、受験勉強をしながら問題を作る側の心理を見抜く癖がついていて、評論家にそれを当てはめて文章を読んだからだ。個々の推薦に癒着はなくても、商品としてのレコードを論じる雑誌はレコード業界全体の羽振りが良いことこそ自誌の寄って立つ好適な「ポジション」であり、どれであれレコードは売れて欲しい、つまり “推薦盤” としたいバイアスが雑誌社にはあるはずだ。するとその会社にカネをもらって雇われる評論家にも「 “無印” はあっても “買うな” はない」(どのレコードも基本的に良いものだ)というバイアスがかかり得る。その意味で、癒着とまではいわないが共生しているわけだ。
演奏家のえこひいきぐらいは人間のサガで許せるが、カネ目あてになってよい業界といけない業界は厳然と線引きがある。いや、まともな国家であるならばなくてはならないのである。雑誌は所詮そういう性質のものだから前者で結構だが、芸術は後者である。アートの評価がカネで買えるなら文化は崩壊するからである。ましておや、国の会議、公共の電波を使うテレビ等でポジショントークをたれ流すとなると、その者は公共財を流用して世論を私利のため操作して我田引水を目論んでいるわけだから、それに成功しようがしまいが、その行為だけで国家が厳罰に処すべきなのは当然のことだ。その者をメンバーに指名した者、雇って出演させているテレビ局は、その者の魂胆(悪だくみ、疑似的詐欺)をシェアしていることにおいて同罪の共犯者であり、公共財を使用させる資格要件を本質的に欠く者であるという世論の審判を下さなくてはならない。
法人業務が大きな収入源である証券会社が書くアナリスト・レポートの「売り」推奨比率が圧倒的に少ないのも同じことだ。株式を推奨される法人が顧客でもあるからだ。僕は証券会社に入ってみて、左様なことがあまりに日常的に当然のように堂々と業務としてまかり通っているのにけっこう驚いた。これが社会というものか、世の中とはそういうものなのかと。しかし当時はまだ健全な世の中であったと感慨すら禁じ得ないが、それは社会でも世の中でもなく、株を売買してもらわないと収益があがらない「証券会社というポジション」の中だけのことだった。つまり売買手数料で儲けるというビジネス・ポジションを張っていれば、売りだ買いだと情報が飛び交う環境を作ることで注文が増えて得になり、それが法人業務の基盤にもなる。レコード業界の売上が多くないと売れない音楽評論誌と同じ理屈なのだ。だからそれはポジショントークになり得るが、証券会社は自己の立ち位置を公然と明かして堂々とやっており、社内では適切な用語で「セールストーク」と呼んでいたのである。
初めは抵抗があったがその理屈と業界のなりわいには一理あった。当時の東証一部の日々の出来高は3億株ほどで、それだけの売買量があるから企業は銀行借入れより低コストの資金調達を株式市場からすることができ、日本経済は1980年代に世界を驚かす未曾有の急成長を遂げることができたことは誰も否定できない事実である。もし最大手の野村證券が売買情報提供のサービスを止めれば出来高は5千万株もなかろう、それでは大企業の資金調達は無理だろうなと社内でリアルに体感していたのをはっきりと思い出す。だから大河の中の一滴に過ぎなくとも参加はしなくてはと、自分が良いと思う株を買ってもらうためにセールストークを磨こう、どうしたら投資を知らないお客様に心から理解、納得して買っていただけるだろうと日々研鑽を積んだ。
だから僕はポジショントークをやろうと思えば苦も無くできる。プレゼンというのは何か商品やコンセプトを買ってもらう目的でやるポジショントーク全開の場であって、それは息をするぐらい自然にできるプロとして長年この業界を渡ってきたし、何より海外で食うか食われるかの交渉をする場で野村の利益を守る最強の武器としてもワークした。しかしその技術は自社の利益や自分のボーナスに直結するものの、基本的には資本市場が健全に働く公益のために使用していると少なくとも自負してきたし、しなくても常にそうすべきものなのであって、私利私欲だけの目的で使えば下賤になりかねないという倫理観を伴うべきもの、空手やボクシングの選手が喧嘩に技を使ってはいけないような性質のものだと思っている。
僕が証券会社を辞めるに至ったのは、自分も、どんなに偉そうなことを言おうと所詮はさもしい金融業界の人間のひとりと悟ったからだ。「公益のため」のはずが「会社のため」「自分のため」にだんだんグレードダウンしてしまうのはどうしようもなく、放っておけば自分の中で正当化できてしまい、生きるためなのだとそのノリを超えている自分に気がつかなくなっていると危惧したことが大きい。つまり、「自分が良いと思う株をお客様に買ってもらう」といいながら、理由はともあれ、アドバイスするだけで自分は買わない証券マンという職業は倫理に欠けると思うようになってしまったからだ。だからソナーはアドバイザーと名乗りながらもまず自分が投資家であり、自分が買うものだけをお客様にすすめて同じリスクを取る。それを明かすのが自分が取るべき「ポジション」だと考えて起業した。ちなみにブログを実名、履歴を明かして書くことにしたのも同じ考えからである。
ところが僕の行動とほぼ軌を一にして、真逆の現象が世の中の目につくところにはびこりだした。私利私欲だけのポジショントークを弄する者がそこかしこに跋扈(ばっこ)しだしたのである。1億総証券マン時代かと目を見張るばかりだ。それも、どこで覚えてきたのか、笑ってしまう稚拙なレベルで堂々と国会やテレビのコメントや討論番組でその下衆な魂胆が開陳され、本人は自分が張っているポジションへ巧妙に利益誘導したつもりが恥ずかしい馬脚だけが現れ、醜態をさらして自ら株を下げているというたぐいのものが多いのである。それでいて本人はどうだ賢いだろう、議員や知識人として賢く見えてるだろうと得意がっている風情があって、まさに英語のつもりでシュミレーションを連発してる馬鹿に等しいことを知らない。
断言するが、私利私欲のためだけにポジショントークをやる奴はウソつきであり、例外なく人間のクズである。これは古今東西、まともな人が他人を評価する恒久的鉄則なのである。自分のポジションを相手に悟られると計略がバレるからそれを隠しながらトークをやるわけだが、それがみっともないことだと気づく品性どころか見抜かれてるかもしれないと警戒、自省する知性すらない。こういう者が選挙で圧勝したりテレビでお茶の間の人気者だったりし、わーわーうるさいだけで何言ってるかわからない不思議ちゃんが不思議ちゃんにウケてるこの国の民主主義は大丈夫だろうかと有権者が考えないのも実に不思議である。連中をはびこらせているのは国民なのだ。国民の20%も投票してない政党が万年与党であり、それはおかしい、打破するぞと勇ましく言うのが仕事であり万年ポジショントークである野党はビジネス左翼の利権を守るだけ。異次元の不思議な国だ。
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ゾロ目の8888888(ブログをやめない理由)
2023 MAR 2 1:01:14 am by 東 賢太郎

2022年3月7日に「7,777,777」になった(寝過ごしたが)。
すると2023年2月28日午前9時40分、これがやってきて、もう二度とないぞと今度は逃さず撮影した。数字はすぐ変わってしまうので一瞬だったが。
359日で1,111,111増えたので一日の平均閲覧数は 3,095 だ。去年は5月に父が逝去して喪に服し、ブログ執筆本数は5月はゼロ、6月は1本だったからちょっとした意外感はある。
数字のことを書くのはゾロ目が好きという理由だけではない。小難しいことばかり並べたブログに何のデマンドがあるのだろうと不思議だからだ。その時々の自己都合だけの関心と思考の備忘録にすぎず、有益な情報もないし時流にも世論にも何の関係もないし、なにより僕自身は他人のそうしたものを一切読まない。なぜ東京文化会館大ホール+紀尾井ホールが毎日満員になる訪問数になるかという点は理解が及ばない。
こういうことを仕事をしながらするのは習性で、長らく勉強+野球・音楽という学生時代を送ってもきた。だからどれも一流にならないが、トータルな調和が心地良いのでそのどれもが僕なりのベストコンディションになる。つまり勉強だけしても僕は成績が上がらないし、ブログを書いていると仕事にも良い波長が出るし、仕事が良い時はブログもたくさん書ける。そうした複眼性がホメオスタシス(恒常性)になってるのでどれかを止めると他も劣化するかもしれず、なかなかやめられないのだ。つまり仕事円滑のためのサイドディッシュを皆様に読んでいただいていることになる。来年にPV1000万回にはなるだろうから個人ブログの数字的にはもう十分だがそういうものをめざす気はなく、仕事を辞めたらブログも書かなくなるだろう。
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