シンクロした4つの天文現象の啓示
2025 NOV 26 12:12:09 pm by 東 賢太郎
11月5日は今年最大のスーパームーンだった。この日にディナーをした方からマーラー9番のCDを頂き、演奏についてコメントをさせて頂くお約束をした。ところが立冬にあたる7日の夜にフクが旅立ってしまい、時間をいただくご連絡をした。お葬式は 9日の午後2時半から我が家の玄関前の敷地で執り行われ、僕は正装し、家族と共に見送った。朝方よりの小雨模様である。小さなお棺に供物を添え、綺麗なお花でいっぱいに飾ってあげ、いよいよお別れですの発声となった。空を見上げる。一同が声をあげた。まるで天国への道のように、モーゼの海割りのように、真上の雲だけにぽっかりと青空がのぞいて皆の心を激しく揺さぶった。夕刻になり、娘から生前の動画が次々と送られて来る。もうだめだ。いてもたってもいられなくなり、夜8時過ぎにひとり家を出て自由が丘をほっつき歩き、意味もなく本を買い、旨くもないラーメンで腹を満たし、11時半に帰宅した。翌日10日に喪中のためブログを封印した。

あの青空の向こうには、10月末から太陽系の真ん中に接近して気になっていた謎の恒星間天体「3I アトラス」があるはずだ。太陽の近日点(地球と反対側)を離れて観測可能となり、11月5日、スペインのR. Naves天文台が撮影した写真(上)ではぼんやりとした球体のみである。これまであった尾が消滅している。妖術使いのように不可解な七変化を演じるこいつが何者か謎は深まるばかりだが、NASAが普通の彗星であると公式発表して謎に拍車をかけているのも不可解でしかない。
10日の23時ごろ、ランニングに出て、月と木星とふたご座ポルックスのランデブーに気がついた。手ぶれしたへたくそな写真だが上がポルックス、右上が木星だ。3I アトラスはこの木星に向かって飛行中だ。
本当にかわいくていいやつだった。僕と気心が知れていた。筋骨たくましいオスで体重は7.5キロになった。寝食を共にした5年間、なんだかんだでおおいにふれ合ったものだが、 一度として噛まれたりひっかかれたりしたことがない。飼った人ならわかるがこんな猫は初めてだ。時に腹を見せるくせに服従なわけでもない。独立自尊の姿勢を崩すことは微塵もなく、頑とした矜持を持った風で、若い雄猫なりの風格を漂わせていたものだ。いつも思わされた。それに比べ俺はどうだ、70の爺いだ、頑とぐらいはして見えようがただの頑固な堅物かもしれん。気が短いエゴイズムの塊じゃあないのかなどという自省の念が鏡像のようにたちのぼってくるのだ。どんな猫も、僕にはひとつやふたつの畏敬の対象というものがあるが、フクは別格だ。
彼は我が家の9番目の猫だが、元から飼い猫だったものはいない。つまり5、6歳の頃から就職するまで僕は数々の野良猫といっしょに育ったわけである。それが人間形成に影響していないはずがなかろう。親が情操教育と考えたのかどうかは知らないが、母親自身が猫好きであり、もとより血筋で僕も妹もそうであり、なしくずし的に猫嫌いの父親が説き伏せられてしまったものとも思われる。だからフクが秘めていた野生はどうということもなかったが、彼は慣れてきて次第に家猫っぽくなり、リビングルームの住人に格上げとなる。そこからだ、付き合いが深まったのは。
僕の仕事は日々のルーティーンの積み上げという性格のものではなく、今日明日にも何が起きるか分からないハンティングの性質を色濃く帯びたものである。遅く帰ってきてリビングルームで夜食をとると、傍らにやってきて写真のようにじいっと目を見つめる。猫ほど目線を合わせる事を嫌う動物もなかろう。ケンカを売ってることになるからだ。だからというわけではないが、無視して食べ続け、もうあきらめたかとそうっと目をやると、まんじりともせず同じ姿勢のままどんぐりまなこで見つめているのである。ルール違反の猫だがこれにどれだけ癒されたか。フク悪かったなこれ食えよと分け与えると、飛びついてムシャブリつく。そこで畜生に戻るのだ。脳裏に戦友という文字が浮かんでくる。アメリカの学校にいたころ、夜中まであぶら汗をかきながら喧々諤々の議論を続け、腹ペコで課題を一緒に仕上げた奴らが、終わってやおらビール片手に「俺たちは Comrade(カムレイド)だ!」と叫んだ。それが戦友だ。
フクと過ごした5年間は世の中も大変だった。皆様ご記憶のように2020年の2月ごろにコロナ騒動が横浜のダイヤモンドプリンセス号で勃発し、3月ぐらいだったろうか、大の注射嫌いである僕もワクチン摂取を保健所に申し込む羽目になった。家族も含め、すぐにでも打たないと危ない空気が国中に満ち溢れていた。予約日は6月17日という。なんだよ世田谷区は、高齢者がなんでそんなに遅いのかねと文句を垂れていたのを覚えている。ところがそれがよかった。アメリカのパートナーから予想外の電話が入ったのだ。「お前も家族も絶対打つなよ」と、トランプが飲んだ薬をひと箱送ってくれ、予約をキャンセルさせらるとやがて6月17日が過ぎた。患者は増えるばかりだ。報道も過熱してきて、本当にその判断が正しかったのか心配もあった。
フクが我が家にやってきたのは、ちょうどそのころ、7月29日だ。日記を見ると「黒猫来る」とだけある。ここからフクの不思議が始まる。野良を捕まえて持ってきたのだから初めのうちはケージに近寄ると盛大にシャーシャーである。ちょっと危なげな猫にも思え、とりあえずピアノやオーディオのある地下室にケージごと置かれた。
すると、彼がテレパシーでも送ったのか、二週間後の8月14日、自分の全ブログの中でも重要と考える一本に僕は着手する。ちなみに、その事実に気がついたのはついさっきだ。なんとこれはその時に書いたものだったのかという大いなる意外性をいま感じざるを得ない。
サッチャー英国首相。なぜここまで気合を入れて彼女のことを書きたい衝動がむくむくと湧き立ってきたのだろう?強きリーダー日本にあれと願望を込めた一本であったわけだが、どうしてサッチャーの名前が僕の脳裏に浮かんだのだろう?前後の日記をひっくり返しても全く分からない。自分でも謎なのだ。
日記によるとその翌週、8月23日にバケツをひっくり返したような大雨が降った。余談だがこの日付は忌まわしい。若いころ、日付を覚えているほどの大失敗をした日なのだ。豪雨が停電をひきおこし、排水ポンプが止まったため地下室に浸水して水と格闘になった。フクはケージのまま8月29日に2階のリビングに避難し、行いが良かったのだろう、9月11日にケージから解き放たれている。この日付は世界の誰もが覚えている。
それが予言であったかのようなことがいま日本で起きている。日本のサッチャーになりたいという女性、高市早苗氏の出現だ。ブログ執筆時点で僕は彼女がサッチャーを尊敬し目標としているとは知らなかったし、そもそも彼女に注目していたわけでもなんでもなかった。その人が2025年10月21日に総理大臣に就任すると、それを見届けたかのように、二週間後にフクは世を去った。
9番目の猫。おりしもだったマーラーの9番。本稿を天文の記述ではじめたのは、スーパームーン、3I アトラス、ランデブー、天頂の雲、という、それぞれがそれなりに確率の高くない現象があまりに見事にシンクロしてやってきて、そのど真ん中をフクが急ぎ足で駆け抜けていってしまったからだ。それをどう見るかは十人十色だ。僕はとくに宗教的な人間ではないが、確率の低い事象がおきた場合はそこに何らかの意味があると考えるタイプの人間ではある。フクはきっと僕になんらかの「啓示」を与えるべくやってきた、神さまの使いであったろうと信じている。
「3I アトラス」に懐いてしまう親近感の正体
2025 NOV 5 0:00:21 am by 東 賢太郎
謎の飛行物体「3I アトラス」が話題だ。NASAがこれにつき沈黙を守っていることが世界で一抹の不安を煽っているかもしれない。日本ではこの手の話は真面目にとりあわない人が多いが、名作SF映画「コンタクト」を作ったアメリカではハーバード大学の宇宙物理学の教授が地球外生命体による工作物であるという説を公表している。
動物は群れを成すものが多い。それが身の安全だし、食餌の獲得や種の保存に有利なこともある。「一匹狼」という語は捕食者の狼さえ多くは群れることを示し、ましてルールとして社会性を求める人間が群れずに生きるコストは高く、長いものには巻かれよの日本では非常に高い。だから日本では「3I アトラス」はもの好きな人以外にはオカルト、都市伝説として片づけられるだろう。
1+1が5だという人が現われても、やさしい日本社会は認容しそうだ。しかし科学にやさしさはない。5はちがうが2.01はまあいいかという人も認められない。なぜなら宇宙はそうできていない。「3I アトラス」の観測データにひとつでも物理学が説明できないものがあるなら、我々の知らない物理学を駆使する我々でない誰かが工作したものだという可能性を排除することはあり得ないのである。
僕はこのビデオにあるWOW(びっくり)シグナルという電波の正体の推論に関心があり、物理学者とは違ったアングルでびっくりしている。
今年の3月から「WOWプロジェクト」と名づけた案件に全力で取り組んでいることがそれだ。それと「3I アトラス」がつながった。だから何だ程度のことだが、僕には天が送ってきたシークレット・コードのように思われてならない。
実際に受信されたシグナル音をお聴きいただきたい。今もって正体は不明だが、宇宙から来たものであることだけは間違いないようだ。
SETI(地球外知的生命体探査)プロジェクトのジェリー・エーマン博士がこれにWOW ! と書きこんだのは1977年8月15日午後10時16分(現地時間)に受信した電波が異例に強力だったからだ。 受信場所はオハイオ州立大学のビッグイヤー電波望遠鏡である。ちなみに僕にはAis、E、Gis(和音でE aug)がきこえる。それがスクリャービンの神秘和音の下3つであるのもWOW!だ。
地球儀を眺めてみよう。もし我々が宇宙空間から72秒間のシグナルを照射して地球人に確実に受信させるならどこを狙うか?NASAのある
アメリカだろう。では60天文単位(太陽-地球間の距離=1)の遠方にいた「3I アトラス」が発信者だったと仮定するとどうだろう?自分側の半球にアメリカがあるのは24時間で確率1/2だ。200万年前にアトラスを発射しアメリカの技術力まで知っていた知性はそんな賭けはしない。自転を計算しピンポイントで狙ったはずだ。つまり、もし “彼等” が敵とするならNASAはいまごろ震えあがっている。来日したトランプ大統領が唐突に「1992年を最後に実施していない爆発を伴う核実験の再開」を国防総省に指示したと表明した。これまた世界はWOW!だが、NASAは火星に接近した探査機から3I アトラスの鮮明な写真を撮影している。それが理由なら日本人だって震えあがるしかない。
地球儀で推察されるがWOWシグナルは日本には来なかったと思われる。アメリカに照射された1977年8月15日、僕は人生初のサンフランシスコで、西海岸時間午後7時16分に、友人ふたりと(たぶん)チャイナタウンで中華めしを食べながらそれを浴びた。レンタカーで西海岸を約5,700キロ周遊し、3度も死にかけた滅茶苦茶な米国旅行のちょうど折り返し地点の日だった。当日の日記だ。
そして4日後の19日に死を覚悟した「野犬事件」が起きる。
セラピストYさんとの宇宙人談義からこれを何気なくブログに書いていたが、その時点で3I アトラスは存在も知らない(東さんはきっと宇宙人なんで大丈夫)。
全部たまたまだ。でも天の啓示は偶然を装ってやってくると僕は信じている。自分史で最大のイベントのひとつであるこの大旅行は、野球なら我がメジャーデビューである。アメリカすげえ!これが契機で箱庭を飛び出したい衝動にかられ、望みが天に伝わって16年海外を満喫した。プロフェッショナル人生は大満足。そして、偶然WOWというプロジェクトを手掛けていたら、48年前にWOWシグナルを浴びせた謎の飛行物体がやってきた。ベートーベンのピアノ・ソナタ28番、ブラームスのクラリネット五重奏、フランクの交響曲ニ短調、ヤナーチェクのシンフォニエッタ。本人しかわからないこのWOW!を文章にする自信はない。こいつは天が仕掛けた符牒だろうか。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
『アガスティアの葉』が予言したこと
2025 AUG 2 23:23:14 pm by 東 賢太郎
娘から夜中の12時に電話があった。なにごとかと思ったら、なんのことない、「部屋にでかいゴキブリが出たの」というSOSであり、タクシーで逃げ帰ってきた。あっとひらめいた。これ、「虫の知らせは実は深い意味がある」というシンクロニシティ現象じゃないかと。なぜかというと、その前日、気持ち悪くて忌まわしいゴキブリの話をコメント欄に思いっきり書いていたからだ。総理の「ナメられてたまるか」は国難でない | Sonar Members Club No.1
このところ、スピリチュアル、精神世界に惹かれるようになっている。たとえば運、ツキというやつだ。先日のこと、大企業のインテリ君に「ビジネスの8割は運だった」と言って「ご謙遜を」とはぐらかされた。「どんな釣り名人だって魚
がいなきゃね、だから魚群探知機がある。じゃあお客さん探知機ってあるかい?運だのみだろ」。ここまで詰め寄っても認めない。「探知は事業戦略でします」「それで利益確定?」「不確実性はあります」「それをゼロにできる?」「いえ、その努力をいくらしても残るリスクを不確実性というんです」。秀才だ、ああ言えばこう言うな。ここからは言わなかった。大企業ってね、巨大なトロール船なんだ。機械が水揚げする魚を甲板でさばくのが仕事と思って育つとこうなる。だから船ごと不確実性の暗礁に乗り上げると解決策を知らない。彼らは誰ひとり釣りはできないからだ。
以下、理屈っぽい彼に理屈をこねて教えたことだ。僕は「運」というものに有機的な実体を感じる。「不確実性」は無機質である。中身がないから数学の変数には向いてるが、「運」は実体が邪魔してなじまない。ビジネスでも賭けでもリスクとリターン、つまり不確実性と収益性は常に均衡し
ている。不均衡は「裁定」によって消える。裁定というものは損することはないから裁定(arbitrage、鞘取り)という。だから、株式取引で100万分の1秒単位でそれをして利益を “確実に” あげるアルゴリズム運用は市場を席巻するはずだ。ところが、現実はそうなってない。参加者が増えると「不均衡」という魚は減る。トロール船を持つ経費(システム構築、運営コスト)をまかなうには魚群が必要だが、魚は群れるとは限らない。売買(流動性)の少ない銘柄の不均衡は割に合わない。だから無限には増えないのだ。
AIが自己フィードバックで改善を繰り返し、人間の知能を超える瞬間、いわゆるシンギュラリティ(Singularity)はそう遠くない未来にくる。2045年といってたのが2028年説まで出てきた。それが人間の生活はおろか生存にまで関わる変化をもたらす。僕もそう思う。しかし、それは人間の理解や予測を超えた技術的な変革が起こる状態が到来するよというだけで、それが起きる分野と起きない分野の色分けが進むという意味以上に意味があるかどうかはまだわからない。一日に何千銘柄もの異なる証券が数兆円規模で電子的に取引・執行される現代の証券取引所。人類が手にした最も巨大で効率的なこの市場にアルゴリズム取引が参入して20年以上になる。それは証券会社のトレーディング部門に変革をもたらしたが、人間の頭と手で売買・運用する手法は消えていない。黒船がやってきても釣り人は消えない。世界最大の釣り人であるウォーレン・バフェット氏はCEOを辞めたが、変わらず運用収益をあげてきたことはシンギュラリティを論じるケーススタディとして意味深い。
この説明はさらに大きなことを示唆している。合理的に聞こえるが事実はそうでないという事実の存在だ。人間という非論理的な存在が関与する分野で数学は完
全なツールではなく、これはすべての経済学の永遠の壁である。裁定に不確実性はないが、裁定の利かない所には不確実性もチャンスもある。人間の介入でそのバランスが崩れると不確実性に比べ多めの収益が得られるという非合理なことがおきるのである。人間はその利益がなぜ得られたかをその刹那は知覚も解明もできないことが多く、事後的な説明の方便として「運がありました」と語るのである。その人がスピリチュアルにかぶれているわけではない。すなわち、「運」はそうした形でしか定義ができないものだが、確かに存在するものであり、それが「有機的な実体」の正体なのだ。
「運」は動的な存在でもある。いわば「放置されたタナぼた」だから見逃せばすぐ他人に食われ、ゲットするにはそれなりの速度と反射神経を要する。野球のインタビューで打者が「たまたまです」「いい所に飛んでくれました」などという。要は「運がありました」と言ってる。0.5秒で捕手のミットにおさまる速球を打者は最初の0.2秒で判断して振らなくてはいけない。ということは残りの0.3秒(6割)はバクチで振っていることになる。左の写真、イチローの目線はボールにないのをおわかりだろう。その顛末をふりかえれば、「運がありました」は正直な感想であり、経験者はこのことを体感として理解されるのではないか。
証券市場というバトルフィールドで育った僕はいまでもアタマだけは現役アスリートである。打者の空白の0.3秒なんてことはディールのプロセスのそこかしこにある。野球よりもっとある。だから本気で「ビジネスの8割は運だ」と言っているのである。去年はさっぱりだったが今年は何もしてないのに大漁だ。ということ
は「ほぼ10割が運である」というのがまぎれもない現在の体感であり、野球ならどんな投手の速球でも打ててしまうかのような気までしている。すると余裕が出るから失敗が減る。好不調の波は肉体だけでなく、こうした精神面からの作用もあるかもしれないが、ビジネスマンもアスリートもなぜ8割が10割に増えたのかまったくもってわからない。麻雀でも、何をしてもあがれない時もあればやけにペイパイが良くて何をしてもあがってしまう時がある。これを「流れ」と呼んだりする。流れが連続する確率は低いのだが、0.1%の確率であっても発生してしまえばそれはそれ。大企業の秀才クンも「もってますね」なんて形で運を認めることになる。空白の0.3秒をうまくマネージした人が、日米通算4367本の安打を打ったイチローだ。0.2秒の部分は誰もが目視できるから練習できる。メジャーで野球殿堂入りを果たしたのは、練習より才能かもしれない0.3秒のバクチ部分で彼よりうまくできる人は人類にいなかったという意味だ。我々は確率論だけで宝くじが当ったり株式投資で大儲けできるわけではないことを知っている。運は人によってあったりなかったりすることも知っている。ではその裏で増えたり減ったりしているものの正体は何だろう?これに答えた人はいない。ただ、ひとつだけ、誰もが経験的、直感的に知っていることがある。それが「波」であることだ。
まずはじめに述べたい非常に興味深いことがある。「波」(wave)というのは振動だが、「何が」という主語を物理学が問わないことだ。気体、液体、固体のどれであれ、それが振動して起こす波を「音波」(Acoustic waves)と定義するからであり、水の波まで「音」という概念を使うのには僕は違和感を覚える。ヴァイオリンの弦は張力と質量によって固有の振動(周波数)をもっており、ピタ
ゴラスは振動する弦の長さと音の関係を調べ、音が協和するときには弦の長さが整数倍になることを発見した。”音響共鳴” と呼ぶ美しい数学的調和である。音波がエネルギーを運ぶことも注目だ。ガラスには自然共鳴があるため音波によってワイングラスを割ることができ、ローマ歌劇場でゲーナ・ディミトローヴァ(ソプラノ歌手)を間近で聞いたら鼓膜にビリビリ来て身体の危機感すら覚えた。音楽による感銘には数学の美とエネルギー伝播という物理現象も関わっている。波(波動)が人間に与えるインパクトは計り知れない。
文学を見てみよう。鴨長明は方丈記を「ゆく川の流れは絶えずして」と始め、「しかももとの水にあらず」と、同じ川に見えるが同じものではないと看破している。さらに、「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の
中にある人とすみかと、またかくの如し」と人生、歴史の波を感慨をもって俯瞰している。前者は分子論、後者は量子論に通じており、800年前にこれだけの考察をしてのけた洞察力には驚く。同時期に書かれた平家物語の「諸行無常」も、平氏が滅び源氏が勃興した盛衰の「波」だ。筆者(不詳)も鴨長明と同様にそれに感慨を覚え、多くの人をワイングラスのように自然共鳴させ現代にいたるまで伝承されてきたのだろう。揺れ動く実体(substance)が水であれ人であれヴァイオリンの弦であれ、物理的なものであれ非物理的なものであれ、「波」というものはいたる所に発生し、それが人を共鳴させて揺れ動かし、悲喜こもごもの感情を喚起し、文学や芸術を生み、人間という非論理的な存在をますます非論理的にしてきた軌跡をうかがえば、物理学の「音波」の定義は中々奥深いねと首肯すべきものかもしれない。
方丈記が書かれたのは1212年。平家物語は仁治元年(1240年)に藤原定家によって書写される以前の成立とされ、ほぼ同時期の作品だ。冒頭に書いたシンクロニシティ(意味のある偶然)は僕がゴキブリのブログを書いたら娘の部屋に出たみたいに、「複数の出来事が意味的関連をもって非因果的に同時に起きること」だ。「人間の意識は深い部分でつながっており、交流して
いる。この全人類がつながっている意識を『集合的無意識』(collective unconscious)といい、我々はそこからさまざまな影響を受けている」としたのは心理学者のカール・ユングだ。それは人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域で、二人が同時にそこにアクセスするとシンクロニシティがおきるといわれる。意識は脳波だが(意識障害は脳波で観測される)電磁波ではないからアクセスの媒体はわからないが人々は何らかの波、もしくは量子的な波で共振しており、意味のある偶然がおきる。脳は宇宙にある膨大な量の情報エネルギーの “受信器” だという説があり、そのフィールドにあるメモリーがアカシックレコードだという説もあることは後述する。占星術を傍証として取り上げたユングの『集合的無意識』の存在には僕自身が共振するものを感じる。当時は知らなかったが、チューリヒで住んでいた家がユングの診療所のすぐ近くだった偶然もシンクロニシティだったのかもしれない。
目の前にいてもいなくても、人と人との間では音響共鳴がおきている。例えば、いまブログを読んでくださっている皆様は何らかの関心を持って下さっており、僕とは快く感じ合う整数倍の波長をお持ちなのかもしれない。著者と読者の引き合いは昔から本や雑誌であったが、双方向メディアであるネットの普及がそ
れを変え、その劇的な効果は昨今の都知事選、参院選で誰も無視できなくなった。ちなみに僕にとってブログの発信というものは皆様にほめてもらおうとかお金を払ってもらおうとかいうものとは無縁で、未知の異星文明に向けてメッセージを送り、地球外生命体(E.T.)に地球文明を発見してもらおうという名作SF映画「コンタクト」のアクティブSETI計画のようなものだ。皆様を宇宙人扱い?する無礼をお詫び申し上げなくてはいけないが、実はそれがそう失礼でもないことは後述する。つまりこれは実験であり、双方向メディアだからできる。発見した最大の事実は、僕は現世的な快楽、利益より実験が好きだということだ。バロメーターはPVの数値(受信数)だ。面白いことに、「これを書こう」という衝動(こめる波動の振幅)が大きいとPVはより増える傾向があることがわかった。それはコンテンツや文章の是非という曖昧なものでなく、発信側の喜怒哀楽のパルスの強弱というそこそこ数値化できるものだ。点数が高い方が多く読まれるのだ。本や雑誌ではできないリアルタイムの検証ツールが与えられたわけだ。
パルスとは聞きなれない言葉だが、ここでは日本語で「気合い」というものだ。「気」が「合う」であり、それを入れたり入れなかったりできる。グラウンドでこの言葉でどれだけ先輩に罵倒、叱咤されたことか。「気」は、少なくとも野球場では「敵を圧する強靭な意思と集中力」だ。先輩が入れろ!と怒鳴ってるそれは呼吸だ。それを止める。どんな競技でも力を籠めるインパクトの瞬間に息を止めない人はいない。では「息」とは何か?呼吸のパルス(波動)のことだ。大勢が一斉に動く時に「せーの」と息を合わせるあれはパルスを合致させて力を最大化させる号令である。それを一人でする時に、息を止めて肉体と気(精神)を合一させる。すると最大のパワーが得られるのだ。しかしブログは静的なもので、スクリーンから僕の息、パルスが伝わっているわけではない。気合いを入れて書いたものとそうでないものとに数値化できる差異はない。では何がPVの数値(受信数)を増減させているのだろう?
ここでやっと「スピリチュアル」(精神世界、spiritual)という言葉にたどり着く。大きな飛躍に思われるかもしれないがそうではない。むしろ、ここに仏教もキリスト教もない、より広大で包括的な理論とすら思える思考領域が見えるのである。spiritual とは material (物質的)の反対語で、形のないもの、霊、魂、
精神に関わるものという意味だが、語源はラテン語の spirit だ。これが、いみじくも、「息」の意味なのである。その派生語に inspire があり、「触発する」という意味だ。in + spireだから「息を吹き込む」ことで、似てはいるが影響する(influence)でも鼓舞する(encourage)でもない。喩えるなら、 inspire は演説で群衆を奮い立たせたり、指揮者がオーケストラを燃えあがらせたりすることがまさにそれであって、影響、鼓舞にはないスピリチュアルなエネルギー注入というニュアンスが大いにある。僕が目撃した指揮者のうちで最も inspiring だったのはカルロス・クライバーだ。ベルリン・フィルのみならず我々聴衆まで彼の魔法にかかり、もう二度とないと確信する体験をさせてもらった。そこで鳴ったのはブラームスの第四交響曲だ。何百回も聴いているそれの音響だけであんなことは断じて起こらない。しかし物理的に加わっていたものは何もない。
オカルトっぽく思われる人がおられても無理はない。しかし0.1%の確率であっても発生してしまえば問答無用なのだ。この議論がオカルトでないことを僕は materialism(物質主義)の観点から述べなくては証明にはならないだろう。それが、以前にも書いたシミュレーション仮説というものだ。イーロンマスク氏やホーキング博士も信奉する、我々の宇宙は超高性能なコンピューターによってシミュレートされたものであるという仮説だ。さらに、僕はこの理論は物質世界(物理学が説明できる世界)と精神世界(それができない世界)をアカシックレコードの存在という仮説を通じて包括できるかもしれない大理論であると理解している。それについては、このサイトが分かりやすい。
https://pekospace.com/akashic-records/
僕は毎日、ブログを読んでくださる3千人ぐらいの皆様からエネルギーをいただいている。なぜなら皆様はおそらく、僕と波長が整数比に生まれた方々であり、物理現象としてワイングラスのように “自然共鳴” して下さっている。それが今度は僕を自然共鳴させるという形で皆様と衝動(impulse)のキャッチボールをしている。意識も体感もないが、既述のように我々の脳は “受信器” であって、アカシックレコードを介して交信している。信じようと信じまいと我々人類はそのように創造されており、信じはしないが感知はしたり結果的にそう行動してしまっている一部の方々は、ある意味で不承不承に仕方なく(時には哄笑を浮かべながら)、そういうものを「スピリチュアル」と呼ぶことだろう。お互いの脳内での交
信だから、間にスクリーンが介在しようとしまいと波動を感じ、そのシンクロニシティ現象(意味ある偶然の一致)を愛でている。わかりにくいと思うので例を挙げると、僕の音楽関連のブログは、自分の読みたい音楽評論が世の中に存在しないので自分で書いておこうという衝動によって書かれている。いま読み返すと、中味はわかっているのにあたかもシンクロニシティを得たかのような快い感覚に浸れるのである。これは自己愛でなく物理現象である。それが何を示しているかというと、自分が発信したものを時を経て読んで感じるもの(feeling)は、他人が書いたものを読んで感じるもの(feeling)とかわらないということだ。逆に、いま僕が同じテーマで書かされたら同じブログにはならないということもある。なぜなら時を経て、構成する細胞からなにから別な人間になっているからだ。つまり、本稿を明日に読み返して僕が感じるものは、皆様がいま感じているものとかわらない。すなわち、誰もが外界に発信したものはその瞬間から他者化、客体化し、宇宙のデータベースに取りこまれ、合体していると表現しても矛盾はなかろう。
とすると、今この瞬間も、刻一刻、地球上で発信されるすべての情報は宇宙データベースに堆積しつつあるはずだが、そんな巨大なメモリーを持つデータセンターが一体どこにあり、その作業をする無尽蔵に膨大なエネ
ルギーはどこから来ているのかというとてつもない疑問が生じてくるのである。もしそれが存在するなら、それは高度な文明による “造作物” であって元素や星といった自然物ではなく、それが昨日今日にできたとは考え難い。つまり、創造主は人類の知性をはるかに上回る知性の持主であり、その知性は我々よりはるか以前から存在し、進化していたと考えるしかなくなってくる。このことを考察する場合に引き合いに出される著名なものさしとして「宇宙文明の発展レベルを示す指標」(カルダシェフ・スケール、Kardashev Scale)がある。いかなる文明の存続・進化にもエネルギーが必要であり、その利用範囲によって文明を段階的に分類しており、拡張案や修正案などを含めると、一般的には以下のように定義されている。
タイプ1文明:自分の惑星で利用可能なエネルギーを使用できる
タイプ2文明:自分の恒星や惑星系で利用可能なエネルギーを使用できる
タイプ3文明:自分が所属している銀河系で利用可能なエネルギーを使用できる
タイプ4文明:複数の銀河系で利用可能なエネルギーを使用できる
我々人類の文明は、狩猟採集社会を含むタイプ0から進化して、およそタイプ0.75とされており、現在の科学技術が順調に発展し続ければ、数百年後にはようやくタイプ1に到達すると見込まれている。タイプ4文明から見ればタイプ0.75か1かはミミズとゴカイの違いほどにすぎないだろう。宇宙データベースは銀河系をまたがるエネルギー源を必要とするからタイプ4文明の概念・産物でなくてはならず、最大の時間軸を想定するなら宇宙データセンターは137億年前に工作され宇宙が誕生してからの全メモリーを蓄積していることになる。
話の足元を現実に戻そう。先日にあるIT企業を訪問したが、同社は集中型データセンターにおいてAIデバイスがムーアの法則が想定しない計算量を処理して発生する高熱に対処できないことに対するソリューションのプレゼンをしてくれた。熱処理(冷却)は複数のスーパーコンピューターを直列に配列するビットコインなど暗号資産のブロックチェーンにおけるハッシュ計算でかねてより問題になっていたが、自己学習型人工知能デバイスをマルチに接続すると計算量は自動的かつ制御不能的かつ等比級数的に増大することでその問題は地球規模の、すなわち最先端にいるGAFAMでさえ莫大な新規投資を必要とする課題となっていることが理解できた。
いま僕はその解決策やファイナンスの問題を論じているのではない。述べたいのは宇宙データベース、および、具体的なデータを蓄積するスペースとしての宇宙データセンターの存在可能性だ。そして、それが存在するという説を支持する仮説は、まさに前述した説の「最大の時間軸ケース」であって、メモリーの堆積物はアカシックレコード(物理的な形を持たない情報の集合体)であり、堆積の結果できたのではなく、実は137億年前の宇宙の創成期からディファクトとしてすでに存在していたというものだ。さらに想像をたくましくして、それは宇宙を創造した何者かが使用したコンピューターのディファクトとして装着されていた機能にすぎないと僕は解釈している(なぜ光速が秒速30万キロメートルかというアインシュタインも解けなかった問いの答えもそれだ)。
先述したように宇宙空間には膨大な量の情報エネルギーが存在し、それがアカシックレコードの正体である可能性が浮かび上がっており、その存在は、異次元や宇宙エネルギーの中に位置すると同時に、人間の潜在意識(スピリチュアル世界)にも存在する可能性があるという説がそれだ。それを造ったのが人類でないのは明らかゆえ、アカシックレコードの存在を信じるということは必然的にタイプ2以上の文明の存在を信じることであり、それが地球にはないことは事実であるから必然的に地球外生命体(Extraterrestrial life、E.T.)の存在を認めることになる。人類(ホモ・サピエンス)の発祥は最古でも40万年とされる。宇宙が生まれた137億年前を1年前とすると、人類が現われたのはわずか15分前だ。E.T.(宇宙人)の存在を否定するなら、広大な宇宙で人類誕生というイベントがなぜ364日と23時間45分のあいだ起きなかったのかという問いに答える必要がある。それはフランツ・カフカの「変身」を喩えとして借りるなら、ある日の朝に目覚めたらひとりぽつんと火星にいたと想像するほど奇妙なことだ。
この議論は、「あらゆる物質は原子や分子が固有の情報を持っていてそれがアカシックレコードを成す」と考えると氷解する。原子や分子はビッグバン直後から宇宙空間にあまねく存在している。よって、人類は猿からダーウィンの進化論的に進化したのではなく、137億年前から誕生がプログラムされており、それが何らかの理由で40万年前だったのだ。人類は宇宙とアカシックレコードを造った知性(E.T.)が類人猿におこなった遺伝子操作実験による創造物であり、すなわち我々自身もDNAの一部が “宇宙人” なの
であり、天から宇宙船に乗って降りてきたE.T.を人間は神と称え、それにまつわる物語を宗教として信仰している。まだ知性も理解力も描写力も未開であった人たちが、4つの車輪をもち火を吹く宇宙船で地に降り立ったE.T.を神と信じ、紀元前3500年前後のこの事実を文字に落し、それが旧約聖書のエゼキエル伝となった。神学と科学が分離してゆくルネサンス後のヨーロッパにおいて近代精神が支配的になっても、これら聖書の記述は敬虔な信仰の対象であり続けてきたことは変わりない。科学的思考と併存する威厳ある領域としてギリシャ神話(mythology)があるが、我が国の天孫降臨も含め空から生身の人がおりてくることは0.1%の確率ですら科学的な蓋然性を証明できない。シミュレーション仮説やアカシックレコードをオカルトと論じる人が旧約聖書をどう論じるかは興味深い。このことは先述した「運が80%」に対する大企業のインテリのリアクションの相似形であることを付記するにとどめよう。
ここから先は僕の空想であり、本稿のエピローグである。我々が人類なるものであり、ここにいることは、デカルトほどの知性が「我思う、ゆえに我あり」と記すしかなかった不可思議である。彼はいわば、ある日の朝に目覚めたらひとり火星にいた景色を想像できるアカシックレコードとの交信者であったともいえる。我々が日々眺めているこの世というものはすべてE.T.がプログラムを作成したVR(バーチャル・リアリティ、仮想現実)である。我々はスーパー・マリオのキャラクターのごとくVRス
クリーン上の登場人物であり、我々の脳はVRを現実であると認識するよう五感をプログラムされている。E.T.はマウス操作でスクリーン内に自由に関与でき、キャラクターに接触でき、バベルの塔を建造して壊したり、ノアの洪水をおこして殺戮したり、何トンもある石材を積み上げてピラミッドを造ったりの作業がマウスのドラッグとクリックで苦も無く行われた。ギザの大ピラミッドにおいて、底面の周長を高さの2倍で割ると円周率になり、底面積に対する側面積の比は黄金比であり、底面の1辺を 480 倍すると地球の1緯度の長さになるようにしたのは、人類が建築法、幾何学によっていつ発見できるか観察するためである。我々は水槽の熱帯魚のようにE.T.に観察され、保護されている。
アカシックレコードではないが、五千年前に書かれた文字と現実の自分が合っている(合一である)ことを教えてくれる不可思議な世界がある。インド仏教による『アガスティアの葉』(Nādi Astrology)だ。個人に関する予言が書かれているとされるヤシの葉の貝葉の写本の一種で、現代に生きる我々を含むすべての人間の誕生から死までが古代タミール語で書かれており、僧侶がそれを探し出して読んでくれる。本稿を書くに至ったのはその体験からだ。
『アガスティアの葉』がオカルトでないと言い切る自信はないが、今回の体験を経て、アカシックレコードはシミュレーション世界の全データベース(宇宙図書館)に相当し、アガスティアの葉はその個人パート(すべての人間の伝記)が書かれたものだろうという理解に僕は落ち着いた。
右手親指の指紋を送り、朝7時に南インドの仏教のお坊さんと通訳とZOOMで対面した。まず生年月日、時刻、血のつながった家族に関わるYes、Noの質問が延々とあり、両親の名前を言いあてられ、1時間ほど候補である葉っぱの束を探し、さらなる質問で絞り込んでいく。見つかった。1時間ほどかけて我が伝記が読まれた。持っている因果につき占星術的な背景があるが知識不足で理解できなかった。仏教は輪廻を説くから肉体でなく魂の過去なのだろうか僕はパキスタンの権力者の娘だった前世があるらしく、現世では人々に無償の施しを行い、人々の病気を防ぎ、人々の資産を増やし、大自然のなかにユートピアを作る使命を持って生まれてきているらしい(やけに重たい)。半信半疑であったが、性格、長所、短所、人生の転機の時期はほぼ完璧に当たっている(あてずっぽうでここまで当たるとは思えない)。次に人生の流れ、運気、病気とその年齢。これはわからない。ただ、決定的なのは、自分しか絶対知らない事実が出てきたことだ(それが五千年前に書いてあるなら僕はまさしくスマホ画面で踊っているゲームのキャラクターにすぎない)。「80億人分の葉っぱがあるんですか」と質問した。「探しても見つからない人がいます。東さんは開きに来ることも書いてあります」だった。
最後にご縁の話だ。アガスティアの葉については神山先生の診療室で鍼灸師の方から聞いたことがあり、おざなりに知ってはいたが、やってみようとなったのはいま始めようとしているビジネスのご縁が発端である。そうであればそれがうまくいくか否かを知りたくなったのだ。そのビジネスはまた別の、それも10年以上も前のまったく脈絡もないビジネスから出てきたもので縁が縁を招くという何らかの因果の結果である。このありがたい事実の意味深さをいまかみしめている。AIのラーニング機能のごとくそれは自己増殖してくれるようであり、ではご縁とは何なのか、縷々述べてきた宇宙の構造の理解とどう関わるのか、いまは書かないでおく。ここまで来るのに15年を要した。それが長かったか短かったかはこれから結論が出るだろう。
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2月26日に天道の頂を観る
2025 FEB 26 19:19:07 pm by 東 賢太郎
人間は胃なら胃の、肝臓なら肝臓のと、臓器ごとに特定の周波数帯の極めて微弱な電流を発してます。これを知ったのは畏友である森嶌淳友医師の「表参道ウェルネス統合医療クリニック」が施術に使うバイオレゾナンスというドイツの振動医学機器にそれを感知する精度があり、周波数の異常値(平常レンジからの逸脱)で臓器ごとの変調を発見できるメカニズムを体験したからです。
ということは人間はからだ全体としても微電流を発しており、皆さんは固有の周波数をお持ちです。ちなみに音は空気振動の周波数で決まります。二つの音を鳴らしてみると周波数比が1:2ならオクターブ、2:3なら完全五度で調和し、共振(干渉)して振れ幅を増幅します。これが人の相性の良さの正体で、「気が合う」というのは両人の発している周波数比が調和的であることと考えられます。
なぜなら、「気が合う」は「肌が合う」「息が合う」とも言い、言語を媒介せぬことを示唆します。「うまが合う」は馬と騎手の関係だから言葉はありえず非言語的な交信で相性を決めていることを示唆します。「ツーカー」はツーの波動が相手に響いてカーと共振させた描写です。つまり、動物も人間も波動のやりとりをし、その周波数の調和性で合うあわない(相性)を決めていると思われます。
では波として伝わってくる物質は何か。相手の姿かたちは光です。光は波(電磁波)と粒子(光子)の両方の性質をもちますが暗闇で殺気を感じたり物質でない霊を見たりする人もいますので脳の神経細胞が刺激を受けると発する波のような電気信号(脳波)かもしれません。いずれにせよ「波」であり、「波が合う」とは周波数比が調和的であることです(時間軸での1/fゆらぎなど含む)。
そう仮定すると、予想外のアプリケーションが導かれます。たとえば、結婚相手の選び方です。ずっと一緒にいるわけだから耳障りな短2度(C/C#)やトライトーン(C/F#)など周波数比が不協和だと、一時の好いた惚れたで愛を誓ってもやがて耐えられなくなります(物理現象ゆえ・・)。だから「一緒にいたい」だけでなく「一緒にいても嫌じゃない」も大事なバロメーターと思います。
宇宙にも周波数があります。神山先生曰く「気」は宇宙に発しています。生まれた時の星の配置が人生を決め、それがその人の気を決めます。古代中国は還暦を干支(10)と十二支(12)の最小公倍数で60年としましたが、影響の大きい外惑星である木星が約12年、土星が約30年で太陽を公転し、生まれた年の位置に帰還するのが60年です。天に同じ周波数が観測でき、還暦は物理にかなっています。
もう一つのアプリケーションは、ツキ(運)は宇宙と自分の周波数の比で流動することです。僕は去年の後半に原因不明のパニック恐怖に見舞われて覇気が落ちていましたが、何の治療も薬もなく年初にあっけなく晴れました。去年の天文現象を調べると6月に月、水星、火星、木星、土星、天王星、海王星が東の空に大集合という特異現象があり、混合した周波数と不協和になったかもしれません。
その真偽は観測なしに証明できませんが、天文現象ゆえ影響がないとはいえず、おまじないでなく物理であるゆえに信じられました。その信奉が自分の中の気の流れを変え、乱していたものが解け、自然状態に復帰したと感じます。去年は閉所パニックが怖くてもう飛行機は二度と乗れまいと断念し、更に落ち込んでいましたが、いまその絶望感は嘘のように雲散霧消して幸福感が戻っています。
幸運・不運はサイコロの奇数・偶数と同様ランダムに人間の前に現れますが、人は幸運は積極的に得ようとします。だから覚醒した人間の方がしてない人間より幸運を得る確率は高くなる形で運は物質世界に具現します。天の周波数と不協和だった僕は覚醒できず、運を取り逃がしてますます覇気が落ちていました。そのシグナルとしてパニック恐怖がウォーニングとして現れていたと考えます。
偶発事象ですが、今年に入って我が物質世界も好転し、投資案件の株価が12月から3倍になって精神世界の好転を増幅しています。ランダムにしか期待できる事ではありませんが、古来よりあまねくこうした吉凶の大波が人間界の悲喜こもごもとして多々あったのでしょう、中国古典はそれを『糾える縄の如し』と形容し、それは物理現象で再現性が高いため永く語り継がれてきたと考えます。
以上より、自分の周波数も宇宙のそれもコントロールする術を人間は持っていませんから精神世界も物質世界も(つまり人生の全般を)天にゆだねるしかないという結論が導かれます。今日は2月26日ですが、物理という別の登山道を経由して同じ天道の頂きに到着したようです。
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ジョン・ケージ小論《 Fifty-Eightと4′33″》
2023 OCT 26 11:11:41 am by 東 賢太郎
(1)直島できいた心臓音の衝撃
4年前に瀬戸内海の直島に泊まった時に「心臓音のアーカイブ」を訪れた。『 心臓音の数だけ人の命があり、人生があり、一つとして同じものはありません。ハートルームで無数の心臓音に包まれていると、命の尊さ、儚さ、かけがえのなさに、自然と思いを巡らせていく・・』 というコンセプトでフランスの彫刻家クリスチャン・ボルタンスキーが2008年以降、世界中で集めた人々の心臓音を恒久的に保存し、聴くことができる小さな美術館である。もちろん、望めは誰でも自分の心臓音を登録できる。
幾人かのものを聴かせていただいたが、たしかに個人差はある。しかし僕を驚かせたのはそれではない、マイクロフォンで拡大された心臓音というもののたくましい雄々しさ、猛々しさであって、響きという静的な語感のふさわしいものではなく、嵐に大海がうねる波動を思わせたことだ。自分の中でこんな荒々しい作業が一刻の休みもなくおこなわれているだけでも俄かには信じ難いことであり、そのおかげで脳に血が回って意識の明かりが灯されているのだから生きているということはそれだけでも大変なことなのだ、しっかり生きなくてはと殊勝な気分すらしてきたものだ。
人体は音を出している。英語にはinner voiceという言葉があるが、良心と訳すのだから宗教的なコンテクストだろう。ハート(心臓)は即物的な器官であり、そんな善性のものでも、ロマンティックなものでもない。人間ドックで自分の胃や大腸の画像を見たとき、それは自分の一部分どころか得体のしれぬ赤い肉塊であって、他人のであっても見わけもつかない。それをあたかも僕の所有物であるかのごとく医者は語るのであり、それでいて、所有権者のはずの僕よりも医者はそれを知り尽くしているようにも語るのだ。その奇妙な感じ、経験者もおられよう。親にもらったものではあるが、親とて意図して製造したわけではなく、僕はせいぜいその管理者か保護者にすぎないというものでほんとうの所有者はわからない。親でも医者でもないなら、人智の及ばぬ天の彼方におられる全能の方であろうかという結論に漂着しても仕方ない感じがする。
ボルタンスキーの美術館は心臓音を展示するアートギャラリーであり、音というものに関心のある僕に衝撃を与えたカテゴリーキラーである。ちなみに直島はクオリティを世界に誇る総合造形芸術アイランドとして海外に著名である。島ごとが一個のオープンエア美術館といった風情であり、ボルタンスキーのような斯界の著名アーティストを自由に腕を振るわせる条件で参集してもらい、存分にその才能が発揮された展示物がそこかしこに点在するという夢のような場だ。ベネッセハウス様にお世話になったこのときの体験は、僕の造形アート理解の次元を飛躍的に変えてくれた(「野村ロンドン会」直島旅行)。
本稿をそれで書き起こすのは、まったくの偶然でyoutubeで発見したジョン・ケージの音楽をきいて、直島に遊んだゆったりした時間を思い出したからだ。そう、それはケージに似ているのだ。直島体験なかりせば僕はケージの音楽には無縁で終わっていたかもしれない。あそこでは、島の広大な敷地を生かして展示ホール内の残響まで周到に設計されていると感じた。それが周囲と一体になって生まれる空気感(アンビエンス)は残響にとりわけこだわりがある僕には忘れがたいものだった。そうした空気感というものはその場に立って五感で味わうしかなく、実は絵画や彫刻であっても、その「入れ物」である天井の高い美術館の空間と切っても切れないことはルーブルやメットに行った人はご存じだろう。
(2)無響室で聴こえるもの
残響とアンビエンスを正面から論じる音楽評論家は見たことがない。オーディオ評論家はいそうなものだがやっぱり見たことがない。木造家屋に住む日本人にとってそれは録音会場まかせのディファクトであって、レコードやCDの「録音評」の仕事であり、どんなオーディオ装置でそれをうまく鳴らすかという商売に持ちこまれてしまう。僕のようにリスニングルームを石造りにして自家で発生させようなどという人はまずいないし、業界としては困った変人扱いだろう。とんでもない。チェリビダッケはある曲のテンポ設定の質問にフルトヴェングラーが「それは音がどう響くかによる」と答えたのをきき、メトロノームの数字だけを元に決められたテンポ設定は無意味だと悟っている。残響とアンビエンスを重視しない人の演奏も音楽評論もダメなのだ。
僕はある会社の無響室に入れてもらって、残響ゼロの世界に絶句したことでそれを悟った。ジョン・ケージはハーバード大学で初めて無響室に入ったときの経験をこう語っている。「無音を聴こうとしたがそれは叶わず、二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった。エンジニアにそのことを話すと、高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音だという答えだった。体内からの音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないこと、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるだろうから音楽の未来は大丈夫と考えた」。ケージは体内の音を聞いたことで宇宙に無音はないとポジ・ネガ転換した発想を持った。僕は自分が発した声の変調に驚き、シーという耳鳴りを聞いたのを除けば、ここに閉じ込められたらという恐怖だけだった。真空の宇宙空間は無音だが、それは鼓膜が察知する波動がないというだけであり、体内に発する波動も脳は「音」と認識することをケージは発見した。脳が創り出しているものが「音」の正体ならば、宇宙の果てまで行こうが音はある。その命題は人体という小宇宙を起点とした宇宙観の転換にすぎないわけだが、それを考察する我々の脳も宇宙の一部だから正しいといえなくもない。
(3)遠い記憶
幼時に「ぷかぷかと宇宙に浮遊した」ときのことは前稿に書いたが、浮遊というとルネ・マグリットのこの著名な絵がある。しかし、こうではなかった。
もっと暗くて、心象はこんな質量感を伴う現実で、だから怖かったのであり、
こんな無重力感があった。あれは母の胎内にいたときのぷかぷかだよと言われればさもありなんという感じのものだ。でも、もしそうならば、あの重いものを移動させろ(Carry That Weight か?)という強烈な義務感は何だったのだろう?
その時の気分を思い出すものがないかと長らく探していた。あった。この音響が与えるイメージ、うなされていた時の「感じ」に似ている気がする。
これを聞きながら瞑想する。あの光景がゆっくりと心に満ちる。神が杖(つえ)をかざすと持続音の暗い霧に新たな音が一条の光のように差し込んで調和し、徐々に徐々に思いもしない色彩を帯びた和声が産声をあげてくるさまは天地創造の荘厳な神秘のようだ。
天が肉体に共鳴しているとしか表現のしようがなく、その理由はどこがどうという形では見当たらない。喩えるなら、気が合って一緒にいても飽きない人。何がそうさせているのかはわからない、単に、トータルに「合う」という言葉でしか伝えられない。それでもこれを僕は良い音楽と思う。
(4)カテゴリー・ブレーカー
作品は結果がすべてだ。偉い人の作品だ、少々退屈でも忖度しましょうなんてことはない。ということは、この曲がどのようなプロセスを経てこうなったか、どんな技法か、指揮者がコンクールで何位か、オーケストラがどこかのようなことはまったくどうでもよいことになる。そういうことを詮索したくなるのがクラシック音楽だが、それは作曲家名がクレジットされた楽譜があるからなのだ。楽譜はあって結構だが、モーツァルトは楽譜にした何倍もの音符を聴衆の前で放っていたのであり、それは聴けなかった我々の知らない評価の源泉があった。
彼の楽譜は自分にとっては備忘録であり、他人にとっては弾かせるための総譜でありパート譜であり、なによりプライドを持って生きるための名刺であり商品だった。死後に妻が生計のため換金する動産となったところから楽譜のセカンダリー市場が登場し、付加価値が発生する。それは作品の真実とは無縁である奏者や評論家のエゴを満たし食い扶持になる価値で作曲家とは何の関係もなく、モーツァルトが何者か知らないし知る知性も関心もない一般大衆に一時の見栄であるプレミア感を売るための膨大な手垢である。モーツァルトは知らないクラシック音楽という概念は、そうした泥にまみれた醜怪な雪だるまであって、そんなものが僕を感動させることはない。
小節線がなくて、ぽんと音符がひとつだけあって、あとは長さも強さも君たちが適当にやってくれなんて作曲家はそうしたクラシック界においては尊敬されないし、そんないい加減な曲を聞きたい聴衆もいないだろう。しかし、それでも良い曲だったねとなればいい。それが音楽の本質でなくて何だろう。モーツァルトの曲はそうやって生まれたし、ジャズのセッションみたいに、演奏家がやる気になって一期一会の音楽が生まれる場は今も生き生きと存在するのだ。充分に魅力があるし、いわゆるクラシック的な音楽の場においても、作曲家は演奏家に曲のコンセプトと霊感とインセンティブだけ与え、コーディネートする役になることが可能である。ジョン・ケージがしたことはそれだ。
その意味で彼はクラシックのカテゴリー・ブレーカーであった。ただ、10匹の犬を集めてオーケストラだと主張すれば通ってしまいかねない魔法が使えたという類の評価がされがちであり、それは彼の作品をこんなものは音楽でないと騒ぎ立てた連中の末裔が評価を否定できなくなって、辺境地の奇観に見立て、苦し紛れに与えた奇矯な間違いである。ブレークもなにも音楽の本質はいつも楽しみであり、弾き手や聴衆が良いと思うかどうかだけであり、意味もない権威にまみれたクラシックのカテゴリーなどはずっと後天的なものなのだ。ケージは絵空事でない真の音楽哲学を持った作曲家だが、理系的資質ゆえ空気を読まず、それに加えてアバウトな文系気質もあったという天与のバランスがあったからこそブレーカーに見える存在となれた。ケージの評価にはアバウトに過ぎようが、そうであったと仮定しなくてはできない革命を彼がなし遂げたという評価を僕がしていることは宣言しておきたい。
それでもアバウトに過ぎるならこう書こう。誰かさんが音楽をn個書いたらg個が良い曲だったとする。作曲家の評価はg/n(ヒット率)と良さの度合いq(品質)で決まるからq×g/nという確率であり、q×g/n=f(良さ)である。良さは物理的に不定形(定義困難)だが人の集合の属性の発現確率でのみ表せる。よって、作曲原理(三和音、無調、セリー、偶然etc)は変遷するが、作曲家の評価は確率で決まるという原理は不変である。このことは未来にもジョン・ケージが現れることを予言する。
(3)数学と音楽
この音楽のタイトルがFifty-Eightであるのは、なんたらというメインタイトルがあって副題が「58人の木管奏者のための」というスタイルをやめて、58をメインに持ってくるとルール化したからだ。同じ楽器数の2つ目の作品はその右肩に小数字でべき乗のように2とつける。この流儀のをナンバー・ピースと呼ぶ。彼は数学好きなキャラだろうが、いっぽうでキノコ研究に人生をかける人だ。作曲家なのに合理的でないと思うのはちがう。数学者にならないすべての人には数学の勉強は無駄だが、人生に膨大にある無駄に空費する時間を勉強時間以上に減らしてくれるから合理的な人は数学を勉強するのである。そうでない人がこんな音楽を書けるだろうか?
(3)分岐点だった「易の音楽」
ケージが量子力学を知っていたかは不明だ。1992年没だからたぶん我々ほどは知らない。量子力学が正しいことは高速演算速度を可能にする量子コンピューターが実現したことで大方のインテリの共有知になり、文科系の人でも宇宙は量子もつれ(quantum entanglement)が支配し、偶然が自然(ネイチャー)の属性なのだ程度は悟ったろう。ということは、科学には縁遠いことが許される音楽家の間でも変化が起きてしかるべきだ。それは偶然音楽(chance music)に後半生こだわり、数々の傑作を残したジョン・ケージの再発見だと予想する。彼の楽曲は誰も音楽を支配せぬアナキズムであり、演奏してみないと予想はつかず、同じ演奏は二度とない。この現象は「サイコロを振った」といえるが、それがありのままの宇宙のなりわいだということは誰も否定できなくなった。多くの僧侶や宗教家が「仏教と量子論は似ている」といっているが、原子論絶対の西洋科学では説明できないことを量子力学はよく説明し、仏教ともども非原子論的だという共通項があることは誰しも認めるだろう。
偶然音楽に移行する前、ケージは打楽器、プリペアド・ピアノによる複雑なリズム構造を持つ無調の音楽を書き、Living Room Musicのように演劇やダンスと組み合わせたり東洋思想と融合するなどフロントを拡大した。彼の楽器はピアノであり、全部がソロか室内楽でオーケストラという発想はなかった。偶然音楽の契機はあなたが運命をキャストできるとする中国の「易経」を知ったことだった。二進法、六十四卦等の規則性、および占術の偶然性の合体を見つけ、ピアノ独奏の「易の音楽」(Music of Changes、1951)を書く。六十四卦といういわば原理の如きものにピッチ、テンポ、強弱、長さを割り当て、投げたコインの結果にもとづいて作曲をする思想は作曲家の権威を破壊している。
(4)シェーンベルクとブーレーズ
「易の音楽」はセリー主義だったブーレーズのピアノ・ソナタ第2番 (1948)、第3番(1955-63)の間の作品だ。3年ほど先行した第2番をケージが意識しなかったとは考えにくい。一時は同志であったブーレーズは神の真理を自作に織りこむという行為の有用性を確信した人という意味で、十二音技法にそれを見ていたシェーンベルクと通じる。それはいわば信仰への確信であって、表面的な理解しかなかった日本で彼がブルックナーを演奏するなどと誰が想像したろう。しかし、彼がカソリック信仰に真理をみたというなら、ブーレーズにはプロテスタントのドイツ人指揮者よりずっと手掛ける根拠がある。
ケージは南カリフォルニア大学で2年師事したシェーンベルクに和声感覚の欠如を指摘され、「彼は作曲家ではありませんが、発明家であり、天才です」というレトリックで作曲は無理だと言われた。作曲家がサイコロを振って不確定である「易の音楽」は師の判断を無視するユーモラスな解答だったのではないか。ブーレーズは能力不足を東洋思想で埋めると批判した。鋭い指摘だ。ケージはコロンビア大学で鈴木大拙に学んだ禅思想に影響を受け、原子論に依拠するシェーンベルク、ブーレーズと袂を分かつ。東洋に接近した先駆者マーラー、ドビッシーの関心は音階で、旧来の美学の平面上にあり、宗教という精神的支柱まで寄ったのではない。ジョージ・ハリソンのシタールと変わらず、ドビッシーがきわだって成功したのは彼の図抜けた音響センスがガムランという異物を消化可能なまでに化学変化を加えたからである。
ユダヤ人のシェーンベルクとカソリックのブーレーズは信仰という行為を客体化した地平では理解しあえたが、ケージは演奏における古典的な偶然であった即興や通奏低音が人間の趣味性に関わると否定し、アーティストのエゴを廃し、それを認めるぐらいなら偶然という物事の混沌を受け入れることにした。つまりシェーンベルク、ブーレーズは神の摂理の全面的代弁者としての司祭であり、その権威は絶対に手放さなかったが、ケージはそれを「偶然の採用」までに留めることになる。父譲りの発明家気質、無響室での体験、ビジュアルアーティストとしての嗜好、20世紀の振付の巨匠マース・カニンガムの影響など、各々が脈絡があったとは思えない必然が混然一体となって彼の人生のchanceとなった。
数学者ブーレーズより数学的人間であるケージは易経の構造原理だけが関心事だった。構造は数学でありその採用は構造そのものに真理性なくしては人を説得しない。そこに自信がなかったのではないか。易経と原理でつながる禅思想への帰依はその答えだろう。「いくら観察してもさらにわからなくなる」と言ったキノコは、恐らく、彼にとって鈴木大拙師にも勝る宇宙の真理を説いてくれる存在であり、数学化できないから音楽化もできなかったが、わからないキノコを不確定の受容という形で音楽に取り入れたというのが私見である。因習的、常套的、世俗的を忌避し、誰がどう見ようが本質以外には目もくれぬケージの哲学者的な一本気には大いに共感を懐くものである。
(4)猫が演奏する「4分33秒」
晩年に近づくと、chanceは大規模編成の中に仕組まれるようになる。Fifty-Eightはリズム指定がなく「浸る」しかない。音の全身浴である。天空の波動も心臓音も耳鳴りもすべてそれである。これがアトモスフェール(atmosphère)だ。人またはものを囲んでいる独特で無形の性質のことで、そこにいて浸っているという感覚が音楽を聞くこと、生きていることである。ケージにはそれが音楽で、楽音はその一部にすぎず、楽音と非楽音には違いがなく、よって、楽音がなくとも音楽は成りたつという命題が論理的に導き出される。その実現が4′33″(「4分33秒」)という楽曲である。聴衆が感知するのは、音を出さないピアニストというオブジェ、4分33秒の時間内に鼓膜が察知する会場のすべての非楽音、および、自分の体内で察知したすべての波動(心臓音、血流音、耳鳴り等)というアトモスフェール。これは実に「直島的」だ。
4′33″はいうまでもなく猫でも演奏できる。怒った聴衆が「馬鹿にするな」と舞台に駆け登り、猫は逃げ、彼はショパンを弾き始め、場内が騒然となり、パトカーのサイレンが鳴って警官隊が闖入し、パーンという乾いた音を発して男を撃ち
殺したとしよう。それが仕組まれた寸劇であっても現実であっても4′33″という作品は成り立っており、4分33秒が経過した瞬間に演奏は終了する。このコンセプトを音楽と呼ぶことに100%賛同したい。僕にとって「音楽」とは我が身と宇宙の波動の共振に他ならず、そうした寸劇も、それが喚起するだろう観客の驚きや悲鳴もすべてが波動である。この思想は直島でオブジェに瞑想して感じたもので、興味ある方はご訪問をお勧めしたい。
(5)神はサイコロを振る
スピリチュアルではあるが霊界の話ではなく我々の住む世界の現実であることを説明するには、少々物理の話題に触れねばならない。波動は質量のある原子が伝えるものと、それのない光子が伝えるものがあることは一般に知られるが、いずれであれ、我々が知覚して認識しないと心は共振はしない。アトモスフェールを厳密に分離するなら、それは無形のもので物質ではないから原子でも光子でもそれらの揺れでもなく、つまり音でも光でもなくて質量もない。いわば(霊的な)「感じ」や「第六感」、(良かったり悪かったりする)「雰囲気」、あるいは(心で読んだり読めなかったりするコンテクストでの)「空気」とでもいうものだ。それが人から人へなぜ伝わるのかは物理的に解明されていないし、個人的には猫との間でも通じるのを体感しているので人間由来のものでもない。これは(質量がないのだから)重力(空間のゆがみ)に服しない。
前稿に書いたが、「五次元の仮想的な時空上の重力の理論は重力を含まない四次元の場の量子論と等価」であって、我々は三次元世界を時間という仮想概念をもって観察して生きているが、それと量子力学が証明する極小の偶然性(量子ゆらぎ)がある世界(五次元世界)は同じものであり、したがって、我々は現実とパラレルの世界に行くことができ、それがどれになるかは意志でなく偶然が支配しているのである。これがアインシュタインが相対性理論でたどり着かなかった結論であり、神はサイコロを振るのだ。ならば作曲家が振って何が悪かろう。世界を4分33秒だけ切り取ったものが4′33″になっており、結果論として、面白かったねとなればそれは良い音楽だ。
(6)ケージとチェリビダッケ
誰もが人生を自分の意思で決めて生きていると思っているが、実は by chance(たまたま)で生きているのであり、そんなふらふらしたものが人生であり、ケージも自分の意思で「偶然の採用」をしただろうが、実は量子力学なる神の決めごとに従った決断だった。4分33秒間の沈黙を聞かせて世界的名声を得たが、この音楽についてたくさん語っているが彼の書いた音符を一度も聞いたことがない支持者もたくさん持った。Fifty-Eightはスコアが58段と音はたくさんある音楽であり、陰陽の対を成すような作品だ。猫が鍵盤を歩いた音とこれと何が違うかという議論を封じることはできないが、何を音楽として真剣に向き合うかという問いを喚起したことでのケージの業績は誰よりも大きい。
やはり東洋思想に開眼し、晩年には仏教に改宗して日本でも多く参禅を行なったセルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)の発言はそのコンテクストで見るなら興味深く、ふたりは同じ音楽観だったわけではないが共通したものがある。チェリビダッケは「音楽は無であって理解ではなく体験されるものだ」とし、「音楽が美しいものと思うのは勘違いだ。音楽では真実が問題であり、美は擬似餌にすぎない」と言い切り、「音楽を聴くということは人生や世界、あるいは宇宙の真相を垣間見ることである」と語っている。傾聴に値する。あくまで彼は再現者であり創造者ケージと同じ次元では語れないものの、両人は音楽家である前に哲学者だ。僕はこういう人達の音楽を楽しみたい。
(7)ケージと自分
ケージに会ったことはないが、写真を見るに、きっとお茶目で優しくていい人だろうなという感じがする。感じというのは根拠がないアトモスフェールにすぎないが、ヒッピーみたいな写真もあるし、いちばん真面目に写っている左も大家然とした威圧感がまるでない。好奇心、ユーモア、気まぐれ、爆発的発想、権威破壊、官僚的なものへの嫌悪、アナキスト、理数系オタク、アイデア、創造力、実験、余裕、オシャレ無縁、浮かぶのはそんなイメージだ。猫好きがみなそうとまではいわないが猫と話せる人に悪い人はいない(僕の偏見)。そもそもアマチュアのキノコ研究家でニューヨーク菌類学会を設立し著作まである作曲家などどこにいよう。こうして書き連ねるに、自分とそこはかとない相似性を感じ、それとは何の関係もないがFifty-Eightが気に入ってしまったことで彼への関心が決定的になった。
プリペアド・ピアノの発明は単なる楽器の改変だけではない、既存楽器の音をどうマニアックに磨くかというおざなりの美学をぶちこわしたのであって、爆発的発想、権威破壊、官僚的なものへの嫌悪を僕は背後に見る。彼は大学の図書館で100人の学生が同じ本を読んでるのをみてショックを受け、書庫に行き、名前がZで始まる著者によって書かれた最初の本を読んでクラスで1番になったが、そういう大学は見限って退学した。僕は大学に入ってしまってから不幸にも法学に些かの興味もない自分を発見し、2度アメリカに長期漫遊し、安田講堂の卒業式にボロのジーパンで出席した恐らく今もって唯一の法学部生ではないかと思う。特に権威や官僚が嫌いなわけではない、もっと嫌いなものはいくらもあるが、何を着ようかとそういうつまらない準備に時間を空費するのが何より嫌いなのだ。
ケージは父親に「誰かが『できない』と言ったら、それはお前が何をすべきかを示している」といわれた。のちに作曲は「目的のない遊び」と語ったのはその教えに従って誰もできない実験をしていたからで、彼にはそれが「遊び」であり「人生に目覚める方法」だったと思われる。僕は父につまらない質問をすると「お前の頭はなんのためについてるんだ」と突き放され、やむなく人にきかず考えて実験する癖がつき、やがてそれが遊び感覚になってその延長で生きてきた。仕事も遊びだから嫌でなく、おかげで音楽の勉強ができた。
ケージは辞書でキノコ(mushroom)がmusicの前であることで興味を持ち、研究にのめりこんでそちらでも著名人になった。「Zで始まる著者」の本を読んだ
エピソードと重なる。無機的だが秩序ある動機だけで行動できる「メカニズムへの打算なき偏愛」と、「一期一会の偶然は特別なご縁」への理由なき厚い信仰心という矛盾する二面が縫合した人格は個性的であるが、まったく同じ二面を僕も持っており、科学絶対主義者でありながらスピリチュアリズムの信奉者でもあるが、真理は一つであるなら躊躇なく後者を採る。ケージがエリック・サティの音楽をキノコにたとえた関係性と同じ筋道でキノコは彼の音楽に何らかの投影を与えていると思われるが、作曲が遊びであるなら、作為や意図が介在しない最も美しい出来事であるキノコとの出会いを彼が上位に置いていて不思議ではない。
Fifty-Eightの実演(サンタンデールアルゼンチン財団)
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ようすけ君はビッグバン理論より正しい
2023 OCT 23 8:08:25 am by 東 賢太郎
ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が133億光年のかなた、すなわちビッグバンからわずか5億年後という領域に大質量銀河を6つも発見した。
従来の宇宙論ではこの年代の宇宙には小さな赤ちゃん銀河しか存在しないはずでありビッグバン理論に修正が迫られるという驚天動地の事態が物理学、天文学の世界で起きている。
シロウトのドタ勘だが、全宇宙の原子が1点に集まっていたなんて信じ難い。そもそもなんでそんなものがあって、なんで爆発したんだ。てんびん座にあるメトシェラ星の年齢は144±8億年と計算されており、つまり、宇宙よりも古いということになる。ということは宇宙はもっと前からあったことになる。地球から最も近い星まで約4光年だが、現在もっとも速いボイジャーで行っても7万年かかる。ネアンデルタール人の宇宙飛行士を乗せれば着くころにはホモサピエンスに進化している。写真の銀河はその30億倍も遠い。行くのに2百兆年かかる。ビッグバン理論は修正すれば誤りでないかもしれないが計算は数学でする。そもそもどうしてそんな遠くでも数学がワークしてるんだろうという素朴な疑問がわく。
科学は突きつめると宗教に似てくる。数の単位も兆のずっと先は不可思議、無量大数だ。そこまで行くと仏教の世界に踏みこんだかと思うが、銀河系にある原子の数は1無量大数個と聞くとまた科学の世界に戻った気になる。畢竟、このふらふらした感じは人間の脳の処理限界に由来しているだろうが、処理を代替してくれる数学という言語も全宇宙的にユニバーサルかどうか証明はされていない。
数学的に証明できるということは “プログラム可能” ということだ。我々は三次元宇宙にいると思っているが、ブラックホールの研究を通じて、常識に反して、ある空間領域のエントロピー(情報量)は領域の体積ではなく表面積によって決まることがわかった(ホログラフィック原理)。さらにそれに時間という四次元要素を加味して過去、未来があると思っているが、それは脳の設計上の認識にすぎず、時間は存在せず過去、現在、未来は同時に存在しており(アカシックレコード)、五次元の仮想的な時空上の重力の理論は重力を含まない四次元の場の量子論と等価だ。つまり我々は五次元宇宙という極小の偶然性(量子ゆらぎ)が支配する並行した世界にいる(パラレル・ワールド仮説)。
この「重力を含まない4次元の場」は意味深だ。
物心がつくかつかないかの頃、僕はとても病弱で毎週のように熱を出して医者通いだったらしい。母がおぶっていたからまだ歩けない頃だ。リンゴを擦って食べさせてもらい、寝入る。すると必ず見るおそろしい夢があった。どこかに書いたと思ったらこんなところだ。
宇宙空間のようなところにぷかぷか浮かんでおり、何か、目には見えないが「重たいもの」を持たされている。とっても重い。見渡すと何人かの人も浮いている。そして僕は「それ」をどこか別なところへ運ばなくてはならないのだ。誰の声も命令も聞こえない。でも、厳然とその「義務」だけが僕にずっしりとのしかかっていて絶対君主の指し図みたいに逆らえないのだ。おかしなことだ。無重力の宇宙空間に「重たいもの」なんてあるはずないのに・・・。
そんなの無理だよ、僕にはできないよ!うなされて泣き叫んで、母の声で我に帰っていたそうだ。これ、「重力を含まない4次元の場」だったんじゃないか。僕は何かを背負ってこの世に生まれてきたんだろうか?ビートルズ(ポール・マッカートニー)のアビイ・ロードに「Carry That Weight」(あの重たいものを運べ)という曲がある。彼もひょっとして・・・。
ご存知の方もおられるかもしれないが、youtubeに「宇宙に行くこども」という番組があり、僕はかわいい語り手である「ようすけ君」の大ファンだ。彼は胎内記憶のある6才の男の子で、とても賢いなあと感心する。確信ある語り口に台本があるとも思えず聞き入るしかないし、お母さんもやさしくて癒されてしまう。
胎内記憶というのは3才ぐらいまではある子がけっこういるが、会話できる年ごろになると記憶が消えてしまうらしい。それでもようすけ君のように話せる子は世界中にいて、ほとんどが「お母さんを選んで空から降りてきた」という話をするそうだ。僕はそれは全然ないけれどあの夢は何度も見てはっきり覚えてる。その頃の記憶はそれ以外にはほとんどないのだから不思議なものだ。
スペイン人だったようすけ君は死んでからどこに行ってたんだろう?空のうえで神さまがたくさんいるところだ。神さまは彼の「魂ちゃん」にやさしく指導してくれたようだ。きっと仕事なんだろう。何のため?何百世代も生きさせて遺伝子の進化実験でもしてるのか?
数学?それ、神さまのパソコンのプログラムのことだよ、だって人が見てる宇宙はホログラムって名前の動画なんだよ、終わっちゃったらまた雲の上にぴゅーって行ってね、望遠鏡で見つけた新しいママのおなかにぴゅーって入るんだよ・・
ようすけ君、こんな感じかな?大人になったらまた教えてね。
これを書いたのは2017年だ。5月に母がいなくなって、どこへ行っちゃったんだろうとパソコンの前で考えてたときだ。
この写真を撮るのに現人類は地球に出現してから500万年かかった。宇宙船に乗って写真の銀河に行き着くまでにその進化を4千万回できるが、それは気が遠くなるほど無理だろう。人類がそこへ行くことは想定されてない、つまり、我々とそことの間には越えられない透明な壁があるに等しいということだ。それがガラスであって、我々は金魚鉢の中で泳いでるお魚だとしても矛盾はない。
「この銀河はみんなCGなんだよ。きれいでしょ、宇宙っぽいでしょ。ときどきプログラムにバグが出てね、メトシェラ星みたいにバレちゃうんだけどね、まあ楽しんでちょーだい」
「光速?ああそれね、僕のパソコン画面の処理速度の限界なの。CGはその速さで『観測』はできるけどね、ちょっとモデルが古いんで133億年もかかっちゃう。でも死ぬとね、魂ちゃんは画面の外に出てぴゅーってここに来れるよ」(神さま)
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集中力を高めて願ったことは実現する
2023 MAY 8 19:19:21 pm by 東 賢太郎
字にコンプレックスがある。なぜ算数で点が悪いかと思ったら自分の書いたぐしゃぐしゃな数字を読み違えてる。そこでゆっくりと丁寧にかいてみた。すると考える速さも遅くなってもっと害がある。やむなく大き目の字を書くことで解決はした。しかしその字がいかにもヘタクソなのだ。でっかいだけに目立ち、人間まで稚拙にみえる。
かたや家内は書道をやりだして段位をとった。やったらどうと薦められたがコンプレックスまであるものは無理だ。見ていると、床に紙を敷いて集中してゆっくりと大きな字を書いてる。大事な部分は宙に筆を止めて集中している。すぐその横を猫がすたすた歩いてく。よく書けるね。これは僕には絶対に無理だ。
ネットで面白い番組を見つけた。宇宙のすべては素粒子でできている。人の意志もそうでフォトンの波が出ている。喜怒哀楽に応じてその波が周囲の人にも伝播する。興奮したり集中したりすると波がデカくなる。それがデッカく周囲にも及ぶ。すると周囲の環境まで変えるから「集中力を高めて願ったことは実現する」というのだ。でも現実はそうじゃない。なぜかというと、プラス思考が顕在意識(いま考えてること)にいくらあっても、潜在意識(無意識に考えてること)に「そんな馬鹿な」「どうせ無理でしょ」なんてマイナス思考があると相殺されてしまい、波が微弱になって周囲に届かない。だから実現しない。
なるほど。それを量子力学だとされても浅学で理解できないが、しかし、直感的には当たっている。我ながら、人生の中で本気で願ったことはわりあい実現してきた気がするからだ。ただし「できればそうなって欲しい」程度じゃいけない。「不退転の決意でそうしたいと一心不乱に集中したもの」だけだ。気がついてみると、絶対に成功すると信じこんでいる自分がいる。微塵も疑ってない。頭の中は恐山の巫女状態になってる。偶然そうなるのでなく、意図してその状態を作れるのだ。ご想像していただけるようにそれを「スナイパー性格」と呼んでいる。
野球の投手経験者は比較的わかると思う。打たれていいと思って打者に向かう者はいない。常に「必殺」を目論んでマウンドに立っている。上級ゴルファーのパットもそうだ。「打たれるかも」「嫌なラインだな」なんて声が脳裏(潜在意識)に響くともうだめなのである。だから声のスイッチを意図的にオフにする訓練を無意識に積んでいる。では入試や面接やプレゼンの場でもそんな効能があるのか?すでに答えは書いた。そう思う人には効能はない。思わない人にはある。したがって、「集中力を高めて願ったことは実現する」ということになる。
しかし猫が歩いたらいけない。そういう訓練はしてないから僕はストライクもパットも入らないに違いない。
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受験秀才の価値は暴落する(チャットGPT)
2023 MAR 15 20:20:36 pm by 東 賢太郎
人は真っ白で生まれてきて記憶力のピークは18才である。凡そ20才までに何に時間を使ったかで「脳の初期化」が終わると考える。それ以後の進化もあるが、脳機能(CPU)、メモリーのキャパは決まる。学校にいる時間はみな共通として自由時間に何をしたかが個性になるだろう。すると僕は20才時点でレコードを1,000枚持っていて10回は聴いているから10,000時間、すなわち20年(=175,200時間)の5.7%はクラシック音楽を聴いていた。その次が野球で、やる・観るで7~17才の10年、ならして日に1時間として2%だ。勉強はというと小1から14年、毎日2時間自習したとして5.8%だから音楽+野球(7.7%)の方が初期化の貢献度が高い。
もし7.7%を塾通いさせられていたら別種の人間になっただろう。音楽・野球のない自分は想像できないが、好きに生きたら勝手にこうなっただけで、なろうという意志があったわけではない。この実感と見事に平仄が合うのは「身体は魂がもらった vehicle(乗り物)」という思想だ。身体のサイズや性能はDNA(設計図)で一義的に決まっているのだからそれ以上でも以下でもなく、行く末も決まってるのでケセラセラで生きればいい。そう思えば人生楽だし死も怖くない。刻苦勉励は為政者が国家を作るための教育でそれも大事かもしれないが、人間の本質には必ずしも根ざしていない。
これから世の中はどうなるか?コロナと戦争で混沌としているが、世界を変えるのは常にテクノロジーである。落合陽一氏によるとAIの進化は想定外に速く、人間を凌ぐシンギュラリティは2025年に来て、頭の中でする仕事は弁護士、会計士、役所仕事など専門職ほどAIができてしまい、人に残されるのはエッセンシャル・ワーカーの仕事、スポーツ、芸術、恋愛、戦争だそうだ。僕は2008年にリーマン・ブラザーズが潰れた時に真っ先に同社に電話をして六本木ヒルズに駆けつけ、東証の株式売買トップシェアだった米国人20人の電子取引チームを口説いて丸ごと引き抜いた。彼らから最先端のアルゴリズム取引を学び、一秒間に百万回の売買注文が執行できてしまう速度を見て人間に勝ち目などあり得ないことを確信した。それから数年で、腕さえ良ければ高年俸が約束される花形ポストだった証券会社のトレーダー職は、案の定、無残に消滅した。これが現実に起きたことで、もう15年も前の話なのだ。AIは資本効率を上げるが失業率も上げる、しかも高度な知的ワーカーのだ。
AIはかように演算速度が天文学的に速いばかりか自習して進化もする。ということは、学校で習う「答えが出る問題」を解くことにおいては人間は確実にAIに負けるということを意味している。だから僕が7.7%を塾通いではなくスポーツ、芸術に割いて育ったのは得だった。「時は金なり」だから1時間の交響曲を聴くと時給分の損だとするのが経済学だ。しかし脳内にAIができない不可侵領域を作り、感動というエネルギーチャージも得る音楽鑑賞の価値の合計は時給より高い。僕は小学校時代に(本当に)勉強した記憶がなく、野原を駆け回っていた。その経験からいうが、中学生になればすぐ理解できる小学校の勉強に6年の塾通いは時間の無駄で、遊びの情操教育をミスする損失の方が大きい。野球という遊びは強い体力と胆力という財産をくれたが、知力よりそっちの方が出世には何倍も物をいった。
ということは受験秀才の「勉強ができる」という価値はAI時代には暴落し、AIは日々人智の及ばぬ速度で学習して更に人を引き離し、学歴というものは出身県と同様の「群れるためだけのもの」になる。しかし仕事がない人の群れに何万人いても何も生まず、数の力にすがって互助のための政治や宗教をするようになる。しかし、そのリーダーのできることはAIにできないことだけだからAIを論破できず、やがて各党とも党首にはAIを起用し、国会はオンライン開催となる。chat gpt(チャットGPT)はそれが絵空事でないと実感させる。ウォートンMBAの試験に通る知能を持ち、論文はスワヒリ語でも10秒で書け、3分の好みの音楽を10秒で何通りでも作ってくれるなんてことになる。しかも演算速度はこうしている今も毎秒速くなって、やがてアルゴリズム取引と同じ百万分の一秒単位になる。ちなみに岸田総理の国会答弁は、AIにやらせれば自分で考えるので官僚のペーパーは不要だし、少なくとももっとうまく読むだろう。
AIの職業浸食は、起きない方が不思議だ。なぜなら資本家はROE(自己資本利益率)を求める。AIは人の何万倍も仕事が速く、口ごたえせず、正確で、24時間働き、飲み会はいらず、不要不急の出張もせず、賃上げ不要で、組合は作らず、歳もとらないから、人を減らして置きかえるほど人件費・管理費は激減してROEは上昇し、従って株価も上がる。それを望まない経営者はいない。社長もAIでいい。所有と経営は完全分離し、AI社長には預金通帳が与えられ報酬が入り、自らの機能を高めるためオンラインで買い物もする。これが究極の姿だが、ここまで行くと社会問題になるので政治家が介入し「そこそこの二極化」に収まる所で浸食は止まるだろう。そこでAI社長は何をするか。政治家の性格を瞬時に分析し、ぴったりの宴会部長(人間)を雇って接待、ゴルフ、ハニトラを仕掛け、賄賂を贈る。贈収賄罪が立件されると政治家と部長は牢屋に入りAI社長は没収されるが、贈賄はしないプログラムに書き換えたものをまた買えばいいのである。
そんな馬鹿なと思われるだろうが、AIの出現は決してブラック・スワン現象ではない。黒い白鳥がドカンと世界に衝撃を与えるわけでなく、普通の白い白鳥に見えるが気がついたらそこいらじゅうに居たという性質の侵略なのだ。1990年代前半にインターネットが出現し、こわごわメールを送って「届きました」と電話で返事が来た懐かしいあの頃に、SNSなしで生きられないほどネット社会に同化した自分の姿を誰が想像しただろう。同様に「士業」「経営者」「医師」「教師」「役人」etcがチャットGPT搭載のロボットになっていくが、その環境にいずれ我々は慣れっこになり、何とも思わなくなるだろう。人間は環境適応し進化するからだが、人の頭の進化速度よりAIの演算速度の上昇は速いので大衆の目にはAIは万能に見えてきて、拝む信者が増え、人でなくAIこそが安心安全という時代が来るだろう。
ビル・ゲイツやイーロン・マスクの見ている世界はそんな感じだろうか(もっと向こうだろうが)。世界は国籍人種宗教を問わず資本家とそれ以外に二分され事実上一国になるが、戦争需要を生むため上層部が通じ合った見せかけの三国体制でもいい(オーウェル「1984年」がそう)。これを陰謀論と言う人は百万分の一秒で株が買える現場をトレーディングルームでお見せしても陰謀だと言う人で、AIはおろか人類の平均進化速度にすら後れを取り、宗教、アミニズム、自然回帰に向かうか、あるいは暴力、戦争に向かうだろう。私見では日本人は前者に親和性のある民族であり、個々人としてそれはそれで幸せな人生かもしれないが、事は他国でも起きることであり後者に向かう国も出よう。陰謀論者が低学歴とは思わない、むしろ高学歴で頭の固い人が多い。つまりもと受験秀才であり、その価値はこういうプロセスを経て暴落するのである。先の稿に書いたが、これからはオン・デマンド型の人しか出世しない。学んだことがすべからくAIの得意分野と競合する受験秀才は、論理的に、最も demand のないタイプの人になるだろう。
国家の存立はいかがなものか。国会議員、官僚にこの現象の危うさを科学的に理解して対策を講じられる人が何人いるか。文系ばかりでほとんどいないだろう。すると、事が起きてから騒ぎだすのが日本の得意技だが、いまさらデジタル庁なんか作ってる異次元の辺境国だ(同庁は何をやるんだろうと思いきやマイナンバーカードだ。絶句するしかない)。こんな役所に手に負えるはずがなく、そこで放っておけば、東京五輪の現場のごとく役人は何もできないから電通さんに丸投げみたいな悲劇的なことになる。しかしどこに丸投げするんだろう?「AI省をつくれ」となるしかない。すると大臣はチャットGPTさまが適任ではないか。しかし待てよ、彼は何党員なんだ?そこで自公と野党の間で、国会の貴重な時間を使って壮絶な田舎のプロレス対決が繰り広げられ、「チャット君と呼ぶわ?」の歌とダンスが気に入られたAKB48党に決まる(AIは感情もある)。彼は一秒間に百万回の計算をして日本国のAI政策の最適解を導き出し、見事に国を救う。そして、20××年、世界初のAI総理大臣に任命されるのである。
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音楽と量子力学
2023 MAR 3 23:23:56 pm by 東 賢太郎
ホーキング博士は宇宙が仮想現実である可能性は50%あると言い、イーロン・マスクは我々の見ている現実がリアル世界で生み出されたとするとその確率は10億分の1と言っている。
父親のSPレコードを針が擦ると音楽が鳴るのは「溝に小さな人が入っていて演奏しているにちがいない」と思っていた。あながち赤子の思いこみと笑えないのは、量子力学の「ゼロポイントフィールド仮説」は全宇宙の生成から終末までのすべての情報がcodeで書かれているとするからだ。レコードには音楽が入っている(封じ込められている)が、そうと知らない人が音溝を目で見ても、顕微鏡で覗いても、それは俄かにはわからないだろう。針がひっかいている部分が「現在」である。SPは裏表で30分ぐらいの音楽が鳴るが、これが我々の見ている宇宙であり、ここまでの演奏時間は137億年だ。情報はゼロポイントフィールドにホログラムで書きこまれ立体画像(三次元)で現れる。全宇宙だからこれを読むあなたの全情報、つまり姓名からどんな一生を送るかもいつ死ぬかまで全部書いてある。
古代インドの超人がこれを「アガスティアの葉」に喩えたと考えてそう不穏当でないかもしれない。あらゆる宗教は超人が見たものを凡人にわかる言語と喩え話で書いていると僕は思うからだ。アガスティア・・は大きな葉っぱに宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれていると説いており、それをアカシックレコードともいう。先日、ある方からそれを実際に試した話を聞いた。ネットでインドのサイトにアクセスして被験者になったのだ。半日かけてYes/Noの英語の質問に答えるがそこに彼の個人情報を特定できるものはないという。数日待って回答を得た。度肝を抜かれたのは、彼のデータが正しいばかりか両親の名前まで(日本語話者でないので似た発音で)明かされていたことだったそうだ。
厖大なデータがcodeに凝縮されてどこかにあり、時々刻々と針がひっかいてその三次元画像が全宇宙に投影され、それを我々は観測している。レコード盤に演奏者が入ってないように、宇宙も虚像なのかもしれない。これを超人であるプラトンは「洞窟の影」といったのではないか。そういえば、僕は幼児のころから「星は本当にあるのか」と真面目に疑っていて、現在でもないかもしれないと思っている。「オリオン座のベテルギウスは550光年離れているから今はもう消えてなくなっているかもしれない」なんてのがどうも嘘くさい。量子力学では分子も電子も波+粒の性質をもち、観測された瞬間に粒になる。「観測」とは人間が知覚することだが、「僕が見た」という情報があっちに届くのは550年さきではないか、なのになぜ今リアルタイムで見えてるんだ?
いやそうではない、「量子は複数の場所に同時に存在して何光年離れても同時にふるまう」とされている。よくわからない。
このことについては「二重スリット実験」に答えがあるように思う。https://www.yamanashibank.co.jp/fuji_note/culture/double_slit.html
量子は見た瞬間に粒に変わるので僕は観測できている。ベテルギウスが見えるということはこのことが550年×2=1100年かけずに起ていることを示すので「量子は複数の場所に同時に存在する」という結論が導き出されるのだろう。しかしそれは、そう見えているだけではないか。実はアガスティアの葉っぱに「僕がベテルギウスを何年何月何日何時何分何秒に見る」と書いてあり、あっちの量子が550光年の距離を勘案して “シンクロ” するようあらかじめ書いてあってもその現象は成り立つ。「宇宙のすべての過去、未来がコードで書かれている」とはそういうことを意味している。大学の研究室で二重スリット実験が行なわれ、観測と検証のいたちごっこが行われることも書いてある。そんな馬鹿げたことを誰がするんだと思うのだがゼロポイントフィールドのゼロ点エネルギー(zero point energy, ZPE)は人間が決めたものではない。人智で馬鹿げたと判断することが馬鹿げているのである。
観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。ということは、見てない時は「ベテルギウスはない」ということだ。とすると太陽もない。「そんな馬鹿な、恒星は一番近いのでも光速で4.3年かかるが太陽ならスペースシャトルで200日で行けるから、なんだったら行って確かめることもできる」、「現に我々は地球から丸い太陽を目視しているではないか」と思われようが、それは見ている時だけで、見ていなくても6000度の熱を放つ光源であることは間違いなさそうだが、行っても触れるわけではなく、あるように見えているが存在の確かめようがない。太陽は我々が思っている球体の恒星ではなく、ディスプレイの画像かもしれない。
そう。「光速で行っても・・・」というのが常に我々の実感を麻痺させるのだ。光速移動は膨大な加速を生むエネルギーが必要で、それが発する熱に人間は耐えられない。つまりアインシュタインが光速を超える移動はできないと指摘する以前にそもそも不可能なのだ。月か火星なら低速でも行けるだろうが、ロケットに乗って「行った」と思っても、それは我々が「地球」と思ってる張りぼてとは別の張りぼてに立ったにすぎない。すなわち、我々は、人体が安全に移動できる低速で、寿命が尽きる以前に到達できる範囲内しか行けない。つまり、その範囲を示す目には見えない球体である「臨界面」に包囲されていることになる。これは水槽に入っている金魚とおんなじだ。金魚にはきっと水槽のガラスは見えてないだろう、なぜなら、まさか自分がそんな物の中で飼われているなどと考えてもいないからだ。
では臨界面を生んでいる光速(c)というのは何なんだろう?物理の授業で先生に質問してみたらいい。僕はその存在自体がとても変なものだと思っている。
E = mc²
は「エネルギーは質量に光速×光速をかけたものだ」と言ってる。質量がエネルギーに変わるのは核融合反応でイメージできるが、そこに「速度」が出てきて掛け算する理由がまったくわからない。この定数は何だろう?ゼロポイントフィールド仮説によると、1立方メートルの真空に地球の海ぜんぶを瞬間に沸騰させるエネルギーが詰まっている。ならばこう考えられる。金魚の飼い主が適当にぎゅっと詰め込んでみて、計算して出てきた定数項の平方根を開いてみた。その数値を宇宙を作動させるOS(基本ソフトウェア)の作動限界値に設定して組立てたパソコンが我々に見える虚像を映し出している。このことをあばき出したのがこの式ではないかと思うのだ。「宇宙投影パソコンの処理速度に限界がある」ことを、金魚鉢の中では「光速を超えて移動できない」と言ってるのだ。
では金魚を飼っているのは誰だろう?そこで、「宇宙人に違いない。人類はまだ遭遇はしてないが、彼らは太古の昔から地球に来ている。現在だってUFOに乗って来ているしNASAはその死体を隠しているのではないか」という話になる。たしかに米国政府はUFO研究をしているようだし、映画「コンタクト」に描かれた電波発信によるSETI(地球外知的生命体の探索)を行っていることは事実だ。僕は地球外知的生命体(宇宙人)肯定派だ。肯定する確率的根拠として著名なのがドレイクの方程式だが、しかし、これを導いた根拠は間違っている。なぜか。彼は同じ金魚鉢の中に別の魚がいる確率を計算している。それはそれで正しいとするなら部分的正解にすぎない。別の鉢は想定しておらず、金魚を飼っている熱帯魚ショップの店主は計算に入ってないからである。
僕が「肯定派だ」と書いたのはこの “店主” の存在についてであり、このことを宗教と分離するのは困難だ。アインシュタイン、ボーア、湯川秀樹ら科学者が物理学と仏教の親和性、補完性を説いたとされるが、自分がここでそれと同質のことを言っているとは思わない。「超人としての宗教家たち」がどこかで見てしまったもの、それが『造物主』(the Creator)の存在であり、その超人(人かどうかは置く)がモーゼに十戒を授けたヤハウェであっても、預言者ムハンマドであっても、神の子イエスであっても、「目覚めた人」ブッダ(釈迦)であっても、何ら差異なく金魚の飼い主または熱帯魚ショップの店主(またはそれを見た者)という比喩で括ってしまう数学的置換を信仰心の希薄さという罪に問われないという範囲において、本稿に述べていることを「宗教と分離するのは困難」なのである。「お前は宗教的人間か」と問われれば、正月に初詣に行って新年の良きことを祈ってお神籤を引き、冠婚葬祭を仏式で執り行うほどにはそうであるが、『造物主』の存在を信じることにおいては、何の儀式も執り行わないものの「非常に宗教的である」という回答になるだろう。
イーロン・マスクの言うように我々の宇宙は10億回トライして1個しかできないぐらいレア物であるなら「そう綿密に設計されて1回のトライでできた」か「最大(10億-1)個の失敗作(似た宇宙)」があって、我々の宇宙は我々専用の金魚鉢で他の魚はいない意図で作られている可能性もある。水はあるわ酸素はあるはエサは出るは侵略者はいないわ、こんな良い世界がひとつ存在するというなら他にも一定の確率をもって存在するはずであり、そこには別種の魚がいるだろう。ドレイク博士はそう考えたが、これが熱帯魚店の片隅に置かれた一個の水槽にすぎないならば、その辺はショップの店主が決めることになる。2種を同じ水槽に入れるとどっちかが食われるなら商売にならないから鉢を分けるだろう。その場合、「我々の宇宙には宇宙人はいない」という、ドレイクの方程式からは出てこない結論が導かれるのである。
観測されないと万物は波の性質があり、二重スリット実験はその状態を観測できないことを示している。この事実は誠に含蓄が深い。我々は「色」と「音」という波を知覚しているからだ。ここでいう波は万物を組成する量子の振動としての波と同一ではないが一定の振幅をもって反復する光子、大気の分子の運動であって、電磁波、音波と表される。光子は光を粒子としてみたとき量子であるが、音波は原子や分子の動きによってエネルギーを伝達する波だ。分子は電子・中性子・陽子という量子より大きいから音波は別物と考える。
音波は音楽という芸術を構成する基本素材となる。伝達物質は大気だけではなく液体や固体もあり、耳の可聴域は20Hz~20kHzだが耳以外で域外も感知している。音楽は五感のうち視覚、触覚、味覚、嗅覚を使わず聴覚だけに訴える芸術だが、けっして聴覚のみではなく、いわば「振動覚」とでもいうべき反復運動(波)への感覚が色濃く関係している。ベートーベンの第7交響曲を聴いた多くの人は感動と共に興奮を覚えるのではなかろうか。この曲の持つ律動の特徴を捉えてワーグナーは “舞踏の聖化” と表現したが、その律動(反復運動)こそ波(振動)であり、それを感じ取る「振動覚」を通じて覚醒、興奮(多分に性的なもの)を呼び起こす。つまり、波である音楽という芸術は人間の生命の源と深く関わっている。
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人間の相性は量子力学によって決まっている
2022 MAR 15 9:09:46 am by 東 賢太郎
人の相性というと一般にその人と「気が合う、合わない」ということである。合うというのは、2つの脳の相互作用に何らかの「同期」が測定されるということだと僕は経験的に考えている。その測定を僕らは言葉(音)、表情・行動(光)、匂い(分子)等の五感で行うが、判定するのは脳であり、脳内に形成されているシナプスの結合(回路)がプロセス(計算)した結果と思われる。
では僕の場合は実際にどうだったかというと、本当に(”かなり”)「気が合う」と思った人は67年生きてこの世に一人しかいない。これは、ある意味、非常に驚くべき計測結果である。彼は親族ではない。「彼も合うと思ったであろう」という予測に対して僕は高い確率を付与することができるが、確率でしかないのはもう会わなくなってしまったからで、ここで定義する「気が合う」が社会的に「仲良し」を必ずしも意味しないことを示していよう。
回路の形成は先天的、後天的の両方あるが、ある現象(”問題”)を入力した場合にどんな波長を発したかで僕は即物的に合う、合わないを判定しているだけで、遺伝(ア・プリオリなもの)は少なくとも関係はあっても決定的ではないと結論するしかない。もちろん性別、人種、年齢等それ以外のものは一切関係ない。
では合う、合わないを判定する回路はどう作動しているのだろう。観測はできないが、自分の脳は以下のように感じている。入力に対して起こると予測される自分の脳の反応と同じ反応が相手の脳にも起きる確率(同期率)が有意に高いだろうという予測が成り立つと、「合う」と判定されるのだ。反応の予測が立つということは、それを引き出すための説明がお互いに相当程度省けるということで、ツーと言えばカーという関係になり複雑な情報が正確にすぐ伝わる大きな利点があった。
ということは、たったひとりを除いて、67年間に知った全員が予測を有意な確率で裏切ったということを意味している。複雑な情報伝達の正確性は犠牲にならざるを得ない。お断りするが、そのことと社会的結びつき、おつきあいにおける選択とは関係がない(別次元)。両親もそうだし、妻もその意味でぜんぜん別な人だが結婚相手に選ばせていただいている。
以上、それが「非常に驚くべき計測結果」であるのは、計測方法(ロジック)が誤っているか、回路の同期率は一般に67年にひとり程度なのか、僕の回路固有の同期率の低さなのかであるが、以上のように「言葉」で表記できるということはそれは「実験で証明できる」ということではないだろうか。
というのは、例えば、「数学の問題を解く」という行為はその問題を等位に変換することで作題者が求める結論(”解答”と呼ぶ)に至るプロセスを言葉を補完して一切の論理矛盾なく表現することに他ならない。以上の6パラグラフで僕はそれをしたとするならば、それは「解ける」のではないかという問題提起だ。
いま僕は量子力学に興味がある。それを理解するレベルの数学の回路を脳に作っていないため、誰かが「言葉」で近似的に等位変換してくれたものを楽しんでいるに過ぎないが、例えばこれだ。
この「量子もつれ」を計測することにより、ブラックホール内部の現象(三次元)がその表面に(二次元で)記述されていることを示すホーキング博士の計算結果は、まさしく衝撃的だ。その式はこのビデオで示されている。
僕らが見ている(と思っている)三次元宇宙は実は二次元で書かれたもののスクリーンショットにすぎない。そんな馬鹿なとアインシュタインは言ったがそれが正しい(アインシュタインが間違っている)ことが数学的に証明されている、と説明されている。
ひとつわからないのは、二重スリット実験が光子で行われる必然性だ。光子でその現象が存在することは確実なのだろうが、光(映像)は観測者である人間の目がその知覚をもって「観測」としているからで、人間だって冒頭に書いたように五感すべてで知覚しているし、さらには、人間の五感のどれとも別な器官で観測する別な惑星の生物だったら「観測前は別な状態」という現象はどういう意味を成すのか。三次元トリック(?)にその生物はひっかからないのではないか。もしそうであれば、それは人間(あるいは光で観測する他生物)を想定して設計されたのではないか。とすると、その意志を持った何者か(造物主)の存在を想定する必要がどうしてもあり、その者は人間を少なくとも包含はしている生物を対象に造物したのではないかという疑問が僕の回路からは出てくるのだ。
ビデオで語られる、量子コンピューターが理論からでき能力が進化しつつある(マシーンが理論を追っている)という現実。大栗博士の研究の部分でビデオは「我々の時空で起きているすべての現象がそれを包む空間の表面に量子もつれで書かれている」「それに量子コンピューターの理論と共通する部分がある」「宇宙は数学的に閉じている可能性がある」と語っており、そして何よりも「物理学の最先端の研究をするためには新しい数学を作っていかなきゃいけない」という博士の言葉は数学が科学において何たるものかを如実に理解させてくれる。言葉なくして科学はなく、数学は言葉の一部なのだ。
「気が合う、合わない」を量子で読み解くことはできるだろうか?2020年のノーベル物理学賞受賞者ロジャー・ペンローズ博士の研究が参考になる。次のビデオでシナプス(回路)が説明されているが、ニューロンを作るマイクロチューブルの伸縮が観測前後で量子もつれ状態にあるというのが博士の仮説だ。
ご覧の通り、その脳を持つ人の行動は投資判断に至るまでシナプス(回路)次第という実験結果が示されており、それを継続的に観測することで我々はその人と「合う、合わない」という結論に至るのだが、そのプロセスには量子力学が関与している。つまり、主観的、感情的、本能的と考えられていた「人間の相性」というものは即物的に決まっているという命題が提示されており、そのことの「科学的正しさ」は暗号通貨の真偽がハッシュ関数という数学で証明されたブロックチェーンで担保されるのと同等と僕は理解した。
ということは、後天的にしか獲得できない「学習による回路の有無」は大きな要素になることが証明されたと結論して良い。だから、遺伝的に「合う」はずの両親や親戚一同がそのリストに入ってこないのだ。僕は数学が好きなのでその回路が一般人の平均よりはdevelopしているはずだが、同時に現実世界でのその使い方(アプリケーション)は個性があることを自覚しており、唯一気が合った彼も文系だが数学が非常に強くてその回路の運用方法に共通点があった。それをベースにした世界観が一致したということだったようだ。逆を解くと、そうでない人の脳とは合わないし、合わそうとしても壊滅的にどうしようもないというまったくシンプルなことだったのだ。しかし世の中はよくできたもので、夫婦も会社も、自分とは違う人と組んだ方がトータルではうまくいくのだ。量子力学もそこまでは及ばないのか、それも量子力学が決めたことなのかはよく知らないが。
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