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モーツァルト ピアノ・ソナタイ短調の名演

2017 DEC 5 0:00:26 am by 東 賢太郎

異形のソナタである。普通の美演が面白いはずはなく、ピアニストのテンペラメントが問われる。聴き手が求めるものとそれが合致した場合にうける感動の質はモーツァルトの曲の中でも特別のものと思う。巷で評価の高い録音というとご参考までにディヌ・リパッティ(スタジオとライブ)、フリードリヒ・グルダ、内田光子、マリア・ジョアオ・ピリスは挙げねばならないものであり一度は聴くことをお薦めしたいが、いかんせん、僕自身がk.310に求めるものは希薄である。

大ピアニストがモーツァルトのソナタをあまり弾いていないのは昔から指摘されることで不思議な現象だが、19世紀のヴィルトゥオーゾ時代に満場をうならせるコンサートピースになれなかったのは事実だろう。それはモーツァルトが「馬鹿なフランス人」と呼んだ種類の聴衆がパリ以外にも国際的に増殖したということであって、彼が長生きしなかったことの唯一の幸運かもしれないと思う。

その現象を「モーツァルトは技巧的に難しくないから」と言うのは間違いである。ベートーベンはミスを許してくれるがモーツァルトはそうでない。ご自分でK.310の譜面をさらってみればすぐ、これは難しいというか弾きにくく、素人が正しいテンポでノーミスで走破するのは無理ということぐらいは誰でもわかる。技巧的に難しくないなど勘違いも甚だしく、一流のプロでも緊張を伴い、そんなリスクを取るならできれば弾きたくないことと想像する。

それなのに聴き手は「普通の美演が面白いはずはなく」などと勝手なことを求める。モーツァルトでうるさいファンを黙らせるハードルは極めて高く、モーツァルトだけのピアノ演奏会となると僕などむしろ奏者にチャレンジされるようにすら感じる。「技巧的に難しい割に満足してもらえない」、つまり「コスパが悪い」が正解だろう。ショパンが弾く側に需要が高いのは、難しく聞こえて演奏効果が上がる割に弾きやすい、つまりコスパがいいことも一因だと思料する。ラフマニノフはさらにそうだが、奏者が懸命に格闘してそれなりに結果が出ると拍手は最大になるのだ。

僕もそうだが、そういうくだらない似非ヒーロー物語やご苦労さんの心優しい喝采が心の底からアホらしいグールドのような真の名手は、馬鹿な聴衆に媚びを売る気はさらさらなく、だからそういうものは弾かないのだろう。ちなみに彼もK.310を録音しており僕には理解不能の解釈をしているが、趣味の違いは百歩譲って、彼がこの曲とピアノ協奏曲第24番を愛奏していた事実は高く評価している。彼はモーツァルトが心の底から求めていた聴衆でもあるのだ。

 

エミール・ギレリス(pf)(ザルツブルグ音楽祭、1971年8月6日ライブ)

揺るがぬ遅めのテンポと深く彫琢されたアーティキュレーションの第1楽章マエストーソはまさに素晴らしい。展開部の嵐の部分で書かれた、モーツァルトには珍しいffとppの強弱対比にこれほど神経を配った演奏もない。第2楽章もテンポが崩れない。不変の時間感覚の中で遊ぶ装飾音と時折のルバートはまことに高貴だ。第3楽章は速くせずpの軽いタッチで始め狂乱には至らない。中間部はペダルを生かして対比を作る。異界には踏みこまず古典派の節度を保った演奏だがその路線での一級品。ベートーベン、ブラームス向きの鋼鉄のピアニストというレッテルだったギレリスだが、彼のモーツァルトはどれも見事である。

 

リリー・クラウス(pf)

クラウスの魅力はテンポの伸縮、強弱、フレージングの即興の妙で、自由奔放かというと、モーツァルトもそう弾いたかもしれないと思わされてしまう不思議な愉悦感とオーセンティシティを感じるところだ。だからppがだれることなく悲しみを湛え、耳を惹きつける磁力があるのだ。モントゥーとやったピアノ協奏曲12番に書いたことがそっくり当てはまる。これだけ歌う表現はほかに聴いたことがない。クラウスが「コスパの良い作品」を男勝りにバリバリ弾くことはなかったが、それは大方のプロならやればできることであり、大方のプロができずに敬遠したモーツァルトのソナタでいまだにオンリー・ワンの地位を失っていないのは驚くべきことだ。

 

ジョルジュ・シフラ(pf)

モーツァルトが奏者の技巧を透かし彫りにする良い例だ。リストの超絶技巧練習曲で鳴らしたシフラはコスパの人ではない。超絶技巧を弾いて超絶技巧にきこえない、野球の名野手が難しい打球を軽々と処理するとファインプレーに見えないというクオリティの、真の名手である。自在な指のコントロールは正確無比で清潔なアーティキュレーション、対位法の彫琢、理想的な和音のバランスで真珠のように働く。第2楽章のフレージングもまことに純正、古典派の流儀を脱することなくソプラノパートの歌わせ方は卓抜である。やや速めの第3楽章は彼のショパンに通じる。クラシック通の人ほどシフラのモーツァルトときけば敬遠だろうが、僕はもっとモーツァルトを残して欲しかったと心から思う。

 

ナディア・ライゼンベルク(pf)

1947年のライブ録音。軽めのタッチだが弱音に配慮があり、虹色に変化する美しさだ。かえがたい気品に包まれ異形の気味悪さは後退するが、第2楽章はロマンティックでありシューベルトの後期にある暗い深みを湛える。終楽章中間部の流れるフレージングの優しさはこの部分が何かを示しているようで、表面だけきれいに取り繕った演奏とは一線を画する。何度も聴きたくなる不思議な魅力ある名演で、こういうのをライブでやってしまう人の能力には敬服するしかない。

 

ウィルヘルム・ケンプ(pf)

僕はケンプのベートーベンをあまり評価しないがモーツァルトは好きだ。第1楽章のテンポの素晴らしさ!音楽が血肉となっており自発的なパルスとしてあふれ出ているが、本物の推進力とはこういうものだ。第2楽章の歌は古典派の格調を逸脱しないが、鉄槌の短2度は控えることなく苛烈であるなど表現のレンジは広く、K.310の要求を満たしている。第3楽章はやや遅めで音楽を解きほぐすが、僕はモーツァルトが悲しみに狂った感じがもっと欲しい。このテンポの方がソナタの起承転結はつくが、ドイツ人の形式観だろうか。

 

アンソニー・ニューマン(Fortepiano)

クレメンティ社1805年製のフォルテピアノによる演奏。冒頭から噴出するエネルギーはピアノだとうるさくなるが、楽譜はfとあるからこれは参考になる。マンハイムで強弱ペダル付きのシュタイン製のハンマーフリューゲルに出会ったことでk.310第1楽章はffとppの対比、管弦楽のダイナミックスを念頭に置いた曲作りになっているように思う。第2楽章の装飾音はこの楽器だと自然でピアノで弾くと重くなる音型の本来の優美さがよくわかる。第3楽章の神経をかき乱すブルレスケは当時として前衛的ですらあったろう。

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ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(4)

2017 NOV 28 20:20:47 pm by 東 賢太郎

 

ルドルフ・ケンぺ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ケンペのブラームスというと期待するが第1楽章がやや落ちる。冒頭の第1Vnに妙なヴィヴラートが付き、第2主題は拍節感が固くて陶酔感が希薄、展開部はテンポが落ちつかずだ。コーダにかけて加速する感覚も納得できない。速めの第2楽章は悪くなく、第3楽章も禁欲的でホルンソロは昔のドイツの古風な音だ。終楽章はBPOが弦主体の暗めの音色で魅せ、管がやや弱いがティンパニはインパクトがある(総合点:3)。

 

ジョン・バルビローリ / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

世評は高いバルビローリの全集だが僕には何がいいのかわからない。大学時代に1番のLPを買って面白くもなんともなく、それでもVPOだし何かはあるんだろうと後にCDで2~4番も聞いてみたがそれっきりだ。EMIが自社アーティストで売れるブラームスが欲しかったのはわかるが、VPOが巷に流布するセールストークどおりに素晴らしいブラームスだと感嘆したようにも聞こえない。僕の装置で聴く限り録音はDeccaの艶もDGの音場感もなく、ムジークフェラインのホールトーンをここまで捨てて楽器にフォーカスしなくても、これならハレO.でいいじゃないかと思う(総合点:1)。

 

オイゲン・ヨッフム /  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

上掲と同じBPOの1956年9月録音。これはフルトヴェングラー時代、ケンペはカラヤン時代。ヨッフムは実演を何度か聴いたが縦線を厳格にそろえる人でなく、第1楽章のアンサンブルは自然体。推進力とフレージングの起伏でもっていき再現部直前(ライン主題)のテンポ、音量を落としメリハリをつける。第2主題は表情があるがオケが散漫で残念。第2、3楽章は木管も弦も実によく歌い上出来。終楽章は第2主題で合奏が合わずライブであればまだしも時代を感じる(総合点:3.5)。

 

ダニエル・バレンボイム / シカゴ交響楽団

冒頭2和音からテンポを上げて第1主題が突進。第2主題は定例的に減速するがだれた感じがする。両主題をつなぐブリッジのテンポが活きないとそうなってしなうのでこの交響曲は開始からいきなり難しい。ただCSOの腕前と音響は圧倒的で文句のつけようもなし。第2楽章は上質の絨毯のような厚みがあり、第3楽章は甘みを抑える。しかし終楽章は余計なティンパニロールや突発的盛り上がりと解釈が表面的だ(総合点:2)

 

ブルーノ・ワルター / コロンビア交響楽団

冒頭より第2主題へのブリッジが自然で、こうでなくてはと思う。このオケは録音により実体が変わるがここでは管弦とも上等、木管ソロの音程の良さは特筆。どこがどうということでなく3番はこういうものだという風格は耳を澄ませて一聴してみるしかない。米国調の安手の録音で高弦と金管がきついのが実に恨めしいが、それにも拘らずこれほど欧州の香りと格調が漂うワルターの指揮には敬服しかなく、大学時代から今に至るまで時々聴く(総合点:4)。

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クラシック徒然草《永遠のルチア・ポップ》

2017 NOV 26 11:11:47 am by 東 賢太郎

アメリカ、ヨーロッパに13年半も住んでいてあれだけいろいろ聴いたのにと悔やむ人がいる。ルチア・ポップである。1993年11月16日、ドイツにいる頃に喉の癌であまりに早く亡くなってしまい愕然としたのを思い出す。若いころは可愛く清楚であり晩年でも天使のような清純派の声であったが、中高音で伸び、テンション、輝きが高まって厳しさが出てくるのがいい。ロマン派でも感情にまかせて音程が甘くなるようなことが絶対になく節度と規律がある。ムゼッタに起用されて「わたしが街を歩くと 」をやってもパリの蓮っ葉女にならないのは困ったものだが、そこがたまらないのだ。参りましたとひれ伏す気品と威厳がある人だ。顔もどことなく好きであり、いま最も癒されるソプラノといえる。

スロヴァキア人であるポップのデビューは1963年にブラチスラヴァ歌劇場でオットー・クレンペラーの指揮による「魔笛」の夜の女王だったが、僕が彼女を知ったのもクレンペラー最晩年の、そして彼女にとってデビュー録音である夜の女王だった。これは何度聴いても震撼すべき歌だ。後にも先にもこのアリアがこれ以上正確な音程で歌われたのを聴いたことがなく、しかも決して曲芸っぽくないのが僕が言う「節度」なのだがお分かりいただけるだろうか。それが立派な音楽に貢献しているところがクレンペラー博士の厳しい目にかなったのだと長年思っていた。

ところが本稿のために46才の時のインタビューのビデオを見ていて、それが正しかったことを知った。「自分のレコードは全曲盤で90もありますが、命の危険でもない限り一切聴きません。いまならそう歌わないから満足しないのです」と断言するポップが唯一の例外としてあげているのが「クレンペラー先生との魔笛」であった。「これだけはいまでも心に触れてきます。それにこの録音が私のキャリアを開いてくれたのです。メトロポリタン歌劇場の支配人ルドルフ・ビングさんがこれを聴いて即刻メットに契約してくれたのです」と語っている。その結果がこれだが、ライブでもまったくすごいものである。

もう一つの夜の女王のアリア(クレンペラー盤)の一発決めの高音も楽勝。この録音の時、ポップは歯痛だったそうだが関係ないんだ。僕はこの録音を、やはりデビュー録音で世界をあっといわせたジャクリーヌ・デュ・プレのエルガーのコンチェルトに比肩するものと考えている。

他は聴かないとポップに言われてしまうと困るが、このスザンナ(フィガロの結婚)はモーツァルトに見せてみたい。ナンシーとどっちが好きかな?っていうことで。

もう一つフィガロから、ケルビーノの「恋とはどんなものかしら」だ。この艶やかな美声、ゴージャスの極致。これは彼女にとっては技巧で作ったものなのかもしれないと思いつつ。

コロラトゥーラ・ソプラノで売り出したポップのこれが最高の出来ばえなのはいわば当然だろう。オルフの「カルミナ・ブラーナ」だ。なんと繊細で美しい!

ロマン派に行くと、僕はこれが大好きだ。グスタフ・シャルパンティエの歌劇「ルイーズ」から名アリア「その日から」だ。彼は寡作でオペラはこれだけだが、ボエームの雰囲気のある佳曲である。このアリア、ぜひyoutubeで他の歌手ときき比べてほしい。ジャンプした高いイ音(ラ)がポップほどつややかに輝いて安定しているのはなく、夢幻の心地でうっとりだ。ききほれるしかない。

ドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」から「月に寄せる歌」だ。何という気品!!もうひざまずいてルチア様と申し上げるしかない。

インタビューをきいて、彼女がスザンナやルイーズのような人ではないとよくわかった。暗さがあるのだ。母国語のように操っているドイツ語も、どこか心でなく頭から出ている風に見える。内省的で芯の強い人で、何かは知らないが自分の運命に反抗すべきものをもっているのだろうかと感じる。母国チェコスロヴァキアの劇団で若くして映画、舞台で知られ、共産圏から逃げて英米のマネジメントに売れっ子に仕立てられた人生。楽しんでいるとは言っているが、劇場で一人スポットライトを浴びるのは好きでないとも語っている。自分は皆で歌う中で育ったという彼女は教会音楽が似合うし、ご本人も派手なシアターよりしっくりきたのではないだろうか。僕もこれを歌ってる彼女が好きだ。モーツァルトのハ短調ミサである。

さらにいえば、彼女の心の本領はリートにあると思う。それもシューベルトの「月に寄せるさすらい人の歌 D870 」のような、ほの暗い中にも明るさを紡ぎだしてくれるあたたかい歌だ。晩年になって声のせいでリートに行く人はいるが、ポップの場合はここが故郷だったように思う。暗闇に光明を灯そうとするけなげな強さに、作られたスターダムは不要だったかもしれない。

最後に、僕が留学中に米国でFM放送を録音したテープをyoutubeにアップした。シカゴ交響楽団の1984年3月15日のライブで、指揮のジュゼッペ・シノーポリとバリトンのウォルトン・グレーンルースはこれがCSOデビュー演奏会であり、我がルチア・ポップはこれがCSO最後の出演となってしまった。ポップもシノーポリもグレーンルースも故人となってしまったいま、この演奏が広く世界の人の耳にふれることを願ってやまない。

マーラーの「子供の不思議な角笛」である。

クラシック徒然草-クレンペラーとモーツァルトのオペラ-

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ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(3)

2017 NOV 7 20:20:45 pm by 東 賢太郎

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー / ハレ管弦楽団

Mr.Sが当時の手兵ハレO.と録音した最初のブラームスSym全集。1987-8年にロンドンでCDとして発売された最初期のブラ全で、入手したてのCDプレーヤーで狂喜して何度も聴いた。思い出の盤なのでどうしても主観が入るが、客観的に聞きなおしてみても、なにより弦楽器セクションの絶妙な音色造りと管楽器の音程の良さがこのレベルのオケにして驚異的レベルで、内声部の管が良く聞こえるバランスが室内楽的完成度にある。一言でまとめるなら雄渾さと深いロマンの味わいが絶妙にブレンドし、3番の醍醐味を十全に描き出した名演。第1楽章、第2主題に向けてテンポを落とす、展開部終盤でホルンを強奏、意外な楽器バランス等個性があるが僕はまったく不自然と感じない。第2楽章、ホルンとクラリネットの主題の歌、弦の細やかなフレージング、第3楽章の一切べたつかない高貴な気品。終楽章、トロンボーンがこれだけ聞こえるのも珍しいが過度なヒロイズムにならず深い満足感に至って終結する(総合点:5)。

 

エヴゲニ・スヴェトラノフ / ソヴィエト文化省交響楽団

1981年録音。ロンドンで手当たり次第にブラームスSymを買っていた89年に全集で購入。Melodiyaとあるが当時のレーベルはOlympiaであった。オケに国民性によるカラーがあった時代にこういうのが出るとマニアはたまらなかったのだ。懐かしい。意外に?まっとうで拍子抜けだがホールトーンはやや人工的か。終楽章できつめのVnと金管がロシアらしくなるが、オケ(もうないが)はうまい。ソビエト社会主義共和国連邦の遺産だ(総合点:3)。

 

ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団

オケが鳴りきってバランスも良く理想的な第1楽章。やや速めの開始が第2主題で減速するに至る難しい提示が実にうまい。第2楽章は透明なアンサンブル、第3楽章は節度ある歌でじっくりブラームスのロマンをきかせる。終楽章、クリーブランドO.の威力全開だが、矛盾するようだがこれだけうまいと耳が贅沢になってどこか予定調和的に思えてしまう。上記ハレ管は手造りの完成度で耳目を捉えたが、文句のつけどころのないこちらはなぜか感銘度が落ちる。セルのブラームスはどれも高水準を満たすが、特に3番は彼に向いていたと思う(総合点:4)。

 

セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

当時「幻の」だったこの指揮者が初来日した77年、大統領でも来たような東京文化会館の熱気は忘れない。聴衆は読響からどんな音が出るか戦々恐々だった。エゴイストに思われるが、後年彼のリハーサルで目撃したのはドビッシーの求める音を微細なまでに純化して鳴らす求道者の姿だった。そこでもそうだったが、第2楽章のテンポ(というより)は陶酔感と時間感覚がタイアップした不思議な世界だ。セルのように基本の拍節感から音符、小節単位でルバートするのでなく、大きな単位での脈動に音量、フレージングの呼吸がシンクロして巨大な揺りかごにいるような心地よさだ。酔えずに冷めていると遅いと感じるのは晩年のブルックナーで顕著だったが、彼の音作り哲学はカーチス音楽院で見た83年からなんら変わっていないと思う(総合点:3.5)

 

ジョン・エリオット・ガーディナー / オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティック

確かに対抗配置のVnなどでリヴォルーショナリー(革命的)な音の聞こえる部分がある。オーセンティック楽器での音化はチャレンジングな試みだが演奏様式がこうだったかは僕には確信がもてない。ブラームス時代の奏者がここまで現代的な演奏技術があったかどうか。こう鳴らすには指揮もテクニックがいるだろうが、ブラームスがこんな切れ味良い棒を振ったとはどうしても思えないのだ。楽器音のリアライゼーション目的ならよいが、時代シミュレーションがやりたいならオケはアマチュアを使った方がそれらしくなるのではないか。しかし、いずれにしても、それを我々が知り覚えたからといって、3番のスコアからさらに深い感動が得られるようになるとは特に思わないが(総合点:1)。

 

ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(1)

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独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その4)

2017 NOV 1 22:22:16 pm by 東 賢太郎

ユリアン・フォン・カーロイ(pf)/ ロベルト・へーガー / バイエルン放送交響楽団

ハンガリーのピアニスト(1914-93)の滋味あふれる名演である。得意のショパンも持っているが、このシューマンはいっそう素晴らしい。自家薬籠中の表現は詩情もコクもあり最初のソロのクララ主題提示から唸らせ、随所のルバートや間は自在に取りながらも何一つ違和感を覚えさせるものがない。これぞこの協奏曲が求めているものだということであって、オケと競奏したりなにか奇矯なことをしようというピアニストとは根本から器の差を感じる。指揮もオケのフレージングもがピアノと呼吸が合い、感情レベルの高い次元で和合している。このクラスの演奏になると録音技術の進化やピアニストのスタイルの流行り廃りで古びてしまうというなどということとは無縁だ(評点・5)。

 

マウリツィオ・ポリーニ / クラウディオ・アバド / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

89年録音。ポリーニは絶頂期にあった。このイタリア人コンビのブラームス2番は聴きごたえがあるが、同じ透明感あるタッチのピアノもここではもうひとつ心に届かない。クリアなゆえにレガートが欲しい所で粒だって聞こえ曲想の転換でfになると低音が耳につくし、アバドの指揮も模範解答の域を出ずちっとも内側から燃えてこない。技術的な水準は大変高いのにあっそうで終わってしまう。美麗な博多人形を見ているよう(評点・2)。

 

リリー・クラウス / ヴィクトル・デザルツェンス / ウィーン国立歌劇場管弦楽団

指揮もオケも誠に二級だがピアノが入ると格調が増す。ゆっくりしたテンポの冒頭はユニークで、クラウスはクララ主題など歌う部分はたっぷりとレガートで弾くが、速いパッセージやカデンツァはスタッカート気味でペダルも控えf部分は男性的でさえあるから好みを分かつだろう。自分の音楽をやっているのだが聞かせてしまうのは曲想に強い共感があるからだ。彼女のソロ録音は名品が多いがコンチェルトとなるとモーツァルトでも伴奏者に恵まれない。このシューマンも何とかならなかったのか(評点・3)。

 

ウィルヘルム・バックハウス / ギュンター・ヴァント / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

出だしの「滝」からよいしょよいしょという感じでミスタッチもあり、オーボエの音程も低い。なんだこれは、これがVPOか。しかしだんだん調子が出るとさすがバックハウスという黒光りのタッチになってきてうなる。クラリネットの第2主題あたりからはオケも悪くはないが、残念ながら拍節感を守るヴァントの指揮が何とも杓子定規だ。第2楽章もロマンに酔わせてくれない。カデンツァはあまり弾き込んだ感じはなく、もつれている。バックハウスの貴重な記録だが、どうも僕の耳にはやっつけ感を否定できない(評点・2)。

 

サンソン・フランソワ / パウル・クレツキ / フランス国立放送管弦楽団

フランソワの右脳型のピアノについていける人には面白く、オーボエもクラリネットも思いっきり「おフランス」でどこか違うでしょの空気が漂う。ピアノは第2主題で没入したと思えば一気に展開部で激してみたり。この人のテンペラメントを僕はあまり得意としないが、例の楽譜の部分の弾き方など実にユニークであって、そうでなくてはいけない必然は何ら感じないがまあそれもいいねと言わせてしまうものがある不思議なピアニストである。第2楽章のオケとのずれまくりはすごい、クレツキは大変だったろう。しかし終楽章のオケは健闘しており指揮者の力量を見せつけて満足感をくれる。それにしてもだ、バックハウスはあまり練習してないのが正直に欠点となっているがフランソワはそれって味があるねという風に薬味にしてしまう。得な人だ(評点・2.5)。

 

独断流品評会 「シューマン ピアノ協奏曲」(その1)

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天才演奏家はもう出ない

2017 OCT 7 15:15:20 pm by 東 賢太郎

このブログに野村君がくれたコメントは大変考えさせられるものがあった。

チェコ・フィルハーモニー演奏会を聴く

欧米のクラシック界ではかつてより日本は大市場であって、減ったとはいえいまだにCDが売れている有難い国だ。野村君の看破する通り「島国根性」あり、大衆には薄れたとはいえまだ根強い「欧米への憧れ」もあり、セレブを気取りたい新興富裕層にはハワイの別荘、高級フランス料理とならぶ洋モノ必需品としてバカ高いオペラのチケットが昔の高島屋の商品券みたいな価値を有している。

僕はグローバルホールセール証券界で38年飯を食ってるから世間の諸事の本質はすべてカネで読み解くことができると英国経験論的に確信を持っている。どんな複雑怪奇な出来事も紐解けばカネであって、もしそれでもわからないことがあればイロが原因だと考えてほぼハズレはない。イロもほとんどカネで片が付くのが冷たい現実だから、ほんのおまけではあるが。

その程度のことは口だけの評論家でも多少知恵が回ればわかるだろう。しかしカネというのは自分で千億円単位を動かしてみないとわからないものなのだ。百万円単位と一億円単位では性格が違う。千億円になるとまた違う。どっちが重い軽いではない、カネは動かす単位によって「性格」があるのである。

この野村君の教えてくれたリストを僕はそういう回路で理解するのであって、実に様々なことが浮かんでくる。明らかにカネが見えてくる。面白い。

http://www.harrisonparrott.com/artist#all

カネが誘因でヒトが動き、日々のニュースとなり、その集大成が歴史と呼ばれている。ニュースの段階でイメージ2,3割、歴史になったあかつきには5割ぐらいウソがまじっているが、それをくそ真面目に学校で暗記させられているから「私はそうは思わない」という声が出ない。大ウソはばれないから、99%の人々は自分が実は自分には関係ない、自分の懐には絶対に入ってこないカネの渦に巻き込まれて人生が決まっていることに気づかないのである。

大ウソの先入観の中で生きているから人々は毎日のニュースにある小さなウソを見抜けない。「先生とお巡りさんは悪いことはしない」「大企業に入れば安泰だ」「人生お金だけじゃない」・・ほんとにそうだろうか?そうやって疑って毎日のテレビのニュースを見ていれば少し目が覚めて、「先生やテレビの言うことは正しい」が大ウソだということもわかってくるだろう。

クラシックの有名な作曲家で天才でない人はいないが、演奏家で天才はほとんどいない。天才というのは歴史上の天皇の諡号のようなもので大体が事後的に業績の評価の絶対値が定まってから与えられる称号に等しい。作曲家の評価は作品だけであって作品は死後も残るから諡号がつくが、生きていないと聴けない演奏家に諡号がつくのは例外的なのだ。

しかし、それを認めたとしても、天下の形容詞を伴ったヘルベルト・フォン・カラヤンの名が死後30年足らずでこんなに忘れられようとは思わなかった。演奏家が天才でいたいなら、彼らも録音という作品を残すべきなのだが、それでも、それにしても、当時あたうる限りの最上の音とオーケストラでそれを最も大量に残した一人であるカラヤンにしてこの有様なのだ。では演奏家の天才とは誰なんだろう?

もちろん野村君のリストにある演奏家は当代世界一流の技術を持つ名手たちだ。クラシックを楽しむならこの人たちのチケットとを買うことに異論などはさみようもない。しかしではどの人がいいのか、そこに名のない日本人にそういう人はいないのか、この人なら平均よりもっと楽しめるのかとなると別な話だ。そして、天才とはそこに名のある世界の最上級のレベルの人達の中でもさらに格段に図抜けている人のことなのだ。

皆さんこのリストにカラヤンやカルロス・クライバーやチェリビダッケが「タレント」「売り物」っぽく並んでいる光景を想像できるだろうか?

証券取引所に上場すると株式会社は俗にチップと呼ばれる。カジノでおカネ代わりに使う丸いプラスチックの札で、優良株は「青札」(ブルー・チップ、blue chip)、香港上場の中国株はレッド・チップなどと呼ぶ。ポテトチップもchipである。企業の個性はいろいろでも上場したら規格製品であることは証券取引の法制面では重要だが何とも安っぽい印象をもたらすのも事実だ。リストは音楽家がチップ化した印象を僕に与えるのである。

こうなるとそこで誰かを選別して答えを探すことに僕はあんまり情熱を持ちえない。AKBの女の子の誰と握手したいですかという問いとかわらない。演奏家は生身の人間だ。好不調もあろう、まあここにいる人はうまいんだろうから誰でもいいんじゃないと思考停止する。僕は神だったピエール・ブーレーズがニューヨーク・フィルを率いて日本でやった春の祭典を聴いて、なんてことないフツーの演奏で幻滅した経験がある。いやあれは猿も木から落ちるであって何かの間違いだろうとフランクフルトでロンドン響のをまた聴いたが、やっぱりフツーだった。

ということは彼のレコードの方が特別なのであって、録音技師やミキサーらの合作効果だったと思うしかない。後のDGとの同曲録音はこれまた見事にフツーなのだから、あの奇跡のような69年のCBS盤は録った時点でのあらゆる要素がうまくかみ合った録音作品なのだ。高倉健がマンションとベンツを売って凍傷にまでなって撮った映画「八甲田山」みたいな一期一会の「作品」だったと評価したほうがいいのだろう。ブーレーズは天才であり続ける稀有な演奏家になれたかもしれない。

ところがネット社会化が進み音楽は「コンテンツ」となってばらまかれる世の中だ。春の祭典など無料で何十種類もyoutubeで聴けてしまう。そこにスタジオでコストをかけてもう1種の祭典を市場に放ったとしてどれだけの収益が望めるだろう?おカネで見るとはそういうことであり、それならyoutubeでコンサートを無料公開するかライブを安価にCDにして広く買ってもらい、次のコンサートに来て高いプログラムやグッズも買ってくださいというビジネスモデルになる。欧米はもう何年も前からそれが常識だ。

そういうおカネ環境の中だから、録音機会が減ったばかりか、あってもライブの一発取りばかりでスタジオ録音が激減している。俳優のブロマイドが消えてスナップ写真ばかりなったわけで、自撮りに毛が生えたような写真だけ残してレジェンドになれといわれるようのなものであって、現代のクラシック界で演奏家が天才として歴史に名を刻むのは至難なのだ。どんな名演をしてもライブの一発芸で消え去るなら会場にいたせいぜい2千人の聴衆の記憶に残る以上の拡散はない。その程度の拡散がネットの拡散に勝利する蓋然性は残念ながらほぼゼロであり、チケットをタダでもらったお兄ちゃんが「つまんね~」と書きこんだツイッターひとつで名演が葬られる危険だってある。

ネットが音楽家の録音機会を奪い、天才になる機会まで奪う。そんな時代におカネとリスクをかけて音楽家になろうという若者が続くのだろうか。先日、ある弦楽器屋の店員さんと話したら「音大の子の就職先がなくってね、困ったもんです」と嘆いていた。「だってオケの求人なんてほとんどないんです。定年まで辞めないし、定年になっても知った人をエキストラで使うんで」だそうだ。今は作曲家も演奏家もちゃらいゲーム音楽が食い扶持だそうで、「ベートーベンを真面目にやっても食えませんねえ、天才は別ですが」だった。

しかし、天才だって天才になるのが難しい時代なのだ。

 

クラシック徒然草-音楽のマクドナルド化-

歴史の大ウソについてはこちらへ

はんなり、まったり京都-泉涌寺編-

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クラシック徒然草《癒しのピアニスト、ケイト・リウに期待する》

2017 SEP 21 0:00:00 am by 東 賢太郎

癒しというと芸術家に失礼なニュアンスがあろうが、この人のピアノにはそれを感じるから仕方ない。このインタビューで語っているが、子供のころリストやラフマニノフをばりばり弾くのに夢中だったが、音楽が好きになってテクニックじゃないことに気がついた。音楽のソウルを感じ取るのが先だと。まったく同感だ。短調にかわるフレーズで彼女が音楽を止め、感じきっているもの、それだ。それは僕もソウルで感じているもので、そこで彼女と交信できる、それが究極の癒しと感じるのだ。

彼女のppはとても美しい、ちょっと他の人と鮮度のクオリティが違うものだが、技術を磨いて美しく弾こうということではなくソウルが感じたままに音にするとそうなるという性質のものだ。感じとる知性があり耳が良いのだろう。和声変化のような壊れやすくデリケートなものに敏感に反応している、それが伝わるのだ。いや、それなしの演奏って何なのだろうといったほうがいいか?

表情は自分だけの世界に入ってしまっている。それは感じたものがドミナントになって彼女を支配している姿であり、作曲家が音楽にこめたソウルと交信している瞬間だ。その瞬間を聴き手が共有することで聴き手も作曲家と交信できるのだ。そういうのが良い演奏だと僕は思っている。ショパンは苦手だが、この子の演奏なら何時間でも聴いていたいと思う、というより、ショパンと交信させてくれるピアニストがあまりいないから苦手になっているとさえ思う。

知性と書いたがIQのようなものではない、上のインタビューで彼女はリスト、ラフマニノフを「flashy pieces」と言っているがまず第一にそういうもの(「ケバい」という侮蔑的な感じだ)であり、第二にソウルを感じきって楽興の時に浸っている自分を知って、それを客観視して自分なりの言葉でしっかり表現できる力だ。インタビューを見ればわかる。音楽演奏はプレゼンテーションであり、音は言葉にできないがそれをしている自分のことは語れるのである。知性なき人にはできないし、できるならばいくら緊張しても飲まれるということはない。

前回のショパンコンクールのファイナリストの本選演奏は全部きいた。ジャッジ東は、ここに書いたが、彼女が一位である。

ショパン・コンクール勝手流評価

本選の第1協奏曲もその前の第3ソナタも、第1楽章の第2主題が白眉だ。減速するが全くわざとらしさがなく、そのテンポこそ彼女のオハコだから頗る説得力がある。マズルカと同様に悲しさや憧れが滲み出ており、これぞショパンだ。そして速い部分はばりばり弾いてた子供のころの腕前が発揮され、しかしflashyにはならない大人の知性が働いて、僕のようなうるさいオヤジにも納得感を与えてくれる。オケがまったくひどいが、一流の指揮者と凄い名演をいずれやるだろう。

ショパンだけかというとそうではない。僕のうるさいオヤジモードが倍加するモーリス・ラヴェル「夜のガスパール」のオンディーヌだ。

これが16歳となると将棋の藤井4段なみだ。テクニック(これも凄いが)じゃない、ソウルが完全にはいってるのだから。ちょっと指がもつれるがそこの和声(ダフニスってわかってるかな?)も感じてる。こういうのは先生に習う領域のものではない、それは「正しい文法が大事」と習って杓子定規になる三人称単数のSにうるさい日本人の英語とおんなじ。自分の言葉ではないからハートが伝わらない。正しいのがうまい英語とする英語の先生のための英語教育みたいな音楽教育は脱却しないといけない。

中国人、韓国人、ベトナム人が取っているショパンコンクール1位を日本人が取れないというのは何が原因なのだろう?僕の印象だが、これはピアノだけの話ではないと思う。世界大学ランキングをご覧になると、今年はなんと東大が過去最低の46位、京大74位で凋落傾向、かたやシンガポール大が22位、北京大学が27位、北京清華大学が30位、香港大学でも40位とアジア勢が急上昇だ。東大を東京芸大に置き換えればピアノの話になる、つまり同根の現象なのではないだろうか?

大学ランキングは英語圏のコンセプトで作った手前みそ評価だという声もあるが、その英語圏文明をいち早く吸収してアジアで唯一英語圏で優等生だったから日本国の繁栄があったのである。それが誇れることか良いことかが問題ではなく、その地位をアジア諸国にどんどん奪われている相対的地盤沈下こそが問題なのだ。それを直視しないのは敵に囲まれたダチョウが砂に頭を突っ込んで敵を見ないようにするようなものだ。

僕はケイト・リウさんが何国人であろうと、彼女が日本を好きであろうと嫌いであろうと100%何の関係もない(ちなみにシンガポール生まれでエスニックには中国系の米国人だ)。彼女と尖閣問題がクロスすることはないし音楽に国境はないというお仕着せの言葉の信者でもない。彼女の紡ぎだす美しいピアノの音色と、音楽に全身全霊をささげる姿勢が気に入ったまでで、どこに生まれようとどんなジャンルであろうと才能を神に与えられた人には等しく関心がある、それだけだ。

彼女は性格も明るそうだし、何よりもピアノを親にやらされました感がまったくない。ここが僕として最も共感できるところなのだ。この若さで好きなことを好きなだけやれば伸びしろは無限だ、本当に楽しみな人である。手前みそだがフィラデルフィアのカーチス音楽院というのがまたいいね、日本の心ある若手アーティストは海外赴任は嫌だという商社マンみたいにだけはならないでほしい。どんどん海外へ出て勉強し、オペラもシンフォニーもたくさん聴いて、音楽浸りになって本物を身につけてほしいと心から願う。

 

 

シューマン「子供の情景」(カール・フリードベルグの演奏哲学)

 

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ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(2)

2017 SEP 20 1:01:04 am by 東 賢太郎

ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1949年12月18日、ベルリン、ティタニアパラストにおけるEMIのライヴ録音。モットーのもっさりして音程の甘い入りから集中力がない。テンポは変幻自在やり放題でオケが懸命に棒について行っているのがわかる。展開部終結のホルン以下は最徐行となり再現部終盤で加速しまくりアンサンブルは乱れる。これをファンは変幻自在の妙と前向きに評価するのだろうが1番で見事に活きたその手は3番では構造的にワークしない。第2楽章の木管の音程、これは信者であるか骨董品収集家でもないと耐えられないだろう。終楽章最初の異様なテンポの遅さからアレグロでスコアにないティンパニを付加して大爆発、申し訳ないがチープだ。おそらく彼の気質から腕を振るう盛り上げ処がスコアにないと思ったのだろう。(総合点:1)。

 

ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

上記盤の後、1954年(死の年)の4月27日に同じ場所で録音。演奏は同工異曲で両端楽章をものものしく劇的にやりたい。彼流儀のブラームスのコンセプトは1番、4番でプラスに、2,3番でマイナスに出ている。彼はシューマンのラインを賢明にも振っていない。3番もやめておくべきだったがきっと魂に響く物がスコアにあって、必然的にそこのデフォルメになってしまうからこうなる。EMI盤より慎重であり音程はまし。第3楽章の歌はフレージングの細やかな呼吸と強弱が見事で、さすが女にもてた男である。終楽章で醜怪なティンパニの付加をやめたのは誠に賢明だがテンポの変化はいまだ勝手であり、再現部の前稿楽譜6の裏のホルンが鳴っていないなどとても評価できない。そもそもグランドデザインは何ら変わっていない。(総合点:1.5)。

 

レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

彼の教養は図抜けており20世紀の専業指揮者で作曲がまともにできたのはマーラー、ブーレーズと三人だけだ。演奏がテクニックだけでよいはずがない。第1主題伴奏のシンコペーションをビデオでの「解説通り」鳴らしているように彼の特徴は微視的な観察によるミクロの積み上げて耳は完全に作曲家だ。第1楽章はテンポ観に賛同できない(遅すぎ)が第2楽章はVPOの木管の第3楽章は弦の勝利、最高に美しい。終楽章はいい、終章への持っていき方が納得だ。短い交響曲であり4楽章個々の長さもバランスしている3番の造形は全体の構造と作曲の背景を俯瞰していないとうまくいかない。3番は教養と愛を問う。(総合点:4.5)

 

エヴゲ二・ムラヴィンスキー / レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

重戦車の走り出したような第1主題だがはミクロの造形に目が行っていることはヴァイオリンにスタッカートが入ることでわかる。終始辛口で硬派であり中間楽章も甘ったるさとは無縁、第3楽章のロシア丸出しのホルンソロは異質だがLPOの技術の高さはわかる。終楽章の出のテンポはこれだ。ff の爆発は僕の許容の限界に達するがそこに殊更の力点を置くわけでなくダイナミクスの脈動の範囲と我慢できないことはない。録音はffがやや混濁気味。総じて解釈は理性的でコンセプトとしてバランスがいい。(総合点:3)

 

アルトゥーロ・トスカニーニ  /  NBC交響楽団

1952年11月4日、 カーネギーホール録音で音はあまりよくない。第1主題を小節ごとに区切って個々のバスを強調する!ここの和声の意匠の真相を見抜いていない者にスコアにないその解釈は出ないだろう。後続のパッセージでふっと力を抜いてフェイントをかけ脱力していく準備を周到にしながらテンポを落として第2主題に至る間合いは見事。そこの割り切れない和声の混沌とした心情はまさにこれだ。展開部への移行でほんの気づかない程度の減速、理想的な管弦のバランス、再現部の第2主題の出現前の第1ヴァイオリンの歌の絶妙な切なさ。この第1楽章はベストのひとつ、こうべを垂れる。第2楽章のチェロの涙を浮かべた心の綾、第3楽章のヴィオラ、ホルン!カンタービレ、歌、歌、歌。ここにボエームを振っているトスカニーニがまざまざと重なってくる。彼は中間2楽章にそういうものを見たわけで、ここは男が人生でどんなロマンスを経験してきたが如実に出てしまうのだ。そういう引力のある音楽でありそれに重点を置きたくなる指揮者はいくらもいるが、ほとんどは両端楽章がそれに引きずられて崩れていき、こっちは何を聞いたのかわからなくなってしまう。トスカニーニはそんなことはまったく無縁で、4つの楽章がきりりと隈取りされ全曲の調和が珠玉のように保たれている。終楽章は金管がうるさく第2主題のチェロがやや薄いなどNBCと思われぬ瑕疵があってレベルが落ちるが、これだけ「わかってる」指揮者と時を共にするのに何の支障があろう。指揮が感じていないのにオケが馬なりに勝手にやりましたということはあり得ない至芸の連続であって、トスカニーニの読譜力が超人的であった何よりの証左だ。それがわかるプレーヤーの集団だったから専制君主制が成り立ち、NBCは全米トップのオーケストラに君臨したのだ。(総合点:4.5)

ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(3)

 

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ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(1)

2017 SEP 17 15:15:01 pm by 東 賢太郎

第2番と同じことを3番で。お断りすると僕にとってLP、CDの演奏は前稿に詳細に述べた「自分がスコアから読んだ3番」という偶像をレファレンスとした比較であって、それ以上でも以下でもないのも2番と同じだ。皆様のご愛好する盤で意見が異なるなら、それは偶像を共有していないということになる。次回に書くが、1番で激賞したフルトヴェングラー盤への評価など同じ人間の文章かと思う方もおられようが、フルトヴェングラーも僕も大真面目にやっている同じ人である。違うのは1番と3番という音楽がもっているものの方なのだ。

 

エール・モントゥー / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

モントゥーが最も敬愛した作曲はブラームスで死の床でドイツ・レクイエムのスコアを胸に抱えていたそうだ。これを聴くと彼が正規録音を2番しか残さなかったのは痛恨の損失と思う。第1楽章は理想的なテンポで感情の起伏も彫りが深い。第2,3楽章はやや速めだが後者の情緒纏綿たるロマンの綾は感動的だ。終楽章は弱音で出だしのテンポを抑えるが主部のまさにこれ。要所のティンパニのffが決まっている。ACOも良く鳴っており3番を熟知した棒は真打ちの名に値する。コーダも粘らない、これでこそスコアが生きる。感服。本質をぎゅっとつかむ解釈は彼のダフニスとクロエの読みに通じるものがある。(総合点 : 4.5)

 

ミヒャエル・ギーレン / 南西ドイツ放送交響楽団

93年5月にフランクフルトで聴いたこのコンビの3番は忘れえぬ至福の時でブラームスをドイツでドイツのオケで聴くのは感涙ものだった。インテンポで無表情のようだがオケの音程が良好で和声の透明感、アンサンブルの精度が素晴らしい(対位法処理!)。第3楽章の弦は実演で美しかったがCDでも良い。管楽器が時に強奏される硬派の両端楽章が筋肉質の中間楽章のロマンを包むアプローチは適正に思う。アルテ・オーパーで名演に拍手が鳴りやまず第3楽章をくり返したのが印象に残っている(総合点 : 4)

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

冒頭、誠に構えの大きい第1主題は雄大なライン川を彷彿させ第2主題は繊細な悲しみを湛える。クレンペラーの音楽歴はフランクフルトと縁が深く、僕が住んだケーニヒシュタインのサナトリウムで療養していたこともある。1924ー27年にヴィースバーデン歌劇場の音楽総監督を務めたが、あの地で3年居住してシューマンのラインとの近親性に感じるものがあったのではないかと思ってしまう名演である。第2楽章の暗い側面にも光が当たり解釈に底知れぬ深みを感じる。木管の音程が見事なのは彼のオペラでの歌手のそれと通じる。第3楽章は弦主体ではなく木管、ホルンが明滅するグレーがかったロマンが好ましい。終楽章は立派極まる。オケの彫が深く巨魁な建造物の如き威容を見せるが随所の醍醐味は万全に押さえているという名人の至芸。最も好きな演奏のひとつ。(総合点 :5)

 

オットー・クレンペラー / フィラデルフィア管弦楽団(1962年10月27日ライブ)

こちらはPHOとのアカデミー・オブ・ミュージックでのライブ。残響が少なくマイクがオンで各セクションの合奏がステレオで良く聞こえるが恐ろしくうまい。オーマンディー時代のPHOの高性能ぶりが味わえる。クレンペラーの指揮は5年前録音の上記正規盤のコンセプトと同一だが、その解釈がいかに緻密で微細なフレージングの呼吸まで整えた結果か奥義が伺えて興味深い。彼の解釈はライブだろうが他流試合だろうが揺るぎない(少なくとも3番においては)ことが証明されている。僕はこれを愛好している。(総合点 :4.5)

 

クルト・ザンデルリンク / ドレスデン・シュターツカペレ

東ドイツ人による3番である。第1楽章は遅い。ラインとの近親性とはかけ離れた読みだ。このテンポでは第2主題の仄かなロマンも対比として引き立たず平板になってしまう。第2楽章の木管は美しいが暗さに欠ける。第3楽章のしっとりした弦の味わいはさすがDSKであるが木管の歌が律儀だが四角四面だ。美しいが情念や彫の深さがない。終楽章はティンパニがまるで弱い。総じて、録音のせいとは言い切れずどうしてこういうスコアの読みになるのだろうという疑問に終始だ。ザンデルリンクとは3番ではまったく意見が合わないということでどうしようもない。(総合点 :1)

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

冒頭の2和音からずっとレガートだ。これは違う。第2主題の p のもひたすら耽美的方向に向かう。R・シュトラウス演奏なら完璧だが彼は3番にアルプス交響曲ほどのものしか読み取っていないということだ。まったく同じ路線でやったシューマン3番がひどいものであるのと軌を一にする。見事に弾かれた美麗な演奏だが何の滋味も醍醐味も感じない。こういうのを英語でbimbo(美人だが頭が空っぽの女)という。第3楽章は独立してムード音楽集には使う価値はあるだろう。僕はBPOというオケにずっとこのイメージがあって半ば馬鹿にしていたが94年のカルロス・クライバーで変わった。(総合点 :1)

 

ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(2)

 

 

 

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アルバン・ベルク「ピアノ・ソナタ 作品 1」

2017 AUG 26 2:02:21 am by 東 賢太郎

暇があればyoutubeで名前も知らない若い人のピアノ演奏を聴いている。年寄りや大家の録音はいくらもある。しかしそれは生身の演奏ではない「音の缶詰」であって、そのことを忘れて没入すればおいしく頂けるものの、微細な部分まで記憶するほど聴いてしまえばやはり缶詰なんだという現実に戻ることになる。

といって、ライブ演奏の「一回性」のみを重視する聴き手でも僕はない。一回の「あたり」には少なくとも十回の「はずれ」が必要で、そんな暇も根性もない。一回だけは新鮮だが繰り返すと飽きる演奏家はたくさん存在していて、それを言葉にすると「深みがない」とでもなるんだろうが、ではその深みの実体は何かを突き詰めた論評は見たことがない。「定義できないもの」が欠けている、というのは空虚な感想でしかない。

本稿はそのような言葉を使わず、主観ではあるが何を良い演奏と考えているかお示ししようというものである。それが一回性でも百回性でも構わないし、一度惚れた人がまったく合わなくなった例も多くあるが、人は変わる。音楽とは日々生きている人間の精神、感情を最もピュアに、何物の介在もなく、迫真のメッセージとして心の奥底に届ける唯一のメディアであると思う。だから「良い演奏」「名演」が絶対的価値としてあるわけではなく、演奏家(ひとり)と聴衆(多数)の組み合わせの数だけの価値があるし、時間とともに個々の価値は変わる。

僕にとって好きな演奏家の定義。これを説くには文豪夏目漱石が円覚寺に止宿して管長釈宗演老師に与えられた公案「父母未生以前本来の面目」に触れねばならない。面目とは顔つき、顔かたちだ。両親のまだ生まれる前の、あなたの本来の姿はどのようなものか、という禅における問いである。無限の過去から受け継いで、父母から授かった無量のいのちこそが本来の姿であって、それは座禅を組んで心を空(くう)にしないと知り得ないそうだが、僕は良い音楽は空の心持ちになって聴きたいといつも願っている。

好きな演奏家かどうかは、その空の心持ちに入った時に、その演奏家の心に超認識的な共感をする瞬間があるかどうかに尽きる。接触感と書いてもいい、それは演奏家との間の感性と感性の究極的にデリケートな触れ合いと和合であって、ミケランジェロ作「アダムの創造」(下)の神とアダムの指先が今にも触れようとしている、そこに流れる電流のようなものだ。この電流を感じるなら、その演奏家とは触れ合える何かを僕は共有したと感じることになる。

 

 

なぜ指揮者でないか?彼が音を出していないからだ。彼のコントロール下にはあっても音は奏者のものである。奏者(ひとり)と指揮者と僕(ふたり)がいる関係であり、彼も僕も同じ他人の出す音を聴いているだけだ。いえいえ、本日はベルリンフィルですから私の意図は完璧にリアライズされます、といっても他者介在という絶対的限界の前では説得力はない。百回に一度ぐらい完璧があったとして、そういう偶然が重なって今日は名演でしたというのを重んじるのが一回性の愛好家だが、それにはなりきれない。

僕がトスカニーニを好むのは、あれほどの専制君主であれば限界は最小値になっているだろうと信用する側面が大いにある。奏者のオーディションから音の微細なミクロまでだ。お友達内閣型指揮者は奏者をやる気にさせるプロではあるだろうが、限界突破をあきらめた2位狙いの妥協だ。指揮はマネジメントでもあろうが、他人のマネジメントの苦労を金を払って見てみようとは思わない。

ピアノは「ひとりオーケストラ」ができる楽器であり、ピアニストは訓練さえ積めば自分の肉体を完璧に支配できるだろう。そうなればその音楽は彼、彼女の感情、フィーリングそのもの、父母未生以前本来の面目であり、そこで初めて、その演奏家と超認識的な共感をする条件が整う。トスカニーニの指揮した音楽は、指揮者がピアノを弾いているのに最も近似したものだ。専制君主が是か非かは論点ではなく、近似させるにはそれしかないだろうと思う。

さて、アルバン・ベルクのピアノソナタに移る。この曲ほど「超認識的な共感をする瞬間」を求めるものはない。僕の最も愛好するソナタの一つであり、彼の最も優れた美しい作品のひとつであり、オーパス・ワンでありながら和声音楽の辿り着いた最終地点である。この驚くべき和声への、心の奥底での畏怖や感嘆がない演奏家と共感することは、僕には不可能である。明確にウィーンを感じるブラームス、シェーンベルクの系統に属するが、単一楽章で提示部、展開部、再現部をもちつつも冒頭のこの主題が素材となって統一感が与えられ、しかも主題が変奏されながら時間とともに変容するのはドビッシーをも感知させる。作曲された1907-8年は主題の時間関数的変容をもつ交響詩「海」の2年後だ。主題はいったん上昇してアーチ状の弧を描いて下降し、リタルダンドしてロ短調に落ち着いたように見えるが解決感はない。この主題の性格、そして曲の最後に初めて深い充足感を持ったロ短調の解決を見せている点がトリスタンの末裔であることも示している。まさに音楽史における和声音楽の解決点なのだ。

このソナタをうねるような情感と歌で表現した演奏がイヴォンヌ・ロリオ盤だ。各声部が各々見事にルバートする様、流れるような緩急、バスの効かせ方などウィーンの後期ロマン派を完璧に咀嚼、体感した上にしか築かれようのない表現であり、文化は知性であるとつくづく感服させられる。アンサンブル・オペラかカルテットのようで、和音が一切混濁しない。この曲でこれだけピアノピアノしない有機的なピアノ演奏は聴いたことがなく、何度聴いても琴線に響いてくる。最後のロ短調の悲しさはまさに迫真のものであり、超認識的なフィーリングを共感する瞬間の連続だ。ロリオはメシアンの奥さんでトゥーランガリラ交響曲のピアニストとしてしか認識がなかったが、これを聴くと大変な能力の方と拝察する、一度でいいから実演を聴いてみたかった。

次はまったく知らないお嬢さんだが良い感性をお持ちと思った演奏だ。この曲の展開部は激して ff がうるさかったり、内声部を鳴らし過ぎて和声が濁ったり、リズムやポリフォニーが雑になってつぶれる演奏が大変多い。それを「ピア二スティック」と思わせる誘惑が潜んでいるのはわかるがこのソナタはリストの延長線上にはない。そこを未熟ながら悪くない味で弾いているのがこのNefeli Mousouraだ。ロリオと比較しては気の毒だが後期ロマン派の様式感はまったく欠いており、逆にこんなカラフルなベルクがあっていいのだろうかと思わせるが、むしろそれは個性なのだ(国籍を調べるとギリシャだ)。下品な「ピア二スティック」を回避しつつドビッシーのようなピアノ的ソノリティで和声を感じ切っている。之を好む者しか通じ合えない繊細な神経の切っ先で共感するものを感じた。

最後に、全く対照的にモノクロで、和声の陶酔よりも主題の彫琢と論理構成の解きほぐしに技巧が奉仕している演奏がグールドである。彼はこれをベルク最高の作品として愛奏したが全く同感である。瞑想のように開始して後半で速度を落としpをppで緊張の極点をつくる異例の演奏だ。ピアニスティック志向の人達がffにそれを求める(まったくナンセンスだ)のとは真逆だが、よく聴き込めばピア二スティックという点でも彼らを圧倒している。それをどう使うかが芸術家の格の差ということであり、即物的でロリオとは同じ曲とすら思えないが、僕はこれにいつも悲愴交響曲と同質のエトスを見ている。

 

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