シューマン交響曲第3番の聴き比べ(6)
2023 JUL 5 19:19:46 pm by 東 賢太郎

マーラー1番は僕にとって猫のマタタビであるが、それをいうならシューマン3番はどうか。カレーやラーメンやスパゲッティナポリタンに匹敵する。なぜなら、いくら食べても何日かすればまた欲しくなり、これからも何度も食べるだろうからだ。どれも江戸時代まではない伝来の食なのだから、日本人である自分がそうなるのは不思議なことだ。
ウカシュ・ボロヴィチ / ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団
このオーケストラは今もって旧東欧圏の味を残している貴種だ。しかも腕はいい上に音楽性の塊だ(第1フルートの女性など本当にうまい!)。こういうのを上質のクラシック音楽というのである。ところがこのオケ、時折来日してもショパンの伴奏と新世界みたいなプログラムばかりでええ加減にせい!といいたい。この「ライン」を聴けばそれがいかにあほらしいか、この音楽家たちに無礼かわかる。この曲はヨーロッパに住まないと分からないかもしれない。それは仕方ない。しかし、そういうものだということを知って何度も聴けば近づくことはできる。その上で(旅行でいいので)ラインガウの宿屋にでも泊まってエバーバッハ修道院でシュパーゲルの昼飯してリースリンクのワインでも2,3本飲めばどなたもよくわかるだろう。なぜこのビデオの聴衆がこんなに幸せに盛り上がっているかを。シューマンがいいなあ・・ってのはある。だが、この曲をこう演奏されると、欧州のどこの人も、ドイツ人が嫌いであっても、欧州っていいなあとなってしまうものが確かにある。指揮者は団員、聴衆と、その喜びを一緒に呼吸すればいい。エンディングで力んでテンポを上げて盛り上げようなんてアホなことはしない。マーラーの改訂もいらない(彼もライン地方に住んでない。さもなくばあんな乱暴なことはしなかったろう)。このオケが日本でラインをやらせてもらえないなら日本文化の悲劇というしかない。シノ―ポリはDSKと来て振っている(指揮者の大変な見識だ)。こっちはオケも指揮者もネームバリューがないから地味なラインじゃ客が入らないという調子だろうが、呼び屋にそう言われれば呼んでもらう方は従うしかなかろう。この見事なラインをどなたも聴いてほしい、いかにそれが間違いか納得されるはずだ。今のままでは何回来てもショパンと新世界の客しか入らない。ということは何百回来てもお互いに何もおきないだろう。これを聴こうと思ったらワルシャワまで行かないといけない。CDも売れないから出てこない世の中になっている。絶望的だ。
レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
冒頭、すさまじい弦のきざみに何が起きたんだとびっくりする。何もこんなに大仰に始めなくてもいいだろう。マーラー版のホルンは控えめだ。後のウィーンpo盤ほどの狂乱ぶりではないが第2主題でテンポを落としたと思うとコーダに向けてアップするのは同様。Mov2はスケルツォだからかやけに騒然として元気だ。Mov4の最後の和音を長く伸ばしてMov5に入る意匠は賛成。Mov5のテンポはとても良いがやはりアンサンブルがどこか騒々しい。心配したとおりせっかくの良いテンポを最後は盛大に加速して終わる。バースタインは歴史に残る天才ではあるがやっぱりアメリカ人だった。ご苦労さんでしたというしかない。
リッカルド・シャイー / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
指揮は実に立派で間然する所無し。オケの水準の高さも言うまでもない。だからこの演奏の好き好きは当全集の売り物?であるマーラー版にある。特徴の総括をすれば「声部のコントラストが明瞭」に尽きるだろう。楽器を足したり増幅したり入れ替えたり手管は多様だが、要は後期ロマン派的なオーケストラ・サウンドが当たり前にきこえる耳を持ったマーラーが「あれっ?」と思った部分を、彼にとって自然な色に塗り替えて行ったらこうなったのだろう。法隆寺を創建時の色で塗ってみましたという試みにも似る。それが正しいのだろうが、古寺として知った我々には古寺であってこそ味わえる良さがある。ゴッホが色弱だったという説があるが僕にとって彼の色彩はというとオルセー美術館で他を観る気がなくなってゴッホコーナーにずっといたぐらい別格的にきれいだ。じゃあルノアールもゴッホの色で塗ってくれがありかというとそれはない。作家には彼の眼に映った固有の美しい色があるのだ。マーラーは和声の心理学的色彩の移ろいに鋭敏な感性の人だった。シューマンが好きだったのだろう。気持ちはわかるがやっぱりそれはないと思う。
ジェームズ・レヴァイン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
シャイー盤に続けてきくとベルリン・フィルにしてはくすんだ響きで鳴りが良くないがマーラーの耳によらない音だ。Mov1のテンポは最高だ。たっぷりして雄大かつ弦の細かいきざみまでくっきりと描かれるがフレージングの呼吸がシューマンの心をつかんでいる。Mov1コーダの大海をゆくような堂々たる威容を聞くに、ここで安っぽい芸を披露して曲の弱さを疑っている読譜力のなさ露呈してしまう多くの指揮者たちとの格の違いをみる。本当に素晴らしい。決して何か変わったことをしようという風情はなくMov2の舞踊,Mov3の花園を経てMov4の暗い教会の冷えた空気に至る。そして突然の場面転換ではじけるMov5の喜びも節度があって音楽的、最後まで盤石のテンポで満足させてくれる。レヴァインはドイツ音楽の正道をはずさない稀有なアメリカ人指揮者だったが最期まで誤解されていた。
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点と線(グールドとブーレーズの場合)
2023 APR 10 9:09:16 am by 東 賢太郎

先日のこと、陶器の展示会があるのでいかがですかとお誘いを受けた。名品があるという。といって不案内だし、「いくらぐらいのですか」と尋ねると、何だったかは忘れたが、「はい、6千万円の茶器もあります。お手を触れられますよ」とおっしゃる。触っても舐(な)めても価値がわかる自信は僕にはない。発した質問も質問だが、「それは危ない、落としでもしたら大変だ」とお断りするのだから相手様にはなんのこっちゃで失礼だった。これぞ豚に真珠だ。
成城初等科には「彫塑」なる授業が毎週あった。専用教室があり、床下に真っ暗でひんやりした穴ぐらがあって、多量の粘土が適度に湿った状態で格納されている。先生が教室の床になっているその開口蓋をあけて梯子で降りてゆき、それをちぎって各人に与えてくれると、生徒は好きにこね回して陶芸のまねごとをするのだ。小学校からそんな経験をしてるのだから「ええ、陶器はそこそこ嗜んでましたが」なんて言えないことはないし格好もいいのだが、残念ながらただの豚で終わったという事実は如何ともしがたい。
「舞踊」という授業もあった。女の子と手を繋いでフォークダンスみたいなのをする。好きな子と組めるのは楽しみではあったが、一方でなんでこんなものを毎週やらされるのかと嫌気もさしてきて、講堂のフロアは下履きがよく滑るのでスケートごっこをしていたら転倒してしばし気絶したことがある。そういう彫塑、舞踊だったが、輪をかけて嫌いだったのが音楽だ。3学年下にいた妹によると先生のM女史は歌手の岩崎宏美を育てた立派な方のようだが、女々しくてつまらないお歌と強烈にヘタな笛が耐えられない。ついに女史がピアノを弾いている隙を見て窓から逃げて大問題になった。その辺の顛末は7年前のこのブログにある。
先日、成城学園の校内を半世紀ぶりに歩いてみてわかった。古典的西洋的ブルジョアジー世界の学校なのだ。「教育とは、学校で学んだことを一切忘れてもなお身についているものだ」というなら、僕はその言葉通りに成城育ちだ。お袋はまぎれもなくその世界の人だった。学者血筋の親父はクラシック好きながらそっち系ではなく、子供はけっこう困る家ではあった。そもそも我が国のクラシックはブルジョアジーの占有物でなく、どういうわけか多分にプロレタリアート的でもあって、陶芸やダンスの方がよほどそうなのだ。それが見事にぜんぶ嫌いだったのだから僕の感性は親父に近く、似非ブルジョアジー的なものの虚飾を剥ぎ取ってナメてしまうという落ち着き処に収まっていた。
つまり音楽は枕草子的に「おぞましきもの」に分類していた。そうではないと気づいたのは高校時代にカーペンターズ、サイモン&ガーファンクル、バカラックなどを深夜放送で知って、西洋というまだ見ぬ未知の世界、憧れに目覚めたからだ。それがポップスでなくクラシックに向いたのにはレコ芸の触媒としての貢献が実に大きかった。おかげで母的なものと父的なものがうまいこと合体し、バランスし、精神の究極の安寧を得ることができたからだ。そこからというもの、僕にとってクラシック音楽は精巧な自然物(natural object)に他ならず、不純に感じて本能的に無視・唾棄してしまうartificial object(人工物)の一部ではあるけれども(バルセロナのガウディのあれがとても嫌いだ)、人の介入は神界の調和に従ってしもべである人が組み立てた(compose)だけのことであり、聴き手の感動は楽曲に隠されている宇宙の究極原理(the ultimate principle of the universe)がもたらすのだと信じるようになった(今もそうだ)。
となれば音楽は科学の対象であり、それをきくという行為は僕にとって実験になった。だからビートルズも荒井由実も旋律から和声から分解するのは必然であり、その道具としてピアノを使わざるを得ないから練習した。大学生になって領域は近代を経て現代音楽に及んで、電子音楽から偶然性音楽まで上野の図書館できいたが、バロック、古典派、ロマン派がさっぱりだったのは実験対象としてエッジのある魅力を感じなかったからだ。当時の前衛フロンティアであり、宇宙の原理をしのばせて作曲をするという趣旨の発言をしていたピエール・ブーレーズに熱中した理由は今になってみるとそれだったように思う。彼の音楽哲学が投影された録音が続々とCBSから発売されたのはそのころだ。下のニューヨーク・フィルとの見事な演奏・録音はデュカの「ラ・ペリ」と同日(1975年11月29日)に行われている。この若書きでほとんどの聴衆がきいたこともない曲をこれだけの磨き抜かれた精度でコストの高い楽団でリアライズしようという行為は商業的にはあまり意味がないだろう。従って、クラシックのスタジオ録音自体が商業的に意味がなくっている現在、こういう音を我々が新たに耳にする機会は失われたといって過言でない。これは音楽の未来にとって重大な問題と考える。
《ストラヴィンスキー「幻想的スケルツォ」作品3》
この作品の文学的・情緒的ストーリーはこうだ。
出世作とされる「花火」の前に完成され、中間部はロマン派的でワーグナーのリングがエコーするなど、「火の鳥」(1909-10)の完成を3年さかのぼるストラヴィンスキーの姿を知る注目すべき作品だ。1907年に、妻のエカテリーナと一緒に読んだモーリス・メーテルリンクの『蜜蜂の生活』に霊感を受けて作曲されたが、彼は師範のR・コルサコフに私淑しながらもドビッシーの和声法を研究しており、それはペトルーシュカ、春の祭典で開花するわけだ。ドビッシーはリングを研究してトリスタンでワーグナーと決別して「ペレアスとメリザンド」を書くが、ストラヴィンスキーにペレアス前のドビッシーの感化があり、そちらの題材もメーテルリンク作品だったことは偶然なのだろうか。
ちなみにメーテルリンクは童話「青い鳥」の作者だ。日本ではわけもわからずチルチル・ミチルの名前が有名になってミチルちゃんが現れ、幸せをよぶ青い鳥が流行してブルーバードという車まで登場したが、庶民的にはくっくくっくの桜田淳子がそれであった。しかし作者はそんな牧歌的な人ではない。アルセーヌ・ルパンの生みの親である作家モーリス・ルブランの妹を愛人にしており、歌手だった彼女をメリザンド役にしろとドビッシーにねじこんで初演を妨害したが、その役は初演指揮者のアンドレ・メサジェの愛人メアリー・ガーデンになった。凄まじい愛人対決だ。初演後にドビュッシーもガーデンに言い寄ったが、「あなたは私の中にメリザンドの面影を見ているのよ」とやんわり断られたという。愛人の意に添わぬ結果に激怒して著作権協会に持ち込んだがそれもうまくいかなかったメーテルリンクは、ぶん殴ろうと杖をもってドビュッシーの家に乗り込んだらしい(青柳いづみこ氏、響きあう芸術パリのサロンの物語7「サン=マルソー夫人」、岩波図書 2021年8月号より)。これが1902年のことだが、1917年にパリ・オペラ座バレエ団がストラヴィンスキーの「幻想的スケルツォ」をバレエ『蜜蜂』として上演するとメーテルリンクはまた台本の著作権訴訟を起こし、ストラヴィンスキーは問題の『蜜蜂の生活』との連関を否定するに至る。
名曲の裏でカネと女が渦巻く壮絶な話だが、基本的に僕は文学的・情緒的なものへの関心は薄い。人間一皮むけばこんなものだろうで済んでしまうからだ。関心はといえば物理的な音響であるのは、電車の鉄路のがたんがたんが物心ついたら好きだった延長だ。ライブステージでは指揮者が音響総責任者だが、レコードではプロデューサーも一翼を担う。「幻想的スケルツォ」が入っていた左のレコードのプロデューサーであるアンドリュー・カズディンは、グレン・グールドと15年も連れ添い、彼のレコードの大半(40枚以上)を制作した人だ。『グレン・グールド アットワーク――創造の内幕』なる彼の著書は天才の普通ではない人となりを明らかにしたとされ、「神話」を破壊した一種の暴露本とみなされた(感謝の言葉もなく解雇されたため)。その彼がブーレーズとも同時に仕事をしており、「ラ・ペリ」、「幻想的スケルツォ」を録音した1975年11月29日は、トロントでグールド(Vn: ハイメ・ラレード)のバッハ:6つのヴァイオリン・ソナタ集を製作中でもあったことは非常に興味深い。同年11月23日に録音したのがこれだ。
ちなみにCBSによるブーレーズの「春の祭典」はトーマス・Z・シェパードのプロデュースであり、「ペトルーシュカ」「火の鳥」がカズディンだ。両者は音彩がまるで異なる。前者は怜悧な刃のようで、それでこその一期一会の出来だったが、後者はリアルですべすべした手触りの楽器がマルチチャンネルで明滅する極彩色と残響豊かな無指向的空間性が楽曲のエロスまで描き出す蠱惑的世界を生んでいる。代沢に住んでいたころ、行きつけだった鮨屋で常連さんが「ここの寿司、うまいでしょ、また食いたくなるでしょ、麻薬が入ってんですよ」と医師らしい冗談を飛ばしていたが、カズディンのオーケストラ録音は麻薬がまぶしてある。それがグールドのバッハではVnとPfだけと思えぬ音色の嵐となって、ヘッドホンできくと演奏会場ではあり得ぬバランスでシャワーのように降りかかってくるからぜひお試しいただきたい。中音域に肉感的なぬくもりがあるラレードのVnは後に流行する干からびた古楽器思想(僕は支持しない)からはほど遠くて好ましい。グールドの生み出す音はピアノとは信じ難いほど色彩もニュアンスも生き物のように千変万化し、両者の協奏はどんな音楽演奏も及ばぬと思わせる楽興の時を約束してくれる。楽器指定がないバッハの音楽にバランスがどうのと論じる意味もない。天上の音楽に浸るとはこのことで、これも麻薬だろうか。
音楽は科学の対象などと書いた瞬間に引いてしまわれた方もおられよう。僕がそう思うのは演奏会場においてではない、録音された音楽だけだ。ミスタッチするかもしれないピアニスト、隣であくびをしたりキャンディーをごそごそやるかもしれない聴衆、そうした人間の不遇なあれこれを超越した場で音だけに集中して、初めてそれは成り立つ。グールドがなぜ演奏会を捨てたか。なぜ世話になった人々を有難うの一言もなく関係を断ってしまったか。もしかすると、彼にとっても音楽は科学であり実験だったもしれないと思わないでもない。テンポを自由にルバートすることを忌避し、一定のドライブ感の中で作曲家が封じ込めた楽曲の構造をクリアに明かし、左手右手で別個の音色まで自在に駆使して彩色するというのが彼の方法論であるなら、最もワークしたのがバッハだった。蓋し最もワークしないのがショパンとドビッシーであり、知る限り彼は両者をほとんど弾いていない。
前にどこかに書いたが、同じく演奏会を捨てた演奏家がいた。ビートルズだ。アルバム「アビイ・ロード」の英国での発売は1969年9月26日であり、やはりスタジオでしか成り立たないバランスであるブーレーズの「春の祭典」の録音は1969年7月28日だ。ジャズ・フュージョン界では1970年にエレクトリック系サウンドをメインとしたグループ「ウェザー・リポート」がアメリカで結成される。ライブもやるが売れたのはこちらもスタジオ・アルバムだ。ジャコ・パストリアスが参加した最高傑作「ヘヴィ・ウェザー」はカズディンが上掲の「幻想的スケルツォ」とバッハ「6つのヴァイオリン・ソナタ集」を録音した2年後の1977年に出てくるのである。
時代の流れというものはジャンルの垣根を超える。底流には録音技術の進化という共通因子がある。CBSもEMIもライバルである互いを意識したに相違なく、1972年にブーレーズのバルトーク・オケコンが5チャンネル録音されLPで発売されたのは記憶に新しい。つまりマルチ・チャンネルは商業化できるレベルで完成しておりアナログ録音の技術はピークに達していた。クラシックファンでも「アビイ・ロード」「ヘヴィ・ウェザー」が斯界に革命を起こした名録音であり、コンサートホールでは再現できない音楽であることあたりはご存じだろうが、スタジオ・アルバムに賭けるだけのテクノロジーの土壌が生成されてもいたのだ。そう、ブーレーズのCBS録音も、だから、会場では再現できないサウンドが刻まれている。つまりクラシック界におけるレコードの、レコードによる、レコードのための音楽なのだ。それをレコード芸術と呼ぶなら誠にふさわしいであろう。オーディオ評論家の菅野沖彦氏は自宅で固有の機器でその音を愛でる者を「レコード演奏家」と呼んでおられるが、僕はまさしくそれに当たる。
決してライブ録音にこめられた生命力を否定するのではないが、一回性の記録であることに価値があるそれを何度もきくのはちょっとした矛盾であり、感動が逓減するのを避けるには過去の記憶をいちいち消去する必要がある。犯人を知ってしまったミステリーと同様、名作であればあるほどそれは難しいだろう。「アビイ・ロード」のように緻密に作りこまれた完成品を愛でることは、相手が完璧であるがゆえに、聴くごとに変わって同じでない自分を映す鏡になる万華鏡のようなものだ。それをオーディオ機器によって作りこみたいのがレコード演奏家だから、スタジオ録音のアルバムがなくなれば機器への興味も減衰する。演奏家はライブもスタジオも関係なく命懸けの音楽をやってくれるのだろうが、カズディンとブーレーズが造った種の音響というものは演奏家の意図や気迫でできるものではない。それが客のいないスタジオで録り直し可能な人工物であろうと、演奏家が名誉をかけた完成品で何度きいても驚嘆や感動を呼び覚ましてくれる水準にあるレコードというものはただの記録ではない、一個の芸術品である。それがなくなれば一個の文化も消える。
(ご参考)
文中のデュカの「ラ・ペリ」はこちら。
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僕の愛聴盤(4)ホルショフスキのバッハ
2023 MAR 18 21:21:16 pm by 東 賢太郎

昨年11月に東京文化会館小ホールでパスカル・ロジェをきいた道すがら、西村さんがひとこと「いい調律のピアノでしたね」といわれた。はじめのジムノペディ第1番が鳴った瞬間からおしまいの版画までただならぬ美音の奔流に陶然としていた僕は言葉を失っており、たしか、「ええ、ほんとうにそのとおり、いい調律でした」と返した。
演奏会を聴けなくて悔しいピアノストが二人いる。ひとりはクラウディオ・アラウで、もう一人が本稿のミェチスワフ・ホルショフスキ(1892 – 1993)だ。アラウはフィラデルフィアにいる頃にリサイタルで来たのに行かなかった。ホルショフスキはその地に住んでいたと思われるのに、気がつかなかったのか演奏会がなかったのか、とにかく運がなかった。
上野から帰りの電車の中で思い出していたのがホルショフスキのイギリス組曲第2番のライブ録音だ。あれは会場に居たらこんな気持ちになるんじゃないかと思ったのだ。J.Sバッハをピアノできくとリヒテルであれグールドであれ最高度に研ぎ澄まされたピアニズムを感じる。目をつぶっても演奏者が見えるといってもいいだろう。ホルショフスキにそういうことはなく、縫い目がない天女の衣みたいに自然だ。ロジェが弾いたのはフレンチ・プログラムだったが、存在が見えずに音楽に同化して楽興の時だけが在ったのはこれまた天衣無縫だったのだ。
ジムノペディ第1番。僕でも弾ける何でもない曲だが、それゆえに、ここそこで鳴るべき和声のバランスとかメロディーラインの力の抜き方とかルバートのかけ方、もっと即物的にいえばバスの鍵盤のおさえ方のごくごく微妙な力具合ひとつとっても、いちいちため息をつくほど絶妙に考えぬかれコントロールされた達人の域であって、サティが最後のマイナーコードで括り止めた感興はこれだ、何でもない曲ではなかったという感銘だけ残る。チッコリーニのそれはそれで意味深い “動” の演奏があるが、ロジェは徹底した “静” でクールに知的だ。
別な機会のビデオだがヘッドホンで耳を澄ましていただきたい。お分かりいただけるだろうか。
極上のお酒と懐石料理をいただいたようになって、プログラム最後のドビッシーのあとに月の光とジムノペディ第1番を弾いてくれ、ご馳走様でしたとしか声もない。それを引き出した聴衆の質の高さも素晴らしい空気を小ホールに満たしており、こんなリサイタルなら何度でも来たいと感じ入った。音楽を深く愛しておられる西村さんの「いい調律のピアノでしたね」は、そういうすべてを締めくくるものであって、それをお返しするしかすべがなかったのだ。
ホルショフスキはベートーベン、ショパン直系の孫弟子である。滾々と泉のように湧いてホールの大気の中を流れゆくバッハ。バロック的でもロマン派寄りでもない、これまた無心の楽興の時でもって雑念に満ちた心を中空にしてくれる。何度きいても感謝の念しか残らない。バッハがこうでいいのかと思われる方もいるだろうが、いかにうまく弾かれようときれいごとのバッハでこうはいかない。これが92才の演奏とは信じ難いが、うまく弾こう、聴き手を唸らせようという不純物は皆無である。こんな成熟ができる音楽家は何と幸せなことだろう。
これもヘッドホンで味わっていただきたい。
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ダニエル・バレンボイムの復活を祈る
2022 DEC 9 13:13:22 pm by 東 賢太郎

バレンボイムがベルリン国立歌劇場管弦楽団(Staatskapelle Berlin、以下SKB)を率いて来日し、サントリーホールでブラームスチクルスをやると聞いてこれは聴かねばと思った。バレンボイムというと、僕の場合、まずモーツァルトのP協全集で知った。20代でイギリス室内管を弾き振りしたこれは才能の嵐。あまり知られていないが22才のウィーン国立歌劇場管とのベートーベンP協3番もしかり。その3年後に、79才のクレンペラーが自身最後になるだろう全集録音のピアニストに選んだその萌芽がすでにある。
初めて実演をきいたのはリストのロ短調ソナタ(フィラデルフィア、1983)で、覚えているのは煌びやかな技巧よりも静寂な部分だ。当時41才。音楽の深い造りこみにこの人は指揮者だなと思った。その指揮者としてのブラームスは1994年5月にフランクフルトでシカゴ響と2、4番をやったが特に感心はしなかった。しかしワーグナーにおいて彼はその頃から指揮者として成熟しつつあったのだ。それをまざまざと知ったのはエルサレム、ポラツキを配したベルリン国立歌劇場におけるワルキューレ(1994年3月)である。その頃ドイツにいたので日本での彼の指揮者としての評価がどうだったかは知らないが、本物のワーグナーの音を僕が覚えたのはその前年8月のバイロイト音楽祭でのタンホイザーではなくこれだったことは書いておきたい。
そして、多くの日本のファンも体験されただろう、2007年のフランツ、マイヤー、パぺを配してのトリスタン(SKB、10月17日、NHKホール)の感銘は忘れ得ず、同年12月、そのために行ったわけではなく単に仕事に疲れたので息子を連れて遊山したミラノで同曲のスカラ座こけら落とし公演のチケットが入手できた(メルケルが臨席したもの)。真面目に生きてればこういうこともあるのかという、これは我が人生の最大の僥倖のひとつと言っていい。トリスタンというと長らくベーム、クライバーだったがこれ以来僕はバレンボイムになっている。
ただワーグナーとブラームスは違う。僕はバレンボイムの3種あるブルックナー(CSO、BPO、SKB)は愛好するがこれは筋からして自然なことだ。でもブラームスは依然?のままであり興味がある。しかも僕はオペラ以外でSKBを聴いていない。このオケはオトマール・スイトナーが振ったベートーベン、シューマン、シューベルト、ドヴォルザークのレコードが聞き物であり(モーツァルトだけはドレスデンSKに分があるが)、もう2度とないかもしれないこの機会を逃す手はないとなった。
ところがだ。バレンボイムが「演奏活動を休止」と発表され、来日できないと知りショックを受けた。まだ80才で老け込む年でないと思っていたが、神経に関わる深刻な病とのことで心配だ。彼のツイッターの結び文句、I am not only content but deeply fulfilled. が気になる・・。きっと復帰してくれると信じているがもうオペラはきけないのだろうか。2007年NHKホールでのもうひとつのプロだったドン・ジョバンニがこれまた涙が出るほど素晴らしく、モーツァルトをもっと聴きたいと思っていたのが叶わないのか。喪失感はあまりに大きい。
本稿は代役ティーレマンとSKDについて書くつもりだったがそれは次回にしたい。この公演はとても満足できたし、ブラームスを二日で4つ聴くという至福の体験も人生に残る格別の重みがあり、翌日になってもまだ心に熱いものがある。ちなみにそのティーレマンも肩痛でドレスデンSK定期公演とその後の欧州ツアーをキャンセルした上での来日だったらしい。
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ストラヴィンスキー 「詩篇交響曲」(1930)
2022 MAR 5 22:22:38 pm by 東 賢太郎

いつか天に昇る時、きこえる音はこんなかなと思っている曲がある。「詩篇交響曲」の第3楽章、ハレルヤだ。僕は宗教以前に「星の彼方に父がいる」(第九の歌詞。父か神かは問わない)を科学的に信じる者である。ストラヴィンスキーの信仰、精神世界に心が共振するのはそのためだろう。この曲は彼の作品の内で最も好きなもののひとつであり、ときに自分という存在を他者と相対化して見えにくくなってきた時に何より深い慰撫を与えてくれる大切な宝だ。
「詩篇交響曲」(Symphony of Psalms)は1930年にクーセヴィツキーよりボストン響創立50周年記念のため委嘱された合唱つきの交響曲で、彼の新古典主義時代の代表作の一つである(プロコフィエフ4番、ルーセル3番も同時に委嘱された作品だ)。ここで交響曲とは一種の外形的な標題であり、ストラヴィンスキーは「詩篇の歌唱を組み込んだ交響曲ではなく、私が交響化(symphonize)した詩篇の歌唱だ」と語っている。確かにこの曲ほど「歌」が感動をそそる彼の作品はない。ではなぜそう書いたのか?それを探るには、彼が晩年に告白した「信教における精神的危機」に触れねばならないだろう。
ストラヴィンスキーは1882年にサンクトペテルブルク近郊のロモノソフで、高名なバス歌手を父として裕福な家庭に生まれ、敬虔なロシア正教徒として育った。ロシア・バレエ団との三大バレエの成功でパリに移り住むとそこはいわば異教の地ではあったが、写真のような華やかなパリジェンヌやアーティストたち(彼の左がニジンスキー、右二人目がディアギレフ)に囲まれ、花の都で時代の寵児として扱われる煌びやかな日々は、ロシアの田舎から出てきた30才の若者にとって気分の悪いものではなかったろう。
このころ、彼は夏はウクライナのウスティルーフで家族と過ごし、冬はスイスのクララン、モルジュでという生活を1914年まで送ったが、第一次大戦とロシア革命の勃発で祖国に帰る道を閉ざされる不幸に見舞われる。しかも、頼りのロシア・バレエ団からの著作権報酬もロシア政府がベルン条約を批准しなかったため支払われず、ディアギレフに契約違反だと詰め寄るが無駄だった(それがなくてもこの男は債務の踏み倒しで有名だった)。やむなくスイスの篤志家ウエルナー・ラインハルトの援助を受け危機を切り抜けたが、ロシア・バレエ団との関係は1920年の「プルチネルラ」で終わり、彼はスイスへ帰っている。
そんな物質的危機にあって家族を助けてくれたのはラインハルトやココ・シャネルというキリスト教徒だ。米国から手を差し伸べたのはロシア人だがユダヤ教徒であるクーセヴィツキーやストコフスキーだった。母国ではマルクス主義革命を成功させたレーニンがロシア正教会を徹底的に弾圧していた。彼が精神的にロシア正教から離れ “conversion”(改宗)という迷路に迷い込んだのは不思議でないだろう。彼はその頃の心境を最晩年にこう語った。「あの頃、ゴスペルや宗教書を通じて気持ちがキリスト教になびいていた。神学は見事に構成されたものだが、作曲における対位法以上のものではない。信心を売ってしまえば私は生きる理由が見つからなかった」。この精神的危機を救ったのは1924年にニースに移住して出会ったロシア正教の司祭だ。それを機に彼は元の宗教に戻り、1934年にはフランス国籍、後にハリウッドへ移住してアメリカ国籍を取るが、もはや改宗という選択はしなかった。
「詩篇交響曲」が書かれた1930年はロシア正教への信仰、すなわちロシア人としてのアイデンティティを取り戻した後だ。彼によればクーセヴィツキーの委嘱はお決まりの提案で、「管弦楽(合唱なし)のための大衆にわかる(popular)曲を」だったが、自らが何者であるかという根源的な問いへの答えを、ラテン語の詩篇を歌詞として信仰心を吐露するという形で提示するというかねてより温めていたプランを彼は頑として捨てなかった。このことへの理解と共感なくして譜面づらを撫でても同曲の正鵠を得た解釈とは程遠いが、それは敬虔な宗教心(僕個人的には「宇宙の創造主」を信じる確固たる科学精神であるが)を持つことが最大公約数であって、そのためにロシア正教徒である必要はないだろう。ちなみに本稿を構想し始めてから勃発し、期せずしてconcurrentなトピックとなってしまったロシアによるウクライナ侵攻だが、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは無神論を掲げたソ連のKGB職員だったのであり、今ではロシア正教の信仰を受け入れている。その精神の軌跡はストラヴィンスキーと変わらない。彼が「侵略ではない」と主張する根拠の一つに2019年1月にキエフ府主教がモスクワ総主教庁から独立し、イスタンブールの総主教に帰属したことが指摘される。その真偽の解明、およびそれが単なる戦争の口実であったか否かの判断は後世の歴史家に委ねるしかないが、彼が全世界を敵に回して譲らぬほど「ロシア正教の信仰」が東スラブのアイデンティティと確信している可能性はある。仮にそうであるなら彼は無慈悲な暴君ではあっても領土的野心丸出しの帝国主義者ではなく、カネに身も心も売った悪魔でもない。それと戦争という殺人行為の善悪は別であり、その点において彼は西側が懸命にプロパガンダするような狂人ではない可能性はある。このこととストラヴィンスキーの詩篇交響曲の作曲動機を関連付けて論じることを忌み嫌う方も多くおられようが、「宗教とはそういうものだ」とお答えするしかない。芸術がいつもピュアであり、人間の悪の側面である暴力や穢れであるセックスから遠ざけておく存在だという主張は、日本人が子供に見せるべきだと思う絵本で描かれる熊や狼の猛獣がいつも笑顔であるようにあまりに牧歌的な現実回避であり、人間という善でも悪でもある者の精神活動に他ならない芸術の自己否定になり、やがてそれを衰退させるだろう。
そして、そのことについてもうひとつ、我々日本人の理解が及び難い事実を指摘しておくべきだろう。
1920年の「プルチネルラ」で、ディアギレフとの関係も終わった(はずだ)。ロシア貴族の末裔であるこのインプレサリオはヴェニスで糖尿病の併発症で客死し、当地のサン・ミケーレ島にある墓地の “ロシア正教地区” に埋葬された。これが1929年8月19日のことであり、「詩篇交響曲」の作曲は翌1930年であることは重要だ。まず第3楽章がフランスのニース(彼がロシア正教を取り戻した地だ)で書かれ、指揮活動で中断があり、次いで夏に第2、第1楽章が彼の避暑地であったジュネーヴの南にあるタロワールのエシャヴィーヌ村で書かれた。作曲経緯の詳細は不明だが、歌詞は当初スラブ語であり後にラテン語に変えた。以上の事実から、筆者の仮説では、ストラヴィンスキーは第3楽章をディアギレフへのレクイエムとして既に構想していたが、偶然に舞い込んだクーセヴィツキーの委嘱にそれを充当する計画をたてた。米国向けにスラブ語歌詞を断念し、後年に、 その変節を「”popular”とは大衆が分かる音楽でなく、世界に普及していて誰でも理解するラテン語の歌詞であると解釈した」とやや苦しい正当化をロバート・クラフトに対して行っている。初演はボストン響に先立って欧州(ブラッセル)でエルネスト・アンセルメ(ディアギレフゆかりの指揮者)によって行われたこともそう考えれば平仄が合う。委嘱は作曲の単なる外形的な契機だったにすぎず、「詩篇交響曲」は(少なくとも第3楽章は)ロシア正教徒によるディアギレフへのレクイエムであり、クーセヴィツキーもそれに敬意を払ったというのが真相ではないだろうか。
このことを念頭に置けば、1971年にストラヴィンスキーが遺言を残し、ニューヨークの5番街920番地のアパートで亡くなったにもかかわらず、ヴェニスのディアギレフの墓の隣りに埋葬された意味が理解できるのである。父祖の地である祖国でなく、作曲家として大出世したフランスでも家族と日々を過ごしたスイスでもなく、大家として迎え入れてくれたアメリカ合衆国でもなく。シューベルトも遺志でベートーベンの隣りに永眠しているが、それは教科書が教えるように作曲家が同業の先達への、いわば職人としてのピュアな敬意からそうなったと理解して良いだろう。しかしディアギレフとストラヴィンスキーは同業者ではなく、発注者と職人、ビジネスマンとクリエーターという現世的でリアリスティックな関係である。それでいながらという事実の背面にはもっと直截的で複雑なものがあったと理解するしかない。クラフトとのTVインタビューでストラヴィンスキーは、
初めて会ったディアギレフはオスカー・ワイルド(注1)みたいな男で、とても優雅でシックで敷居がお高く、微笑みながらやさしく肩を叩いてキミの庇護者だよとにおわせるスタイルの人だった(注2)(参照:我が流儀の源はストラヴィンスキー)
と皮肉とも嫌悪ともつかない笑みを浮かべながら述懐している。筆者は以下の注解を付した。
(注1)アイルランド出身の作家。ここでは「ホモの性癖が過ぎて投獄され梅毒で死んだあいつ」という意味で引用されていると思われる。ディアギレフもその道で著名(それを公言してはばからなかったことでも著名)。
(注2)ディアギレフとの縁で功成り名を遂げたものの、彼のニヤリとした表情には「あの食わせ者にはやられたよ」感が満載で、それ以上の関係を感じないでもない。ディアギレフは貴族で海千山千の起業家だ、10才下の若造をおだてて手玉に取るのはわけなかっただろう。
クラフトの語るストラヴィンスキーの埋葬(youtubeにある)は、4月の小雨まじりの曇天の日だった。サン・ミケーレ島に150のゴンドラが停泊し、参列者は半マイルも歩いてロシア正教地区の墓にたどり着いた。いよいよ納棺して遺族たちが花を投げ込んだそのときだった、墓石のIGOR STRAVINSKYの文字が目に入り、そこにさっと陽光がさしこんだそうだ。クラフトはキリスト教徒だが、その描写が宗教的であることが、仏教徒である僕にとっても非常に印象的である。1971年のソ連にロシア正教徒の安住の地はなく、その事情はディアギレフの亡くなった1929年も同じだ。そこに並んで、ストラヴィンスキーは神の祝福を受け永遠の安息を得た。彼にとって、三大バレエを作曲できたことも、それで世に出たことも、その後の人生のすべての起点はディアギレフとの出会いにあった。その終焉の地がイタリア国のヴェニスであったことは、この作曲家にとって自分のパスポートが何色かほど意味のないことだったろう。能力を引き出して最高の人生を恵んでくれた恩人を、彼は一面冷めた目でプラグマティックに見てはいたが、親でもできなかった「自分の才能を見抜いた」という “偉業” を成し遂げたその男の才能にこそ深い敬意を懐き、その運命の出会いと究極のアイデンティティを与えてくれた神に感謝する。そして、サン・ミケーレ島には祖国にはない “ロシア正教地区” があった。想像にはなるが、選択の理由はそれであったに違いないと僕は考えている。
松平頼暁は著書『現代音楽のパサージュ』の中で「20世紀音楽のほとんどのイディオムはすべてストラヴィンスキーの発案」と述べている(wikipedia)。ロバート・クラフトとの75才でのインタビュー(youtube)でも「自分は常に聴衆の先を行く意識を持った」と作曲姿勢を述懐しており、その鉄の意志を神が祝福した結果そうなったということだろう。ストラヴィンスキーが「詩篇交響曲」の各楽章で使用したイディオムは模倣されている。第1楽章はカール・オルフがカルミナ・ブラーナ(1936)で、第2楽章はオリビエ・メシアンがトゥーランガリラ交響曲(1949)で、第3楽章はレナード・バーンスタインがウエストサイド物語(1957)のクロージング・シーンで使用しているのはどなたの耳にもaudibleと思う。彼の「先を行く」姿勢が「カメレオン」と揶揄もされるが、「真似るのではなく “盗む” 」と言い切った考え方こそが際立った彼の個性であり、他の誰もそこまではできなかったから誰も「春の祭典」は書けなかったのである。
彼の作品で「詩篇交響曲」ほど「歌」で出来たものはない。歌を人間の声に委ね、オーケストラからヴァイオリン、ヴィオラ、クラリネットという歌う楽器は省かれている。ピッコロ、フルート、オーボエは終楽章で天上界に差し込む光のような、雅楽の笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛の如き効果を醸し出し、ティンパニは釣太鼓を思わせる。ストラヴィンスキーが雅楽を聴いたかどうかは定かでないが、1878年のパリ万博や1884年のロンドン衛生万博に雅楽の楽器や楽譜が出品され、フランスで誕生したジャポニスムの影響がクロード・ドビッシーの美術品収集に現れていることを考えると知った可能性はあるだろう(写真の後ろの壁に葛飾北斎の浮世絵『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。ストラヴィンスキーはこの2年後に「日本の3つの抒情詩」を書いている)。「ドビッシーはパリ万博で五線譜に記された雅楽の笙(しょう)の和音を見て衝撃を受け、自身の作品に取り入れたと言われている」と mie238f さんのブログにある。採譜するとこうなるようだ(根音がメロディー)。
春の祭典第1部の「誘拐」「敵の部族の遊戯」のホルンのブロックコードの連続による旋律の進行はこれを思わせ、詩篇の第3楽章の速い部分(「春の祭典」的だ)につながる。また、詩篇の合唱パートには彼が高く評価した、16世紀に無調音楽を書いた作曲家カルロ・ジェズアルドの影響がある。
以下、楽章ごとに音楽を追ってみよう。
第1楽章
ホ短調の一撃で開始し、オーボエ、ファゴットが変ロ長調のアルペジオ風の旋律で応じる。ホルンがシ-ラ-ソ-ファ#の狭い音域の旋律を歌いピアノが打楽器的に伴奏するが、ホルンに独奏チェロをユニゾンで重ねる効果はめざましく、ドビッシーの発明である「海」第1楽章コーダ直前のイングリッシュ・ホルンと独奏チェロのユニゾンがモデルだろう。
そこに初めて声(アルト)が登場し、ミ、ファの短2度の2音だけから成る旋律(ホルンから派生)を歌い、やがて4声となるが、未だレ-ファの短3度の狭い音域の呪文のような歌であり、ホ短調の一撃で何度も中断しつつも伴奏に厚みが増していく(最高音域のオーボエが重なるのも耳をとらえる)。合唱は音域が広がり、金管が加わって転調し、音圧は最高潮となって輝かしいト長調で終わる。一貫してカルミナ・ブラーナ風でありここから着想された可能性は大だろう。
第2楽章
ド-ミ♭-シ-レの長七度上昇を含みド-レ♭、シ♭-シ♮と長七度の下降が2回あるオーボエの主題で開始する。これは八音音階(octatonic scale)で、オリヴィエ・メシアンの『わが音楽語法』(1944年)にいう「移調の限られた旋法」第2番にあたる。その完全5度上で第1フルート、第2フルートが原調、第2オーボエが5度上で同主題を重ね、バッハ風のフガートとなる。
主題の音列ド-ミ♭-シ-レは楽章を通して通奏低音のように現れ、第3楽章のハレルヤ主題(ド-レ-ミ♭)の萌芽となる。主題は低弦に移り(短3度上)、合唱が登場する。前楽章がアルカイックで呪術的ならこちらは痛切な悲歌だ。モーツァルトのレクイエムと言っていい。徐々に高潮し、主題が弔いのトロンボーンに出ると金管が加わり、高弦を欠く分はチェロがハイポジションで緊張感を与えつつ全楽器の素晴らしい対位法となる。やがて合唱だけが残って鎮まるが、突如ティンパニの強打で怒りの表情となりチューバが主題を轟かせる。やがて音楽は和声的となり、フルート、オーボエが高域で天使の響きを聴かせると怒りの潮は引いて静かに変ホ長調(E♭9)の清澄な和声で終わる。
第3楽章
信じ難いほど清冽で、心を絞めつけるようなAllelujaの祈りで幕を開ける。
男声のLau_da_teが厳かな読経のように低くゆったりと響き、女声が入ったそのとき、ティンパニが4拍目に「ミ♮」をたたく!この衝撃たるや言葉にならない。それに導かれて変ホ長調がDO_MI_NUMのハ長調に変位し、さんさんと陽光が降り注ぐ。ハイドン「天地創造」の末裔の音楽である。ハ長調、ハ短調が交叉してLau_da_teの読経がゆっくりと続き、再度DO_MI_NUMに落ち着く(和音C7)。
ファゴットとホルンの信号音から曲想が変わる。
トランペットに現れる g-b♭-a♭-c の音列は「春の祭典」の練習番号31から第3オーボエが吹くこれを想起させる(第3音が半音低い)。
ここからスコアは俄然「春の祭典」の様相を呈し、ソプラノとアルトが f でLau_da_teを歌う。次いでアルトとテノールが声をひそめて Laudate DOMINUM と歌う所からピアノ、ハープが低音の e-g の悪辣な短3度を響かせる。ティンパニを重ねず「祭典」との重複を巧妙に避けている印象がある。やがて音楽は静まり、残ったファゴットとコントラファゴットの変ロ音にフルートとオーボエのヘ長調が乗る所は「ウエストサイド物語」(Somewhereの死の暗示)を想起。そして二度目の Alleluja がやってくる。再びリズミックなセクションとなるが、ここのオーケストレーションも春の祭典➡ウエストサイドのブリッジとなっている。ヘ長調と嬰へ長調の複調で静まると、ソプラノに抒情的な歌が現れる。
4声の対位法で転調を重ねながら神秘的な和声の展開を遂げて最高潮に達すると、Molt meno mossoとなり変ホ長調の感動的な祈りの歌が静かに鳴り響く。
ここから終結の Laudate DOMINUMまで、ティンパニが弔いを厳かに告げ、オーボエ族5本、トランペット族5本、3分割したチェロのハイポジションが弱音で伴奏し天国の色彩を作り出す。そして灰色に沈みこんだ Lau_da_te を4度くり返し、バスの「ミ♮」が再び神のハ長調を導いて永遠の安息を求め虚空に消える。
人間が作った最も神の領域に近い音楽と思う。ストラヴィンスキー万歳。
レナード・バーンスタイン / ロンドン交響楽団、英国バッハ祝祭合唱団
バーンスタインが詩篇交響曲から得たインスピレーションをウエストサイド物語に注ぎ込んだことは間違いないと僕は信じている。せっかく彼とロンドンで話をしたのにそのことを尋ねなかったのは何という痛恨だろう。この演奏の録音は1972年。バーンスタインが同ミュージカルを書いてから15年たっているが、もう完全なクラシックになってしまった両作品がまだ近い距離にあったと感じる。それほど彼は熱い心で振っている。第3楽章は入魂で、祈りの歌がこんな感動をもって歌われた例はない。
このビデオは知らなかったが、ストラヴィンスキーの葬儀のビデオにバーンスタインが解説している。この後にコンサートがあったようでプログラムは春の祭典、カプリチオ、そして最後が詩篇交響曲であった。
ここでも詩篇を振っている(ワシントン・ナショナル交響楽団、1982年)。暗譜で指揮しておりこれを記憶していたこともわかる。バーンスタインにとって特別な作品だったようだ(1:03:4)。
ピエール・ブーレーズ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン放送合唱団
これを挙げたのは音程が良いからだ。何物も彼が振ると整理されてこうなるという見本のようなものだが、音を正確に聴きとらないとこの曲の真価はわからないだろう。ただし、エモーションの深さにおいてバーンスタインより落ちる。
シドニー大学音楽学部管弦楽団
指揮は先生だろうか、とても素晴らしい。
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新しい才能を発見(尾城杏奈さん)
2022 FEB 5 8:08:37 am by 東 賢太郎

きのう、ちょっと疲れていて、なんとなくベートーベンの27番のソナタをききたくなった。時は午前零時である。仕事部屋は3階、音楽室は地下だ。寒いだろう。youtubeでいいか・・。そんな偶然からこれを見つけた。
すぐアラウに切り替えるつもりだったが、やめた。いい。なんとも自然でしなやかにふくらんで包み込んでくれる感じがする。音楽のたたずまいに品格がある。もう一度聴いてしまった。知らない人だが、教わってできました的な生硬さが微塵もなく、これは人となりなんだろうなと思った。
なんといっても第2楽章だ。すばらしい。僕はどの大ピアニストも満足してない。シュナーベル、バックハウス、リヒテル、ポリーニ、だめだ。牛刀をもって鶏を割く観があり魂がこもってない、ルービンシュタインなど主題のくり返しが多いと文句を言ってる。そういう人にこのソナタが弾けると思わない。
関係ない世界の話で恐縮だが、一昨年のプロ野球キャンプのこと、オリックスの練習を見ていいピッチャーだなと思った新人がいた。あの感じを思い出す。2年後に19才で新人王になる宮城投手だった。剛球はないがああしたピッチングの勘は教わってもできない。現に何年もプロにいるベテランでもできてない。
こっちはさらに不思議なものがある。プロコフィエフの第8ソナタがこんなに「美しく」弾かれたのをきいた記憶がない。ギレリス、リヒテルの剛腕のイメージが強い音楽であれっという感じだ。
youtubeにユジャ・ワン、前々回のショパンコンクール以来僕が高く評価するケイト・リューの見事なライブがある(馬鹿者の着メロが鳴って気の毒)。尾城のは気迫は一歩譲るが、妙な言い方だが「頑張ってます感」がない。汗もかいてない感じだが弾かれるべきものに不足もないのだから、まだまだ破格のキャパ、伸びしろがありそうだ。第3楽章、僕の好きな所だが、短9度の下降音型のあと再現部までスクリャービンみたいな神秘的な感じになる。美しい。プロコフィエフはただばりばり弾いてうまいでしょという人が多いが、この人はそうでなく、バルトークを弾いても音楽が intellectual だ。ピアニストは指揮者と同じでそれが必須だと思う。
東大は天才がいて同じクラスだと分かる。何の苦労もなく勉強ができる人達だ。東京芸大にもそういう人がいるということだろう。youtubeにあるものは僕の好みの領域でもあり、全部聴いた。それだけでどうこう言うことはしないが、尾城杏奈さん、素晴らしい才能の持ち主だと思う。ぜひ欧州に留学し、西洋音楽を生んだ各国の文化、歴史、哲学、人間、そしていろんなアートやおいしい食べ物なんかを存分に楽しんで研鑽されれば明るい未来があると思う。
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ベームのベートーベン7番を聴く
2022 JAN 10 23:23:30 pm by 東 賢太郎

僕はカール・ベームを聴いていない。1975年3月のウィーン・フィルとの来日公演は3月20日の東大合格発表前後だから気もそぞろであり、FMで聴いた気もするがあまり覚えていない。とにかく年輩ファンの熱狂がものすごいと話題になり、絶叫大ブラボーの嵐が巻き起こり、カーテンコールでベームの足にすがりつく人、手を差し伸べて高級腕時計をプレゼントする人も現れたらしい。
ベームは77年も他のオファーを蹴って来日した。招聘元はカラヤン、チェリビダッケも引っぱり出して話題になった。ビートルズが女の子を失神させた、これはわかる。しかし、いいおじさん方がドイツのお爺ちゃんにキャンディーズみたいに熱狂するなんて尋常じゃない。でもあの人たち、もしかして安保反対で旗振ってたかもしれない、日本はやっぱり敗戦国なんだなあと思ったりした。
77年ごろの自分はというと大学3年、音楽はブーレーズの “一神教” 状態で、レパートリーは近現代に偏っていた。弦チェレやル・マルト・サン・メートルやピエロ・リュネールは知っていたが田園交響曲はあくびせずに第1楽章を聞き通すのに難儀していた。同様に退屈だったショパン、マーラー、ヴェルディは今に至るまでそのままだが、バッハ、モーツァルト、ベートーベンは留学へ行ってロンドン赴任するあたりで一気に目覚めの時が来る。
モーツァルトになくベートーベンにあるのはバッハの平均律の痕跡だ。フーガを含む四声体の対位法において旋律が、次いでリズムが小節線を超える。それがベートベンのへミオラに至る。ブラームスもバッハの起源まで見通して先達のそれをより控えめに使ったが、ストラヴィンスキーは起源を断ち切って原初的に使った。僕がエロイカに聴くのはリズム変異と短2度の軋みだが、それを最も先鋭に聞き取ったのはストラヴィンスキーだった。
ベートーベンには20世紀の前衛に進化する因子があった。トスカニーニ、レイボヴィッツの演奏には因子が裸で見える。フルトヴェングラー、カラヤンは大河の流れに埋没させて丸めてしまう。ベームの演奏はどちらでもなく、かといって折衷的でもない。昔の古臭い劇場型をより堅固な合奏力でモダンにしたものだ。本来がオペラ指揮者である彼がウィーン・フィルを振るというのは自然な流れだが、歌なしの交響楽だけで観るなら愛想ない頑固寿司の親父だったのが職人技の評価で最高級店の大将になっちまったみたいなもので、握りに洗練はないが味は保守本流、間違いないねというところだ。
この交響曲第7番はバイエルン放送交響楽団と「店」がちがう。しかし握るのはいつも同じ寿司だ。Mov1序奏部、流れの良さなど歯牙にもかけぬティンパニの打ち込み、腰の重さをしかとお聴きいただきたい。職人一同を自分のスタイルに染め上げた頑固一徹!誠に素晴らしい。喜々として陽光が差し込むようなフルートの第1主題が最高。BRSOの木管はうまく表情豊かで旋律を減速し歌うべきところは歌わせる。Mov2は祈るようなppから徐々に浮かんでくる対旋律を絶妙に活かしトゥッティのピークに持っていく膨らみが劇場的だが、山の裏側で伴奏のキザミは常に冷めて克明という職人技が隠れている。Mov3は曲が個人的に好きでないが、ミュンヘンのヘルクレスザールの残響が大変美しい。Mov4は速すぎぬいいテンポ、これがアレグロだ。7番は3番のようなインヴェンションは皆無であり、ベートーベンが意識して書いた最も大衆向けの曲である。それを更にあおってミーハー向けの演奏となると安手の二乗で聞くに堪えず、僕は知らない指揮者の演奏会で7番は金輪際聞かない。まあどこがどうというということは書かないが、今どき希少な気骨ある立派な交響曲を聴いたというずっしりした手ごたえが残る。カール・ベーム79才の成せる業である。
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クラシック徒然草《その後のケイト・リウ》
2021 OCT 26 14:14:16 pm by 東 賢太郎

先だってのショパン・コンクールはいま徐々に聴いている。その前に2015年の同コンクールで非常に印象に残った3位のケイト・リウからいこう。
5年前、僕は彼女のファイナルのピアノ協奏曲第1番をきいて勝手評価1位にしている。いまきき返しても評価は変わらない。
ショパン以外がききたい。シューベルト、シューマン、ブラームスなどだ。ばりばり弾き倒して鬼面人を驚かすタイプではない、あくまで深い抒情で時を支配して聴き手を自分のワールドに迎え入れ、包み込み、心の底から納得させてくれる稀有のアーティストである。
ラヴェルはどうかなと思ったら、youtubeに「道化師の朝の歌」があるではないか。
これは凄い、誰の真似でもない、14才にしてこの独自の解釈、技量・・・信じ難い才能だ。
16才の「スカルボ」だ。
決してばりばり弾けないわけではなく左手のコンチェルトも難なく弾けるであろう。しかし空虚なテクニシャンでもない。
これは2010年、ニューヨーク国際ピアノコンクール優勝時の「オンディーヌ」だ。ダフニスの夜明けの和音で ff に盛り上がるところの持っていき方など堂々たるもの。
しかしyoutubeに日本語のコメントがほとんどない。彼女は中国系シンガポーリアンで米国在住だが、どうも日本人はアジア系に関心が薄いようだ。才能に国籍なんてないのだが。
このインタビュー、修羅場をくぐった人とは思えぬほど明るくて優しそうだが、非常に知的な女性であることが分かる。
このインタビュー時のリサイタルだ(ヘンデル、ショパン、シューマン)。この5年、彼女は大きく進化している。何を僕が激賞してるか、じっくりお聴きいただければお判りいただけるかと思う。
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サンソン・フランソワの弾くドビッシーは
2021 MAR 9 0:00:33 am by 東 賢太郎

スイスのDE BAER(ディ・ベア)社による アナログターンテーブル「Topas(トパーズ)」の試聴機が来た。60kgと重量級。カートリッジはEMTがいまいちでオルトフォンのMC Anna Diamondをつけてもらったら多少良くなった。あと何時間レコードを聴けるかという年齢だ、意に添わない音で時間を費やすことはしたくない。
ハイエンドは一聴してこっちとはならず、楽しいが比較はけっこう疲れる。LPを取り出して片っ端からきく。ざっと30枚ぐらいか。ジャズ系は最高だ。熱が伝わる。マッコイ・タイナー絶頂期の数枚、 オスカー・ピーターソン・トリオの名盤We Get Requests、ラリー・カールトンStrikes Twiceなどをきく。
このへんでクラシックに移る。ピアノだけはCDの方が良いと思ってるが一応きいてみよう。ミケランジェリのドビッシー前奏曲、コンタルスキー兄弟のハンガリー舞曲、アンドラーシュ・シフのモーツァルト・ソナタ集、ゼルキン・セルのブラームス2番、グルダのワルトシュタインなど。
ここで遭遇したのがサンソン・フランソワの弾く「子供の領分」だった。
フランソワでいいと思ったのはラヴェルの2つのコンチェルトだけだ。どうも色モノのイメージしかないのが正直のところだ。ドイツ物は軽くていまいち、プロコフィエフは面白いが風変りで、ショパンはこっちが聴かない。まあそれは良しとしよう、いけなかったのは肝心かなめのラヴェル、ドビッシーである。
まずラヴェルのソロ名曲集、クープランの墓のフォルレーヌに音符の改変(記憶違い?)がある。EMIの録音レベルが低く音もさえない印象でがっかりである。ドビッシーもベルガマスク組曲の第1曲、10小節目の和音が変だ。第2曲にもあって幻滅である。こういう所でテキトーな人というイメージができ、以後ぜんぶお蔵入りになっていた。
大きな間違いだった。気づかせてくれたDE BAERに感謝する。ドビッシー集のCDも取り出してみる。幻滅して以来だからブルメスターのプリで一度もきいてないが、良い装置だとラヴェル集よりずっと音が良いことを知った(僕のは1987年のフランス盤だ)。しかもだ、前奏曲集 第2巻!いったい何をきいてたんだろう、もう言葉がない、これはかつてきいた最高の演奏である。テンポもリズムもフレージングもフランソワ流で文句をつける人もあろうが、ここまで完全に咀嚼されるとひとつも不自然でない。はっとさせる驚きに満ち、むしろドビッシー自身が弾いたらこうなるのだろうとさえ思えてしまう。エチュードは7,8,10-12番しかない。無機的に響く演奏が多いがこんなにエロティックに響くのは初めてだ、驚くべきイマジネーションである。
このドビッシーは最晩年の録音で、たしかコンサートで倒れてその頃は命も危なかったはずだ(だから全集が完成しなかったと記憶している)。それでも酒びたりと煙草はやめず、まぎれもなく不健康でデカダンな男だった。youtubeを探ったら亡くなる3年前にパリのジャズ・クラブで弾いているビデオを見つけた。こういう場所でドビッシーが響く、粋だねえ、なんてパリなんだろう。そんなことはドイツやアメリカでは絶対におきないね、日本じゃ100年たっても無理だ。半世紀前にサティ、ドビッシー、ピカソ、コクトーらがたむろしていたカフェ・コンセールのジャズ版がこれじゃないか。手前で聴いてるのはピアニストのアート・シモンズだ。
ベルガマスク組曲のパスピエ。気にいってたんだろう、そう、これはめちゃくちゃいい曲なんだ。彼はバド・パウエルが好きだった。わかる。このころ、定住する家はなくホテルを転々としてたらしい。歌わせてよと舞台に上がる女性シンガー、ナンシー・オロウェイとは仲が良かったとどこかに書いてあった。
60年代にはパリに多くのジャズメンがきてにぎわったようで、彼がクラブに入りびたっていたのは想像に難くない。酒、煙草、女、ジャズにクスリもあったのかどうか46の短命だった。たぶん男にしかわからないだろうが、野郎にはこんな生き方があっていい。僕は残念ながらそのどれもやらないが、精神構造とライフスタイルにおいて同じ種族であることに誇りすら覚える。ガリ勉のエリートは嫌いだ、あれはそれしかできないからそうなのであって、その人種が弾くドビッシーは死ぬほどつまらない。
今回いろいろ聴いてみたが、フランソワはなんでもすぐ耳コピ暗譜で弾けたんじゃないか。スクリャービンの3番(素晴らしい)やショパンのスケルツォなど譜面を追ってる風情が微塵もない天衣無縫である。バド・パウエルがさかりのついた猫みたいにアオアオいって弾いてる、あそこに楽譜なんて概念はありようもないのであって弾く音符はその刹那に頭で生まれてる、ひょっとしてフランソワもそうで、そうなれる曲しか弾かなかったんじゃないか。
ベルガマスクの和音?そう、違ってたかい?ちったあ構わねえだろ、俺は感じたまんまを弾いてんだぜ、インプロヴィゼーションというやつさ。
そんな声が聞こえる。そうだったのかもしれない。書いたドビッシーもいいんじゃないのってもんかもしれない。モーツァルトもベートーベンもインプロヴィゼーションの名人だったから変奏曲がすいすい作れたわけで、紙に印刷した音符ってのはクラシック音楽という名のジャンルに位置づけたいなんて作曲家が意図した代物であるわけがない。勝手に盗まれ演奏されてはカネが入らんからかなわんということで、ブツにして買ってもらってコピーライトをはっきりさせようってもんだったわけだ。
こういうビデオを見ると、クラシック音楽という世界で出来上がったというか、固まってしまった流儀がとても虚構に満ちたものに思えてくる。志村けんが「お笑い界の巨匠」なんて祭りあがって草葉の陰で笑ってるみたいなもんで、祭り上げて食ってる連中がいるってことである。音楽を書いた連中はたいがいデカダンでマニアックな変人の男であって、フツーの良家の子女や学校秀才がすましてやれるようなもんじゃない。ロック・アーティストがそうだ、連中の風体、生態を見てると多くの人はそう思えるだろうが、それが音楽ってもんの正体だ。燕尾服なぞでおめかしするクラシックというジャンルだけはそうじゃないことになってるのは実に不可思議である。
フランソワを色モノと断じていた僕も忌まわしいクラシック世界の呪術にかかっていたということだ。ずいぶん精神の自由を損していた。
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コロナの邪悪を追い払うヴァイオリン!
2020 DEC 8 16:16:10 pm by 東 賢太郎

廣津留すみれさんから久ぶりにご連絡をいただきました。今年の1月にソナーに来られたのが初めてで、3月末のリサイタルに行く予定でしたがコロナで中止になりました。
アメリカに帰れないので日本でご活躍であり、フジテレビの「セブンルール」でお母さまとの密着番組が放送されるそうです。2週もので、今夜(12月8日)23時~と来週15日の23時~だそうです。大分の公立高校からハーバードに入った秘密が明かされるのでしょうか、楽しみです。
このビデオも送ってくれました。
このところ憂さ晴らしに大編成の曲ばかり聴いてましたが、これは衝撃です。ヴァイオリン・ソロってこんなに美しかったのか!!
何度も聴いた曲ですが、こんな心にしみたことはありません。 コロナの邪悪がす~っと消えていくようです。
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