ウィリアム・シューマン 交響曲第8番 (1962)
2022 FEB 15 17:17:24 pm by 東 賢太郎

この曲を愛好している方がおられたら友達になりたい。ウィリアム・シューマン(1910-92、以下WS)は米国を代表するシンフォニスト(10曲書いたが1、2番は撤回したので3-10番の8曲)のひとりである。3、5番が著名だが、あまり知られていない8番をここで紹介したい。
WSはニューヨーク生まれのユダヤ系である。改革派シナゴーグで初等教育を受け、ヴァイオリンとバンジョーを習ったが、根っからの野球少年だった。高校ではバンドを作ってコントラバスを弾き、地元の結婚式やユダヤ教成人式で演奏した。ニューヨーク大学商学部に入り、広告代理店でバイトをしている。そこでも趣味でポップ調の歌を書いていた。彼の音楽がこのキャリアから生まれたとは想像し難いが、そうなるきっかけは20才の時にカーネギーホールできいたトスカニーニの指揮するニューヨーク・フィルハーモニーの演奏会だった。衝撃を受けた彼は、「翌日に作曲家になる決心を固めた」と述懐している。そこで大学は退学して23才で作曲家ロイ・ハリス(1898-1979)に弟子入りし、25才でコロンビア大学の音楽教育学士号を得る。ハリスの紹介でクーセヴィツキーに会い33才で彼の妻の追悼に3番を書いたことが登竜門になったが、著名にしたのは新聞社オーナーで富豪のユダヤ系ハンガリー人、ジョーゼフ・ピューリツァーの遺志で1943年に設けられた「ピューリッツァー音楽賞」の最初の受賞者に選ばれたことだ。その後1946年にジュリアード音楽学校校長に就任してジュリアード弦楽四重奏団を創設。1961年にリンカーン・センターの音楽監督となり米国の音楽教育界の重鎮の道を歩む。
米国の作曲家のキャリアは実に面白い。パイオニアであるチャールズ・アイヴズ(1874-1954)はシェーンベルクと同い年である。陸軍バンドのリーダーの父に音楽を仕込まれたが高校では野球部のエースで主将であり、エール大学では花形フットボール選手で監督が「あいつが音楽をやめてくれればトッププレーヤーになる」と惜しんだ。アメリカの学校カースト最高峰のジョックを地で行くが、同時に作曲ができ、アイビーリーグ・コミッティーのチェアマンも務めた「三刀流」の超エリートでさぞ女性にモテたに違いない。保険会社に就職したが後に自社を起業して成功。著書「生命保険と相続税」は売れ、保険業界で名を成したため業界人は作曲もするのかと驚いた。こういう人は欧州にはいない。
時代が下って、ジョージ・ガーシュイン(1898-1937)はユダヤ系ロシア人で皮革工員の父、毛皮業の母の息子でブルックリン生まれだ。WSを教えたロイ・ハリスもオクラホマの田舎の農家の倅で、ピアノは母に習っただけでUCバークレーに入り作曲は独学。トラック運転手をして学費を稼ぎ「色彩交響曲」の英国人アーサー・ブリスに弟子入りして大成した。アーロン・コープランド(1900-90)はユダヤ系リトアニア移民でブルックリンの雑貨屋の息子だ。父がスコットランドで3年働いて家族の米国渡航費を稼いだほど貧しかったが15才でパデレフスキーの演奏会を聴いて作曲家を志した。
これらをアメリカン・ドリームと見るのは容易だが事はもっと複雑だ。貴族の嗜みを出自とするクラシック音楽が貴族のない国でどう居場所を作るかという背景があったからで、米国は日本とさして変わらぬクラシック後進国だったのである。その頃、作曲の才があれば渡欧して学ぶのが常だった。ガーシュインはパリでラヴェルに弟子入り志願して断られ、コープランド、ハリスはフランス留学してロシア貴族(キエフ大公)の末裔で20世紀最高の音楽教師ナディア・ブーランジェ(1887- 1979)に師事しているが、自身もそのひとりだったヴァージル・トムソンは「アメリカ合衆国の各都市には安物雑貨屋とブーランジェの弟子がごろごろしている」と皮肉った。
その事態を変えたのがアウグストゥス・ジュリアード(1836-1919)だ。彼はフランス(ブルゴーニュ)出身のユグノー教徒の息子で、両親が米国に逃げる船上で産まれた。繊維会社を立ち上げ成功し、銀行、鉄道、保険に投資して富を築き、メトロポリタン美術館のパトロンとなり同オペラハウスCEOを30年にわたり勤めた。篤志家だった彼の遺志で、死の翌年にその基金で設立されたのがジュリアード音楽院である。また、もうひとつのカーチス音楽院のほうも、女性雑誌(Ladies’ Home Journal、今もあり日本なら女性セブン、女性自身)を創刊したカーチス出版社のオーナーの娘が1924年にフィラデルフィアに設立した(母方はオランダからの移民だ)。このファミリーは現時点でも歴代米国富豪20位に入っているが、米国はかように成功者が寄付で社会貢献する文化が今もある。この2校の設立によって才能ある移民の子女を米国で教育し、米国で作曲・演奏をさせ、自国の歴史を紡いでいく基礎が形成されたのである。もとより自国の音楽であるジャズもこのシステムに取り入れたことは言うまでもない。
両校は日本なら東京芸術大学にあたるが、音楽好きの富豪が私財で作った学校であり、移民や貧困層の才能ある子に教育、奨学金を与えアメリカ音楽の発展に寄与してもらおうというものだ。例えば上記の「ピューリッツァー音楽賞」は作曲家に与えられるが『その曲はその年に米国人によって書かれ米国で初演されること』が厳格な条件である。「欧米で評価された」と喜ぶ我が国の音楽界の如き根無し草でないことがわかるだろう。つまり、米国の篤志家の行為を金持ちの道楽、節税とするのはまったく皮相な見解である。以上列挙した人たちはみな出自、国籍、宗教がばらばらだ。それを捨てて集まったアメリカ合衆国へのパトリオティズム(愛国心)がいかに強烈かということのアート界における例証なのであり、国家も税を免じて寄付を促進するということだ。フランス革命の精神に発し、何もせず何の能力もない貴族を消し去った民主国家に移住してきた市民の末端にまで浸透した建国精神を見る思いだ。そこに貧富の差などなく、あるのは才能への天真爛漫とさえいえる素直な敬意である。現代がディバイドに陥っているならアメリカの最大の美質であるそこが狂ってきているという根腐れが原因だ。社会主義など検討する暇があるならそれを検証すべきだろう。
一方、芸大の前身は1887年創立と米国より早いが、なにせ官立であり、国家的課題であった不平等条約解消への “箔つけ” として鹿鳴館で流せる類の洋楽の輸入をすることが目的だ。国威発揚で軍を増強し、軍艦を並べる精神と同根のものでアート本来の意義とは無縁のものである。芸大はその音楽学校(共学で女子多数)が東京美術学校(男子校)と1949年に統合してできた大学で、伝統的日本美術の保護を目的とした後者の敷地面積が大きかったのは当然だろう(西洋美術教育は後に加わった)。つまり日本からベートーベンを出そうとか庶民の人生を音楽で豊かにしようなどとは無縁のものであったが、僕も母方は軍人だからそれが国家戦略として合理的であったことに何ら異論はない。音楽を学ぶ人は「そういうものだ」という教養をもっていればいいのであって、その芸大から尾城杏奈のような才能が巣立つのを僕は喜びをもって見ている次第だ。
心の底から自国の音楽を育てたいと市民が推進したボトムアップの音楽教育。かたや西洋に遅れまじと国がトップダウンで与えたそれは今となると共産主義時代のソ連、東欧のオリンピックへの姿勢にダブる。それでも強ければいいではないかというアスリートの世界とアートは一律には語れない。音楽教育の内容にも水準にも彼我の差はなかろうが、それを享受する人間の行動はモチベーションが動かすのだ。小澤征爾というワールドクラスの異才は成城学園、桐朋音大と私学の畑からはじけ出たが、成城学園から官製大学へ行った僕はその差に敏感であると思う。母は福沢諭吉存命中の慶応ボーイの娘であり、二代飛んで家族もまた慶応のお世話になっていて、やっぱり官と民は一味違うという実感が肌感覚にある。教育というものはどっちでもできるが、その結果は個人にも国家にとっても極めて重要だ。それは今後の僕の関心事になろう。
WSに話を戻そう。彼はジュリアードの校長時代に音楽理論、ソルフェージュ(聴音)を嫌ってカリキュラムから外し、彼独自の教育メソッドを導入した。音楽の実体の動的な性質を生徒に認識させることに主眼を置き、和声、音楽史、耳の訓練のやり方は個々の教師の解釈で決めるというものだったようだ(よくわからない)。教育の体系がないとして後任者が元に戻してしまったが、彼自身の音楽を聴くともったいなかったかなと思う反面、それなしで作曲できたのは不思議にも思う。彼が書いたのは和声音楽だ。美しいタテ(和声)とヨコ(リズム)の包括的な調和がある。そういう観点から作曲した人が他にいるかどうかは知らないが、それを教えようとしてそうなったとすると理論、ソルフェージュをやる普通の音大からはもう出現しない才能かもしれない。
彼はCBSの What’s My Line?というテレビ番組に出演した。1962年9月30日のことだ。そういえば子供の頃「私は誰でしょう」というクイズ番組の記憶があって、調べるとNHKラジオ第1放送で1949 – 1968年にやっていたようだ。名を伏せたゲストにパネラーが質問しながら誰かを当てる趣向だったがモデルはCBS番組だったのかもしれない。WSは音楽関係者だろうという所まで判明し「わかった!あなた、レナード・バーンスタインでしょ?」「いえ、彼の友達です」「じゃあルドルフ・ビング(メット総支配人)だ!」「いえ、彼の友達です」「おい、音楽界で彼の友達じゃない奴いるのか・・・」「でもメットで歌ったことはありますよね?」「時々そうしたいと願うのですが、お誘いがないもので」で当たった。その場で「彼の第8交響曲が来週(10月4日)にバーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニーによって初演されます」と披露されたそうだ。
8番である。冒頭の妖しく美しい和声の質感からしてたまらない。まったく類のない神秘的で枯淡の味があるクオリアの感覚はぜひヘッドホンで味わっていただきたい。バーンスタインとNYPOのexecution!オーケストラ演奏の極致であり、もう凄いとしか書きようがない。アメリカ文化、恐るべしだ。
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カーペンターズ 「We’ve Only Just Begun」
2020 APR 27 18:18:26 pm by 東 賢太郎

以前にも書いた気がしますが、コロナ禍などで殺伐とした気分になると歌が聞きたくなります。それも女性のですね。正直のところワーグナーやR・シュトラウスのドラマティコという、オーケストラを尻に敷いてしまう堂々たるソプラノはこういう時はだめですね。重すぎて負けてしまう。結局、ネットで探していてやっぱりこれだと思ったのがカレン・カーペンターだったのです。
彼女が拒食症で亡くなってしまった1983年2月4日に、僕はアメリカにおりました。全米が悲しみに沈みました。学生時代からLPを擦り切れるほど聴いてましたからね、ショックでした、なんでそんなので死んじゃうんだってね。カーペンターズのオリジナル曲は音楽として非常に完成度が高く僕はクラシックと思ってるし、リチャードの作曲、編曲の才能によるところ大と思いますがやはりここまでブレークしたのは彼女の歌ありきだったんですね、ドキュメンタリー番組での友人の証言によると兄貴も嫉妬してたそうです。
”We’ve Only Just Begun” は「愛のプレリュード」なんて邦題でした。「私たち、たったいま始まったばかり」ですね、ほんとは。なんせ女性がドラム叩いてリリックに歌うなんてね、バンドっていうとリンゴ・スター、メル・テイラーみたいなバリバリ叩く能天気あんちゃんのイメージだったから新鮮でした。このビデオはエド・サリバン・ショーあたりでしょうか、彼女のドラムスはよく聞くといい味だしてる。うまいです。センスいいです。バックコーラスもですね、We’ve only begun~とピアノ、ドラムスといっしょにかぶさってくる、begunのコード(Am9!)がア~と来るところですね、いやこれは凄い、何度聴いても快感。これぞカーペンターズの看板の響きになりましたね。
しかし何といっても、カレンの歌なんです。なんて心に寄り添ってくるんだろう。これは悩殺なんて安っぽいのとちょっと違う、セクシーではあるが孤独で超然としたところもあってひとかどの尊厳まで帯びていて、それでいて究極の癒しもいただけているという、なんだか説明の出来ない優しさがあるのです。
僕は彼女を古今東西の最高の女性歌手と思ってます。マリア・カラスもルチア・ポップも入れてですよ。ジャンルなんか関係ないわけですね女性の歌っていうのは僕にとって一種の聖域なんで。まず驚くべきは純正調の神のように完璧で美しいピッチです。和声へのフィット感など真に驚異的であります。クラシックの一流とされる人でもほとんど気にくわないのです僕は。彼女はジュリアードやカーティスでトレーニングしたのではないけど、こういう人に教育は不要ですね。声質も音色も歌い回しも、ちょっとかすれ気味に陰るところも美しい発音、活舌も、そうしたものの天衣無縫の使い分けも音楽的に完璧である、凄い、ああ凄いと感嘆、嘆息しながら聴いてるわけですが、終わってみるとそんな些末なことは言うだけ唇寒しになってしまう。こういうことは他の人ではありません。
こっちはやや後年でしょうか、少々太目でとても明るく元気そうだ。こっちの歌唱も黙らせます。明るさをいただけます。このまま行ってくれてればおばあちゃんになってもいい味出したろうなあ・・・
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ガーシュイン 「ラプソディー・イン・ブルー」
2016 NOV 13 1:01:31 am by 東 賢太郎

大統領選はお祭りでもある。僕的にはヒラリーは裏表がありそうで好かない。負けてくれんかなあと思ってた。ウォール街、株式市場の住人なんだから彼女を応援すべきなのだが、僕の嘘つき政治家嫌いには理屈も損得もない。消去法のトランプ応援だったが、狡猾なインテリでも利権だけの職業政治家でもないのはいい。不動産や株のディールに嘘は通用しないし、口だけのインチキ野郎でなさそうなニオイのするところを有権者は見たと思う。
このお祭り、五輪やワールドカップといっしょで4年おきだ。そのたびにアメリカにいたころを思い出し、それが20代のはじめだったことに甘酸っぱい思いをはせる。僕にとって欧州やアジアは後でやって来た外国だ。分別が多少ついて、大人として味わった。米国はちがう。マックがご馳走に思え、ステーキの大きさに驚き、マンハッタンの摩天楼に感動し、英語がなんとかわかるようになり、という子供でおのぼりさんだった自分がまだそこに立っている。
そんな自分が61にもなったいまアメリカをどう思ってるかというと、なかなか一口には言えない。数えきれないほどのすばらしい思い出があってもはや抜き差しならないが、問答無用に好きなところ、ちょっとナメてるところもあるし、嫌うところもおおいにある。アメリカを去ってからの目で見れば複雑だが、しかし、甘酸っぱい思いに駆られてもはや美点凝視していたいと思うようになったのは年のせいだろうか。
思えば昭和30年生まれの僕は、原爆が落とされ東京が焦土となってわずか10年で生まれた子供なのだ。なのにアメリカは好きなんだって?70年たっても日本を恨んでる国があるのに、それって異常なことじゃないか。GHQの洗脳?そうかもしれないが、それだけじゃない何か、人種も何もなくどこの人でも惹きつけてしまう何かがアメリカにあったんじゃないか?そうだ。確かにそうだと僕は思っている。
海外初体験は大学3年のこれだ米国放浪記(1)。単なる観光旅行やホームステイなんかじゃない、脳髄に刻み込まれる強烈な衝撃で人生怖いものなんてなくなってしまった。この洗礼がなかったらひ弱だった僕が証券業界なんかでとても生きてこられなかったろうし男としての自信とハラがアメリカで完成したのは間違いない。人生来し方をふりかえるにつけ、ふる里という感じすらしてしまう。
大学4年で1か月語学留学したバッファロー大学、入社3年目でウォートンスクールの準備として1か月コースに通ったコロラド大学。修士課程の殺人的カリキュラムだったMBAの2年とちがってお気楽なもんで、素晴らしい環境のキャンパスライフは楽しくて夢みたいだった。まだ英語もままならずで周囲のすべてがカルチャーショックの連続であったが、だからこそ幼時の記憶みたいに今もみずみずしく、一番恋い焦がれるアメリカの思い出かもしれない。
ルー・ゲーリックがプレーしたコロンビア大学ベーカーフィールド。3位決定戦で元巨人の人と投げあって4-2で負けたけどOutstanding Player賞をもらったのは人生のすべての経験のうちでダントツ1位の誇りだ。けがで野球を断念したけど、神様が人生最後の9イニングをアメリカで投げさせてくれた。30年ぶりに再会したチームメートが、「練習でお前が投げた20球な、1球もあたらなかったぜ、シット(くそ)!」と笑いながらぎゅっとハグしてきた。アメリカンだ!
ポコノにスキーに行きすがら無人の雪道で脱輪して途方に暮れたときトラクターで牽引してくれたおじさん、家内の緊急手術を6時間かけて成功させカネがないので保険に後づけで入れてくれた大学病院の先生、試験のあとよ~し憂さばらしするぞ~とフラタニティ(学生寮)で大勢で朝まで飲んでちょっと書けないどんちゃん騒ぎをしたクラスメートたち・・・、ほんとうに我々はこのひとたちと戦争なんかしたんだろうか?あの美しいミクロネシアのチューク島を空爆して何千人も日本人を殺したのはこのひとたちなんだろうか?
僕が知っているのはプライドに満ち満ちた強いアメリカだった。我々はエスニック扱いだから不愉快なことも数知れずあったけども、野球なんかで力を見せつければケロッとあっけないほど素直に認めてくれるフェアな国でもあった。やればいくらでもリッチになれて、何にでもなれる気がした。あの無限の沸き立つような高揚感、まだ20代で無限の時間とエネルギーがあった自分。アメリカというのは日本にいたら見なかったかもしれない夢をくれて僕をかきたててくれた恩人ならぬ恩国であり、それそのものがもうノスタルジーになっている。トランプさん、中国に負けるながんばれ。
そんな想いがギュッと詰まって聞こえるのがラプソディー・イン・ブルーでなくて何だろう。高校時代にこのオーマンディ盤をきいてとりこになり、アメリカを夢想し、行ってみたい!!!となってしまった。そうなると僕はもう止まらない、それが「米国放浪記」のあれになる。そしてそれが人生を変える。何の理屈もない、音楽のパワーってなんてすごいんだろう。
こちらはフランス人のカティア&マリエル・ラベックのピアノデュオ。日本ではラベック姉妹と売り出したがピンカラ兄弟みたいで品がない。センスと切れ味が最高で、一発で気に入って買ったLP以来ずっと愛聴している。
これは必聴の自作自演で、2重録音したピアノロール。この曲のピアノソロは手がでっかくて重音の指回りが速くないと苦しい。この録音はガーシュインが名手だったことを示すが、技術が語法を生んで名曲となることがよくわかる。
この音楽に未知への冒険とその先の夢を聴いていたあの頃は遠く過ぎ去って、いまはマンハッタンの煽情的なネオンサインと埃っぽい喧騒と、夜のしじまのけだるい郷愁と慰撫と、初冬の朝の曇り空と冷たく乾いた空気なんかが次々と脈絡もなく脳裏を巡り巡っている。
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グローフェ グランド・キャニオン組曲
2014 SEP 5 2:02:13 am by 東 賢太郎

米国放浪記をお読みいただいた方は是非これをお聴きいただきたい。
シカゴのクラシックの楽団でヴァイオリンを弾いていた男が黒人のデキシーランド・ジャズと出会い、その魅力のとりことなる。彼はそれをニューヨークに持ち込みし大ヒットさせる。このバンドが後のビッグ・バンド・ジャズの元となり、スウィング・ジャズへと発展して行く。この男は後に「ジャズ王」と呼ばれるが、本名をポール・ホワイトマンという。
ホワイトマンは低俗とされていた当時のジャズをクラシックと融合しようと図る。そこで、楽譜屋の店頭で学校も行かずにピアノばかり弾いていた24歳の不良に曲を書かせる。不良が18日で書いたピアノ楽譜はホワイトマン楽団のアレンジャーによってピアノとジャズバンド用に編曲され、1924年にニューヨークで初演された。
この初演はストラヴィンスキーやハイフェッツも聴いていてセンセーションとなる。
これがシンフォニック・ジャズの名曲 「ラプソディ・イン・ブルー」 の誕生物語である。不良はいうまでもなくジョージ・ガーシュインであり、アレンジャーがファーデ・グローフェ(Ferde Grofé, 1892年3月27日 – 1972年4月3 日)である。ガーシュインは仕立て屋の息子だったがグローフェは音楽家の息子で、ピアノを始め多くの楽器を弾けた。
グランド・キャニオン組曲(1931)はグローフェの代表作であるどころか、彼の名はほとんどの人にはこれで記憶されているだろうから「名刺代わり」だといえる。
1.日の出
2. 赤い砂漠
3.山道を行く
4.日没
5.豪雨
からなる極めてわかりやすい曲だ。第3曲のロバのポッカポッカをどこかで聞いたことのある人は非常に多いだろう。正直のところ少々軽い極彩色の絵画的音楽であり、ハリウッド的であり、ディズニー映画にも使われた。シリアスな音楽ファンには色モノ扱いされあなどられる傾向がある。ちなみに僕もついこの前までは 「風呂屋のペンキ絵」 と評していた。
ところが、アリゾナ旅行から帰ったばかりの気分になってさっきじっくりと聴きかえしてみると意外にいいではないか。ラヴェルの「ダフニス」、レスピーギの「ローマの祭り」、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」、デュカの「魔法使いの弟子」、ホルストの「惑星」が聴こえる。豪雨がやんだフィナーレのトロンボーンはエロイカ交響曲の最後の高らかなホルン吹奏みたいだ。特に「日の出」は曲想も管弦楽法もいい。アメリカ音楽の良心がいっぱいに詰まっている。何度も聴いてしまった。これはアーサー・フィードラー盤だ。
僕が持っているCDはユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団、レナード・バーンスタイン/ ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、自作自演(ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団)だがどれもいい。オーケストレーションが抜群にうまいのでちゃんとやれば聴けてしまう。オーマンディ盤、バーンスタイン盤はどちらも高性能オケによる文句なしのシンフォニックな名演である。
僕は自演盤に魅かれている。まず「日の出」が最高に素晴らしい。音楽自体が日の出の陽光と一緒に輝きを高めていく間合いがツボにはまっている。「山道をゆく」のテンポだが、すごく遅い。その後速めに演奏される慣習になってしまったようだが、僕はロバがよろよろと「よいしょ、よいしょ」と歩くこれが好きだ。管楽器のグリッサンドがなんともいえず「リッチ」でユーモラスである。この場所にいた時のあの雰囲気にひたれる。米エヴェレストの誇る35mm磁気フィルム録音(1959年)をSACDにした音は素晴らしくリアルであり文化遺産ものだ。
(補遺、16 June17)
モートン・グールド / ヒズ・オーケストラ
たいへん素晴らしい録音を知った。楽団の実態が不明だが間違いなく一流の団体である。廃盤なので仕方なく、これのためにRCA Living Stereoの 60枚組セットを買った。その価値はある名盤だ。第一曲で日の出が輝きをぐんぐん増して、ついに陽光が燦然と輝く ff をこんなに見事に描ききった演奏はない。1960年2月19日にニューヨークのマンハッタンセンターRCAビクター・ボールルームで行われた録音の優秀さは特筆もので、管弦楽法のイフェクトを様々な録音手法で3トラック・テープに落とし込むRCAエンジニアたちの技術は素晴らしい。モートン・グールド(Morton Gould, 1913 – 96)はニューヨーク生まれで7才で作品が出版された神童だった。ルロイ・アンダーソンと同世代で似た畑の作曲家、編曲家、ピアニストだがもう少しポップスに近いイメージがある。悪く言えばアメリカ色丸出しだがジュリアード音楽院卒でクラシックの本流を学んでいるのだから何でもできる。スコアに封じ込められたグランド・キャニオンの威容を音盤から立ち上らせようというグールドとエンジニアの好奇心と執念には敬意を表したい。そういう作品はもはや風呂屋のペンキ絵ではないのである。現代のデジタルなど及びのつかない味わい深さとディテールのクラリティを併せ持った絶品でありクラシック入門はこういう一流の音をPCなどでなくオーディオ装置で味わっていただきたい。そんなちょっとしたことで人生が変わるかもしれない。
(おまけ)モートン・グールドの名はあまり知られていないが、僕の世代の皆さんはきっとこの曲に聞き覚えがあるにちがいない。
グールド作曲「パヴァーヌ」だ。どこで聞いたっけ? そう、シャボン玉ホリデーのBGMだ・・・
いい時代でしたね。
(追記)
アメリカ音楽の楽しみをさらに味わいたい方はぜひこちらもお聴きください。
お知らせ
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コープランド バレエ音楽「アパラチアの春」
2014 MAY 14 0:00:09 am by 東 賢太郎

斉藤さん、「音楽のマクドナルド化」への貴重なコメント有難うございます。36年前、僕の愛読書であった「大学への数学」別冊をさしあげたのも忘れてましたが、この曲をお薦めしたのも忘却のかなたでした。ごめんなさい。
そうでしたね。たしかに僕は大学時代この曲にはまっていて、「パリのアメリカ人」と同じほどアメリカへ行っても聴いてました。青春の思い出の曲といってもいいです。今でも最高のアメリカ音楽といえばこれを筆頭にあげるかもしれません。これだけ旋律が覚えやすくて、素晴らしい和声展開があって、場面展開がはっきりして飽きさせず、しかも長すぎないなんて、クラシックになじみのない方でも3回ぐらい聴けば「いい曲だなあ」と思っていただける筆頭格じゃないかな。
アーロン・コープランド(1900-1990)は20世紀のアメリカを代表する作曲家です。ユダヤ系ロシア移民の息子でニューヨークはブルックリン生まれだからガーシュイン(1898-1937)と同じです。パリでナディア・ブーランジェの門下に入ったようですが、彼女はガーシュインの入門は断っています。ストラヴィンスキー、ラヴェルといい彼女といい、どうしてなんだろう。
この曲は舞踏家でモダンダンスの開拓者であるマーサ・グレアムの依頼で作られた13人編成の室内オーケストラのためのバレエで、ワシントンDCの国会図書館で1944年に初演され、舞台装置はイサオ・ノグチでした。後に8部からなる管弦楽編曲がなされ、僕はそっちに親しんでしまったので原曲はちょっと違和感があります。これが原曲のバレエ版で、音楽は管弦楽版になっていない部分を含んでいます(この曲が初めての方はこれは飛ばして、下のオケ版の方から聴いて下さい!)
このバレエを見るといかにも古き良き田舎くさいアメリカという風情ですね。バルトーク、コダーイが民謡を採譜して作曲した流儀で作った曲がこれですが、クラリネットがシェーカー派の「The Gift to Be Simple」という民謡風の主題を提示して変奏していく有名な第7部のように、根っから明るくて平明で素朴です。
第8部の最後のコーラスに入る前に弦が奏でる静かな和音の流れはいいですね。「パリのアメリカ人」でも楽譜でこういう部分を指摘しましたが、この神秘的な、それでも超自然的でなく人のぬくもりと抒情のある夜のしじまの空気。こういうものはアメリカ音楽以外で感じたことはありません。
これがその管弦楽版です。この曲、アメリカの学生やアマチュアオケが大好きと見えます。おらが国の曲だから当然ですね、僕がいた頃のペンシルヴァニア大学オケもこれを練習してました。一方これは金聖響がベルギーのオケ(フランドル交響楽団)を振ったものですがブリュージュのホールの響きも素晴らしく、いい演奏と思います。ここはいつか行ってみたいと思わせる音響であります。
どうです、最高にいい曲でしょう?
この曲のCDというと僕はウイリアム・スタインバーグ/ピッツバーグ交響楽団が好きなんですが、ネットを見る限り廃盤で手に入りそうもありません。バーンスタインは新旧2種類ありますが、どうもあまりピンときません。次点でいいと思うのはズビン・メータ / ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団ですが、まずは作曲者に敬意を表してこれをお聴きいただければと思います。
じぶんの
アーロン・コープランド / ボストン交響楽団
i-tuneで1200円で買えます。右のジャケット(NAXOS盤)が200円高いですがリマスターの音は一番良いように思います。自作自演盤はほかにもコロンビア交響楽団とがありますが、僕はこの管弦楽版が好きです。 第5曲のアンサンブルなどはもっと精緻な演奏がいくらもありますが、こういうもさもさしたところが田舎くさくてかえって好きです。やはりこれはシカゴ響やベルリン・フィルがバリバリ弾く曲ではありません。終曲の安らぎなんて究極の癒しですね。録音も名ホールの響きがうまく入ってます。
(補遺、11 June 17 )
ウイリアム・スタインバーグ / ピッツバーグ交響楽団
どこを探してもないので自分のLPを録音してyoutubeに載せました。というのもこのレコードを買ったのは大学3年のおわり、78年3月20日。この日にちは当時は東大の合格発表日で個人的な祝日であり、大学生活最後の1年へ向けて心中期するものがあった。そこで前年の西海岸旅行で世界観を一変した米国の音楽を買いに行き、その年の夏に再度アメリカへ行くことに決め、選んだのが東のバッファロー大学での1か月の語学コース参加だった。今度は東海岸へ行こうと思ったのは当然として、そこでアパラチアという地名がどことなく頭にあった、それがこの曲から来ていたのは間違いありません。
法律の勉強をすっぽかして2年連続で夏休みをまるまるアメリカへ飛んで行ってしまう。いま振り返るともったいないと思いますが常識にとらわれない性格は親譲りであり、子供のとき部屋中を電車の線路だらけにして隣の部屋まで盛大に進出しても叱らなかった母が育てたものです。その気合の入った渡米2回があったから何かが会社に通じて留学生となりウォートンスクールでMBAを取らせてもらったのだと思っています。すべてはこのレコードです。これを聴きこんで「アパラチアの春」が心に棲みついた。そしてそれが僕の人生を決めたのです。
このレコード、もうひとつ親しみがあって、オーケストラの音響なのです。調べると録音会場がピッツバーグの「陸海軍人国立軍事博物館&記念館ホール」(the Soldiers and Sailors Memorial Hall )である。ここはリンカーンのゲッティスバーグ演説が背後の壁面に刻まれた天井の高いオーディトリウムです(写真)。
このコープランドはここで1967年5月15, 17, 18日に収録された、スタインバーグ・ピッツバーグ響のコマンド・レーベルへの最後から2番目の録音である。そしてこのコンビが同レーベルにした初録音がブラームス交響曲第2番(1961年)であります(ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(2) 参照)。この広大なスペースの空気振動を35mm磁気テープでとらえた当録音は6年の時を経てブラームスより数段の進化を遂げており、誠に素晴らしい。デジタル録音がどんなに微細な情報まで伝達しようと、音楽としてはこのアナログにかなわないのは不可思議としか言いようがないが事実なのです。
オーケストラの音響が僕らの脳に生み出す意識や音像は、いわば「ゲル状の流動的なもの」であるとイメージしています。それをデジタル要素に分解して再現できないのは、やはりデジタル的である「言葉」によって音楽を表現できないのと同じでしょう。言葉は詩や俳句によって初めてアナログになるのです。「LPレコードのほうがCDより音が良い」とは誰も証明できない、それでいて多くの人が感じて述べている感想ですが、非常に深い意味を持っています。僕はこの録音が特に好みであり、こういう音響を自宅で求めてオーディオルームの天井を高くしたり、壁をでこぼこの石造りにしたり、部屋の寸法を黄金分割にしたりするに至りました。その意味でも記念碑的なレコードです。
ウイリアム・スタインバーグ(1899-1978)は先日N響でスメタナ「わが祖国」を指揮したピンカスの父であり、イスラエル・フィルハーモニーの創立者であり、僕が1977年に死にかけたサンフランシスコ事件(米国放浪記(7) )の指揮者でした。ケルン出身のユダヤ系でアーベントロートに師事し、クレンペラーもトスカニーニも彼をアシスタントして採用しオーケストラのリハーサルをさせたというのは大変なことだ。スター性には欠けたのかボストン響のポストをラインスドルフに奪われて頂点には届かなかったがピッツバーグ響を一級の団体にしたし、なによりこうして残された録音のクオリティが彼の腕を証明してます。「アパラチアの春」も「ビリー・ザ・キッド」も今どきの潔癖な完璧さではなくまさに「ゲル状の流動的なもの」としてライブのような生き物の音楽をやっているのです。彼はビリーの組曲版の初演者(NBC響)でもあり、この音楽が生まれ出たころの空気を最高の音響で聴かせてくれる。こんな本物の録音が市場から消されてしまうのはどういうことなんだろう?
ユーモアのセンスがあったスタインバーグは「私はリンカーンのゲッティスバーグ演説を諳んじている歴史上唯一の指揮者です」とブラームス2番の録音後に語りましたが、「もしホールの響きが悪い場合はテンポは速くすべきです。早く帰るためにね」とも言っているので「陸海軍人国立軍事博物館&記念館ホール」のアコーステッィクは気に入っていたのではないでしょうか。お聴きください。
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ガーシュイン 「パリのアメリカ人」
2014 MAY 11 20:20:08 pm by 東 賢太郎

アメリカへやってきたヨーロッパ人のドヴォルザークがボヘミアを想って書いたのが新世界交響曲、弦楽四重奏曲アメリカ、チェロ協奏曲なら、ヨーロッパへやってきたアメリカ人ジョージ・ガーシュイン(右)が書いたのがこれ。そしてアメリカへ行った日本人であった1982年の僕が最もアメリカを感じていた音楽がこの「パリのアメリカ人」でした。ユダヤ系ロシア移民でニューヨークはブルックリン生まれのガーシュインは38歳9ヶ月半で亡くなったのでモーツァルトとそう変わらない短い人生だったことになります。自作のピアノロール録音が残っていますが、彼のピアノのうまさは半端ではないですね。「パリのアメリカ人」も「ラプソディー・イン・ブルー」も、一聴すると簡単に聞こえるのですがそこが名曲の名曲たるゆえんで、楽譜を見ると分かりますが、あのぐらい自由自在にピアノを操れる人間でなければ作曲することは到底不可能な複雑な音楽です。しかし、それを知ったうえでも彼がジャズミュージシャンだったのかクラシックの作曲家だったのか?これは微妙なところですね。
これは彼の曲、有名な「サマー・タイム」です。彼のオペラ「ポギーとベス」の第1幕第1場で歌われる曲ですが、ジャズ編曲されてそれも有名になり、ジャズだと思っている人も多いようです。エラ・フイッツジェラルドとルイ・アームストロングの演奏です。
彼にはこういうとことんジャジーな曲を書く才能がありました。それでも彼はクラシックに憧れたんでしょう、1920年代にパリにわたって音楽修行を志し、ストラヴィンスキーやラヴェルに弟子入りを志願しています。しかし、彼が当時は大枚であった5万ドルも稼ぐことを知ったケチのストラヴィンスキーには「どうやったらそんなに稼げるのかこっちが教えてほしいぐらいだ」といわれ 、ラヴェルには「一流のガーシュインが二流のラヴェルになる必要はないだろう」といわれて断られています。それなのに二人ともその後ジャズのイディオムを取り入れた作曲をしています。どうも、どっちが上なのかよくわからなくなってきます。少なくともジャズをクラシックに融合することに関してはガーシュインの方が上手だったようですね。彼はアメリカへ戻ってからはなんと12音技法や複調に関心を持ち、シェーンベルクとはテニスをやるほど親交があったというから驚きです。
彼はそのパリ時代に「お登りさん」と感じ、大都会の喧騒(タクシーのクラクションなどで象徴)、故郷へのノスタルジーをこめて急-緩-急の三部からる20分ぐらいの交響詩を作りました。それがこの「パリのアメリカ人」です。
出だしの跳躍する奇妙な旋律、不安定な和声。これぞ彼の描いた「お登りさん」のイメージですが、こんなメロディーは他の誰にも書けません。ここからしてもう天才ですね。クラクションを交えてラプソディックに展開する自由奔放なコード進行。そして音楽は静まって、いよいよこの楽譜の部分が現れます。ちょっと印象派風、ドビッシー風の和声になるこの部分。僕はここが大好きなんです。バッファローやニューヨークやフィラデルフィアの郊外、少しひんやりした草原の夜のしじまの乾いた空気を思い出すこの部分。青春時代の後半を妻と過ごしたアメリカ東海岸での経験がいかに僕の脳髄に深く深く擦りこまれているか、そういうことをこの部分、この曲全体がいわずと教えてくれます。やっぱり僕はアメリカが好きだということをです。
CDですが、以下の4つが真打級の演奏と言っていいでしょう。最近は欧州のオーケストラもこれをうまくやりますが、やはり管楽器のジャジーなヴィヴラートの味や弦楽器のちょっとしたフレージングの合わせ方でアメリカの楽団が勝ります。
① レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団 ② ユージン・オーマンディー / フィラデルフィア管弦楽団 ③ アーサー・フィードラ- / ボストン交響楽団 ④ ズビン・メータ / ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団
常識的には①②が一般的な代表盤であり文句のつけようがない名演ですが、僕は③が最も好きです。演奏ももちろんですがなんといってもボストン・シンフォニーホールのヨーロッパ調の響きがいいんですね。ぜひお聴きになってみて下さい。
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クラシック徒然草-カッコよかったレナード・バーンスタイン-
2013 JAN 18 18:18:50 pm by 東 賢太郎

バーンスタインのリハーサルに立ち会ったのも、やはり、カーチス音楽院でした。
チェリビダッケが1984年2月、バーンスタインは同じく4月。これも前回と全く同じで古沢巌さんのお手引きを得て、すべてをすっぽかして駆けつけました。もう歴史上の人物になってしまった2人の大指揮者のミュージック・メーキングの光景は、眼にも耳にもはっきりと焼きついているのですが、なにか夢か幻のようでもあります。
バーンスタインはカーチス音楽院の卒業生であり、母校の創立60周年記念コンサートを振るためにやってきました。その時のプログラムがこれです。
その日のリハーサルは最初の「チチェスター詩編」。知らない曲でした。当時ネットという便利なものがなく曲について予習も復習もできませんでした。今になってWikiで調べてみると、「英国南部の ”チチェスター大聖堂” のために書かれた曲」とありました。
ところで、さきほど上掲のプログラムを探すため物置にある昔の資料をひっくり返していると、このリハーサルの4年後のロンドン時代に行った教会のパンフレット(右)がポロっと出てきました。お客さん宅のX’masパーティーに招待されて、彼の所属する教会のクリスマスミサに参加した際の記念ですが、この厳粛なすばらしいミサは僕のロンドン駐在を通して最も忘れがたい体験の一つになっています。
ふとピンときて、よもや、まさか、と思いパンフの教会の名を見ると、やはり “チチェスター大聖堂” とあり鳥肌が立ちました。何かの因縁でしょうか。

Leonard Bernstein speaking with Curtis students in a rehearsal break in 1984, when he returned to his alma mater to conduct his Symphony No. 2 (“Age of Anxiety”)
バーンスタインは小走りに舞台に現れるとまずコンマスの女の子と長々とハグして頬にキス。 チェリビダッケとの落差にいきなりカウンターパンチを食らいます。練習が始まってもムードは明るく、ジョークも飛んで和気あいあい。チェリが「ダメだし派」とすると彼は「いいね派」で、10代の子たちをノセるのがうまかったです。写真がこの時のものです。
「コントラバスのピッチカート、もう一回。」 演奏 「いや、ちがう、もう一回」 演奏 「なんでもっとソフトにできないかなー?リーダーのキミ、そうキミだよ。キミ彼女いるでしょ?」 「はい、います」 「うん。彼女におやすみの投げキッスするだろ?」 「はい」 「やってみて」(バーンスタインに投げキッスする)(全員、おお笑い) 「それそれ、それだよ。できるじゃないか。そういう感じでもう一回」 演奏 OK
こんなことも起こりました。
速い箇所で急に両手を広げて演奏をストップ。「ティンパニ!キミ、それちがうだろ?」 「???」 「ロングノート(Wrong note)だ」 「先生、意味がよく理解できません・・・」「キミ、F#打ったでしょ?」 「はい」 「そりゃDだ」 気まずい沈黙 「先生、でも・・・」「よく楽譜を見なさい」 「F#ですが」 「キミ。この曲の作曲家の名前知ってるかい?」 「はい、あなたなんですが、でも・・・」 そこでバーンスタインは指揮台を降りてティンパニのところへつかつかと行き彼の譜面台をのぞきこむ 「いや、ゴメン!」 (I’m sorry, you are right.) (爆笑と拍手)
万事こういう感じでした。細かい指示は徹底しながらも、全く飾らないお人柄とオーラでぐいぐい人を引っ張ってしまう。心底、カッコいいなあと惚れ込んでしまいました。
先日のブログに書いたロンドンでの「キャンディード」はDVDになっていますが、1989年12月13日だったようです。この客席に僕もいました。
この終演後にホールのボウルルームでパーティーがあり、彼と話ができましたがあのリハーサルそのままの気さくな人でした。
「おー、カーチスのあれか、あそこにいたのね。覚えてるよ。若い子たちと音楽やるのはいいね。僕も若がえってね。」 こう言って僕が差し出したプログラムの写真をしげしげと見る。これです。
「あれ、こりゃだめだ。こんなジイさんをのせちゃいけないね。」 笑いながら、即、却下。そして、彼は自分でパラパラとページをめくってこっちを探しだしました。「そう、これこれ。これが僕だよ。そう思わない?やっぱり若いほうじゃなくっちゃ」 少し震える手でその写真にサインして、僕の眼を見ながら人なつっこく笑い、大きくて柔らかい手でしっかりと握手してくれました。それがこれです。
彼はこの会話の10か月後に亡くなりました。目の前のバーンスタインは彼が嫌いだった方の写真でも若いぐらいの姿でしたが、眼の輝きは若者のようでした。彼のハートはあの「マリア」の音符を書いた頃のままだったと思います。
この世で最後に私たちを救うのは,おおきな夢を唱え,育み,拒み,歌い,そして叫ぶことのできる,思索家,感覚家,つまり芸術家です。芸術家だけが”かたちのないもの”を”実在”に変えることができるのです。
Leonard Bernstein (1918 – 1990)
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バーンスタイン”ウエストサイドストーリー(West Side Story)” (1)
2013 JAN 17 14:14:09 pm by 東 賢太郎

レナード・バーンスタインは20世紀後半を代表する世界的な作曲家であり、指揮者である。
作曲という行為と演奏という行為はモーツァルトの時代あたりまでは同一人物が行なうのが通常だった。 当時すでにバッハやヘンデルの音楽は古典だったけれども、それらが今のように「クラシック音楽」として広く演奏会のプログラムにのっていたわけではない。印刷術が発達し、国境を越えて流布し始めた楽譜というものが偉大な音楽遺産として集積した結果、貴族に代わって聴衆として台頭した市民階級がそれを「クラシック音楽」と呼び始めた。そのクラス(階級)という呼称に潜む尊大さを、コカ・コーラ社はコーク・クラシックというあえて尊大ぶってみせた命名によってお茶目におちょくっている。コークにクラシックもへったくれもないのと同様、モーツァルトの時代の聴衆である貴族たちにとって、音楽とは教養や権威を誇示する道具というよりも単なる享楽的な消費の対象という側面の方が強かっただろう。深遠で気難しいゲージュツなどというものではなく、現代のロックやポップスのあり方に非常に近いものだったと言える。
バーンスタインという人は、そのモーツァルト時代の流儀で「自作を演奏もした作曲家」だった。世界的な指揮者が余技で「作曲もした」のではない。作曲家として認められたかった大指揮者フルトヴェングラーが交響曲を3つ残したのは有名である。それを余技というつもりはないが、残念ながらその音楽自体はまだ彼が書いたという事実以上に有名になってはいない。反対に、ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の名ナンバーである「トゥナイト」や「マリア」が有名になった以上に、それらがウィーンフィルを振って立派なベートーベンやブラームスの交響曲全集を作っている大指揮者の作品だという事実が有名になったとも思えない。
ウエストサイドが 売れてしまったことにバーンスタインがアンビバレントな(愛憎こもごもな)葛藤をもっていたことを僕は彼のコンサートで知った。1989年にロンドンのバービカンセンターで彼が自作「キャンディード」を振ったとき、演奏開始前に聴衆に向けて不意に始まった「キャンディードは僕の大事な子供です。不本意なことにもう一人の子ばかり有名になってしまいましたが」というスピーチによって。しかしこのバーンスタイン自演のCDを聴けば、有名になってしまっても仕方がないということがよくわかる。若者の情熱、はちきれんばかりのエネルギーと狂気、ほろ苦い愛と悲しみを秘めたロマンティックな名旋律。これを余技といえる人はいない。魅力に満ち溢れた傑作である。
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