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カテゴリー: ______クラシック徒然草

クラシック徒然草《永遠のルチア・ポップ》

2017 NOV 26 11:11:47 am by 東 賢太郎

アメリカ、ヨーロッパに13年半も住んでいてあれだけいろいろ聴いたのにと悔やむ人がいる。ルチア・ポップである。1993年11月16日、ドイツにいる頃に喉の癌であまりに早く亡くなってしまい愕然としたのを思い出す。若いころは可愛く清楚であり晩年でも天使のような清純派の声であったが、中高音で伸び、テンション、輝きが高まって厳しさが出てくるのがいい。ロマン派でも感情にまかせて音程が甘くなるようなことが絶対になく節度と規律がある。ムゼッタに起用されて「わたしが街を歩くと 」をやってもパリの蓮っ葉女にならないのは困ったものだが、そこがたまらないのだ。参りましたとひれ伏す気品と威厳がある人だ。顔もどことなく好きであり、いま最も癒されるソプラノといえる。

スロヴァキア人であるポップのデビューは1963年にブラチスラヴァ歌劇場でオットー・クレンペラーの指揮による「魔笛」の夜の女王だったが、僕が彼女を知ったのもクレンペラー最晩年の、そして彼女にとってデビュー録音である夜の女王だった。これは何度聴いても震撼すべき歌だ。後にも先にもこのアリアがこれ以上正確な音程で歌われたのを聴いたことがなく、しかも決して曲芸っぽくないのが僕が言う「節度」なのだがお分かりいただけるだろうか。それが立派な音楽に貢献しているところがクレンペラー博士の厳しい目にかなったのだと長年思っていた。

ところが本稿のために46才の時のインタビューのビデオを見ていて、それが正しかったことを知った。「自分のレコードは全曲盤で90もありますが、命の危険でもない限り一切聴きません。いまならそう歌わないから満足しないのです」と断言するポップが唯一の例外としてあげているのが「クレンペラー先生との魔笛」であった。「これだけはいまでも心に触れてきます。それにこの録音が私のキャリアを開いてくれたのです。メトロポリタン歌劇場の支配人ルドルフ・ビングさんがこれを聴いて即刻メットに契約してくれたのです」と語っている。その結果がこれだが、ライブでもまったくすごいものである。

もう一つの夜の女王のアリア(クレンペラー盤)の一発決めの高音も楽勝。この録音の時、ポップは歯痛だったそうだが関係ないんだ。僕はこの録音を、やはりデビュー録音で世界をあっといわせたジャクリーヌ・デュ・プレのエルガーのコンチェルトに比肩するものと考えている。

他は聴かないとポップに言われてしまうと困るが、このスザンナ(フィガロの結婚)はモーツァルトに見せてみたい。ナンシーとどっちが好きかな?っていうことで。

もう一つフィガロから、ケルビーノの「恋とはどんなものかしら」だ。この艶やかな美声、ゴージャスの極致。これは彼女にとっては技巧で作ったものなのかもしれないと思いつつ。

コロラトゥーラ・ソプラノで売り出したポップのこれが最高の出来ばえなのはいわば当然だろう。オルフの「カルミナ・ブラーナ」だ。なんと繊細で美しい!

ロマン派に行くと、僕はこれが大好きだ。グスタフ・シャルパンティエの歌劇「ルイーズ」から名アリア「その日から」だ。彼は寡作でオペラはこれだけだが、ボエームの雰囲気のある佳曲である。このアリア、ぜひyoutubeで他の歌手ときき比べてほしい。ジャンプした高いイ音(ラ)がポップほどつややかに輝いて安定しているのはなく、夢幻の心地でうっとりだ。ききほれるしかない。

ドヴォルザークの歌劇「ルサルカ」から「月に寄せる歌」だ。何という気品!!もうひざまずいてルチア様と申し上げるしかない。

インタビューをきいて、彼女がスザンナやルイーズのような人ではないとよくわかった。暗さがあるのだ。母国語のように操っているドイツ語も、どこか心でなく頭から出ている風に見える。内省的で芯の強い人で、何かは知らないが自分の運命に反抗すべきものをもっているのだろうかと感じる。母国チェコスロヴァキアの劇団で若くして映画、舞台で知られ、共産圏から逃げて英米のマネジメントに売れっ子に仕立てられた人生。楽しんでいるとは言っているが、劇場で一人スポットライトを浴びるのは好きでないとも語っている。自分は皆で歌う中で育ったという彼女は教会音楽が似合うし、ご本人も派手なシアターよりしっくりきたのではないだろうか。僕もこれを歌ってる彼女が好きだ。モーツァルトのハ短調ミサである。

さらにいえば、彼女の心の本領はリートにあると思う。それもシューベルトの「月に寄せるさすらい人の歌 D870 」のような、ほの暗い中にも明るさを紡ぎだしてくれるあたたかい歌だ。晩年になって声のせいでリートに行く人はいるが、ポップの場合はここが故郷だったように思う。暗闇に光明を灯そうとするけなげな強さに、作られたスターダムは不要だったかもしれない。

最後に、僕が留学中に米国でFM放送を録音したテープをyoutubeにアップした。シカゴ交響楽団の1984年3月15日のライブで、指揮のジュゼッペ・シノーポリとバリトンのウォルトン・グレーンルースはこれがCSOデビュー演奏会であり、我がルチア・ポップはこれがCSO最後の出演となってしまった。ポップもシノーポリもグレーンルースも故人となってしまったいま、この演奏が広く世界の人の耳にふれることを願ってやまない。

マーラーの「子供の不思議な角笛」である。

クラシック徒然草-クレンペラーとモーツァルトのオペラ-

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クラシック徒然草《ラテン感覚フルコース》

2017 OCT 29 11:11:30 am by 東 賢太郎

自分の洋モノ好きがゲルマンなのかラテンなのかは難しい所だ。地中海の文化、風物を愛するのは何度も書いた通りだ。食はラテンだしベートーベンやワーグナーもトスカニーニのラテン気質で解釈したものが良い。しかしゲルマン世界に5年も住みついて食も慣れたし人の気質にもなじんだし、ソナタ形式の音楽は言うまでもなくそっちだ。結局、どちらともつかずその時々の気分によるということだ。

お袋がいなくなってからもあまりに親しい方々が亡くなったり病気だとの知らせを伝え聞いたりするものでかなり神経が参っている。だんだん自分の過去が切り取られてなくなっていく。辛いから心が忘れようとするが、すると故人とともに子供のころの記憶にぽっかりと穴があいてしまう気がしてくる。こういう時にあまり気難しい音楽は欲しくない。何も考えずに、一切の言葉を消して頭を空っぽにして聞くにはラテンもの、フランスに限る。

洗練された美食の文化と同様、万事感覚的に美しいことに徹底して潔い。ラヴェル、ドビッシーはもちろんメシアンやブーレーズもそうだ。この感覚美とでもいうものが心の澱を流し去ってくれる。フランス人演奏家のゲルマンものでもそれは当てはまるが、最近の人はユニバーサルなアプローチとなってきてそうでもなくなった。パリ管の木管がパリ音楽院管弦楽団の音を失っていったのと軌を一にする。だから僕は昔のレコードをひっぱり出すことが多い。

フランス・ピアノ界の至宝、ロベール・カサドシュ(1899-1972)のドビッシー「映像Ⅰ&Ⅱ」は僕にとってその効果が絶大である。言葉がないほど見事だ。

カサドシュの古典、ハイドンやモーツァルトは神品であり、明晰なラテン精神と素晴らしく透明でハープシコードのように軽やかなタッチで愉悦感が立ちのぼる気品は貴族的と讃えるしかない。

やはりフランスのピアニスト、マルセル・メイエ(1897 – 1958)女史によるファリャの交響的印象「スペインの庭の夜」はうれしい。ローマでのライブでラテンの香りがむんむんする。ああスペイン料理行こうかな。

レジーヌ・クレスパン(1927-2007)はフランスの名ソプラノ。2010年にパリに行った折、オペラ座で追悼の写真展をやっていたのを思い出す。アンセルメ・スイスロマンド管とのラヴェル「シェラザード」は世界遺産ものだ。

締めくくりはポール・デュカスの舞踊詩「ラ・ペリ」でいこう。ベンツィ指揮のボルドー・アキテーヌ管弦楽団。オケのローカルっぽい味がたまらない。

満腹にて終了。

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クラシック徒然草 《ルガノの名演奏家たち》

2017 JAN 10 1:01:07 am by 東 賢太郎

luganoルガノ(Lugano)はイタリア国境に近く、コモ湖の北、ルガノ湖のほとりに静かにたたずむスイスのイタリア語圏の中心都市である。チューリヒから車でルツェルンを経由して、長いゴッタルド・トンネルを抜けるとすぐだ。飛ばして1時間半で着いたこともある。

人口は5万かそこらしかない保養地だが、ミラノまで1時間ほどの距離だからスイスだけでなくリタイアしたイタリアの大金持ちの豪邸も建ちならび野村スイスの支店があった。本店のあるチューリヒも湖とアルプスの光景が絵のように美しいが、珠玉のようなジュネーヴ、ルガノも配下あったのだからスイスの2年半はいま思えば至福の時だった。

自分で言ってしまうのもあさましいがもう嫉妬されようが何だろうがどうでもいいので事実を書こう、当時の野村スイスの社長ポストは垂涎の的だった。日系ダントツの銀行であり1兆円近かったスイスフラン建て起債市場での王者野村の引受母店でありスイスでの販売力も他社とは比較にもならない。日本物シンジケートに入れて欲しいUBS、SBC、クレディスイスをアウエイのスイスで上から目線で見ている唯一の日本企業であった。なにより、大音楽家がこぞってスイスに来たほどの風景の中の一軒家に住めて、金持ちしかいない国だから治安、教育、文化、食、インフラはすべて一級品なうえに、観光立国だから生活は英語でOKで外人にフレンドリーときている。

唯一の短所は夜の遊び場がカラオケぐらいしかないことだが、ルガノはさすがで対岸イタリア側に立派なカジノはあるは崖の上にはパラディソという高級ナイトクラブもあってイタリア、ロシア系のきれいなお姉さんがたくさんいた。客が客だからばかはおらずそれなりに賢いわけで、ここは珍しく会話になるから行った。私ウクライナよ、いいとこよ行ったことある?とたどたどしい英語でいうので、ないよ、キエフの大門しか知らん、ポルタマジョーレとかいい加減なイタリア語?でピアノの仕草をしたら、女はなんと弾いたことあるわよとあれを歌ったのだ。

こういうのがいて面白いのだが、でもどうして君みたいな若い美人でムソルグスキー弾ける人がここにいるのなんて驚いてはいけない。人生いろいろある。本でみたんだぐらいでお茶を濁した。男はこういう所でしたたかな女にシビアに値踏みされているのである。彼女の存在は不思議でも何でもない。007のシーンを思い出してもらえばいい、カネがあるところ万物の一級品が集まるのは人間の悲しいさがの故なのだ。世界のいつでもどこでも働く一般原理なのだと思えばいい。社会主義者が何をほざこうがお姉さん方には関係ない、原理の前には無力ということなのである。

名前は失念したがルガノ湖畔に支店長行きつけのパスタ屋があってペンネアラビアータが絶品であった。店主がシシリーのいいおやじでそれとワインの好みを覚えていつも勝手にそれがでてきた。初めてのときだったか、タバスコはないかというと旦那あれは人の食うもんじゃねえと辛めのオーリオ・ピカンテがどかんときた。あとで知ったがもっと許せないのはケチャップだそうであれはイタリア人にとって神聖なトマトの冒涜であるうえにパスタを甘くするなど犯罪だそうだ。そうだよなアメリカに食文化ねえよなと意気投合しながら、好物であるナポリタンは味も命名も二重の犯罪と知って笑えなくなった。香港に転勤が決まって最後に行ったら、店を閉めるんだこれもってけよとあのアラビアータソースをでっかい瓶ごと持たせてくれたのにはほろっときた。

apollo上記のカジノのなかにテアトロ・アポロがあり、1935年の風景はこうであった。1804年に作られテアトロ・クアザールと呼ばれた。ドイツ語のKurは自然や温泉によって体調を整えることである。ケーニヒシュタインの我が家の隣だったクアバートはクレンペラーが湯治していたし、フルトヴェングラーやシューリヒトが愛したヴィースバーデンのそれは巨大、ブラームスで有名なバーデンバーデンは街ごとKurhausみたいなものだ。バーデンは温泉の意味だが、金持ちの保養地として娯楽も大事であって、カジノと歌劇場はほぼあるといってよい。カジノはパチンコの同類に思われているが実はオペラハウスとワンセットなんで、東京は世界一流の文化都市だ、歌舞伎とオペラがあるのにおかしいだろうと自民党はいえばいいのだ。

moz20ルガノのクアであるアポロ劇場での録音で最も有名なのはイヴォンヌ・ルフェビュールがフルトヴェングラー/ベルリンフィルと1954年5月15日に行ったモーツァルトの K.466 だろう(   モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466)。彼のモーツァルトはあまり好まないがこれとドン・ジョバンニ(ザルツブルグ音楽祭の53年盤でほぼ同じ時期だ)だけは別格で、暗く重いものを引き出すことに傾注していて、何が彼をそこまで駆り立てたのかと思う。聴覚の変調かもしれないと思うと悲痛だ。彼はこの年11月30日に亡くなったがそれはバーデンバーデンだった。

lugano1もうひとつ面白いCDが、チェリビダッケが1963年6月14日にここでスイスイタリア放送響を振ったシューベルト未完成とチャイコフスキーのくるみ割り組曲だ。オケは弱いがピアニッシモの発する磁力が凄く、彼一流の濃い未完成である。くるみ割りも一発勝負の客演と思えぬ精気と活力が漲り、ホールトーンに包まれるコクのある音も臨場感があり、この手のCDに珍しくまた聴こうと思う。彼はイタリアの放送オケを渡り歩いて悲愴とシェラザードの稿に書いたように非常にユニークなライブ演奏を残しており全部聴いてみたいと思わせる何かがある。そういうオーラの人だった。

lugano3最後にミラノ出張のおりにスカラ座前のリコルディで買ったCDで、この録音はほとんど出回っておらず入手困難のようだからメーカーは復刻してほしい。バックハウスがシューリヒト/スイスイタリア放送響と1958年5月23日にやったブラームスの第2協奏曲で、これが大層な名演なのである。僕はどっちのベーム盤より、VPOのシューリヒト盤よりもピアノだけは74才のこっちをとる。ミスなどものともせぬ絶対王者の風格は圧倒的で、こういう千両役者の芸がはまる様を知ってしまうとほかのは小姓の芸だ。大家は生きてるうちに聴いておかないと一生後悔するのだが、はて今は誰なんだっけとさびしい。ついでだが、ルガノと関係ないがシューリヒトの正規盤がないウィーンフィルとのブルックナー5番もこれを買った昔から気にいっている。テンポは変幻自在でついていけない人もいようが、この融通無碍こそシューリヒトの醸し出す味のエッセンスである。

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クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-

 

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クラシック徒然草《ギドン・クレーメルの箴言》

2016 DEC 8 0:00:27 am by 東 賢太郎

新宿末廣亭で「噺家ったって最近の若いやつは学士様で落研だ。古典なんざどいつも一緒でね。なんたってみんなおんなじ真打のCD何回も聞いてオウムみたいにまねてんだから」という古参の愚痴が落語のネタになっていた。

24795b9d45550d61cc9f6bee7a09a629_xlそうしたら、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したヴァイオリニストのギドン・クレーメルがTVで同じ趣旨のことを語っているではないか。「若い演奏家はみなテクニックがあって難しい箇所を無難に速く弾いたりできるけれど、音だけ聴くと誰かわからないケースが多いのです」と。以下、大意である。

「ベートーベンのパトロンたちは彼に『ロッシーニみたいになるな』と戒めたのです。ロッシーニは当時、時代の寵児だったのに。ところが現代では人気がある大家をまねて弾け、そうすれば君もすぐ人気が出るぞと言われる。これは大きな間違いです」

「だから限られた人気作ばかり弾く傾向があります。聴衆はお馴染みの曲を聞いて鼻歌で気持ちよく帰れるでしょう。しかし演奏家は癒しを与える存在では断じてありません。私は演奏中に気持ちよく眠っていただきたいなどと思ったことはありません。音楽を聴かせることは『何かを経験させること』なのです。良かろうが悪かろうが聴衆の記憶に永く残り、何かを考えさせ、時には感情をぐらぐらにかき乱すことこそが演奏の目的です」

kremer_mimage02「ラトヴィアから出てきてオイストラフのクラスに入ったら(右)『すべて私の言う通りやれ』といわれ戸惑いました。私は他人のやり方に服従するのは嫌だったのです。しかし8年彼に学んで様々なことを教わり、ある時に『私なら君のようには絶対に弾かないが、君はそれでいきなさい』と認められた。それが自信になり、自分だけのシグナチャーができました。大家は厳しいが個性には寛容でもあるのです」

「感じた通りを弾くことで演奏は自分だけのシグナチャーとなります。バッハやベートーベンも現代の作品においても同ことです。バッハが古いといってもピラミッドほどではないでしょう?みんな現代の音楽なのです。でも聴衆の感じ方は変わってくる。自分の心で感じた解釈がどんなものであれ、それが聴衆の心を動かすのであればベートーベンはきっと許してくれるはずです」

「音楽は心を開いて聞くものです。頭で聞くものではありません。恐れても構えてもいけません。演奏家は作品から心が感じ取ったものを音にする、それは創造であり、それが音楽に奉仕するということです。テクニックや速弾きが個性なのではなく、自分のシグナチャーをもって聴衆の心に訴えかけ何かを経験して感じ取ってもらうこと、それが作品に奉仕するということです。私はそれ以外の目的で演奏することはありません」

「高松宮殿下記念世界文化賞を頂いて光栄であるとともに、私のような考えの音楽家でも信念を貫いてやっていれば認めていただけることを示せたということを嬉しく思っています」

クレーメルの言葉をきいて、母国語でない英語で訥々と、しかし見事に知的に的確な言葉を丁寧に選んで語りかける姿に、まるで彼のヴァイオリンの演奏を聴いたかのような感動を覚えた。

音楽を愛し、聞き、演奏することの本質をこれほどずばりと言い当てた表現は初めて接したかもしれない。自分のシグナチャーを尊重する。まったく同感であり、僕はそういう演奏や演奏家を心から欲している。

 
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クラシック徒然草 《マーラーと探偵小説》

2016 DEC 5 11:11:11 am by 東 賢太郎

探偵小説マニアの女性というのはあんまり見かけない。いるのだろうが今の周囲にはいない。僕は女性が好きそうなトラベルミステリーとか人情物は興味がないというのもあるかもしれない。

たまたまそういう方がいて、じゃあどこが好きかということになった。人間ドラマのどろどろですねという彼女に対し僕はロジックの理路整然なのだからまったくの対極でかみ合わない。純文学だろうが探偵小説だろうが人間なんて一皮むけばみんなどろどろなんだから、そんなわかりきった小説を書くのも読むのもエネルギーの無駄だろうと思ってしまうのだ。

探偵小説というのは暗黙のルールがあって、犯人は智者で読者は愚者、そして探偵は天才であるという三位一体がつねにある。愚者と天才はまあどうでもよくて、犯人=智者というのが問題だ。犯人が行きずりの粗暴な衝動犯でもいけないし、一応は計画犯だが愚鈍だったりでもいけない。警察捜査で事件は片付いてしまって、肝心の天才の出番がないのである。

しかし犯人が天才では探偵と相討ちになってしまって事件は解決しない。だから仕組んだロジックにわずかなほつれを作るぐらいの智者がいいのであって、天才である探偵はそれを見逃さない。はい、では皆さんは見つけられましたか?という物語であって、ほら、やっぱり無理でしたね、どうですこの名探偵、天才でしょ?というホラ話をまじめに受け入れられる素直な人たちのために書かれているのが探偵小説である。

そこで、智者である犯人像の創造が難しい。変人だと読者にバレる。しかし智者すぎると、そんなリスク・リターンの悪い犯罪なんか頭のいい奴がやるはずねえだろとなってしまうのだ。いわゆる本格推理小説というのはほとんどがそこに破たんの源があって、読み終わるとこんな低能な物書きに騙されて印税まで払ってしまったという自己嫌悪感しか残らない。

そこで目くらましとして「どろどろ派」やら「社会派」が出てくる。それに犯人をまぶして動機と人間性を隠ぺいするのである。それでも童謡に添って人を殺したり現場にトランプを置いていったりなんてくだらないことで捜査側をあざ笑おうなんてハイリスク・ノーリターンな行為がいささかも現実味を帯びるとは思わないが、仕方なくやる隠ぺいが謎を深めるといういっときのプラス効果はある。その失敗のツケは種明かしのあほらしさとなって倍返しでやってくるのだが。

そういいながら探偵小説に騙され続けているのは、小中学生のころ読んだホームズやクイーンが面白かったからだ。三位一体とワトソンの叙述がエクリチュール化して逸脱を許容しないホームズ物はともかく、挑戦状による読者参加型を装っておいて解決が完全にはロジカルでなく実は三位一体型以外の何物でもないクイーン物は造りそのものが騙しであるという確信犯的部分に創造性を感じるから騙されても腹は立たなかったのである。

中では、オランダ靴の謎とエジプト十字架の謎の二作だけが犯人が当てられるという意味でロジカルであり三位一体としては失敗作なのであるが、ちなみに冒頭の方は後者は未読で前者は面白くなかったらしい。X・Y・Z・レーンはYだけではニーベルングの指輪と言ってもわからない。人生楽しみが残っててうらやましいですねと申し上げるしかない。

ロジカル派には時間がたつと犯人を忘れるという文学作品ではあるまじき特色がある。数学の問題は解ければいいのであって解答が2だったか3だったかはどうでもよくて後で覚えてもいない。しかし上記のような名作はそれがない。ロジカルである数学の問題は解ける人と解けない人がいて、ある物体に気づけば解けるエジプト十字架などとても数学、いや受験数学的だ。

しかるにどろどろはどうも探偵小説に本質的なものではなくて、その大御所はドストエフスキーだし音楽ならマーラーでしょとなってしまう。寒村のどろどろまぶしの達人である横溝正史は、あれはあれでああいう特異なホラーものとして僕も嫌いでないが、まぶしの技巧が後天的に売りになったのであって彼もクイーン的ロジックを構築する緻密さが基底にある。室内楽で名品を書けたからマーラーはマーラーたりえたのと似る。

マーラーこそ交響曲の到達点だと信じこんでいる人に音楽は進化論では語れないと説いても無意味であり、あれは文学であってとっつきようもないと表現するしかないが、そういう人はバッハやベートーベンまで文学的に聞いたり演奏したりしている気がしてこれまたとっつきようもないのは別人種なのだから抗い難い。作曲家がソナタという定型的なしきたりで曲を仕上げる作業は探偵小説作家の作業と通じるように思う僕には、その問題は避けて通れない。

対極をすっと受け入れるほど僕は大物ではないが、しかし仕事ではそれは意識して重視している。僕のような性向の人間が気がつかないことを指摘してくれるのは、いつもそういう対極側の人だったという明白な経験則があるからだ。

 

なりたかったのはシャーロック・ホームズ

 

 

 

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クラシック徒然草―ジュピター第2楽章―

2016 NOV 27 0:00:29 am by 東 賢太郎

何が嫌かといって自分で理解もコントロールもできないものに振り回されることだ。普段は気にもしないがビジネスの場でそうはいかない。相手に理があるなら我慢もするが3分でクビにするような人に差配などされたら心の奥底から耐えがたいのは誰も同じだろう。

こういうストレスが続くと癌みたいな硬い病巣が心にできてしまい、時間が経っても根治し難く、さしものクラシック音楽といえども効能は期待できない。帰りの機内でいろいろ聴いてみたが、やはり入ってこなかった。ところがさっき偶然にジュピターの第二楽章をネットで耳にして我に返った。これが耳に突き刺さってきたのである。写真は僕のピアノ譜の「その」部分だ。ここに抜き差しならない絶対普遍の音が書いてある!

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何度も述べた部分だ。2段目最初の音(a)!そして3拍目のビックリマークを書いた血の出るような音(b)!この二つは音程関係が似ているが違う。(a)を長3度下げると(b)のラは半音下がるが、弾いてみるとそれじゃだめだ。(a)のドを半音上げてもだめ。彼はどうやってこんな音を選びとったのだろう?彼はいったい何者だったんだろう??

バスはA・D・G・C・F・B♭と完全4度上昇の神のバランスだが、その上に軋みと悲しみを内包した、何と豊穣でエロティックで人間くさいドラマを矛盾もなくのせていることか。しかも何の苦も無く。これを何度も心で反芻しているうちに、真の天才の凄みに射すくめられたのだろう、僕のストレスの病巣ごときは粉みじんに砕け散った。つまらん人間界の澱が人類史上最高の知性にふれて浄化された気がする。

ハイドンが98番にここを引用したと僕は固く信じている。彼も天才だが、真に畏敬すべきものは神だということを知っていた。この霊的な箇所に反応しなかったはずがないのではないか?モーツァルトが神である証拠は彼の626曲の楽譜に幾つもあるが、僕が気づいているものは全部書き残して死にたい。

さっき聴いたというのは故・山田一雄のものだ。棒はほとんど振らない。顔の表情と大きな所作で体ごと欲しい音をN響からえぐり出している。それが出ているということが見ていてわかる。こじんまり綺麗に整ったモーツァルトなどくそくらえだ。

指揮とはこういうものであり、巨魁な精神作用なのであり、奏者をインスパイアし鼓舞するオーラの賜物であると心より納得する。天才の音魂と最晩年の山田の霊感が共振しただごとでない感動的な名演になっている。誰がN響からこんなモーツァルトを聴かせただろう。

第二楽章である。

このサントリーホールのライブ(youtube)はぜひ全曲聴いていただきたい。

 

モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551

 

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クラシック徒然草ーフランス好きにおすすめー

2016 SEP 3 2:02:01 am by 東 賢太郎

ジャズやポップスはアルバムが唯一無二の「作品」ですが、クラシックはそうではなくて、作品が富士山ならアルバムはその写真集のような関係です。

しかし、中にはちがうのがあって、ほんのたまにですが、これは「作品」だという盤石の風格を感じる録音があります。風格というより唯一無二性と書くか、音の刻まれ方から録音のフォーカスの具合まで、総合的なイメージとしてそのアルバムが一個の個性を普遍性まで高めた感じのするものがございます。

演奏家と録音のプロデューサー、ミキサーといった技師のコラボが作品となっている印象でブーレーズのCBS盤がそれなのですが、DG盤もレベルは高いがその感じに欠けるのは不思議です。何が要因かは僕もわかりません。

名演奏、名録音では足らず、演奏家のオーラと技師のポリシー・録音機材の具合がお互い求め合ったかのような天与のマッチングを見せるときにのみ、そういう作品ができるのでしょうか。例えばブーレーズCBSのドビッシーの「遊戯」は両者のエッセンスの絶妙な配合が感じられる例です。

いかがでしょう?

冒頭は高弦(シ)にハープとホルンのド、ド#が順次乗っかりますが、ハープの倍音を強めに録ってホルンは隠し味として(聞こえるかどうかぐらい弱く)ブレンドして不協和音のうねりまで絶妙のバランスで聴かせます。聴いた瞬間に耳が吸いよせられてしまいます。

ここから数分は楽想もストラヴィンスキーの火の鳥そっくりでその録音でも同様の効果を上げていますが、いくらブーレーズでもコンサートホールでこれをするのは難しいと思われます。エンジニアの感性と技法が楽想、指揮者の狙いに完璧にマッチしている例です。

録音の品位、品格というものは厳然とあって、ただ原音に忠実(Hi-Fi)であればいいというものではありません。忠実であるべきは物理特性に対してではなく「音楽」に対してです。こういうCDはパソコンではなくちゃんとしたオーディオ装置で再生されるべき音が詰まっています。

僕がハイファイマニアでないことは書きましたが、そういう名録音がもしあれば細心の注意を払って一個の芸術作品として耳を傾けたいという気持ちは大いにあります。それをクラウドではなくCDというモノとして所有していたいという気持ちもです。

ライブ録音に「作品」を感じるものはあまり思い当たりません。演奏の偶然性、感情表現の偶発性などライブの良さは認めつつも、演奏会場の空気感や熱気までを録音するのは困難です。C・クライバ―、カラヤンなど会場で聴いたものがCDになっていますが、仮にそれだけ聞いてそれを選ぶかと言われればNOです。

「音の響き」「そのとらえ方」はその日のお客の入りや温度、湿度によって変わるでしょう。CDとして「作品」までなるにはエンジニアの意志、個性、こだわりの完璧な発揮が重要な要素と思われますが、彼らは条件が定常的であるスタジオでこそ本来の力が発揮されるという事情があると思います。

fluteこのことを僕に感じさせたのはしかしブーレーズではありません。右のCDです。これはSaphirというフランスのレーベルのオムニバスですが、同国の誇る名人フルーティストのオンパレードで演奏はどれもふるいつきたくなるほどの一級品。以下、曲ごとに印象を書きます。

ルーセルの「ロンサールの2つの詩」のミシェル・モラゲス(フルート)とサンドリーヌ・ピオ(ソプラノ)の完璧なピッチ、ホールトーン、倍音までバランスの取れた調和の美しさは絶品!これで一個の芸術品である。

ラヴェルの「 序奏とアレグロ」はフランスの香気に満ち、ハープ、フルート、クラリネット、弦4部がクラリティの高い透明な響きでまるでオーケストラの如き音彩を放つさまは夢を見るよう。パリ弦楽四重奏団のチェロが素晴らしい。この演奏は数多ある同曲盤でベストクラス。

ミシェル・モラゲス(フルート)、エミール・ナウモフ(ピアノ)によるプーランクのフルート・ソナタはフルートの千変万化の音色、10才でブーランジェの弟子だったナウモフのプーランク解釈に出会えるが、色彩感と活力、素晴らしいとしか書きようがなく、しかも音が「フランスしてる」のは驚くばかり。エンジニアの卓越したセンスを聴く。同曲ベストレベルにある。

マテュー・デュフール(フルート)、ジュリー・パロック(ハープ)、ジョアシン弦楽三重奏団によるルーセルの「 セレナード 」、これまた「おフランス」に浸りきれる逸品。この音楽、ドイツ人やウィーン人に書けと言ってもどう考えても無理だ。録音エンジニアもフランス、ラテンの透明な感性、最高に良い味を出しておりフルートの涼やかな音色に耳を奪われる。最高!

ドビュッシーの「 フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」は(同曲の本編に書きませんでしたが)、これまた演奏、録音ともベスト級のクオリティ。序奏とアレグロでもルーセルでもここでもフルートとハープの相性は抜群で、その創案者モーツァルトの音色センスがうかがえるが、そこにヴィオラが絡む渋い味はどこか繊細な京料理の感性を思いおこさせる。

以上、残念ながらyoutubeに見当たらず音はお聴きいただけません。選曲は中上級者向きですがフランス音楽がお好きな方はi-tunesでお買いになって後悔することはないでしょう(musique francaise pour fluteと入力すると上のジャケットが出てきます)。CDは探しましたがなく、僕も仕方なくi-tunesで買いました。間違ってもこんな一級品のディスクを廃盤に追いこんでほしくないものですね。

 
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クラシック徒然草ーグレン・グールド私論ー

2016 AUG 23 18:18:06 pm by 東 賢太郎

体操競技で日本は大いに成果を出したが、解説をきいていても何が何だかわからない。さあ次はD難度だとかユルチェンコの3回半だとかいわれも、CとDがどうなのか、半があったのかすらわからん。だいたいユルチェンコってなんだ?

まあ僕らはそういうのは「すご~い」でいい(というか、それしかない)。くるくるまわって最後の着地がばんっと決まるとやった!という感じがする。それが何で15.8点かはこれまたさっぱり不明だが、ともあれ何かあっぱれなもの、超人的なものを見たという感動は残る。

前回、ベートーベンのコンチェルトでここF難度と書いた。DでもFでもいいんだが、これもいっしょだ。決して体操の審査員みたいにワザの巧拙ばかり吟味しようというのではない(弾けないからできないし)。だってメローディーラインとして変でしょ、きれいじゃないでしょと言ってるだけだ。

僕はワザで勝負の曲は面白くもなんともないのできかない。ああ書いてあの名曲が雑技団みたいなワザでできていると思われたら困るが、だからこそ、名曲を名曲たらしめているメローディーラインのような根っこがくずれると「やった!という感じ」は減るんじゃないのと、あたりまえのことをいってる。

グレン・グールドの言葉だったと思うが、演奏家には2通りあって楽器を感じさせる人と楽器は消えて作品だけ感じさせる人がいる(彼は後者を評価していて、リヒテルがそうという)。僕はグールドは前者と思うので困ってしまうが、にもかかわらず、F難度を「それなりに」で済ます人間ではないというのが彼の強力な美質だ。

僕としては楽器が消えようと残ろうとどっちでもよくて、F難度を「美しく」やるこだわりの有無こそが演奏家の生命線と考えているからだ。まあ一応クリアしました、じゃなくて。グールドの技術が常人に踏破を許さぬ神業であることは、いまとりあえず不問にしよう。そうしないと後進はやめときなさいで終わってしまうから不毛なことになる。

何事も練習すれば誰しもが上達する。これが大事な前提だ。スポーツも楽器もおんなじである。ちがいは、どこで「もういいや」と思うかだ。そこで人間が出る。技術じゃない、これは「人間」の問題なのだということだ。楽器は美しい音をだすためのもの、だから技術の到達点は奏者がどの程度の達成度で自分の演奏を美しいと思ったかを示しているのである。

広島カープに菊池という二塁手がいて、相手にとって憎らしいほど守備範囲が広くて送球が速く正確だ。メジャーも注目している、まちがいなく金メダル級である。あまりにうまいのでF難度をやってもAかB程度にしか見えない。美しかれでやってるのではないが、アスリートのベストパフォーマンスというものは何であれ美しいものだ。

かたや、誰でも捕れるゴロを下手な奴が下手なゆえに危なっかしく捕ったのを「ファインプレーです!」、こういう頭の悪いアナウンサーは転職した方が幸せと思うが、ほとんどの客もわかんないからそのほうが喝采を浴びたりする。

これはおかしいのであって、道を知らない勉強不足のタクシー運転手の方がメーターが出て儲かるに似たりだ。それに有難うなんてチップをあげるようなもんであって、つまんないプレーに拍手なんかすべきでないのである。

グールドは菊池だ。めちゃくちゃうまい。バッハのトッカータ集なんかG難度がAにきこえる腕でCやDをこなすのだから、その前人未踏、空前絶後の美しさたるやもう気絶するほどである。ベートーベンのあそこは、グールドみたいな人間ならちゃんとやるだろう。

ところがどういうわけか、弦楽器界に彼のような人はいない。野球人類学というブログを書いたが、楽器人類学としてはああいう性質の完全主義者は弦や管はおよそ向いてないのかなと思ってしまう。楽器の方が求めていないということか。

ピアノはそれを受け入れるし、そうでなくてもピアノは上手に弾けるが、トッカータを彼の次に「演技」して得点で上回るメダリストは永遠に出ないだろう。誰がどこからどういうアングルで聴いてもあれはピアノ演奏の奇跡であり、満点だから上がない。

演奏のメカニック以前だ。まず「人間」として彼に匹敵しないとああいうことは成り立ちがたい。そんな人は彼以来いないし、いないからグールドはグールドであり続けている。ではバッハ以外で彼が満点かというとそうではなくて、「そうだろう。演奏は技術だけじゃないよ」というもっともらしい声も聞こえてくる。

そういう声が演奏家をダメにしていると痛切に思う。音程やリズムも満足にとれないのが一生懸命度やら迫真性やら楽曲愛やら髪振り乱す一心不乱ぶりで補えるということは絶対にない。音楽にはそういう音以外の隠し味があって、素材は今ひとつだがけっこういけてしまうというのが稀にないではないが、それは素材は問わないという意味ではない。

昔は一流とされた演奏家はスタジオ録音を許された。「ブロマイド」だから永遠に残すべく入念に演奏された。画像はない。音だけ勝負だ。ビジュアルで魅了したり、表情で愛を語ったりはできない。そこに聞こえるものがその人のすべてあり、プレイバックを入念にチェックして自分でOKを出したのだから言い訳もきかない。「危なげなF難度」はよくやった!と人道主義の喝采があるわけではなく、数多の評論や井戸端会議の俎上で下手の烙印を押されるだけだ。

今はコストセーブでライブ録音がむしろメインだ。ビジュアルはないが、言い訳はできる。ライブの一回性。一期一会の気迫と燃焼。その日にいたるソリストの万感の思いとストーリー!隠し味がいくらでも効能書きとなって、「ライブですから」でワザのほうはお目こぼしになる。鉄棒から落下したって、耐えてよくやった!の会場の拍手(そこにいた聴衆のだ)でジーンと来たりする。

そういうものも音楽のうちだと主張するジョン・ケージを否定はしない。しかし、彼の「4分33秒」を録音してもあまり意味はないように、それをいうなら演奏会に出かけて、ホールの空気の一部となってライブをきくしかない。スタジオ録音は取り直しできる作り物で、ライブ録音こそ良い。ごく稀にそれは正しいが、そういう隠し味の効能書き至上主義の集大成こそが、あの「精神性」という日本固有、意味不明のトッピングの正体である。

グールドがライブを否定し、スタジオ録音に特化してしまった「お隠れ事件」は、実にそのことを彼の天才において雄弁に証明している。彼は暗に言っている。演奏会で香水の匂いのするばかな聴衆相手にトルコ行進曲を弾いてる自分に我慢できない。ばか相手でないモーツァルトを彼はよせばいいのに録音したが、音楽自体が自明な解釈を求めているモーツァルトではバッハの満点が20点になっている。

音楽自体が自明な解釈を求めている?そんなことはない、と彼が指揮者にチャレンジしたのが、このレナード・バーンスタインとのブラームス1番のコンチェルトだ。伝統や因習は無視、ひたすらのオレ流にバーンスタインが慇懃、知的に自分と相手のプライドを守った巧みな「前口上」をしている。

コンチェルト演奏の王様はソリストか指揮者か?僕は作曲家と思うのでグールドのテンポはとうてい許し難い。バーンスタインも妥協はやめればよかったが、マネジメントがビジネスしたんだろう。その意味では王様は客であったのだった。指揮者はそれを許す人でソリストはそうではなかった。その点では、僕はグールドを支持する人間であるから複雑だ。

グールドではないピアニストはバッハをどう弾いたらいいのだろう?満点はないのだから90点なのか60点なのか、どこで満足するかだ。80点ぐらいならきっとバッハにはなるだろう。70点ならバッハっぽくはなるだろうという感じかと思うが、バッハの譜面というのはどこか数学をイメージさせる絶対不偏の真理のようなものにビシッと貫かれていて、精神性みたいなあいまいなトッピングやふりかけでおいしくなるご飯ではない。

絶対不偏に「それっぽい」というのはないのであって、あるかなしかだ。しかし、バッハがどう弾いたか世界の誰も知らないし譜面には楽器や速度すら書いてない。だから我々が耳にできる演奏はすべからく「それっぽい」しかないのであって、そうした演奏のなかで衆目が一致して「すご~い」となったグールドが「っぽい」の代表選手になっているのが現代である。

彼のゴールドベルク変奏曲があのトルコ行進曲と同じほど実は「バッハっぽくない」可能性は誰も否定できない。ユルチェンコの3回半なんだ、シライなんだ、誰もできないんだから讃えるべきだ。そういうものかもしれない。彼のバッハがそういう可能性を秘めているとするならば、こちらも晩節になってスタジオに「お隠れ」になられたビートルズのアビイ・ロードのような「彼のオリジナル・アルバム」である。すべての他の演奏を「カバー」にしてしまうという意味で。

これはすべての他の演奏家たちにとって永遠につづく悲劇である。グールドの3回半。尋常でないが、首尾よく成功したって二番煎じだ。録音というメディアができたおかげで演奏家は何十年もまえに死んでくれたライバルの幻影と戦わなくてはならない。録音という土俵においてはだ。だから彼らの生きる道はライブだろう。ライブ録音ではなく、ライブ。そこで「4分33秒」の音楽的価値を認める聴衆を作っていくことだ。

ところが最近の演奏会はというと、その様相すらない。「それっぽい」演奏が多い。ひどいのになると俗に「なんちゃって」ともいうものである。3回転に半がなかったりする。手抜きではなくできないだけだが、それでも素人からすれば超人的ではあるもんだから田舎の公民館で喝采を浴びることぐらいはできる。かえって難しげにきこえたりして、ブラボォォォー!!なんて突飛な奇声が飛んじまったりする。

それでいいじゃないか懸命にやったんだし大勢が喜んでるんだからという人もいるだろう。マネジメントとしてはそうだ。それでチケット買ってくれるお客様は神様だし、クラシック人口を増やすにはいい。ただ、そういう姿勢の音楽は字義通りポップス(pops)と呼ぶべきだ。「深遠な精神性のベートーベン7番!」なんて安手のキャッチコピーでホンモノを装ってはいけない。聞き手は何が本物かわからなくなるからだ。

だからこそ、ボストン交響楽団が夏休みにタングル・ウッドの多少ざわざわした屋外でコンサートをやる時はあえてボストン・ポップス・オーケストラを名乗るのである。ダウンタウンの「ザ・シンフォ二ーホール」で居ずまいを正してベートーベンをやる時とは別個のカオという建前をとる。寝っころがってコークやマック片手に聞けるのだからふだんはクラシックなど敷居が高くて来ない人も子供連れで楽しむことができるのだ。

といってポップスを軽く見て手抜きするのでなく、曲目が比較的やさしいだけのことだ。ルロイ・アンダーソンの名曲はそこから生まれたのである。だからこそ「ポップ」たちは気軽に上質のホンモノにふれて味を覚え、やがてザ・シンフォ二ーホールにベートーベンを聴きに来てくれるだろう。マネジメントにもこうやってホンモノとなんちゃってがある。

グールドもリヒテルもポップたちを相手に券を大量に売りさばいて大金持ちになりたい人ではなかっただろう。なぜなら、そういう目的ならあそこまで弾ける必要はぜんぜんないからだ。彼らはああ弾かないと怒って帰ってしまう人に弾いている。いや、それ以前に、彼ら自身がまっさきに怒って帰ってしまう人なのである。

ベートーベンをシンフォ二ーホールでポップス精神でやって集客しようというのとは対極的な人たちであって、そういう「アンカー」が演奏家であれ聴衆であれ米国にはたくさんいるからボストン・ポップスという立ち位置ができた。アンカーの存在ぬきにクラシックがクラシックたりつづけるのは困難だろう。

 

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-グレン・グールドのモーツァルト-

 

 

 

 
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クラシック徒然草-ドビッシーの母-

2016 AUG 14 2:02:02 am by 東 賢太郎

「こんな汚辱の子を育てるより、蝮を生んだ方がましだった」

(ヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシー)

 

パリ音楽院の学内コンクールに2回連続で失敗し、ピアニスト志望を断念してしまった息子に失望した母はこう言い放ったらしい。こわっ、すごい教育ママだ。

我が国も子供を東大に入れたといって本まで書く人がいて、それが売れてしまったりするのだから教育ママはたくさんいるのだろう。オリンピック選手を育てたらずっと偉いと思うが、しかし、メダルをのがして母親にここまで言われたら息子は立つ瀬ない。

debussy5それで女性観が曲がってしまったかどうかは知らないが、のちにドビッシーはいくらゲージュツの世界と割り引いたとしても女性関係において破茶滅茶となり、女が2人も自殺未遂をしている。この道の「オレ流」では大御所、大魔神級であるワーグナー様と双璧をなすであろう。

彼の伝記、手紙を読むに隆々たる男原理が貫いており、学業においてもセザール・フランクのクラスを嫌って逃げ出すなどわがまま放題。ラヴェルが5年浪人して予選落ちだったローマ賞に2浪で見事合格したが、イタリアが嫌で滞在期間の満了前にパリに戻ってしまう。

ドラッカー曰く「他人の楽譜の翻訳家」である演奏家(ピアニスト)を落第し、わがままに自説を開陳できる作曲家になったことは、彼の母親には不幸だったが我々には僥倖だった。それは親や教師や伝統の不可抗力の支配からのがれることであり、本能が是とする道をまっしぐらに駆け抜けることを許容したからだ。

彼の音楽は僕の眼にはまことにますらお的、男性的であり、ラヴェルは中性的、ときに女性的だ。これは大方の皆様のご意見とはおそらく異なるにちがいない。ドビッシーの「月の光」や「亜麻色の髪の乙女」は女性的じゃないか、女性の愛奏曲だし、ドビッシー好きの女性はたくさんいるよという声がしそうだ。

そういうことではない。男が男原理で作ったものを女性が嫌うという道理などなく、むしろ自然の摂理で女性の方が寄ってくるだろうし、うまく解釈するかもしれない。ここで僕が観ているのは作曲するという創造行為の最中にあるフロイト的な心の深層みたいなものだ。

僕は好きな音楽とは作曲家のそれに自分の心の波長が同期するものだと感じている。心地よいのは音ではなく心の共振なのだ。それがなければ音楽は他人事、絵空事にすぎず、うわべの快楽をもたらす美麗な音の慰み物か物理的な音の集積か雑音にすぎない。良い演奏とは、曲と演奏家が共振したものをいうのであって、それが存在しないのに聴衆が曲と共振するのは無理な相談だ。

ラヴェルとドビッシーの根源的な差であるのは、ラヴェルには自分の書いた音が聞き手にどう「作用」するかという視点が常に、看過できないぐらい盛大にあることだ。得たい作用を具現する技巧にマニアックにこだわる「オタク」ぶりは大変に男性的なのだが、どう見られるかという他視点への執着という特性は基本的に、化粧品の消費量と同様に女性によりア・プリオリに所属するものなのだ。

一方でドビッシーの我道、我流ぶりは「ペレアスとメリザンド」、交響詩「海」において際立った立ち位置を確立し、そこに移住してしまった彼は音楽院の教師ども、パリのサロンや同僚やモーツァルトの愛好家たちがどのような視線を送るだろうかということを一顧だにしていないように見える。

その態度は、後に彼が否定側にまわることになる「トリスタンとイゾルデ」をワーグナーが発表した態度そのものであるのは皮肉なことだが、ペレアスがトリスタンと同等のマグニチュードで音楽史の分岐点を形成したのは偶然ではない。全く新しい美のイデアを感知した脳細胞が、他視点を気にしないわがまま男原理で生きている人間たちの頭にのっかっていたという共通点の産物だからだ。

そして、「海」における、微分方程式を解いて和声の色の導関数を求めるような特異な作曲法というものは、音楽にジェンダーはないと今時を装ったほうが当ブログも人気が出るのだろうが、残念ながら真実の心の声としてこういうものが一般論的に女性の頭と感性から生み出されるとは考え難い性質のものであることを僕はどうしても否定することができない。

「亜麻色の髪の乙女」は夢見る乙女みたいに甘く弾いても「美麗な音の慰み物」には充分なる。それはBGMやサティのいう「家具の音楽」としてなら高級品だが、ドビッシーを導いた男原理から見ればバッタものだ。困ったことにその手の「うわべの快楽」にはいっぱしの市場がある。そうやって前奏曲集第1巻を弾きとおすことだって可能だし、そういう演奏が多くCDになって出てもいる。

しかしそれをヴェデルニコフやミケランジェリのCDと同じテーブルに並べて比べることは音楽の神の冒涜に類する行為である。裁縫師だったドビッシーの母は 1915年まで生きたそうだが、ペレアスや海を聴いてどう思ったのだろう。

(補遺、15 June17)

バッタ物でないドビッシーの例がこれだ。作曲家をパリに訪ね、ピアノを聞かせて評価され4か月も私淑を許された米国人ジョージ・コープランドの「沈める寺」をお聴きいただきたい。僕はこの曲がどう弾かれるべきか、この非常に強いインパクトを持つ録音で初めて知った。現代のピアニストはドビッシーの pp の意味を分かっていないか、少なくとも実現できていない。そこから立ちのぼる ff は騒音に過ぎないのである。

 

「東大脳」という不可思議

 

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クラシック徒然草ー悲愴交響曲のメッセージ再考ー

2016 JUL 18 15:15:04 pm by 東 賢太郎

音楽が素晴らしいのは、すべてを言うことができ、知っている者はすべてを理解できるということにある

(シェーンベルク)

schoenbergこのことばは実に意味深長だ。音楽は何かを語っているのだろうかという問いに対する、最高の知性に委ねられた最高にシンプルな答えであると思う。ロマン派と呼ばれる時代になって、作曲というものはある意味でプライベートで隠避なものを包含できる作業にもなった。そうなり得ることがロマン派という、わかったようで実は定義のあいまいな言葉の、使う人によって数あるアイデンティティーのひとつに加えてもそう見当はずれではないように思う。

だいぶ前に書いたチャイコフスキーの悲愴交響曲のブログで、あれはダイイング・メッセージだろうと愚説を書いた。もちろん真相は闇の中である。賛否両論あろうが、純粋に響いてくる音として、あの終楽章のコーダは僕には臨終のメタファーとしか聞こえないという心の中の事実には抗い難い。

そうは聞こえないという主張を妨げる理由を僕は何ひとつ持たないが、チャイコフスキーの死後21日たって開かれた追悼コンサートで「すすり泣いた」と伝わる(複数と思われる)聴衆のなかだけでも、そういう人が何人かはいたのではないかと想像させる、そういう想像を喚起する何ものかを含んだコーダであるというぐらいは書いてもいいのではないか。

もしそうだとするなら、その「何ものか」を悟らせようと意図したのは誰でもない、チャイコフスキーその人である。なぜ彼はそう聴かれるかもしれない、いや百歩譲って、そう「誤解」されるかもしれない曲想で交響曲を締めくくる必要があったのだろう?この曲について何か言おうとするなら、この問いから目を背けることはできないように思う。

彼はその答えを文字で書き残すことはしなかった。何かの理由でできなかったのかもしれないが、音楽で「すべてを言う」ことはできた。いみじくもそう意味しているシェーンベルクの言葉は、このケースを示しているわけではないだろうが、そういう特異なことをを作曲という能力のある人たちはできるのだという、能力ある作曲家による雄弁な証言である。

op74-cover-title日本語で悲愴交響曲、すなわちSimphonie Pathétiqueという命名の経緯にはいくつかの伝承があるが、どれが正しいかは議論がある。自筆スコアの表紙(右上)にはロシア語でпатетическая(パテティチェスカヤ)とある。「情熱」とか「強い感情」といった意味で悲しいという意味はないそうだが、同スコop74-1-1agアの第1楽章冒頭に書かれているのはPathétiqueというフランス語であって(右下)、こちらには悲愴、悲壮という意味もあるため日本語はそれにならったということだろう。

両方とも直筆であって正解なのだから「悲愴という命名は間違いである」というのがロジカルな解答となるが、それらが120年前から現代語と同じ意味なのかどうかはわからないし、仏語は貴族階級を意識した一種のファッションだった可能性もあろう。ベートーベンの8番目のソナタにもGrande Sonate pathétiqueと書かれているが、これが「悲愴」でいいのかどうかはあまりに話題になった記憶はないし、「悲愴感がこもっているかどうか」がこの音楽の演奏や鑑賞に重大な影響があるとは僕には思い難い。

より明確に主張できることは、標題は言語だが音は抽象だということだ。「抽象」を言語という「具象」に変換しないと標題は生まれないことだ。それを作曲家自身が付けようと考えたということは、この交響曲に何らかの「具象性」、つまり言語化できるメッセージ性があったとする有力なヒントにはなろう。そしてそれは、彼が死の前年に書きかけて放棄し、ピアノ協奏曲第3番として生まれ変わった変ホ長調の音楽、つまり「人生交響曲」に原型があったとするのは整合性のある議論と思われる。

この曲の「人生」というコンセプトはこのようなものだ。

First part – all impulse, passion, confidence, thirst for activity. Must be short (the finale death – result of collapse). Second part love: third disappointments; fourth ends dying away (also short). (David Brown, Tchaikovsky: The Final Years )

そして翌年にロ短調で書いた別の交響曲に満足し、 Programmnaya(プログラム交響曲)と命名しようと考えたが、そこに命脈を保っていたのがこのコンセプトであることはあまり議論の余地はないのではないか。しかし慎重な彼はプログラムの方に関心が集まることをきらい、代案として考案したのがпатетическая(パテティチェスカヤ)でありPathétiqueであったというわけだ。

初演後にR・コルサコフが「この新しい交響曲にはプログラムがありますか?」と尋ねると、チャイコフスキーは「ある」と強く肯定したが、それが何かは決して明かそうとしなかった(Rimsky-Korsakov, My Musical Life)。つまり、彼が選び取ったPathétiqueという単語は「プログラムがありますよ」という声明であり、内容をおおまかにくくる代名詞であって、それは人生がだめになった後の死(death – result of collapse)というパートを含んでいたと考えられる。

そこに悲しみという含意があるかないかなどということはベートーベンのソナタにおいてと同じぐらい核心的な問題ではないのである。かように、標題の有無や字義や含意から曲のメッセージの内容を解釈しようとする試みは、文学的に何かの価値があるのかも知れないが、そこから有意な議論が発展する可能性をを見出すことは困難だろう。 Sinfonia Pastorella( 田園交響曲)や Symphonie fantastique (幻想交響曲)という標題は見事に曲の本質を語ってはいるが、感動させてくれるのは音符のみである。

悲愴交響曲がダイイング・メッセージかどうかについては、したがって、標題の根拠をあれこれいじくっても解答は出てこないだろう。

なぜ彼はそう聴かれるかもしれない、いや百歩譲って、そう「誤解」されるかもしれない曲想で交響曲を締めくくる必要があったのだろう?

という冒頭の問いに正面から向き合い、death – result of collapseとは何か、特に「 collapse」の正体はいったい何だったのか?をじっくりと考えるしかない。私見ではそれは楽譜に書いてある。それが前回のブログだ。

作曲家が事後に語った言葉の中には、見透かされたかもしれないものを秘匿せんという意図を想像させるものもある。「知っている者はすべてを理解できる」ことは、シェーンベルクのみならず、「音楽がすべてを言うことができる」ことを知っている彼らはわかっていた。言葉で嘘はつけても、音楽ではけっしてつけないということを。

 

(ご参考)

シェーンベルク 室内交響曲第1番ホ長調 作品9

チャイコフスキー交響曲第6番ロ短調 「悲愴」

 

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