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カテゴリー: ______ショパン

ショパン・コンクール勝手流評価

2015 NOV 2 2:02:01 am by 東 賢太郎

ウィーン国立音大で教えている生徒は10人ほど。 残念ですが、学生たちはスコアをなかなか見ないんですよ。曲の全体像をつかもうとしない。自分のパート譜は一生懸命勉強してもね。もちろん値段も高いし、経済的に厳しい。だからこそ、私の持っているスコアを見てほしい。スコアはとても大事です。

ライナー・キュッヒル(ウィーン・フィルのコンサートマスター)

 

5年ごとに開催されるショパン・コンクールですが、今年(第17回)は韓国のチョ・ソンジンさんが優勝でした。これでアジア人優勝者はベトナム、中国、韓国が輩出、残念ながらまだ出ていない日本は後塵を拝する結果となっています。

1位 チョ・ソンジン(Seong-Jin Cho)(韓国)                                                                

2位 シャルル・リシャール・アムラン(Charles Richard-Hamelin)(カナダ)
3位 ケイト・リュウ(Kate Liu)(アメリカ)
4位 エリック・ルー(Eric Lu)(アメリカ)
5位 イック・トニー・ヤン(Yike (Tony) Yang)(カナダ)
6位 ドミトリー・シシキン(Dmitry Shishkin)(ロシア)

まず、チョ・ソンジンの本選(ファイナル)のピアノ協奏曲第1番です。

出だしの序奏、おい、なんだこの遅いしょぼくれたオーケストラはとびっくりします。どこの田舎オケかと思ったがワルシャワ・フィルだ。いちおう。一瞬、アジア人への嫌がらせを疑いましたが他のファイナリストにも大なり小なりこうなので指揮者の趣味だったんでしょう。チョ・ソンジンは進むにつれだんだん自分のテンポにオケを引っぱって行きます(集中力お見事)。ところが、コーダに来るとまた指揮者が戻す。

なんといっても20才のショパンが彼女を想って書いた曲ですからね、21才の青年チョ・ソンジンが弾くピアノが実にふさわしい曲です。おっさんのもっさりしたテンポは勘弁してくれよとこっちが思ってしまう(彼もそう思ってたのでは)。全体として何度も聴きたいほどいい演奏かというと、このオケは不遇でアーティスティック・インプレッションは優勝というにはいまいちです。でもソロパートの完成度は高い、ドラフト1位でいきなり新人王といううまさですね、技術的にこのぐらいは弾けないとさすがにショパンコンクール優勝という肩書はあり得ないでしょう。

第3楽章の出だし、うまいですねえ。これは最高だ。ピアノの細かいテクニックがここで成功しているかどうかは僕には判断がつきませんが、この小股の切れ上がったリズム、緩急、呼吸、オケへの受け渡しを聴くと、この人、西洋音楽のエッセンスを完全に体得しているなと納得します。これはケチが付けられない。日本人が勝てないのはここですよ。ハヤシライスをやってたら永遠に勝てない。

これは第3位のシンガポール系アメリカ人、ケイト・リュウさんの第1協奏曲です。オケは相変わらず重いがトップバッターだったチョの時よりは多少はましに。ところが彼女はこのおじさんもっさりテンポに適性があったんでしょう、こういう演奏になってます。

個人的にはこれが1位ですね、大変すばらしい。この人の集中力と没入パワーは半端じゃない。他人が聴いている見ているなどまるで眼中にないですね、音が降って来てる。このコンチェルトは男、しかもハタチ前後で強烈にある女が好きになったヤツじゃないとわかんねえだろとやや偏見気味の僕です。だから女性の弾いたのはちょっと斜に構え気味なんですが、このリュウさんは規格外良品だ。

とにかく、妙にプロっぽくないのがいいのです。2位のカナダ人アムランさんは、うまいです。どうして彼だけ2番を弾いたのか、1番だったら優勝したかもしれない腕の良さと思いました。しかし僕の趣味ですが、隙のない完成度なら大家の録音がたくさん聴けるのであって、どうしてもというのは感じません。21才のリュウはまだフィラデルフィアのカーチス音楽院の学生で、これが彼女のベストパフォーマンスとは思えないのですが、素材の良さですね、末恐ろしい!という感じが残るのです。ブラームスの2番を弾かせてみたいなあという、ショパンにとどまらない才能を感じます。

第3楽章の主題はチョの若鮎が飛び跳ねるような疾走感はなく、軽めのタッチでカプリッチオな感じ。大きなルバートがかかるんですが戻しが実に自然で、フレージングの強弱も工夫がありますが音楽に「おいしい」味つけになって恣意的に聞こえない。戻した速いテンポでオケにさっと投げ返して、オケが気持ちよく受け取る。この呼吸の良さ!指揮者も団員も聴衆も、西洋音楽の伝統のなかですっと納得してしまう。こういう流れが「形」であって歌舞伎の「見得」のようなもんです。お見事です。

第4位のエリック・ルーさんです。

若干17才とは驚きです。日本なら高校2年生。彼もカーチス音楽院の学生です。うまい!4才の年齢差を考えると素材はルーが一番かもしれない。あまりしなを作らず、すっきりと、もぎたてのレモンのように若々しいショパン。彼のこれもベストパフォーマンスではないだろうがきらりと光るものがあります。指の回りが空転ではなくいい味を出している所、こういうのは天性でしょう。第2楽章の沈静もいい。大器ですね。今回のなかで最もモーツァルトを聴いてみたいのはルーです。

最後に我が国の12人のうちただ一人ファイナルに進んだ小林 愛実さん20才です。

残念ながら入賞できませんでした。第1楽章、ほんの微妙にですがメカニックなもので上位の連中の余裕がない部分があります。ミスタッチではないのですが一生懸命感が出て、ああここは弾くの難しいんだなあと素人が納得してしまう。チョ・ソンジンはそう気がつかないのです、うまいからファインプレーに見えないというやつですね。こういうもので少しでも限界が見えてしまうとコンクールでは不利でしょう。しかし彼女は情感がこもるところはとてもいいのですよ、すごく才能があると感じます。これは伸ばしてあげたいですね。第2主題は僕は彼女のが一番好きです。

第3楽章は出だしが苦しいですがケイト・リュウも回ってないんです。違うのは音楽の流れですね。一例をあげると小林さんはオケに渡す寸前でルバートがかかってオケがつんのめる感じがどうしてもします。気持ちよくなれない。ピアニストの中に住む「指揮者」の部分です。こういうことは技術ではなく感覚の問題なんですが、非常に大事だと思います。彼女の流儀からかけたい気持ちはわかるんですが、西洋音楽の流儀をまずは「形」として優先した方がいいのではないでしょうか。

愛実さん、たくさん聴くに限ります。西洋音楽の流儀はピアノ音楽だけじゃなく、オペラやシンフォニーや室内楽にぎっしりと詰まっていますから、聴きまくることです。教わってもだめです。自分で体感して体得しないと、音楽の「味」として出てこない。まだ若いし、これだけの素質があるのだから無限の可能性があります。日本にピアノを習っている子が何人いるか、その頂点にいる人だからね、ぜひ世界の頂点に立って下さい。

ところでピアノ界の最上位を決めるコンテストで入賞者6人のうち国籍はともかく4人が東洋人というのは時代を感じます。移民じゃあるまいしアジア人の嫌がらせは杞憂でしたね。むしろいないと成り立たないぐらいでしょう。スポーツのコンペティションだと分が悪いですが、音楽ではこのマーケットシェア!神様のギフトが西洋だけに与えられたわけじゃない、高度に知的な作業においてユダヤ人と拮抗できるのはアジア人であるということがだんだんはっきりしてきました。

(追記)

ショパン・コンクール第1回(1927年)は音楽史に重要な役割を果たしました。ピアニストとして身をたてる志を秘めた21才の若者の運命を変えたからです。ショパンの協奏曲を得意とした彼はソビエト代表として出場し優勝を狙いますが名誉賞に終わります。落胆した彼はピアニストのキャリアを捨て作曲に専念するようになりました。ドミトリー・ショスタコーヴィチであります。シベリウスのウィーン・フィル入試とならび、後世の我々にとってはなんとも有難かった不合格事件でございました。

 

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ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

クラシック徒然草《ギドン・クレーメルの箴言》

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クラシック徒然草-ショパンコンクールと日本人-

2015 SEP 28 23:23:24 pm by 東 賢太郎

ショパンコンクールの一次予選を日本人が12人通過したそうです。ポーランド15人、中国15人に次いで多いようですが全員女性だそうです。だからどうということもないのですが、男はどうしたんだろう。

コンクールってなんだっけという素朴な疑問があります。ピアノの上手い人ばかり集めてスポーツのように点がつけられるとは思わないからつけるなら好き嫌いだろうし、本来聴衆は好き嫌いで聞くのだからそれならコンクールはいらないと思います。音楽産業が売れそうな人を探すコンテスト、だいぶ昔に「スター誕生」というテレビ番組がありましたが、そんなものだというなら合点がいきますが。

歌舞伎と同じく古典芸能だから「型」というものはあるでしょう。好き嫌いをこえた伝統的な価値ですね。ショパンをムード音楽にしちゃ困るみたいな。しかし審査員もショパンの演奏を聞いたわけではないのです。弟子たちはもちろんショパンを聞いたわけですが、では弟子ならそのまま伝わるかというとそうでもない。たとえばラヴェルに教わったり初演を依頼されたりした人は複数いて、ロン、ルヴィエ、ペルルミュテール、コルトーなどですね、しかし録音での彼らのラヴェルの弾き方はみなちがいます。

だからラヴェルより百年も前のショパンのケースで作曲家直伝の解釈が唯一無二として残っていて、それを審査員の先生方だけが知っているなど想像もできないことです。いや、百歩譲って仮に残っていたとしても、ストラヴィンスキーの自作自演とブーレーズのCDを並べられどっちか一つといわれたら後者を選ぶ人は僕だけではないでしょう。

70年代にポリーニがショパンのエチュードの録音をしてそれが度肝を抜く完成度でしたが、ショパン自身はあんなに完璧に弾けたんでしょうか?それがどうあれ、あれを聞いてしまった僕らはポリーニより下手な人がエチュードを弾いてコンクールで優勝しましたといわれても耳がもう納得しないでしょう。伝統は否が応でも、そうやって日々ぬりかえられるのです。

イタリア人のマウリツィオ・ポリーニはショパンコンクール優勝者です。ああいう人を発掘するというならコンクールの存在意義はあるでしょう。しかし、我が国最高のピアニストである内田光子は日本人最高位である2位入賞者ですが、彼女はその後もショパン演奏家であり続けたわけではなく、それで現在の世界的な名声を築いたわけでもありません。

いまやポリーニや内田のような誰が聞いても天才という水準にある人はyoutubeで個人デビューすることができます。コンクール審査員のプロの耳と何億の一般大衆の耳とで評価に違いが出ても、どっちが絶対ということはなく伝統はそうやって日々ぬりかえられるのです。僕は「重複」は「ちょうふく」で「じゅうふく」は間違いと習いました。ところが大勢の人が「じゅうふく」と読みだして、僕はいまだにそれが気持ち悪いのですが、もうそれが辞典にも載ってしまって新しい日本語になってます。大衆が伝統を覆してしまう、そういうことがクラシック音楽の解釈でも起きているでしょう。

youtubeでデビューしてブレークし、EMIにベートーベン全集を録音させてしまったH.J.リムという韓国女性がいます。現在はラフマニノフの3番とブラームスの2番をアップしていて、女性にとって技術のハードルの高い二大協奏曲をあえて選んでおり、それなりに征服して弾けてしまっています。クラシック音楽というのは演奏技術がトップレベルであることはフィギュアスケートの規定競技といっしょで大前提ですが、そこはクリアしてるわよという世界のうるさ型聴衆向けのプレゼンになっているわけです。

ネットで演奏を無料公開してまず名前を売ってから、コンサートやグッズで収入を得るのがいまやポップスでは潮流です。i-tunesは世界に12、3社いるアップル社が契約したアグレゲーターという目利きが選んだアーチストが商品としてアップされます。彼らが選んだものは売れるというということで、クラシック界でのコンクール審査員に近い役割でしょう。しかしポップスに伝統もヘチマもありません。売れるかどうか、その名の通りポップかどうかが基準なのです。

クラシックは楽曲の新規供給が実質的にはなくなってしまい、ポップスではなく伝統芸能になりました。そうではあってもお高くとまっては衰退します。芸能である以上聴衆がいなくてはいけませんが、そこには伝統と大衆人気のバランスという問題が横たわっています。それこそ日本の歌舞伎界が懸命の努力をしているところで、両立すれば理想ですが、伝統は日々ぬりかわるものなら大衆人気はその原動力ですから無視できず、さらにはどういうプロセスで大衆人気が形成されるかも時代の流れで変わることに注目すべきです。

ショパンコンクール優勝は何より名誉だし、売れちゃえば勝ちという人気商売でもあるから成功へのパスポートになることは確実です。しかし、ここが重要ですが、「スター誕生」であるなら欧米のマネジメントがあえて日本人を選ぶだろうか?今年はぜひ選ばれてほしいが、ショパン弾きとして伝統にかない、欧米のコンサートホールで満場をわかせる何かが飛びぬけていなければ、うまいだけでは商業的には弱いですね。歌舞伎役者に外人が挑戦するようなものでとても狭き門だと思います。

またショパンコンクール優勝者は発足以来ロシアと東欧(もちろんポーランド)が常連でアメリカ、イタリアはあってドイツ、フランスは未だなし。東洋人は80年のダン・タイ・ソン(ベトナム)が初めてですが彼はモスクワ音楽院のロシアスクール、ちなみに70年2位の内田光子はウィーン音楽院で学び日本の音大は出ていません。2000年優勝者、中国人のユンディ・リが欧米の音楽院以外(中国)で学んだ初めてのケースと思われますが、五輪の開催地決定と似てどこか政治的なにおいを感じないでもありません。

僕はH.J.リムというお嬢さんはパイオニアであって、彼女の方法論は画期的と思うのです。簡単でありコストはゼロです。コンクールで箔をつけてプレミア感でチケットを高く売ろうという戦略は、もう古いとはいわないし王道ではあるのですが、紙媒体メディアと電子媒体メディアの戦いは時間の問題で後者が必ず勝つことを知るべきです。そうやって大衆に接する媒体の方が変化すれば大衆人気を勝ち取る方法も変化するのです。渋谷、池袋、青山で大手書店が消えているのを見れば誰でもわかる。別にショパンコンクールに出なくても、優勝者を負かす方法がでてきたのです。ユジャ・ワンやカティア・ブニアティシヴィリはメジャーなコンクールは出てないでしょう?

 

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ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

クラシック徒然草-ハヤシライス現象の日本-

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ショパン バラード1番ト短調作品23

2015 FEB 6 13:13:36 pm by 東 賢太郎

僕はどうやらショパンに「甘み」を感じます。本当に砂糖の味がしてショパンづくしのリサイタルなんか聞くとケーキ10品のフルコースを食べたようで満腹になり、もう今年は結構になってしまう。右手のぱらぱら続く長ったらしい装飾音など何ら栄養分を感じず、子供の時食べた金平糖が浮かんできて一体それがどうしたんだとなってきます。1時間耐えるのは苦行です。

よく軍隊ポロネーズを弾いた時期があって気持ち良かったのですが、単にピアノという楽器のソノリティが快感だっただけで、コーンフレークが食べたくてやたらに食ったという感じです。お菓子ですから自分の中で音楽が熟成(develop)することがなくてこう弾いてほしいという基準もなく、ソナタ2番の終楽章など音楽に聞こえず未だに覚えられません。音楽自体になじめないものがあるのは事実です。ショパンは僕にとっては高級なサロンミュージックです。

それだけならまだいい。さらに悪いことに、音楽以上にサロンにいる聴衆に決定的な違和感を覚えるのです。例えれば巨人ファンです。僕は野球選手としての阿部や坂本を評価しますし、敬意を表するのにやぶさかでありません。しかし、どうしてと説明はできませんが巨人ファンが嫌で、僕はあの巨人の選手がいっぱい出てくる昔のオロナミンCのCMなんかは虫酸が走るほど嫌いなんです。巨人愛なんて言葉にはゾッとしてジンマシンが出そうです。

これまた申しわけないのですが、ショパンをならべたリサイタル(ほとんど行ったことはない)でホールに充満するあのショパン愛のオーラにあたるともう吐き気がしてきます。香水のにおいがするロビーではジュン子センセイの囲む会のお花がどうしただの、どう好意的に解釈しても僕には1000%どうでもいいオロナミンCモノの会話がそこかしこで飛び交って、同じクラシック音楽好きとはいえ北極と南極ほど程遠い世界が展開しているのです。

これと人種は変わってきますが外来オペラの幕間のロビーというのも似たようなもので、けだしこの両者は鹿鳴館の現代版でしょう。欧州への憧れを満たすハレの場です。僕はそこに10何年も住んでそこの民族とビジネスで競争してましたから憧れなんてかけらもなくて、日本人が大相撲を観るような感覚で聴きたいのですが、これはもう異国の異空間であって鐘や太鼓でうるさい日本の野球場とおんなじです。余談ですが中味を仔細に吟味もせずピケティ先生をメジャー・リーガーとカン違いして賛美してしまうのもそれと同じノリでしょう。

ショパンの曲で例外的に好きになれたのがバラード1番です。この楽譜の部分、暗闇に青白い光がさすような感じはやっぱり女の子向けのお菓子の延長ではあるんですが、ここまで感覚が研ぎすまされると凄味があって、どうしても耳を澄まします。

ballad

ここをテンポを落してデリケートにうまく弾いているのはこのアシュケナージです。彼がうまいのは当たり前すぎて面白くないのかあんまりほめられてませんが、これだけ「弾ける」人がどれだけいるか。全編どこから見ても非常にプロフェッショナル、ほしいものが全部ある名演と思います。

ところが一方で、ひょっとしてショパン本人がこう弾いていて、だからこういう譜面を書いたんじゃないかと思うのがあります。楽譜部分が弱音(p)にならないのはピアノロールだからかもしれませんが、ああこういうものかという感じがします。

テレサ・カレーニョが弾いたものです。好きかといわれると考えますが、全編にわたって聴いたことのないテンポ、ルバート、ダイナミクス、フレージング続出で、主題再現の前は和音まで違っていてびっくりしますが、何回か聴くとこのうまさは並みはずれていて信じ難いレベルということがわかってきます。ホロヴィッツより上ですねこれは。

これほど技巧に苦労がないと天衣無縫、自由自在です。こんな曲を書き残したショパン本人はもちろんそうだったでしょう。その域の者でないと通じ合えない何かがあるんじゃないか、つまり、例えばあの装飾音をどんな速さでどんなルバートで弾くかということをです。テレサ・カレーニョ(1853-1917)はマーラーの7才年上、プッチーニの5才年上、何と言ってもフランツ・リストの前で演奏し「自分の曲はこんなにいい曲だったのか」といわしめた逸話が残っている人です。「ピアノの女帝」「ピアノのヴァルキューレ」とあだ名されていたそうです。

もっとすごい事実は、テレサが生まれたのはショパンの死後わずか4年のことで、彼女はショパンの弟子だったジョルジュ・マティアス、アントン・ルービンシュタインに師事したのでショパンの孫弟子ということになります。このバラード1番が直伝のものかどうか証拠はありませんが、譜面づらからは出てこない表情やルバート、例えば第1主題のタタタタータターと第4音を軽く伸ばすような弾き方はショパンがそうしていたと思いたくなってしまいます。

 

オルガ・ルシナ(Olga Rusina)

この人はyoutubeでサーフィンしていて、ラヴェルの「夜のガスパール」にぶち当たって痺れてしまった。まったく知らない人だがi-tunesにあったので即購入。そうしたらショパンもあることを知る。これがまた良いのです。このバラード1番、今流のテクニックでばりばりではなく、頂点へ向かって感じながらピアニストの中で「何か」がだんだん盛りあがっていく。テンポも音量も自由に動くが、そういうすべてが一体になって。

こちらはアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ作品22です。僕はこの作品を知りませんでしたね。こういうもんだったんだと、この演奏でいま知った。このルバートとアクセントはポーランド語なんでしょう。記号化された楽譜をさらっても絶対に出てこないもんです、これは。うまい、すばらしいなんて評価は無用です、こういうもんなんでしょう、ショパンというのは。オルガ・ルシナ、この名前は耳に焼きつきます。

 

クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

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ショパン ピアノ協奏曲第1番ホ短調 作品11

 

 

 

 

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クラシック徒然草-僕がクラシックが好きなわけ-

2014 NOV 2 16:16:27 pm by 東 賢太郎

 

私は物理学者になっていなかったら、音楽家になっていたことでしょう。私はよく音楽のように物事を考え、音楽のように白昼夢を見、音楽用語で人生を理解します。私は人生のほとんどの喜びを音楽から得ています。

アルベルト・アインシュタイン

 

先日の皆既月食の時、アマチュア天文好きはほとんどが「観測派」なので友達がおらず子供のころ寂しい思いをしたことを思い出しました。

僕は恒星にしか興味がありません。日食や月食はかくれんぼみたいなもので物理現象でないし、何がおきるか完全にわかっているのだからただのショーです。皆既日食の時はカラスが何をするかの方が気になっていましたし、どうしても赤色超巨星の変光や130億光年先の未知の星雲での出来事のデータの方が気になります。

こういう趣味は幼児のころからはっきりしていて、僕は2歳から無類の電車好きでしたが車輪と線路以外は一切興味がありませんでした。非常に変な子だったと思われます。もしも鉄道会社に入るなら社長でも運転手でもなく線路の補修工をやりたい。今でも彼らを見るとうらやましい気持ちがわきおこります。

恒星の物理現象の何が楽しいの?と聞かれても猫好きとおんなじで、好きだという事実が先に厳存するのであって考えても意味のないことです。実際にそれを見た者はないわけですから頭の中だけの世界ですがそれでもそこに浮かぶイメージは時としてどんな名画より美しいと思います。

音楽も同じことです。どうしてクラシックが好きかというのは、どうして恒星がどうして線路が好きかということと同質です。なぜこの曲はこんなにいいんだろう?これを解明することとシリウスの伴星の質量への関心とは同じであり、シリウスを夜空に見上げるのはその曲を聴くことと同じことです。

音楽は人為的な物理現象です。それを耳にして頭の中に何が浮かぼうと、快感、感情、風景、ポエム・・・なんであろうと勝手です。ただその段階ではもうそれは音ではなく、脳内の現象になっています。それを心象と呼べば、それは聴く人の脳の数だけあります。ある曲を聴いて万人が同じ心象を抱くとは限らないのです。

ラヴェルのボレロを聴くと僕は極めてメカニックなゼンマイ仕掛けの時計を思い浮かべます。ところがさる女性の方があれはセクシーよねとおっしゃって頭が凍りつきました。セクシー? 同じものを見聞きしてかように天と地の差が出る、これは音楽が多面体であって、見事にカットされたダイヤモンドのように見る角度でいろんな魅力があるということなのです。

10年ぐらい前に僕はボレロをシンセでMIDI録音しました。なんとなく時計のゼンマイをばらばらに分解してみたくなったのです。すると、そこには和声や対位法の秘技はちっともなくて、ひたすら単調な2つの旋律とリズムの繰り返し、それに楽器法の多様なスパイスがふりかかっていくだけという造りなことが現実として見えてきました。

つまり、部品にバラしてみるとどのひとつも珍しくもなく、楽器の面白い組合せの効果だってシンセで忠実に再現できてしまう。まるで精巧なプラモデルみたい。作りかけで内部が中空の戦艦大和を上から下から眺めてぞくぞくする、ああいう感じを味わいながら全曲を完成してみて、ああやっぱりこれはゼンマイ時計だったんだよかったと得心したのです。

ちなみにご存知の方も多いでしょう、ロンドンにドーヴァー・ソウル(シタビラメ)で有名なWheelersというレストランがあります。素材は同じヒラメのムニエルですがソースの違いでたしか10何種類ものメニューがあり、どれもうまい(お薦めです)。ボレロはあの舌平目を片っ端から10種類食べるのとおんなじだったんだということです。1種類のソースで10枚はとてもとても。ボレロはピアノリダクションしてもちっとも面白くない曲です。

しかし、そういうことをぶっ飛ばしてセクシーだとかいう人が現れる。「おおジュリエット!そなたの瞳は・・・・」みたいな宝塚風世界が見えてきて、そういうのは僕とは縁遠い世界なもんでもうアウトです。こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない。ここで、日食や月食が好きな子と遊べなくて寂しい思いをした子供時代に戻るのです。

たしかにラヴェルはゼンマイ時計を造ったのですが、もし彼がセクシーという評価を知ったらひょっとして喜んだんじゃないか、それこそ彼の思うつぼだったかもしれない。伝記を読んでいてそう思ったのも事実です。素晴らしい時計ですね、そんな評価は欲しくなかったかもしれない。そう感じてなにかまた寂しい気持ちになったりします。こういう人間は孤独なのです。

そこで後日、ブラームスの4番の交響曲の第1楽章、これも僕にとってはバラバラに分解したくなる対象なのですが、それをMIDI録音してみました。するとこっちはソースではなく食材そのものに多種多様なアミノ酸、タンパク質が含まれたものであることがわかってきました。彼の3度、6度音程がそれの重要要素で、12音の全部を基音とする長短調主和音が含有されていることも。

でもそれはらっきょうをむいたようなもので、何も出てこない。どうして僕が惹きつけられるのか、その効果をもたらす核心、根源は悔しいことに分解した部品は教えてくれないのです。原子論が脳を解明できないのはこういうものでしょうか。音楽としては全然似てませんが、結局これもボレロのセクシーと同様によくわかりませんでした。

そういう、いわば「形而上の何ものか」を名曲といわれるものは含んでいるようです。すると僕はそれを形而下におろして分解したくなる。いろんな人の演奏をいわば「聴感実験」としてきいてみたくなる。そうやってその曲を覚えこんでしまう。その積み重ねで僕は50年もクラシックにのめりこんできたようなのです。分解癖がうずかない曲はぜんぜん関心がない、どうもそういう事のようです。

ブログで譜面をお示ししたくなる部分、そここそ分解したい箇所であって、それこそが僕のブログの主題だからそうしないといけません。今はそういうものの合成効果を僕は好きで、それが感動をくれていると考えています。それは自分だけの心象かもしれないので普遍性があるかどうかは知りません。たぶんないでしょう。日食・月食派の方にはどうでもいいことでしょうが、物理現象派の方にはわかっていただける 一縷の望みをかけております。

僕はリストやマーラーやヴェルディやほとんどのショパンに興味がないことを明かしているので、いくらボロカスに書いても無視してください。所詮好き好きです。なぜといって分解したいところがないのです、一ヵ所も。だから楽譜を見たいとも思わない。おおジュリエット!も僕の音楽観にはいっさい出てきません。

音楽の教科書に載っていた曲はみな名曲だ、聴いてわかなければいけない、わからければあなたがおかしいのだなんていう呪縛はクソくらえなのです。僕は中学まで音楽の成績2の劣等生ですが、ピアノが弾けて笛がうまくて5だった人たちが今の僕よりストラヴィンスキーの音楽について理解していることはたぶんないでしょう。そういうことは育ちや教育や技術ではなく、すぐれて遺伝子のなせるわざと思います。

レコードの批評はくだらないので読みません。つまらない曲の演奏などどうあろうとつまらないわけで、そんな曲を批評できるほど真面目に聴いていること自体趣味が悪い。そういう人のおすすめに従ってみたいとは思わないです。良い曲はプロがちゃんと演奏すればよほどひどい解釈でないかぎり良いはずです。だからCD屋へ行って棚に並んでいる有名演奏家のものを買っておけば間違いはありません。

その曲の本質をより突いた演奏というのはたしかにあります。それは語られるべきですが、それもこれも、曲が良いという大前提があってこそです。必要なことは「良い曲」を探して、それを良く知ることなのです。そしてそれぞれの人によって持つ心象が違うのですから何が良い曲かもかわってきます。他人の評価やおすすめはそれはそれとして、とにかく自分の耳で聴いてみること。それしかございません。

僕はいい曲かどうかを分解したいかどうかで選んでおり、ある人はおおジュリエット!で選んでいる。どっちでもよい。そういう事だということを知ったうえで自分の「良い曲」のレパートリーを増やしていくこと、それを探し求めることこそクラシック音楽の森に足をふみ入れることです。その道を歩いてさえいれば、どんなにレパートリーがまだ少なくとも、「自分の趣味はクラシック音楽です」と堂々と語ることができる、僕はそう思います。

 

クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

クラシック徒然草-ラヴェルと雪女 (ボレロ)-

 

 

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クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

2014 SEP 21 1:01:40 am by 東 賢太郎

 

悲愴ソナタのアダージョ・カンタービレが、一か月の空白状態で乾ききった心に昨日すっとしみいってきた。これは言うまでもなくベートーベンの書いた名旋律だ。ビリー・ジョエルがThis Nightでパクっているほど。

弾いてみるものだ。いろいろ気がついた。まずこれだ。

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ここに来て、あれっと思った。ショパンの前奏曲作品28 のホ短調( No.4)じゃないか。こういうのは目や耳じゃなく指が見つける。

ここにだって、 エチュード第3番 「別れの曲」が見え隠れする。

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そうだろう、ショパンがこのソナタを知らなかったはずはない。その2曲はこのアダージョの子供みたいなものではないか。

この冒頭の第3小節の4つ目の8分音符、このシ♭をショパンはどう弾いたのだろう?

何故そんなことを考えるかというと、目をつぶって弾いていて僕はどうしても、そのシ♭にルバートをかけたい誘惑にかられてしまうことに気がついたからだ。理由はない。単に感覚的に。しかし正統派のピアノの先生はおそらくそれを戒めるだろう。これはドイツ音楽だ、ショパンじゃないと。確かに、僕が最も敬愛するバックハウスはルバートがないのだ。

この楽章を甘く、ロマンティックに弾くことは僕も反対だ。この旋律は4小節+4小節をひとフレーズとして西洋音楽の規範通りに書かれている。素晴らしい古典の均整と格調がある。それを壊してはいけない。しかし、である。第4小節の4拍目でメロディーラインのミ♭が半音上がる。バスもミ♭なのに!これが不協和音に聴こえないのは対位法的な音楽でないからだ。弦楽四重奏の譜面の様に見えるが、これは歌謡性の高い、メロディー(歌)と伴奏というピアノ的なものである。

第3,4小節とも、4拍目にサプライズが仕掛けられている。この意外性!

そして第5小節だ。A♭⇒F7 というベートーベンが好きな3度転調がやってくる。そこからバスは4度の上昇を3回重ねてトニックの変イ長調に回帰する。この意外性!

こういう目に見えない巨匠の意匠に目が向かないようであれば、僕はその人の芸術家としての資質を疑うしかない。ベートーベンはそれに気づいてくれる人に向けて音楽を書いている。それに気づいたというサインがテンポ・ルバートになるのであれば、それに気づいた聴衆にしかとキャッチされることになり、そのことをベートーベンが戒めることはないと思う。ピアノの先生がどう言おうと。

このアダージョはバッハの最上の音楽にだけある、澄み切った抒情に満ちている。しかし、それでいて宗教音楽ではない。教会を出た人間の音楽である。繊細に神経に触れてくる和声の色合い!これに魂が敏感に感じ、深く呼吸し、反応しなくて何があろう。

僕のまったくの空想であるが、ショパンはもちろんルバートし、そこからああいう曲想を得ていったと思う。彼の曲の和声の精妙さ。あんな音楽を書く人がこれを見逃したはずはない。第3小節でa♭、g、f と下がったバスがオクターヴ上がり、次のe♭が今度はオクターヴ下がる。こういうところもショパンにエコーしている。もちろんこれは前述の e♭と e♮ の不協和音を隠すためだ。

ところがである。残念ながらほとんどのピアニストがこれをほぼインテンポで弾く。ポリーニなどメトロノームのようで、彼は一体この楽譜に何を読んでいるのか、まったくもって信じ難い。ケンプもさらさらと小川のように流れてしまう。ぜんぜん魅力がない。一方で、何人かの人が僕の思うようにやってくれている。シュナーベル、リヒテル、ギレリス、アラウ、ホロヴィッツ、リルなど。

僕が何が言いたいかはこのギレリスの大家の芸で味わっていただきたい。シ♭のルバートはほんのかすか。しかしそれがまったく自然で、魂を天空に放つようにひっそりと、ふわっと宙に広がる。こういうところにピアニストの真の技量が出る。

ギレリスは録音が数種類あるがどれも似ている。唯一、後半のトリプレット(三連符)を強めにスタッカート気味にするのがやや僕は趣味に合わないが、それをのぞけばこの1968年12月モスクワライブは全曲にわたって名演である。もうひとつ、イギリスのジョン・リル。彼はチャイコフスキーコンクール優勝者だが僕は独墺系を評価している。これはもっと沈静感があり深い安息にひたれる。旋律の深い呼吸と間(ま)をよく聴いていただきたい。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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ショパン 14のワルツ集

2014 JUL 6 15:15:40 pm by 東 賢太郎

僕はショパンは好きではないが、よく知っている。簡単なものは弾ける。いくつかの曲は高く評価してもいる。それなのになぜ好きでないかというと、女の子の嫁入り道具みたいに扱う風潮があって、そういう空気に触れるのが嫌いなのだ。

僕はアンチ巨人だが、選手の能力は評価している。それと似ている。嫌いなのはオロナミンCのCMみたいなノリの空気だ。野球界は俺のものみたいな傍若無人ぶり、それが時としてジャイアンツ愛とか、とにかく気色が悪い。できれば負けて欲しい。

chopin2ショパンを味わえたと思ったのはアルフレッド・コルトーが弾いたワルツ集(1934年盤)のLPを買ってきて聴いたときだ(写真はそのCDであるが)。音は悪いし、こんなにミスタッチだらけのレコードも古今東西そうあるものではない。初めはなんだこれはと思った。

それまで、ソナタ3番、24の前奏曲、2つの協奏曲、マズルカをよく聴いていてワルツは軽く見ていた。子犬の・・なんていうお子様向け風のタイトルが出てくると当時の僕はもうだめだった。向かいの家人がよくノクターンを弾いていて、これがまたへたなものだからショパンはかんべんしてくれ状態が進行した。

そこで聴いたコルトーのワルツは誰のとも違った。崩しまくりだ。楽譜の原型をほぼ留めないフレーズもある。私の曲だ、文句あるか、そうきこえる。何だこれは?ところが、これをきいてうーんと思った。9番(作品69の1、変イ長調)だ。

chopin

いきなり伸縮自在のわがままフレージングでくるが、色で囲った部分、中音がきいたアルペジオで和音が崩れ変二音が伸びるとエアポケットで宙に浮いて静止。これが何とも、艶っぽい。といっても、女のものではない。いや女だったら気持ちがわるい。これは男の色気だ、それもいかにもしゃれ者のフランス男の。ショパンは男の音楽なのだと思わせてくれる。彼が貴族の女性にもてたのは多分こういうものが随所に潜んでいるからで、しかし楽譜はそんな風には書いていない。書けもしない。コルトーは直感で、しかし、それを引きずり出してデフォルメしている感じがするのだ。だから恣意にきこえず、納得してしまう。いろんな人のを16種類持っているが、この異形のショパンにノックアウトを食っているのでなかなか抜けきれず困っている。

chopin1

ヴィトルド・マルクジンスキーはポーランド語のショパンだ。今流のスマートできらびやかな演奏に比べると装飾音の弾き方やルバートの仕方が田舎くさい。しかしパリ仕込みのタッチはキレがありペダルを控えてべたべたしない。当世お嬢さん風とは対極の保守本流と思う。好き好きだが僕はこういうのに耳を澄ます。

chpin1やはりポーランド人のシュテファン・アスケナーゼはモーツァルトの息子の孫弟子で、フランツ・リストの孫弟子でもある。一聴するとまったく地味でミスタッチもあり、このCDをほめる人は変わり者だろう。しかしちょっとしたリズムの変化や和音の造り方など19世紀風老舗の味で彼ほどワルツらしく弾く人もあまりいない(9番の左手!)。録音がモノなのはいいがタッチがうまく入っていないのがつくづく惜しい。

815一般に人気が高いのはアルトゥール・ルービンシュタインだろう。確かにうまい。この華やかさは彼天性のもので、現代のショパン演奏のイメージは彼が作ったかもしれない。芸術より「芸」を感じる。僕は彼のベートーベン協奏曲集やブラームスの第1協奏曲を高く買う人間だがショパンは大向こう受けを感じてしまう。芸というならコルトーもそうだが2人はショパンの中に見ているものが違う。彼が見たものを好きかといわれれば、それこそが僕をショパンから遠ざけるものだ。

chopin3芸というならジョルジュ・シフラもいる。煌めくような音でとにかく、うまい!リストが弾いたらと空想するならこれだ。細かいテンポのギアチェンジの振幅はあらゆる演奏で最大級だろう。1小節だけ急にアップテンポで半音階を登るが、このぐらい指が回らないとショパンじゃないというほど見事だ。それでいてピアノ全体がバランス良く鳴っているというのはどのピアニストからでも聴けるという代物ではない。エンターテイナーではあるがコルトーと違った側面からショパンの実像をえぐった至芸として僕は大好きであり、ぜひ一聴をお薦めしたい。

mzi_iczjowah_170x170-75新しい所でロール・ファヴル=カーン(右)はもぎたてのレモンみたいにみずみずしくデリケートだ。ロマンティックだがなよなよべたべたしないのがいい。ショパンをショパンらしくかき鳴らす技術はとても高水準でありこれは時々聴いてもいいなと思う。録音は明るくクリアな軽めの音でワルツ集向きだ。i-tuneで1,300円はお買い得だ。難しいこといわず素晴らしいピアノの音で名曲アルバム風にショパンを聴きたい人には大いに価値があろう。

 

もう一度コルトーの9番にもどろう。これは技術的にはやさしい。僕が弾ける少数のひとつでいつもあそこをコルトーっぽくやってみるが、悔しいが我ながらぜんぜんサマにならない。そうだよな、どうせ色気なんか無縁だもんな。この嫉妬でショパンが嫌いになっている?割とそうかもしれない。

 

(補遺、3月21日)

長らく聴きたいと思っていて手に入らなかったこれ、youtubeで見つけた。

べラ・ダヴィドヴィッチ(pf)

素晴らしい。彼女は基本テンポを守る。右手はルバートしても左はするなというショパンの言葉通り。変イ長調作品 34 No. 1などそっけないほどだが、そのテンポで一切崩れなく言うべきことを言いきるのが凄い。ぴんと一筋通っているのは侵しがたい気品だ。ショパンというのは弾く者の「人品」が問われるのだ。「私より彼女のほうがショパンは上手い」と語ったのはリストの再来と騒がれたラザール・ベルマンであって、それが技術の話でないことは明白である。今どきのショパンコンクールを受ける人はこれを聴いてどう思っているのだろうか。聴いてもいないのだろうか。アレグロの羽気のような軽さとフォルテの鋼鉄のような比重の対比も、どういう弾き方をしたらこういう音が出るのだろうと素人ながらに不思議に思う。べラは1949年第4回ショパンコンクール優勝者だ。

 

クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

 

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ショパン バラード1番ト短調作品23

 

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ショパン ピアノ協奏曲第1番ホ短調 作品11

2014 FEB 16 2:02:54 am by 東 賢太郎

ショパンのコンチェルトについて僕がなにか書こうというのは自分でもあまり予想していなかった。ショパンは聴かなくなって久しいけれど、嫌いというわけではない。というより一時はよく聴いていて、1番の録音は22枚も持っているし、何曲かは自分でも弾きたいと思った(挫折したが)。

シューマンという人は音楽と文学を結んだ「物語性」というか、必ず何か物語をもっている人間というもの、それが恋であれ嫉妬であれ絶望であれ、そういう生身の人間から生まれるものが共存するところに音楽というものを発想した。だから彼は著書の中でベルリオーズの幻想交響曲に強い共感を寄せている。そして同い年のショパンの「モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ』による変奏曲」作品2を「諸君、帽子を取れ。天才だ!」と讃えた。

ところがショパンはそういう文学的な見られ方を、「このドイツ人の空想には死ぬほど笑わされた」と書いた。ロマン派と解釈されることを嫌い、敬愛したのはバッハとモーツァルトだった。マヨルカ島にもっていった印刷譜はバッハの平均律クラヴィーア曲集だけだったという。彼は恋人を思い浮かべて音楽を書いたこともあるが、その音楽に我々が感じる詩情というものは彼のまったく独自の「音楽語法」そのものであり、彼は何が作曲の契機であれ、自分の音を純粋に抽象的に紡ぎだしたと僕は考えている。

だから彼の音楽のロマンティックな表題はほとんどが後世の人間の創作である。彼の語法がはからずもロマン派の扉を開けることに貢献したのは事実だが、彼が開けなくとも開いたその扉が彼の曲に時代の空気に添ったレッテルを貼ってしまった。僕がショパンを聴きたくなくなった最大の原因は、その偽りのレッテル風情の演奏が増えてきて我慢がならなくなったからである。ベートーベンの5番を運命とアダ名しておいて、いかにも運命でございと無用に物々しく演奏することにアレルギーがあるのと同じことだ。

ショパンの協奏曲1、2番は両方とも20歳の若書きである。後に書かれた1番の方が音楽的にやや熟していると感じるが、2番の第1楽章の美しさは1番をしのいでいるかもしれないと思う。彼が3番を書かなかったのはこの2つが若さと関係しているからだ。こういう曲を大家がばりばり名人芸で弾くよりも、僕は20代の若いピアニストで聴くのが好きだ。若さは若者の感性でしか表現できない。たとえばマウリッツィオ・ポリーニ(1番)は18歳以来もう録音していない。アシュケナージにも18歳、ショパンコンクールでの素晴らしい2番がある。そのアシュケナージが伴奏に回って、ウズベキスタンの20歳、エルダー・ネボルシンが独奏した初々しい1番は格別に愛好している。

エルダー・ネボルシン(pf) / ウラディミール・アシュケナージ / ベルリン・ドイツ交響楽団

415WS8CFX6Lこれがそれ。ただこの録音は廃盤になってしまった。もったいないことだ。ドイツで買ってひとめぼれしてしまい、未だに、ほんのたまにだがこの曲を聴こうとなるとまず第一にこれに食指が動く。このピアノ、もぎたてのレモンとはこのことで、全編が夢のようにみずみずしい。二十歳のショパンがそこにいる。アシュケナージがまたそれに感じきっていい伴奏をつけている。録音も見事にそれをとらえきっている。満点。amazonで新品が6,314円の値がついていた。

 

クリスチャン・ツィマーマン(pf) / キリル・コンドラシン / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

245641879年録音(ピアニスト23歳)の快演。廃盤ばかりで申しわけないが、いいのだから仕方ない。ツィマーマンは何度も録音していて、ポーランド祝祭管との新録など立派な限りだがその貫禄が僕にはピンとこない。このACOとのライブと同時期にジュリーニ(ロス・フィル)とのスタジオ録音もあるがオケ(大事だ)が明るく、このライブの生命感のほうが断然素晴らしい。終楽章の出だしの若鮎のようなリズム感、オケとの感興の乗った受け渡しの見事さ!これぞショパン・コンクールで勝てる人だ。i-tunesでzimerman kondrashinと打ち込むと出てくる。

 

マルタ・アルゲリッチ(pf) /  ヴィトルト・ロヴィツキ/ ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団

41Y47N4ZYHL女性を一つとなるとこれ。8才でベートーベンの1番、9歳でモーツァルトの20番と協奏曲を弾いた天下のアルゲリッチの24才(1965年)ショパンコンクールのライブ。その5年前、19才ですでにドイチェ・グラモフォンからレコードを出していたわけで、この1番もあまりに称賛された演奏ゆえ書くのも気がひけるが、改めて聴きかえして、やっぱり素晴らしい。第1楽章展開部から鬼神が乗りうつった一期一会の演奏で、うまいというより破天荒な感性の勝利だ。彼女のその後の演奏もたくさんあるがポートレートと一緒でトシをとっても凌駕できないものがここにはたくさんある。

 

クラウディオ・アラウ / エリアフ・インバル / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

21467才のオトナの演奏をひとつ。アラウのピアノは何を聴いても和音のバランスが最高によく、「うまみ」のきいただし汁をいつも思い出す。すごい技術と想像するがちっともメカニックな感じがしない。普通の奏者が一所懸命弾いてどうだ!と見栄を切る部分もあっさり進み、うまいのでファインプレーに見えないというやつだ。すぐれたアートというものは常にごまかしのきかない最高の技術の上に成り立っているということを知る。極上の京料理のようであり、何もとんがったものはないが食後の満足感は絶妙。子供にはわからない味かもしれない。インバルのオケが序奏から大変にシンフォニックでドイツ音楽のような偉容を示すのも面白い。

 

(補遺、17June 17)

ロジーナ・レヴィーン / ジョン・バーネット/ NOA学友管弦楽団

youtubeでこれを見つけて驚いた。たいへんな名演だ。ロジーナ・レヴィーンはヨゼフ・レヴィーンの奥さんで、ジュリアードの名教師として多くの弟子、ヴァン・クライバーン、ジェームズ・レヴァイン、中村紘子などを世に出した。何というニュアンス豊かなフレージングだろう!第2楽章など夢のような歌に満ちるが最高の品格を伴い甘さに淫することがない。名技で唸らせようなどという魂胆はかけらも見えず、心の献身で音楽に奉仕するスタイルであり、オーケストラも同調する。管弦とも一流の奏者ぞろいと思われ立派きわまりない。最高だ。高雅で貴族的でないショパンなど僕は聴く気にもならない。こういう一級の芸術家が忘れられ、ショーマンや芸人風情のピアニストがもてはやされるならクラシック音楽はつまらない世界になっていくだろう。

クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

 

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ショパン・コンクール勝手流評価

 

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クラシック徒然草-愛器アウグスト・フェァシュター社ピアノを調律してもらう-

2013 SEP 8 0:00:14 am by 東 賢太郎

写真 (19)今日は1時からピアノの調律をお願いしました。ご近所にお住いの本邦調律界の大御所U先生にうかがったところ、ウチのアップライト(右)は旧東独のAugust Förster社製のものなのですが、日本にはあまりないとのこと。ぜひ見てみたいと初回は大御所本人が来てくださいました。その時に「将来を嘱望する若手のポープなので勉強させてやって下さい」と同伴されたのが白田先生でした。

写真 (17)今日は先生の2回目でした。これともう一台ヤマハのグランドをお願いし、いろいろうるさい僕のわがままを聞いていただいて終わったのは6時すぎでした。このアップライトは確か85年にロンドンのマークソン・ピアノで購入したものです。何台か弾いてみて、ひと目惚れで即決したのがこれでした。長女がロンドンで生まれたのが87年だからはるか先輩格に当たりますね。別に高級品ではないのですが、それ以来、我が家と一緒にロンドン→東京→フランクフルト→チューリッヒ→香港→東京と長旅を共にした家族としての絆を強く感じています。

調律は時間とともに少しづつ狂ってきます。それが耐えられなくて僕は調律用のハンマーをスイスで買って、自分で微調整などしてきました。しかし調律はピッチだけの問題でないのです。それが最近わかってきました。そこで今日は先生が「どんな風にしますか?」と聞くので「ラヴェルの音でお願いします!」とわけのわからんことを依頼しました。まるで床屋の会話です。「うーん、ラヴェルですか、クープランの墓?そうですね・・・・」だいぶお悩みの様子。「やってみましょう、でもこのアウグストのせっかくの音をいじるのはやりたくないですね。ヤマハの方でやりましょう」ということになりました。

写真 (18)そこから休みなしで3時間半。隣の部屋のヤマハは見事にベーゼンドルファー寄りの音に生まれ変わりました。それに感動し、先生に感謝の意をこめてこのブログを書くことになったのです。クープランの墓の一部、ショパンのワルツ、グリーグのコンチェルトのさわりなどを弾いて聴いてもらい、ほぼ音は問題なしとなって残り時間でアウグストを仕上げてもらいました。そっちではシェラザードの第1楽章を全曲、ダフニスとクロエの夜明けのところ、ドヴォルザークの8番などを。ミスタッチだらけでとても人様に聴いていただく水準には遠いのだけど本人だけは指揮者気分で満足。これがあるから僕は生きていけるのです。

先生から「ピアニストのどこで演奏を評価してますか?」というご質問。「指の回りではなく①フレージング②和音のバランスです」と答えました。「意外に好きな人が少ない。アラウだけ別格です。ミケランジェリはいいですがポリーニもアルゲリッチもリヒテルも今は聞く気がしない」とも。「ラヴェルはフランソワはどうですか?」ときたのですが、「録音がひどい。EMIの音にボディがない」ということで意見が一致しました。先生のイメージではラヴェルはベーゼン。楽器の音色のイメージをきくと「カワイは円筒、ヤマハはその円筒の中に円錐が入っていて2重、スタインウェイはさらにその円錐が2重になっているイメージを持っているんです。だからベーゼン。」と素人にはまったく理解不能の答えが返ってきました。「チッコリーニがファッツィオーリでベートーベンを弾いたのがなかなか良かった」という感想で、かなりお好みのイメージがわかってきましたとのことでした。

写真 (16)最後に先生に、「だんだんこういう音にして欲しい」と言って、ラヴェルを2つ、①アンヌ・ケフェレックの「水の戯れ」と②イヴォンヌ・ルフェビュールのト長調協奏曲の第2,3楽章をリスニングルーム(右)で僕の装置でじっくりと聴いていただきました。両者の音色の比較をああだこうだとプロの視点から詳しく教えていただき、大変勉強になりました。それなのに、「これはたぶんベーゼンだろうなあ・・・・ただ調律が特別ですね・・・・こういう音が出せるんですね。勉強になりました」と謙虚に語ってお帰りになりました。いやピアノひとつとっても音楽は奥が深いものです。この装置は1人で聴いていてももったいないし、先生のような方にお役にたてるのであればうれしい限りと思いました。楽器の方もヘタの横好きにばかり弾かれていてもかわいそうです。プロをお招きしてミニコンサートをやっていただくこともSMCで考えようと思っています。

 

ファツィオリ体験記

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