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クラシック徒然草 ―ドビッシーとインドネシア―

2016 SEP 20 0:00:47 am by 東 賢太郎

前回、微分音を使った武満徹の「雨の呪文」をきいた。微分音とはなにやらおそろしげだが、ちっとも難しいものではない。

これをお聴きいただきたい。「平調 陪臚」という我が国古来の音楽、雅楽である。

冒頭の笛の音からして西洋音楽のドレミファとは合っていない。笙(しょう)は長2度の和声らしきものを奏でるがユニゾンの旋律になるとグリッサンドが入り高音のピッチは不安定である。もちろん、それはそういうものなのであり、「音が外れている」というには当たらない。

次はこちら。インドネシアのガムラン音楽である。

雅楽よりもドレミファに近いが、笛もゴングのような金属打楽器もいわば「調子はずれ」だ。しかしこれも、そういうものなのだ。僕自身、香港時代に初めてジャカルタへ行ってこういうガムラン・オーケストラを聴いた。強烈な音楽を全身で受け止めた。

これに魅せられる西洋人は多いようで、パーカッショングループがやるとこうなる。かなり洗練されてきて、同音型の悠久を思わせる繰り返しはどこかライヒのミニマル・ミュージックを思い起こさせないだろうか。しかし微分音ということでいうと正面左の鉄琴のピッチは明らかに四分音ほど低いのだ。

トルコ、ペルシャの伝統音楽もこうした調子はずれの音が出てくる。つまり教会の残響で三和音のハーモニーから発し、倍音として現れる音でオクターヴを12分割した西洋音楽のスケールというものが世界を席巻しているが、それだけが音楽であると言うには世界はあまりに広いことがご理解いただけるだろうか。

これは言葉の世界で、母国語としている人が5%しかいない英語が世界を席巻してビジネス公用語になっているのに似る。それは確かに便利ではあるが、では「わび・さび」を英語で説明しろと言われればはたと困ってしまう。メートル法に慣れた我々が「体重は何ポンドですか?」と聞かれてもだ。雅楽やガムランを五線譜に書くのは、それと同じく困ってしまうことなのだ。

僕は雅楽もガムランも好きで、どちらもCDを所有している。それは音楽として伝わってくる何かがあるからであって、それ固有のものだ。それをバッハと比べてどうこう言うには値しない。ベトナム料理とフランス料理を比べることは可能だが、どちらもおいしいのであって、料理というものはそれで充分なのだ。

微分音とは、体重50キロの人が「110.231131ポンド」になってしまう、その小数点の部分、0.231131みたいなものだ。相手は110、111,112・・・と整数で考えてる。それがドレミファ・・・というものである。でも、ドレミファを基準に調子はずれとされても困る。雅楽もガムランも、西洋音楽より前から「そういうもの」として存在してきたのだから。

幸い、西洋の教養ある人達はそれを理解している。これは2012年のエジンバラ国際音楽祭で宮内庁式部職楽部が演奏会をやったドキュメントだ。チケットは早々に完売したようであり、「マーラーの9番を思い出しました」というご婦人も出てくる。千年前の音楽がほぼそのまま保存されているのは日本をおいてない。我々はこれをもっと知り、もっと誇りを持つべきだろう。

パリの万国博覧会でガムランを聴いて感銘を受け、そのインスピレーションから音楽を書いたのはドビッシーだ。彼は北斎の浮世絵から交響詩「海」を書いたように、ガムランからこの曲を書いたとされる。1903年の作品、「版画」から第1曲「塔(パゴダ)」である。

これをパーシー・グレンジャーが管弦楽に編曲している。これを聴くとガムランの感じがよくわかるから面白い。

しかしここに微分音は出てこない。あくまでポンド法である平均律に焼き直したもの、デフォルメされた「イメージ」にすぎないと言っていいだろう。僕は微分音でしか表現できない音楽を平均律に「押し込める」ことには少々抵抗がある。

第一に、ビートルズをピアノで弾いてもあの純正調のハーモニーは出ないように、すべての同名異音を同じと読んでしまうエンハーモニックは本当の美を表さない。第二に、雅楽もガムランも、もっといえば演歌の「こぶし」も、ビートルズ以上に西洋楽器にはなじまないものだからだ。

ドレミファにならない音楽を排除してしまうのは間違いだ。良い音楽に対して心が開かれている人にとっては、音をもってスピリチュアルに何かを伝えるものはすべからく音楽である。伝えるものが大きければすべて立派な音楽なのであり、そこに優劣のような価値基準が入り込む余地はない。どこの国の料理も、おいしいものが良い料理なのである。

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クラシック徒然草ードビッシーの盗作、ラヴェルの仕返し?ー

 

武満徹 「雨の呪文」 (Rain Spell)

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クラシック徒然草ーフランス好きにおすすめー

2016 SEP 3 2:02:01 am by 東 賢太郎

ジャズやポップスはアルバムが唯一無二の「作品」ですが、クラシックはそうではなくて、作品が富士山ならアルバムはその写真集のような関係です。

しかし、中にはちがうのがあって、ほんのたまにですが、これは「作品」だという盤石の風格を感じる録音があります。風格というより唯一無二性と書くか、音の刻まれ方から録音のフォーカスの具合まで、総合的なイメージとしてそのアルバムが一個の個性を普遍性まで高めた感じのするものがございます。

演奏家と録音のプロデューサー、ミキサーといった技師のコラボが作品となっている印象でブーレーズのCBS盤がそれなのですが、DG盤もレベルは高いがその感じに欠けるのは不思議です。何が要因かは僕もわかりません。

名演奏、名録音では足らず、演奏家のオーラと技師のポリシー・録音機材の具合がお互い求め合ったかのような天与のマッチングを見せるときにのみ、そういう作品ができるのでしょうか。例えばブーレーズCBSのドビッシーの「遊戯」は両者のエッセンスの絶妙な配合が感じられる例です。

いかがでしょう?

冒頭は高弦(シ)にハープとホルンのド、ド#が順次乗っかりますが、ハープの倍音を強めに録ってホルンは隠し味として(聞こえるかどうかぐらい弱く)ブレンドして不協和音のうねりまで絶妙のバランスで聴かせます。聴いた瞬間に耳が吸いよせられてしまいます。

ここから数分は楽想もストラヴィンスキーの火の鳥そっくりでその録音でも同様の効果を上げていますが、いくらブーレーズでもコンサートホールでこれをするのは難しいと思われます。エンジニアの感性と技法が楽想、指揮者の狙いに完璧にマッチしている例です。

録音の品位、品格というものは厳然とあって、ただ原音に忠実(Hi-Fi)であればいいというものではありません。忠実であるべきは物理特性に対してではなく「音楽」に対してです。こういうCDはパソコンではなくちゃんとしたオーディオ装置で再生されるべき音が詰まっています。

僕がハイファイマニアでないことは書きましたが、そういう名録音がもしあれば細心の注意を払って一個の芸術作品として耳を傾けたいという気持ちは大いにあります。それをクラウドではなくCDというモノとして所有していたいという気持ちもです。

ライブ録音に「作品」を感じるものはあまり思い当たりません。演奏の偶然性、感情表現の偶発性などライブの良さは認めつつも、演奏会場の空気感や熱気までを録音するのは困難です。C・クライバ―、カラヤンなど会場で聴いたものがCDになっていますが、仮にそれだけ聞いてそれを選ぶかと言われればNOです。

「音の響き」「そのとらえ方」はその日のお客の入りや温度、湿度によって変わるでしょう。CDとして「作品」までなるにはエンジニアの意志、個性、こだわりの完璧な発揮が重要な要素と思われますが、彼らは条件が定常的であるスタジオでこそ本来の力が発揮されるという事情があると思います。

fluteこのことを僕に感じさせたのはしかしブーレーズではありません。右のCDです。これはSaphirというフランスのレーベルのオムニバスですが、同国の誇る名人フルーティストのオンパレードで演奏はどれもふるいつきたくなるほどの一級品。以下、曲ごとに印象を書きます。

ルーセルの「ロンサールの2つの詩」のミシェル・モラゲス(フルート)とサンドリーヌ・ピオ(ソプラノ)の完璧なピッチ、ホールトーン、倍音までバランスの取れた調和の美しさは絶品!これで一個の芸術品である。

ラヴェルの「 序奏とアレグロ」はフランスの香気に満ち、ハープ、フルート、クラリネット、弦4部がクラリティの高い透明な響きでまるでオーケストラの如き音彩を放つさまは夢を見るよう。パリ弦楽四重奏団のチェロが素晴らしい。この演奏は数多ある同曲盤でベストクラス。

ミシェル・モラゲス(フルート)、エミール・ナウモフ(ピアノ)によるプーランクのフルート・ソナタはフルートの千変万化の音色、10才でブーランジェの弟子だったナウモフのプーランク解釈に出会えるが、色彩感と活力、素晴らしいとしか書きようがなく、しかも音が「フランスしてる」のは驚くばかり。エンジニアの卓越したセンスを聴く。同曲ベストレベルにある。

マテュー・デュフール(フルート)、ジュリー・パロック(ハープ)、ジョアシン弦楽三重奏団によるルーセルの「 セレナード 」、これまた「おフランス」に浸りきれる逸品。この音楽、ドイツ人やウィーン人に書けと言ってもどう考えても無理だ。録音エンジニアもフランス、ラテンの透明な感性、最高に良い味を出しておりフルートの涼やかな音色に耳を奪われる。最高!

ドビュッシーの「 フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」は(同曲の本編に書きませんでしたが)、これまた演奏、録音ともベスト級のクオリティ。序奏とアレグロでもルーセルでもここでもフルートとハープの相性は抜群で、その創案者モーツァルトの音色センスがうかがえるが、そこにヴィオラが絡む渋い味はどこか繊細な京料理の感性を思いおこさせる。

以上、残念ながらyoutubeに見当たらず音はお聴きいただけません。選曲は中上級者向きですがフランス音楽がお好きな方はi-tunesでお買いになって後悔することはないでしょう(musique francaise pour fluteと入力すると上のジャケットが出てきます)。CDは探しましたがなく、僕も仕方なくi-tunesで買いました。間違ってもこんな一級品のディスクを廃盤に追いこんでほしくないものですね。

 
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クラシック徒然草ードビッシーの盗作、ラヴェルの仕返し?ー

2016 AUG 14 21:21:29 pm by 東 賢太郎

ドビッシーとラヴェルといえばこの事件が有名である。『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」が自身が1895年に作曲した「耳で聞く風景」(Les sites auriculaires)の第1曲「ハバネラ」に似ているとしてラヴェルがクレームし、両者は疎遠となったらしい。

これがラヴェルのハバネラである(後に管弦楽化して「スペイン狂詩曲」第3曲とした)。

こちらがドビッシーの「グラナダの夕暮れ」である。

そんなに怒るほど似ているだろうか? リズム音型は同じだがハバネラ固有のものであってラヴェルの専売特許というわけではないだろう。僕には第2曲「 鐘が鳴るなかで 」(Entre cloches)のほうがむしろドビッシーっぽく聞こえるのだが・・・。

ラヴェルの母親はスペイン系(バスク人)である。バスクというのはカスティーリャ王国領でポルトガルにほど近く、「カステラ」はその国名に由来するときく。フランシスコ・ザビエルもバスク人だったし、コロンブスを雇ってアメリカ大陸を発見、領有した強国であった。

曲名にあるグラナダというとアルハンブラ宮殿で有名なイスラム王朝ナスル朝の首都だが、カスティーリャはアラゴンが同君連合となって1482年にグラナダ戦争を開始、1492年にグラナダを陥落しレコンキスタは終結した。バスクの人々には万感の思いがある地であろうことは想像に難くない。

「スペイン狂詩曲」(1908年)に結集したように、ラヴェルの母方の血への思いは強かったと思われる。かたや「グラナダの夕暮れ」作曲当時のドビッシーはスペイン体験が一度しかなかった。気に障ったのは盗作ということではなく父祖の地へ行ったこともない者が訳知り顔して書くなという反感だったのかもしれない。

非常に興味深いことに、「夜のガスパール」の第1曲である「オンディーヌ」はこういう和音で始まる。

gasare

嬰ハ長調トニック(cis・eis・gis)とa の速い交替だ。ところがさきほど、敬愛してやまないドビッシーの「海」をピアノでさらっていたらびっくりした。

mer言うまでもない、これは曲の最後の最後、ティンパニの一撃で終わる(何と天才的な!)その直前の和音。変ニ長調トニックとhesesの速い交替だ。これは平均律のピアノでは「オンディーヌ」の和音と同じものなのである。オーケストラでは気がつかなかったが、弾いてみればどなたもが納得されよう。

交響詩「海」は1905年の作品である。水を素材にした作品だ。クライマックスの爆発で天空に吹き上げた水しぶきが、水の精であるオンディーヌの不思議の世界にいざなってくれる。彼女の化身がメリザンドでなくてなんだろう。

偶然でなければうまい仕返しをしたものだ。

スペイン狂詩曲を完成したのが1908年、「夜のガスパール」も1908年。偶然なのだろうか?

ドビッシーはこれを聴いており、音楽家の耳は同じ和音に気がついただろうが、盗作だなんてクレームはできない。リズムも和音も専売特許ではないし、そういうことをしそうな男でもなかったようなイメージがある。

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クラシック徒然草-ドビッシーの母-

 

 

 

 

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クラシック徒然草-ドビッシーの母-

2016 AUG 14 2:02:02 am by 東 賢太郎

「こんな汚辱の子を育てるより、蝮を生んだ方がましだった」

(ヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシー)

 

パリ音楽院の学内コンクールに2回連続で失敗し、ピアニスト志望を断念してしまった息子に失望した母はこう言い放ったらしい。こわっ、すごい教育ママだ。

我が国も子供を東大に入れたといって本まで書く人がいて、それが売れてしまったりするのだから教育ママはたくさんいるのだろう。オリンピック選手を育てたらずっと偉いと思うが、しかし、メダルをのがして母親にここまで言われたら息子は立つ瀬ない。

debussy5それで女性観が曲がってしまったかどうかは知らないが、のちにドビッシーはいくらゲージュツの世界と割り引いたとしても女性関係において破茶滅茶となり、女が2人も自殺未遂をしている。この道の「オレ流」では大御所、大魔神級であるワーグナー様と双璧をなすであろう。

彼の伝記、手紙を読むに隆々たる男原理が貫いており、学業においてもセザール・フランクのクラスを嫌って逃げ出すなどわがまま放題。ラヴェルが5年浪人して予選落ちだったローマ賞に2浪で見事合格したが、イタリアが嫌で滞在期間の満了前にパリに戻ってしまう。

ドラッカー曰く「他人の楽譜の翻訳家」である演奏家(ピアニスト)を落第し、わがままに自説を開陳できる作曲家になったことは、彼の母親には不幸だったが我々には僥倖だった。それは親や教師や伝統の不可抗力の支配からのがれることであり、本能が是とする道をまっしぐらに駆け抜けることを許容したからだ。

彼の音楽は僕の眼にはまことにますらお的、男性的であり、ラヴェルは中性的、ときに女性的だ。これは大方の皆様のご意見とはおそらく異なるにちがいない。ドビッシーの「月の光」や「亜麻色の髪の乙女」は女性的じゃないか、女性の愛奏曲だし、ドビッシー好きの女性はたくさんいるよという声がしそうだ。

そういうことではない。男が男原理で作ったものを女性が嫌うという道理などなく、むしろ自然の摂理で女性の方が寄ってくるだろうし、うまく解釈するかもしれない。ここで僕が観ているのは作曲するという創造行為の最中にあるフロイト的な心の深層みたいなものだ。

僕は好きな音楽とは作曲家のそれに自分の心の波長が同期するものだと感じている。心地よいのは音ではなく心の共振なのだ。それがなければ音楽は他人事、絵空事にすぎず、うわべの快楽をもたらす美麗な音の慰み物か物理的な音の集積か雑音にすぎない。良い演奏とは、曲と演奏家が共振したものをいうのであって、それが存在しないのに聴衆が曲と共振するのは無理な相談だ。

ラヴェルとドビッシーの根源的な差であるのは、ラヴェルには自分の書いた音が聞き手にどう「作用」するかという視点が常に、看過できないぐらい盛大にあることだ。得たい作用を具現する技巧にマニアックにこだわる「オタク」ぶりは大変に男性的なのだが、どう見られるかという他視点への執着という特性は基本的に、化粧品の消費量と同様に女性によりア・プリオリに所属するものなのだ。

一方でドビッシーの我道、我流ぶりは「ペレアスとメリザンド」、交響詩「海」において際立った立ち位置を確立し、そこに移住してしまった彼は音楽院の教師ども、パリのサロンや同僚やモーツァルトの愛好家たちがどのような視線を送るだろうかということを一顧だにしていないように見える。

その態度は、後に彼が否定側にまわることになる「トリスタンとイゾルデ」をワーグナーが発表した態度そのものであるのは皮肉なことだが、ペレアスがトリスタンと同等のマグニチュードで音楽史の分岐点を形成したのは偶然ではない。全く新しい美のイデアを感知した脳細胞が、他視点を気にしないわがまま男原理で生きている人間たちの頭にのっかっていたという共通点の産物だからだ。

そして、「海」における、微分方程式を解いて和声の色の導関数を求めるような特異な作曲法というものは、音楽にジェンダーはないと今時を装ったほうが当ブログも人気が出るのだろうが、残念ながら真実の心の声としてこういうものが一般論的に女性の頭と感性から生み出されるとは考え難い性質のものであることを僕はどうしても否定することができない。

「亜麻色の髪の乙女」は夢見る乙女みたいに甘く弾いても「美麗な音の慰み物」には充分なる。それはBGMやサティのいう「家具の音楽」としてなら高級品だが、ドビッシーを導いた男原理から見ればバッタものだ。困ったことにその手の「うわべの快楽」にはいっぱしの市場がある。そうやって前奏曲集第1巻を弾きとおすことだって可能だし、そういう演奏が多くCDになって出てもいる。

しかしそれをヴェデルニコフやミケランジェリのCDと同じテーブルに並べて比べることは音楽の神の冒涜に類する行為である。裁縫師だったドビッシーの母は 1915年まで生きたそうだが、ペレアスや海を聴いてどう思ったのだろう。

(補遺、15 June17)

バッタ物でないドビッシーの例がこれだ。作曲家をパリに訪ね、ピアノを聞かせて評価され4か月も私淑を許された米国人ジョージ・コープランドの「沈める寺」をお聴きいただきたい。僕はこの曲がどう弾かれるべきか、この非常に強いインパクトを持つ録音で初めて知った。現代のピアニストはドビッシーの pp の意味を分かっていないか、少なくとも実現できていない。そこから立ちのぼる ff は騒音に過ぎないのである。

 

「東大脳」という不可思議

 

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ドビッシー フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ (1915)

2016 MAY 3 12:12:27 pm by 東 賢太郎

春の雨の日に聴きたい曲がこれである。ドビッシーが書いたソナタとして僕はこれが最高傑作と思うし、耳にするたびにフランスで見たいろんな情景やら、それを前にしたときの気分のようなものが次々と、どこかぼんやりした輪郭をもって浮かんでは消える。

フルート、ヴイオラ、ハープ。なんという独創的な組み合わせだろう。ヴァイオリンでなく、ピアノでもなく!たった3つの楽器の中音域の絡みからオーケストラのような多様な音色の綾とグラデーションが生まれるのであって、どうしてそれまで誰もやらなかったのかというぐらいあまりに自然な混合だ。

ドビッシーは最晩年に「様々な楽器のための6つのソナタ」 (six sonates pour divers instruments)を計画した。この6つ(half dozen)という数はネオ・クラシカルの合奏協奏曲を思わせる。たとえばJ.S.バッハの死後に「ブランデンブルグ協奏曲」という通名で記憶されることになった曲集も数が6曲であり、しかもバッハがつけたオリジナルの曲名は「様々な楽器のための協奏曲集」(Concerts avec plusieurs instruments)だった。 

ドビッシーがバッハを意識したかどうかは不明だが作品には前奏曲集第1巻、2巻、練習曲の各12、忘れられたアリエッタ、子供の領分、古代墓碑銘の6など構成する曲数に6の倍数が多い。表題曲を書いた1915年に同じく完成した12の練習曲には「ショパンの追憶に À la mémoire de Chopin 」と書かれているのであり、こちらはバッハが念頭にあってもおかしくはない。

だが僕が音からストレートに感知し、憶測する彼の意図はそうした形式や数へのこだわりよりも自由な楽器の組合せが生む新しい色彩だ。

彼は6曲を完成せずに世を去りこの曲と各々ヴァイオリン、チェロとピアノのソナタの3曲だけが生み落とされたが、生まれなかった子供がまことに興味深い。「オーボエ、ホルン、クラヴサンのソナタ」、「トランペット、クラリネット、バスーンとピアノのソナタ」、「コントラバスと各種楽器のためのコンセール形式のソナタ」の3つだ。

バッハの弦楽伴奏を鍵盤楽器にかえ、それも独奏パートとして音色の一要素にしている(ホルン、トランペットの選択が合奏協奏曲を想起させる、この2曲は聴いてみたかった!)とも考えられるが、オーケストラを凝縮した音色の小宇宙の創造を意図したようにも思う。「海」の情景変化をリズム細胞の変容が暗示する時間で微分したドビッシーがここでは音色の移ろいでそれを試みたと僕は考えている。

彼は「映像」を書くときに和声の発明を「化学」と比喩したが、リズムと和声と演奏技巧という要素の終結点を12の練習曲に集大成し、最後に残った音色合成という新たな化学の実験に入ろうとしていたのだ。その精神の深奥には興味が尽きない。畢竟、作曲家という人種はリアリストであり、音を素材とするサイエンティストである。例外はない。

この表題曲の創造の精神は、バッハよりもむしろモーツァルトが「ピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲」変ホ長調K.498を書いたのに近いかもしれない。ベルリオーズやR・コルサコフやラヴェルが「管弦楽法の大家」と讃えられるが、僕はそんな表面的なものよりも、クラリネットを入れたかったモーツァルトがヴァイオリンでなくヴィオラを選び取ったそのセンスの方に管弦楽という合成音色へのホンモノの洞察力を感じる。

そしてその洞察力はドビッシーにおいて「牧神」「ペレアス」「海」、そして本稿表題作という傑作群において証明されるのだ。生まれなかった3つの子どもに思いを巡らしつつ、我々は幸運にもこの音楽という至宝を手にしたのだから、作曲者へのいっそうの感謝をこめて味わうこととしたい。

fuvahpハープの幽玄不可思議な和声(左)で始まるパストラーレと名づけられた第1楽章、ここに続く提示部の、とても機能和声的に響くが調性がつかみづらい模糊とした音楽。混合された音色が時々刻々と移ろうのは交響詩「海」の第2楽章さながらに蠱惑的である。ドビッシーの音色の化学実験の末には、メシアン、ブーレーズ、そして武満徹までつらなる系譜の芽が見える。

この音楽はアナリティカルに聴こうという耳の試みを断念させ、しまいには麻痺させてしまう。色とりどりの花が咲きほこる春雨のモネの庭。ほんわり霞がたちこめて、太鼓橋がうっすらとかすむ。心地よい湿った春風がはこぶ若草の匂い・・・。

若いころ、そんな日にパリ郊外のバルビゾンを歩いてすっかり虜になった。今どこに住んでもいいよとなったら、あそこに小さなメゾンでも買ってなどということを考えてしまいそうだ。居間に流す音楽は、迷うことなくこのソナタになる。

僕の愛聴盤は世評の高いランパル、ラスキーヌ盤ではなくこれだ。

フィリップ・ベルナール(fl)/ブルーノ・パスキエ(va)/フレデリック・カンブルラン(hp)

11512f9f-efc2-469f-b265-cd42fffaff15これをかけるとフランスの香りがたちこめる。なんという素敵な音楽だろう。僕はフランスに住んだことはないので語る資格はないが、イギリスやドイツからドーバーやラインを超えてこの国に入ると必ず感じた「光」というものが在る。それは物理的な光線ということではなく、どこかふんわりと明るくエーテルのように麦畑を豊穣に見せ、生命が育まれている肥沃な地に来たという安寧の気持ちを喚起する。英独軍がここを攻めたくなったのはこのせいかとすら思ってしまった。これを聴きながらあの光がみえてくる。このADDAというレーベルはもう見当たらず、i-tunesに別な装いで出ているようだ。ヴァイオリン、チェロと最晩年の3つのソナタが入っており演奏の水準は高く録音も非常に音楽性が感じられるというのだから申し分がない。スタジオで丹念に作られた録音はそれ自身にアートとしての価値があると前回書いたがそれを地で行くようなディスクであり、異国の人間でもフランスの息吹を愛でられるこういうものが廃盤になってしまうという寂しい事態はフランス文化省も恥と銘ずべきだろう。

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クラシック徒然草 ―ドビッシーとインドネシア―

 

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ドビッシー 前奏曲集第1巻 (Préludes Livre 1 )

2016 APR 3 14:14:26 pm by 東 賢太郎

今度投資する事業の下見でソウルに出かけました。200の大学のアート系学部の優秀作品展示会に出かけましたが、そこの音楽部門の部屋に入ると壁に大きく文字があって、案内してくれたW君が笑いながら

「あれは ”音楽は唯一の合法的な麻薬である” という意味です」

と教えてくれました。うまいことを言うと唸ったもので、そして、「そうね、それなら僕にはドビッシーしかないけどね」と、口では言わなかったがそうも思ったのです。

ドビッシーの音楽は誰のとも似ず、和声に強く反応する性質の僕には秘密の効能があるのであって、僕は僕なりの色と温度を、曲によっては香りまでをはっきり感じます。それら五感を(ひょっとして6thセンスまで動員して)聴いている自分の脳を自分で意識する唯一の作曲家です。それがいかに特別のことか、うまく言葉になりませんが、イメージ喚起力と言ってしまうと、イメージ(image)はあくまで既知のもので、既視感をベースにしたものだからちがうのです。

彼は「イマージュ」(仏、Images)なる音楽を書いていて日本語で「映像」と訳されていますがこれは大変にミスリーディングで、子供のころこの題名を僕は「風景や人物の映像的な描写であって、それを鮮明でなく印象派風に輪郭の曖昧(あいまい)にしたものなのだろう」と解釈してました。ピンボケ画像やポルノの曇りガラスじゃあるまいし。全然ちがうのですね。Imagesは「心象」です、そう訳したほうがずっと良い。既知でも未知でも、心に喚起される何ものか、です。だから前奏曲集でもドビッシーは各曲のタイトルを譜面の終わりに付記しているだけです。僕は未知の空間、月面に立った心象みたいなものを浮かべて聴いてますが、それでもドビッシーは否定しなかったろうと信じてます。

そもそも印象派=曖昧ということ自体が誤解であり、そうきこえる曲もあるがそうでなくてはならないことはまったくありません。さらにいえば、音楽において日本語の曖昧という言葉自体が曖昧であります。だから僕が「そうきこえる曲」とした、例えば「牧神の午後」のような曲ですが、それは日本語の「曖昧」に近い心象を意図的に、極めて明晰な知性と技術でもって聴く者の心に発生させるべく設計した、ちっとも曖昧でない産物なのであって、霞の彼方に朧に浮かぶ風景を愛でる日本人が好む美感の産物ではありません。これはモネの絵にも当てはまることです。

そしてメシアン、ブーレーズまで行くと調性はなくなります。それでも「キリストの昇天」(L’Ascension )や「プリ・スロン・プリ」(Pli selon pli)などに僕は明確な色と温度を感じるのですが、それは彼らもドビッシーと同じく明晰な知性と感性でもって心象を聴き手の中に産み出すべくあらゆる技法を探究した結果ということです。そこに、僕という聴き手に限りかもしれませんが、色と温度が出てきてしまうことに、僕は彼ら二人が明確な証拠をもってドビッシーの末裔であるということを発見するのです。

以下、あくまで一人の聴き手の心象ということにすぎませんが、僕が本稿で何を主張したいかをお示しするために、それを日本語に描写してみます。

第1曲「デルフィの舞姫」(Danseuses de Delphesは紫色で春の気候です。それが第11小節で不意に冷たい風と共に銀色に変わります。第2曲「ヴェール(帆)」(Voiles)は黄緑で肌寒く、沈丁花の香りがあります。そしてだんだん黄色が増していきます。第3曲「野を渡る風」(Le vent dans la plaine)、これは白っぽい。第4曲「夕べの大気に漂う音と香り」(Les sons et les parfums tournent dans l’air du soir)は薄赤くてややひんやりした気候です。

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第5曲「アナカプリの丘」( Les collines d’Anacapriはこう始まりますが、これは心象が強く、オレンジ色で、乾いた暖かい空気に桃の花がほのかに香ってきます。

お釈迦様の蓮の花の風景かもしれない。こういう東洋的な痺れるような幻想をもたらすというと僕は他にオリヴィエ・メシアンの音楽しか知りません( メシアン トゥーランガリラ交響曲)。そして曲の最後の高音のファソラソファはまっ黄色に見えます。

これは旋法や和声の織りなす効果なのでしょうが、しばらく曲が進むとそういう原理を分析したい気持ちがどこかで麻痺して(たぶん左脳が止まって)、浮遊をはじめます。絵画のような景色としてアナカプリの丘が見えてくるわけでもなく、感じるのはただ色と香りと温度が醸し出す茫洋とした「雰囲気」だけです。

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第6曲「雪の上の足跡 (Des pas sur la neige)は寒い無風の灰色の世界です。香りは皆無。雪というよりもひとり月面に立ったらこんなかなという重力の希薄感です。第4小節の終わりのDmまで、音が3つ重なるのに何調かわからない。やっとGに安定したと思いきや右手が9度のa、次がFに増4度のh・・・と、いわば調子はずれのメロディーを乗せていって、もう降参です。和声音楽のように見せておいてそうでもなく、譜面だって僕でも初見でなんとかなる程度なのにじっと見ていると頭の中が訳がわからなくなって船酔いみたになる。まさに麻薬的音楽であり、希薄な和声感を最後の一音で覆す衝撃のDmは魂に響いて精神が凍りつきます。

第8曲「亜麻色の髪の乙女 」(La fille aux cheveux de lin第10曲「沈める寺」( La cathédrale engloutie)は明確かつ平明な和声音楽であって、僕は色も香りも温度も重力も感じません。この2曲で曲集が有名なっているとしたら妙なことです。第7曲「西風の見たもの(Ce qu’a vu le vent d’ouest)がいかに驚異的な音楽かは別稿にしました( ドビッシー 西風の見たもの)。これと「ヴェール」は本曲集の白眉でしょう。

第9曲「とだえたセレナード」( La sérénade interrompue)は「ペトルーシュカ」「春の祭典」へのDNAを感じる曲で、色は黒っぽい。後者のピアノ譜と書法の類似があります。ストラヴィンスキーが三大バレエを書いた時に上演予定のパリの楽壇を意識しなかったとは思えず、そこで大家であったドビッシーの直近の完成作品はこの曲集でした。その引力圏にあったことは想像され、雪の上の足跡」の和声は「火の鳥」に遺伝しているように思います。また第11曲「パックの踊り」(La danse de Puck)は金色で、自作の交響詩「海」の書法を引き継いだ驚くべき作品です。第12曲「ミンストレル」(Minstrels)は炎のような赤で暑い。

以上、主観に終始しましたが、ドビッシーの鑑賞はそれしか表現の術がありません。

名曲ゆえ名演はたくさんあります。最も好きなユーリ・エゴロフ盤は ドビッシー 西風の見たものをご覧ください。

 

アナトリー・ヴェデルニコフ(pf)

31C7M6T70QLロシアの伝説的ピアニスト(1920-93)の89年の録音(音良し)。やや暖色で深みのあるタッチで光と影の陰影まで見事に描いた最高級の名演。「沈める寺」の最初の和音ひとつとっても何とよいバランスで出ることか(そして地響きするような低音の威力!)。ミンストレルのタッチなど最高度の技術なき人から聴くことはまずないという質のもので、彼のドビッシー「12の練習曲」のレコードはあのリヒテルが愛聴していたそうです。ぜひお聴き下さい。

ディノ・チアーニ(pf)

zb2118078デリカシーの極み。コルトーの弟子で32才で交通事故のため夭折したチアーニ(1941-74)の最高の名演。デルフィの舞姫をこんなに詩的に奏でた人はいないでしょう。亜麻色の乙女の気品たるやふるいつきたくなる魅力があり、両曲ともこういうテンポ、流儀で弾くとお子様向けの砂糖菓子になりがちですが、なぜかそうならないのが品格というもの。持って生まれたものは争えないということです。西風の見たものの研ぎ澄まされた切り込みなど、全てにおいて超ド級のレベルを保ち、彼が生きていたらポリーニは危なかったと言われたらしいですがそれはポリーニに失礼でしょう。違う人たちであって、ただ、人気が食われたという意味ならそうかもしれません。

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(pf)

81oVpH4IzsL__SL1500_1985年にミケランジェリ(1920-95) の実演をロンドン(バービカン)で聴いて、それも前の方で彼を背中から見る位置で、まさに夢のような時間を過ごしました(前の席にブレンデルがいた)。魔術師の錬金術でも観る雰囲気で、ドビッシー前奏曲第2巻はご馳走でした。ここでもそれは全開で、ヴェール(帆)は黄泉の国の蓮の池で見たことのない鳥が舞いアナカプリの丘の音彩(右手のタッチのパレット)の豊富さは驚異的で、僕はこれはヘッドホンで楽しみます。沈める寺の聖歌のように交唱するeとd#の短2度の余韻!その「うなり」の回数まで計算され尽くしているかと思われるほどの凄みで、au Mouvtの左手の低音域の弱音(pppp!)などピアノでこんな音が出るのかという領域です。最高の知性、感性による最高のコントロール。ホンモノの音楽はそのどれが欠けてもできないという厳然たる事実を世につきつけた録音でありました。ロンドンでも僕はピアノの横に立って、弦を覗きこみながら聴きたい願望にかられたのを覚えてます。

サンソン・フランソワ(pf)

012イマージュの喚起力の潤沢な演奏というとこれになりそうです。「ヴェール」は実は書法が緻密ですが、それがそう聞こえずに詩になってしまう。こういうところがフランソワの魔力なのです。夕べの大気に漂う音と香りの出だしのルバートは妖気をはらみ、アナカプリの丘の楽譜部分は神話を思わせ香気に満ちています。Retenuの部分、和音がBからAになる、ここの麻薬的効果は凄いものですが、フランソワのここの表情こそ天国の花園でしょう。雪の上の足跡を印象派風(間違った意味での)に弾いた灰色の世界も魅力的で、西風の見たものは幻想交響曲みたいに妖怪を思わせます。録音はあまりよくありませんが最も色と温度を感じる一枚です。

アルド・チッコリーニ(pf)

414Y2BASJEL1991年の録音。チッコリーニは東京で一度だけ聴きました。ファッツィオーリの音が煌めきました。ドイツ、スイス時代にこのドビッシーは車に常備していて、毎日のように聴いた時期がある、僕にとって家具のようなものでした。西風の見たものが凄いです。彼のタッチはエラールを弾くようなフランス風の軽いものでなく、低音は重いのです。和音を崩す傾向があって、自由な解釈ですが恣意的という印象がなく、一家言ある演奏です。

 

 

スタニイ・デーヴィッド・ラスリー(pf)

71jLMpJiRmL._SL1080_このCDの売りは楽器がドビッシー時代のエラール(1874年製)なこと。ベートーベンがワルトシュタイン、熱情を書いたのもエラールです。音は減衰がやや速く、音色はくすんでいます。速いパッセージは少しぽこぽこした感触で、それはそれで古雅なイメージがあって魅力があり、高音は充分な煌めきがあります。リストが好んで弾いたピアノで僕はパリでリストに縁が深いエラール本社(跡)も訪問しました。ラスリーの演奏は特にどうと言う特徴はありませんがエラールの美音を味わえるものです。

(こちらへどうぞ)

ドビッシー 西風の見たもの

 

 

 

 

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ドビッシー 「3つの夜想曲」(Trois Nocturnes)

2015 JUL 8 8:08:18 am by 東 賢太郎

僕は70年代のブーレーズのLPでいろんな曲を初めて知り、耳を鍛えられた者なので良くも悪くも影響を受けていますが、その後者の方がこれです。この曲が好きな方は多いでしょう。クラウディオ・アバドはこれが振りたくて指揮者になったとききます。

しかし、僕はだめなのです。どうも真剣になれない。「海」(第1楽章)と「牧神」はシンセでMIDI録音するほどはまりましたが、これはまったくその気なしです。随所に好きな、というか好きになっていておかしくない和声や音響はあるんですが。

IMG_8832cそれはおそらくブーレーズの演奏(右がLP)がつまらなかったせいと思います。彼も万能ではなくて、牧神もポエジーに乏しくていまひとつですが「夜想曲」はさらにそのマイナスが出ていて、音に色気、霊感がないのです。

ちなみに「遊戯」の冒頭部分などお聴きなってください、春の祭典の最初の数ページに匹敵する素晴らしさです。倍音まで完璧に調和するピッチ、精巧な楽器のバランス、神経の研ぎ澄まされたフレージング、聴く側まで息をひそめるしかない緊張感!

こんなに「そそる」音楽が出てくる録音はそうあるものではなく、これを今どき多くなっているライブ録音CDと比べるならプロ写真家の式典写真と素人のスマホ写真ぐらいの差があります。それと比較してこの「夜想曲」は同じ指揮者とオケ(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)とは信じがたい。

録音プロデューサーが海、牧神、祭典とは別人でテクニカルな理由もあるかもしれません。とにかくブーレーズを神と崇め、LPはどれも微細なノイズまで耳を凝らして聴かされてしまっていた当時の僕が何回聴いてもそういうことだったので、そこには何か峻厳たる理由が横たわっていたに違いなく、本稿はその関心から書いています。

「夜想曲」の着想はペレアスを書いている1893-4年ごろと考えられています。第3曲シレーヌ (Sirènes)にヴォカリース(母音唱法)の女声合唱があるなどその一端を伺えます。これはラヴェル(ダフニス)、ホルスト(惑星の海王星)などに影響したでしょう。

最も驚くべきは第2曲祭 (Fêtes)の中間部でppのトランペット3本を導入する低弦のピッチカート、ハープとティンパニがpppでおごそかな行進のリズムを刻む部分です。

nocturn

これは春の祭典の「祖先の儀式」(楽譜下)になったに違いないと僕は思います。

rite

こういう想像を喚起するだけでも「夜想曲」に秘められた作曲者の天才の刻印とその影響ははかりしれませんが、同時期の作曲でそれが最も認められるペレアスのスコアと比べるとこれは若書きの観が否めません。ぺレアスと同次元に達している管弦楽曲は「海」であると僕は確信します。

ということですが、全部ブーレーズに責任があるわけではなく僕自身が夜想曲のスコアからマジカルなものを見いだせていないということでもあります。いいと思うのはシレーヌの最期の数小節ぐらいです。主だった録音は持っていますし実演も聴いていますが、どうしても自分の中からは冷淡な反応しか得られない。

こちらはラヴェルによる二台ピアノ編曲で、僕はこっちの方が好奇心をそそられ満足感が高いです。

(補遺、15 June17)

そのブーレーズCBS盤です。これも発売当時の世評は高かった。僕の趣味の問題かもしれず、皆様のお耳でご検証を。

音響的にゴージャスで耳にやさしいのはシャルル・デュトワ/モントリオール響の録音でしょう。これが世に出た80年代初期、ちょうどLPからCDに切り替わる時期でクラシックのリスナーにとっては革命期でした。CD+デジタル録音というメディアにまだ一部は懐疑的だった世評も、このデュトワの見事な音彩とDeccaの技術によるアナログ的感触は批判しきれなかったと記憶します。

ドビッシーというのはラヴェルに比べてフランスの管と親和性が希薄で、ロシアはさすがに抵抗があるがドイツ、中欧のオケでもいいものがあります。クリュイタンス/パリ音楽院管やミュンシュ/パリ管の艶っぽい管に彩られたラヴェルを信奉する人たちからもドビッシーでそういう主張はあまりききません。ベルナルト・ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管(ACO)のこれはその好例で、名ホールの絶妙のアコースティックが見事にとらえられ、ほの暗い音彩で最高にデリケートで詩的な管弦楽演奏が楽しめます。ノクターンの夜の質感はフレンチの管でなくACOの方に分があると僕は感じます。技術的にも音楽性も最高水準にあり、ハイティンクという指揮者の資質には瞠目するばかりです。ちなみにこれの発売当初(1979年ごろ)、日本の音楽評論家は彼を手堅いだけの凡庸な中堅指揮者と半ば無視していたのでした。

(補遺、17 June17)

ヨーゼフ&ロジーナ・レヴィーン(pf)

モスクワ音楽院ピアノ科の金メダリストはアントン・ルービンシュタインからの伝統の系譜、ロシア・ピアニズムの真の後継者です。このご夫妻は両者がそれであり、僕にとってレジーナのショパンP協1番はあらゆる録音でベストです。これはラヴェル編曲の「祭り」で黄金のデュオの音彩は見事の一言に尽きます。

(参考)

ドビッシー 交響詩 「海」

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

 

 

 

 

 

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僕が聴いた名演奏家たち(ルドルフ・フィルクシュニー)

2015 JUN 24 22:22:25 pm by 東 賢太郎

Firkusny

ルドルフ・フィルクシュニー (1912-94)はチェコを代表する名ピアニストです。日本ではフィルクスニー(ドイツ語)で知られますが、チェコ語はフィルクシュニーです。あまりご存じない方が多いでしょう。ぜひこれを機に知ってください。彼は、全ピアニストのうち僕が最も好きなひとりであります。

1978年、大学4年の夏休みに1か月ほどバッファロー大学のサマーコースに参加しました。いわゆる語学留学というやつで、本来こんなのは留学とはいいません、ただの遊びです。それでも2度目のアメリカ、初めての東海岸は刺激に満ちていました。

ボストンからサラトガスプリングズを経て、ボストン交響楽団がボストン・ポップスとしてサマーコンサートをやるタングル・ウッドへ。そこで幸いにも小澤征爾さんが振ってルドルフ・フィルクシュニーがソリストのコンサートを聴けました。

芝生にねころんで聴いたモーツァルトのピアノ協奏曲第24番。調律が悪いにもかかわらず、アメリカンなあけっぴろげムードにもかかわらず、きっちり覚えてます。オケだけのプログラム後半は何やったかも忘れてしまったのに。当時から24番は好きだったようでもあり、この演奏でそうなったかもしれません。これがこのブログに書いたコンサートでした。 クラシック徒然草-小澤征爾さんの思い出-

フィルクシュニーは有名なシンフォニエッタを書いたヤナーチェックの弟子というより子供のようにかわいがられた人です。ルドルフ・フィルクスニー – Wikipedia こうして彼のライブを聴けたというのは間接的にではあっても音楽史というものとすこし濃い時間を共有できたような、ありがたい気持ちがいたします。

ライブの24番がそうでしたが、彼のモーツァルトは短調と共振します。幻想曲ハ短調K.475をお聴き下さい。この曲にこれ以上のものを僕は探す気もありません。ここには魔笛とシューベルトの未完成が出てくるのにお気づきですか?

彼がコンチェルトの20番、24番はもちろん、ブログに既述のような深いものを孕んだ25番を愛奏したのはいわば当然の嗜好と思われます。20,24,25!もうこれだけで何が要りましょう。いま書いた6つの傑作。フィルクシュニーは全音楽の座標軸でこの6曲がある「そこ」に位置している音楽家なのです。そうして「そこ」こそが僕が最も共振する場所でもある。このピアニストを尊敬し、彼の録音を愛好するのは鳴っている音ではなく、人間としての相性だと感じます。

そして冬の澄んだ空のような透明なタッチが叙情と完璧にマッチしたブラームスの協奏曲第1番!名手並み居るこの曲の最高の名演の一つであります。

フィルクシュニーのタッチがフランス物に好適でもあるのはピアノ好きには自明でしょう。僕なりに長らくピアノと格闘していまだ自嘲気味の結果しか得ていないドビッシーの「ベルガマスク組曲」。フランス的ではなく東ヨーロッパの感性です。この「メヌエット」の音の綾のほぐし方、オーケストラのような聴感!技巧でどうだとうならせる現代の演奏とは一線を画した格調!「パスピエ」の節度あるペダル、そして感じ切った和声の出し方!チッコリーニとは対極ですが、どちらも多くのことを教えてくれます。

そして最後にこれをご紹介しないわけには参りません。師であるヤナーチェックの「草かげの小径」です。この録音は、音楽を長年かけて内面化しきった人でなければ聴かせようのない至福の時間を約束する演奏の典型です。夭折した娘を送る曲なのですが悲哀はあまり表に立たず、かえってやさしさがあふれることで純化した哀悼の精神をたたえています。美しい和声とヤナーチェック一流の語法で彩られた傑作中の傑作です。フィルクシュニーの表現はスタンダード、珠玉の名品などという月並みな美辞麗句を超越した美としてどこを聴いても耳をそばだてるしかないもの。価値が色褪せることは永遠にないでしょう。

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ドビッシー 交響詩「海」再考

2015 MAY 23 0:00:49 am by 東 賢太郎

自然の風景というと我々日本人には山、川、海は定番でしょう。なかでも海は、「海は広いな大きいな」「我は海の子」なんて懐かしい唱歌もあれば(僕は嫌いでしたが)、我が世代には加山雄三やサザンもありました。男のロマンをかきたてるものを感じるという文化ですね。

ところがクラシック音楽は川(ライン、ドナウ、モルダウ、ヴォルガetc)の音楽はあっても意外に海は少ないですね。ユーラシア大陸の北辺は氷結した海であり、南辺の地中海はカルタゴやイスラムと闘う辺境だった。ロマンをかきたてる存在ではなかったのではないでしょうか。海岸線の長さランキングで日本は世界第6位なのに対し、イタリア15位、フランス33位、ドイツ51位というのも関係あるかもしれません。

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ドビッシーが「海」を書いたのは、ですから西洋音楽の視点からはやや特異と思います。彼は8才の頃にカンヌに住んで海を見たはずですが、この交響詩は単にその印象を描写したものではありません。彼は「音楽の本質は形式にあるのではなく色とリズムを持った時間なのだ」という哲学をもっていました。この曲における海は変化する時空に色とリズムを与える画材であり、それはあたかもクロード・モネが時々刻々と光彩の変化する様をルーアン大聖堂を画材に33点の絵画として描いたのを想起させます。この連作が発表されたのは1895年、海の作曲が1905年。ドビッシーはこれを見たのではないでしょうか。左が朝、左下が昼、右下が夕です。

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これをご覧になった上でこのブログをぜひご覧ください。2年半前のものですが特に加えることはありません。

 ドビッシー 「3つの夜想曲」(Trois Nocturnes)

色とリズムを持った時間」!モネの絵画というメディアが33の静止画像だったのに比べ、ドビッシーの音楽は25分の動画です。それも情景の変化を印象派風に描くのではなく、音楽の主題を時々刻々変転させて時間を造形していく。それによりほんの25分に朝から夕までの時間が凝縮されます。第1楽章コーダの旋律が第3楽章コーダで再起し、音楽の時間は円環系に閉じていますが、それはモネの絵のように同じ情景を見ているという感情をも生起させるのです。

交響詩「海」はどの1音をとっても信じ難い感性と完成度で選び置かれた奇跡の名品です。全クラシック音楽の中でも好きなものトップ10にはいる曲であり、これが完成された英国のイースト・ボーンの海岸にいつか行ってみたいと望んでいる者であります。

ブログに書きました、僕のアイドルであり当曲の原点であるピエール・ブーレーズの旧盤(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)です。

ウォルター・ピストン著「管弦楽法」にはこの曲からの引用が14カ所もあり、その幾つかはドビッシーのオーケストレーションの革新性を理解させてくれます。たとえば、第1楽章、イングリッシュホルンとチェロ・ソロのユニゾンブーレーズの6分52秒から)が「1つのもののように混り合い、どの瞬間においてもいずれか一方の方が目立つということがない」(同著)ことをMIDI録音した際に確認(シンセの音でも!)しましたが、その効果は驚くべきものでした。

これまた予想外に溶け合うイングリッシュホルンと弱音器付トランペットのユニゾンもあり、不思議な色彩を生み出している。まさに「時間に色をつけている」のです。第2楽章のリズムの緻密な分化と変化、それに加わる微細な色彩の変化と調和!音楽史上の事件といっていいこの革命的な筆致の楽章に「色とリズム」が時間関数の「変数」としていかに有効に機能しているか、僕はこのブーレーズ盤で学んだのです。

ブーレーズはyoutubeにあるニューヨーク・フィルのライブ映像で細かい指揮はしてないように見えるのですが鳴っている音は実に精密に彫琢され、それでいて生命力も感じる。そして魔法のような管弦楽法による色とリズムの調合がいかに音楽の欠くべからざる要素として存立しているか。オケのプレーヤー全員が指揮から学習した結果なのでしょう。極上の音楽性と集中力を引き出している指揮者の存在感。凄いの一言です。

他のものは譜読みが甘くほとんど心に響くものを感じませんが、これはいいですね。ポール・パレー/ デトロイト交響楽団の演奏です。指揮者の常識とセンスと耳の良さを如実に表しております

(こちらへどうぞ)

 

ドビッシー映像第1集(Images,Book 1)

 

 

 

 

 

 

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ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団をきく

2015 FEB 21 22:22:24 pm by 東 賢太郎

N響できいて注目したトゥガン・ソヒエフを聴きたかった。プロは、

ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲

サン=サーンス : ヴァイオリン協奏曲 第3番 ロ短調 Op.61( Vn: ルノー・カプソン)

ムソルグスキー ( ラヴェル編曲 ) : 組曲 『 展覧会の絵 』

またまたサントリーホールであった。初めて聴いたオケだが、管楽器の音は昔のフランスの楽団とはずいぶん変わってユニバーサルなものに接近している。同じことは旧東独のオケやロシアにもいえるからフランスばかりではないが、僕らが若い頃にLPレコードで聴いたパリ音楽院のオケやドレスデン・シュターツ・カペッレの個性的な音色はもはや見事に消滅している。それを寂しいと思うのは古い人間だろうか。

失礼ながらパリはそうでもちょっと田舎のトゥールーズぐらいなら、という淡い期待は叶わなかった。だが、それはそれとして、牧神のフルート・ソロの柔らかい音はいきなり耳を惹きつけたから文句はない。まったりした質感が心地よいではないか。木管群はオーボエとピッコロ以外は全部女性だ。コンマスも美人の女性。こういう景色も悪くないが、やっぱり僕がヨーロッパに住んでいた頃はあんまり想定できないものだった。

特にうまいということもなく金管にミスもあったが、聞きすすむにつれオケ全体の特徴も冒頭のフルートと似て、弱音でふわっと立ち上がる時のまろやかな空気感が特徴だということがわかってくる。ソヒエフがそういう音造りをしていたのかもしれないが、カラヤンとベルリンフィルの音の立ち上がりを思い出した。

サン・サーンスは第2楽章がいいがトータルとしては僕は結局あまり夢中になれずに終わった曲だ。カプソンは音に芯がありながら柔らかく、音量も豊かで、ずっと聞いていたい魅力ある音色を持つ。アンコールはグルックの歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』の精霊の踊りからクライスラーが抜粋した「メロディ」と呼ばれるもの。僕はこのオペラにモーツァルトの「魔笛」に通じるものをたくさん感じるが、この曲は第2幕でパミーナが歌うハ短調のアリア「「ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが」 (Ach, ich fühl’s)にそっくりだ(和声まで)。無伴奏で弾いたカプソンの音は和声を髣髴とさせる倍音豊かな美音で、これは聞きものだった。

展覧会の絵は一転して管楽器がカラフルな色彩を発散し、ああやっぱりフランスのオケだと思った。古城のサクソフォーンはとろけるように美しかったし、ソヒエフのメリハリある指揮はソロを中心としたアンサンブルを室内楽的にうまく目立たせながら弦は常にバランスよく鳴らし、リズムのばねは強靭な推進力を持つという独特な運動神経を感じるものでN響とのプロコフィエフと共通するもの。ただ音楽が対位法的でなく、彼の面白さが充分聴けたわけではない。

アンコールのオペラ『カルメン』から第3幕への間奏曲 、またまた絶美のフルートとハープの合奏はうれしい。この音楽、対旋律に回ってからのフルートの音選びなど、どうということなく聞き流してしまう部分なのだがいつ聴いても頭が下がる。そうそれしかありえないという音を辿っている。ビゼーの作曲の技は本当に凄い!この演奏は聞きものだった。最後はやはりカルメンの第1幕への前奏曲。これまた颯爽と速めのテンポで走る「弦の発音の良さ」に舌を巻く。うーん、これぞビゼー、これぞカルメンでなないか。聞き飽きた展覧会よりこっちを全部やって欲しかったかな。今度はソヒエフでカルメンを全曲聴いてみたくなってしまった。

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