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クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

2013 AUG 4 1:01:12 am by 東 賢太郎

交響曲第6番パストラル(Pastoral)はベートーベン自身が名づけた2つしかない器楽曲の一つです(もう一つは告別ソナタ)。この表題を「田園」と訳すと、田舎の風景に感動した彼がそれを描写した音画のようにきこえますが、Pastoralは古来よりヨーロッパにある文学、詩歌、絵画、音楽の総合様式の名称でありますから、本来は交響曲第6番「パストラル風」とでも訳すべきものではないでしょうか。1785年に発表されたクネヒトという作曲家の「自然の音楽的描写、または大交響曲」が6番とそっくりの表題をもった5楽章の曲であり、ベートーベンがこれを知っていたことはほぼ確実視されています。だからこそ彼は自らあえて「・・・風」と命名し、5楽章を踏襲してそっくりのプログラムまで加えておいて、「これは音楽による風景描写ではない」とわざわざ断ったのではないでしょうか。それはヴィヴァルディ「四季」、JSバッハ「クリスマス・オラトリオ」、ハイドン「四季」などを経て数多存在し、クネヒトのような作品につながった器に「新しい酒」を盛ってみせるという挑戦状だったように思います。

「・・・風」と言った場合、それは「・・・」ではないのです。それを借景としているだけであって。ノッテボームによればスケッチ帳に曲名を何としようか試行錯誤した形跡があるそうです。そのなかに「Sinfonia caracteristica-oder Erinnnerrung an das Landleben」(性格的交響曲-あるいは田園生活の思い出」というのがあります。 caracteristicaが性格的は苦しいですね。「特別な性格の刻印のある交響曲」といったほうが正確でしょう。「田園交響曲、音画にあらず、田園の享受が人々の心に呼び起こすところの感情が表現されている-そこで二三の感情が描写される」ともあります。第2楽章、第4楽章で鳥の声や雷鳴が描写されているのですがそれは劇のト書きにすぎません。彼はそれを聴かせたいのではなく、それらが喚起する心象風景を音で描くというロマン派音楽の萌芽ともいえる革命的なチャレンジをしているのです。

第6交響曲は、緊張度の高い5番の路線に疲れて気晴らしに書きましたというような安楽な作品ではありません。これも5番の向こうを張る大交響曲であり、見れば見るほど、聴けば聴くほど、その堅固な構造と周到な作曲プランの独創性に驚かされます。冒頭にこのようなメイン・ステートメントとなる主題がいきなり提示されフェルマータで引き伸ばされるのは5番と同じです。

prt-6

 

 

 

 

 

この山型の弧を2度えがく主題がこの楽章でいかように音列の素材として、また分解されてリズムの部品として何度も何度も繰り返し使われていくのか。第九を暗示する左手の空虚5度(ドローン)が第3,5楽章でいかに和声に意味深い滋味を加えるのか。こういう側面からの分析は先人がやり尽くしてる観があります。

5番も6番も、冒頭素材が生まれながらに内包している音の指向性に添って全体が組み立てられているのは同じです。ところが5番は内側に凝縮、6番は外側に拡散という正反対の性質の素材であり、その結果前者はエネルギーと推進力、後者はゆらゆらと浮遊するような歌謡性という形質を得ることになったように思えます。さらに見れば、5番は建築的な論理構造をもってソナタ形式と不可分に結合していますが、6番はそれがソナタ形式で書かれていることを構造的にも和声的にも忘れてしまうほどゆるやかな形をしています。ベートーベンはエロイカの終楽章に変奏曲を持ち込みましたが、僕はこの田園交響曲にも変奏曲の要素と精神を強く感じるのです。

「変奏こそ、技法的に提示されたベートーベンの創造の核心なのであり、変奏の精神は彼の全生涯を貫いて作品に現れている」(吉田秀和著・ベートーベンを求めて)。ウィーンに出てきたベートーベンはまず即興演奏の名人として有名になります。自作または他人のテーマを自由に即興的に変奏して感銘を与えることで貴族社会に知られていったのです。「彼の即興演奏は非常に輝かしく感動的なものだった。彼はどんな集まりでも、聴き手のすべての目に涙を浮かばせ、なかには声を立ててすすり泣く人もいるほどだった。」(同書によるランドンの引用)。ところがです。「この即興演奏が終わると、彼は大声で笑い出し、自分が引き起こした感情にひたっている聴衆を冷やかすのが常だった。『君たちはバカだ。こんな甘やかされた子供たちといっしょにいられるものじゃない』と彼は叫ぶのだった」(同)。田園交響曲の引き起こした感情にひたっている我々を彼はこうして冷やかすのでしょうか?

田園交響曲が引き起こすある特定の感情。これがどうやってどこからやってくるのか?少なくとも僕は誰かがそれを指摘したのを読んだことがないのですが、その解答のひとつと僕が信じているこのシンフォニーのある重要な特徴について書きたいと思います。それはこの交響曲全編にわたって「トニック(ド)→サブドミナント(ファ)」という進行が支配的であり、「ドミナント(ソ)→トニック(ド)」が決定的に支配している5番と好対照であることです。6番においてはもうすべての音がサブドミナントの方へ特別な引力で引っ張られているといって過言でないほど。こんな音楽は珍しいのです。なぜならソ→ドの解決こそ西洋音楽の文法のイロハのイだからです。音の万有引力の法則と呼んでもいい。あー曲が終わった、という感じがしますからクラシックはこの進行で終わるケースが多いのです。ところが6番の最後はミ→ドで締め。そうではありません。これは第2楽章で鳴いていたカッコーのエコーです。なんておしゃれな終わり方でしょう。反対に5番はソ→ドの嵐です。これでもかといわんばかりに。おれたちは万有引力から逃れることはできないんだ、これが宇宙の原理なんだ運命なんだと説きふせられて終わるのです。

ちょっとわかりにくいですね。おなじみの例で示しましょう。学校の始業式なんかで校長先生が出てきて「起立」と号令がかかって、ピアノが弾くあのC-G-Cの3つの和音があります。Gで「礼」をしますね。では校長のご講話をという落ち着いたムードになります。ではここでC-F-Cと弾いたらどうでしょう。ぜひお家のピアノで試してください。まず、Fで頭を下げるのはちょっと変ではないでしょうか。僕はむしろ上を見上げたくなります。それから、これが重要ですが、Fで落ち着かない感じがしませんか。次にCに戻ってもいいのですが、必ずCに戻るという感じが希薄になります。これがGだと、「次はなに?Cしかないでしょ!」というとても頼りになるお導きを感じますね。これが「音の万有引力の法則」と僕が勝手に名づけたものです。ドミナント(ソ)はトニック(ド)の引力に強力に引きつけれらるのです。C→Fだとご講話どころか「さあ遠足だ」の気分です、もう今日は学校には戻らねえです僕などは。そういう悪がきをご講話にしっかり戻すにはFの後にGをもってきて、その引力でCに戻さないといけないほどFは外交的でふらふらして、しかしその反面 「明るくて希望を感じさせる」 効果があります。

もっとはっきりした例をお見せしましょう。坂本九さんの「上を向いて歩こう」を歌ってみて下さい。サビのところです。「幸せはー雲のー上にー」。この「幸せはー」がF(サブドミナント)なんです。パッと明るく希望の光がさします。これぞC→Fの希望効果です。ところがその次。「幸せはー空のー上にー」今度は「はー」が半音下がってFmになって、すぐに幸せに陰りが出ます。「希望」と「不安定」、お感じになれますか?もうひとつ。ビートルズのA Hard Day’s Nightです。

It’s been a hard day’s night, and I’d been working like a dog
It’s been a hard day’s night, I should be sleeping like a log
But when I get home to you I find the things that you do
Will make me feel alright

青字のところはFです。 声はソを歌っているのに!(Fはファ・ラ・ドです。ソは入ってません)。「いやー今日は疲れたぜ。犬みたいに働いてもう丸太みたいに寝るだけだ。」そう歌っています。そうでしょうか?そうではない。だから But とくるのです。家に帰ると君がいて元気にしてくれるから・・・。 day’sにF(=希望)が鳴るからです。嘘だと思ったらFの代わりにGで弾いてみてください。ホントに疲れて、あーもう今日は寝るだけだー、Good night。君の顔を見る前に丸太になっています、僕は。このワンコーラスでGはたったの一回しか出てきません(イタリック部分)。万有引力をぶっちぎって校長先生ではなく遠足気分なんです、この男は。

だいぶ脱線しました。万有引力で田園交響曲にもどりましょう。もういちど、上の譜面を見てください。このメロディーを歌ってみましょう(移動ドで)。

ミーファーラーソーファミレーソードーレーミーファミレー

この節ですが何かに似ていませんか?これです。

ミーファソソファミレドドレミミーレレー

なんだ。第九じゃないか。どこが似ているんだ?嘘だと思われてしまいそうですね。そういう方は、最初に出てくるソをラに替えて歌ってみてください。ミーファソファミレ・・・・。どうです、似ているでしょう?2番目と3番目の音、ファとラは左手のドと一緒になってFを構成します。ところが第九のこの有名なメロディーはほとんどCとGの和音だけです。Fというとはるか先にサビに一回出るまではまったく出てこないのです。だからこのソをラに替えると急にFの色が現れます。魔法のように。そしてそれが田園交響曲を連想するメロディーに聴こえてしまう。いかに6番がFの色が濃い音楽か、そしてそれが無意識に皆さんの記憶にしっかりと刻まれているか、ご理解いただけるでしょうか。

Fの希望効果。都会から出てきてハイリゲンシュタットの田園風景にふれたベートーベンの心の喜び。同じ場所で数年前に遺書まで書いた男が新たに生きる希望をもって、自分はこんなに元気になったと世に問う自らのポートレイト。それが6番ではないでしょうか。第3楽章スケルツォの農民の踊り。第165小節から220px-B6-3_Scherzo_2.4_Piano始まるトリオはびっくりです。4分の2拍子の素朴かつ力強いスフォルツァンドで16小節にわたってC→F→C7→Fというコード進行です。Gは出てきません。Cがセブンスになるので一瞬あたかもサブドミナント(F)に転調したかのような宙ぶらりんの感覚になります。希望のFにいつまでもい続けたい!この曲のサブドミナント指向の象徴的な場面です。この部分の伴奏のクラリネットをよくお聴きください。非常にビートルズ的です。レノン-マッカートニーのハモリに聴こえるぐらい。この楽章ですが最後になって急にプレストになります。嵐が近づいて雨がぱらついてきたな!すぐわかります。ここはこの交響曲で最も描写的だと僕が思っている部分で、踊っていた農民はクモの子を散らすように退散するのです。

第4楽章は増4度の和音が鳴り響きます。嵐です。ソ・ド・ファの4度、5度の調和が破れ、ティンパニとピッコロが雷鳴を暗示します。ここのスコアはベルリオーズの幻想交響曲の終楽章そっくりです。音の効果でいえばロッシーニのウイリアムテル序曲、メンデルスゾーンのスコットランド交響曲、リムスキー・コルサコフのシェラザードなど遺伝子の伝播は数えたらきりがないほど。そして農民が退散→雷鳴→牧歌という起承転結は鮮やかで、このコントラストが第5楽章の神への感謝の気持ちを高めています。まずクラリネットが第1楽章冒頭と同じくドとソの空虚5度のヴィオラのドローンにのってハ長調の牧歌を奏でます。次にそれがホルンに受け継がれるとチェロがppでそっと低いファを入れます。増4度の支配する不均衡はファ+ド+ソの5度+5度という神の調和に完璧に収斂していくのです。雨上がりの森や丘に金色の陽光がさしこんだような神聖で荘厳な効果は息をのむばかりです!なんてすばらしいんだろう。蛇足ですが、農民が退散→雷鳴→牧歌からこの部分への効果と心象風景が見事に遺伝しているのがストラヴィンスキーの火の鳥のフィナーレなのです。

第5楽章が希望のFに満ちあふれていることはいうまでもありません。喜びに満ちて歌われるこの牧歌主題はモーツァルトのピアノ協奏曲第27番のロンド主題、あの歌曲K.596「春への憧れ」に転用された主題のリズムを想わせます。そしてこの主題についている和音はC-F-G-C-Am-F-Gですが、C-Am-F-Gはモーツァルトが偏愛した和声連結でもあります。結構長くなりました。まだまだこの曲について書き残したいことは山ほどあります。この交響曲は僕が最も愛するものの一つです。これを聴いて頭に体に感じる満足感というのはまた5番のそれとはちがったもので、ベートーベン以外を見渡してもほとんど類のないものです。ベートーベンには冷ややかに「君はバカだ」といわれそうですが、同じバカなら聴かなきゃ損、損です。

そしてこれが残した最も優れた直系の子孫こそ、やはり僕が愛するシューマンの交響曲第3番なのです。それについてはこのブログに書きましたので是非お読みください。

 

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第3楽章)

 

 

(追補)

冒頭主題(下)において、第4小節で一度和音はドミナントに移行してフェルマータで長く伸ばされる。小さいがとても深い沈静感と充足感が交響曲の頭でいきなり訪れるという開始はめずらしい。次に第5小節で和声はF→B♭(つまりC→F)となり、第6小節でヴィオラがe(ミ)、つまりドミナントへ行くが、バスであるチェロはそれを無視してf(ファ)、つまりトニックのまま居座ってしまうため「長7度」という不協和音が鳴る(楽譜の赤丸部分)。

 

pastoral

ここをピアノで弾いてみればわかる。これが不協和音に聴こえないのだ。僕の耳には、「安寧のドミナントへ行くのはまだはやい。これから楽しいことがあるんだ。」と聴こえる。バスのファ(トニック)がそうやってムードを押し戻して主張している。

これと同じことが第5楽章の始めで起こる。まず第1-4小節でクラリネットがハ長調の分散和音のテーマを出す。バスはヴィオラのドとソである。このテーマを第5小節からホルンが受け継ぐと、バスにチェロのファがそっと加わる(赤い部分)。

 

pastoral2

テーマはミの音を避けるので長7度は鳴らないが、ハ長調(つまりドミナント)の根っこに和声外音のファ(トニック)が神様の陰のように現れる効果は筆舌に尽くしがたい。「安寧のドミナントへ行くのはまだはやい。これから楽しいことがあるんだ。」という天の声が僕には聞こえてくる。僕は仏教徒で聖書もまともに読んでいないが、ここはキリスト教的な雰囲気を感じる。信者にとってこの部分はどう聞こえるのだろう?

 

そして第5楽章のコーダに至る。

pastoral3

すべては静まって、いよいよ終わりの時を迎える。和声はF→C→F→B♭→C→Fとなり、一度だけサブドミナント(B♭)で上を見るが、すぐにドミナント(C)に打ち消されて鎮められてしまう。安寧のドミナントの時がやってきたのである。思い出していただきたい。F→C→F。これは「校長先生へのお辞儀」の和音だ。遠足は終わったのである。

(こちらへどうぞ)

ベートーベン交響曲第6番の名演

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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