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カテゴリー: ______ロシア音楽

ムソルグスキー 組曲「展覧会の絵」

2016 APR 6 21:21:26 pm by 東 賢太郎

mussorgskyこのピアノ曲集がモデスト・ムソルグスキー(1839-81、右)の親友だった画家ヴィクトル・ハルトマンの遺作展を歩きながら、そこで見た10枚の絵の印象を音楽に仕立てたものであることは有名です。それらの絵を見せるブログはいくらもありますから検索してください。

「珍衝撃映像ナニコレ珍百景」なるバラエティ 番組を見ていたらに「キエフの大門」のクライマックスを何度も聞かされ閉口しました。ムソルグスキーの書いた音楽がいかにミーハー的にもインパクトが強いものであるかということですが、そうやって150年近くも後になっても誰でも覚えられてテレビで流してくれる音楽を書くというのは大変な才能だと思います。

指摘したいのは、この曲がもともとピアノ曲であり、1922年にクーセヴィツキーの依頼を受けたモーリス・ラヴェルのオーケストラ編曲によってパリのオペラ座で初演され一気に有名になったことです。原曲はムソルグスキーの存命中は演奏も出版もされず埋もれたままで、友人だったR・コルサコフ(以下R)が遺稿から発見して作曲家の死後5年たってようやく出版されたという日陰者の運命にあった作品です。

Rがこの出版にあたり原曲の音符をいじっているのが現代の常識では不可思議ですね。僕はこれをジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団のレコードを聴いて気がつきました。彼は原典版のままの音を吹かせていて、聞き覚えていたのと違うものだからびっくりしたわけです。調べてみると事実がわかりました。ラヴェルが管弦楽にしたのはRの編曲譜だった(原典版を探したが入手できなかった)のです。セルはラヴェル版のその部分をオリジナルの音符で弾かせていたということでした。

Rは作曲家の歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」も和声や管弦楽法が未熟としてまるで先生が生徒にするように音符までを大幅にいじっています。この事情はよくわからない。ムソルグスキーは親が富裕ではあったが地主階級であり、海軍士官をめざしたが挫折して地方公務員となり作曲はおおむね独学であった。一方のRは貴族の出で海軍士官学校卒の海軍大尉で日本海海戦の第2巡洋艦隊旗艦ともなった軍艦アルマーズにも乗ったエリートです。

僕が働いたころのスイスでは銀行での出世は軍隊での職位によると聞き驚いたのですが、日露戦争前のロシアでそういうことがあっても不思議でないでしょう。鉱山技師の息子で秀才だったが文官だったチャイコフスキーが西洋かぶれとみなされ、バラキレフのロシア5人組と距離を置いた。我が国サラリーマン界の国際派と純ドメ派みたいで、当時ロシア作曲界の純ドメ派大物であり軍艦で各国を回りワーグナーのリングも聞いたRが「英語もわかる純ドメ」的な位置で存在感があったように思えます。

Rの管弦楽が華麗であることは認めますがそれは価値観の問題で、より最大公約数的に体系化されていた和声法や対位法の明らかな「間違い」(既存のルールからの逸脱)とは違うでしょう。それだってドビッシーが根底からルール違反のオンパレードの曲を書いて、根底から崩してしまいました。それを知った時代の聴衆である我々はムソルグスキーのルール違反が「おかしい」とは聞こえないし、趣味に過ぎないカラリング(オーケストレーション)はましてそうであると思うのです。

興味深いことに、管弦楽法の大家であるRはこれをオーケストレーションはしなかった(弟子がしてそれに関与はしたとされてますが)。どうせならそこまでしてくれれば面白かったと思いますが、その役目はフランス人のラヴェルに行ってこの曲は壮麗な大伽藍と化したのです。

多くの人がそうだと思いますが、僕もこの曲をまずラヴェルのオーケストラ版で知りました。それが高1あたりで買ったCBSのオーマンディー盤のLPレコードで、この演奏はRが一部を自己流に直したピアノ譜からラヴェルの感性で映し出した壮麗無比な絵画を、フィラデルフィア管弦楽団という当代一の華麗な音響と技術を誇ったオーケストラの絵の具でさらに鮮烈に描き出したものでした。

このレコードの価値は以下のことで些かも減ずるものでありませんが、3つのバイアスがかかった産物であったものだったのです。それは、

①Rの趣味による音符の改竄

②ラヴェルの音の趣味による管弦楽法

③オーマンディーの音の趣味による音化

です。これらを除去しないと、ムソルグスキーの書いた音符の原像は見えてこないということです。いまの僕にとってはそっちのほうがずっと重い。初めてピアノの原曲を聴いた時、僕の知っていた展覧会の絵は「整形美人」だったことに気づいたのです。しかも3回も整形手術をした!

 

この美人に魅せられてしまった高校生は、まずはお決まりの「キエフの大門」に感動し、「鶏の足の上に建つ小屋(バーバ・ヤーガ)」の不気味なイメージを空想してハマりました。整形が悪いわけではない、なぜならその妖しい魅力のおかげで僕はクラシックの深い森に迷い込んでいったからです。

森の入り口で誘っていたこの曲は音も普通でなく、不気味な和声、足が引っ掛かる変拍子など当時の僕にとって「普通でない音」と「異様にカラフルな音彩」にあふれ、バーバ・ヤーガはやはり普通でなく聞こえていたストラヴィンスキーの「火の鳥」の「カッチェイの踊り」などにエコーして聞こえていました。これがそのオーマンディー盤です。

展覧会の絵の原曲は1874年の作品です。その年にはワーグナーが「神々のたそがれ」を書いてリングを完成し、チャイコフスキーはピアノ協奏曲第1番を書き、ヨハン・シュトラウスは「こうもり」を初演し、ヴェルディはレクイエムを書きました。ブラームスの第1交響曲も白鳥の湖もカルメンもまだ書かれていなかったのです。

それらの曲調を思い浮かべるに、ムソルグスキーが「オペラ作曲中の気晴らしに絵画のような作品集を書いた」と称した展覧会の絵の和声や変拍子の1874年時点での斬新さは、1913年のパリでひと騒動ひき起こした春の祭典のそれに匹敵するか、オリジナリティーという意味を加味するならひょっとして上回るかもしれないと思っています。

一方でモーリス・ラヴェルは展覧会の絵の編曲後はヴァイオリン・ソナタ、ボレロ、二つのピアノ協奏曲ぐらいしか主要作を書いていません。つまり最後期の熟達の技法を投入したということでどこから眺めても美麗であり、その価値を否定するものではありませんが、これはあくまでラヴェル的な、ラヴェルの作品だという印象も強いのです。

例えば冒頭の華々しいトランペットです。曲想に楽器の特性があまりに合致しており、あたかもムソルグスキーだってこう書いたろうと思わせる自然さです。しかし、これは作曲者がプロムナードと呼び、絵の印象ではなく、絵から絵に歩を進める気分を描いた曲想です。友人の死に落胆し、追悼しようと遺作展の会場に足をふみ入れる男の心がこんなに晴れやかなものだっただろうかといつも思うのです。

これは指揮者レオポルド・ストコフスキー編曲版ですが、出だしを聴き比べてください。

私見ではこれのほうが作曲家の心情には近いように思えます。以降のプロムナードの弦のトレモロの精妙な使い方もそう。しかしながら、これを聴いていると同じストコフスキーのJ.Sバッハ編曲が浮かんできて、あれを聴いていると確かに面白いのですがディズニー的でもあり、聞いてるそばからバッハの原曲に戻りたくなる。そうやって、だんだんに、「他人の編曲でデビューし、それで世に記憶された曲が他にあるだろうか」という疑問が頭をもたげてくるのです。

編曲はラヴェル、ストコフスキーに限りません。ゴルチャコフ版もライブで聴いたし、ピアノ協奏曲版があり、他の楽器ではギター版、チェロ、トロンボーン、アコーディオンはおろかロック版、ジャズ版まである。まさに百花繚乱です。ホルスト「惑星」のジュピター、アランフェス協奏曲、パッパルベルのカノンなどポップス化した曲はありますがこれだけ丸ごと「いじられた」クラシックはありません。

さらに、何とも訳の分からないことに、「ピアノ版」まであるのです。これがそれ、ホロヴィッツ版です。

非常におかしいのは、原曲がピアノなのに管弦楽版が先に有名になって、それのまた編曲であるかのようにこれが存在するわけです。香港に駐在した時だからもう17,8年前のことですが、路地裏で「日式老麺」なるものを発見しました。何かと思うとラーメン風のものに見慣れぬ物体が乗っていて、よく見るとそれはウナギである。地元ではそれを日式(日本食)と信じこんで食されていたわけです。中国の老麺が日本でラーメンになり、ふるさとに戻ったら似て非なる物に化けていた。ホロヴィッツ版ですね。

展覧会の絵は不幸なことにもともと他人の上書きで世に出たのだから、原曲にこだわることはないだろうという、クラシック音楽にはあり得ないほど原曲楽譜無視があたりまえという先入観ができた異例の曲なのです。それではムソルグスキーがかわいそうだ。春の祭典を上回る独創性はオリジナルのピアノ版でなくてはわかりません。それが本稿執筆の動機です。

ということで、この曲はまず原典に近いピアノ版でお聴きいただきたいと思います。

 

エヴゲニ・キーシン(pf)

280オーソドックスではないリズム、フレージングがあって、その由来は不明ですが説得力はあり、トータルにはきわめて満足感の高い名演です。鮮明な切れ味のタッチ、神秘感のあるピアニシモなどを駆使して絵画的なイメージ喚起力に富み、オーケストラにひけをとらない色彩を感じます。アレグロ部分に高度な技術を感じますが、そういう些末な事がアピールの主体でなく、彼の読み取った全曲の構図が細部までを形成する観があるのが非常に印象に残りました。

 

エリザベート・レオンスカヤ(pf)

41tNj-CleZL誇張や改変がなく、オーソドックスな解釈で原曲の良さをストレートに表現した姿勢が好ましい。この人、クルト・マズアとのブラームスのP協2番が立派なもので女流の限界を感じさせませんが、リヒテルに比べればやや非力と思う所もある。しかし男が剛腕で行ってしまう所をスタッカートで弾いたり(バーバ・ヤガー)工夫もあり、「キエフの大門」も無用に壮大をよそわず、良いピアノ曲を聴いたという感動を残してくれるのがかえって個性になっております。

 

マリア・ユディーナ(pf)

2700000152195こちらは個性の塊。「こびと」のフレージングはきわめてユニークで、「テュイルリーの庭 」も他に類のない解釈。「ビドロ(牛車)」、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」の遅いテンポは一体なんだ?というレベルのもの。「リモージュの市場」の噛んで含めるようなタッチも面白い。「バーバ・ヤーガ」はグリッサンドまで駆使。「キエフの大門」は低音でルバートしてパウゼに至って絶句しますが強弱の対比あり表現主義的部分ありで引きずり回されることうけあい。これを許容するところこそ、春の祭典に比肩する要素であります。すべてが見事に普通でないのですが、ここまで自信をこめてされるとこういうものかと思ってしまう。嫌でないのはテクニックのひけらかしでないからです。聞き慣れた人に一聴の価値あり。ショスタコのソナタ2番がこれまた名演です。

 

ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団

7e4c8eac-2aca-422c-a29d-2fadaaf28740上掲のLPです。オケ版は僕にとってこれ抜きには語れません。冒頭トランペットから「うまい!」と、食い物系バラエティ番組のお笑い芸人風に叫びそうだ。高校時代、あまりにくりかえし聴いたもので楽器の微妙な一言一句の綾までが耳にこびりついていて、いま聴きかえしながら50年ぶりに帰った田舎のあぜ道の匂いってこんなものかなと想像にひたる次第です。オーマンディーは僕のおふくろの味だったんだと眼からうろこです。楽屋で何か忘れたが愚妻の手を握って片言の日本語で話しかけ、上品な奥様に「あんたのしゃべれる日本語、それだけよね」といじられていたお茶目なオーマンディーさん。お世話になりました。

 

アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団  (1953年)

61DTGCN9S4Lオケ版で強烈なのはこれ。モノラルだからダイナミックレンジは広くないですがビドロ(牛車)のpからffへの爆発はすさまじく、音量ではなく質量感でそれを感じさせるのは原音の風圧でしょうか凄いことです。「鶏の足の上に建つ小屋」の打楽器と重低音アタックのパンチ力は恐れをいだくほど。強弱のインパクトはメリハリを超えてどぎついと感じる人もありましょうが、ラヴェル版はこのぐらい乾いたラテン感覚でやったほうが映えるでしょう。

 

ユージン・グーセンス/ ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

516qLVGV8iL穏健な表現ながらラヴェル版のつぼをおさえた音楽的な演奏。並録のシェラザードも誉めましたが、葦笛のような質感のオーボエがチャーミングで木管群の鳴らし方がセンスにあふれ(卵の殻をつけた雛の踊り)、音程がきまっており、今これをコンサートホールで聴いても文句は出ないでしょう。トランペットが上手くない(サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ)など微細な欠点がありますがとんがったところを作って勝負する昨今の風潮に照らせば正攻法で潔い。録音は古い割に楽器の遠近感まであるステレオで僕は最近のデジタルより好きです。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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ハチャトリアン ヴァイオリン協奏曲ニ短調

2014 DEC 28 14:14:12 pm by 東 賢太郎

いま世界経済をお騒がせのロシアですが父親がなぜかロシア民謡好きでダークダックスのレコードがよく家でかかっていました。だからというわけではないでしょうが、ロシア物は何でも好きです。ただ、初恋の曲がボロディンの「中央アジアの草原にて」だし、なかでも17歳の時に買ったこの協奏曲のオイストラフ盤は一目ぼれで、それ以来自分の中にはこのコンチェルトが住み着いています。

自分のロシア趣味ですが、「ロシア」と一口に言っても西欧に開かれて連続性を持ったモスクワやサンクト・ペテルブルグではなく、黒海、カスピ海の中央のコーカサス、カスピ海の東の中央アジアあたりに根っこがあるような気がします。民族、文化、習俗、言語が西欧とは非連続という意味で辺境地。武力と宗教で統一されたが、西欧とまじりあうことはない。わが家の祖の地である能登が石川県でこんな感じだろうと思います。

1024px-Armeniapedia_dance2こんなアルメニア・ダンスなんて是非見てみたい。知的好奇心という奴ではぜんぜんなくて、この写真を見た瞬間にぱっと目がくぎづけです。血が騒ぐといいますか、ロシアも辺境の地であるこのあたりのエスニックな雰囲気がとにかく好きなのです。正直のところ古来和風のものよりずっと好きであり、俺は本当に日本人なのかと我ながら思うことしばしばです。

こういうものは食べ物の好みといっしょで教育やら環境やら後天的に変えられるものではない、なにか遺伝子レベルの抗いがたいものかもしれません。そんな経験はもうひとつだけあって、ローマの遺跡で家の中に流れている水路ですね、あれを見た瞬間にどきっとして、あれがほしい、あれを作ろうと思った。まだ作ってませんが。こういうのはもう理屈じゃない、遠い祖先が見ていた記憶みたいなものだろうと真面目に考えています。それに逆らわないほうが健康にいいなという。日本人といったって大半はどこかから来た人だし、思いっきりさかのぼれば人類すべての祖はアフリカにいたわけですから実は全員が「どこかから来た人」なんです。

Aram_Khachaturian,_Pic,_17ハチャトリアンはグルジアのトビリシ生まれですが、人種的にはアルメニア人です。この辺の人を良く知っているわけではありませんが、上掲のダンサーの女性などアルメニア人の写真を見ると白人に近いように見えます。ハチャトリアンの風貌はそれよりアラブ系、トルコ系に見えますがいかがでしょうか。僕はロンドン駐在時代にカジノにはまってほぼ毎日通った時期がありますが、こういう感じのアラブ大富豪のおっちゃんが葉巻片手にチップをうず高く積んでいましたね。

アルメニア共和国は黒海とカスピ海に挟まれた国でトルコ、アゼルバイジャン、イランがお隣の国です。チェスの天才カスパロフ、フランスのシャンソン歌手シャルル・アズナブール、フランス首相のバラデュール、テニスのアンドレ・アガシがアルメニア系だそうです。

ちなみにアラム・ハチャトリアンは中学校の教科書にソ連の作曲家とありました。当時はソ連人イコール白人と思っていましたがアルメニア語でԱրամ Խաչատրյան,グルジア語では  არამ ხაჩატურიანი と書くそうです。これは例えていうならば、Мөнхбатын Даваажаргалというモンゴル人男性が将来の教科書で日本の大横綱・白鵬だと書かれているという感じだろうと思います

どうしてそんなことにこだわるかというと、ハチャトリアンの曲を「ロシア音楽」と括ることに違和感があるからです。

ボロディンはグルジア人といっても貴族の血で風貌はコーカソイド(いわゆる白人)っぽく、彼の音楽は白人目線で描いた中央アジアである、いっぽうハチャトリアンはアラブ、トルコ世界から描いた中央アジアである。ちょっと荒っぽい見方ですが、僕はそんな風に考えています。もしそうだとすると中国人(漢民族)とチベット人がエスニックにぜんぜん違うようなものですから、作った音楽に大きな差があっておかしくないでしょう。

ところがです。話はさらにややこしくなりますが、以下にお示しするように、この二人の音楽はそれなのにけっこう共通するものがある。地方色を西洋音楽というイディオムに閉じ込めると似てしまうというプラグマティックな側面もあるでしょうが、それだけでは説明できない文化の血脈のようなものがあるのです。それは大相撲の世界に人としての血脈に関係なく「相撲道」があるかのようです。

それこそが、中央アジアという文化が秘めているハイブリッドな側面だろう、白人もトルコ人もアラブ人も混血しているものだからそうなってしまうのではないかと僕は考えています。司馬遼太郎も日本人も大好きなシルクロードは点と線を「線」で見たものです。それがどう伝播してきたかという視点ですが、それ以前に「点」あるいは「面」としてまず中央アジアという地域があったという大事な事実があるわけです。

秦の始皇帝の風貌は非東洋的で、実父は呂不韋という胡人であったという説は魅力的です。胡とは中国が見た西域であり、その先に何があるか知識のない時代ですから中央アジアのことです。いってみれば始皇帝はダルビッシュ有です。秦の高官の末裔が秦氏で日本に混血している。これまたぜんぜん不思議ではないです。こういう可能性を証明されていないから非科学的として一笑に付す人は、「実は全員がどこかから来た人」という学説に反証仮説を示さないとその発言自体が非科学的ということになります。

つまり、日本人というのも実はポリネシア、中央アジア、漢民族、北方騎馬族などのハイブリッド民族で、それ自体が「中央アジア的性格」を持っている。韓国もそうです。日本人と韓国人が似ているだのどっちが優秀であるだのはナンセンスなコメントで、混合比率が違うだけです。先祖の血は食べ物や音楽や異性の好みなどにぽっかりと現れる、僕はそう信じています。日本人が概してシルクロード好きなのは、そっちに先祖を持つ人の比が多いということです。

前置きが長くなりましたが、だからボロディンもハチャトリアンもロシア音楽というよりもシルクロード音楽であり、そう思った方が歴史的、地理的な整合性があり、自分の遠いルーツはそっちかもしれない。僕にそう思わせる底知れぬ興味深いものを秘めているのがこのヴァイオリン協奏曲なのです。

ではいよいよ、その「底知れぬ部分」を少々探ってみたいと思います。

 

khacha何といってもいきなりの「入り」(左)がすごい。蒙古軍の荒馬がはねるようなばねの効いたリズム。これは後に第2、4拍目に強烈にえぐい「後打ち」が入ります。3拍子になると2拍目にマレットで叩くシンバルのポワーン!この野蛮さ!お品のいいクラシックにこれだけ下品な音を鳴らしたのに快哉を叫びたいですね。

すぐにソロヴァイオリンがG線で弾くこれが第1主題です。これの裏につくリズムはンンンンンと第1、4、7拍目に入る。8分音符8個を3+3+2と分けて頭を打つのです。馬のひずめの音を西洋人は3拍子にするようです。エロイカの第1楽章はそうだと思いますし、「ダッタン人の踊り」のタッタタッタタッタ・・・もそう。それがここでは3+3+2と最後が2で寸詰まりになる。これが非西洋的、野性的、好戦的な感じがします。

khacha1

やがて音楽は静まり、オーボエがアラビアのへびつかいを思わせる主題を非常に高い原色的な音でkhacha2奏でます。実にエキゾチックなムードがあふれます。そこからソロが第2主題を弾きます(右)。これは和声の感じも伴奏のンパーパの繰り返しもすぐれてボロディン風であります。

khacha3そして伴奏だったンパーパが第3の主題を導きます。これはコーカサスとアラビアの混血という感じで、まさに中央アジア世界の雰囲気です。

ここから展開部で第1主題と冒頭の主題が交差し、第3の主題もソロに現れます。第2主題がチェロで歌われ、長いソロのカデンツァが終わると再現部となります。第2主題はクラリネットが歌いソロは装飾にまわり、ホルンのンパーパがソロの第3主題を呼びさまします。コーダは再度、後打ちリズムの効いた冒頭の主題に第1主題とンンンンンのビートの効いた第1主題が野蛮な興奮をかきたてて終わります。

第2楽章はファゴットのアラビアの教会旋法風な主題で始まります。楽章はこの主題のムードが支配します。次いでソロがどこかラヴェルのスペイン狂詩曲を思わせるkhacha4雰囲気の主題を歌いますが、どちらもむんむんするほどのアラビアの匂いを感じます。これが再現してクラリネットとからむとオケの全奏で音楽は高潮し、やがて静まりながらソロヴァイオリンがFmのas(gis)を長く伸ばします。オーケストラがそれにAmの和音を静かに織り込んで神秘的な終結を迎えます。

第3楽章は強烈なビートのトランペットの二音のファンファーレ上をD,E♭,E,F,F#と半音づつ上昇する三和音が乗る祝典的な導入で開始します。ソロによる第1主題は喜びに満ちた民族ダンスを思わせます。khacha5

ソロが歌う第2主題は哀愁のあるこれぞ中央アジアという旋律で、この和声も伴奏の音型もボロディンそのものといっていいでしょう。

khacha6これをソロが即興的な細かい音型で展開していきます。ロンド形式でもう一度第1主題となり、第2主題はチェロに移ります。目まぐるしく上下するソロが興奮の頂点を作り最後は全奏の二音を連打して曲は終わります。

このコーダは初めて聴いて以来どうも終結感に乏しいという気がしてきました。和声でいうとDmとE♭mの交替が続き、最後にDメジャーになって終わるのですがやはりドイツ流のドミナントからトニックの移行が恋しいということでしょう。シベリウスの協奏曲にもそう思っていた時期がありましたが、あれは和声的にはちゃんとドイツ流なのです。アルメニア人のハチャトリアンの感性はそうではない。協奏曲のフォーマットを用いながらドイツ流に妥協していない、そこにこそこの曲の真の面白味があると思います。

 

好きな演奏を3つご紹介します。

 

ダヴィッド・オイストラフ / アラム・ハチャトリアン/ モスクワ放送交響楽団

この曲を献呈されたヴァイオリニストと作曲者自身による演奏ということを差し引いても決定盤というにふさわしい名演です。まずこれを聴きこむところからすべてが始まる。

 

ユリア・フィッシャー/ ヤコフ・クライツベルク / ロシア・ナショナル管弦楽団

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以前のブログにご紹介しましたが、ユリアの抜群の音程と集中力が発揮された向かうところ敵なしの快演です。民族的なカラーを出したり興奮をあおろうとする演奏は音楽の構造的なもの、建築学的な部分を犠牲にすることが多く、特にこの曲はそれを感じます。この演奏、それがない。そういう誘惑を断って純音楽的に清清とアプローチしている、それが見事です。それがもの足りない人は、次のエルマンのを聴いて下さい。

ミッシャ・エルマン / ウラディミール・ゴルシュマン / ウィーン国立歌劇場管弦楽団

このヴァイオリンは学習者にぜひ聴いていただきたい。きわめて瞬時の微細なポルタメントで高音にはずり上がり、低音にはずり下がる。なんともなまめかしく妖艶。エルマン・トーンと呼ばれて一声を風靡した美音もさることながら、伴奏に関係なく自己完結した独特の音程感覚があってそれ自体がジューシーな果実のようにおいしい。この「自己完結」という部分はもう才能でしょう。まねできるのかどうか知りませんが、できるなら誰かしてほしい。それで一生飯が食えるでしょう。第2楽章が白眉であり、こんなにこの曲のエキゾティズムをむんむんとむせかえるほど漂わせたセクシーな演奏は皆無でしょう。このCDにはサン・サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」なる、通常であれば僕が10秒でやめてしまう曲芸風の曲が入っているのですが、全部聴いてしまうのです。そのぐらいのヴァイオリンです。パガニーニやこういう曲は、こういう風に弾ける人のために書かれたんだと納得しました。ユリア・フィッシャーと対極のスタイルです。ぜひ両方お聴き下さい。

(こちらへどうぞ)

ボロディン 交響詩「中央アジアの草原にて」

ボロディン 交響曲第2番ロ短調

 

 

 

 

 

 

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ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47

2014 NOV 4 0:00:38 am by 東 賢太郎

交響曲第5番についてまずお断りしておく必要があります。僕はこの曲の第4楽章が嫌いであり、第3楽章までしか聴かない者だということです。

ではどうしてここに登場させるのかというと、第1楽章の後半と第3楽章ラルゴがショスタコーヴィチの書いた最も美しく上質の音楽に属するものだからです。特に後者はベートーベンの9番とブルックナー7番以降のそれとともに交響曲の緩徐楽章の最高傑作と思います。それゆえに5番は捨て去ることができないのです。

この曲との付き合いは自分としては古く、72年ですから高2のときに新宿のアカネヤで買ったLP(後述)がなれ初めです。どうしてこの曲を選んだかは忘れましたが、帯に記されていた「革命」というニックネームから何となくというところだったでしょうか。聴いてみてよくわからず、第1楽章がえらい暗いなという印象ぐらいでした。

それが我慢して何度か聴いているうちに、さっき大嫌いと書いた第4楽章が好きになり(!)全曲を閑があればかけるほど気に入ってしまったのです。そうやって入門したショスタコーヴィチをあれこれ知るうちに、だんだんそれが安っぽく思えてきた。彼の音楽にそういう性質は潜んでいるのですが、あの楽章は特に作曲家に嘲笑され踊らされている気になってきてしまいました。

彼の音楽は楽想、楽器法にマーラーの影響を強く感じます。この5番でいえば第2楽章がそれですし、4番の第3楽章ラルゴの出だしはマーラー節そのものです。マーラーはシニカルな人で音楽で自分の人生の軋轢や不幸をあぶりだして、いたぶるみたいなところがある。自虐的な私小説を思わせます。何か苦味のあるものが無数の矢のように飛んでいる(そこが苦手なのです)。

マーラーでは自分という内側に向いていたその矢が、ショスタコーヴィチの場合は外に向いている。そう感じます。私小説ではなく、もっとパブリックなものとして。それが「ヴォルコフの証言」なる書物に示唆されている体制への反抗のようなものかどうかはともかく、マーラーと同様にシニカルであり、場合によってはもっと攻撃的なものだったり、聴き手の予想をふっとはぐらかす後退だったりもします。

ヴォルコフの真偽不明の本の出現によって第4楽章コーダのテンポがどうあるべきかという議論が出ましたが、それはたいして意味がないように思います。僕はコーダ云々など以前に、この大言壮語の楽章の存在自体が本音とは遠い気がするのです。作曲者が本気で書いてスターリン体制への反抗と睨まれ発表が頓挫した交響曲第4番を思い起こして下さい。こんな安物の音楽をまじめに書くような男が書く音楽ではないことはあまり異論が出ないのではないでしょうか。

 

ということで僕は家では第3楽章ラルゴまでしか聴きません。終楽章がブルックナー9番のように未完成であったと思えばいいのです。4番も静かに消える第3楽章ラルゴで終わりです。それならば5番の印象は大きく変わり、掛け値なしの名交響曲になります。

 

petrucciに楽譜がないのでお示しできませんが、第1楽章の第2主題、ハープの和音と弦の葬送風リズムの部分のこの世のものと思えぬ妖しげな和声変化、ブルックナーの7番にそっくりなフルートに続いて不気味に轟くピアノの低音が導き出す展開部の有機的な主題の複合、コーダに入るあたりから漂う言葉にならない神秘感、最後のチェレスタ!ここはベートーベン第九の第1楽章コーダの高みに至っているとさえ思います。天才とは恐ろしいものです。

第3楽章の神々しさは筆舌に尽くしがたく、血の出るような弦の不協和音の軋み、2番目のヴァイオリン主題の凍てつく大気に虹がかかるような和音の素晴らしさ、ハープの部分に続く主題の和音変化!神品です。弦のトレモロに乗ってオーボエ、クラリネットが吹く主題は冷たく濁った黄泉の水に咲く蓮の花のようです。バルトークの「管弦楽のための協奏曲」の第3楽章の神秘世界は5番の蓮の花あたりとそっくり。7番をおちょくったバルトークもこの第3楽章は認めたと考えて不思議ではないでしょう。最後はハープのハーモニクスで悲歌となります。なんて凄まじい音楽だろう。

この後にあの粗野で音楽的にも不出来な第4楽章が来るという神経は許容しがたく、作曲者の音楽的良心も許容していなかったと固く信じます。だからここでおしまいです。体制側はこの曲を称賛し、ショスタコーヴィチは満場の大喝采だった初演後に「フィナーレを長調のフォルテシモにしたからよかった。もし、短調のピアニッシモだったらどうなっていたか。考えただけでも面白いね」と語ったそうです。

終楽章冒頭の4度のティンパニはR・シュトラウスのツァラトストゥラ、上に跳ね上がる主題は英雄の生涯を連想します。バカ殿を喜ばす「英雄の鼓舞」として格好の小道具です。安っぽい弦のマーチ主題にけばけばしいトランペットの伴奏がつく所は殿の顔をうかがっての嘲笑、その先の騒がしくもあほらしい太鼓連打、コーダのから騒ぎでとどめのヨイショ。要するに将軍様むけのフィナーレだったと僕は信じております。

 

キリル・コンドラシン /  モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団

011前述のとおり僕はこれのLPを高2の時に買い、いたく気に入って暗記するほど聴きました。そのバイアスがあるかもしれませんが、音楽の核心をがっちりとつかまえてテンポと強弱を伸縮させた非常に説得力のある快演と思います。ちなみにコンドラシンが初演した4番はさらに大変な名演であります。腕達者なオケが剛柔とりまぜた敏感な反応を見せ、ffのトゥッティのカロリーはとても高く音が濁らない。しかも肝心の第1,3楽章の神経にふれてくるような繊細さと神秘感はこれが最高のもののひとつです。第4楽章まで聴く前提で書きますと、主部が素晴らしいテンポでコーダは古典的に大きめの減速となり、聴き慣れたせいもあるでしょうが僕には唯一耐えられるものです。

 

ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 

uccd7225-m-01-dlもうひとつ、この指揮者とオケのものは何を聴いても品格が高い。85年にロンドンで購入。初めてCDというものを買った物の一つ で、やはり懐かしい演奏ですが、久々に聴きなおしてみて感服です。ロシア風のけばけばしさや初演時のすさんだ空気とは無縁。第2楽章にすら漂う気品、第3楽章のppの弦の和声の室内楽のような美しさなど、純音楽的アプローチの最高峰であります。では迫力不足?とんでもない。とにかくオーケストラが抜群にうまく重量感も力感も満点、ハイティンクがいつもながらで余計なことは何せず必要なことに足しも引きもしない。何かとんがったことを有難がる方には物足りないでしょうが、名曲とは音楽自体が立派なのですからそんなものは何もいらない。そういう事を教えてくれる録音です。

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ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 作品43(読響・カスプシクの名演を聴く)

ショスタコーヴィチ「タヒチ・トロット(二人でお茶を)」作品16

 

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クラシックは「する」ものである(3)ーボロディン弦楽四重奏曲第2番ー

2014 AUG 3 12:12:14 pm by 東 賢太郎

 

サン・サーンスの白鳥と言えば思い出があります。

94年ごろでしょうか、フランクフルトにいた頃、SMCメンバーである二木君が野村ドイツの同僚で、拙宅にお招きして食事をしました。さんざんワインが回ったところで彼がピアノが弾けるとわかり、それはいいすぐやろうと地下に引っぱっていっていきなり伴奏頼むとその「白鳥」の譜面を渡しました。二木は覚えてないかもしれないが、あんまり知らないんですが・・・といいながらも初見でそれなりに弾いて(すごいね)、僕はというともちろんチェロを気持ちよく弾かせてもらいました。

でも歌うんでもいいんですよ。声よりチェロの方がちょっといい音が出るんで楽器を持つだけでなんですから。もちろん速いパッセージは歌は限界があります。だけど歌うことのできるチェロの名旋律はたくさんあるんです。たとえば、これも歌えますよ。裏声になるがこれが美しく歌えたら最高の気分になれます。ボロディンの弦楽四重奏曲第2番第3楽章「ノクターン」です(これも有名曲ですね)。

伴奏に回るところの低音部もしっかり楽譜を見て歌ってください。要はこのカルテットのチェリストになりきることです。

譜面が読めない?大丈夫です。音が取れなくても一番下のチェロパートを目で追えますよね。この曲はゆっくりだしそれがものすごくわかりやすいんです。チェロを聴き分けてそのメロディーを耳で覚えちゃってください。チェロだけ聴くんです。

目が不自由な音楽家の方は普通は点字の譜面で覚えるそうですがピアニストの辻井 伸行さんは右手と左手を別々に耳で聴いて覚えてしまう。楽譜は使わないそうです。そんな記憶力は普通の人にはないですが、この曲ぐらいなら誰でもできますね。

ちなみに、そうやってパートを聴き分ける練習をすれば必ず耳が良くなります。同時に鳴っている音の仕分け能力がつくんです。それに強くなれば交響曲のような複雑な曲を聴いても楽器の聴き分けができるようになります。

そうすると曲からの情報量がぐっと増えるから、いいことがあります。その曲がもっと楽しめる?そうですね、それもありますがそれだけではありません。増えた情報がマーカーとなって曲を早く覚えられるようになります。これが実はクラシックのレパートリーをどんどん増やしてくれる、つまり通になる近道なのです。

ワインだって日本酒の利き酒だって、飲んだものを覚えてないと次のと比べられませんね。覚えるには特徴をなるべくたくさん見つけておくのがいいですね。それと同じことです。カルテットのような、音の少ない曲から練習して、だんだんと編成を増やしていかれるとコツをつかむのに効果があるでしょう。

楽譜にアレルギーのある方もきっとおられると思います。でも所詮は記号だからパソコンの文字とキーボードの関係と同じです。恐れることはありません。楽譜を見ながら聴くと、情報量はますます増えますから、ますます早くますますたくさんの曲を覚えられるのです。そんなにご利益があるんです。チャレンジし甲斐があるではないですか。

次回は天下の大名曲、モーツァルトのクラリネット五重奏曲を使って、和声についてもう少しご説明をしましょう。

 

クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

 

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クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーのCD試聴記-

2013 NOV 29 23:23:16 pm by 東 賢太郎

ハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲は高校時代にダヴィッド・オイストラフと作曲者の指揮によるLPをすり切れるほど聴きました。いつぞや書いた「遺伝子の記憶」だったのかどういうわけだったのか、初めて聴いた時からこの曲にはゾクゾクして魅かれるものがあり、コーガン、シェリング、ヘンデル、エルマンなども愛聴してきました。アラム・ハチャトリアンはアルメニア人です。つい先日のブログに書きましたがいま僕は仕事で旧ソ連CIS(Commonwealth of Independent States、独立国家共同体)を調べています。アルメニアはCIS加盟国であり、たまたま、しばらくご無沙汰だったこのコンチェルトが気になり始めていたところでした。

先日N響で聴いたトゥガン・ソヒエフはチェチェン共和国も含まれる北カフカース連邦管区の北オセチア出身で、CISではないが地域的にはしごく近い。カフカースとはいわゆるコーカサスのことであり、アルメニアは南コーカサスである。僕がクラシックに入った曲がそのコーカサスを描いた「中央アジアの草原にて」だったことはブログに何度も書きました。そうしたら、不勉強で申し訳ないが最近気にいっているユリアのCDデビュー曲がそのハチャトリアンだったことを知りました。彼女は11歳でこれを聴いて好きになったそうです。このコンチェルトを指揮者クライツベルグとやった演奏会がすばらしくて、そのことが録音のきっかけとなったそうです。その演奏会の場所がフィラデルフィアであったそうで、これまた僕の留学先です。どうも縁を感じてしまいます。

ブルッフというわけで彼女のCDを2枚買って聴きました。まずは新しいブルッフとドヴォルザークです。期待しましたが、どうも音が奥に引っ込んで散漫な感じがする。このチューリヒ・トーンハレというホールで僕はこの管弦楽団を2年半聴きました。そのこけら落としだったでしょうかブラームスが来て自作を振ったそうで、その100周年のブラームスシリーズもここで聴きましたし、感動的だったショルティの最後の演奏会もここでこのオケでマーラーの5番でした。当時小学生でチューリヒ日本人学校にいた長女がここの舞台で和太鼓を叩いたりもして、けっこう思い出の深いホールなのです。

しかし、どうも見かけほどは音がよくない。音が拡散気味でコクがない。コンセルトヘボウやムジークフェラインとは比ぶるべくもなし、オケもそこの2つのオケとは比ぶるべくもなし。大吟醸と清酒ぐらいの差。ジンマンという指揮者は器用でうまいが好みではなく、自然とやや足が遠のきました。チューリヒ湖畔で会社から歩いてたった10分の所だったのですが・・・・。このCDは忠実にあの音ですね、残念ながら。ホールトーンを多めに独奥系の音を狙って遠目のフォーカスにしたかもしれないが、あの音を2階席奥から聴く感じです。ブルッフは特にオケが重要な音楽です。

これが老舗の名門Deccaの音だと主張されるならそれはそれで構わないが、平板でつまらないものは正直に仕方ない。ブックレットのクオリティも含めてどうも感心しない。クラシックレーベルの経営が楽でないことは重々承知だが安易な感じがします。灘の剣菱という赤穂浪士が討ち入り前に飲んだという清酒の老舗が商業化して味が落ちたことがある。ああいうことにはなってほしくない。マイナーレーベルのPentaToneは大事に作っていたが、ユリアもFA移籍で読売ジャイアンツに行った大物選手みたいにならないように切にお願いしたい。

ユリアの演奏は彼女らしい張りと緊張感があります。しかしこの遠い位置の録音だと彼女の室内楽的なオケとの交歓がよく察知できない。ライブは確かにこう聞こえるが視覚情報がない録音ではもっと聞こえてほしいものがたくさんあります。このCDはユリアよりも全体ポリシーが勝ったもので、ソリストは彼女でなくてもいいという性質のもの。それにしてもブルッフの第2楽章の高音は音楽に没入して彼女にしては珍しくやや甘い。ライブならこれでもいいが・・・。ブラームスの第1楽章コーダもそうですが、そういう部分を彼女は重視していて(それは大賛成だが)、知情意のバランスが動く。基本的にそのバランスがきっちりしている人だけに、そういう部分では若さが顔を出すように思われます。

ロシア41CP9FNWEEL._SL500_AA300_次にいよいよハチャトリアンです。これは良かった。この曲の最高級の演奏と太鼓判を押します。オイストラフに比べるとローカル臭は希薄であり、エルマンの訛り(なまり)もヘンデルの色香もなく、中央アジアの草原をスポーツカーで走る観なきにしも非ずですが、こういう方向の演奏でこれほどの完成度のものはなかったでしょう。ロシア国立管弦楽団が小味で繊細な音を出しており、クライツベルグは非常に良くつけています。この曲の伴奏としてトップクラスの名演です。彼は11年に51歳で癌で亡くなりましたがユリアとは実に音楽的気質が合っていたことがこのCDで分かりました。

プロコフィエフの1番。第2楽章はN響ライブで聴いたイザベル・ファウストと双璧の名演です。透明な叙情がいくばくかの妖しさを秘めた和音が印象的な第3楽章には彼女の感情移入を感じます。よく聴かないとわかりませんが。そうした密やかなエモーションがクールな知性と細部まで神経の通った研ぎ澄まされた技巧でラップされているのが彼女の演奏の個性で、ここでは成功していますし、ハチャトリアンでもそれは一貫しています。これと2番とどっちを弾くかで性格が分かりますがユリアがこっちを採ったのはわかる気がします。僕はどっちも好みなので、いずれ2番もお願いしたいですが・・・。

PentaToneの録音につき一言。SACDの効能はオーディオ通ではないのでわかりませんが、よろしいですね。情報量、クリアネス、弦の質感ともいい。これはモスクワのスタジオのホールトーンとオケの優秀さにかなり由来していますが技術者の耳の良さ、音楽性、良心も感じます。この会社は旧PhilipsのエンジニアらがMBOして設立したそうで、少なくともこのCDは僕の好きだったPhilips系のオケの音がします。この業界のMBOではおそらくキャッシュフローが楽ではないはず。看板のクライツベルグがいなくなったのも不運です。頑張ってもらいたい会社です。

グラズーノフ、これはロマン派の残り香がある名曲ですがあまり演奏されなのが不思議です。是非広く聴かれるようになってほしい。ハイフェッツ、オイストラフの名演がありますが、ユリアは彼女の個性で大家に対抗できていますね。G線の色香もなかなかで、彼女はけっして音程が良くて、左手が動いて、清楚なだけのヴァイオリニストではない。こういう表現は若くないと、逆に大家ではできないでしょう。クライツベルグのオケがここでもよく支えています。9年前の録音ですが、いやはや凄い才能を再確認いたしました。

 

ハチャトリアン ヴァイオリン協奏曲ニ短調

 

ユリア・フィッシャー演奏会を聴く

クラシック徒然草-エミール・ギレリスの天上の音楽-

2013 AUG 1 18:18:13 pm by 東 賢太郎

僕の拍手が作曲家90、演奏家10という意味はもうすこし説明が要るでしょう。これは演奏家の価値について云々しているわけでもなければ、感動的な演奏会を聴かせてくれたパフォーマーの才能や努力にあえて少ない敬意しか払わないということを言っているのでもありません。作品が演奏家なしに聴かれることはないように、演奏家も作品の力なしに感動を与えることはできません。それはいかにも当たり前のことですが、作品のクオリティと演奏家の演奏能力がここで問題にするようなレベルに達しているものという前提において、いよいよ最後に、その両者の関わり具合というものが聴衆に与える感動の大小というものを決定づけているのだという僕の経験を述べさせていただく必要があります。

神童といわれる子がリストを弾くリサイタルがあったとして、それを大家の弾くシューマンのそれと同じ興味を持って僕が会場に赴くことは100%ありません。まず、僕にとっては、リストは誰がどれを弾こうと食指の動く相手ではありません。それがリヒテルだろうと。だから感動の総量はおのずと知れていて、「90部分が満点」であっても僕は満足して帰りの電車に乗らないだろうことを自分で知っています。次にそれを小学生の子が完璧に再現したからといってリヒテルに勝るはずもないでしょう。あるとすればこんな子がという意外性だけです。でもそれは、僕の中においてはサーカスで犬が数字を当てましたというのと何もかわらない。では、子供がシューマンを弾くというなら? 聴いてみるかもしれませんが、そしてそれがリヒテル並のものなら、それは評価しないはずがありません。ですがそれは「90が満点だ」ということです。鐘が十全に鳴ったということ。突き手の年齢に反比例して鳴りが良くなる、という風に聞こえるようにはあいにく僕の耳はできていないのです。眼が不自由な辻井 伸行さんのピアノ。実演に接したのは1度だけですが、それは純度の高いクリスタルのようなタッチと明敏なリズム感で非常に印象に残っている見事なラフマニノフの協奏曲2番でした。彼が身体的ハンディキャップを圧(お)して完璧なテクニックを披歴しているという観点から幾分でもその演奏を高く評価するなら、それは真の芸術家に対して大変に失礼なことです。そういう彼の音楽創造プロセスの因果関係などとは一切かかわらず、彼の生み出した音は非常に美しいと僕は思いました。

演奏会でXの感動をいただいたとして、そこに演奏家のプレゼンスがX/10ぐらいしか感じられないケースというのが、実はあまりありません。弾き手の存在が神のようにほぼ消えていて、鳴っているのはベートーベンやモーツァルトそのもの、その純粋無垢な音楽美のエッセンスだけを感じさせてくれるというケースです。僕はこれが音楽演奏というだけではなく、それを必然的に内包している音楽創造というものの理想ではないかと信じています。井上直幸さんのモーツァルトは、おそらくそういう風に聴き手に届けることを目的として弾かれています。僕にはそう聞こえるのです。彼がリストの「超絶技巧」やラフマニノフの3番を弾いたかどうかは知りません。きっと弾けたのだろうけれど、だからといってそういう曲を彼がモーツァルトと同じ姿勢で弾いたということは到底考えもできないことです。彼は、僕の想像する限り、X/10を良しとする演奏家です。だからモーツァルトのような音楽を演奏してXを最大化することができるのです。逆に見れば、彼はモーツァルトの天才の深奥まであまねく見抜いているという知性と感性のおかげで、10の力で100の感動をそこから引き出しているともいえるのです。これが名人の技でなくて何でしょう。一方で、そういう性質の音楽というのは、「彼の存在」がX/8になりX/6と大きくなるにつれて、Xは反対にどんどん値を低くする関係にあると僕は感じています。派手なアクションで汗だくになって飛び跳ねる指揮者の運命交響曲が別にだから素晴らしいわけでも何でもないように。マルタ・アルゲリッチがモーツァルトを弾くのはこわいと言ったのは、何らの技術的な問題をはらんだことであろうはずもなく、彼女の演奏家としての信条や持ち前のスタイルがひょっとするとXを逓減させてしまうのではないかということを、僕とは全く異なった角度や論理や本能から彼女が感知したからではないかと思っています。

僕がリストやパガニーニの類の音楽に関心を抱いた経験がないのは、仮に井上さんのような真の芸術家が弾いたとしても「彼」がX/10でとどまっていることがどうしたってできない、要するに、曲の方がそういう風に書かれていないからです。リスト自身が公衆の前で目立つことを目的として書かれた曲だからX/2ぐらいがいいところ(最適解)であって、がんばってX/10でやってみたらXを減らすだけ、つまり聴衆を退屈させるだけの曲なのです。そして、なんとか最適解を得たところで、僕には何の感興も引き起こしません。自分はそうではないという方がたくさんおられるはずですし、そういう方はここでこのブログを閉じていただきたいのですが、僕にとっては大半のイタリアオペラのアリアも同類であります。X/1.2ぐらいに書かれているのもあるように思う。へたすると初演した歌手でないともうだめなんじゃないかというぐらいの数値をもった曲、例えばユーミンやらカレン・カーペンターの曲がきっとそんなものだろうと推察できるレベルまで特定の演奏家の声が作曲の前提だったんじゃないかと見えるようなのもあります。実はモーツァルトもまったくもってそうやって、服を仕立てるように特定の歌手に合わせたアリアを書いたのですが、彼の声楽書法の非常に器楽的な側面が救ったのと、何よりいかように何をどう仕立てたとして結果が紋切型に終わらなかったという、彼の天才を説明するに欠くことのできない顕著な特性があいまって、時代を超えてユニバーサルな音楽となっています。今日の魔笛は良かったね、ところであのパミーナは何という歌手だったっけ?ということがありうる。X/10が成り立つのです。ヴェルディやドニゼッティのプリマでそういうことはあまり想定できないように思います。

では、その日の演奏会の感動のほぼすべてを演奏家が占めてしまう、つまりX/1に限りなく近いようなことは起こりえないのでしょうか?僕はそういう経験は2度だけしかしていませんが、あり得ます。ただしきわめて稀なことであり、いくら熱心なコンサートゴーアーであってももし人生で一度でもめぐり会えば幸運とするような、ゴルフならホールインワンぐらいの頻度のことかもしれません。ひとつは ヴラド・ペルルミュテールがウィグモア・ホールで開いたリサイタル。これはいずれどこかでご紹介します。ここで書くのはもうひとつの方、ロイヤル・フェスティバルホールでエミール・ギレリスがチャイコフスキーの協奏曲第1番を弾いたときのことです。このとき、僕は自分がいったい誰のためにapplause(拍手)を送っているのかという馬鹿馬鹿しいぐらい酔狂なことを初めて真剣に自覚したという意味でも、忘れられない重要な経験になっているのです。

1984年10月14日。それはチャイコフスキーの第1楽章が開始して間もなくの速いパッセージにさしかかって、かつて鋼鉄と評されたギレリスの指がもうほとんど回らなくなっているという悲しい現実にロンドンの聴衆が息をのんだ日でした。音楽が進むにつれ、誰よりも、巨匠自身が深く傷ついているであろうことを聴衆がとても恐れている、そういう空気がだんだんと会場そこかしこで醸成されてきているように感じられました。終楽章の最後の一音がすべてをかき消さんとばかりに堂々と鳴り終わるや万雷の拍手とブラヴォーがロイヤル・フェスティバル・ホールを包みこんだのです。老ピアニストの健闘をいたわり、目の前の演奏の是非ではなく、彼のこれまでの輝かしい栄光を満場の一致によるapplauseで一心不乱に称えたのです。その時です。立ち上がって会場に一礼したギレリスは両手で拍手を制し、もう一度ゆっくりとピアノに向かって、静かに、何かに祈るように独奏を始めました。信じられないぐらいとても静かに。そして、その時に彼が弾いた曲を、僕はどういうわけか覚えていないのです。そのときのあまりに静謐な情景、指揮者ベルグルンドもオーケストラも聴衆もすべてが凍りついた人形みたいに微動だにせず、耳をそばだてて息をひそめている中で、どこからともなく天上の調べが降りそそいでくるかのような神々しい情景に我々は飲みこまれていたのです。

僕はギレリスのチャイコフスキーの協奏曲1番のレコードを愛聴して生きてきた人間のひとりです。それは彼の十八番でもあり、最も輝かしくドラマティックな演奏として僕のレコード棚に今もひっそりとあります。ベートーベンのハンマークラヴィールソナタ、ブラームスの協奏曲やお嬢さんと弾いたあの優しいモーツァルトだって。アルトゥール・ルービンシュタインに「彼がアメリカに来るなら、私は荷物をまとめて逃げ出す」と言わしめた鋼鉄のタッチ。あの日に涙をこらえながら力の限り送った僕の拍手というものは、長年かけて彼からいただいてきたすべての音楽の喜びに対してのまぎれもない僕の精一杯の感謝、返礼でした。それを届ける機会が得られたなんて、何と幸せなことだったろう。そして、おそらく、あの最後にどこからとなくひそかにおごそかに響いてきた音楽には、もはやそれを奏でている大ピアニストの己の投影は微塵もなくて、彼自身の人生をかけた音楽への愛情と感謝が音となって流れ出ていたものにちがいないと信じているのです。あれはシューベルトやシューマンの音楽だったのだろうか?いや、そうではなく、誰の作品でもなくて、天上の音楽だったのに相違ないと。

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

クラシック徒然草-初恋のレコード-

2013 JUN 8 0:00:00 am by 東 賢太郎

高校時代、安物のステレオセットでしたのでFM放送はスピーカーの音をテープレコーダーにひろっていた頃があります。ある日、そうやってN響の春の祭典を録音していると、ある部分で、外で遊んでいる子供の「あっ!」という声が入ってしまいました。それ以来不幸にも、春の祭典を聴くたびにその部分にくるとその「あっ!」が聴こえるようになってしまったのです。もちろんそんな声が本当にするわけではなく、そのテープを繰り返し聞いて焼きついた僕の記憶がフラッシュバックとして再生されてしまうのです。

僕の春の祭典メモリーはブーレーズ盤によって初期化されていますが、実はこうやってどんどん追加情報がインプットされ、蓄積メモリーのすべてが耳で聴いている音楽と同時進行でリプレーされていることがこの経験でわかります。耳で聴いている演奏と記憶リプレーとをリアルタイムで比べて吟味している自分がいるわけで、ずいぶんと複雑な情報処理を脳内でやっているわけです。同曲異演を味わうというのはクラシックにきわだった特徴ですから、「この情報処理回路を持つ=クラシック好きになる」という仮説を立ててもいいと思います。

耳が聴いた音楽>記憶リプレー、という場合にだけ、「今日の演奏会は良かったね」という言葉が初めて出てくるわけで、この「記憶」が膨大で過去の大演奏家の演奏メモリーがぎっしり詰まってくると、少々の演奏で感動することは難しくなってきます。難儀なことです。ちょっとテンポが速かった遅かった、オケがうまかった、迫力があった、舞台が豪華だった、ピアニストが美人だった、要はそんなマージナルなことで評価が揺らぐことはありません。

相撲の世界で、横綱は蹴たぐりや引き技で勝てばいいというものではないといわれます。いわゆる「横綱相撲」が要求されます。うるさいお客さんたちは過去の名横綱の残像と比べて一番一番をじっくり見ているわけです。クラシックの世界も似ているのではないでしょうか。僕と春の祭典の関係でいうと、まずいきなりブーレーズ盤という超弩級の大横綱の相撲が記憶に焼きついたため、あとから聴いた演奏は全部「横綱にあらず」「不合格」という烙印が脳裏で押されてしまうという悲しい歴史をたどっています。

41SPKGNK6SL__SL500_AA300_ブーレーズ盤は10秒単位ごとに「すごい部分」を書き出せるほどすごい演奏で、一方でそのぐらい微細で正確なメモリー(残像)が自分の頭に入っています。だからもう新しい演奏は意味ないのです。100年たってもこれに勝つ人が出るとは思えないし、ブーレーズ本人のライブでさえ完敗だったので、いまさら誰かの春の祭典を聴きに行きたいなどという自分はどこにもいません。聴きたくなったらもちろんこれを取り出すだけですし、何度聴いても鳥肌が立つほど感動させてくれるのです。

こう思うと、最初に「惚れた(ほれた)」演奏というのはけっこう影響が大きいと実感します。初恋の人ですね。これからクラシックを聴くぞという方に申しあげたいのは、その曲を誰の演奏でまず聴くかをこだわった方がいいということです。前述のようにメモリーは日々更新されるからそんなことはないという意見もあるかもしれませんが、僕が今でも親しめていない音楽は出会いが良くなかったかなというケースが多々あります。そういうことを踏まえながら、ブログを書いていこうと思っています。

クラシック徒然草-3枚のLP音盤-

2013 JUN 3 20:20:33 pm by 東 賢太郎

中古レコードを買いました。1枚目はチェコのスプラフォン盤でモーツァルト(ピアノ協奏曲第9番とハ短調ソナタ)、オケはカレル・アンチェル指揮チェコフィルハーモニー、1960年ごろの最初期のLPレコードです。

写真

チェコ人にとってモーツァルトは特別のようです。交響曲第38番は「プラハ」だし、オペラもドン・ジョバンニや皇帝ティトの慈悲もプラハ初演。フィガロの結婚が最も愛されたのもプラハです。このジャケット、モルダウ川の冬ですが、実にいいですね。これを買ったのはピアニスト、ヒューゴ・シュトイレルとパヴェル・シュテパンが聴きたかったからです。最高でした。この頃のチェコの演奏、チェコフィルもスメタナ弦楽四重奏団もそうですが、音に暖かみがあり、きりりとひき締まったもぎたてのレモンのような切れ味があるのですが、この二人のピアノもまさにその路線です。こんなモーツァルトを今どき誰が弾いてくれるだろう。スプラフォンという当時国営のレーベルの録音もそれを活かす独特の色合いがあります。LPの時代はソ連のメロディア、ハンガリーのフンガロトンなど共産圏レーベルごとにお国ものの味があり面白かったのです。

 

2枚目です。これはにぎやかですね。ドイツ・グラモフォンのフランス盤で、これも1960年前後のものでしょう。「ロシアのこだま」とでもいったアルバム名でしょうか。A面はドレスデン・シュターツカペッレをクルト・ザンデルリンクが指揮したボロディン交響曲第2番。B面はルイ・フレモー指揮モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団によるグリンカの「カマリンスカヤ」、イーゴル・マルケヴィ写真ッチ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団のボロディン「中央アジアの草原にて」、グリンカ「ルスランとルドミュラ序曲」、リヤードフ「交響詩ヨハネの黙示録より」です。フランス人のジャポニズム(日本好き)は昔から有名で、浮世絵にはじまって今はパリの日本アニメ博覧会に200万人も押しかけるというから半端ではありません。また彼らは大のロシア好きでもあって、だからこそバレエ・ルッス(ロシアバレエ団)がパリで人気があり、あのストラヴィンスキーの3大バレエが生まれたのです(この原色的なジャケットを見ているとペトルーシュカを書く彼の心象風景のようなものが浮かんできます)。フランス人はエキゾチックなもの好きなんですね。しかしエキゾチック過ぎたのでしょうか、よく見るとスペルが間違っていて「カマリンスカヤ」が「カラミンスカヤ」になっています。細かいことは気にしないラテン気質、微笑ましいです。

 

そして3枚目。ノルウエーの作曲家、ヨハン・スヴェンセンの交響曲第1番ニ長調です。オランダのフィリップス盤で、1960年代のLPと思われます。2枚目のジャケットと比べる写真 (1)と何と地味なことか。フランスと北欧の違い、ラテンとゲルマンの気質の違いがわかりますね。オド・グリューナー・ヘッゲ指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団のお国もの演奏です。グリーグが初演を聴いて激賞したというこのシンフォニーは25歳の若書きとは思えない立派な作品で、オスロ・フィルがまるでブラームスをやるウィーン・フィルのような思い入れで全身全霊をこめて演奏しているのがわかります。音響の面でも、この頃のフリップス録音のオケの音が僕は大好きで、ことにLPで聴く弦の温かみとぬくもりは滋味あふれるものがあります。これぞヨーロッパの手作りの名品の味わいであり、たぶんあまり売れなかったろうと思いますが極めて素晴らしいレコードです。中古レコード屋はこういう掘り出し物との出会いがあるのでたまりません。以上、心から堪能しましたが、お値段は3枚で1,500円でした。

 

クラシック徒然草-カープの丸選手とクラシック-

2013 APR 26 18:18:00 pm by 東 賢太郎

 

クラシックを聴くもっとも奥の深い楽しみというのは、いろいろな名曲の「同曲異演」を楽しむということと言っていい

もちろん誰かの弾いたショパンの子犬のワルツのCDを1枚だけ持っていて、気の向いたときに、あるいは気晴らしに聴くだけでも大きな楽しみだ。それを自分で弾いてみるというのも、もちろん無上の喜びだ。ふつう、少しだけクラシックに馴染んだ人というのは、だいたいそこで止まっている。それではもったいない。

その同じワルツをコルトー、ルービンシュタイン、アシュケナージで聴き比べてごらんなさい。この曲がお嬢さんの花嫁修業用に書かれたのではなく、実にピアノ的な豊饒な世界が秘められていることは、じっと注意深く耳を澄ましさえすれば誰にでもわかる。弾いている音符はみな一緒だ。でもなんで、こんなに違うのか?こういう気持ちを味わうことが第一歩だ。

いい時代になったものでYou-tubeで子犬のワルツを検索すれば4万8千5百種類もの(主にシロウトの)演奏を聴ける。もちろん、ぜんぶ、違う。ショパンの演奏は残ってないからどれが「正しい」ということもない。いや、以前書いたように、ストラヴィンスキーの自演よりブーレーズのほうがずっといいのだ。ショパンの自演が残っていようがいまいが、誰かが「6歳の子の演奏が良い」と言っても誰も一概に否定などできないのだろう。

そういうなかで、何十年もの歳月を経て、「良い」と言われ続けているコルトー、ルービンシュタイン、アシュケナージの演奏の秘密は何なのか?

同曲異演を聴くというのは、その秘密を探るという形而上学的な試みのことだ。もちろん、自分の耳で。ビートルズの「ヘルプ!」は作曲家の自演があるからそれが「正しい」ということになっている。正しいという言葉に語弊があれば、ヘルプはそういうもんだということになっていると言おう。それを誰も疑問に感じない。もし自演よりいいという演奏を誰かがすれば、その瞬間に、ヘルプはクラシックになるのだ

しかしどんな曲にもそういうことが起きるわけではない。陳腐な曲は誰がどうやろうと、永遠に陳腐だ。演奏家という料理人が曲という食材を活かした調理をしてこそ「さらに良い」という料理ができるのであって、そもそも旨味(うまみ)がない食材は、誰がどう煮ようが焼こうが、うまくないのは自明のことである。クラシックになることのできた曲には、必ずその旨味があるのである。

18世紀末までの音楽家、あのモーツァルトだって基本的にはシンガーソングライターであって、ビートルズと同じだった。19世紀になって、彼の20番のコンチェルトをたとえばフンメルやベートーベンが人前で弾くようになって、モーツァルトは初めて「クラシック」になったのである。そして今の「クラシック音楽」は、残念なことにシンガーソングライターの新作をわくわくして聴く喜びをポップス界に譲ってしまったように見える。

その代わりというのもなんだが、現代人は録音というメディアによって同曲異演という豊穣の海を泳ぐことができるようになった。しかもインターネットのおかげで非常に安価に。この喜びは19世紀まではほとんどなかったか、極めて限られた貴族や金持ちの占有物だった。音楽の市民革命。21世紀人の贅沢だ。もうおしまいの方かもしれないが、少しだけは21世紀人でもある我がシニア世代がこの贅沢を享受しないなんて、ほんとうにもったいないことだ。

話は大きくそれるが、それが結局は本稿の結論ということになるだろう。広島カープで目下クリーンアップを打ってセリーグ打率2位の若手ホープ、丸佳浩(まる よしひろ)選手のことだ。24歳の彼は「のだめカンタービレ」で目覚め、今や「球界一のクラシック通」なのだそうだ。王貞治さんや桑田真澄氏がピアノがうまいのは有名だが、多才な人というのはいるものだ。自分の登場BGMにラフマニノフのピアノ協奏曲2番を使うなどなかなかのものだが「球場ではピアノが聞こえにくい。多くの人にクラシックの良さを知ってもらいたいので今年はチャイコフスキーにする」そうだ。

熾烈なプロ球界の生存競争の中で、しかも打席に向かう緊張の中で、そこまで思っている丸君には驚くしかない。20世紀の若者だった僕らには、きっとそんな余裕はなかったろう。文化というのはある意味で贅沢品である。それを楽しみ味わうには、あらゆる意味で「先進国民の余裕」がなくては到底できることではない。僕らのようにどこか「背伸び」ではなく、当たり前のようにそれを味わえる人が出てきている。21世紀の若者たちのなかには、必ずや日本を強力に牽引してくれる芽が生まれていることを感じ、心強く思う。

 

ボロディンと冨田勲

2013 APR 1 0:00:23 am by 東 賢太郎

ボロディンの「中央アジアの草原にて」、聴いていただけましたでしょうか?

この曲のテーマ、とくに2番目に出てくる「東洋風テーマ」(下のピアノ譜をご覧ください。3小節目からです。オケではイングリッシュ・ホルンが鄙びた音で吹いてます。)の肌にしみいるなつかしさ、人なつっこさ(少なくとも僕にとってはですが・・・)は何なのか、不思議でなりません。イメージ (32)

 

同じような風情のテーマは歌劇「イーゴリ公」の「ダッタン人の踊り」や交響曲第2番にも出てきて、ボロディンのトレードマークといっていいかもしれません。こういうメロディーを書く才というのは、他の作曲家には感じたことがないなあと思っていたら、一人だけ思い当たる方がおられました。

我が国の誇る民族派巨匠、冨田勲です。ドビッシーやホルストをシンセサイザーでアレンジしたアルバムは海外でも評価され、もはや「世界のトミタ」ですね。僕が彼を知ったのは昭和47年のNHK大河ドラマ「新平家物語」のテーマ音楽が好きになったからです。これです。http://youtu.be/2YnWsUXgViU

 

それから、NHK「きょうの料理」のテーマも彼の作品です。日本人でこれを知らない人はほとんどいないでしょう。

 

しかし彼の最高傑作はNHK番組「新日本紀行」のテーマではないでしょうか。君が代を思わせるメロディーと素朴なコードが日本人のこころをぐっととらえる不思議な力を持っているように思います。このメロディーを好きになってくれるなら、どこの国の人でも仲良くなれそう・・・みたいな親和力を秘めている気がいたします。「中央アジア・・・」のメロディーとは似ていないのですが、この「ぐっとくる」感じが、僕にはとても似ているように思えるのです。冨田勲さんを偉大なるアマチュアとは申しませんが、音大作曲科卒ではなく慶応大学文学部卒であるところはボロディンとどこか共通するように思います。

 

(こちらへどうぞ)

ボロディン 交響曲第2番ロ短調

 

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