Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______演奏会の感想

読響定期・コルネリウス・マイスター指揮 R.シュトラウスを聴く

2018 JUN 20 1:01:58 am by 東 賢太郎

サントリーホールに入るとこんなものが目に入り、よく見るとロジェストヴェンスキーの写真が。あれまた来るのか?いや聞いてないぞ・・・嫌な予感が。すぐスマホを開いて知った。知らなかった。脳天を殴られたような衝撃を覚えた。去年の5月、母が旅立つ10日前に芸劇でやったブルックナー5番シャルク版があまりに素晴らしく、「何でもいい、もう一度聞きたい」とブログに書き留めた。こんなに早くそれが叶わぬこととなってしまうとは・・・。数々の忘れ得ぬ思い出があるロジェストヴェンスキーさんについては別稿にしたい。ご冥福をお祈りします。

 

さてこの日のプログラムは以下の通り。

指揮=コルネリウス・マイスター
チェロ=石坂 団十郎
ヴィオラ=柳瀬 省太(読響ソロ・ヴィオラ)

R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」 作品35
R.シュトラウス:歌劇「カプリッチョ」 から前奏曲と月光の音楽
R.シュトラウス:歌劇「影のない女」 による交響的幻想曲

コンサートはロジェストヴェンスキー追悼のチャイコフスキー「くるみ割り人形から」で始まりR.シュトラウスが続いた。結論として、今年最高の演奏会と呼ぶに足る満足と感動をいただいた。まずコンサートマスター小森谷巧氏だ。独りよがりのソリスティックなふるまいがなく音型の造形が端正に決まり、敏捷であるが音程は常に良い。「カプリッチョ」の六重奏など絶妙である。コンマスはソリストではない、この人だと僕は第1Vnに安心して音楽に入ることができる。石坂 団十郎のストラディも最高の美音であった。5列目で聴いていたが陶然とするしかない。

「影のない女」オケ版は初めてだが、R.シュトラウスのオーケストレーションを真近で味わうのは血の滴るステーキを500gを頬張るに匹敵するこの世の贅沢である。この場合はサントリーホールのばらばらな位相がプラスになって、楽器の錯綜した絡みが眼前で展開される様はゴージャスとしか書きようがない。音楽にぐいぐい引きこまれ、引きずり回されて、終わってみると心の底から熱い感動が沸き立ってきた。こんなことはそうない。指揮者コルネリウス・マイスターの力だろう。最高のプログラム、最高にプロフェッショナルな演奏。深謝。

N響定期、アシュケナージのドビッシーを聴く

2018 JUN 10 0:00:50 am by 東 賢太郎

指揮:ウラディーミル・アシュケナージ
ピアノ:ジャン・エフラム・バヴゼ

イベール/祝典序曲
ドビッシー/ピアノと管弦楽のための幻想曲
ドビッシー/牧神の午後への前奏曲
ドビッシー/交響詩「海」

イベールは西村さんがブログに書かれた昭和15年に委嘱された曲。一聴して面白い曲でもないが聴けたのはありがたい。ジャン・エフラム・バヴゼのピアノは高音域のきらめきがとてもきれいで、めったに実演を聴けない幻想曲は楽しめた。アンコールの「花火」はすばらしい、見事なタッチと音彩の使い手でありこれなら前奏曲第2巻全曲を所望したい。後半はいつでも何処でも聴きたい曲目。特に「海」は最も好きなクラシックのひとつで、スコアにあるすべての音が絶対の価値を持って聞こえる。

最近疲れで居眠りすることが多いが、牧神と海だけはアドレナリンが出て開始前から興奮している。どちらもオーケストレーションが!!!何度観ても唖然とする独創。僕は僕なりの色を見ている。海の第1楽章の最後、チェロのソロとイングリッシュホルンのユニゾン!ここはW・ピストン著「管弦楽法」に取り上げられている箇所だがまるで一つの別な楽器のように完璧に調和するのは驚くばかり。シンセで第1楽章を録音したが、この部分からコーダの陽光に煌めく波しぶきまで、作りながら恍惚状態だった。第2楽章は色彩の嵐、第3楽章は再度その恍惚の和声で締めくくられる。一音符たりとも無駄がなく、今日はコルネットを復活した版だったがどちらであれ終結の充足感はゆるぎない。

海のオケを観ながら、これがなければペトルーシュカも春の祭典もなかったなと、弦楽器の書法、シンバル・銅鑼の用法、ティンパニとバスドラの使い分け(打楽器の音色美まで追求!)に感じ入る。とにかくオーケストレーションが図抜けていて凄すぎる。演奏?とてもよかった。アシュケナージは楽器をバランスよく鳴らし、ブレンドさせるのが大変に上手だ。眠くなるどころか、アドレナリンがさらに脳内をめぐっていつになく覚醒して終了。すばらしい「海」をありがとう!

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クリーヴランド管弦楽団を聴く

2018 JUN 8 19:19:19 pm by 東 賢太郎

プロメテウス・プロジェクトと銘打たれたクリーヴランド管弦楽団(以下CLO)ベートーベン(以下LvB)交響曲全曲演奏会(フランツ・ウェルザー=メスト指揮)のうち1,3,5,8,9番を聴いた。関心はジョージ・セルおよびクリストフ・フォン・ドホナーニによる全曲のクオリティの高さ、ブーレーズの春の祭典のオケであることによる。このオケは89年にロンドンでドホナーニによるマーラー5番を聴いただけだからほぼ初めてといえる。3番は天覧演奏会であったことは既述した。

まずは、何度も申し訳ないが、サントリーホール(以下SH)の悲しいアコースティックにつき書かざるを得ない。席は常にSのどこかであり、何十回もここで聞いただろうが、ピアノリサイタルは別としてオケに関して音がいいと思ったことは一度もない。ご異論はあろうが僕は欧、米、香港に16年住み世界の代表的ホールはほぼ全部聴いた。逆にウィーン・フィル(VPO)、チェコ・フィル(CPO)など本拠地での音を知っている世界の代表的オケをSHにおいて聴きもした。その結論をCLOが塗り替えなかったというのが今回の3回の演奏会の結論だからどうしようもない。

SHは音が上方に拡散し楽器の位置が明確にわかる(形状はどことなく似るベルリン・フィルハーモニーは一見そうなりそうだがならない)。残響はあるがブレンドが不十分で低音も拡散してよく鳴らない。僕はフィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックの弦の鳴りとブレンドが悪く低音が「来ない」アコースティックに辟易して2年間も我慢を強いられたが、多くの指揮者があそこで鳴らすのに苦心した文献がある。SHはそれをそのまま体育館に持ち込んで残響をつけたようなものである。今回ウェルザー=メストはコントラバス9本で臨んだがまだ足りない、というより、ブレンドという音響特性上複雑な問題だから12本にしたところで浮いてうるさいだけで解決はしなかったろう。

舞台で指揮者、奏者にどうきこえるのか不明だが、音が遠くまで行かない不安があるのではないか。だから旋律をゆだねられる第1Vnを高音域で歌わせようとなればホール特性、増強した低弦のふたつに対抗する必要から知らず知らず強く弾く傾向になるのではないか。ところがこれが問題だが、奏者の位置がわかるという特性はVn奏者個々の音が分離して聞こえることであって、ピッチのずれやヴィヴラートの揺れ(物理の言葉を借りるなら「位相」の変化)がクリアに聞こえてしまい、図らずもの強めのボウイングで増幅される。奏者個々人は気づかないだろうし指揮者の耳にどうなのか是非伺ってみたい。僕の想像だがそう考えないと説明がつかないほどここのVnの高音域のffはきたない。弦が売りであり、世界の耳の肥えた人が100年以上もそう証言してきたVPOやCPOの弦でもだめだったのだから僕にこの仮説を放棄する理由がない。CLOも同様だった。

それはもちろん演奏側の責任ではない。米国のメジャーはどこもそうだが個々人の音量が大きく敏捷性も高い。カーチス音楽院の学生の技術は大変に高度だったが、あそこの上澄みレベルの人がメジャーオケにいるのだから当たり前である。木管の木質の、特にクラリネットのベルベットのような美音が大きく響いたが隣りのファゴットは唖然とするほど聞こえないなど、これもホールの音響特性の何らかの欠陥と思われる不満もあったが、時にミスが目立ったホルン以外はメジャーの貫禄を見せた。テンポはアレグロは速く、5番はかつて聴いた最速級だ。LvBの交響曲の新機軸のひとつにコントラバスの書法があるが、9本で一糸乱れずのハイテクで広音域を飛び回る大活躍を見ればビジュアルでも圧倒される。しかしそれがあの快速だと「体育館」の残響でかぶってしまうのも困ったものだ。

また、指揮者がタメを一切作らず、むしろ伝統的には伸ばす音符を短めに切り詰めるものだからいつもフレージングが前に前につんのめる感じになる。これが快速と相まって興奮を生む図式なのだろうが、セルやドホナーニはそういうことがなく、ウェルザー=メストの個性とはいえあんまり大人の演奏様式と思わない。彼はLvBを人類に火を持ち込んだプロメテウスになぞらえた説をプログラムノートで開陳している。確かにLvBは音楽に火を持ち込んだが、仮にそうだとしてもそれは動機があっての結果であって、LvBがそうせざるを得なかった身体的理由(心理的動機)の方に重点を置いている僕にしては、あのテンポは皮相的に思える。それなら難しいこと抜きに音楽的快感に徹したカルロス・クライバーに軍配が上がるし彼は5,7番というそのアプローチがあっけらかんと活きる曲で真骨頂を発揮したが、4、6番では落ち、僕の心理的動機説で重要な2,3番はついに手を付けなかったことは逆に評価する。商業的動機と無縁だったクライバーは音楽に正直な男だったのだ。

CLOの8番はセル、クーベリックの名演が耳に焼き付いておりこれが聴きたくて来たようなものだが、まったく大したことなかった。ウェルザー=メストはプログラムで8番の重要性を力説しており、そこにおいては100%支持する。しかしオケは十分にうまかったが、指揮者の芸格が違うという印象しか残っていないから僕は彼とは主張が異なる、気が合わないということなのだろう。9番はソリストがこれまたボディが米国流超重量級で微笑ましい、あそこに日本人が並ぶとしたら力士しかない。米国人はつき合えばすぐわかるが、何であれ強い人が大好き、万事が強さ礼賛、strong, strong ! というわかりやすさである。第2楽章のティンパニ・ソロの5回目も強め、歓喜の歌のVc、Cbによる導入もあっけなく強めと誠に陰影を欠き、対旋律のFgは楽譜にない2番を重ねるのはセル盤の唯一の欠点で、それが理由であれは聴かないが、ちゃんと踏襲されていた。米国で第九は年の瀬のお清め感、お祭り感などとは皆目無縁なのだ。

いつも思うのだが第九でソリストばかりいい格好をするのはどうも違和感がある。そうなってしまう曲だからということにすぎないのだが、4人が歌っている時間は10分もないだろうに、あそこで当然のごとく一人で喝采を浴びてそりゃそうざんしょという態度をとれない人はきっとオペラ歌手に向いてないんだろう。そう思うと野球のピッチャーもその傾向は否定しがたいが、さすがにこの曲は10対8ぐらいの打撃戦でなんとか勝ってあんたお立ち台に立ちますかみたいなものであって、少なくとも僕はむずかしい。

すると、舞台上でふと目についたのだが、ヴィオラの後ろの方で弾いていた白髪のおじいちゃんであった。立ち上がって楽器をもってこちらを向いて軽く一礼する、そのけっして目立たない地味な笑顔と姿がすばらしく素敵で格好いいのだ。男前であるとかそういう部類のことでは一切なく、権威めいた威圧感などまったくなく、家庭では良きパパであったのだろう、ひょっとしてセルの時代から人生をヴィオラとともに誠実に生きてこられたんだろうなという味がじんわりとダンディであって、タキシードとボウタイが似合う。どんな性格俳優だって及ばない、人生がにじみ出た外見だけで心から敬意をいだいてしまう、ああこりゃあすごい、ああやって年を取りたいもんだ。

 

クーベリックのベートーベン3番、8番を聴く

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クリーヴランド管弦楽団演奏会を聴く(天皇、皇后両陛下ご臨席)

2018 JUN 3 0:00:35 am by 東 賢太郎

ベートーヴェン
「プロメテウスの創造物」作品43 序曲
交響曲第1番 ハ長調 作品21
交響曲第3番 変ホ長調 『英雄』 作品55 (サントリーホール)

フランツ・ウェルザー=メスト(指揮)/クリーヴランド管弦楽団

まったく関係ないが、金曜日は東京ドームで日ハム・巨人戦を観戦し、清宮幸太郎の弟・福太郎くんに会った。早実の中等部で投手だそうだが兄貴にそっくりで体格も立派だ。兄は今は二軍であるが前日に本塁打を2本、この日も1本打ったそうで、兄弟楽しみである。

さて今日はサントリーホールでベートーベン・チクルスが始まった。フランツ・ウェルザー=メストはチューリッヒ勤務時代のオペラハウスの音楽監督であり、ずいぶん聞いた。懐かしい。「ばらの騎士」「ホフマン物語」が特に印象に残っている。

1番が終わって休憩後に席に戻ると右手2階席にずらっとカメラが並ぶ。何かと思ったら天皇、皇后両陛下がご入場になり、我々からわずか7,8メートルの席に座られびっくりした。英雄だけ聴かれたわけだが、ウェルザー=メストとは親交を重ねられてきたらしい。

終演後に両陛下に礼をするフランツ・ウエルザー・メスト

天皇、皇后両陛下

オーケストラもご臨席をわかっており、終演後に舞台袖から両陛下を撮影する楽員もあった。こちらもはからずも人生初の天覧演奏会となったが、これだけお近くということ自体が初めてあり、熱演だったエロイカもさることながら両陛下にお疲れ様の気持ちも込めて懸命に拍手させていただいた。

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読響定期・ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番を聴く

2018 MAY 31 0:00:34 am by 東 賢太郎

指揮=イラン・ヴォルコフ
ピアノ=河村 尚子

プロコフィエフ:アメリカ序曲 変ロ長調 作品42
バーンスタイン:交響曲 第2番「不安の時代」
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 ニ短調 作品47

あんまり気乗りしなかったこのコンサート、プロコフィエフのまず機会のないOp.42が聴けたのはありがたい。前衛的ではないままに尖ろうとした曲だ。「不安の時代」はバーンスタインの自演、N響定期に次いで3度目のライブだったが河村 尚子のピアノが音色がカラフルで印象に残った。こっちは無用の尖りがない、現代も調性音楽のいいシンフォニーが書ける好例。バーンスタインは1,3番はユダヤ教徒としての信条を見せており、交響曲と言うものはアイデンティティを問う場なのだなと納得だがこの2番はジャズのイディオムが米国民としてのそれを感じる。

ショスタコーヴィチ。席が5列目と近く、第3楽章の弦のオーケストレーションの見事さに改めて目を見張る。あの高度の洗練、知性の極みにしか存在しえない美の世界からアタッカで入る終楽章の野蛮、粗暴、無知。ここに作曲の意図があると考えれば聴ける。あとは調性設計。うまいなあと感服。ドタバタの終楽章もそれについては満点。ショスタコーヴィチの驚異的な天才を今更ながら確認してそれに深い感動を覚えた。演奏はたいそう立派なフルスロットルの力演といえ、これだけオケが鳴れば有無を言わせぬ快感が得られるというもの。最高の非日常体験として久々に5番を楽しめたのがうれしい。ヴォルコフという初めて聞く指揮者の力量は高いと思った。

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47

 

 

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N響定期(シベリウス「4つの伝説」など)

2018 MAY 14 1:01:57 am by 東 賢太郎

ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
シベリウス/交響詩「4つの伝説」作品22 ―「レンミンケイネンと乙女たち」「トゥオネラの白鳥」「トゥオネラのレンミンケイネン」「レンミンケイネンの帰郷」
指揮 : パーヴォ・ヤルヴィ
ヴァイオリン : クリスティアン・テツラフ

テツラフは4年前にカルテットを聴いて面白かった。この日のベートーベンも期待はあったが、結果としてやや考えさせられる。プログラムによるとヤルヴィは曲によって異なる「サウンド」を重要な要素と考えるそうだが、ここでは古楽器演奏に近いものだったように思う。管も弦もここというパッセージは強めに浮き出て主張する。ティンパニは皮である。

ところがテツラフのカデンツァは独自なのは結構だがティンパニが入るなど、アーノンクールとやったクレメールほどではないがやはり現代を感じさせる。これが擬古的なオーケストラと調和しない感覚が断ち切れなかった。古楽器オケで伴奏するドン・ジョバンニが革ジャンで出てくる感じとでもいおうか。テツラフは音量があり熱演であったがピッチは甘く、そういう曲でないとしか言いようがない。

シベリウスはなかなか実演がない「4つの伝説」。これは良かった。こっちに時間をかけたのだろう、オケのサウンドはまさにシベリウスではまっている。4曲で1時間近くかかるこの曲は交響曲に匹敵する充実感が得られ、久々にシベリウスを堪能した。親父は十八番であり、パーヴォの2番はあんまり気に入らなかった記憶があるが、これならいい線だ。N響で交響曲をぜひ全曲やってほしい。

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アンヌ・ケフェレックを聴く

2018 APR 26 23:23:27 pm by 東 賢太郎

指揮 上岡敏之
ピアノ アンヌ・ケフェレック

新日本フィルハーモニー交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491
ブルックナー:交響曲第6番 イ長調

先日のピリスに続き、こちらも実演は初めてのケフェレックを聴く。パリ生まれの70才。ヴァージンレコードのラヴェル・ピアノ曲集はリズムに個性がありフレーズごとに一音ごとに音価を変転させ粘る。クープランの墓はその結果ロマンティックに響きやや抵抗がある。テクニック的にも徹底したヴィルテュオーゾということもなく、対位法の立体感が甘くてやや平板。品の良さが売りのピアニストかという中途半端な印象があった。しかし「亡き王女のパヴァーヌ」の中間部や「悲しげな鳥たち」ではその粘りがピアニシモでふわりと一瞬宙に浮く、そのポエティックで微妙な溜めは存外に蠱惑的であって、この人のピアニズムの不思議を醸し出していたのも記憶にあった。

モーツァルトのピアノ協奏曲第24番は特別なエモーションを感じる、僕にとって格別な曲だ。甘ちゃんのピアニストに弾いてほしくない。結論としてケフェレックの固有の弱音美が活き、指揮もオケも好演という事もあり十分に楽しんだ。しかし彼女独自の「時間感覚」はコンチェルトでなく独奏で聴きたかったという欲求不満も残る。アンコールに弾いたヘンデルのメヌエット・ト短調(ケンプ版)はその留飲を下げる大変な名演で、まったりと流れに支配される数分間、ただただ聞き惚れるという至福のピアノ演奏。先に書いたパヴァーヌの間と溜めのポエジー、和音の天の配剤のように美しいバランス。この体験は深い。

ブルックナーは第2楽章に実に感じ入った。いままでで一番素晴らしい。フランクフルト時代に娘のピアノの先生に指揮を習ってみたいと言ったら、紹介しますよとなったのが上岡敏之さんだった。結局実現せずもっと暇な会社だったら良かったと思ったが、恥さらしをしなくてよかったとも思う。上岡さんはもっと聴いてみたいという意欲が出てきた。ケフェレックさんにサインをもらい、ちょっとお礼を述べてから横浜みなとみらいホールを退散。いつもながらミーハーだ。

 

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マリア・ジョアオ・ピリス最後の公演

2018 APR 18 2:02:47 am by 東 賢太郎

4月17日 19:00 サントリーホール

モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333
シューベルト:4つの即興曲 Op.142, D935

モーツァルトK332。10年ぐらい前に第1,2楽章を練習してよく弾いた大好きなソナタ。第1楽章アレグロがやや速めかなというテンポで入るが、オペラ・ブッファのいそがしい場面みたいに次々とあれやこれやエピソードが急転する楽章なのに不思議と饒舌よりエレガントにきこえる。アダージョはもっとロマンに深入りできる楽章だが古典的均整を見せ終楽章は流麗に美音がかけめぐる。K333は典雅に始まり、まったく清楚だ。第2楽章はK332にも増して暗い陰を投影する謎めいた部分が出てくるがここも深い。素晴らしいニュアンス、若鮎のように流れるフレージングの絶妙の伸縮と間。これぞピリスのモーツァルトであり一世を風靡したのがもっともである。

僕にとってモーツァルトのピアノ曲を聴くということは、旋律の隅々まで、律動のゆらぎや無音の間や和音の一音一音の細部までに研ぎ澄ませた意識の光を照射してコクを味わうことだ。鑑賞というより観察に近いかもしれないが、耳がそうなるのはモーツァルトだけであり、それで味わうに足る演奏などそんなに存在しない。神経がそうなるとこちらも疲労するのであって、その労に報われない演奏とわかるとすぐ集中が切れてしまう。

ピリスのものはどこの細部に神経の光を照射しても、そこにそれを上回る彼女の神経がまわっており、わずかなほつれも見つからず、こちらが苦労すれば喜びが倍にもなって帰ってくる。これはミスタッチがあるないという卑俗なレベルのことではない、本当にすごいことだ。頭によるコントロールと指の訓練による人工的な、よく遭遇する、モーツァルトは珠を転がすような美音で弾かれるべきだという空疎な勘違いの観がいささかもなく、正に天衣無縫である。前回に音楽は演奏者の人格と書いたが、この人はきっとそういう人で、そう生きてきてそう生活しているのだろう、だからああいう音楽になるのだろうとしか考えられない。

カサドシュ、ハスキル、ヘブラー、クラウス、アンダ、カーゾン、グルダ、ゼルキン、モラヴェッツなど心をとらえるモーツァルトを聴かせてくれた人がみんな鬼籍に入ってしまった。ピリスまで引退してしまうとモーツァルトをきかせる人は内田光子しかいなくなってしまうということなのだろうか。ショパンをうまく聞かせる人はいくらもいるが、僕はその良い聴き手になりようがない。

後半のシューベルトD935。これは最晩年の少し怖いところを含んだ音楽で第1曲の主題に半音がまとわりつくところは未完成交響曲第1楽章第1主題を思わせる。演奏はしかしそのような外縁に意識を押しやることなく、ひたすら高い集中力で内に向かう。この世のものと思われぬバランスのとれた美しいピアノの音(ね)。過度に煌めかず楚々と光る高音。フォルテはその音域でささやくピアニシモがそのままの質感で大きくなったもので、いささかも粗暴に響かない。アンコールの3つのピアノ曲より変ホ長調はピアノ演奏として未曽有の聴体験だった。

ベートーベンのときと同じく、心がえもいえぬ満足感に満ちていて食欲すら感じない、帰途についても体が芯からから温まっていて涙が自然に溢れる。頭には「ありがとう」という言葉しか浮かばない。きっと曲目のせいではないのだろう。生まれてこのかた彼女の2度の演奏会にしか経験すらなかったことだが、これはもう二度とやってこないのか。ピリスさん、ほんとうにありがとう。

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ブロムシュテット/N響の幻想交響曲を聴く

2018 APR 16 0:00:14 am by 東 賢太郎

幻想交響曲を久々に聴いた。ブロムシュテット(N響)ということで、これはどうしてもという気になった。この曲がドイツ語圏(ハプスブルグ王朝支配圏)で どう扱われてきたかはフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、コンヴィチュニー、シューリヒト、E・クライバー(息子も)、ベームが振っていないことで推察できる(トスカニーニも然りである)。フランス人がベートーベンを敬意をもって受容した裏返しのことは100年たってもなかったという風に見える。

ラテン系、ユダヤ系が得意としている事実を知ると上記のワグナー、ブルックナー、シューマン、ブラームスをうまく振る人たちとの断層を感じないだろうか。理由は不明だが、独仏の文化的相違と言っては巨視的に過ぎる。フランス器楽音楽への軽視(蔑視)、和声や対位法やバスの扱いがドイツの作曲法の文法で書かれていないこと、楽器法が斬新極まりない(ドイツ的には妙である)こと、題材が不道徳であること、フランス革命を連想させること等々いくつも論じられようが、総じてこの音楽が作曲当時として、あらゆる意味でいかに特異な音楽かという点に行き着く。

その視点からスコアを観て、4年前にこう記した。こんなブログはもう書けない、愛着あるもののひとつだ。

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

これをスウェーデン系のブロムシュテットが振る。彼はなにやらドイツ物の巨匠とされてしまったが、僕としてはN響とやって心から畏敬の念をいだいたのはシベリウスだけだ。

前半にベルワルド交響曲第3番という自国の作品を置いた。正直なところ僕にはあんまり面白い曲ではなかった。これを50手前で書いた人と27才で幻想交響曲を書いた人を並べてどうのという気には到底ならないが、この配置は指揮者がスウェーデン系という立ち位置で幻想を振るよという宣告なら意味深い。

幻想は1、4楽章の繰り返しありで筋肉質のアンサンブルだがあまり湿度を感じないのはブロムシュテットのドイツ物、チャイコフスキーと同じ印象だ。テンポやフレージングで特にユニークなことはなく正攻法。第4楽章冒頭のミュートのホルン、終楽章のフルートの妖怪風グリッサンドなどは普通に強調され、そういう奇天烈を抑え気味にする傾向のドイツ系指揮者の伝統回帰センスとは異なるものを見せる。

1830年、ベートーベン死後すぐの27才の若者の奇天烈が、188年後の63才の耳を驚かせる。耳にたこができるほど何度も聴いているのに!そのことこそが驚天動地でなくて何だろう。

曲想と調性感は女に狂った若者の心をなぞって時々刻々と変転し、第1楽章の終結部と第3楽章を除いて一時も平静に収まることがない。それが古典派の大枠をぎりぎり超えることがなく、完璧な均整と調和で書かれた三和音による調性音楽となんら遜色ない盤石の満足感を残すのは奇跡というしかない。文法は異なっても、それはベートーベンの音楽が残すそれと対比しても良いのではという思いをもって帰路についた。

これは聴きに来てよかった、ブロムシュテットとN響に感謝。そして何より、ヴィヴァ・ベルリオーズだ。

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マリア・ジョアオ・ピリス演奏会を聴く

2018 APR 14 1:01:13 am by 東 賢太郎

あの32番は名演として語り継がれるだろう。

目には見えない何か偉大なものに接している感覚というのは、人生そうあるものではない。息をひそめた聴衆の尋常でない気配と空気がサントリーホールに満ち、最後のピアニシモが天空に吸い込まれると、自分が何に感動して涙まで流しているのかわからない。音楽を聴いてそういうことは、長い記憶をたどってもあまりない。

第一曲の悲愴はあれっという感じだった。引退を決めたのはこういうことかと落胆し、今日はそういう思いに付き合うことを覚悟した。それが第3楽章あたりから波長が音楽と合いはじめる。次のテンペストはぐっと集中力が増し、無用な力感や興奮は回避してこういうレガートなタッチでもベートーベンになるのかと感嘆する。

休憩があって、さて32番だ。聴くこちらも集中力が高まり、どんどん俗界から音楽に没入していく。こんなことは久しぶりだ。いかにピリスのオーラが強かったかということであり、この人は日本のラストコンサートにこれを弾くためにやってきたのだ。最晩年のベートーベンが書いた神のごとき音符がこんなものだったとは・・・。これは天から降ってきた啓示のようなものであり、僕は初めてそれをはっきりと感じた。

音楽というものは演奏するその人の全人格を投影したものだ。舞台を歩く姿が、その表情の変化が、もっといえば存在が音楽そのものに感じられる彼女が弾くと32番はああいう姿になる。人格とは性格だけのことではない、育ちであり経験であり思想であり教養であり信仰であり主張でもある。32番のような音楽はそういうものをすべて包含した人格が熟しきらないと弾けない、弾いてもいいが熟した聴衆にメッセージが感受されない。

なんという恐ろしい音楽だろう。

彼女の名前表記はマリア・ジョアン・ピレシュとされる傾向があるようだが、こういうことはあんまり意味がないように思う。ベートーベンをベートーヴェンと書く人もいるが、そんなに表音の正確性を期したいならビートホーフェンと書くべきである。日本語のphonetic notation(音声表記法)は限界があり、マックダァーナルドゥと書いてハンバーガー屋をイメージできる人はあまりいないだろう。マクドナルドは単なる認識上の「符号」なのであり、そんなものを不正確に気どったところで所詮なんちゃっての域を出ない。

我々昭和人類にとっては彼女は断じてマリア・ジョアオ・ピリスである。そうでないとしっくりこないのでそう書く。ピリスのモーツァルトは大好きでLP時代から持っており、高純度の美音に惹かれてきたから僕はファンといえるだろう。レコードできくあの繊細なピアニシモやコケットなスタッカートは見事なレガートを生地に生み出され、ベートーベンを弾いているとは思えない脱力したポスチャーが音色に効いていることを舞台で見て初めて知った。

来週のモーツァルト、シューベルトが本当の最後、楽しみだ。

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