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ブルックナー 交響曲第8番ハ短調

2019 FEB 16 21:21:09 pm by 東 賢太郎

僕にとってときどき麻薬のように禁断症状があって欲しくなるのがブルックナーの第8交響曲だ。先週末にそれになってしまい、次々とかけた。カイルベルト、ベーム、ジュリーニ、ヨッフム、ハイティンク、バレンボイム。6時間以上どっぷりと8番漬けだが、こうなると1週間ぐらいは寝ても覚めても常時頭の中でこの曲のどこかが鳴っているという事態に陥る。実に常習性のある有機的でねちっこい和声プログレッションであり、ワーグナーが元祖であることは疑いもないが、ブルックナーのインヴェンションであることも同様に疑いがない。こういうものを書いた人は後にも先にもなく、どうしてこの人が自分よりはるかに才能のない弟子や友人の意見で右往左往してスコアの改定を重ねたのか常識的には分かりかねるが、8番初演の4か月後にマーラーへ送ったこの手紙を読めば手に取るようにわかる。

抄訳

「親愛なる友よ、私の作品への忍耐と勇気を持っていただいていることに心より感謝します。私の音楽を何十年もたってから理解するようなハンブルグのひどい聴衆と評論家に囲まれながらね。貴君にとってハンブルグでになにか耳新しいものをわからせるのは至難の業のはずです。ウィーンの評論家はふたり(ハンスリックととるに足らないもう一人)を除けばずっと進歩的ですが。堂々たる英雄であられるマーラー君、なにとぞこのまま私の側についていてください、特に4番(ロマンティック)を広めるために。8番はまだハンブルグには早すぎます(とはいえウィーンではかつてないことにそこそこ受けたのですが)。

(追伸)
ハンス・リヒターは8番をウィーンで初演して熱狂し、私をベートーベン以来のシンフォニストだと言ってくれています。ワーグナーも夕食の時にこう言いました、『絶対音楽でベートーベンとブルックナーに比肩できるのは自分しかいない』とね。こういうお言葉をもらうと心からほっとします。ハンブルグで亡くなったエドゥアルド・マルクスゼン、彼はブラームスの先生ですが、彼だって一度そういう趣旨の手紙をくれ、ほっとさせてくれたのです。」

この手紙は、マーラーを自分の陣営に取り込んでおきたい一心で書いた営業レターだろう。マーラーはこの手紙を受け取ったころ、ブタペストで初演した「巨人」の第2稿、および第2番「復活」を書いていたが、ブルックナーの目にはまだライバルのシンフォニストではなく、36才下でワーグナー作品上演に熱心な「ハンブルク州立歌劇場芸術監督、グスタフ・マーラー」であった。しかもオーストリア人でウィーン大学での教え子だ。ハンブルグはハンザ同盟の自由都市でプロテスタントだがドイツの都市ではユダヤ人が多く居住しており、そちらの人脈もある。

ウィーン生まれで1才下のエドゥアルト・ハンスリック(Eduard Hanslick, 1825 – 1904)というブラームス派の有力評論家はブルックナーの不倶戴天の政敵であったが、不安なことにハンブルグはライバルのブラームスの故郷であり、マーラーの前任者ハンス・フォン・ビューローはブラームス派だ。そこで「追伸」として師匠と慕うワーグナーの挿話を紹介したのだが、さらに足りない気がしてきたのだろう、「マルクスゼンも誉めてくれた」と追い打ちをかけ、しかも、ボヘミア出身のマーラーが知らないかもしれないと思ったのだろう「彼はブラームスの先生」であり「ハンブルグで亡くなった」とまでダメ押ししている。教え子であり作品に好意を持ってくれているマーラーだが、その好意が続く確信を持てておらず、敵方に寝返らないようお追従としつこいほどの権威付け情報満載で念を押しているのだ。これほどの支持基盤への不安が作品改定の理由となってシャルク版、ハース版、ノヴァーク版が生まれたのであり、このダメ押しの「くどさ」は彼の交響曲作法そのものでもあり非常に興味深い。

ブルックナーの交響曲のピアノリダクションはpetrucciで手に入る。有り難い時代になったものだ。僕は大学4年の夏にバッファロー大学に1ヶ月語学留学した折に図書館で火の鳥、シューマン第1交響曲のピアノリダクションスコアを発見して狂喜し、随分の時間と労力とお金をかけてコピーして帰った。今は何のことない、そんなものは家で15分もあればタダでプリントできるのだ。ブルックナーをピアノソロで弾けるなんて考えたこともなかった(難しい。8番は7番にも増して、非常に難しい)。余談になるが、この経験を通して僕は音楽著作権に問題意識ができた。物理や生化学の発明、発見にはノーベル賞が出るが数学にはない。数学は神が作ったものだからというらしいが、それならDNAの二重螺旋構造もそうだ。神が作った物理法則を駆使した青色発光ダイオードが発明なら音の周波数法則を駆使した作曲も発明ではないのか。主観的価値ではあるだろうが、では文学賞、平和賞は何なのか。辻褄が合わないのである。

人類に絶大な喜びを創造して残してくれたベートーベンやブルックナーの能力がアインシュタインやワトソン・クリックに比べて劣るとは思わないが、その評価をするのは後世なのだ。人は賞や教育の権威付けで動く。作曲という功績にそれが足りないというのが僕の認識だが、最低限の金銭的価値までが時限性があって、著作権が切れれば無料コンテンツと化して低俗なテレビ番組やコマーシャルのBGMに貶められてしまう現実には憤りを覚えるしかない。音楽の恩恵を人生に渡って享受した僕がその創造主である作曲家に感謝を捧げるのは人の道として当然であり、一聴衆としてしか音楽に関わりを持てない以上はブログでも書くしかない。

そうやっていまブルックナー8番について、この曲が素晴らしいというプロパガンダを書こうということになっているわけだが、彼の音楽というものはバロック様式の壮麗な教会のようなものだ。その空間に身を置いて五感で味わって初めてわかる「体験型音楽」であって、形式論的に構造をアナリーゼしたり、誰がどこをどう校訂した何々版が原典版とどう違うというようなことはあまり本質的な意味をなさないように思う。彼が少年時代に聖歌隊で歌い、オルガニストを勤めたザンクト・フローリアン修道院の内部の写真をご覧いただきたい。彼の演奏はこの空間の深い残響のなかにこだましていたのだという包括的なイメージをお持ちいただくことのほうがよほど大事だろう

この空間でブルックナーは交響曲の響きをどう発想したのか?下の録音はここでブルックナーが弾いたお気に入りのオルガンで第5交響曲について説明したものだ(彼はこのオルガンの下に葬られている)。彼にとってオーケストラの音響はオルガンであり、教会のアコースティックがどれほど不可分の意味を持っているか、それがブルックナーの楽曲の本質にいかに寄与するものかがお分かりいただけるだろうか。

次は大理石の広間をご覧いただきたい。フランスのルイ14世様式を範にしたドイツ語圏のバロック建築様式はしばしば装飾過多であることで知られているが、まさにその例だ。

大理石の広間

図書館は装飾過多をさらに逸脱し、混沌に踏み込んだ一個の壮麗な、見ようによってはグロテスクな世界すら確立している。ブルックナー体験を多く積まれた方は、これが彼の音楽のヴィジョンにどこか共鳴して見えないだろうか?

図書館

ブルックナーが「体験型音楽」というのは、そこに参加して佇(たたず)んでいればわかるという肯定的な意味と、総合的なヴィジョンがないとわけがわからないという否定的意味を含んでいる点においてワーグナーの楽劇に近い。バイロイト祝祭劇場で5時間じっとして「貴方は何を感じましたか?」と問われるようなものだ。僕はサッカーをスタジアムでは4、5回しか観戦していないから貴方にとってサッカーとは?と問われると「ミラノのサン・シーロで8万人のスタンドが揺れて怖かった」ぐらいしか出てこない。サッカー経験はなく知識も乏しいから、また行くとすればあの「揺れ」の興奮めあてになろう。バイロイトの聖なる密閉空間も体験型だ(一度で充分)。「そこに参加して佇む」ことに意義がある。マーラー、ブルックナーは第九と同様に客席が埋まるから供給サイドの人気演目だが、それは両方好きだという「百人超の大管弦楽大音響サウンドファン」もいるからだ。ブルックナーはハンブルグが俺の曲をわかるのに何十年もかかる(understand my works only after decades)と揶揄したが、あまり心配はいらなかった。

8番で最も人口に膾炙して猫にも杓子にも有名なところというと、おそらく第4楽章の入りだ。コサックの進軍を描いた前打音付きのユニゾンの弦の嬰ヘ音はクレッシェンドして ff になるが、僕には入りの p が耳の奥底ですでに響いていた幻聴のようににきこえる。再現部で不意にやってくる2度目は、さらに幻聴以外の何物でもない。

嬰ヘ音は耳が根音(ド)と錯覚するが、実はそうではなくミであり、つまりDの和音であって、ここでまず長3度下がった感じがする。この「長3度下げの麻薬」が楽章中にばらまかれる。次いでB♭m、G♭、D♭と移行するが根音はレ→シ♭→ソ♭とその麻薬の連発で、最後にレ♭と4度落ちてあたかもトニック然と着地するが、それは出発点のDの半音下であったという実に不思議な転調だ。こんなものがいきなり直撃するわけだが、12音音列のように理屈は通るが人口に膾炙しないものではなく、日本のTV番組のテーマソングに使われてしまうほど誰の耳にも「生理的に劇的な効果」がある。麻薬と書くのはそういう含みであり、それはこの楽章のコーダへ向けたクライマックスを pp で準備する非常に印象的な部分で葬列のように繰り返される。

麻薬の発明者はブルックナーではない。ベートーベンが愛用したのは有名だ(ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、悲愴ソナタetc)がそれは楽章単位のことで、8番のように小節単位で3回も連続技で繰り出すとなると効きが違う。ベートーベンが魅力的な和声のイノベーターだったとはあまり言われないし音楽の教科書にも書いてない。しかし例えば悲愴ソナタの第1楽章をご自分で弾いてみれば、実はそうだったと誰でも思うだろう。それに反応したのがワーグナーでありついにトリスタンという和声の魔宮を築いてしまう。それは機能和声的に「解決」しないという「寸止めの王国」であり、ブルックナーは機能和声的解決に聞こえるが「着地が少しズレた王国」を築いた。これはザンクト・フローリアン修道院のごとくオーストリアのバロック建築的だともいえる。

第4楽章はどういうわけか、僕には敬虔なカトリック教徒としてのブルックナーの信仰心ようなものよりも、彼が悪夢にでもうなされて観た地獄絵に近いものを感じてしまう。第2楽章の悪魔のダンスのような奇怪な楽想もそうだ。いつも思い出すのはルネッサンス期のフランドルの画家、ヒエロニムス・ボス(昔はボッシュと呼んでたが)の地獄と怪物の絵だ。

ヒエロニムス・ボス
祭壇画「聖アントニウスの誘惑」(リスボン国立美術館)

ボスの絵画は当時異端扱いされなかった(むしろ貴族に人気があった)が、宇宙の一環をなす人間、生物の本性を暴き出したリアリズムと受容されたのではないだろうか。僕はブルックナーにボスの如き神性と悪夢の両方を見てしまうが、ティーンエイジャーの女の子に70になっても求婚し続け、死と死体に病的な関心を持ち、自分が死んだら遺体に防腐処理をしてくれと遺言したこの大作曲家はその両面を持っていたように思う。彼は芽のありそうな10代の女の子の名がずらりと並んだリストを持っており、次々と求婚したがすべて失敗した。一度だけ、ベルリンのホテルメイドだったイダ・ブーツとついに婚約まで至った。人生の陽光だったに違いないが、破棄されてしまう。イダがカソリックへの改宗を拒んだからだった。彼はひどく傷ついて何度も鬱病の発作に襲われた。

ブルックナーは交響曲第8番のスケルツォを作曲するにあたってDer Deutsche Michel(ドイツのミヒェル)を想起したと語っている。それは日本では「野人」と訳されている。しかしドイツのミヒェルはドイツ帝国の擬人化で、英国のジョン・ブル、米国のアンクル・サムに相当する新興のドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)のアイデンティティ形成のための象徴的国民像であり、狡猾な周辺国に容易に騙される無知、天真爛漫で愚かしい男だが一旦怒ると手ごわいとでもいう国威発揚のイメージキャラクターである。野人より薩摩の「隼人」や土佐の「いごっそう」のコンセプトに近いと思われる。パルシファルを書いたワーグナーは「私はもっともドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と日記に記し、「古代末期にローマ帝国を滅ぼして新生ヨーロッパを作ったゲルマン民族と同じ国民だ」と論じているが、現代中国でどこへ行っても「自分は漢民族だ」という輩に遭遇するのと似たものだろう。ブルックナーのミヒェルはオーストリアのカソリックというアイデンティティの困惑であり、プロテスタントであるブラームスのハンブルグ、イダ・ブーツのベルリンとのコンフリクトのトラウマとそれに対する開き直りかもしれないと僕は解釈している。

Anton Bruckner (1824 – 1896)

ブルックナーは風采や言葉やマナーで田舎者扱いされた記録の枚挙にいとまがなく、8番でのDer Deutsche Michel発言に彼の属人的なキャラクターが混合して逆流し、彼自身が全人格的に野人だったというイメージが流布しているがそれは都市伝説だ。彼の頭脳は科学者のごとく怜悧で、敬虔な司祭であると同時にむしろmatter-of-fact-manであり、文学より和声法と対位法を駆使した有機体を生み出す厳格な作曲技法に関心があった人と確信する。もし聴き手が彼の楽想に神を感じるとするならば、それは彼のカソリックへの真摯な帰依に由来するのだろうが、それは天地創造の神と彼の創造する有機体が矛盾しないという信心においてmatter-of-fact-manである性格とも矛盾しない。彼の肥沃かつ鋭敏な調性感覚は真の意味で超人的であり、その点では同じ資質であったが文学に傾斜する性向もあったワーグナーへの傾倒はそこに起因しているだろう。神=作曲原理という保守性と、持って生まれた超越的な調性感覚が生み出す麻薬が彼の音楽を際立たせ、異教徒の我々までを陶酔させる。その結合が最高の完成度で達成された作品が交響曲第8番であった。

ヘルベルト・フォン・カラヤンが8番を初演したウィーン・フィルとザンクト・フローリアン修道院で演奏したものだ。

まるで8番のように長くなってしまったが、最後に、僕の8番体験のルーツとなった1983年のスタニスラフ・スクロヴァチェフスキー、及び、1993年のギュンター・ヴァントに表敬したい。前者はここに書いたスクロヴァチェフスキーとの会話)。読響(2002年9月12日、芸術劇場)でも聴いた。こちらは亡くなる10か月前のベルリンでのライブ(ベルリン放送響)。実際に聴いた投稿者の方のコメントに共感する。

ヴァントのほうは場所がフランクフルト・アルテオーパーでオーケストラは北ドイツ放送交響楽団、1993年10月17日の演奏会であった。亡くなる9年前のこの頃がヴァントの最後の輝きだったと思うが、天国のように見事な8番であった。幸い同年12月のハンブルクにおける北ドイツ放送響定期でのライヴ録音がCDになっており、腰が曲がっていたが振り始めると矍鑠とした指揮台の姿を思い出す。彼の8番は複数あるがこれがベストだ。

 

クラシック徒然草-ブルックナーを振れる指揮者は?-

クレンペラーのブルックナー8番について

 

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