指揮者・村中大祐夫妻との素晴らしい夕食
2025 NOV 29 13:13:39 pm by 東 賢太郎
ショックなことがあると音楽を受け付けなくなってしまう。ながら聞きができないので没入してしまい、僕においては薬理的な作用すら働くと思われ、深い喜怒哀楽の情に結びついて危険なこともあるからだ。今回もそれであり、11月7日から ”断食” 状態にあったのである。 2週間ほど経って恐る恐るその禁を破ることになったのは、 11月5日にある方と食事をしてCDを頂き、その感想を書く約束になっていたからだ。指揮者の村中大祐氏である。しかも曲目がマーラーの9番だった。斯様な心持ちの時にはチャイコフスキーの悲愴と双璧の恐ろしさである。
しばし悩んだ。何か先に聞いて “解毒” しなくてはいけない。しかし答えは意外にすんなり出た。 51年前に買ったこのレコードだ。まずマーラーであること。そして48年前にAIアトラスの電波かもしれないWOWシグナルを浴びた時にスタインバーグ指揮のサンフランシスコ響で聴き、危険な目にもあった深い縁もあること。これでダメなら諦めるしかないだろう。
僕は第4楽章の第2主題が大好きだ。心に棲みつくほど好きで好きでたまらず、易しいニ長調の譜面で何度も何度もひいてはデリシャスな和声に恍惚となってる。まずそれをした。大丈夫。これでワルターの演奏がすんなり入ってきた。昨今の力こぶの入った演奏をたくさん聴いているせいか大人しめに感じるが、やっぱりこれが初めての演奏、おふくろの味は強いのだ。
村中大祐氏は今年一緒に読響定期を聞いてきた友人D氏の紹介で一度会いましょうということになっており、ご夫婦がひいきの広尾のイタリア料理店Incantoでディナーになった。いきなりご自身の指揮したマーラー9番のCDを差し出され、感想を聞かせてくださいという会話からスタートしたのがことの発端だ。

会話の覚えているところを交えて様子を記してみる。
京都市交響楽団のブラームス交響曲第2番、youtubeで聴きましたよ、ええ、とても好きな演奏でした。ペーター・マークのお弟子さんなんですか、そういえば僕がプラハ交響曲を覚えたのは大学時代に生協で買った彼がロンドン響を振ったデッカのレコードだったんです、ぺイエでしたかクラリネットコンチェルトが裏面のね。それは御縁ですね、モーツァルトが好きになるきっかけとなった思い出のレコードですからね。マドリッドのオケとのハ短調ミサ曲もよく聴きますよ。
村中氏はウィーン国立音楽大学で指揮を学びトーティ・ダル・モンテ国際オペラコンクール指揮部門「ボッテーガ」と第1回マリオ・グゼッラ国際指揮者コンクールで、いずれも第1位を獲得。6か国を話しイタリアでオペラを中心に20年ぐらい修行を重ねクラウディオ・アバドにも学んでいる。2015年、英国チャールズ皇太子御臨席演奏会で演奏したシューベルトの「悲劇的」とベートーヴェンの「エグモント」が英国人から絶賛され、イギリス室内管弦楽団より国際招聘指揮者というタイトルが付与されている。僕は英国人をよく知っている。伊達や酔狂でこういうことはまず起きない。
子供の頃から熱中したピアノが好きで、ピアニストになりたかったゆえ指揮もピアノを弾くようにやりたいという。シューマンのクライスレリアーナの録音をミヒャエル・ギーレンが聞いて褒めてくれたことが自信になったそうだ。そうですか、ギーレンはドイツにいた時分にバーデンバーデンのオーケストラを何回か聞きました。よく覚えてます。ただ者の指揮者じゃないですね、あの人が褒めたってのは折り紙付きです、まあそれもそうだけどクライスレリアーナがそんなに弾けるってのもね(笑)。ペーター・マークの魔笛に衝撃を受け、楽屋に乗り込んで土下座して弟子にしてくださいと訴えてその場でokを貰ったという熱いエピソードをお持ちだ。 ご臨終までのお付き合いだったそうだ。 そうですか、ということはフルトヴェングラーの孫弟子。素晴らしいキャリア羨ましいですね、僕も高校のころ指揮者になりたくて音大に行きたいって親に言ったことがありましてね、母は賛成でしたが父が頑としてダメでね、東大に入れって。言うこと聞いたけどあんまりいいことなかったですね(笑)。
音楽もさることながら、ヨーロッパで長いこと過ごした同士、音楽や人生や日本人に対する考え方はとても共感があった。外国に居ればいるほど愛国者になるなんてのは特に。村中さんはまず人間としてとてもしっかりした熱いもの、目標に対する強烈なアンビションと人生哲学を持っておられる。それってすごいことなんです、めったにいないからそういう人は例外なく好きなんです。今いっしょに仕事してるたちも40から50ぐらいだけどそういう人ばかりです。日本人ってね、優秀だし道徳心や思いやりがあっていい人が多いんです、でも付和雷同で事なかれ主義で、自分を表に出さないほうがいいと思ってる。といって裏では悪口言って面従腹背だったりする人も多いんです。ご存知の通り世界はそうじゃない人が9割ですからね、成功していようがいまいがね。移民を制限したっていずれ負けちゃいますね。親の世代がそうじゃないなら国が教育を見直さないといけません、若者がどんどん外国に出て行かなくちゃいけない、僕の若い頃はアメリカに留学したい人なんてゴマンといたしその気運がものすごくあったんです。人間てね、経営者や政治家が典型ですが2世3世になると親の遺産の守りに入っちゃう。失われた30年ってね、政治のせいばっかりじゃない、それもあるんです。だって高度成長期だって政治のおかげでできたわけじゃないですからね。
いい人に出会えた。村中さんもそう思って下さったならうれしいが、こんな質問を頂いた。人生これまで何をいちばん心がけてこられましたか?うーん、いい質問ですねえ、考えたことありませんでした、若い頃なんかガムシャラなだけで全然ね、もしあるとすれば、自分らしく生きているだろうかということですかね、社会に出れば自分を曲げてでも切り抜けなきゃいけないことがたくさんありましたから、受け身でそんな事やってるとだんだん自分の歩き方を忘れちゃうんですよ。それじゃ持って生まれたものを100%発揮できませんからね、後でハッと気がついて、俺ってこんなんで良かったんだっけって思うことは結構ありました。そういうときは無理矢理にでも元に戻して、自分100%でやってきたからよかったかもしれません。おかげで3回も会社辞めちゃいましたけどね(笑)。でもガムシャラがあってのことです。これが自分のやり方だペースだって言ってのんびりとお気楽にやってたら間違いなく何も起きませんから。
こんな具合だから意外に音楽の話はしてなかったように思う。どうしてクラシックに入ったかという話題ぐらいか。しょっぱなはボロディンの転調でした。魔笛はHmHmHmです、あれすごいです、本格的に没入したのはブーレーズの春の祭典でミスまで覚えちゃったので後で苦労しました。えっ、まさか、ブーレーズってミスないんじゃないですか?オペラ歌手の奥様が言われた。いいえあるんです、生贄の踊りのティンパニ、ここですよ(テーブル叩く)。東さん、僕の前で春の祭典を歌った人は初めてです(笑)。村中さん、でも僕はマーラー苦手なんです、実は9番もあんまり覚えてもないんで、すいませんがぜんぜん素人です、評論は無理だから感想文で勘弁してください。ラジオでクラシックのトーク番組聴いてるみたいでおもしろかったがDさんの弁だった。
メールさせていただいた感想文はこうなった。
音楽に没入し、心より感動させていただきました。実はフク(逝去した猫です)が旅立ってからどういうわけか音楽を聞くのが恐ろしく、9番を聞く心の準備として数日前にブルーノ・ワルターの巨人を以来初めて聞きました。恐る恐るです。大丈夫だったので、昨日はやはりそれをムーティの演奏で聞きました。しかし第2楽章あたりで耐えられなくなってきて、やむなく気を紛らわせようとcdに合わせてピアノを鳴らしていた始末です。だから迷ったのですが、村中様の指揮がどのようなものか興味が勝っており、ターンテーブルに乗せました。聞いてよかったです。所有しているテープ、レコード、cdはおそらく1万枚を超えていると思います。私はコレクターではなく、より良い演奏、気に入る演奏を求めて購入し続け、買うに至った思い出が捨てられず、失敗の山を収納する部屋を作る羽目になった者です。ですから初めて聞いたcdを収納棚に入れる時、多分もう聞かないだろうなという寂しさを覚える記憶がとても多いのです。頂いた1枚がそうならなかったことを心から喜んでおります。また聴くことになると思います。実力の高い見事なオーケストラと共にお造りになった素晴らしい音楽のお力に他なりません。ブラームスの2番でもそう思いましたが、音楽に対する情動と言いますか波長と言いますか、私にとって村中様の感性にはぴったりと合うもの、心地よいものがあるように思いました。Dさんのおかげでお知り合いになれたこと、とても幸いと思っております。
こちらが京都市交響楽団を振ったそのブラームス交響曲第2番。 これは評論できる。100種類以上持っているうちトップ10%に入る素晴らしいコンセプトの演奏と思う。ぜひお聴きください。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その5)
2025 OCT 12 16:16:03 pm by 東 賢太郎
目下、仕事の合間をぬいながらドイツ・レクイエム全曲ピアノで弾いてみようという無謀なプロジェクトを決行中だ。遅々としてやっと第3楽章まで来た。これと第6楽章にはフーガという難所がある。それにビビっては音楽の全貌が見えない。山は見上げるな登ってみよ、これは何事においても我がテーゼだ。登って作曲家を知る。ビジネスの成功には人を見る目を要するが、同じことだ。天才という後世がかぶせた仮面では姿は見えない。
今回はその第3楽章である。作曲は1866年の2~4月にバーデン=バーデンに近いカールスルーエでフーガまで、5月に演奏旅行のさなかにフーガを完成させている。前年2月に母が亡くなり、夏はバーデン=バーデン、秋からドイツ、スイスへ演奏旅行に出てチューリヒで医学者ビルロートと知り合ったわけだが、1866年夏にフルンテルンで第5楽章を書く直前に第3楽章を仕上げたことになる。
本稿では第3楽章のある音型につき仮説を述べたい。ハイドンの交響曲第98番でもそうだったが、作曲家は創造の秘密を明かすことはない。知的財産権の保護として音楽著作権の概念ができたのは1886年のベルヌ条約以降だが、ブラームスはシューマンの主題の引用で訴訟されるリスクは考えなかったろう。つまり盗作ではない引用は平安貴族の本歌取りに類し、原作者の利益を棄損するものではない。ただオリジナリティを競う音楽創造において自らそれを棄損する引用の価値はゼロだ。したがって、もしそれがあるなら、引用者には何かの事情があると考えるべきだというのが僕のスタンスである。
アントニン・ドヴォルザークの父親の生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父は村で評判のツィターの名手で、後にズロニツェで飲食店を始めたが、生計が苦しく、アントニンは小学校を中退させられ肉屋の修業に出された。厳しい出自である。それに甘んじなかったのは彼の意志で、それを後世は才能と呼ぶ。1874年、ウィーンに出てきてオーストリア政府の国家奨学金に応募した33歳のスラブ人を、ウイーン楽友協会の音楽監督で審査員だったブラームスは楽界に紹介し激賞する。「彼はオペラ、交響曲、室内楽に器楽曲、あらゆる音楽を書いていて疑いもなく才能ある人物である」と貧しい彼を出版社ジムロックに紹介もした。ロベルト・シューマンが突然に家に現れた彼にしたように。人は出自の影響を抜けられない。アントニンのそれはブラームス自身の父親、階級、惨めなハンブルグ時代にダブルフォーカスしたろう。30代半ばでワーグナー派であったアントニンも反応する。絶対音楽への傾斜を見せ、交響曲第6番にヨハネスの2番の、第7番に3番の影が見えるという宗派替えは作曲家のドクトリン変換という重大事である(3番の初演にもアテンド)。そのことが民族、宗教の厚い障壁を越え、両人が根源的共感に至ったことと切り離して考えられないことは、ヨハネスと芸術観を共有する中産階級出身のクララ・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒムが、ヨハネスの激賞にさっぱり反応しなかったことに見て取れる。
もうひとつ注目すべきは、両人の共通の関心事、鉄道である。好んでそれで旅したブラームスの交響曲第2番終楽章はその心象風景とも語られ、かたやドヴォルザークはマニアのレベルにあり、下宿は列車の音が聞こえる所に探し、暇さえあれば駅に行き、機関車の型番、スペック、時刻はおろか駅員、運転士の名前まで記録し、線路の継ぎ目を渡るがたんがたんのリズムの変調で列車の故障を見ぬいた。女性にそういう人がいないわけではなかろうが、男性に圧倒的に多い、いわば理系的関心領域である。Oゲージの鉄道模型に耽溺して育ち小田急線の台車の種類を全記憶している僕自身まさにそれであり同慶の至りの感を禁じ得ない。両人はさぞ話がはずんだろう。アントニンはシューマン夫妻の長女マリーと同い年だ。彼が支援したくなった気持ちはよくわかる。
ブラームスとドヴォルザークは一般に作曲家としては別種とイメージされる。ブラームスが「彼の屑籠から交響曲が書ける」と羨んだからだ。しかし彼は「美しい旋律が良い交響曲を生むわけではないがね」を言ってない。マルクスゼンに習い、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの楽譜を独学した主題労作、変奏の技術に旋律素材のクレジットの余地は僅少である。それに習うドヴォルザークは49歳の大作レクイエムをバッハのロ短調ミサ第3曲の冒頭のF – Ges – Eの半音階的音列を素材として書いた。美しい旋律だけの人ではない。作曲する(compose)とはcom(一緒に)+pose(置く)だ。つまり、おもちゃの兵隊や鉄道模型をあれこれ並べて気に入る軍隊やジオラマを作る作業を「音」でやるという意味で音の建築に近く、対位法、和声法は構造建築工学に相当する理系的学習だ。ブラームスが「作品を寝かせ、それが1つの完成した芸術作品として仕上がるまで、音符の多過ぎ少な過ぎがなくなり、改善できる小節がなくなるまで何度も書き直す。それが美しくもあるかどうかは全く別の事だが、それは完璧であるに違いない」と述べたのはそういうことだ。
ブラームスになくドヴォルザークにはあった重い経験がひとつある。子供を持ったこと、そして失ったことだ。長女、次女、長男を亡くした精神世界はそれを直接の動機とするスターバト・マーテルのみならず、レクイエムにも深々と投影されている。儀式典礼用ではなくプライベートな動機に発している点においてドイツ・レクイエムに重なる。ドヴォルザークがこの作品をどう見たかはわからない。ヤナーチェクに語ったとされる「ブラームスは神を信じない」という言葉が真実なら敬虔なカソリックの彼には異質なものだったかもしれないが、自分と同年代で作曲された大作を看過したとは思えない。
第3楽章を弾いていてひっかかる部分があった。これだ。
どうしても、これにしか聴こえない。
耳でもそう思っていたが楽譜でみると音価までぴったり同じである。言うまでもなくチェロ協奏曲の主題だ。ドヴォルザークはこれをナイアガラ瀑布にて着想したという。職業上、世間にはそう言ったのだ。なぜなら米国で書いた作品は出版前にブラームスに送られ、彼が校訂しており、「チェロでこんな協奏曲が書けるなら自分も書いたのに」と唸らせた。つまり、これを見たことは確実だ。むしろブラームスに見せる前提で、原曲で「mein Leben」(わが命)と歌うこの主題(第7楽章にも現れる)を無言のメッセージにしたというのが僕の仮説である。
この協奏曲は望郷の歌だ。そして彼はかつて愛した女性(ヨセフィーナ・カウニッツ伯爵夫人)が重病との知らせをニューヨークで聞いていた。すべてを覚悟した彼は冒頭主題をドイツ・レクイエムに借り、第2楽章では彼女の好きだった主題(歌曲Lass’ mich allein)を歌い、そして、彼女の訃報をきくと、第3楽章に長いコーダを追悼としてつけ加えた。彼の妻アンナはヨセフィーナの妹だが、どれだけ姉を愛し、どれだけ幸福な時間を共に過ごしたかが涙をたたえて吐露されるのである。音楽は止まりそうになり、そして、何よりの証拠に、チェロのモノローグが “問題の主題” を静かに回想する。それは作曲時点からいずれ来る別れの日へ向けた、残された者への慰撫のレクイエムだったのだ。この協奏曲の主題が先住民インディアンや南部の黒人霊歌から採られたという米国の愛国者による愛すべき説を作曲家は否定している。ナイアガラ瀑布、あんなものはプラハにはない。故郷でもらっていた25倍もの瀑布並みの給料をくれた彼等への精一杯のリップサービスだったのだろう。
余談だが、ブラームスは「mein Leben」主題を愛してやまなかった別な主題から取ったのではないかと想像している。どなたもご存じのこれだ。
一度きくと頭にリフレーンする、クラシック音楽で最高のヴィオラ名旋律のひとつだ。彼はドヴォルザークの屑籠をひっくり返す必要はなかった。
第3楽章は、楽譜を見ながら音を聴いていただいたほうがいいと思う。サヴァリッシュ / ウィーン響、バリトン・ソロはフランツ・クラスだ。お示しした箇所は1分40秒である。その後も、フーガまで「mein Leben」主題が合唱に、オケ伴奏に再三現れることをご確認いただきたい(3分38秒でTimを伴って爆発)。
ドイツ・レクイエムの初演は3回行われた。1回目は1867年12月1日にウィーンで最初の3つの楽章だけ、2回目は1868年4月10日にブレーメンでブラームス自身の指揮で第5楽章を除く6楽章、3回目が1869年2月18日にカール・ライネッケ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による7曲全曲である。
1回目の指揮者はシューベルト「未完成」および、ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」のウィーン初演を指揮したウィーン楽友協会合唱団の創始者ヨハン・ヘルベック(1831-1877)である。このビデオの合唱団であるWiener Singvereinがそれであり、ハンブルグ・フィル指揮者ポストの落選事件で翌1863年にブラームスが指揮者に就任したのがそれである。
1回目の初演は失敗だった。第3楽章でティンパニ奏者が楽譜の指示を読み間違え、フーガの持続二音(ペダル・ポイント)を強打して演奏を壊してしまい、聴衆は罵声を浴びせ、ブラームスの支持者ハンスリックまでもが「ペダル・ポイントはトンネルを通る列車の轟音のようだ」と皮肉なコメントをした(反対派の陰謀説もある)。
ピアノソロ+ティンパニという興味深いバージョンのビデオがある。バーデン・ヴュルテンベルク州立青少年合唱団は15歳から25歳の70人ほどが州内の学校合唱団、青少年合唱団、大学合唱団から集まり、ウィットサン休暇と秋の休暇中にそれぞれ1週間集まる。バーデン・ヴュルテンベルクの州都シュトゥットガルトはベンツ、ポルシェの本社があり、この曲ゆかりのバーデン=バーデン、カールスルーエもある。さすがご当地のアマチュア合唱団。立派な演奏である。
余談ながら、これで聴く限り終結部でティンパニが強打するが合唱がマスキングされることはない。初演の失敗はオーケストラの崩壊だったのではないか。とすると団員に予想外だったことになり、ティンパニストを巻き込んだワーグナー派の陰謀説もまんざらでもないと思ってしまう。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その4)
2025 OCT 4 11:11:34 am by 東 賢太郎
幼少のヨハネス・ブラームスが熱中するものがあった。ブリキのおもちゃの兵隊である(写真はイメージ)。並べて大隊を組成しては直し、飽くことなくまた組成し直す。母は「28才にもなって、大事そうに机にしまって鍵をかけてたのよ」と語った。この女性は男子の正しい育て方を知っていた。これが「作品を寝かせ、それが1つの完成した芸術作品として仕上がるまで、音符の多過ぎ少な過ぎがなくなり、改善できる小節がなくなるまで何度も書き直す。それが美しくもあるかどうかは全く別の事だが、それは完璧であるに違いない」(友人G. ヘンシェル作曲の歌曲に対する助言)という作曲への完全主義に通じている。そして、それがあの交響曲やドイツ・レクイエムという大輪の花を咲かせるのだ。
そうやって育てられた男子は多いのではないか。僕の場合は鉄道模型であった。事あるごとに父にせがんでちょっと大きめのOゲージを買ってもらい、毎日嬉々として居間から台所に至るまで家中に線路を敷き詰めて走らせた。重量感を欠くHOゲージは無用だった。実物の車両の連結器の横にある重量のトン表示を綿密にチェックするほど「質量」にこだわりがあったからだ。それを与えるため客車の内部にはビー玉や石ころをぎっしり詰めずっしりと重くした。電動ではなく手で走らせることにリアル感を覚え、何時間でも這いつくばって飽きることなくやった。足の踏み場もなかったが母に文句を言われたことは一度も無く、ただ、7時前になると「パパが帰ってくるよ、叱られるよ」と言われしぶしぶそれを片付ける。完璧さを求めるため何度でも何度でも線路をつなぎ直してた。これが僕を完全主義にした。
ヨハネスは7才で前述のピアノ教師オットー・コッセルについて鍛えられた。「一度だけサボった日は人生最悪でね、帰宅すると父にバレていてこっぴどく叩かれた」と回顧している。10才でベートーベンの五重奏とモーツァルトの四重奏を弾いた公演を聴いた興行師が「神童だ。アメリカツアーをぜひ。莫大な富がはいる」ともちかけた。契約金に目がくらんだ父は即決。本気になって母の小さなお店を損してまで売ってしまった。ヨハネスは後年に「親父は愛すべき昔の男でね、単純で世慣れしてなかったんだ」と愛情をこめて述懐した。
コッセルはというと、仰天し、やめるよう全力で父を説得したが、貧困を脱したい父はきかない。ここは自分のヨハネスの才能への確信を示すしかないと、自分
の師であった大家エドゥアルド・マルクスゼン(左)をひっぱり出した。これが効いて米国ツアーはキャンセルされ、ヨハネスは10才から18才までこのハンブルグ最高の教師につき、演奏技術と作曲技法に多大な教示を受け、ドイツ民謡と変奏曲への嗜好を継いだ。普通科の学校教育は受けたが音楽学校は不要だった。モーツァルトが父から学んだように二人の教師の教えをバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト作品など古典の独学で高みへ導いたのであり、後年にその集大成であったピアノ協奏曲第二番をマルクスゼンに献呈したことで感謝が伺える。完全主義の彼は自己の才能を信じ、それを発見し、信じ、共有することができた父、マルクスゼン、そしてロベルト・シューマンを讃えたのである。
師弟関係はアップグレードされたが出費は嵩んだ。ヨハネスは家計を補うため13才で父の仕事に借りだされ、深夜まで酒場でダンス曲を弾く激務に疲労困憊し、心配
した両親は14才の夏にヨハネスを郊外の街ヴィンゼン(写真)にある父の知人ギーゼマン家に娘のピアノ教師として受け入れてもらう。この処置はヨハネスを救ったどころか、後年の趣味をも決定づける。温かく迎えられ、田園生活を楽しみつつ村の男声合唱団の指揮をして作曲、編曲をした幸福な日々はよほど心に深く残ったのだろう、後世までギーゼマンに深い感謝を述べ、合唱曲への止むことなき嗜好ができ、なによりこれが後年に夏のスイスやオーストリアの湖と森のある大自然の中で作曲する習慣になった(彼は23才まで海を見たことがない)。また、読書家の母の影響で文学に傾倒し、ギーゼマン家で後に作品33となる「マゲローネ」を娘と一緒に読んだ。その延長でハンブルグの運河の橋で売られる古書を収集して読み漁り、心を惹いた詩句、警句を書き綴った自選集のノートを「若きクライスラーの宝」と名づけた。15才だ。自らをなぞらえた楽士クライスラーはこれの登場人物である。
ヨハネスは終生ホフマンのグロテスクで不吉な世界に対する情熱を失わず、そこに潜むハイセンスな皮肉を愛好した。21才のとき(1854年2月27日)にシューマンが精神を病みライン川に投身自殺を図った直後に彼の主題を用いて「シューマンの主題による変奏曲」Op.9 )を書いた。この曲は意味深長で、前年に誕生日プレゼントとしてクララがロベルトに贈った同名曲の同じ主題(「色とりどりの小品 5つの音楽帳 第1曲 Op.99-4」)を「本歌取り」のごとく使用している。シューマンも “ムル” に心酔し、クライスレリアーナを書き、ダビッド同盟でオイゼビウスとフロレスタンに自己の内なる二面性を擬人化したが、ヨハネスはOp.9の各変奏にB(ブラームス)とKr(クライスラー)の符号をつけ、ムルの自伝に闖入するクライスラーのページに対応させており、それは自分に審判を下す「もうひとりの自分」(ドッペルゲンガー)の苛烈な箴言のように響く(第5、第6変奏)。
Bは{第4、第7、第8、第14、第16}、Krは{第5、第6、第9、第12、第13}
脳裏にクライスレリアーナが響かないだろうか。シューマンがクララ・ヴィークと狂ったような恋に落ちて書いた曲が。結婚を拒絶する父を慮ってクララが献呈を受けることを断ったほどダイレクトな狂気に満ちた恋情がオイゼビウスとフロレスタンに託される。21才のヨハネスはそれをB(自分)とKr(クライスラー)に置き換え、巧みな変奏技法で糊塗し、この作品をシェーンベルクは「ブラームスの最も完璧な作品」と讃えた。これが「ブリキのおもちゃの大隊」の結末でなくて何だろう。同年にこれと4曲のバラードを書いて以来、彼はOP.11のセレナーデ第1番(1858年)まで新作を書いていない。1854~1857年にピアノ協奏曲第1番を構想していたこともある。しかし、Op.9を出版した54年の11月にクララと Du で呼び合う熱い仲になっていたことこそが主因だ。シューマンの投身事件後、いよいよ「レクイエム的」なスケッチを書き始め、現在の第2楽章(「Denn alles Fleisch…」)、第4曲(「Wie lieblich…」)の動機がすでに部分的に存在していたとされるのは大変に興味深い。来たるべきシューマンの葬送とクララとの家庭・・・深層心理にあってもおかしくはなかろう。
その1954年6月11日にクララが生んだ末子フェリックス(左)がブラームスの子という説がある。仮にそうとすると受胎は前年9月頃で、初めてシューマン宅を訪れたのが8月だから否定派が多い。とすると、この子にクララがユダヤ人メンデルスゾーンの名を与えたのはヨハネス由来でないのだからシューマンがそうだということにならないか。ともあれクララは「隣にいる可愛い我が子を見るにつけ、病気によって夫が愛するすべてから遠ざけられ、この子の存在も知らないなんて胸が張り裂ける」と手紙を書きつつ、家賃の安い地区に引っ越す計画を立てた。まるで新しい所帯を持つ決心をしたかのように。そしてヨハネスもそれを親身になって助け、まるで遺品整理をするかのようにシューマンの書斎を整理して楽譜や文献を読める喜びを友人アルベルト・ディートリヒに書き送っている。Op.9はここでクララに贈られるのである。ブラームスのクライスレリアーナ。意味深長だ。
ところが、もはや絶望の容態と思われたシューマンは小康状態を取り戻し、あろうことか、問題のOp.9を賞賛する謝辞がとどく。驚いたヨハネスは気まずげに謙虚な返信をし、病院に彼を訪問し、ピアノを弾いて聞かせる。 梅毒は症状が出たり消えたりを繰り返すが、細菌やウイルスが発見されていない当時の人はそんなことは知らない。やがて病状は再び悪化し、それを見届けたヨハネスは演奏旅行に出たクララに「君を死ぬほど愛してる。涙でこれ以上はいえない・・」と師への複雑な思いに抗いながら熱いラブレターを書くのだ。12月5日だ。クララがハンブルグで演奏会を開くと知るや汽車に乗って急行し、彼女を両親に紹介までしてしまう。結婚の意思表示でなくて何だろう。クララは両親とうまくいき、「素朴(simple)だがちゃんとした(respectable)人たちをどれほど家庭的と感じたか」と書いた。ここまではよかった。しかし彼の精神は恩人の回復を望む自分と、クララを得るため死を望む悪魔のドッペルゲンガーのとの闘いに苛まれていたのである。
二人はすぐ両親のもとを去り、デュッセルドルフへ戻ってしまう。生まれて初めてXmasをハンブルグで過ごさなかったことに両親は当惑し、師のマルクスゼンは激怒した。ヨハネスの頭にはシューマンがあった。人気者であるクララは演奏旅行を続けたが、ヨハネスはシューマンを訪ねてはピアノを聞かせ、散歩させ、作曲は停滞してしまっていた。神童の名声を犠牲にしたこの義侠心とさえ見える感情は父にも見せたものだ。ところがクララはそれを見かね、彼を自分とヨアヒムとの演奏ツアーに引っ張り出す。女性はドライというか、まるで母親だ。ダンツィヒではクララたちとの室内楽で思惑通りにうまくいった。そこでいよいよ一人でライプツィヒ、ハンブルグ、ブレーメンの演奏会のソリストとしてモーツァルト、ベートーベンの協奏曲を弾く旅に行って来いと送り出す。しかし、これが良かったのか悪かったのか、大ピアニストのルービンシュタインに凡庸だと酷評されてしまうのである。
とうとう彼は決定的な鬱状態に陥ってしまう。「愛しているが自己否定がある」と、まさにゲッティンゲンでアガーテに愛想をつかされるのと同様の言葉をクララに書いてしまい、彼女はここから先のヨハネスへの手紙を後に廃棄することになる。証拠物件がないのだから色々な見方があっていいだろうが、手紙1本でふってしまい痕跡を消したのだから四十女に振り回された22才の悲劇と見えないでもない。フェリックスは父親と同じハイデルベルグ大学に学び、ヴァイオリンを弾き詩を書いた。気をとめていたヨハネスは作品63-5「我が恋はみどり」、作品63-6「にわとこの木のあたりで」と作品86-5「沈潜」に付曲した。クララの日記によれば、作品63-5を1873年のクリスマスにクララの奏するピアノに合わせて当代最高のヴァイオリニスト・ヨアヒムが弾いた。「彼に何も告げず、私たちが弾き、歌い出しますと、フェリクスは誰の歌かと尋ね、自分の詩を見ると蒼白になりました。あの歌もそして終わりのピアノの部分もなんと美しいのでしょう!」
後のこと、結核を病んでおり、フェリックスの命が長くない事がわかっていたヨハネスはヴァイオリンのメロディを24小節作曲して、その楽譜をクララに送る(ヴァイオリン・ソナタ第1番第2楽章になる)。
「あなたが裏面の楽譜をゆっくりと演奏されるなら、私があなたとフェリックスのこと、彼のヴァイオリンのことをどれほど心底思っているのかをあなたに語ってくれる でしょう。でも彼のヴァイオリンは鳴り響くのを休んでいます―」
この手紙に対するクララの返事にはフェリックスが亡くなったと書いてあった。
24才の訃報にヨハネスは打撃を受けた。同年作曲のヴァイオリン・ソナタ第1番第1楽章第2主題(1分32秒)にエコーしているのは「ドイツ・レクイエム」第2楽章の中間部(変ト長調、第75小節~)であることを指摘したい。
この部分のレクイエムの歌詞はこうだ。
かく今は耐え忍べ、愛しき兄弟よ、
主の来たらんとするときまで。
視よ、農夫は待つなり、
地のとうとき実を。
また耐え忍ぶなり、
朝の雨と夕の雨を得るまで。
かく耐え忍べ。
(新約聖書 ヤコブの手紙 5:7)
これは死者を送るかのようなこの歌詞の後に続く。
肉はみな、草のごとく
人の光栄はみな
草の花のごとし。
草は枯れ
花は落つ。
「主の来たらんとするときまで耐え忍べ」という。死と戦っていたフェリックスに向けた祈りのようにも聴こえる。しかし、6年前の誕生日に贈られクララが好きだった第3楽章「雨の歌」冒頭のリズムが第1楽章冒頭にもなっているということは、亡くなってから書かれたのだ。レクイエムの引用なのだから・・・
その第2主題が初出したあたりで立ち昇る、差しこんだ眩い陽の光に胸が躍り、香しく若々しい、未来への夢に満ち満ちた情感。幾度耳にしても悲しい。クララはブラームスに宛てて「私の心はあなたへの感謝と感動に高鳴っております。そして心の中であなたの手を握ります」「このような音楽こそが、 私の魂の最も深く柔らかいところを震わせま す!」と書き、この作品を(フェリックスのいる)天国に持って行きたいと語った。
ドイツ・レクイエムの第1、2楽章は28歳(1861年)に書かれた。第2楽章が形になり始めたのは母が亡くなった1865年から。67年にウィーンで第1〜3曲の初演をしたが失敗。翌年、ブレーメン大聖堂にて6楽章版(第1〜4、6、7)を演奏して大成功をおさめ、この演奏の後、ブラームスは母を思ってもう1曲を追加することを決意。それが前稿にしたチューリヒ(フルンテルン)で書いた第5楽章で、全7曲の現行版が完成し1869年に出版された。人間的体験と完全主義の合体が、この大名曲を生んでくれたことを音楽の神様に感謝しなくてはならない。
第2楽章はティンパニが運命リズムを刻む葬送曲で始まる。中間部の変ト長調、第75小節、天国の響きにどう転換するかは聴きどころだ。僕は古楽器オケが好きでないが、この曲は2台ピアノ、各パート1楽器のオケでも十分に聴けるので気にならない。モンテヴェルディ合唱団は非常に強力である。
62年録音の旧盤。若きサヴァリッシュがウィーン響を振る。ティンパニを強打し、質感はバッハ、ベートーベン路線の鉄のように堅牢で筋肉質な造りだ。ウイルマ・リップ、フランツ・クラスも立派なもの。全曲おすすめしたい。魂を癒すレクイエムが完全主義者ブラームスの書いた音楽であることを雄弁に物語る。耳ざわりの良いきれいな音を出そうなどという気は全くない。熱い。ウィーン楽友協会合唱団は粗さがあるが、初演当時はこういうものだったかと感じるものがあり興味深い。ライブで聴いたら打ちのめされていたろう。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その3)
2025 SEP 29 8:08:27 am by 東 賢太郎
ヨハネス・ブラームスの伝記はドイツ語で読みたいが時間が足りない。バーデン=バーデンやハンブルグで買い求めた資料は訳文がなくまだ読破できていないが、ドイツ語原書の日本語訳、英米人による英語本、そして日本人による日本語本で手に入るものはほぼ読んだと思う。AIを使うとさらにわかる便利な時代になったが、それによってハンブルグ時代については一次資料が不足しており詳しくはわからないことも見えてきた。彼がエルベ河の埠頭に近いハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階(写真)で生まれたことは書いた。1905年、そこを訪れた弟子のフローレンス・メイは、「階段を上り、ブラームス家が住んでいた狭い部屋にはいった私は当惑と落胆で震えた」と伝記に書いている。いまはビル街に記念碑だけがぽつんとある、その空漠としたよそよそしさは何だろう。151曲あったと伝わる初期作品を彼はほとんど破棄している。これが「厳しい自己批判」だけの仕業だったのだろうか。もし自分だったら?「家族にとって百万もの不愉快があったその時代を消したかった」こともあろうかと想像したりもするのである。
偉人の伝記がどう書かれるかは興味深いテーマだ。画家や彫刻家は作品が語るが、作曲家、作家、学者は作品、著書という「紙」が語る。演奏家の名技は聴いた人の書いた紙から想像する。モーツァルトは父子の膨大な書簡集が、ベートーベンは会話帳があるが、それもまた
紙だ。つまり、当時の音楽家にとって紙というものは商品にもなり、書簡の場合は後世に残ってしまう可能性のある、すなわち「自分の人生をどう後世に残すか」に関わる自画像の一部でもあった。だから、望ましくないものは焼いてしまう。モーツァルトはその気使いをせずベーズレとの行為が周知になってしまったが、都合の悪いものは焼却処分したコンスタンツェがなぜかそれは焼かず大作曲家の自画像の一部とした。ブラームスはほとんどの書簡を自ら処分したとされる。だから残っているものは自ら認めた自画像なのだが、結婚の気持ちが冷めた後、クララが彼の書簡を処分してしまったのでそれは完全なものとは言えない。
残っているのは、冷める以前の両人の赤裸々なラブレターである。伝記をロマンティックに読む人は、どこからどう見ても熱いそれによって、満たされぬ結末となるクララとの恋を重く見る。しかし、彼女はというと結婚の気持ちが冷めた後、彼の書簡を処分してしまったのでそれは実は「上書き」されていたはずであり、伝記として客観性ある視点ではない可能性がある。一般に(と僕は思っているが)、別れた相手を男はいつまでもうじうじと覚えており、女はあっさり忘れる。当時の彼は二十歳そこそこの世慣れぬ若者であった。恩師シューマンの影をどうしても踏み越えられず、うじうじする結末になったわけだが、クララはアガーテに気が行った彼を見てあっさりと冷めた言葉を残している。彼は彼で、年月を経てからは当のクララの娘までという数々の女性に恋心を抱いた男でもあったことで、両人の関係はバランスが取れるところに落ち着いたのであろう。
結婚にふみきれなかったもう一つの理由は両親の関係にある。Paul Holmes著、BRAHMS his life and timesによると、落ちぶれてはいるが地方貴族の末裔だった母は上昇志向のある父にとって欠点を補って余りある存在だった。それが、恋仲だった同年輩の女性とのお似合いの結婚ではなくアンバランスな方を選択させた。その甲斐あって、同年に父はハンブルグの市民権を得ており、ヨハネスは自らの出自の証としてそれを誇らしいと語っているが(Max Kalbeck『Johannes Brahms』)、後にクララに「僕はハンブルグ市民でなく、小市民の息子だった」とも語った。実は小市民ですらないという真の出自へのアイロニーにも聞こえる。この “ルサンチマン” は根深かった 。ゆえに作曲家として頂点を極めることがレゾンデトル(自己存在認証)であるという道に入りこみ、抜き差しならない斯界の高みにまで登ってゆき、孤高の登山家のような人生に足を踏み入れてしまった。家庭には憧れた。しかしそれに足を縛られたり、連れ子の父親になるような重荷を負っては目的は成就できない。ゆえにアガーテは去り、クララは親友か母親かという存在にならざるを得なかったのである。
ひとことで括れば、彼は自分の出生に関わる複雑な認知的不協和を抱えて生きた人だったということになる(参考:マルクスとブラームスの自己同一性危機 | Sonar Members Club No.1)。自ら打ち建てた自画像どおりの大作曲家になった、そのことに僕は形容のできない尊敬の念を懐かずにおられず、そうするしかない生い立ちの中で究極の努力を重ねて最高の幸せを得たのだと信じたい。そのおかげで、我々は、複雑な感情の不協和の中に慎みと秩序がありながら、渋みと悲しみと淡いロマンの入り混じった、彼にしか書けない音楽を持つことができたのだから。『ブラームスをきく』というのは、なんという含みと味わいのある言葉だろう。フランソワーズ・サガンの小説「ブラームスはお好き?」は彼なくしては構想もされなかったろう。レクイエムを「ドイツの」ではなく『人間の』(menschliches)でも構わないと語った彼は、宗教的信念に関係なく、すべての生ける者に慰めを提供したいと願った。ドイツ・レクイエム第3稿では、彼自身がいみじくもその作曲にあたって採った「人間の」という立場の由来について、彼の家族に関わる視点から述べてみたい。
前稿にもふれたが、父ヨハン・ヤコブ(1806–1872)はハイデの宿屋の次男だ。ハイデという街はハンブルグの北105キロ(鉄道で1時間半)にあり、現代の人口2万と東京から見れば熱海(105キロ、人口3万)程の距離と規模である。漁師、大工の家系にして音楽を志し、両親は反対すると家出もしかねない情熱に負け音楽学校に学ばせている。19才でハンブルグに出て街頭や猥雑な酒場のバンドで演奏をした。この写真を見て、僕は自信家で弁舌に優れ、構想力・思索力よりも、野心に満ち、行動力、対人能力、発信力がある人物との印象を強く懐く。何で成功するかといえば機を見て敏なる商売人か。ヨハネスにその印象は薄いが、彼はその血を引いている。
19世紀のハンザ都市は中世の世襲身分である大市民が支配しており、流れ者であるヤコブはまず音楽家ギルドに所属し、コントラバス奏者として洒落た貴族サロンの六重奏団に加わり、軍楽隊のホルン奏者として上級歩兵に擬せられる地位になる。能力があった。だから息子の楽才を幼少にして見ぬき、友好関係を築いていた音楽人脈から最高の教師を選び息子の将来を託すことができた。商才はそこに発揮されたのである。そうした父の出自にまつわるプロフィールはヨハネスが作りあげた自身のイメージとは似つかぬものだが、だからこそ僕は大方の伝記が通説として語る彼の人物像に些かの違和感を懐くのだ。
「ハンガリー舞曲集」は酒場で弾いていた父の系統の音楽だ。彼はエドゥアルト・レメーニにジプシー音楽を教わって20才でドイツ各地を演奏旅行する。港町ハンブルクはハンガリーからアメリカへわたる移民たちの拠点でアメリカ楽旅の出航地であり、レメーニもハンブルグに立ち寄り、ティーンエイジ最後のヨハネスと知り合い意気投合したのだ。レメーニはウィーン音楽院に学んだハンガリー系ユダヤ人で、コシュートの革命に加わった疑いで追い出され放浪楽師となった男だ。そのジプシー音楽はヨハネスの心をとらえた。ヨハン・シュトラウスのワルツなど、彼には父由来の大衆音楽、しかもユダヤ系のそれへの嗜好があった(シュトラウスもユダヤ人である)。音楽を生活の糧とする実利主義も父由来で、「ハンガリー舞曲集」の楽譜は大いに売れ、レメーニに盗作と訴訟されるに至ったが、幸いにして楽譜に「編曲」と記していたためヨハネスが勝訴している。ちなみに、ウィーンに出たのち、後進のドヴォルザークに目をかけたのは肉屋の子という下層の出自への共感もあると思われ、経済的援助も視野に入れ紹介した出版社ジムロックが同類の「スラブ舞曲集」を書かせヒットしている。人間ブラームスの素顔だ。
上掲のアパートで授かった三人の子供のうちヨハネスは二番目で、姉エリーゼ、弟フリッツがいた。後に彼は「姉とは似た所がほとんどなく、弟とは付き合いがなかった」と語っている。偏頭痛もちで病弱だったエリーゼは音楽の教育は受けられなかったが、母は愛情をこめて「太った愚かな農民」と呼び、両親が別居してからはヨハネスが彼女の生計を助けた。夫を亡くしたクララと子を慰めるためヨハネスはライン地方からスイスへ旅をするが、同伴したのが姉エリーゼだ。40才で時計職人と結婚してもうけた子供は生まれてから数日後に死亡した。ウィーンに出て大作曲家になった弟を誇りに思い、送った200通もの愛情がこもった書簡はエリーゼが1892年に亡くなるとヨハネスに返却された。他のほとんどの書簡を処分した彼は、それだけは燃やさなかった。
フリッツは兄と公平に扱われ、父親はオーケストラ奏者にしようとハンブルク・フィルのコンサートマスターに学ばせたが挫折した。ヨハネスが終生感謝した名教師たち(オットー・コッセルとエドゥアルト・マルクセン)にピアノを習い、自身も教師にはなったがクララ・シューマンはテクニックはあるが演奏は退屈と評した。フリッツと姉は、昔の女と浮気した父を批判して母の味方についたが、ヨハネスはどちらの側でもなかった。母の没後に父が再婚した女性とも良好な関係を築き、フリッツが晩年に健康を害すると経済的な援助を惜しまなかった。人間ブラームスの真骨頂だ。
父ヤコブの性格は、たまたま泊まった雑貨屋の親類で裁縫師をして生計を立てていたヨハンナ・ヘンリカ・クリスティアーネ(1789-1865)に知り合って、わずか1週間でプロポーズしたことに見て取れる。この求愛はロマンス小説とは程遠く、クリスティアーネ自身が「年齢がちがいすぎるので信じられなかった」と亡くなる直前にヨハネスへの手紙で述懐している(筆者注:17才年上)。ベートーベンの伝記作家ヤン・スワフォードによる「彼女は小さく病弱で、片方の足が短く、魅惑的な青い目をしていたが顔は地味な41才の女性」との記述がある。写真を探してみたがこれしかないようであることからも、ヤコブとの運命の出会いがなければ、第2子が生まれていなければ、後世が知ることはない女性だった。敬虔なプロテスタントであり、粗末な家を鳥籠や草花や装飾で明るく彩り、才能ある料理人であり、明るく前向きな女性だった。特筆すべきは思慮深い読書家でもあり、当時の女性としては秀でた読み書きの力があったことだ。息子への書簡がそれを物語る。ヨハネスの楽曲にみる、どんなに熱を持っても常に趣味が良い情感、滋味、重厚で深みある精神性とロマンのバランスは母に由来しており、この母なくして彼が巨匠になることはなかったと僕は思っている。
1853年6月、二十歳になってレメーニと新天地を求める楽旅中の息子に送った「今あなたの生涯が本当に始まったのです。ハンブルグで一生懸命蒔いたものを刈り取るのです。あなたの時が来ました」という、他人の僕さえ打ち震える母の言葉は息子の人生を決定的なものにしたと確信する。二人は常に深い愛情の絆でつながっていた。ハンブルグで一生懸命蒔いたもの。それは彼にとって思い出したくもなく、ウィーンで通用するものでもなく、みな破棄してしまった作品なのだが、養分はヨハネスの中にたっぷり残っていた。それを刈り取って10年もたったとき、母が天に召された。弟フリッツから「私たちの母にもう一度会いたいなら、すぐに来てください」と電報がありハンブルグに急行したが、母は脳卒中ですでに亡くなっていた。ショックだった。その喪失感が「ドイツ・レクイエム」という大輪の花を咲かせることになり、シューマンが初対面で激賞したヨハネスの楽才を楽界に証明する最初の作品となった。このエピソードは、自分が就職するとき、それまで一度もその類いの会話をしたことがなかった母からまさに同じような言葉をもらったことと心の深い深い奥底で共鳴する。だからどんな辛い目に遭っても負けずに、強く乗り越えて来られたと思っている。
「ドイツ・レクイエム」第4楽章はこう歌う。
いかに愛すべきかな、なんじのいますところは、
万軍の主よ!
わが魂は求め慕う、
主の前庭を。
わが身と心は喜ぶ、
命の神の御前で。
幸いなるかな、なんじの家に住むものは、
なんじをつねに讃えまつるものは。
「なんじのいますところ」、それはフローレンス・メイが当惑と落胆で震えたハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階である。「なんじの家に住むもの」、それはヨハネス自身である。
前稿に書いたように、僕はこの楽章の出だしを聴くと、物心ついてから中1まで住んだ和泉多摩川の団地の、日が燦々とさしこむ6畳の居間の光景が浮かんできて涙を抑えられない。母は草花や手芸で編んだ装飾や皮細工で彩ってくれ、小鳥と黒猫を飼ってくれ、そこはいつも明るく気持ちよく、幸せだった。ヨハネスがそのような思慕をもってこの楽章を書いたかどうかはわからないが、歌詞の選択からそうだったと確信する。それほど僕はこの音楽に反応してしまう。大曲の中で最も短いが、一番愛するのはこの楽章である。前から数えても後ろから数えても4つ目。7つある楽章のど真ん中に彼は母をすえたのである。
ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団。素晴らしい演奏だ。バレンボイムのロマン派というと、まだ彼が39~40才だったフィラデルフィアでのリストのロ短調ソナタが忘れられない。リストの代名詞である速くて名技的なところではない。ひそかに沈静していくコーダの漆黒の闇だ。弾き終わった彼は魂の抜け殻のようで、なんというピアニストかと思った。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その2)
2025 SEP 18 1:01:37 am by 東 賢太郎
ドイツ・レクイエムについて書こうと思い立ったのはなぜか。深いという言葉の真の意味において、まさしく海のように深い音楽を彼は33歳(写真)で書いたからだ。こっちはといえばたいした悩みもなくロンドンで毎日暴れまわっていた。もし33歳同士で彼と会っていたら?話す言葉もないだろう。万一ひと声かけるなら、「重たい人生を来られましたね」だろうか。万人の心をわしづかみにする感情が、およそ人間が到達できる究極の美の結晶としてドイツ・レクイエムには封じ込められている。そのただならぬ感情の由来を知れば、なぜ彼が「人間の」レクイエムを書いたのか、一端が垣間見える。それを記しておこうということだ。
音楽でも絵画でも彫刻でもそうなのだが、「わかる」「わからない」という人が多い。これはまったくもっておかしい。その昔、「違いがわかる男のゴールドブレンド、ダバダ~」なんてCMが一世を風靡した。それでコーヒーが売れてたのは「違いがわかる男」がシブくて女にモテたからではない。きっとモテるんだろうとモテない男が買ったからだ。”それ” が何かは問わない日本特有のアバウトさがすごい。選挙もそうで、芸人の才があって台本を読む演技がうまく、もっともらしい演説パフォーマンスをすれば壮絶な馬鹿でも総理大臣になっちゃう。インスタントの違いなんかわかってどうすんだと笑ってた「違いがわかる男」たちはそんなものは買わず、やがてCMは消えた。
近ごろ、AIを使った三次元の体験型アートが流行っていて、それを没入型(イマーシブ)という。アートというものはそうやって没入できるかどうかがすべてであって、算数や英語みたいにわかるものではない。例えばクラシック音楽というものを僕はそこそこ知っていると思うが、本当に好きなものは50曲ぐらいしかない。ということは7、8割ぐらいは没入してない。するに値しないのではなく僕個人がそうできている。それがヴェルディであったりマーラーであったりするのだから「音楽をわかっていない」という声はあって当然だが、その「わかる」を僕は否定している。
好きな50曲については音を覚えている。没入するとそうなる。そのプロセスは、例えば、ドイツ・レクイエムは、58ページあるピアノ版スコアをつっかえつっかえでも自分の手で弾いてみようと思っている。こうした行為が没入の結果だ。これを昔から今に至るまで延々とやっており、ピアノという楽器は僕にとってはショパンを弾くためでなくそのためにある。仕事しながらよくそんな暇がありましたねと言われるが、没入と時間は関係ない。
きのう初めの3ページ、讃美歌みたいな譜面を弾いた。あの心が吸い寄せられる合唱はいきなり没入をさそうが、それが自分の指先から出るともはや忘我である。そして、やがて理性が戻る。譜面づらは交響曲第1番冒頭だ。この時期、頭の中では両曲のレシピが混在していたことを知る。ヘ長調にesが入って金縛りになる。Ⅰー Ⅰ⁷ー Ⅳの和声はモーツァルトPC23番冒頭だ。他人のレシピも混ざっていた発見にさらに没入が加速する。すなわち、この作業は没入がトリガーで連鎖するのであり、その他のすべての没入しないものに踏み入ることは僕は皆無だから、時間の問題はエコノミカルに対処できていたと思う。
この作業をもう少し一般化しよう。パルテノン神殿でエンタシスの柱廊を見て、しばし没入の時がやってきた。やがて理性が戻り、これが法隆寺にやってきたのか!ならば、あの直径比と観測者の位置関係が抽象的な美の原理にのっとっているんだろう。ならそれは何だろう?という疑問がどこからか降ってきた。誰でも計れる数値だから知られているはずだ。でもなぜそれが「美」になるんだろうというと、なぜ円周率が π なんだろうという不可思議に匹敵する。そういう好奇心が美学(aesthetics)という哲学となったと思われ、本を読んだが、日本語の哲学書はわからない。好きな曲のスコアを見て湧き起こるのがこの好奇心というだけで十分だ。一文のゼニにもならないが、これを抱くことこそ生きている証拠であり、綺麗な女性を見たときに感じるものに近い。ということはこれが沸き起こらなくなったら人生終わりである。
以前に書いたが、CJキムという韓国の女流ピアニストは「没入」を明言して実践していると思われる、僕の知る限り唯一の演奏家だ。じゃあフルトヴェングラーはどうなんだと思われるかもしれないが、彼は我々よりはベートーベンに近いが同時代人でなく百年も後の人だ。同じドイツの巨匠だから正調だと思いこむのはダバダ~のコーヒーを信じて買うのとあんまりかわらない。キムはベートーベンのピアノソナタ全集を録音するにあたって、作曲家の人生に関心を持ち、楽譜を読み込む以前にLudwig van Beethovenなる人物の生きた時代背景や関連資料を読みこみ、生身の彼が生きたさまざまな場面での感情を知り、想像し、「彼と出会ったかのような感覚」を持つ状態になってから録音したという。
これが演奏家としてあらまほしき姿と思う。楽譜は完全ではない。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3番の tranquillo なる “妙な” 指示をクララは「卵の上を歩くようなものよ」と語り、ブラームス自身が大幅に減速して弾いたの見て「つま先立ちで歩いたね」とニッコリ顔を見合わせたことをシューマンの娘たちが証言している。楽譜に減速しろとは書いてないのだから楽譜の遵守が演奏ではなく、そのとおりに再現するための技術が音楽演奏の主人というわけでもない。クララは彼をよく知っている。だから音楽も知っている。技術は「それ」を具象化する家来にすぎない。
クラシック音楽を演奏するという行為は、技術云々の以前に、作曲家の魂を呼び覚ます、いわば恐山の巫女のような、当事者同士以外には不可侵である精神的領域がまずあって、鑑賞する側においても、呼び醒まされた魂がどんなものかを最低限は知る状態にあるのが望ましい。CJキムはのっけからバックハウスみたいに弾こうとは思っていない。それを完璧にすればコンクールで優勝するかもしれないが、よくできたコピーに価値はない。そこで、彼女は作曲家と出会ったイマーシブ状態に身を置いて、出てきたものを素直に音にする試みをしたと思われる。とてもクリエイティブな発想だ。リスクはある。同様のイメージを抱いておらず、ただ無条件にバックハウスが正しいと思い込んでいる聴衆には響かない。現に我が国では評論家が「もう少しベートーベンを勉強した方が良い」などというコメントをしていた。老木である。
ブラームスは恩人シューマンの遺品である作曲計画リストに「ドイツ・レクイエム」を見つけ、その実現にとりかかる。カソリックのラテン語の定型によらないレクイエムだ。作曲は母の死を契機に完成へと向かう。『マタイによる福音書』のSelig sind, die da Leid tragen(悲しむ者は幸いなり)で始まる第1楽章は死者への弔いではなく、残され、祝福された(Selig)者への生きる希望だ。悲しみに溢れ、クラリネット、トランペット、ヴァイオリンを欠いて葬儀のようにしめやかなのに、不思議と心が暗くはならない。こんな音楽を書いた者はブラームスしかいない。それが33歳。モーツァルトはクラリネット五重奏曲 イ長調 K. 581を書き、シューベルトはもう亡くなっていた。この二人がもっと生きていたら何が生まれたか、幸いなるかな64歳まで生きたブラームスが空想のよすがを与えてくれたようにも思う。
第1楽章をチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニーでお聴きいただきたい。Zemlich langsam(かなり遅く)。こうした音楽に彼の本領は発揮される。ライブでソプラノ・パートがいまひとつだが音楽の深い呼吸と大きなうねりによる魂の吸引力はさすがである。
この楽章はバッハのカンタータ第27番「たれぞ知らん、我が終わりの近づけるを」との関係が指摘される。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その1)
2025 SEP 15 8:08:59 am by 東 賢太郎
僕にとってモーツァルトと共に大事な作曲家がブラームスである。欧州に住むあいだ四六時中流したのは彼の音楽で、長女は言葉より先に彼の交響曲を覚えてしまった。いま、当時から読んだ大量の書物をあれこれひっくり返して本稿にとりかかり、傍らで「ドイツ・レクイエム」をくりかえし流している。週末は「こんな上等な生活はない」と妻にいいながら昼食をすませ、また書斎に戻って5、6時間も浸る。ドイツ、スイスにいた30~40代もゴルフのない休日はそんなものだったが、ブラームスでも当時は交響曲に没入していて400枚もレコード、CDが集まってしまっていたのだ。ドイツ・レクイエムはブラームス30代の作品、交響曲は40~50代の作品だ。トシとってなんで逆行したんだろう?これが本稿に向かう動機だった。
ドイツ・レクイエム作曲中にブラームスが滞在した丘の上の村であるフルンテルン(Fluntern)に我が家は一年間住んでいた(写真はその家)。チューリヒの街と湖を見下ろす高台にある。トラム(いわゆる市電)の走る道をもう少しのぼると、終点に有名な動物園があって、右側にあるドルダーグランドホテル方面が彼が散策を楽しんだ森だろう。トラムはいかにもスイス風だ。登山鉄道みたいな勾配とカーブをキイキイ摩擦音をたてて走るが、その音がまだ耳に残っている。坂を下りきったあたりにブラームスの親友で外科医のビルロートが外科医長だったチューリヒ大学、そしてアインシュタイン、レントゲン、シュレディンガーと凄い物理学者が卒業したチューリヒ工科大学があり、その先がチューリヒ中央駅だ。会社はそこからリマト川を湖に向かってすぐである。この行き帰りのドライブはなかなかスリリングで愉快であり、はじめのうちはドライバーさんにごめんねとことわってセルフで運転していた。チューリヒは国際的には金融都市のイメージが強いが、アカデミックな雰囲気とハイレベルな文化と抜群に美しい自然環境が融合したリッチで素敵な40万人ほどの街であり、ずっとここに勤めてもいいなと思っていた。
家は自分で選んだわけではなく、たまたま前任の社長宅だった。フルンテルンは人口7千ほどの小さな地区だからずいぶんピンポイントなご縁であり、そんな所でドイツ・レクイエムの筆が進んだという事実は、この名曲に浸りきって生きている僕としてはなんとも感慨深い。社員150名。スイスフラン債の引受母店に辞令が出てフランクフルトから引っ越したのが1995年5月だったが、これは人生でふりかえると後に役員になったよりうれしく、最も思い出の深い異動だった。まだ40才、息子は1才だった。この家の契約は1年で切れ、我が家はキュスナハトに引っ越してさらに1年半を過ごすが、その家から眺めたチューリヒ湖の対岸の街リシュリコンでは交響曲第1番の第4楽章が書かれた。スイスにいた2年半、ブラームスばかり聴いていたのは偶然ではなかったかもしれない。
1868年に完成した「ドイツ・レクイエム」は自らを世に出してくれた恩人ロベルト・シューマンが1856年7月に逝去したことが創造の源泉であることは間違いない。1857年頃から着想し、1861年に最初の2つの楽章を書いたブラームスは、翌62年9月にいよいよウィーンに出ていく。ピアノ四重奏曲ト短調が認められ、高名なハンスリックが褒めて名声を得た。ここで前稿に述べた、ハンブルグ・フィルの指揮者ポストの落選事件がおきる。翌63年のことだ。両親のいるハンブルグに定住を望んでいたが、故郷は定職も家族も与えず、階級の根深さは彼を傷つけ、落胆させた。5年前に創立されたウィーン・ジングアカデミーが指揮者ポストをオファーし、彼はそれを受け、ハンブルグを捨てた。30才だ。丸々20代を放浪生活し、54才で亡くなるまでウィーンの住人となり、つまり終生を旅人として生きた。その結果、1865年、そばにいられなかった母の臨終に間に合わず、衝撃を受けることとなったのである。
そこで彼はフルンテルンにやってきたのだ。1866年、33才の夏だ。母の死を契機にドイツ・レクイエム完成に向けた試みが開始する。その詳細はわかっていないがさまざまな部分をここで書き、そのひとつ、第5楽章「Ihr haben nun Traurigkeit」は1868年9月7日に自身と父親の立ち会いのもと、フリードリヒ・ヘーガー、コントラルトのアイダ・スーター・ウェーバー、チューリヒ混声合唱団とともに即興でリハーサルされた。ヘーガーはチューリヒ・トーンハレ管弦楽団の創設指揮者であり、テオドール・キルヒナー(作曲家)、リーター・ビーダーマン(楽譜出版者)、テオドール・ビルロート(アマチュア音楽家の外科医)と彼を囲む愛好家サークルがあったことがここを選んだ背景ではないだろうか。
特に生涯の友となるビルロートは才能あるアマチュアピアニスト兼ヴァイオリニストで、1865年、新進気鋭の作曲家兼ピアニストであるブラームスがチューリヒでシューマンのピアノ協奏曲と自身の作品を演奏したときに知り合った。家で定期的に弦楽四重奏を演奏して多くの音楽的洞察を共有し、何回かのイタリア旅行を共に楽しみ、室内楽作品の多くの初演前の試演リハーサルに音楽家として参加した彼にブラームスは最初の2つの弦楽四重奏曲(Op.51)を捧げている。本職は胃癌切除手術に世界で初めて成功した重要な外科医で、現代の腹部外科の創始者と見なされ、1860年にチューリヒ大学の臨床外科長および病院の院長となった。二分野で傑出した人物だったが、科学と音楽が対立しているとは決して見なさず、むしろ補完し合うものだと考えた。厳格な対位法や変奏の技法に数学的ロジックすら感じさせるブラームスは、「あらゆることに興味を持って積極的に吸収する人柄で、その話は心から湧き出るものでしたから、年をとっても少年のように輝いていました。あるときはビルロートに聞かされた手術の話を私たち全員に微に入り細を穿って解説しました」(シューマンの娘オイゲーニエの回想)という人だったことから、科学者ビルロートと気が合ったと思われる。異能同士が敬意を懐いて惹かれあうのは自然であり、さらに、ビルロートが学んだのがゲッティンゲン大学で、そこでアガーテに恋したブラームスには奇遇で話を盛り上げたに相違ない。そして、ビルロートは1867年にチューリヒの職を辞し、ウィーン大学の教授に就任するのである。ブラームスにとってどれほど心強かったかは想像に難くないだろう。
会社にほど近い湖畔に聳える音楽の殿堂 “チューリヒ・トーンハレ” は1895年10月に完成したが、そのオープニングの指揮台に迎えられたのが最晩年のブラームスだった(左はその前年のスケッチ)。僕は業務の引継ぎに忙殺されて音楽どころではない日々を送っていたが、ひと段落した10月にやっとトーンハレの門をくぐる暇ができた。そこで勇躍と買ったチケットは偶然にも創設百周年記念演奏会であり、作曲者が振った「勝利の歌」で始まり、ベートーベン第九で閉じた(指揮は同年に着任したデイヴィッド・ジンマン)。後にここで聴いた記憶に残るコンサートにクルト・ザンデルリンクのシューベルト9番、ゲオルグ・ショルティの英雄 / マーラー第10番のアダージョ、および1997年7月のマーラー5番があった。後者はショルティ最後(亡くなる8週間ほど前)の演奏会で忘れ難い。
今回はフルンテルンで完成された第5楽章「Ihr haben nun Traurigkeit」をお聴きいただきたい。ソプラノ独唱が初めて現れ、最後に合唱で母が歌われる。このソロは全曲の中央で出来を左右する重要なものだが満足するものがほとんどなく、未だにこのエリザベート・シュヴァルツコップを上回るものがない。クレンペラーが只者でないのは晩年のモーツァルトのオペラを聴けばわかる。魔笛の声楽アンサンブルの音の良さ、特にルチア・ポップを夜の女王に起用した慧眼は恐るべしだ。クレンペラー盤が人気を保持しているには相応の理由がある。
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マルクスとブラームスの自己同一性危機
2025 SEP 4 18:18:45 pm by 東 賢太郎
この本を読んだわけではないが、表紙に虚を突かれた。ゲットーは中世のユダヤ人強制居住地区のことだ。12年を欧州金融界で過ごすうえで僕は業界のドミナントな存在である彼等の歴史を知り仲良くならない手はないと思ったが、自然にウマが合う人が多いという意外な発見もした。ロスチャイルド家が住んだフランクフルトのゲットー跡地に立って複雑な気持ちに襲われ、屋久島で助けたイスラエルの女性がくれたユダヤ教のお守りを今も大事にしているのも偶然ではない。宗教として近しいわけではないが、無二の創造主を信じることでは同一であり、ヘブライ語聖書(キリスト教の旧約聖書)は史実と考えている。お前は何教徒かと問われれば先祖からの浄土真宗大谷派だが、仏陀も同じものを見たと解しており僕の中で矛盾はない。
左は1909年のニューヨークのゲットーだが、留学当時のハーレム(黒人街)もこんなものだった。ウエストサイド物語の舞台を思い出す。レナード・バーンスタインも、ジョージ・ガーシュインも、貧しいロシア系ユダヤ移民の子だ。ここを脱出して羽ばたこうという大志を抱いた若者の夢はブルジョアの子よりずっと大きかったにちがいない。この写真からざわざわと聞こえてくるのは生きんがための、人間くさい、生々しい喧噪であるが、僕にはそれがいささかも荒んだものに思えない。
ヨハネス・ブラームス(1833 – 1897)はハンブルグのエルベ河埠頭に近いシュペック通り60番地のアパートの2階で生まれた。僕はその写真を見て即座にゲットーを連想した。ヨハネスの父、ヨハン・ヤコブ・ブラームス(1806–1872)は東京と熱海ほどの距離にある町ハイデからハンブルグに19才で出てきて、ギャングや売春婦のたむろすバーで演奏した。ヤコブの父方の曽祖父は車大工、祖父は旅館、伯父は古物商・質屋だ。みなユダヤ人の典型的な職業である。ヤコブは旧約聖書の予言者の名で、ダビッド、ダニエル、ナタンと同様、ユダヤ人が個人的社会的に迫害を受けたこの時代にあえて誤解を受けてまでつける非ユダヤ人はいなかった(シーセル・ロス著「ユダヤ人の歴史」、みすず書房)。
自己同一性危機はアイデンティティ・クライシス(identity crisis)の訳語で、成人が自分が何者か見失うことを言う。ウィーンにおけるブラームスとワーグナーの対立は絶対音楽vs標題音楽の争いであって、音楽の様相としてアイデンティティは明快と見えるが、それだけで真相はわからない。1848年の三月革命(ウィーン体制崩壊)から1862年ビスマルクのプロイセン王国(第二帝国)を経て、いよいよヒトラーの第三帝国に至ってしまう「ドイツ統一」と「ドイツ的選民思想」というもの。その生成過程で、表向きは語られることがないユダヤ系を自覚していた両者が社会的に採らざるを得なかった立ち位置の相違が個性とあいまって対立の根っこになる。つまり、弁証法的唯物論でも持ち出さないと説明できそうもない背景が根底にある。ちなみにそれを説いたカール・マルクス(1818 – 1883)の家が代々ユダヤ教のラビであることも興味深い。彼の父は生地トリーアがプロイセン領になりユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念して1816~7年にプロテスタントに改宗し、名前もヒルシェルからハインリヒに変えている。息子は「ユダヤ人問題によせて」(1843)を書き、フリードリヒ・エンゲルスとともに「共産党宣言」(1948)を著すに至るが、宗教的排除という生存の危機に至りかねない差別をヘーゲル哲学を使って経済格差と階級闘争に置換し、反キリスト教的な無神論にもっていったのは大いなる知見だ。
ザクセン王国ライプツィヒに生まれたリヒャルト・ワーグナー(1813 – 1883)にも自己同一性危機があったが、それは二重三重に屈折した彼なりのものだった。15才までリヒャルト・ガイヤーを名のったが、母の書簡を見つけてしまい、自分は法律上の父が存命中の、母と再婚相手の俳優ルートヴィヒ・ガイヤーの不義の子ではないかという疑念を持ち、ガイヤーはユダヤ人だと信じたことに発したからだ。ルートヴィヒ2世を手籠めにしてしまう政治的才覚の持主である。ビスマルクの庇護を得てプロテスタントを国教とするプロイセンに取り入ろうという野望には致命的な支障となり、絶対に公にするわけにはいかない。そこで非ユダヤ人の立ち位置を印象付けるため、世を騒がせるエッセイ「音楽におけるユダヤ性」(1850)を書いて反ユダヤ主義を大仰に演じてみせ、出生の秘密を糊塗してしまう。「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」「パリのユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる」と書き、その餌食として徹底した攻撃の標的になったのが銀行家の息子であるマイヤベーア、メンデルスゾーンというユダヤ人作曲家だった。
ワーグナーは敵方の急先鋒だったユダヤ人評論家エドゥアルト・ハンスリックも嫌い、 “ベックメッサー” として自作で嘲る攻撃を仕掛ける。さらに、レメニー、ヨアヒムらユダヤ系音楽家と濃厚な関係を築いてウィーンに現れた新星で、おりしもハンスリックが激賞したヨハネス・ブラームス(左)を「ユダヤ楽師」とののしった。いっぽう故郷ハンブルグで定職を得て家庭を持つことを熱望していたブラームスはウィーンに執着はなく、おりから空席となったハンブルグ・フィルハーモニーの指揮者への指名を期待したが上級市民が彼の出自を理由に反対して叶わなかった(これがマルクスの父親が懸念した「ユダヤ教徒が公職から排除されること」の一例である)。ウィーンに居を置くことになり危険を感じた彼は、ドイツ音楽の堅牢な砦である “古典的型式” (絶対音楽)を身に纏う道に向かうが、これは彼がレクイエムの歌詞をルター派のドイツ語訳にして「ドイツ・レクイエム」と名づけたことと同様、「ドイツ統一」「ドイツ的選民思想」の流れから逸脱するすべはなかったためである。はからずもそのウィーンに一生住むことになったブラームスは、ワーグナーのような過激でも政治的でもない形で、ユダヤ髭を除けば自己非同一性の痕跡を一切見せることはなく、父ヤコブから受け継いだ歌謡へのユダヤ的嗜好(「ハンガリー舞曲集」に顕著)は作品番号のない「ドイツ民謡集」の作曲以外は封印する。この抑圧された心理と行動が、晩年のシニカルで内向的な性格と観察されるものの正体である。
かように、ブラームスにも父親ヨハン・ヤコブに起因する同一性危機が根深くあった。にもかかわらず父への愛情は殊に深く、浮気により姉と弟が母側についてもそれは変わらなかったところに僕は彼の人間性を見る。自分の才能を7才で認め、酒場でのなけなしの収入で家族を養いながらハンブルグ最高のピアノ教師につけてくれたこと、そして、レメーニとの楽旅で調律の低いピアノをその場で半音あげてベートーベンのヴァイオリン・ソナタの伴奏をした驚くべき実務能力、即興したジプシー音楽の譜面を売って金に換える才などが父に由来することを悟っていたからだろう。おちぶれてはいたが貴族の末裔だった母からは文学への造詣、深い思考力とロマン的な精神をもらい、終生強い心の絆でつながっていた。母が17才年上という夫婦のアンバランスは彼の女性関係に影を落とし、年齢と共に両親も溝ができ、父は扶養を放棄して家を出てしまう。
その翌年、母が亡くなる。ブラームスは衝撃を受け、それが「ドイツ・レクイエム」に投影される。これほど魂に安息を与えてくれる音楽は他にないと、いま僕は感じながらそれに浸って本稿を書いている。彼がかかえたコンプレックスにはささやかながら共感を覚える点が自分の家庭環境にはあった。富裕層子弟ばかりの小学校に団地っ子はおらず、誕生日のお祝いに呼ばれれば目をみはる豪邸ばかり。社宅である我が家は好きな子だけを招待しても手狭だった。妹と二人の高額な学費を支払って学業を支えてくれた勤勉な父の労苦も、富裕層出の母の気持ちも痛いほど察した。小鳥と猫を飼ってくれ、きれいな花や手芸品の装飾でいつも部屋を明るくしてくれていた母の姿が「ドイツ・レクイエム」の第4楽章のはじまりの数小節からありありと目に浮かんでくるし、父への敬意と感謝も消えないことはブラームスと同じだ。
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シューマン「詩人の恋」作品48
2025 MAY 29 11:11:57 am by 東 賢太郎
この作品の第1曲を初めて耳にしたのは17才だ。なぜトシまで覚えているかというとわけがある。その時は聴いた、というより体験したというべきで、ごくごく僅かではあるが音楽にはそういう禁断の実のようなあぶないものがある。その前奏は曖昧模糊で、調性もよくわからない。あてどもなく白ぽっい霧の中をさ迷う夢みたいで、なんだこれ、参ったなあ、やけにまとわりつくなあと感じ、その実、幾日か経っても不意に脳裏によみがえって憑かれていたような気がする。
それなのに、この作品を理解できたと確信し、心がふるえるほどの感動を味わったのは50才を超えてからだ。通常のクラシックファンとしてはものすごく遅咲きであって、なぜそんなに遅いかを皆様にご説明するのは簡単なことではないときているから困る。音楽がわからなかったというわけではないだろう。なぜなら、もうクラシック音楽を長らく聞いていたからだ。ドイツ語がまったくわからなかったわけでもなかろう。なぜなら、もうドイツ語圏で5年暮らしていたからだ。
長年働いた会社を辞めたのが49才だったというのは無縁でないかもしれない。あれは何やら見えない大きな力というか、天の力学のようなものによって運命の転機がやってきていたのだと思うしかない。ふりかえると心底よくぞ踏み切った、悪くない決断だったとは思うが、失う物もたくさんあった。かけがえのない恋人との別れもきっとそうなのだろうが、若き日から25年にもなるその会社とのご縁、ご恩、仲間、思い出がすっかり消えてしまう気がするのは辛かった。なんということをしたんだという後悔に苛まれたがそれは誰にも言えず、しばらくは強がってみせるだけの日々だった。
仕事は替えがあるが恋人にはないとおっしゃる方はおられるだろう。そう思うし、あまりにロマン派になれない自分が嫌になることもあるが、そのとき味わった喪失感は未曽有の重みであり、傷ついており、シューマンがわかったことは喜びというよりも慰められたというほうに近い。なぜなら、どうした経緯か元の会社に戻っていて、ヨーロッパだかアジアだか、どこだかわからない海外の拠点にまた勇躍と赴任してゆく夢を何度も見たからだ。そこでは、僕は、かつてそうだったように希望に燃え、胸を張って初日の出社挨拶を済ませていた。そしてまず第一にと、新しく住む家を探しに出かけている。それは自分がどうこうよりも、家内が喜んでくれそうかを必死に考えながらのことだ。
すると、いいのが見つかった。遥か眼下に流れの速い川を望む、高く切り立った崖の上に建つ、まるでお城のような家だ。すばらしい!轟々と流れる水が荒々しく岩にあたって砕け散る様を窓からじっと見おろしていると、どうしたことか、自分の意識だけが空中をするすると降りていき、川の中がはっきりと見えた。すると、黒くて獰猛な顔つきをした見知らぬ魚が、べつの魚を襲い、食いついて、腹わたを生きたまま食い荒していた。荒涼とした気分になって家の外を歩いていると、ざわついた人だかりの広場に出くわした。白人とおぼしき若い女性たちが楽しげに連れ立ってこちらを見ている。石畳の道を路面電車が走っている。線路を横切って道の反対にいくと、そこは市場かバザールのようだ。何かのお店のドアを開けて入ろうとしたところで、目が覚めた。
なんだ?これは夢か?いや、そうじゃない、だって俺は覚えてるぞ、たしかにどこだったかそういったことがあったじゃないか、それもヨーロッパだぞ、でもどこの国の店だったんだ?真剣に記憶をたどりながら動揺していて、理性が覚醒し、それは間違いなく夢だよと納得させるまで僕はそこの住人だった。詩心があればきっと詩を、楽才があれば音楽を書いただろう。ハイネの詩にインスピレーションを得たシューマンも、僕が見ていた夢のように、夢を描いたハイネの言葉の余韻の中からありありと中に入りこむことができ、予想もしない恋の展開が現実のようにのしかかってきて感情が鋭敏に反応し、そのいちいちで脳裏に浮かんできた音楽を書き取ったということではないのか。彼にはそんな想像がぴったりくる。ボンにある彼のお墓にクララも眠る。そこに友人たち、崇拝者たちが刻んだ銘にはGrosse Tondichterに、とある。「偉大なる音の詩人」、まさにそうだったと思う。
「詩人の恋」における「詩人」はハイネの主人公ではない、シューマン自身だ。それを知ったとき、すでに16曲のいちいちが耳に焼きついていて、聴くたびに自分もその気分に入りこんでしまい、シューマンと一緒に心が動揺しだした。この曲を聴くとはそういうことだ。ひとつひとつ短い文字にして追ってみたい。
まずは音をきこう。定評あるヴンダーリヒ盤ならあまり異論が出ないかと思うのであげておく。個人的な趣味でいうなら、ドレスデンのルカ教会で録音された若きペーター・シュライヤーの1972年盤になる。終曲を半音上げているのがどうかという原典主義の方もおられようが、シュライヤー37才、この作品には旬の年齢と思う。41才のノーマン・シェトラーによる心の襞に寄り添うピアノは筆舌に尽くし難い。
ヴンダーリヒ盤
シュライヤー盤
できればドイツ語でニュアンスをつかみたいが、テノール歌手・髙梨英次郎さんの日本語注釈はわかりやすいのでお借りする。
ひとつだけ僕の個人的関心事をあげておく。
第8曲のAm Dm B♭ E7 Am Dm6 E7 Am という和声(太字部分)は「子供の情景」(1838年)の「Der Dichter spricht(詩人は語る)」、7度をバスに置いた茫洋とした霧で開始し、あまり子供らしくない苦悩と煩悶を彷徨うかのような終曲の、唯一、決然と聴こえるカデンツであった。
シューマンが意図したかどうかはわからない。むしろ深層心理だったかとも思うが、これが本作にも現れる。それがどこかは後述する。
まず前座のご説明だ。このチクルスが「美しい5月に」(Im wunderschönen Monat Mai )で始まることを僕は何度でも強調するだろう。それほどにドイツの5月は美しく忘れ難い。まるで暗くて寒くて長い冬がうそだったかのように、まるでそれが廻り舞台で地上の楽園に忽然と模様替えしたかのように、野原には色とりどりの花が咲き乱れ、森は鳥のオーケストラで満ちあふれ、庭ではみなが夜まで陽気に唄い踊る。
第1曲。イ長調。Dmaj7- C#の虚ろなピアノが霧から立ち現れる。心はひとつも明るくない、5月なのに・・。それが5月だったから、去った後の悲しみは計り知れないのだ。僕は彼女に打ち明けた、僕の憧れと願いを。詩人はその言葉に、これからおきるすべての遠望への感情をこめている。行く手がみえないままひっそりと消えると、もう聴き手は物語の中だ。
第2曲は前曲で解決しなかった夢想を現実に置き換える。同じイ長調が明るい。ミからファ(サブドミナント)にあがり、眼前には希望しかない。
第3曲。ニ長調。喜びの象徴だったバラ、ユリ、ハト、太陽。それが彼女ただ一人に集約される。人生の絶頂。早口言葉のような歓喜の大爆発。
第4曲。ト長調。天上の喜びに浸りながらも心は静まっている。涙を流すのは頂点に不安の陰がさしたのだろうか。
第5曲。ユリの花が戻ってくる。彼女ではなく。ロ短調。キスに何を感じたのだろう??
第6曲。情景は不意にライン川に飛ぶ。ケルンの大聖堂が現われる。heiligenなる恋愛とは遠い言葉。暗くて重いホ短調。第2節の最後、Hat’s freundlich hineingestrahlt(友のような光を投げ入れてくれた)の後奏で和声が崩壊する!(1835年、シューマンを驚嘆させたベルリオーズの「幻想交響曲」。早くも第1楽章の最後にくるそれか)。聖母マリアの絵に見た恋人はもうイデーフィックスになっている。
第7曲。愛は永遠に失われ、それを分かっていたことが明かされる。でもそれがどうした。Ich grolle nicht!僕は恨まない!ハ長調!!やりきれない強がりを逆説にこめる。ひっそり悲しみと恨みが滲む。夢のなかに蛇が出た。僕は見た、君のハートを食い荒らして闇の穴をあけた蛇を!
第8曲はここでやってくる。
第1~3節は同じ伴奏による早口言葉の回帰。花、ナイチンゲール、星々の各々が詩人を慰めてくれるが、その締めくくりごとに「子供の情景」をひっそりと閉じる 「Der Dichter spricht(詩人は語る)」の印象的なDm6 E7 Amが出てくる。そしてこのカデンツは、第4節目のSie hat ja selbst zerrissen,Zerrissen mir das Herz(彼女が自分で引き裂いたのだから、僕の心を引き裂いたのだから)で、和声を変え、怨念をこめたように決然と否定される。
第9曲。婚礼だが短調で三拍子の舞曲だ。フルート、ヴァイオリン、トランペット、太鼓、シャルマイにのって恋人は輪舞する。ニ短調から変転して気分は定まらない。幻想交響曲終楽章のおぞましき風景そのものだ。
第10曲。ト短調。調性からも魔笛のパミーナのアリアAch, ich fühl’sを想起させる悲嘆。フォーレにつながる無限に悲しい歌だ。アガーテと終わってしまったブラームスの心境かくやと思わせないでもない。
第11曲。ヘ長調。一転して気持ちが弾むのは、詩人は彼女をコメディの客体にすることに成功し、自らの精神を救ったからだ。しかし、当初からduではなくSieと、彼女はずっと客体だったのだが・・。Und wem sie just passieret(これが実際起きようものなら)で和声が一瞬揺れ、動揺の残照をみせてしまう。
第12曲。前曲の半音上、主調の長3度下であるG♭7から F B♭と夢のようにはいる変ロ長調。驚くべき音楽だ。B♭ E♭G Cm F B♭と平穏にくるがロ長調をのぞかせたあげくにト長調になると万華鏡の乱舞をのぞくようで和声の迷宮!高音に煌く伴奏の音感覚はもはやオーケストレーションの領域であり、金粉を天空に散らした様は印象派を予見する。Dichterでなくてはこういうものは書けない。
第13曲。変ホ短調。君が墓に横たわる夢を見た。Sie(あなた)がdu(きみ)になっていることに注目だ。暗い。ぶつ切れの不吉な伴奏。世の中で最も暗い曲がここにくる。きみだった彼女を忘れていないのだ。
第14曲。ロ長調。弱起でやさしく話しかけるようなメロディ。君は親し気に挨拶をしてくれる。心がはずむがこれも夢だ。そして僕にくれる、糸杉の束(死の象徴)を。目が覚めると君は消える。
第15曲。ホ長調。弾むようなリズムで魔法の国、幸福の国の幻影が立ち昇る。よかった!全ての悩みは取り去られ、自由でいられ、天使に祝福されると思うとふっと消え去る。目の前にあるすべては夢、幻影だったのだ・・
第16曲。大きな棺をひとつ持ってこい。嬰ハ短調。ハイデルベルクの樽。マインツにある橋。ケルン大聖堂のクリストフ像。そのたびにピアノが「どうだ!」と胸を張って念を押すTDTDT!皆さんお分かりか?どうして棺がこんなに大きく重いのか。僕は沈めたのだ、自分の恋を、そして苦しみをその中に。嗚咽の虚勢が鎮まるとひっそり歌は消え、第12曲の夢幻が虚空にはらはらと蘇り、夢の中に曲は閉じる。
30分ほどの作品の与えてくれる感動は比類ない。
クララがピアノを弾いている夫にかけた「あなた、ときどき子供にみえるわ」というなにげない言葉から生まれた「子供の情景」。彼は世間一般の子供というものを描いたのではなく、妻の言葉の余韻の中で、たしかに大人の自分の中にいるそれを見つけて13の小品を書いた。「詩人の恋」の表向きの主人公はハイネの詩の主語である ich(僕)だが、作曲しているのはそれを外から眺め、我が事として見つめているシューマンである。すなわち、若くしてジャン・パウルの文学に傾倒し自らを眺めるドッペルゲンガー(Doppelgänger、自己像幻視)の性向を生まれもっていた彼にしか着想し得ない音楽がその二作品なのだ。音楽評論誌「新音楽時報」を創刊して「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出し、登場させたオイゼビウスとフロレスタンなる分身もそれだ。その性向が生んだより直接的な作品こそがクライスレリアーナである。こういう作曲家は彼とE.T.A.ホフマンの他に僕は知らない。
その性向がどうのというのではない。自分を上空や背後から見ている自分がいると語っている人は現実に何人か知っているし、僕自身、ヴィジュアルはないがそういう自分が確かにおり、この文章は恐らく彼が書くか検閲するかしているし、彼が見ていないとなんでもない場所で躓いて転んで怪我したりもしている。そうした眼で見るに、シューマンは大変に興味深い。1810年に生まれ46才で亡くなった彼の時代、啓蒙主義、個人主義の渦がヨーロッパを席巻し、芸術においてもゲーテやベートーベンまでを否定する革命運動のさなかにあった。音楽ではワーグナーが代表的人物だ。
しかし、ワーグナーもしていないが、人間の心の内面という秘匿された部分にまで光をあてようとするのはまだ一般的でなかった。ハイネが夢の中での恋愛感情の相克を描いたのは文学におけるその先駆とされるが、シューマンが彼の詩に着目したのは彼が持って生まれた性向によって音楽におけるその先駆者におのずとなっていたからであり、その彼がベートーベンの死後わずか3年で書かれた幻想交響曲という、それ以外の何物でもない異形の音楽を最も早い1835年に評論して世に問うているのも、客観的に、ベルリオーズが性向としてフランスにおけるその先駆者だったからだ。僕は自分自身が幻想交響曲になびき、シューマンの二作品になびくのを、客観的に、自然現象のように眺めている。
第6曲と第16曲に現れるケルン。シューマンは晩年に最後の職場となるデュッセルドルフに移り住んでクララとそこを訪問し、大聖堂で得た霊感を第4楽章にして交響曲第3番という傑作を一か月で一気に書きあげる。このクリストフ像の前にハイネはしばし立ちつくして詩の着想を得たろうし、シューマンは若き日の第16曲を思い出したに違いない。ブラームスはシューマンがエンデニヒの病院でクララに看取られつつ天に昇った5年後の1861年に、「詩人の恋」のハンブルグ初演のピアニストをつとめている。先に述べた第8曲のAm Dm B♭ E7 Am Dm6 E7 Am という和声の太字部分、バスが増4度音程のB♭ E7の劇的な連結は前稿に書いた1866年作曲の歌曲「五月の夜」(Die Mainacht)にも顔を出す。たかが和声と思われる方も多いかもしれない。しかしシューマンは「最高の力を持っているのは女王(旋律)だが、勝敗は常に王(和声)によって決まる」と述べている。
最後に書いておくことがある。第1曲「美しい5月に」を17才で覚えていたのは、九段高校の音楽教諭だった坂本先生が、授業で、ご自身のピアノでそれを何度か歌って下さったからだ。美しいテノールと精妙な伴奏の和音が今もくっきりと耳に残っている。感謝したい。
(ご参考)
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ブラームスの “青春の蹉跌”
2025 MAY 24 16:16:45 pm by 東 賢太郎
僕は恋愛小説というものを読んだことがない。これからも読まないだろう。お恥ずかしい話だが実感があまりないのだ。我が家は男優位思想だったが実は母が強く、そのせいかどうかは定かではないが僕には抗い難いある種の女性恐怖症があり、高校まで親しく口をきく関係になった女性はひとりもいない。幼少のころ母に連れられて親類の家やおばさんの女子会みたいなのに行く。あら、ケンちゃん大きくなったわねだなんだでひとしきりいじくり回され、刺身のつまになるが、これが大嫌いだった。そして何のことはない、数分後にはつまらない話で盛りあがって長いこと置き去りになる。退屈極まりない。しかし全権は母にある、この苦行に堪えないと飯にありつけない。そうやって女性には逆らうなという刷り込みができていったように思う。
さらに小学校では口から生まれたような女子がいて、ずっと弁が立ち、強く言われて負けた屈辱の経験がたくさんあるときている。それが父に仕込まれた男優位のドクトリンに反し、俺はいっぱしの男でないという気がして強がってしまい、ますます女子と溝ができた。だから精神衛生上も近寄らないに越したことはないと逃げてしまった。そんな意気地のなさだから中学生になって気になる女子はいたが、どうせだめだろうと話す勇気も出ず、高校になると見かねた野球部仲間がピッチャーとつき合いたい女がいるぞとお膳立てして喫茶店で奇麗な子と引き合わせてくれ、お互いにけっこう気に入ったように思ったが、結局勇気がなく、デートに誘いもせず終わった。
社会人になると大阪で様相がガラッと変わった。先輩に連れられて毎日のように十三なんかの裏路地の飲み屋に行く。あばずれ風の姉ちゃんたちに囲まれ、珍獣を見るような目で見られ、東京言葉で口を開くと、あっ兄ちゃん、ええかっこしいや!ここ大阪やであかんあかん、モテへんで!と猛烈に攻め込まれる。いま思うと、世慣れた先輩たちと何十件も飲み歩いてメンタルを鍛えられ、2年半たってやっと女性なにするものぞとなっていたのだから感謝しかない。というわけで、恋愛も恋愛、絵にかいたような悲しい純愛物である本稿のテーマは、実は僕のような朴念仁に語れる筋合いのものではない。それを承知で書くのは、一にも二にも、ブラームスへの愛情、ブラームスを知らなければ僕の人生は女性が出てこないことの何倍もつまらないものになっていたからだ。
25才のブラームスには2つ下でお似合いの婚約者がいたことから話は始まる。アガーテ・フォン・シーボルト。日本人なら誰もが教科書で知るあのシーボルトの親類だ。医者の家系である。美人で見るからに利発でプライドが高そうだ。どうでもいいが僕ならびびってしまうタイプだが、イケメンでひょっとすると似たタイプだったのだろう、ブラームスは一気にのめりこんでしまう。
しかし二人はうまくいかなかった。男女の事だ、真相は二人しかわからないが、後世の憶測ではない文献による史実は2つだけある。友人たちに態度をはっきりしろとせまられたブラームスが「あなたを愛しています。私はもう一度あなたとお会いしなければならないと思っていますが、束縛されたくはありません。それでも、私があなたのもとに戻ったら、あなたを私の腕で抱きしめることができるかどうか、お手紙でお答えください」と綴り、それを読んだ彼女が婚約を解消したこと。そして老後の回想録に「私は義務と名誉のためにブラームスに別れの手紙を書き、何年もの間、失われた幸せのために泣きに泣いた」と書いたことだ。
出会いは1858年、彼女の家があったゲッティンゲン。長い黒髪、ふくよかな体、悪ふざけが大好き。僕は初めてこの歌をきいたとき、ヨアヒムが “アマティのバイオリン” に例えたアガーテの声を思い浮かべた(同年に書かれた「8つの歌曲とロマンス」作品14から第7番「セレナーデ」)。
ところがこれを書く3年前、ブラームスはあるピアノ曲に劇的な出会いをしていたことがわかっている。クララ・シューマンの「3つのロマンス」作品21だ。第1曲イ短調Andanteをお聞きいただきたい。女性の秘められた切ないロマンが胸をわしづかみにする。もうすさまじいと書くしかない、これを贈られてよろめかない男がいようか?名ピアニストと記憶されている彼女は立派な作曲家なのだ。ツヴィッカウのローベルト・シューマン・ハウスにある第1曲の自筆譜には「愛する夫へ、1853年6月8日」という書き込みがある。この愛憫の情は明らかに、夫ローベルトに向けられたものだった。
ところがウィーン楽友協会にある第一曲の楽譜(左)には「愛する友ヨハネスへ、1855年4月2日作曲」と書き込まれている。これは後世に憶測を呼んだ。「愛する夫へ」と書いた同じ月のクララの日記には、夫が目を覚まし発作に襲われたことが記録され、言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった。そのことからも、第1曲の深い愛情が天に召されつつあるかもしれない夫へ向けられたものだったことは疑いないと僕は思いたい。しかし梅毒であった彼は回復せず、翌1854年2月にライン川に投身自殺を試み、以来、1856年7月29日に逝去するまでエンデ二ヒの精神病院から出られず、医師は身重だったクララとの面会を禁じていた。その間に、弱冠22才のブラームスは夫のために書いた作品21をもらい、36才と女ざかりのクララの「愛する友」になっていたのである。彼にとってこの贈り物は非常に重たいものだったに違いない。アガーテと出会う3年前のことだ。
20才のブラームスがヨアヒムの紹介でシューマン家の門をたたいたのは1853年9月だ。亡くなる3年前のシューマンは既述のようにすでに発作をおこしており、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり5か月後に自殺を図る。そんな中にやってきた見ず知らずの若者がハンマークラヴィール・ソナタ丸出しの開始をする自作のピアノソナタ第1番ハ長調作品1を弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか」といい、ブラームスを紹介するために10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。
このローベルト・シューマンこそ真の天才であり、虚飾も打算もない、真に尊敬されるべき偉人であり、無名の男の才能を即座に認め、病をものともせずそこから熱狂的にとった彼の行動に僕は人類の未来を託すべき崇高なものを感じ取って涙を禁じ得ないのである。ブラームスという人物には僕を熱狂させるものは何もない。まったくもって別な人種だとしか書きようがないが、シューマンとモーツァルトには大いにそれを感じる。今だけ・カネだけ・自分だけの目下の日本にこんな人物が何人いるだろう。だからその音楽が好きという理屈はないが、偶然にも、僕が古今東西で最も愛するピアノ協奏曲は彼のイ短調であり、交響曲は彼の変ホ長調なのだ。そのバイオは可哀想な病気に冒された晩年で悲愴に終焉するが、そんなものがなんだ。変ホ長調交響曲を1850年11月2日から12月9日にかけ1か月で完成した速筆ぶりは、20余年もかけて1番を書いたブラームスと対照的で、性格も天地ほど異なっている。これほど似つかない二人の男を愛したクララは何に惹かれたのか。才能だろう。それを愛する人は、持っている人がどこの誰かは関係ない。そう知るのも持ってる人だけだから、地球上のほとんどの人はそれを知らない。持ってない僕がそれを知ったのは、彼らの音楽を50年も座右に聴いてきたからだ。彼女もそれをもって生まれた特別の人であり、その裏返しでブラームスはクララを必要とした。読んでないものを評する気はないが、こういうものは恋愛小説には掬い取れないのではないかと想像する。
まさにそのころ、1854~1857年に、アガーテと出会う直前のブラームスが書いていたのがピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15だ。初演はおりしもアガーテと婚約したころの1859年1月。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで3人しか拍手のない大失敗となり、傷ついて自信を無くしたことが破局の第一歩だった。かたや、1854年の日記に「私は彼を息子のように愛しています」と書いたクララはブラームスより14才年上だ。どん底に沈んだ彼は失敗に同情したり、心配してくれる歌い手の若妻ではなく、作曲家でもあり頑強に支えてくれるクララを選んだ。身を立てるために彼にとって必要であり、必要なものを手に入れる犠牲をいとわぬ不動の決意ゆえであろうが、もう一つ非常に重要な理由は、彼の母親が父親より17才年上だった家庭環境が大いに影響したと思っている。そうした、宿命的関係とも思えるクララへの思慕が最も現れた音楽が、3つの楽章の最後になって書かれたピアノ協奏曲第1番の第2楽章アダージョだ。それでいて、あろうことかクララの娘に恋愛感情をもったりもしたブラームスの優柔不断な女性観のふらつきは常人にはおよそ測りがたいものだが、それが微妙な内声部の動きで和声が玄妙に移ろう彼の音楽の誰にもない魅力に通暁しているようにも見えないだろうか。
夫の死後、クララは子供たちとともにベルリンに移り、1863年からはバーデン=バーデンを本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。ブラームスはクララに会うため1865~1874年の夏をそこで過ごし『交響曲第1番、第2番』『弦楽六重奏曲第2番』『ピアノ五重奏曲』『ホルントリオ』『アルトラプソディ』『ドイツレクイエム』の一部などを書いた。
1866年に作曲された「五月の夜」(Die Mainacht)は彼の作品で最も好きなもののひとつである(「4つの歌曲」op.43の第2曲)。前稿でバーデン=バーデンについて、そして欧州の5月(Mai)の悦楽について述べたが、それがあってこその悲しさが深く琴線に触れてくる。こういう音楽をベートーベンは書いていない。彼は北ドイツの、厳格なプロイセンの人という感じがするが、やはりハンブルグで北の人間であるブラームスはバイエルンやスイス、オーストリアを好み、その嗜好が現われた曲と思う。その情を包み込む和声は非常に凝っている。
ちなみに詩はこのようである。
銀の月が
潅木に光注ぎ、
そのまどろむ光の残照が
芝に散りわたり、
ナイティンゲールが笛のような歌を響かせる時、
私は藪から藪へと悲しくふらつき回る。
葉に覆われて
鳩のつがいが私に
陶酔の歌を鳴いて聞かせる。
だが私は踵を返して
より暗い影を探し求め、
そして孤独な涙にくれるのだ。
いつになったら、おお微笑む姿よ、
朝焼けのように
私の魂に輝きわたる姿よ、
この世であなたを見出せるのだろうか。
すると孤独な涙が
私の頬を伝ってさらに熱く震え落ちた。
この詩は意味深だ。ブラームスはけっしてアガーテを忘れていない。身を引くつもりなどなかった。ただ言えなかった、失敗した自分を母のように守ってほしいと。しかしそれを口にするような自分ではいけない。大成できない。見ろ、自分の父がそうだったじゃないか。彼の育った家庭環境を忘れてはならない。父が17才年上の母親に書くかのようなあまりに優柔不断な手紙。アガーテはそうとは知らない。おそらくブラームスはその内面を悟られまいと隠していたのではないか。彼女はただただ驚き、自尊心を深く傷つけられ、泣きながら苦渋の別れの手紙を書くしかなかった。名門の医師の家という格式、名誉もあったろう。彼女は婚約が解消された後、実に10年間、誰とも結婚する気持になれず、結婚に際しては彼からの手紙を残らず処分した。しかしブラームスの方も、アガーテからいきなり別れの手紙が来るとは思ってもいなかったと思う。ハンブルグの女郎屋街の一角で生まれた彼の家にはそれに匹敵する格式というものはない。大きなショックに苛まれたが、堂々と、待ってくれ、それは誤解だよといえなかったのは何らかのコンプレックスが彼を支配し、いっぱしの男という強がりがあったかもしれず、なによりも、母のようなクララが心にいたからだと僕は強く感じる。それは救いでもあり葛藤でもあったのだがもう打つ手はなかった。彼はアガーテを深く傷つけ、自分も打ちのめされ、その後4ヶ月ほどはハンブルクに閉じこもり作曲も演奏活動もしなかったという。
弦楽六重奏曲第2番ト長調Op.36は、1864年から1865年にかけてバーデン=バーデンで作曲され、第1楽章の提示部の最後にa-g-a-h-e(アガーテ)の音符が縫いこまれていると指摘される(シューマンもクララの音符をそうしていた)。それが思慕なのか決別なのかはわからない。あるいは偶然かもしれない。
偶然でないのは、第1楽章冒頭の主題がト長調から長三度下の変ホ長調に移行し、同じことが「五月の夜」(Die Mainacht)でもおきることだ(変ホ長調からロ長調)。和声は音楽の根幹で、表面の工夫ではあり得ない。前者がアガーテ六重奏曲であるなら「五月の夜」もそうではないか。そう聞こえてならない。この六重奏曲をブラームスはヨアヒムの助言を受けず書いた。自立心に並々ならぬ気合が入っているのだ。第3楽章冒頭、VnがJ.Sバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻 第24番ロ短調の主題を奏でるのにお気づきだろうか?バッハはこれで大作を閉じた。決別して6年。意を決して、彼はアガーテへの想いを締めくくったのではないだろうか。
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ハイドン 弦楽四重奏曲第35番ヘ短調 作品20-5
2025 JAN 27 3:03:31 am by 東 賢太郎
ハイドン(1732 – 1809)が「シュトルム・ウント・ドラング」的な特徴をそなえた楽曲を1768年~1773年(36~41才)頃に多作したことを前稿に書きました。シュテファン教会合唱団で歌っていた少年時代にC.P.E.バッハの楽譜を研究した成果です。ハイドンの現存する最初期の曲は、変声期で合唱団を解雇された1750年(18才)ごろ書いた『ミサ・ブレヴィス ヘ長調(Hob. XXII:1)』です。
この頃から作曲を始めて認められ、1757年(25才)ごろボヘミアのカール・モルツィン伯爵の宮廷楽長の職に就きプロの作曲家となります。ここで
約15曲の交響曲を含む作曲をし、1761年(29才)にハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長のポストを得て、1766年(34才)には楽長に昇進。これこそがハイドンのみならず音楽史にとって最大級の僥倖でした。曲作りの過程で音響の「実験」「冒険」をできるマイ・オーケストラを持っていた恵まれた作曲家は他にいません。そうしてかねてよりのC.P.E.バッハの楽譜研究を2年あまり重ねたことを自身で「私を知る人は誰でも、私がエマヌエル・バッハに多大な借りがあること、彼を理解し熱心に研究したことに気づくに違いない」と述べ、1768年(36才)ごろ「いわゆるシュトルム・ウント・ドラング期」に突入するのです。
その最大の成果のひとつが1772年に作曲した6曲の「太陽四重奏曲」作品20です。特筆すべきことはその第1番変ホ長調をベートーベンが筆写し、ブラームスが全
曲の楽譜を所有していたことでしょう。この執着はハイドンがC.P.E.バッハから吸収したエッセンスが「太陽四重奏曲」にあるという関心に発していたのではと思うからです。ふたりのC.P.E.バッハへの評価は以下の史実で伺えます。ベートーベンは「私は彼のクラヴィーア曲を少数しか保有していないが、その幾つかはすべての真の芸術家に高度な歓びを与えるだけでなく研究対象にもなる」(ブライトコプフ&ヘルテル社への手紙)と称え、ブラームスは師匠のシューマンが「大バッハに著しく劣る」と無視したのに対し、高く評価して一部を校訂までしたことです。
ベートーベンが筆写した「太陽四重奏曲」第1番変ホ長調です。
ベートーベンがC.P.E.バッハから受け継ぐものがあると感じさせる例もひとつ。鍵盤ソナタH283、自由幻想曲、ロンド(1785年) – ハ短調の鍵盤のためのロンド(Wq 59:4)です。
ベートーベンはピアノ・ソナタ第1番へ短調(1795年)をこう始めます。
このソナタはいみじくもハイドンに捧げられています。師の向こうにC.P.E.バッハが透かし彫りのように浮かんでいる、そう聞こえてなりません。
プロテスタントのC.P.E.バッハをカソリックのウィーンに紹介したのはモーツァルトの庇護者でもあったゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵です。ハイドンがC.P.E.バッハのクラヴィーア教則本『正しいクラヴィーア奏法への試論』を学んだのがスヴィーテンの影響かどうかはわかりませんが、同書第一部発刊時(1753年)に彼はウィーンにおり、21才のハイドンは作曲の勉強中でした。ずっと後年のことですが「天地創造」「四季」の創作に関わり、ハイドンの遺産の中には大バッハの「ロ短調ミサ曲」と「平均律クラヴィーア曲集第二集」の筆写楽譜があったことからスヴィーテンとの深い交友があったことは事実です。
ではモーツァルトはどうでしょう?彼はリアルに太陽四重奏曲から学習しています。6曲から成る「ウィーン四重奏曲」(K.168~173)がその成果です。その経緯に関し多くの学者が与える評価が2つあります。①C.P.E.バッハを消化吸収した40才のハイドンの円熟と「とんがった」技法、➁それをウィーンで目の当たりにして父とのイタリア楽旅で得た自信を粉々にされた17才の当惑です。①の形容こそが再三僕が辟易している「シュトルム・ウント・ドラング」であり、➁からウィーン四重奏曲は過渡期の作品と結論を導き出すのです。しかし、K.626まで知った我々の耳にそうきこえるのは当たり前でしょう。ウィーン四重奏曲は喩えるなら高校生の大谷翔平の投球です。彼が甲子園に出て当惑した云々は本質に関係ない大衆向け解説であって、スカウトの目で彼の球質を観ることでいろいろな物事が見えてきます。例えば第1番(弦楽四重奏曲第8番ヘ長調K.168)のスコアなど驚嘆以外の何物でもありませんし、それを当時のウィーン人がアプリシエートしたとは思えない暗澹たる気持ちも入り混じります。お聴きください。
第2楽章の主題はハイドンの太陽四重奏曲の第6曲、弦楽四重奏曲第35番ヘ短調の第4楽章からの引用でしょう。
これを作曲することになる3度目のウィーン旅行は、父子が宮廷楽長ガスマンが病気で倒れたと知ってチャンスだと出向いたものでした。ウィーン四重奏曲を息子の尻を叩い
て書かせマリア・テレジア皇太后に拝謁までしましたが、その御仁こそがアンチの胴元だったのだから仕官できるはずないのです。この夜の女王みたいに恐ろし気な女性と小物役人以外の何物でもないザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド。ふたりの権力者の壁に人生を阻まれたモーツァルトは気の毒でしかありません。しかしそれも犯人を知って推理小説を読むようなもの。「馬鹿どもはまあどこでだって物分かりがよくはありません!」と妻に手紙を書いたレオポルド氏に共感しますが、しかし、この曲集、当時のウィーンでは馬耳東風だったろうなあという虚無感を僕は禁じえません。後世のモーツァルト学者、文筆家のほとんどがミラノ楽旅で学んだイタリア式四重奏曲との断層を論じます。それは正しい。しかし決定的に間違いであるのは、これを「ウィーン四重奏曲」と安直に呼ぶあんまりインテリジェントでない土壌のうえで論評していることです。モーツァルトを圧倒し、狼狽させ、模倣・引用しようと奮い立たせたのはウイーン式でもウィーン四重奏でも何でもなく「ハイドン式」である。これが本稿を貫く僕の主張です。しかも、そのハイドンも、それを創造したのはウィーンではなくハンガリーなのです。エステルハージ家でC.P.E.バッハ研究から吸収した創造物をマイ・オーケストラで「冒険」「実験」できた。そんな理想郷のような工房を所有した大作曲家はハイドン以外にひとりもいません。だからハイドンのエステルハージ家の楽長就任を僕は「音楽史にとって最大級の僥倖でした」と書いたわけです。ここにおける我が結論は①いかに太陽四重奏曲が先進的だったか➁それに即座に反応・対応したモーツァルトのエンジニア能力がいかに図抜けていたかの2点。それだけです。
特に第13番ニ短調 K. 173は “短調” かつ “フーガ付き” というハイドンが売りにしようと目論んだ特徴をフル装備しており、第4楽章の半音階のフーガ主題はウェーベルンさながらで初めてのときは驚いたものです。21世紀の耳でそれですから当時の聴衆の度肝を抜いたはずですが春の祭典のような騒動にならず静かに無視。それがウィーンです。だから彼も感動を喚起しようと思って書いてない。あくまで高度な技術のデモで、それを評価できる人はウィーン中を探してもヨーゼフ・ハイドンしかいなかったことをわかっていたと思います。17才が40才を凌ぐとすれば円熟味のようなものではなく技術の切れ味しかないことを父子は理解していました。しかし息子はともかく父の政治的センスがなかったですね。人事は学歴やTOEICの点数だけでは決まらない、つまり作戦ミスなんですが、家の財政事情や揺るぎない向上心で一気にトップを狙い、失敗した。いいんじゃないですか、人生一度っきりだし。
後世のベートーベン、ブラームスがハイドンの太陽四重奏曲に関心を持ったのはなぜかという話に戻ると、C.P.E.バッハのエッセンスをハイドンが消化吸収し、それを自己同化することでさらに新しい音楽が創造できる可能性を17才のモーツァルトが証明したことが背景にあったのではないか。二人にとってモーツァルトは神ですから、神が崇めたものに神性を感じたかもしれませんが、決して骨董品を愛でる類いの関心ではなく「お前はハイドンのスコアに何を見出せるか」という、自分が計られるような関心(もしくは不安)があったと想像するのです。それなくしてベートーベンが筆写するとは思えません。その解答集がウィーン四重奏曲ですから彼らは当然こちらも微細に調べてます。特許を競うエンジニアとはそういうものだからです。モーツァルトの当惑を聞き取るのも一興かもしれませんが、彼はそういう関心のもたれ方にそぐわしい文学青年ではなく、文学青年を泣かせる名人の技術者であったということです。
弦楽四重奏曲第13番 ニ短調 K. 173(1773年)をお聴きください。
モーツァルトにこれを書く衝動を与えた作品は太陽四重奏曲(1772年)6曲のうちのどれでしょうか?第35番作品20-5ヘ短調と思います。何故なら、K. 173にとどまらず、これを研究した痕跡と思われるものが1782~1785年に作曲した「ハイドン・セット」に多く刻み込まれているからです。そしてこの曲を僕はハイドンの弦楽四重奏曲の最高傑作のひとつと考えております。お聴きください。
第35番作品20-5ヘ短調の痕跡を列挙しましょう。出だしからいきなり連想されるのは弦楽四重奏曲第15番ニ短調K.421(ハイドン・セット第2番)です。第2楽章メヌエット主題の結尾のバス、およびヘ長調のトリオ主題は同第19番ハ長調K.465「不協和音」(同第6番)の第3楽章メヌエットで(両者ともあまりの相似に驚きます)、K.421の第4楽章、最後から二番目の変奏(ニ長調)に第2楽章メヌエット主題の結尾が再び現れます。第3楽章冒頭はピアノ協奏曲第23番K.488 第2楽章冒頭のリズム(シチリアーノ)です。太陽四重奏曲で第35番作品20-5ヘ短調ほど引用された曲は他にありません。いかがでしょうか?痕跡はその作曲家について多くのことを教えてくれるのです。
ハイドンはウィーンの「フィガロハウス」でK.421、K.465を試演しています。添えられた手紙と共にモーツァルトの敬意と自負を知ったでしょう。キャリアの絶頂にあったモーツァルトですが、トルコ戦争で貴族がウィーン不在となって収入が激減します。別な大都市に活路を見出そうと考えるのは当然のことでしょう。そこにフィガロのスザンナ役の創唱歌手で懇意の英国人ナンシー・ストレースが「ロンドンにおいでよ!」と誘っていました。「OK!フィガロは自信あるよ。ピアノ協奏曲は3つ(第22,23,24番)ある、でもハイドンさんお得意の交響曲が足りないなあ。よし!」そこで、ハイドンセット作曲の経緯を思い出し、ハイドンに取り立ててもらおうと全身全霊をこめて書き上げたのが第39,40,41番の「三大交響曲」だった。これ以外に、彼にとって極めて異例である「誰の依頼もない力作」が3つセットで現れた理由をどなたか説明できるでしょうか?。調性は変ホ長調、ト短調、ハ長調でした。ハイドンセットのお手本になった太陽四重奏曲の第1,2,3番も変ホ長調、ハ長調、ト短調です。これが偶然でしょうか?
以下は東説です。証拠はないため推理です。
ハイドンはモーツァルトの意向を知っていました(別れの会食で他に何の話題があったでしょう?)。三大交響曲のうち41番ハ長調はクラリネットなしです。ハイドンも98番まで「クラぬき」で書いています。ザロモンのオケにはクラリネットがなかったのです。奏者はいましたが採用しませんでした。クラ入り交響曲はモーツァルトのトレードマークだからです。ところが、モーツァルトが亡くなると99番から「クラ入り」で作曲し始めるのです。偶然でしょうか?
作曲中だった98番第2楽章に英国国歌と41番第2楽章を引用したことはモーツァルトの訃報への弔意と思われます。問題はなぜ引用できたかです。スコアを持っていたからです。国内でさえ初演記録のない同曲です。演奏のあてのないロンドンで写譜される事態をモーツァルトが許容する理由はありません。ということはモーツァルトから全幅の信頼のもとに手渡されていたのです。ザロモンのオケで即演奏可能なスコアです、できれば演奏してほしいという含みでもって。この行為は6曲の弦楽四重奏曲を手紙を添えて献呈した1785年の「ハイドンセット」とまったく同じです。ハイドンがそれを演奏、紹介などで広めた形跡はありません。しかしモーツァルトは敬意を示した唯一の作曲家であるハイドンがメンターでいてくれることを死ぬまで疑いませんでした。
ハイドンはモーツァルトの1才年下の弟子イグナツ・プレイエルが1791年にロンドンでザロモンのライバル興行主に雇われ、人気を二分され、プレイエルはその成功でストラスブールにお城を買いました。もしモーツァルトが海を渡ってきたら?もし41番のスコアがザロモンの手に渡ったら?今回が最後の渡英と悟っている60才の老人が脅威を感じない方が不思議ではないでしょうか?プレイエルは後に自分の名を冠したピアノ製造会社創業者として著名になります。モーツァルトの41番は人類の宝として著名になります。そのスコアを見て怖れを懐かなかったという仮定ほど交響曲の父に対する愚弄はないというのが拙考です。
最後にハイドン弦楽四重奏曲第35番作品20-5ヘ短調のもうひとつの興味深い事実を記して本稿を閉じようと思います。同曲第4楽章フーガ主題はヘンデル「メサイア」25番「主の受けられた傷によって」の引用であることにお気づきでしょうか。メサイアは言うまでもなく、ダブリンで初演され英語で歌われる「英国音楽」です。英国に渡って名を成したドイツ人作曲家は3人います。ヘンデル、J.C.バッハ、ハイドンです。後の二人にモーツァルトは個人的に関わっており、4人目として名を連ねることに抵抗はなかったでしょう。私事ですが、僕は6年ロンドンに住んでクラシック愛好家の英国人先達たちから多くの教えを受けました。そのひとつが「モーツァルトはロンドンに来るべきだった」なのです。
モーツァルトにとってメサイアは特別な音楽でした。その25番を17才のモーツァルトが「ウィーン四重奏曲」の1番K.168に引用したビデオは既にお示ししましたが、それがハイドン作品からか直接メサイアからかは不明です。メサイアのドイツ初演は作品20-5作曲と同年の1772年ににハンブルグで行われています。スヴィーテンは1777年まで駐ベルリン大使で、スコアはC.P.E.バッハ経由でウィーンにあった可能性は否定できませんが、私見ではハイドン「太陽四重奏曲」第6曲からの引用と考えます。モーツァルトは英国滞在中にメサイアを知っており、ハイドンの引用に気づき、それを見抜いたアピールで引用した可能性もあると思います。
そのうえ、1789年3月にスヴィーテンの依頼でメサイアの独語による管弦楽改定版を作っており、この作業でメサイアはドイツ音楽にもなりました。25番は縁の深い旋律だったのです。そして、それが「レクイエム」のキリエになった。弟子による若干の補筆を伴うだけで、キリエはモーツァルトの真筆であることが判明しています。委嘱されたのは最後の年の夏ですが、オペラ『ティトの仁慈』『魔笛』の作曲がありとりかかったのは10月と推察されています。1か月後にあの世に行くと思っていなかった彼が何をもってメサイアを引用したのか。いろいろ思いは巡りますね。
ヘンデル「メサイア」25番
ハイドン弦楽四重奏曲第35番作品20-5ヘ短調第4楽章
モーツァルト「レクイエム」よりキリエ
(ご参考)
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