ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その1)
2025 SEP 15 8:08:59 am by 東 賢太郎
僕にとってモーツァルトと共に大事な作曲家がブラームスである。欧州に住むあいだ四六時中流したのは彼の音楽で、長女は言葉より先に彼の交響曲を覚えてしまった。いま、当時から読んだ大量の書物をあれこれひっくり返して本稿にとりかかり、傍らで「ドイツ・レクイエム」をくりかえし流している。週末は「こんな上等な生活はない」と妻にいいながら昼食をすませ、また書斎に戻って5、6時間も浸る。ドイツ、スイスにいた30~40代もゴルフのない休日はそんなものだったが、ブラームスでも当時は交響曲に没入していて400枚もレコード、CDが集まってしまっていたのだ。ドイツ・レクイエムはブラームス30代の作品、交響曲は40~50代の作品だ。トシとってなんで逆行したんだろう?これが本稿に向かう動機だった。
ドイツ・レクイエム作曲中にブラームスが滞在した丘の上の村であるフルンテルン(Fluntern)に我が家は一年間住んでいた(写真はその家)。チューリヒの街と湖を見下ろす高台にある。トラム(いわゆる市電)の走る道をもう少しのぼると、終点に有名な動物園があって、右側にあるドルダーグランドホテル方面が彼が散策を楽しんだ森だろう。トラムはいかにもスイス風だ。登山鉄道みたいな勾配とカーブをキイキイ摩擦音をたてて走るが、その音がまだ耳に残っている。坂を下りきったあたりにブラームスの親友で外科医のビルロートが外科医長だったチューリヒ大学、そしてアインシュタイン、レントゲン、シュレディンガーと凄い物理学者が卒業したチューリヒ工科大学があり、その先がチューリヒ中央駅だ。会社はそこからリマト川を湖に向かってすぐである。この行き帰りのドライブはなかなかスリリングで愉快であり、はじめのうちはドライバーさんにごめんねとことわってセルフで運転していた。チューリヒは国際的には金融都市のイメージが強いが、アカデミックな雰囲気とハイレベルな文化と抜群に美しい自然環境が融合したリッチで素敵な40万人ほどの街であり、ずっとここに勤めてもいいなと思っていた。
家は自分で選んだわけではなく、たまたま前任の社長宅だった。フルンテルンは人口7千ほどの小さな地区だからずいぶんピンポイントなご縁であり、そんな所でドイツ・レクイエムの筆が進んだという事実は、この名曲に浸りきって生きている僕としてはなんとも感慨深い。社員150名。スイスフラン債の引受母店に辞令が出てフランクフルトから引っ越したのが1995年5月だったが、これは人生でふりかえると後に役員になったよりうれしく、最も思い出の深い異動だった。まだ40才、息子は1才だった。この家の契約は1年で切れ、我が家はキュスナハトに引っ越してさらに1年半を過ごすが、その家から眺めたチューリヒ湖の対岸の街リシュリコンでは交響曲第1番の第4楽章が書かれた。スイスにいた2年半、ブラームスばかり聴いていたのは偶然ではなかったかもしれない。
1868年に完成した「ドイツ・レクイエム」は自らを世に出してくれた恩人ロベルト・シューマンが1856年7月に逝去したことが創造の源泉であることは間違いない。1857年頃から着想し、1861年に最初の2つの楽章を書いたブラームスは、翌62年9月にいよいよウィーンに出ていく。ピアノ四重奏曲ト短調が認められ、高名なハンスリックが褒めて名声を得た。ここで前稿に述べた、ハンブルグ・フィルの指揮者ポストの落選事件がおきる。翌63年のことだ。両親のいるハンブルグに定住を望んでいたが、故郷は定職も家族も与えず、階級の根深さは彼を傷つけ、落胆させた。5年前に創立されたウィーン・ジングアカデミーが指揮者ポストをオファーし、彼はそれを受け、ハンブルグを捨てた。30才だ。丸々20代を放浪生活し、54才で亡くなるまでウィーンの住人となり、つまり終生を旅人として生きた。その結果、1865年、そばにいられなかった母の臨終に間に合わず、衝撃を受けることとなったのである。
そこで彼はフルンテルンにやってきたのだ。1866年、33才の夏だ。母の死を契機にドイツ・レクイエム完成に向けた試みが開始する。その詳細はわかっていないがさまざまな部分をここで書き、そのひとつ、第5楽章「Ihr haben nun Traurigkeit」は1868年9月7日に自身と父親の立ち会いのもと、フリードリヒ・ヘーガー、コントラルトのアイダ・スーター・ウェーバー、チューリヒ混声合唱団とともに即興でリハーサルされた。ヘーガーはチューリヒ・トーンハレ管弦楽団の創設指揮者であり、テオドール・キルヒナー(作曲家)、リーター・ビーダーマン(楽譜出版者)、テオドール・ビルロート(アマチュア音楽家の外科医)と彼を囲む愛好家サークルがあったことがここを選んだ背景ではないだろうか。
特に生涯の友となるビルロートは才能あるアマチュアピアニスト兼ヴァイオリニストで、1865年、新進気鋭の作曲家兼ピアニストであるブラームスがチューリヒでシューマンのピアノ協奏曲と自身の作品を演奏したときに知り合った。家で定期的に弦楽四重奏を演奏して多くの音楽的洞察を共有し、何回かのイタリア旅行を共に楽しみ、室内楽作品の多くの初演前の試演リハーサルに音楽家として参加した彼にブラームスは最初の2つの弦楽四重奏曲(Op.51)を捧げている。本職は胃癌切除手術に世界で初めて成功した重要な外科医で、現代の腹部外科の創始者と見なされ、1860年にチューリヒ大学の臨床外科長および病院の院長となった。二分野で傑出した人物だったが、科学と音楽が対立しているとは決して見なさず、むしろ補完し合うものだと考えた。厳格な対位法や変奏の技法に数学的ロジックすら感じさせるブラームスは、「あらゆることに興味を持って積極的に吸収する人柄で、その話は心から湧き出るものでしたから、年をとっても少年のように輝いていました。あるときはビルロートに聞かされた手術の話を私たち全員に微に入り細を穿って解説しました」(シューマンの娘オイゲーニエの回想)という人だったことから、科学者ビルロートと気が合ったと思われる。異能同士が敬意を懐いて惹かれあうのは自然であり、さらに、ビルロートが学んだのがゲッティンゲン大学で、そこでアガーテに恋したブラームスには奇遇で話を盛り上げたに相違ない。そして、ビルロートは1867年にチューリヒの職を辞し、ウィーン大学の教授に就任するのである。ブラームスにとってどれほど心強かったかは想像に難くないだろう。
会社にほど近い湖畔に聳える音楽の殿堂 “チューリヒ・トーンハレ” は1895年10月に完成したが、そのオープニングの指揮台に迎えられたのが最晩年のブラームスだった(左はその前年のスケッチ)。僕は業務の引継ぎに忙殺されて音楽どころではない日々を送っていたが、ひと段落した10月にやっとトーンハレの門をくぐる暇ができた。そこで勇躍と買ったチケットは偶然にも創設百周年記念演奏会であり、作曲者が振った「勝利の歌」で始まり、ベートーベン第九で閉じた(指揮は同年に着任したデイヴィッド・ジンマン)。後にここで聴いた記憶に残るコンサートにクルト・ザンデルリンクのシューベルト9番、ゲオルグ・ショルティの英雄 / マーラー第10番のアダージョ、および1997年7月のマーラー5番があった。後者はショルティ最後(亡くなる8週間ほど前)の演奏会で忘れ難い。
今回はフルンテルンで完成された第5楽章「Ihr haben nun Traurigkeit」をお聴きいただきたい。ソプラノ独唱が初めて現れ、最後に合唱で母が歌われる。このソロは全曲の中央で出来を左右する重要なものだが満足するものがほとんどなく、未だにこのエリザベート・シュヴァルツコップを上回るものがない。クレンペラーが只者でないのは晩年のモーツァルトのオペラを聴けばわかる。魔笛の声楽アンサンブルの音の良さ、特にルチア・ポップを夜の女王に起用した慧眼は恐るべしだ。クレンペラー盤が人気を保持しているには相応の理由がある。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
Categories:______ブラームス







