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モーツァルトの謎『レジナ・チェリ K.276』

2023 FEB 17 6:06:06 am by 東 賢太郎

これを初めて聴いてびっくりしたのはいつだったか。モーツァルトの宗教曲に浸っていたのは香港勤務を終えて日本に戻ってきてからだからその頃だろう。

レジナ・チェリ (Regina coeli、『天の女王』) はカトリック教会における伝統的な聖母賛歌の一つで、4つある聖母マリアのためのアンティフォナ(交唱)の一つである。プロテスタントは用いないので、モーツァルトがカソリック信徒であり、その教会のために書いたものであるという2つのことは疑いがない。歌詞はラテン語でこのように歌っている。

Regina coeli laetare, alleluia:
quia quem meruisti portare, alleluia:
resurrexit, sicut dixit, alleluia:
ora pro nobis deum, alleluia.

モーツァルトはこれに音楽を3つ書いている(ハ長調 K.108、変ロ長調 K.127、ハ長調 K.276)。教会とはザルツブルグのそれだろう。最初の2つは声楽付きのイタリア風シンフォニアに近く、K.127は宮廷一の歌手だったミハエル・ハイドン夫人のマリア・マグダレナのために作った。壮麗なコンチェルタントに仕上がったソプラノ・パートは彼女の高度な水準をうかがわせるが、後に彼は新妻コンスタンツェのためにミサ曲のソプラノ・パートを苦戦して書くことになる。

甚だ直感的な感想だが、最後の K.276と前2曲の間には大きな断層があるように思う。前者は音楽が和声も対位法も格段にリッチになり「戴冠式ミサ」に近い。 K.276は作曲年が特定できておらず、様式的類似点があるという理由で「主日のためのヴェスプレ」K.321と同じ1779年に比定されているが、同年1月19日の辞令で、モーツァルトはザルツブルクの宮廷オルガニストに採用された際に書いたので祝典的な性格になったという説もある。いずれにせよパリ旅行から帰ったザルツブルグ後期の1779年が定説だ。本当にそうだろうか?

僕がびっくりしたのは、ヘンデル「メサイア」そっくりの ハレルヤ!がほとんどそのまま登場するからだ。お聴きいただきたい。

これは偶然だと片づけられている。自筆譜が失われており、学者は証拠がないと認めないのだ。しかし、素人である僕は自由に仮説を立てたい。どう考えてもメサイアの引用にしか聞こえないし、僕は学説より自分の耳を信じているからだ。

さらに一歩進んで、ハ短調ミサK.427の「グローリア」音形(Gloria in excelsis)もハレルヤ!だ と書いたら多くの読者はそんな馬鹿なと思われるだろうか。

根拠はある。

「僕のミサ曲や – 2つのヴェスプレの総譜を – 入れてくれてもかまいません。 それらを、ただヴァン・スヴィーテン男爵に聴かせたいからです」

これはモーツァルトがウィーンから父へ1783年3月12日に書いた手紙だ。モーツァルトのメンターであるスヴィーテン男爵がバッハ、ヘンデルの楽譜のコレクターだったことはご記憶だろう。ちなみに「家のどこかにあるはず」と同じ手紙で所望しているミヒャエル・ハイドンの曲がスヴィーテンの遺品の中にあった。これはモーツァルト自身の手になる筆写譜であり、3月29日の父への手紙に「楽譜の小包、たしかに受け取りました」と書かれているのである。この小包にK.276も入っていたと考えるのは自然だろう。

もし1779年の作品なら彼はメサイアをパリ、マンハイム、ストラスブールで知ってザルツブルグに帰ったかもしれない。しかしハレルヤを引用する根拠が希薄だ。この手紙にあるようにウィーンに移ってからスヴィーテンの蔵書で知ったと考える方が自然ではないか。

毎週日曜日にお邪魔しているファン・スヴィーテン男爵が、ヘンデルとゼバスティアン・バッハの全作品を(ぼくがそれをひと通り男爵に弾いて聴かせた後で)ぼくにうちへ持って帰らせました(姉ナンネルへの手紙、1782年4月20日)。

とするとレジーナ・チェリ K.276はこれより後にウィーンで書かれたことになり、通説は否定される。しかし、素浪人の身になったモーツァルトにレジーナ・チェリの注文があったとも思えない。「スヴィーテン男爵に聴かせたい」と父に書いたのは予約演奏会を仕切って満員にしてくれる男爵の好意を得たいからだ。

ザルツブルグの原曲にハレルヤはなかったが、男爵を意識してウィーンで改訂して加えたのではないかとというのが我が説だ。コロレド大司教の楽団にはヴィオラがなく、K.276もヴィオラパートを欠いているのでザルツブルグで書かれたとする通説に疑いはないだろう。では改訂の蓋然性はあるのか?ある。ザルツブルグで書いたハフナー・セレナーデを交響曲 K. 385に仕立て直したのは周知の事実だが、その交響曲の初演は1783年3月23日である。3月29日(以前)に父から楽譜の小包が届き、入っていたK.276の改訂作業も同じように行なわれたとして何の不思議もないだろう。

そしてハ短調ミサだ。同年7月に、妻コンスタンツェを父に会わせて結婚を認めてもらおうとザルツブルグに旅立つのである。勝手な結婚で父との関係がずたずたになり、修復しようという勝負をかけた旅であった。そこで妻の歌唱力を見せて気に入ってもらおうと書いたのがハ短調ミサK.427なのである。K.276にハレルヤを挿入してスヴィーテンのご機嫌を取ろうとするのも、ウィーンでの成功を約束してもらおうという勝負の一環であった。K.427(Gloria in excelsis)の作曲が先かもしれないが、両曲は同じ思考回路で発想されハレルヤの晴れやかに高揚する祝典的な気分を借りるに至ったというのが僕の考えだ。

著作権がなかった当時は盗作という概念もなく、レクイエムK. 626にもメサイアを引用しているぐらいだからモーツァルトの頭の中には後に管弦楽を編曲することになる同作に強い敬意と愛着があったと考えて何ら不思議でない。スヴィーテンの図書館で学んだ、ザルツブルグ楽界の知らぬヘンデルの語法の薫陶を受けたことを父に見せつけ、ソプラノ・パートをコンスタンツェに歌わせて妻の株もあげようというのが、彼にありそうな魂胆だ。しかし、産後の妻の技量に合わせて大曲を仕立て上げ、レベルアップのためにボイストレーニングをしながらの作曲はさすがの彼にも荷が重かった。そこで同曲は時間切れになり、ザルツブルグ聖ペテロ教会でどう演奏したか記録がなく、曲は用済みなって未完のままになったというのが真相であろう。

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Categories:______モーツァルト

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