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カテゴリー: クラシック音楽

ブラームスの “青春の蹉跌”

2025 MAY 24 16:16:45 pm by 東 賢太郎

僕は恋愛小説というものを読んだことがない。これからも読まないだろう。お恥ずかしい話だが実感があまりないのだ。我が家は男優位思想だったが実は母が強く、そのせいかどうかは定かではないが僕には抗い難いある種の女性恐怖症があり、高校まで親しく口をきく関係になった女性はひとりもいない。幼少のころ母に連れられて親類の家やおばさんの女子会みたいなのに行く。あら、ケンちゃん大きくなったわねだなんだでひとしきりいじくり回され、刺身のつまになるが、これが大嫌いだった。そして何のことはない、数分後にはつまらない話で盛りあがって長いこと置き去りになる。退屈極まりない。しかし全権は母にある、この苦行に堪えないと飯にありつけない。そうやって女性には逆らうなという刷り込みができていったように思う。

さらに小学校では口から生まれたような女子がいて、ずっと弁が立ち、強く言われて負けた屈辱の経験がたくさんあるときている。それが父に仕込まれた男優位のドクトリンに反し、俺はいっぱしの男でないという気がして強がってしまい、ますます女子と溝ができた。だから精神衛生上も近寄らないに越したことはないと逃げてしまった。そんな意気地のなさだから中学生になって気になる女子はいたが、どうせだめだろうと話す勇気も出ず、高校になると見かねた野球部仲間がピッチャーとつき合いたい女がいるぞとお膳立てして喫茶店で奇麗な子と引き合わせてくれ、お互いにけっこう気に入ったように思ったが、結局勇気がなく、デートに誘いもせず終わった。

社会人になると大阪で様相がガラッと変わった。先輩に連れられて毎日のように十三なんかの裏路地の飲み屋に行く。あばずれ風の姉ちゃんたちに囲まれ、珍獣を見るような目で見られ、東京言葉で口を開くと、あっ兄ちゃん、ええかっこしいや!ここ大阪やであかんあかん、モテへんで!と猛烈に攻め込まれる。いま思うと、世慣れた先輩たちと何十件も飲み歩いてメンタルを鍛えられ、2年半たってやっと女性なにするものぞとなっていたのだから感謝しかない。というわけで、恋愛も恋愛、絵にかいたような悲しい純愛物である本稿のテーマは、実は僕のような朴念仁に語れる筋合いのものではない。それを承知で書くのは、一にも二にも、ブラームスへの愛情、ブラームスを知らなければ僕の人生は女性が出てこないことの何倍もつまらないものになっていたからだ。

25才のブラームスには2つ下でお似合いの婚約者がいたことから話は始まる。アガーテ・フォン・シーボルト。日本人なら誰もが教科書で知るあのシーボルトの親類だ。医者の家系である。美人で見るからに利発でプライドが高そうだ。どうでもいいが僕ならびびってしまうタイプだが、イケメンでひょっとすると似たタイプだったのだろう、ブラームスは一気にのめりこんでしまう。

しかし二人はうまくいかなかった。男女の事だ、真相は二人しかわからないが、後世の憶測ではない文献による史実は2つだけある。友人たちに態度をはっきりしろとせまられたブラームスが「あなたを愛しています。私はもう一度あなたとお会いしなければならないと思っていますが、束縛されたくはありません。それでも、私があなたのもとに戻ったら、あなたを私の腕で抱きしめることができるかどうか、お手紙でお答えください」と綴り、それを読んだ彼女が婚約を解消したこと。そして老後の回想録に「私は義務と名誉のためにブラームスに別れの手紙を書き、何年もの間、失われた幸せのために泣きに泣いた」と書いたことだ。

出会いは1858年、彼女の家があったゲッティンゲン。長い黒髪、ふくよかな体、悪ふざけが大好き。僕は初めてこの歌をきいたとき、ヨアヒムが “アマティのバイオリン” に例えたアガーテの声を思い浮かべた(同年に書かれた「8つの歌曲とロマンス」作品14から第7番「セレナーデ」)。

ところがこれを書く3年前、ブラームスはあるピアノ曲に劇的な出会いをしていたことがわかっている。クララ・シューマンの「3つのロマンス」作品21だ。第1曲イ短調Andanteをお聞きいただきたい。女性の秘められた切ないロマンが胸をわしづかみにする。もうすさまじいと書くしかない、これを贈られてよろめかない男がいようか?名ピアニストと記憶されている彼女は立派な作曲家なのだ。ツヴィッカウのローベルト・シューマン・ハウスにある第1曲の自筆譜には「愛する夫へ、1853年6月8日」という書き込みがある。この愛憫の情は明らかに、夫ローベルトに向けられたものだった。

「3つのロマンス」作品21の楽譜

ところがウィーン楽友協会にある第一曲の楽譜(左)には「愛する友ヨハネスへ、1855年4月2日作曲」と書き込まれている。これは後世に憶測を呼んだ。「愛する夫へ」と書いた同じ月のクララの日記には、夫が目を覚まし発作に襲われたことが記録され、言うことは次第にとりとめのないものになり、発音もぎこちなく、はっきりしなくなっていった。そのことからも、第1曲の深い愛情が天に召されつつあるかもしれない夫へ向けられたものだったことは疑いないと僕は思いたい。しかし梅毒であった彼は回復せず、​翌1854年2月にライン川に投身自殺を試み、以来、1856年7月29日に逝去するまでエンデ二ヒの精神病院から出られず、医師は身重だったクララとの面会を禁じていた。その間に、弱冠22才のブラームスは夫のために書いた作品21をもらい、36才と女ざかりのクララの「愛する友」になっていたのである。彼にとってこの贈り物は非常に重たいものだったに違いない。アガーテと出会う3年前のことだ。

20才のブラームスがヨアヒムの紹介でシューマン家の門をたたいたのは1853年9月だ。亡くなる3年前のシューマンは既述のようにすでに発作をおこしており、神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの症状があり5か月後に自殺を図る。そんな中にやってきた見ず知らずの若者がハンマークラヴィール・ソナタ丸出しの開始をする自作のピアノソナタ第1番ハ長調作品1を弾き始めると、何小節も進まないうちにシューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。君、もう一度最初から弾いてくれないか」といい、ブラームスを紹介するために10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。

Robert Schumann
(1810- 1856)

このローベルト・シューマンこそ真の天才であり、虚飾も打算もない、真に尊敬されるべき偉人であり、無名の男の才能を即座に認め、病をものともせずそこから熱狂的にとった彼の行動に僕は人類の未来を託すべき崇高なものを感じ取って涙を禁じ得ないのである。ブラームスという人物には僕を熱狂させるものは何もない。まったくもって別な人種だとしか書きようがないが、シューマンとモーツァルトには大いにそれを感じる。今だけ・カネだけ・自分だけの目下の日本にこんな人物が何人いるだろう。だからその音楽が好きという理屈はないが、偶然にも、僕が古今東西で最も愛するピアノ協奏曲は彼のイ短調であり、交響曲は彼の変ホ長調なのだ。そのバイオは可哀想な病気に冒された晩年で悲愴に終焉するが、そんなものがなんだ。変ホ長調交響曲を1850年11月2日から12月9日にかけ1か月で完成した速筆ぶりは、20余年もかけて1番を書いたブラームスと対照的で、性格も天地ほど異なっている。これほど似つかない二人の男を愛したクララは何に惹かれたのか。才能だろう。それを愛する人は、持っている人がどこの誰かは関係ない。そう知るのも持ってる人だけだから、地球上のほとんどの人はそれを知らない。持ってない僕がそれを知ったのは、彼らの音楽を50年も座右に聴いてきたからだ。彼女もそれをもって生まれた特別の人であり、その裏返しでブラームスはクララを必要とした。読んでないものを評する気はないが、こういうものは恋愛小説には掬い取れないのではないかと想像する。

Clara Schumann
  (1819–1896)
ブラームス所蔵写真

まさにそのころ、1854~1857年に、アガーテと出会う直前のブラームスが書いていたのがピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15だ。初演はおりしもアガーテと婚約したころの1859年1月。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで3人しか拍手のない大失敗となり、傷ついて自信を無くしたことが破局の第一歩だった。かたや、1854年の日記に「私は彼を息子のように愛しています」と書いたクララはブラームスより14才年上だ。どん底に沈んだ彼は失敗に同情したり、心配してくれる歌い手の若妻ではなく、作曲家でもあり頑強に支えてくれるクララを選んだ。身を立てるために彼にとって必要であり、必要なものを手に入れる犠牲をいとわぬ不動の決意ゆえであろうが、もう一つ非常に重要な理由は、彼の母親が父親より17才年上だった家庭環境が大いに影響したと思っている。そうした、宿命的関係とも思えるクララへの思慕が最も現れた音楽が、3つの楽章の最後になって書かれたピアノ協奏曲第1番の第2楽章アダージョだ。それでいて、あろうことかクララの娘に恋愛感情をもったりもしたブラームスの優柔不断な女性観のふらつきは常人にはおよそ測りがたいものだが、それが微妙な内声部の動きで和声が玄妙に移ろう彼の音楽の誰にもない魅力に通暁しているようにも見えないだろうか。

夫の死後、クララは子供たちとともにベルリンに移り、1863年からはバーデン=バーデンを本拠地として、外国演奏旅行を増やし、集中的にコンサートを開くようになった。ブラームスはクララに会うため1865~1874年の夏をそこで過ごし『交響曲第1番、第2番』『弦楽六重奏曲第2番』『ピアノ五重奏曲』『ホルントリオ』『アルトラプソディ』『ドイツレクイエム』の一部などを書いた。

1866年に作曲された「五月の夜」(Die Mainacht)は彼の作品で最も好きなもののひとつである(「4つの歌曲」op.43の第2曲)。前稿でバーデン=バーデンについて、そして欧州の5月(Mai)の悦楽について述べたが、それがあってこその悲しさが深く琴線に触れてくる。こういう音楽をベートーベンは書いていない。彼は北ドイツの、厳格なプロイセンの人という感じがするが、やはりハンブルグで北の人間であるブラームスはバイエルンやスイス、オーストリアを好み、その嗜好が現われた曲と思う。その情を包み込む和声は非常に凝っている。

ちなみに詩はこのようである。

銀の月が
潅木に光注ぎ、
そのまどろむ光の残照が
芝に散りわたり、
ナイティンゲールが笛のような歌を響かせる時、
私は藪から藪へと悲しくふらつき回る。

葉に覆われて
鳩のつがいが私に
陶酔の歌を鳴いて聞かせる。
だが私は踵を返して
より暗い影を探し求め、
そして孤独な涙にくれるのだ。

いつになったら、おお微笑む姿よ、
朝焼けのように
私の魂に輝きわたる姿よ、
この世であなたを見出せるのだろうか。
すると孤独な涙が
私の頬を伝ってさらに熱く震え落ちた。

Agathe von Siebold    
 (1835–1909) 
ブラームス所蔵写真

この詩は意味深だ。ブラームスはけっしてアガーテを忘れていない。身を引くつもりなどなかった。ただ言えなかった、失敗した自分を母のように守ってほしいと。しかしそれを口にするような自分ではいけない。大成できない。見ろ、自分の父がそうだったじゃないか。彼の育った家庭環境を忘れてはならない。父が17才年上の母親に書くかのようなあまりに優柔不断な手紙。アガーテはそうとは知らない。おそらくブラームスはその内面を悟られまいと隠していたのではないか。彼女はただただ驚き、自尊心を深く傷つけられ、泣きながら苦渋の別れの手紙を書くしかなかった。名門の医師の家という格式、名誉もあったろう。彼女は婚約が解消された後、実に10年間、誰とも結婚する気持になれず、結婚に際しては彼からの手紙を残らず処分した。しかしブラームスの方も、アガーテからいきなり別れの手紙が来るとは思ってもいなかったと思う。ハンブルグの女郎屋街の一角で生まれた彼の家にはそれに匹敵する格式というものはない。大きなショックに苛まれたが、堂々と、待ってくれ、それは誤解だよといえなかったのは何らかのコンプレックスが彼を支配し、いっぱしの男という強がりがあったかもしれず、なによりも、母のようなクララが心にいたからだと僕は強く感じる。それは救いでもあり葛藤でもあったのだがもう打つ手はなかった。彼はアガーテを深く傷つけ、自分も打ちのめされ、その後4ヶ月ほどはハンブルクに閉じこもり作曲も演奏活動もしなかったという。

弦楽六重奏曲第2番ト長調Op.36は、1864年から1865年にかけてバーデン=バーデンで作曲され、第1楽章の提示部の最後にa-g-a-h-e(アガーテ)の音符が縫いこまれていると指摘される(シューマンもクララの音符をそうしていた)。それが思慕なのか決別なのかはわからない。あるいは偶然かもしれない。

偶然でないのは、第1楽章冒頭の主題がト長調から長三度下の変ホ長調に移行し、同じことが「五月の夜」(Die Mainacht)でもおきることだ(変ホ長調からロ長調)。和声は音楽の根幹で、表面の工夫ではあり得ない。前者がアガーテ六重奏曲であるなら「五月の夜」もそうではないか。そう聞こえてならない。この六重奏曲をブラームスはヨアヒムの助言を受けず書いた。自立心に並々ならぬ気合が入っているのだ。第3楽章冒頭、VnがJ.Sバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻 第24番ロ短調の主題を奏でるのにお気づきだろうか?バッハはこれで大作を閉じた。決別して6年。意を決して、彼はアガーテへの想いを締めくくったのではないだろうか。

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ヴェネツィアの残照

2025 MAY 7 15:15:31 pm by 東 賢太郎

かつて観た都市でもっとも富というものを感じたのはニューヨークでもロンドンでもパリでもない、ヴェネツィアだ。いままで英国式にこの都市名をヴェニスと書いてきたが、イタリア語はヴェネーツィアでネーを強く、ツィアもはっきり発音する。どっちでも通じればよいのだが、イタリアの歴史を書くので本稿ではヴェネツィアとしよう。

ヴェネツィア共和国(697年)の成立は平城京(710年)、平安京(794年)より古い。まず歴代総督が隣国の勢力を巧みにあしらって自治権をもった都市国家となり、東ローマ帝国の制海権に守られ交易で利を得る。さらにアドリア海沿岸の海上防衛を担う代償に貿易特権を得て東地中海最強の海軍国となり、港市の多くを支配下に置く。そして第4回十字軍を事実上率いてコンスタンティノープルを陥落させ、帝国分割で巨利を獲得して政治的にも欧州有数の勢力になったことは皆さん世界史で習った。

いっぽう、以上をヘゲモニーの視点で読み解くなら、この都市の興隆の歴史は日本国の将来にとって興味深い示唆があろうと指摘したい。まず交易、金融、外交のインテリジェンス、そして世界で造船・兵器製造の一大拠点となる資金力の両方がないとこういう芸当はできなかったということだ。現に大航海時代の到来で交易がアドリア海から大西洋、太平洋に移るとビジネスモデルが崩れて資金が枯渇し、ガラスやレースの工芸品を造ってしのいだものの、ついに1797年、ナポレオン・ボナパルトに侵略されたのである。なくなったのはキャッシュフローであり、それゆえの資金調達力であって、富はあった。日本にも富はあるし、あり続けるだろうが、それでいいのかということだ。

この都市には3回行った。まず観光。次はエーゲ海クルーズの発着。最後は仕事だった。アドリア海からクレタ島への船旅は第4回十字軍の航路で感慨深く、仕事ではフライトのキャンセルでヴェネツィア~トリエステをゴンドラで移動し、海上からヴェネツィアを眺めて実感した。その地はもともと異民族に襲撃されて追い込まれた湿地帯であることをだ。農業も産業もないそこを水路で守備して根城にし、ムスリムやフランク王国という、征服されかねない異文化圏と交易で儲けようというのだから複式簿記を発明するような知恵も交渉力も要る。シェークスピアは無知ゆえか偏見かそれをシャイロックに仮託したがここの商人がみなユダヤ人だったわけでもなく、世襲でない有力家門(ドージェ)の寡頭制ではあったがフィレンツェのメジチ家のような僭主がいたわけでもない。選挙で選ばれた歴代総督が賢かったという事だ。しかし、くりかえすが、富がありすぐれた統治者がいたとしても、経済成長力が衰えれば国は滅ぶのだ。

ちなみに、富のバロメーターである地価を調べると一等地サン・マルコ広場の近辺で240㎡の高級アパートが130万ユーロ(約2億2千万円)というのを見つけた。1㎡90万円は新宿区ぐらいだ。この都市の輝かしい富が手に入るわけではないが、富というものは実は多くを所有する必要はない。身近で他人に邪魔されずあるぐらいでいいのだ。新宿駅が身近で便利なのと、こんな財宝を日々眺めて暮らすのと、多数決で決めたら同じ値段だったという厳然たる事実がここにある。世の中はずいぶんおかしなものだと思うしかないが、物もサービスも金も株式も、値段はそうして決まっている。

正面がサン・マルコ寺院だ。この地に寺院が建ったのは9世紀で空海が高野山金剛峯寺を建立したのとほぼ同時期である。10才のヴィヴァルディは手前側にある学校に通い、毎日この景色を見ていただろう。15才のモーツァルトは父と共にこの広場で仮面舞踏会を夜中まで楽しんでいる。

サン・マルコ寺院にはいってみよう。

ビザンチンの教会は、満々と湛えられた空気の膨大な質量が全身に訴えかけてくる異空間である。これが水ならどうだろう。泳いで空間を天使のように浮遊し、我々はこんなものを眺めているにちがいない。

天空の秘密。地上に据え置かれた我々はそれを知らない。

巨大なマスであるここの空気が声や楽器でうち震えると、それは波になり、些かの間をおいて天井の円蓋まで覆い尽くすやこちらに向けてこだまのように降ってくる。それが元の波とぶつかって干渉し、さらに複雑な波となり、我々を体ごと共振させ、なにやら娑婆とは別物だという魂の体験をさせるのだ。音ではなく波動だからそこで経験しないとわからないが、一度味わえば忘れることはない。

無意味なアーという発声であってもそうなのだが、それが楽音のドであればそれが空間に高々と飛散し、数秒間もありありと浮遊し、次に楽音のソを発して重ねてみれば両者は交って完全五度を成して戻ってくる。この発見から和声が産まれた。それでは戻ってくるメロディーに調和するように元のメロディーを書けばという発想でカノンが産まれた。サン・マルコ寺院でどう響くか。テノールがひとり二重唱になる様子がこのビデオでわかる。

つまり寺院、大聖堂なるものは我々が「音楽」と呼ぶものの母体であり、さらに成長させるゆりかごでもあったということだ。物理的に表現するなら楽譜は2次元、演奏は3次元で、時間軸が加わった教会での演奏は4次元のアートという事になる。音楽の4次元化はルネサンス音楽を代表するフランドル楽派の巨匠であり、ヴェネツィア楽派の開祖となったアドリアン・ヴィラールト(1490年頃 – 1562)に発する。

この人はいまでいうオランダ人だ。サン・マルコ大聖堂楽長への就任は大胆な人事だったと思われる。世襲、独裁、汚職の排除と人材の登用は小国ヴェネツィアの生きる知恵であり、1593年にはガリレオ・ガリレイを造船・兵器製造の技術顧問に雇ってもいる。ヴィラールトは1527年の契約から1562年の逝去までポストにあり、この人の起用は西洋音楽史上で最も重大な契約のひとつだったと評価される大きな成果をあげた。それが巨大で複雑なサン・マルコ大聖堂の音響構造を利用した分割合唱様式の発明であった。後の楽長にふたりのガブリエリ、モンテヴェルディという大物が就くが、やがて潮流はバロック様式を経て教会の厳格なポリフォニー音楽を離れて歌と伴奏のオペラへ向かうのであって、分割合唱様式の生んだ作品の位置づけは懐古的なものになろう。しかし「その場所でしかできない」という音響はオンリーワンの存在で、永遠の価値を誇るヴェネツィアそのものという視点からの評価はこれからむしろ高まるのではないだろうか。

1970年万博西ドイツ館

1970年の大阪万博で西ドイツ館のシュトックハウゼンが気に入ったことを書いた(シュトックハウゼンは関ケ原に舞う)。シアターピースという位相を導入した概念は分割合唱様式に始祖があると思う。西洋人は教会で賛美歌を歌って育つので大空間の音場の残響と反響は脳への当たり前のインプットとなっているだろう。いっぽう山びこだって珍しい我々はレコード屋のクラシック売り場は「古楽」から「現代」までジャンル分けされているのが当たり前と覚えている。ケルン近郊生まれの敬虔なカトリック信者だったシュトックハウゼンがあの大聖堂の音響を知らなかったはずがなく、レコードが「現代」に置いてある彼が子供のころからなじんだその響きから天上のスピーカーの音が走るあの空間を着想したとしても何ら不思議ではない。

例えば大バッハは15才から数年間リューネブルクの聖ヨハネ教会の合唱隊の一員として歌っているが、そこの音響はこんな具合である。

明らかに残響が実音に「かぶって」いるが、賛美歌は天のこだまと交唱しているかのようなサウンドが「らしさ」を醸し出すので、屋外でこの楽譜を歌っても感じが出ないだろう。想像になるが、若き日をこの音響にどっぷりつかって暮らしたバッハには実音だけを聴いても「かぶり」がきこえる感覚ができあがっていたのではないか。だから自分の脳内に響いている両方を楽譜に書き取ろうと試み、そこから進化した技法の集大成がフーガになったのではないかと思う。

僕が日本で一度も足を踏み入れたことない教会に初めて入ったのは学生時代にアメリカのバッファロー大学に短期留学してホームステイした時のことだった。一緒に賛美歌を歌わされたが、天上にふわっとぬけていくその響きこそ衝撃だった。一気に好きになって、それ以来、海外で知らない処に行くたびに大聖堂や教会に入って音を聴いたからもうマニアと言える。小さいものは忘れたが、覚えてるだけでこんなにある。

ドイツはケルン大聖堂、シュパイアー大聖堂、フランクフルトの聖バルトロメウス大聖堂、マインツ大聖堂、オーストリアはザルツブルグ大聖堂、ウィーンのシュテファン大聖堂/聖ペーター教会/カールス教会/聖ミヒャエル教会、チューリヒのフラウミュンスター、英国はウェストミンスター寺院/セント・ポール大聖堂/チチェスター大聖堂/ヨーク大聖堂/セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、パリはノートルダム大聖堂/サン・トゥスタッシュ教会/サントトリニテ教会、ルーアン大聖堂、ストラスブールのノートルダム大聖堂、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ミラノのドゥオーモ/サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ピサ大聖堂、バルセロナのサグラダ・ファミリア大聖堂、ブラジルのリオデジャネイロ大聖堂

これらの地の多くはクラシック音楽の殿堂でもあり、大聖堂があってオペラハウスがない都市はなかろうから両者の関係は緊密だ(日本は両方ない)。「古楽」も「現代」も「ロック」もない。ポール・マッカートニーは「みんなもう讃美歌は聞き飽きて心に響かないんだ、僕らはむしろ熱心な教会支持者だった」と語っている。教会マニアになったおかげで僕もどうやらそれらしい耳ができあがり、自宅の音楽室は石造りで窓にはステンドグラスまで入ってしまった。日本のコンサートホールでそういう音は記憶にないが、いちどだけ、ライブイマジンの練習で吉田さんに舞台上のピアノを弾かせていただいたとき、ふわっと天井に昇っていく感じがあれに近いなと思ったのは客席が空だったからだろうか。

サン・マルコ大聖堂楽長としてヴィラールトとモンテヴェルディをつなぐ人にヴェネツィア生まれのジョヴァンニ・ガブリエリ(1554または1557 – 1612)がいる。彼が生まれた頃、ちょうど日本では川中島、桶狭間の合戦が行われていた。1579年に織田信長は権勢のピークにあり、豪華絢爛の安土城にはいりセミナリオで西洋音楽を聴いているが、その頃にミュンヘン留学からヴェネツィアに帰国したガブリエリはサンマルコ大聖堂の特性を活かした分割合唱様式でヨーロッパで最も有名な作曲家となってゆく。ほとんどの作品は、祭壇の左右に配置した2つの合唱団ないしは器楽集団が、まずは左手から聞こえ、それを右手の音楽家集団が追うというアンティフォーナルに構成される。このビデオでわかる。

次にサン・マルコ大聖堂の響きを聴く。アコースティックはこの400年の間にほとんど変化していないという。

ひとつ前のビデオもそうだが、発売されたときにFMだったかで耳にして印象に残ったのがフィラデルフィア管、クリーヴランド管、シカゴ響のブラスセクションによる(たしか「ガブリエリの饗宴」と銘打った)1968年録音のLPだ。それぞれオーマンディ、セル、マルティノンの時代でまばゆい金色に輝く。まだ中学生でガブリエリが人名であることも知らず、クラシックは富裕で豪奢なものというイメージができた記念すべき録音だ。ヴェネツィアにもそれが焼きついていたかもしれない。

 

(ご参考)

ストラヴィンスキー 「詩篇交響曲」(1930)

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読響 第647回定期演奏会

2025 APR 24 9:09:07 am by 東 賢太郎

2025 4.21 サントリーホール

指揮=オクサーナ・リーニフ
ヴァイオリン=ヤメン・サーディ

ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77
ボーダナ・フロリャク:光あれ
バルトーク:組曲「中国の不思議な役人」

女性指揮者の登場が増えている。性別云々の時代ではないが、ことその職業においてまったくハンディがないこともなかろう。つまりそこで勝ち抜いてポストを得たなら並の男より上等な確率は高いわけで、現に失望したケースはまだない。もうひとつ、リーニフはウクライナ、サーディはイスラエルと時の国の人たちだ。偶然かもしれないが音楽を平和の象徴とするメッセージがあるなら僕はあんまり好きでない。音楽家が軍人や政治家でないことだけは誰が決めたわけでもないのに見事に世の常であって、ポーランドの首相になったパデレフスキー、モーツァルトの三台のピアノ協奏曲の第三を弾いて録音までした英国首相エドワード・ヒースは人類史上稀な人たちである。

予備知識なく会場に来るのでプログラムも奏者も知らない。まずはショスタコーヴィチの作品のうちでも最も好きなひとつヴァイオリン協奏曲第1番ではないか。彼は政治というよりそれへの嫌悪、プロテストが音楽に滲み出た特異な作曲家で、そうした趣味だったわけではなく時代の犠牲者だった。Mov3パッサカリア、冒頭のTimをユニゾンで伴う恥ずかしくも鈍重な主題の恐るべきダサさ。あえてぶちこむ運命リズムはカリカチュアそのものだ。僕は粗野丸出しのこういうのがどうにも耐えられないが作曲者もそうであり、ダフニスとクロエのドルコン、火の鳥のカッチェィにあたろう。大衆の面前で大真面目に物々しく権勢を誇示する権力者ほど下劣でみっともないものはないという感性の共有だ。この主題はやっと死んでくれたスターリンを極限までおちょくった怨念の調べであると僕は解釈している。それに延々と続く気高いVnソロにもおぞましいTrb、Tubaが付きまとう。ああこの時代にこんな国に生まれないでよかったと心から安堵するが、それだけショスタコーヴィチがかわいそうだったという思いが募る。Vnソロの激高にはそれが滲む。この選曲にもしご両人の戦争へのプロテストの思いがあったとするなら、それは作曲者との共振で大いに是とする。

1番には初演者オイストラフとムラヴィンスキーの圧巻の演奏があるが僕はサレルノ・ゾンネンバーグ盤が気に入っている(マキシム・ショスタコーヴィチの伴奏。このCDが廃盤というのだから昨今のクラシック・アルヒーフは絶望的だ)。ソリストはまったく知らない人だが驚いた。いささかの破綻もないフレージング、弦が切れるかと思うほどの魂のこもった ff が汚くならない、 Mov3のカデンツァの意味深い pp が豊穣!客席の奥の奥まで痩せずに訴えかける。体いっぱいで弾いているがなんら苦労しているようには見えない。この余裕たるや、大家然というより全身が才能の塊である。いったいVnソリストというもの昔ながらの伝承でもあるのか、激してくるとこの程度の音程のズレは熱量の証でしょのようなモードに入り、聴衆もそういう事が起きると音楽が高揚していると解釈するのがしきたりのようだが、僕は何であれズレはズレで気になるのでどんどん聴く熱量が下がってしまうという二律背反がおきる。それが少ないソリストは、ちゃんと方程式どおりに熱量がなく、平板で面白くないときている。ところがこの人は驚くべきことにほんの1音符たりともそれがないうえに熱量は2倍もあった。こんなソリストは初めてで、掛け値なしにかつて聴いたヴァイオリニストのNo1だ。休憩でプログラムを見るとこのヤメン・サーディ氏はウィーン・フィルのコンマスではないか。やれやれ、僕は昔のレコードで事足りて時流に乗れてないようだ。楽器が書いてあった。クライスラーが9年弾いた1734年製作のストラディヴァリウス「ロード・アマースト・オブ・ハックニー」とのこと。名器を弾く人は多いが博物館のデモにならず生き返らせてる人はあまりいない。ウィーン・フィルのブランドに埋没しないことだけ祈る。

伴奏のオクサーナ・リーニフ。女性の服にはいたって疎いが、あれはウクライナ風のものだろうか。コンチェルトのオケはTr, Trbを欠きTuba、バスCl、コントラFgありと暗く重めになりがちだがカラフルな音彩にきこえた。この曲はSym10のコンテンポラリーだがSym5のMov3のエコーもあり、僕はその楽章の熱烈な支持者。それを髣髴させるMov1ノクターンは非常に楽しめた。フロリャク。和声の虹彩が美しい。知らない作品に虚心坦懐に浸る喜びを満喫した。トリのバルトークは怪奇趣味に陥らず透明感があって品が良い。春の祭典風のオーケストレーションがあるが1918年の着想であり5年前に初演騒動のおきた作品を意識したとして不思議でない。両作は第1次大戦を挟んで書かれており時代の空気がうかがえるという意味でも傑作だ。リーニフの指揮はダンスのように流動的でビートはメリハリがあって明確。コンチェルトもこの曲も終盤の追い込み、加熱は品格を保ったまま大変エキサイティングだ。この人はバイロイト音楽祭初の女性指揮者としてオランダ人を振ったらしいが大変な才能。読響はコンマスが長原氏から林氏に交代したが洗練されて素晴らしい音を聴かせてくれ、一級品の演奏会であった。

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なぜ《音楽》は女性名詞なのか?

2025 APR 18 2:02:48 am by 東 賢太郎

楽譜の英訳は sheet music です。妙だと思ったことはありませんか。なぜそうなるかというと、日本語では演奏されたものが「音楽」であって、それを音符で紙に書いたら「楽譜」です。しかし英語はどっちも music なのです。だから「楽譜を読む」は read music です。ということで、楽譜は「紙に書いた音楽」と区別して呼ぶわけです。たいしたことでないように思われるかもしれませんが、言語は民族の精神構造の現れです。「music とは何か」をつきつめれば music は常に music であって、それを紙に書くか書かないかで別物になることはない。西洋人はそう認識しているわけです。いっぽう西洋音楽を初めて聞いた明治新政府は文明開化と軍楽隊による国民の教化と鼓舞を目論み、その音響がどう創造され、記録され、再現できるかを研究しました。種子島に伝来した鉄砲を複製したのと同じやり方です。まず音を sheet music におとす。それを設計図として再現してみる。同じ音響が鳴る。成功だ。それが音楽である。music はもともとは日本になかったのだから「music は常に music」という発想はありません。つまり music は楽譜である。そのように受容されたのです。

では西洋では music とは何であったか?これは空気振動がなぜ人を感動させるかという深遠な問いなのですが、ここでは哲学や美学に踏みこまず、その字義からさぐってみましょう。英語以外の西洋語を学んだ方は名詞に男性、女性が(独語には中性まで)あってひと苦労された経験をお持ちでしょう。僕はモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク(Eine kleine Nachtmusik)が、「ひとつの」はアイン、「小さい」はクラインなのにどうしてアイ、クライなのかがひっかかっていました。「ムジークが女性名詞だからアイン、クラインに e がつく」と知って疑問は氷解したのですが、では「なぜ音楽は女性なのか?」という根本的な理由は不明です。物質と雌雄の関係性でないことは太陽と月が独語と仏語で男女が逆なので確かです。調べると6~9千年前のインド・ヨーロッパ祖語に男性、女性、中性があったのが起源らしく、理屈はなさそうです。

では角度を変えて、なぜ音楽は music と呼ばれるようになったのか?という方から考えてみます。南イタリアのナポリ、ポンペイに近いカプリ島へ行った時のことです。小舟に揺られて「青の洞窟」へ入ると船頭さんのオ~ソ~~レミ~オ~が朗々としたテノールで始まりました。別の船でもやってる。ここでは誰もが歌える感じで素人にしてはうまい。一説では大歌手パバロッティも簡単な楽譜しか読めなかったようですが、日本の音大生は難しいソルフェージュ(読譜、視唱)の試験に通っています。船頭さんの美声の前にはそれが何だろうと思ったわけです。ポール・マッカートニーは音大は出ていませんが、自宅で一人、ギター片手に思いついたメロディーを歌っていたらイエスタディができたとビデオで語っています。

つまりmusic は常に誰かの頭にあるメタフィジックな(形のない)存在で、紙に書いた楽譜はパート譜、備忘録、贈答品、商品、著作権の対象など「物体」にするためにできたものです。モーツァルトは貴族の館や演奏会やオペラの幕間にクラヴィーアで即興演奏を披露して人気を博していましたが、彼にとって即興と作品の区別はなく、「物体」にすべき理由があって書き取ったものが「作品」として死後に残り、ケッヘルが勘定したら626曲あった。それが我々が「モーツァルトをきく」と言った時の「モーツァルト」になったのです。ピアノソナタヘ長調K.332は、理由は不明ですが第2楽章に2バージョンの楽譜があり、本来は消えていただろう彼の即興が聴けます(モーツァルト ピアノソナタ ヘ長調 K. 332)。

つまり music には楽譜がある必要はないのです。この考えの延長線上にジョン・ケージの “4分33秒” が出てくると考えないと、なぜ無音=音楽か?という謎は解けません(ジョン・ケージ小論《 Fifty-Eightと4′33″》)。逆算して考えるなら、 sheet music は無限に可変的な music のいち態様をフリーズ(凍結)し、再現性を永遠に担保するものです。書き取る前の music は量子論における量子のふるまいのように確率でしか表せないという思想が背景にあるからです。偶然性の音楽はケージが創始者ではなく、実はずっと以前から、古代のギリシャから、暗に音楽はそういうものであったというにすぎません。

musicの語源は「熟考する」「思索する」という意味の動詞 muse(ミューズ)です。その名詞形 Muse がギリシャ神話の9人の女神ムーサ(Moũsa)の英語名です。古代ギリシャでは政治、法律、宗教、道徳、科学、地理、数学、哲学の伝達のいち手段がソクラテスの辻説法のような公開の場での朗読でした。そうした知識を国家や民主主義の運営のために大衆に伝える神官のような役目を司った女性たちが存在し、インスピレーションを与えるようなプレゼンをした。その「技芸」が円形劇場での芸術、演劇の原型となって ムーシケー(mousikḗ)と呼ばれ、 やがてmusic になったのです。もうお分かりと思います。だから音楽は女性名詞なのだと思います

新約聖書の時代にギリシャはローマ帝国の支配下にありましたが聖書はギリシャ語で書かれていた。ローマ帝国はあらゆる意味で後の欧州の基盤ですから欧州の精神世界のルーツは紀元前5~8世紀ごろのギリシャにあります。だからルネサンス期のフィレンツェで復興されたのは古代のギリシャ悲劇であり、それに付す音楽はマイナーキー(短調)でした。すなわち音階はラから始まり、ドではなくラがABCのAなのです。それを「opera musicale」(音楽的作品)と呼んだのが後に我々がオペラとよぶものになっていった。そしてオペラの序曲が器楽のシンフォニア(sinfonia)であり、それが独立してソナタ形式をもったドイツの Symphonie (交響曲)になっていったことは言うまでもありません。

ムーサの人数は諸説ありますが、この絵のように9人が有力です。

パルナッソス山にあるアポローンとムーサたち

古代ギリシャの女性に政治参加の場はありませんが、神官としてはありました。その象徴がムーサだったと考えられます。今流にいうなら女性グループ、女性ユニットですが、muse(熟考、思索)するのだからエンタメの芸人というより知的な人たちだったのでしょう。名前はカリオペ、クリオ、ポリュヒムニア、エウテルペ、テルプシコレ、エラトー、メルポメネ、タリア、ウラニアで、次世代にオルフェウス、ハルモニアがいます。太字はおなじみのレーベル名になっています。レコードというクラシック演奏のアルヒーフを作る事業家たちにギリシャを希求する美学が共有されていたことはとても興味深いです。

『火を運ぶプロメテウス』

作曲家も例外ではありません。モーツァルトの「魔笛」には王子タミーノをザラストロの神殿に導く「3人の侍女」が出てきます。ワーグナーのニーベルングの指輪もヴォータンの9人の娘「ワルキューレ」が出てきますが、これはゼウスの9人の娘ムーサにぴったり相当します。ベートーベンはギリシャ神話に共感し「プロメテウスの創造物」を書きました。第2幕のパルナッソス山の場面にエウテルペ(楽器)、テルプシコレ(舞踏)、メルポメネ(悲劇)、タリア(喜劇)というムーサの女神たちが登場します。このバレエ音楽は無知で感情や理性も欠けている人間(男女2体の粘土)を教化するストーリーを持ち、思想的背景にはイデアは「永遠不変の理想的な範型」であり、不完全な人間はそれを模倣した宇宙に住んでいるとするプラトンのイデア論があります。

音楽をプラトンにあてはめるなら music は心で響くイデアであって、紙に書き取った楽譜やそれを音化した演奏はその模倣だという哲学をベートーベンは理解していたはずであり、スケッチ帳に書き取った膨大なイデアの断片を試行錯誤して再構築することが彼にとっての作曲でした。イデアが完成品として降ってきた様が自筆譜から伺えるモーツァルトとは違い、不完全な人間界での格闘の跡が残るベートーベンの音楽はその意味でも聴く者に勇気を与えるように思います。その代表作である交響曲エロイカに「プロメテウスの創造物」のフィナーレの動機が、やはり交響曲を締めくくる楽章に現れます。彼は10番目の交響曲を完成することなくゼウスの娘たちの数、9曲を残したのは暗示的です。

クラシック音楽を耳にするうち、同じ楽譜の演奏でなぜ心に響くものとそうでないものがあるかという問いが芽生えたのは高校の頃に買った悲愴交響曲のレコードでした。ケンペンとカラヤンとムラヴィンスキーがあまりに異なるのはなぜかという素朴な疑問からそれは始まったのです。楽譜はひとつなのになぜテンポも表情も違うのか、なぜそれでもいいという風に平然と受容されているのか。それがわからなかったのです。例えばビートルズのコピーバンドはオリジナルといかに似せられるかを競うわけですが、なぜクラシックはそうしないのだろうということですね。

チャイコフスキーの演奏記録がないこともありますが、作曲家の演奏したレコードがありながら違う解釈の演奏も認知されているケースがあります(クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典―)。作曲家の頭にあるイデアを記号で模倣した楽譜はもとより完全ではなく、作曲家もそのようなものとして採譜しています。例えばメトロノームで速度を数値化はできても、テンポ・ルバートやアゴーギクを正確に示すには微分方程式が必要で、そこまで書いた作曲家は知る限り存在しません。つまり演奏者におまかせの余地が必ずあるという事です。彼らは悲愴交響曲に三者三様のイデアをもっており、それは人間性、人生観、音楽的教養の賜物なのだから異なるのが自然と考えるようになりました。同じ楽譜でも心に響くものとそうでないものがあるのは、自分がその演奏家に共振できるかどうかという事です。自分は進化しますから良いと思うものも変わります。

自分にも人間性、人生観、音楽的教養というものが育ってきますから悲愴交響曲のイデアができあがりました。誰のとも異なるので僕にはどの演奏もぴったりこず、仕方なくシンセサイザーで自分のバージョンを全曲録音しました。だから演奏会で誰かの悲愴を聴くという行為はその差を許容する儀式となりました。困ったことにそれが耐えられない数曲の “特別な” 音楽もできてしまい、もうそれをCDや演奏会で聴くことはないと思います。イデアを心の中で演奏して愛でていれば事足りるし、それが最も感動できるからです。

Vlado Perlemuter
(1904 – 2002)

たとえるならずっと昔に好きだった彼女の姿のようなものです。自分の中だけに存在し、その方はきっと生きておられるでしょうがあの姿はもはや幻でこの世にはないのです。音楽演奏の一回性とはそういうものです。ロンドンのヴラド・ペルルミュテールのリサイタル。聴いたというよりウィグモアホールで参加させていただいたという雰囲気で、まるでパリでショパンやフォーレのサロンの片隅に座っているかのような、当時そうしたプログラムに造詣などなかったのですが、どこか茫洋としたセピア色の記憶が蘇ってきます。おそらくロンドンでもパリでも、そうした雰囲気の場は消えつつあるのでしょう、ペルルミュテールのような19世紀のイデアをもった演奏家は多くが亡くなっていますからね。

では録音でそうした音楽家を聴くことに意味があるのでしょうか。あると思います。そこに住んでいたころ、ああヨーロッパだなあと肌で感じたのは毎日きこえる教会の鐘の音でした。どこの都市でもカランコロン、ガーンガーンと聞こえます。ザルツブルグで、夕刻に遠くから近くから立体的に響きわたるその音を浴びて、ああモーツァルトもこれを聞いて育ったんだと思ったし、ミラノではプッチーニ、バイロイトではワーグナーのことを思いました。聴く方も演じる方もそういう空気の中にいる、そこの劇場で響くドン・ジョヴァンニやタンホイザーが金剛峯寺の大法会のような正調の重みを携えて聴こえる。例えばスカラ座に向かって右側の筋を入って少し行った左側の2階にヴェルディ、プッチーニ行きつけだったタヴェルナがあります。そこで食事やワインやひとときのおしゃべりに興じ、その日を楽しみにして集まっている聴衆に囲まれていよいよオペラが始まる。音楽というものは即物的な音響だけでなく、そうした漠たる “アトモスフィア” が産み出すものなのです。僕は蝶々夫人の熱心な聴き手ではないのですが、スカラ座ならまた聞きたいなと堪能しました。音楽は、宗教がそうであるように、そうした文化が染みついた都市の土壌と人々とが一体となったときに真価をのぞかせるという事があります。

クノッソス宮殿の王座の間

さらにいえば、それは吸い込む空気というものにもあって、地中海に浮かぶクレタ島のイラクリオンにあるクノッソス宮殿に足を踏み入れた時の乾いた空気は、これがミノス王や怪物ミノタウロスが吸ったものかと五感を研ぎ澄まされる感覚がありました。ミノスはいわば天照大神のような存在であって史実としてはほぼ無意味なのですが、鼻腔で感じる空気というものはその都市の土壌と同様にアトモスフィアを醸成していて、そうして様々な場所で味わった記憶が蓄積していって交叉し、僕の中でムーサとジョン・ケージがぴんと張った一本の線でつながるのです。するとギリシャ悲劇もイタリアオペラも、ベートーベンもチャイコフスキーもショパンもフォーレも、うまく説明できないのですが、みなその線上に連珠した点のようになるのです。「music は常に music」という境地はこうすることで訪れてきます。

楽譜(sheet music)の話に戻りましょう。音というものは三次元の存在です。なぜならポンと鳴らしたピアノの音(音響)は縦・横・高さのある空間の空気振動だからであり、我々の脳は音高、強弱、音色とともに空間を認識しています。そして二つ目の音が鳴ると、一つ目の音(の記憶)からの経過時間も認識の一部に加わります。つまり、音が音楽になると、次元が一つ進んで四次元の存在になるのです。楽譜には空間の響きを記しようがないので縦・横だけの紙の上、すなわち二次元の存在です。ということは楽譜を単に正確に音にしましたという演奏は次元が二つ足らない不完全な存在でしかありません。もちろん演奏会場という四次元空間の中で響いてはいるのですが、演奏家の頭にある二次元のイデアがそれで救われるわけではなく、つまらない演奏はムジークフェラインやコンセルトヘボウできいてもつまらないのです。

旧ブルク劇場の内部 (クリムト作)

僕は「music は常に music」という場でたくさんの音楽を聴かせてもらい、四次元のイデアが頭にあります。何度もブログに書いたように「演奏会はホールが大事」というのはそれが次元の三つ目のクオリティを決定する不可欠の要素であり、四つ目を決めるテンポと同様なほどに重要なものだからです。ベートーベンの交響曲第4番の終楽章はひっそり始まり、いきなりフォルテが全奏でパンパンパンと短く鳴りますが、鳴った音と同じほど空間にふわっと散っていく響きが耳に残り、ホールの3次元(容積)、4次元(残響時間)が意識されます。公開初演したホールがヨーロッパ最大級の1200人を収容できた旧ブルグ劇場であり、その空間と残響を意識したベートーベンならではの構想だろうと思っております。

そのことはフルトヴェングラーが「テンポはホールで決まる」と語り、彼を師と仰いだチェリビダッケがそれを敷衍して「そのホールで聴衆の認識がついてこられるテンポで、つまり脳内で音が認識されてから次の音が鳴るテンポでやる」という意味の発言をしたことからもうかがえます。それを家の装置で再生して「常識外れの遅いブルックナー」と批判しても、ヘラクレスザールにいないからそう聞こえるわけで批判の一般性がないのです。 music は楽譜であると受容、教育され、大多数の演奏家も聴衆もそのカルチャーの中で「クラシック音楽」なるものを学習し、鑑賞している日本において「ウィーン・フィルを音の貧しいホールで聴いても時間と金の無駄ですよ」と唱えても正しくは響かないでしょう。

ペルルミュテールのリサイタルの感動は演奏の出来不出来というレベルの話ではなく、ウィグモア・ホールの音響と聴衆のクオリティを包括したところでだけ味わうことのできる体験だったということです。それを味わうには行くしかありません。いまインバウンドで多くの欧米人が大挙してやってきて寿司屋でホンモノに舌鼓を打ってる。ニューヨークのすし店で10万円も出してる客がびっくりする。時代は変わったものだと思いますが文化というのはそういうもの、そう簡単には変わらないのです。思えば高一のときに東名を6、7時間かけて家族で出かけた大阪万博で、4時間も並んで観たアメリカ館の月の石。行列は押せ押せで流されていき、ガラスケースをあっさり通り過ぎてなにやら黒っぽい物体でしたねで終わりました。それでも「見たぞ」という高揚した気分にはなったのが昭和でしたね。仮にペルルミュテールが来ていてもカラヤンやホロヴィッツほどの騒ぎにはならなかったろうし、19世紀のパリのサロンはそもそもそういう場ではなかったでしょう。好きだった彼女は思えばいたって地味な子で、クラスで目立つ存在でもなかったように思いますが片想いでほとんど口もきいたことがなかった。なぜ良かったかはわかりませんが無条件に良かったのです。なにか僕の中にメタフィジックに好きなものがあってそれにぴたっと来たんでしょう。音楽もまさにそういうもの。だから女性名詞なんでしょうか。

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グイド・カンテルリのベートーベン寸評

2025 MAR 25 10:10:48 am by 東 賢太郎

グイド・カンテルリ(1920 – 1956)はヴィクトル・デ・サバタの後任としてスカラ座の音楽監督になり、ウィーン、ロンドン、ニューヨークでも高い評価を受けた。なんといってもあのトスカニーニが後継者と目し「私は長い経歴の中で、これほど才能のある若者に出逢ったことがありません」と奥さんに手紙を書いたという。この人が36才で飛行機事故で亡くならなければ音楽界はどうだったろう。2才年長のレナード・バーンスタインがもしこの世にいなかったらと考えれば損失の大きさが窺われる。

このセットを買ったのは2007年だ。どの店だったか覚えがないがたぶんタワレコ渋谷だろう。千円台だったが中身をよく見ると魅力があった。カンテルリがニューヨーク・フィルを振った1953~56年の演奏会でベートーベンのピアノ協奏曲の1,3,4,5番が入っており、順にゼルキン、フィルクシュニー、バックハウス、カサドシュという20世紀を代表するピアニストのライブ演奏が聴けるからだ。

モノラル時代の、それもラジオ放送だろうか、商業用録音でないから音質はそれなりだ。デジタル時代生まれの聴衆は「何が悲しくてこんな貧相な音で」と思うかもしれないが、時としてそれを補う宝物が埋まっていることを知ってほしい。レコードは文字通り “記録” である。何が記録されたかにこそ意味があり、良い音質というものはその音源の商品価値(お値段)には寄与しても記録内容の価値を高めることはない。写真の画素数を上げれば普通の人が麗人に撮れるわけではないのである。本稿はその例として書いている。

クラシックは古典芸能だから骨董品や遺跡の発掘品と同じで根本的に古びない。というよりその概念がない。演奏家、聴き手の感性は時代に連れて変化するから演奏スタイルに “今風” があって結構だが、19世紀、20世紀のスタンダードを知らなければ今風かどうか知る由はない。だから、これでいいんだろうか、ベートーベンが聴いたらほめるだろうか怒るだろうか?と想像し頭の体操をしてみる余地がある。

他人の意見を検索などしてはいけない。自分で出した問題なのだから自分の頭で考えろ、である。ショーペンハウエルが「馬鹿になるから本を読むな」といっているのと同じ理由で、他人の耳で音楽を聞くことになる。好奇心のある人は考える材料を調べてみようと興味が出るだろう。僕の若い頃、それを探り出すのは大変で、だから書物が家に山ほどある。ところが、実にありがたいことだが、ネット時代の恩恵で今はあっという間にググれるのだから皆さんやらないと損だ。すると、何が起きるか?人間は興味のあることは暗記などしなくても勝手に覚える。曲のレパートリーを増やし、理解を深めるのにこれほど簡単な手はない。

録音した時の4人の年齢は、ゼルキン50才、フィルクシュニー43才、バックハウス72才、カサドシュ56才だ。僕はこの押しも押されぬ大ピアニストたちの素晴らしいレコードをたくさん聴いて育っており、最初の2人は米国で実演もきいている。まだ知らなかったこのCDに記録された4つの演奏会のチケットたるや、僕が当時にタイムマシンで行けるなら、1994年に満を持して買ったカルロス・クライバー / ベルリン・フィルのブラームス4番ぐらいに食指をそそられるものだ。

バックハウス72才の4番のライブが2年後のウィーン・フィルとのスタジオ録音と比べてどこがどうのという興味はない。レコード芸術で入門して同曲異演の聞き込みに没頭したことがあったが、レコードといえど聴く側の気分や体調は毎日違うのだから聴くたびに一期一会であると思い至った。英雄がききたいときに英雄を、悲愴がききたいときに悲愴をきけばいいのであって、立派に書かれたスコアがちゃんと感動させてくれる。

カンテルリのCDは好みだ。彼を気に入ったトスカニーニのベートーベンが好きなのと同系統の趣味なのだろう。4人のピアニストを円熟と書いたが、緩徐楽章にそれはあるが老成したものではなく、どれもライブなりの強烈な気迫がありアレグロはミスタッチをものともせずどれも眼前できいたら圧倒されたろう。4人なりの個性全開で大変味が濃く、これだけ大家たちがやりたいことをやらせながら総じて速いテンポでぐいぐい押す。半分ぐらいの年齢のカンテルリに付き従っている観がある。以下、各曲の寸評を記す。

1番。モーツァルトの衣鉢を継ぐのは俺だと才気煥発な25才のこれを出だしからもっちゃり、のっそりのテンポでやる指揮者が結構多いが信じ難い。これは僕の知る限り最速か少なくともその部類で、オケの愉悦感はまるでハイドンである。古楽器演奏の干からびたこじつけでなく、音楽はこういうものというスピリットにおいても時代考証的にも大いに納得である。嬉々として弾く脂の乗り切ったゼルキンもライブならでは。Mov3のソロ主題でルバートをかけるなど彼には思いもよらない遊びまで出てくる。

3番。NYPは出だしが鈍重、ピッチも悪く、テュッティが汚い。フィルクシュニーも入りでミスする。どうなるかと心配になるがこのチェコの名ピアニストの腕前はタングルウッドできいたモーツァルト24番でわかっている。カンテルリは1番から一転、中期へ向かう重みに比重を寄せる。3番のMov1の解釈でこれはありだ。フィルクシュニーは展開部あたりから興がのりカデンツァは全開だ。Mov2のタッチの深さ、静かな部分の沈静感は彼ならでは。Mov3はオケが騒がしく好みでなく快速調でやや統一感を欠くきらいはある。3番はコーダでアマデウス・コードを2度繰り返し自らモーツァルトの影響を吐露しているがそういう部分にも意を用いているようにはきこえない。深みという点で4曲でこれはやや落ちる。

4番。バックハウスが聴きものだ。世評通りだから書くまでもないがベートーベン演奏でこの人ほど傾聴に値するピアニストはない。彼はそれをスタジオでもコンサート会場でも再現できたということがわかる。他より圧倒的に深みのある4番という音楽のせいもあるが、カンテルリはバックハウスをよく聴き完全に伴奏者に回っている。Mov3のカデンツァもほぼ乱れなく、ベートーベンはこうでなくてはという力感と居住まいの正しさ。コーダへの追い込みでカンテルリがダッシュをかけ両者がなだれ込むが品格は微塵も崩れない。王者のたたずまいとはこのことだ。

5番。入りからして立派な皇帝というしかない。僕はカサドシュのドビッシー、ラヴェルを愛聴する者だが、同じく明るく明晰なタッチでこれほど玉をころがすようにベートーベンを弾ける人がいただろうか。Mov3のミスタッチなど明らかにこれがバックハウスのように自家薬籠中の物でなかったことをうかがわせるが、驚くのはオーケストラもそれに合わせて透明感の高い演奏になっていることで、録音のマジックが使えるスタジオ収録でないのだから本当にそういう音が鳴っていたということだ。このベートーベン・チクルス、ドイツの巨匠二人にフランス人、チェコ人に弾かせたわけだが超大物のバックハウスとカサドシュを連れてきたニューヨーク・フィルのマネジメントもパワフルだ。それを任され対極的なアプローチを使い分けた指揮者の能力は高いと思う。このまま彼が生きていればバーンスタインはどうなったのだろう?

200年前の音楽の70年前の演奏がこれだけ心を震わせる。クラシックは不滅だ。

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ベルク 歌劇「ヴォツェック」op.7

2025 MAR 18 1:01:13 am by 東 賢太郎

サントリーホールのオペラのあと、ビールを飲みながらMさんに上野の文化会館音楽資料室で現代曲を片っ端からきいた話をしました(このジャンルは廉価盤にならないので買えないなんてさもしい理由も)。ヴォツェックを初めて聴いたのは間違いなくそこですが、誰のだったか覚えてないのはあんまり興味をひかなかったからと思われます。Mさんがミトロプーロスのがありますよというのでyoutubeを探してみました。アイリーン・ファレルのマリー!ミトロプーロスとNYPO!核心をえぐってますね、音も最高だ(改修前のカーネギーホールは世界ベスト5に入る)。こいつは凄いですね、51年録音か・・ひょっとしてこれだったのかなあ・・やっぱり書いておかないといけませんね。

ミトロプーロス盤です

すでにブーレーズ派だった僕は音楽に人間くさい熱量は好まず(だからイタオペはボエーム以外は何を聴いても退屈だった)、ひたすら透明でクールで繊細な音響を求め、正確なピッチで微細な和声変化や対位法に耳を澄ます方向に傾いていました。だからヴォツェックの開眼はブーレーズ盤を待つことになりました。

ブーレーズ盤です

トロンボーンのppのハーモニー、チューバが入って低音になっても濁らない。2幕2場のオーケストラの音彩をこんなに捉えた録音はないでしょう。タイトルロール(ワルター・ベリー)、マリー(イザベラ・シュトラウス)はそれに乗る楽器でこれまた美しい(3幕1場のマリー!)。僕はこれをBGMに快適に仕事ができてます。でもこれがベルクの意図した世界だったのでしょうか?本稿ではその点について私見を述べてみましょう。

Johann Christian Woyzeck

人殺しはオペラにつきものです。嫉妬、宿命、復讐など人間のおどろおどろしい感情がひきおこす殺人や不遇の死が物語の主題であって、それがクライマックスを形成して多くはそれで終幕となるのです。悲劇はギリシャ時代からオペラのメインテーマだよといえばそれまでですが、器楽のジャンルには短調で終る楽曲さえ多くない。ところがオペラだと帰路につく観客は殺人罪だ不道徳だという気持ちにはならず、またそうならないように音楽も同じベクトルで構成されてカタルシスがもたらされる仕組みになっている。「カルメン」「トスカ」「運命の力」などを思いおこされればお分かりと思います。しかしヴォツェックはどうか。マリーは貧しい生まれの多情で尻軽な女ではありますが、彼との子供を育て、浮気の後悔から聖書を読む人間です。この殺人はもろ手を挙げて支持されるものでは全然ないのです。ちなみにこれは実話であり、現実のヴォツェック(本名はヴォイツェク、Woyzeck、1780 – 1824)は精神異常の疑いが持たれましたが2年にわたる拘留の間に当時としては異例なほど詳細な精神鑑定書が作成され、責任能力が認められて死刑になりました。

Karl Georg Büchner

それを戯曲にしたのがドイツの医学者、劇作家で革命家のゲオルク・ビューヒナー(1813-37)だった。これがベルクのオペラを生むことになり、刑死した者の名を歴史に留めることになります。そこには2つの偶然が関与していました。第一に、頭の中に響く奇妙な声に促されて犯行に及んだ様子を描いた20ほどの断片が医学雑誌『Henkes Zeitschrift für Staatsarzneikunde』に掲載され、ビューヒナーは医学者として精神鑑定書に興味をもったことです。後世の心理学者、精神科医であるジークムント・フロイト(1856 – 1939)、カール・グスタフ・ユング(1875 – 1961)を連想させますね。

第二の偶然は、彼が革命家でもあり、搾取されている下層労働者を扇動せんとフランス革命史を研究したことです。そこで「歴史の宿命の怖ろしさに打ちのめされました。ひとりひとりの人間は波間に浮かぶあぶくにすぎず、大立者もほんの偶然の産物だし、天才が統治するも操り人形で、鉄の法則に対してこっけい千万な悪あがきをしているだけだ。これを認識はできても、支配することは不可能だ」と「宿命論の手紙(Fatalismus-Briefs)」に綴った。かような虚無的な歴史観からビューヒナーは戯曲の原稿を書き、それが死後40年ほどして公にされ、1914年5月5日にウィーンのレジデンツェビューネで劇として上演された。それを観たベルクがオペラ化を思い立ったというわけです。

ベルクは何に惹かれたのか?この問いが興味深いのは、事件から90年の時がたつ間に西欧の産業・社会構造は大きく変転して階級は市民の間でさらに分化し、多発する戦争は兵器の近代化を促して殺傷力を増大させ「死の無機化」がおきていたことです。19世紀末のロンドンで売春婦らを猟奇的に惨殺した切り裂きジャックなる者が現われます。犯人も動機も不明で無気味なまま。無機化とはこうしたものです。そしていよいよ西欧はロシア革命~第一次大戦(1905~18)という無慈悲、虚無的で何らの人間的な痛みも感情も伴わない、宗教的な罪悪感すら皆無である大量殺戮が暗黙に正当化される時代に突入していった(現代のウクライナ、ガザもまさにそれであります)。生も死も不条理そのものである空気を吸って生きていたのがベルクであり、ベートーベンの同時代人としては急進的ですらあったビューヒナーの虚無的な歴史観に驚いて共感し、むしろ宿命の哀れな犠牲者であった下級軍人Mr.ヴォイツェクに何らかの同情を覚えたのではないかと僕は考えるのです。ちなみにベルクはフロイト、ユングの同時代人です。

ヴォツェックの殺人の動機は浮気への嫉妬です。それが正当化されるなら19世紀に何千人もの貴族が殺されたことでしょう。そういう現実はない。だからレオンカヴァッロはオペラ「道化師」(1892)で座長カニオに女房と間男を刺殺させた。あってはいけないことだが気持ちはわかる。これがオペラです。だからカニオは悲劇の主人公になり大ヒットしたのです。いっぽう、ヴォツェックは誤って池にはまり死にますが、現実と違って偶然の贖罪で刑死ではありません。だからオペラではマリーは浮かばれない死を遂げたことになっています。これが「不条理の死」というもので、ヴォツェック前後の20世紀作品では頻出しています。ペトルーシュカ(1911)、月に憑かれたピエロ(1912)、青ひげ公の城(1918)、ヴォツェック(1922)、中国の不思議な役人(1926)、ルル(1937)がそれです。しかし現実のマリーは不条理でなく、嫉妬という古典的に手垢のついた条理によって死んだ。そんなものを無調音楽で描いてなんになる?劇を観た奇しくもその年、1914年に第一次世界大戦が勃発して兵役に服する運命になったベルクはそう考えたのではないか。自分の運命も鉄の法則のごとく過酷なものだが、鼓手長、大尉、医者ら上層社会に蹂躙され精神を病んだMr.ヴォイツェクの運命もだ。そこでオペラのマリーは狂人の手による不条理の死を遂げることになったと僕は解釈しております。

ベルクの生家

アルバン・ベルクの生い立ちを見てみましょう。ウィーンで1885年に富裕な商家に生まれていますから師のシェーンベルクとはうってかわってお坊ちゃんですね。左の写真は2005年に撮影した生家で、路地の奥に見えるのがハイドンが勤めたペーター教会で、モーツァルトが下宿したウェーバー家もすぐ近くです。ベルクは幼い時から音楽や文学に興味を抱き、早熟で、17才のときにベルク家の別荘で働いていた女中との間に女の私生児をもうけ、翌年にはギムナジウムの卒業試験に失敗して自殺を図るなど波乱万丈の若年期を送っています。1911年、声楽を学んでいたヘレーネ・ナホフスキーと26才で結婚しますが、ヘレーネの母アンナはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の公然の愛人として知れ渡っていた人でした。皇帝の庶子であるとも言われたヘレーネは気位の高さで知られていましたからベルクは社会や階級について特別の意識の持ち主だったろうし、その眼で見たMr.ヴォイツェクの殺人は我々日本人の常識や道徳観ではまったくとらえきれないものを秘めているようにも思うのです。欧州にいた時にC.クライバーはベルクの庶子だよときいて、未だ真偽は不明ですがその方は欧州の楽界では周知ともおっしゃっており、もしそうなら二人目ということでもありますから、我々にはとらえきれないものの一例かもとは思いましたね。

Alban Berg (1885-1935)

ヴォツェックの成功はベルクの用いた音楽語法に多くを負っています。この悲劇には無調音楽こそが好適でした。それができる時代に生まれたということはドラマトゥルギーの概念で説明できるかもしれません。人は同じ人間であっても10代は10代らしく、50代は50代らしくふるまう。同じリブレットでも作曲家は19世紀には19世紀らしく、20世紀には20世紀らしく書くのです。ベルクがシェーンベルクほど厳密に12音技法に依拠せず、師にとっては過渡期だった無調音楽で、時に調性へのグラデーションを許容しつつヴォツェックを書いたことは反抗でも後退でもなく、リブレットから掴み取ったエッセンスを表現するに最適とドラマトゥルギーからの判断があったものと考えています(同じことがヴァイオリン協奏曲にも)。それを文学、絵画、建築と同等と考えてよいかどうか、これはハイドンの稿でシュトルム・ウント・ドラングを論じたのと同様の議論になるでしょう。Impressionismが印象主義、その対極としてExpressionismが表現主義と訳されますが、日本語になるとさっぱりわからない。前者では光の当たり方で外面は変わるので別なものと描く。対して後者では内面の発露だから見え方では変わらない(それがどんなに奇矯なものであれ)と理解したほうが近いですね。

例えばカフカの「変身」です。外面は毒虫に変わってしまっても内面はそのままという男の悲劇です。これがExpressionism。ヴォツェックが表現主義を代表するオペラだというのも同様です、つまり、登場人物は言動からして我々の目には全員が狂人なんです。しかし、ドラマトゥルギーとしてはそれが正常であるかの如く作曲家は扱っている。なぜなら登場人物はロシア革命~第一次大戦(1905~18)の無慈悲な大量殺戮の投影の中で生きてる人物群の象徴、カリカチュアだからです。その年代ならその年代らしくふるまう、それがドラマトゥルギー。まるで全員が毒虫の姿に見えるのですが、作曲家はあたかもそう感じてないかのように平然の顔をして書いている、これは二重のドラマトゥルギーなのです。では、そこで用いる音楽語法は?それが調性へのグラデーションを許容した無調音楽だった。彼らの狂いっぷりは、田園交響曲の調子っぱずれなモチーフの「狂い具合」をバロメーターとして象徴的に暗示されます(Mr.ヴォイツェックはベートーベンの10才年下の同時代人。それも暗示)。その意味で、「ヴォツェックは表現主義を代表するオペラだ」なるセンテンスは、ほとんどの場合に言ってる本人もわかってないのですが、大いに正しいのです。

そう解釈すればミトロプーロス盤とブーレーズ盤の違いは明白です。冒頭に聴感上の比較を書きました。しかし、そうした表層的、感覚的なものは評論ではなく趣味(taste)にすぎません。例えばピアノである楽曲を弾く。そのテンポや表現というものが自分のその曲の解釈ですが、それは楽譜の解釈からしか生まれようがありません。他人の演奏をたくさん聴けば音楽についてもっともらしく語れはするのですが、その行為は問題集の解答だけ覚えて学問修得を試みるようなものです。ヴォツェックの場合、オーケストラより歌手の比重、インパクトが大きく、これがまさに表現主義音楽であるゆえんで、どこまで狂って見せるかという声のみならず演技の領域、さらにいうならその歌手の持って生まれた個性の領域まで関わることに言及せざるを得ません(ということはキャスティングの是非になりますが)。

先日、ヴァイグレ / 読響の演奏を聴いて、同作品の歌の重要性を確信しました。特に女性が二人だけで男声の比重が高い、つまり狂った男たちが狂った社会や階級に従いながら従いきれず、戦争という発狂の暴発に至る愚劣のカリカチュアを演じる。それの暗示が衝動で女房を殺すヴォツェックであり、殺されるマリーの方はこの時代だけに現れた突出して狂った女とも思えない。戦争は男がおこし、男が責めを負うことをヴォツェックの悲劇という形に仮託したストーリーであり、その印象を最後に登場する無辜の少年合唱がいやが応にも高めるという計算が精緻になされたオペラです。

Eileen_Farrell

その観点からすると、タイトルロールが決定的に重要という結論になります。ブーレーズ盤のワルター・ベリーは美声ですが声質にいまひとつ毒がなく普通にいい人の感じがあり、ブーレーズは殺人に至る落差を埋めるためオーケストラ・ドライブの高揚で圧倒します。それ自体が狂気を孕む見事なものなのですが現実感が薄い。ペレアスのようなお伽の国にも思える設定ならいざ知らず、ここでは人格にリアリティを持たせてこそ狂気の恐ろしさが増幅されます。つまり、普通の人が追い込まれて殺人を犯すのではなく、いつやってもおかしくない連中が普通な顔を装って街を歩いてる。それが第一次大戦前後の空気だったわけです。ミトロプーロス盤のマック・ハレル(チェリストのリン・ハレルの父)はやや線が細いが崩れやすい亭主をうまく演じてます。ただ、あくまで同盤の白眉はアイリーン・ファレルのマリーであり、この人はワーグナーからポップスまで何でも歌え、深みはないが爆発的なダイナミクスを誇ることで役にぴったりの “いい具合に空っぽな女房” になっています。一方、ブーレーズ盤のイザベラ・シュトラウスもワーグナー歌手ですが、彼の好みなんでしょう、その割にデリケートで知的な感じがしてしまい、マリーのキャラとしてはどうか。個人的には好きですがこの作品ではドラマトゥルギーが非常に重要だということですね。ちなみに、調べてみるとダブル不倫になった指揮者と心中し45才で亡くなっています。

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最高のベルク!歌劇「ヴォツェック」を聴く

2025 MAR 15 15:15:55 pm by 東 賢太郎

第646回定期演奏会

2025 3.12〈水〉 19:00  サントリーホール

ベルク:歌劇「ヴォツェック」作品7(演奏会形式)

指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
ヴォツェック=サイモン・キーンリーサイド(バリトン)
鼓手長=ベンヤミン・ブルンス(テノール)
アンドレス=伊藤達人(テノール)
大尉=イェルク・シュナイダー(テノール)
医者=ファルク・シュトルックマン(バス)
マリー=アリソン・オークス(ソプラノ)
第一の徒弟職人=加藤宏隆(バス)
第二の徒弟職人=萩原潤(バリトン)
白痴=大槻孝志(テノール)
マルグレート=杉山由紀(メゾ・ソプラノ)

合唱= 新国立劇場合唱団
TOKYO FM 少年合唱団
音楽総合助手・合唱指揮= 冨平恭平

ヴォツェックはかつてアムステルダムのオランダ国立歌劇場できき、家にはブーレーズ、アバド盤がある。アバドはウィーン・フィルというので買ったが、もっぱら取り出すのはブーレーズ だ。これは彼のCBS初録音(1966)でパリ・オペラ座管弦楽団との希少盤でもあるが、驚くべきことにクリーヴランド管との春の祭典の3年前にこのオケで完全に彼の音楽になっている。ということで僕は同曲を管弦楽曲として聴いてきており、歌劇でなく舞台に4管編成のオケが乗る演奏会形式で聴きたいとかねがね思いこの日を待ち焦がれていた。

何百回も聴いた曲をコンサートでという情熱は正直ところ少々失せている。飽きたというより未知への冒険心が勝っている。ヴォツェックは何度でも出かけたい(できればルルも)。この日は余りに打ちのめされていて終演後はあまり言葉が出なかった。ヴォツェックはオペラであると思い知った、それほどこの日の歌手陣は秀逸で強力だった。あくまで録音の印象としてだがブーレーズは精緻な音彩への執着がベースにある。ヴァイグレは言葉(この作品はドイツ語が比較的聞き取りやすい)と抑揚、ダイナミズムでドラマを浮き彫りにする。それを読響も見事に実現した。表面的には単純なリブレットで、平板に演じれば狂った者どものひと騒動で終わりかねないが、その表現主義とドラマトゥルギーの二重構造が見えたような気がしている。

いつぞやシェーンベルク、バルトークに来ていただいたM氏(経産省を退官後ヴァイオリニストとして活躍中)とご一緒したが、喜んでいただけてよかった。氏がバリオス国際ギター・フェスティバルで第1を弾くポンセのギターカルテットのビデオを送っていただき、拝聴したが面白かった。まだまだ知らない作曲家、楽曲がある。

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日韓国交正常化60周年記念演奏会をきく

2025 MAR 3 19:19:52 pm by 東 賢太郎

2025年3月2日(日)14:00開演 13:15開場
東京オペラシティ コンサートホール

指揮:チョン・ミョンフン(東京フィル 名誉音楽監督/KBS 交響楽団 桂冠指揮者)

ピアノ:ソヌ・イェゴン、五十嵐薫子
KBS交響楽団&東京フィルハーモニー交響楽団合同オーケストラ

モーツァルト/2台のピアノのための協奏曲
マーラー/交響曲第1番『巨人』

主催会社様からのご招待で次女と聴かせていただきました。マエストロ・チョン・ミョンフンは何度か聴いており、同世代であったことが幸運だったと思う音楽家のひとりです。そして、我々昭和のファン周知の名ヴァイオリニスト、姉上のキョンファ氏のことも思い出します。大学時代に僕は彼女のファンであり、70年代、韓国といえば彼女、ヴァイオリンといえば彼女であり、初めて同国に訪問したのはずっと後の42才でしたが政治、民族に関する雑念はのっけからなかったことを昨日のように覚えています。その後に投資の関係で何十回もソウルと往来していますがいまだ同様なのです。音楽に国籍はなく、そこから大人になり物心がついたことに感謝しています。

弟のミョンフン氏を知ったのは後でしたが、ふれこみに1974年にチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で2位とあったのをこれまたよく覚えてます(協奏曲第1番のレコードもたしかあった)。同年の優勝はアンドレイ・ガヴリーロフ、4位があのアンドラーシュ・シフというのだからピアニストでないのが不思議であり、そっちでデビューして名を成してから指揮もするようになったバレンボイム、アシュケナージとはちがう。1984年の姉弟のバルトーク、31才の指揮をご覧になればそちらの才能に納得でしょう。29才でシカゴ響にデビューし、トロント響の音楽監督になった小澤征爾に比肩する唯一の東洋人です。

ご両人の音楽に共通なのですが、広々とした “気” が静かに背景に横たわっているように感じます。どんな激した箇所になってもそれは濃紺の深海のように不動なのです。音楽には演奏する人が現われると言いますが、本当に不思議だ。他の誰からも感じたことのないこれはお二人の持てるものなんだろうと感じます。

このビデオの会話、そして素晴らしいとしか言いようのないブラームスを聴くと、言いたいことがお分かりいただけるかなと思います。このインタビュー、英語は母国語でないのに、やさしい言葉なんだけど選び方に奥深い品格とインテリジェンスを感じます。細かいことですがなかなかできることではない。カルロ・マリア・ジュリーニが弟子とし、世界のトップオーケストラが畏敬し、あのオリヴィエ・メシアンが認めて数々の初演を託した理由の一端を見た気がします。

昨日の演奏会。モーツァルトk.365は大好きなのですが意外に演奏会にあたらず、フランクフルトで95年にアルゲリッチ&ラビノビッチで聴いただけだったので楽しみでした。第1楽章アレグロはやや遅めのテンポでピアノを伸びやかに歌わせ、ミラベル公園に遊ぶ風情の第2楽章はまさにそのもので欧州の息吹を感じさせます。終楽章のアレグロは不遇のパリ旅行から帰ったモーツァルトがすっかり快復し、姉ナンネルとのりのりのテンポで弾きまくったであろう心沸き立つ速さでありました。ソヌ・イェゴン、五十嵐薫、これから楽しみでしかない俊英ふたりの愉悦感あふれる演奏に心より満足。

マーラー巨人。これは一生記憶に残るものでした。ミョンフン氏は2008年にN響でブルックナー7番をやり、これがかつて1,2を争う名演で期待はありました。冒頭の弦がひっそりと奏でるaから広々とした “気” が静かに、しかし仄かな緊張感を漂わせながらホールに満ちます。この曲のこの時間は生きる喜びのひとつです。終楽章でまさにこれが戻ってくるのを予感して感じるものがたくさんあり、それがやってくる未来に無限の喜びを覚えるのです。何十回聴いたかわからない同曲ですが、白眉は地の底まで沈底する如く気を鎮めた第3楽章で、下手な指揮だと俗界の闖入が滑稽に浮いてしまうだけなのですが、ここでこそ彼の「濃紺の深海のように不動なもの」の神秘感が活きたのです。ここから終楽章の白熱と爆発へのコントラストは俗っぽさと無縁で、何のあざとさもなく自然体のように頂点まで高揚した解釈の、彼の言葉のように品格とインテリジェンスがあったこと!韓国のN響のような存在であるKBS響と東京フィルの合同オーケストラは指揮の意をくんで見事に融和し、唯一無二の渾身の演奏になりました。まさに、音楽に国境なし。

公演後のレセプションでマエストロは「自分が何者かと問われれば、まずhumann being(人間)です。そして次に音楽家です。こんな素晴らしい音楽というものと共に生きられることが無上の喜びです。そして最後に、韓国人であることが来ます。国よりも、音楽はずっと大事な存在なのです」とスピーチしました。だから20年も東京フィルハーモニーの音楽監督がつとまったのでしょう。同感です。僕にとっても音楽は3位でなく2位の存在です。マエストロと話したかったのですが、大変なオーラを放ちつつも少々お疲れのように見えたので自重しました。あれだけのマーラーを振ってオーケストラと我々に気を吹き込んだのだから当然でしょう。日韓両国にとって記念すべき演奏会に皇室はじめ各界重鎮と共にお招きいただいたことは光栄であり、株式会社ロッテホールディングス様に心より御礼申し上げます。

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モーツァルト ミサ曲 第13番 変ロ長調 K.275

2025 FEB 13 10:10:07 am by 東 賢太郎

K.275の成立時期については、母と共にパリに旅立つ直前に書いたという説、および、中途のミュンヘンで書きあげてザルツブルグへ送ったという説がある。出発が1777年9月23日で、唯一の手掛かりである父の手紙が12月21日の初演のことを伝えているからだ。3か月の空白の理由は自筆譜が失われ説明できないのである。

Leopold Mozart

どちらが真相であれ、大事な点はK.275が人生をかけた就活旅行を前にして書かれたことだ。幼い少年の芸は王侯貴族に愛でられたが、ポストという実利を得られないまま息子はもう21才だ。焦った父レオポルドは6月に父子での2、3か月の旅行(休暇)をコロレド大司教に嘆願したが「息子だけなら」の許可が出た。これはあながち意地悪とは思えない、なぜなら7月末に皇帝ヨゼフ2世がザルツブルグを来訪し、式典のため父子どちらかがコンマスとして必要だったからだ。憤懣やるかたない父は再度8月に「父子で」を飲ませようと、息子の名を語って「だめなら私は辞職したい」(もちろんポーズ)と大胆にも書き添えた手紙を出す。息子を失うのは困るだろうと勝負をかけたわけだが、偽装を見抜いた大司教は「二人とも辞職を認める」(要は親父はクビ)ともっと困る返答をしてモーツァルト家を仰天させる。父はショックで寝こんでしまい、姉のナンネルは頭痛に襲われて嘔吐した。まさしくお家の一大事だったのである。

Anna Maria Mozart

息子は休暇をもらい、旅慣れぬ母親が自分の代わりに同行する、という窮余の辻褄合わせで父は許しを得、クビは免れた。どう考えても就活に寄与するとは思えない母アンナ・マリアの同行。これがなぜなのか僕には長年の疑問だった。全行程を馬車で行くのは現代ならタクシーをチャーターするようなものであり、宿泊代はもとより膨大な出費を伴う点でも無用な同行者をつける余裕など一介のサラリーマンにすぎないレオポルドにあったはずがない。息子の素行を信用していなかったことはあろう。しかし問題の大司教への手紙をよく読むと、父の同行の必要性をこじつけようと「子を助ける親の義務」を聖書まで引き合いにして権力者に対して不遜なまでに強く説いてしまっている。6月時点で「息子だけならOK」だった許可に文句をつけた以上、偽手紙を書いてばれたみっともない咎(とが)を許してもらう綱渡りの状況の中で、「母親の同行」で書いたことへの最低限の筋を通す必要がどうしてもあったのではないだろうか。そんな経験のある方はほとんどおられないだろうが、経営に反発して自分から辞めたいと申し出たサラリーマンごときに世間はそう甘くないのである。レオポルドにとっては人生の汚点であるこの顛末が手紙によって音楽史に刻まれようなど思いもよらなかったろうが、自分の身を守るため当局に魂胆をさらに読まれる危険のある言動は断じて慎んだに違いない。だから文献が残っていようはずもなく学者の立場にある方がとりあうことはできない。幸いにして僕は素人であり、さらに「自分から辞めたい」の申し出を3度やったことがあり、経験から補完して察している。もしそうならレオポルドの後悔はいかばかりだったろう。

そんな激動の中で息子が書いたのがK.275だったのである。大司教の「45分以内」の注文に添う、むしろ反抗かあてつけとさえ思えるわずか20分の異形のミサである。他の都市での売りこみ商品にしようという意図はあまり感じられない。ではなぜ書いたのだろう?母との旅路の平穏を神に祈るためだろう。旅路というより、異国も外国語も知らぬ可哀想な母の無事である。しかし神の加護はなかった。母は思いもよらぬ厳しい馬車の旅、見慣れぬ土地での不安、寒い冬、貧しい宿と食事に疲労困憊し、病となり、翌年の7月3日にパリで客死してしまう。それほど無謀な計画を履行するほどモーツァルト家は権力に平伏し、しかし息子の栄達への願望と確信はレオポルドの心中では我が事になっていたのである。

僕はこの曲が大好きであり、何十回聴いたことか。祈りはキリエのソプラノ独唱で始まる。Vnの「ンタタタ」で気分は軽く、最後のタで弱起するソプラノもスキップのように浮き浮きはずむ。極めて肯定的に、「僕と母は大丈夫ですよね、いいことありますように」と旅路の平穏を神に祈る。すると3小節目、テュッティで合唱が神の声で、強起で決然と、「そうだ、いいことあるぞ!」と歓喜の爆発で答えてくれる。彼はこの安心を心から求めていたんだろう。こうしてKyrie eleisonが2度繰り返される。

ところがChriste eleisonになると曲想はハ短調に暗転し「そうはいっても危険はあるよ、気をつけなくっちゃね」となりもう一度明るくKyrie eleisonを歌った次、二度目のChriste eleisonが下の楽譜になる。ソプラノの移動ドで読んだ変ロ長調のファが予想外に半音上がってふわっと宙に浮かんだ感じになり、次の小節で戻りバスが半音下がって陰る。和声進行で示すならB♭、C、F、Fm、B♭、E♭だ。この部分を聴くたびに僕は「いいことあるぞ!」と一瞬にして希望に胸をふくらませ、一瞬にして雲間にそれが陰る情動の揺れにおののく。まるで魔法のように。

音楽に理屈はない。美味に舌がとろけたり香水で華やかな気分になったりするようなものだが、ほんの一瞬に過ぎ去るこの和声進行は僕は彼の作品で他に知らない。少なくとも、例えば、4音のジュピター音型やアマデウスコードなら若い頃から複数の場面で使っているのにこれはそれがない。どうしてこんな素敵なものが降ってきたのか?どうしてこれを繁用しなかったのか?奇跡と贅沢が謎となって耳にこびりつく。こういうことをもってモーツァルトが天才だというなら反論の余地もなく、彼は今をもってしても人類唯一無二の作曲家だと思う。

僕にとって大事なのは、モーツァルトも魔法を感じたからこう書いたのだろうということだ。かように、彼ほど精神の合一感を与えてくれる作曲派は僕には他にいない。それを見つけることこそがモーツァルトを聴く喜びであり、皆様にとってどうかはわからないし、それを喚起する曲がケッヘル何番かも人それぞれなのだろうと思う。

もしそう意図してこの場所にこの音符を置いたなら、キリエは旅立ちの祈りにふさわしい、というより、僕にとってそれ以外に解釈のしようがない。平穏を神に祈り、祝福されている喜び。ザルツブルグの気障りで不愉快な空気から脱して、翼が生えたように自由の身となって、ミュンヘンやマンハイムやパリで大チャンスをつかんでやるぞという21才の、Christe eleison(キリスト憐れみたまえ)を突き抜けた幸福への憧憬、極楽への希求がありありと感じられる。

そう思うのは僕だけだろうか?それほどの魔法である和声進行B♭、C、F、Fm、B♭、E♭の効果に他に気がついた人はいないのだろうか?いや、そうではない。いる。どこかで聴いたことがある。弾いているとわかった。これだ。

皆さんご存じの「サウンド・オブ・ミュージック」の「クライム・エヴリ・マウンテン」だ。これも教会音楽の設定であり、なんとこれも変ロ長調だからまったく同じ和声進行。ミュージカル作曲家のリチャード・ロジャースがK.275を知っていたかは不明だが、オーケストレーターでナディア・ブーランジェに師事し、ガーシュインやラフマニノフと仕事をしたロバート・ラッセル・ベネットが知らなかったとは考えにくい。パリに意気揚々と向かうモーツァルト、Climb every mountain!

1777年のモーツァルト

K.275の和声、リズムについて細かいことを書くときりがない。神は細部に宿っているとだけ書いておく。しかしモーツァルトはブルックナーのように神や信仰を描くのではなく、まったく人間くさい。構造的には定型的なミサのラテン語歌詞につけてはいるが作法はまるで無視で、対位法より圧倒的に和声の音楽だ。くそうるさいコロレド大司教へのあてつけと取る人がいるのもごもっとも。アニュス・デイはまるでオペラで、これを教会の冒涜と怒る輩が出たのも仕方ない。しかし使っている和声は後期ロマン派を聴き尽くした耳も飽きることがなく、ケッヘル番号200番代でこの域というのは驚くしかない。作法は無視でも全曲を聴き通すと一個の作品として凝縮した感性を味わうことになる。そうしたきき方を宗教家、保守本流の学者・評論家が許容しないことは知っているが僕はそうしたドグマから自由な立場で楽しむ鑑賞者だ。自由な彼の精神は縛られた耳では感知できない。父子のやりとりの手紙。天才の日々や精神活動を知る克明で大量の一次資料がこれほど残るケースは稀有で、だからこそモーツァルトは「後世にこぞって語られる存在」であったのだが、必ずしも音楽を深くは知らない人々も多く参加し、200年のうちに人口に膾炙した一人歩きの物語ができ、それもまたドグマとなり、固定したモーツァルト像を形成してしまっている。僕は手に入る一次資料、研究、学説はほぼ読破しているがだからどうということはない。自分の耳と感性であれっと思うことがたくさんあるからで、本稿はその一例である。

ロマン派のように開始するアニュス・デイはアレグロ・モデラートに転じる第26小節から第175小節の終結に至るまで歌詞はドナ・ノービス・パーチェム (Dona nobis pacem、われらに平和を与えたまえ)の繰り返しで、その言葉こそが彼がこの曲にこめた願いだろう。最後、つまり全曲の結尾がピアニッシモで、まるで彼と母を乗せた馬車が晩秋の霧の彼方にひっそりと消えていくようではないか。

ずっとのち、1791年のことになる。身重の妻コンスタンツェにスパ療養を必要としていたモーツァルトは、温泉地バーデン・バイ・ウィーンに宿泊施設を見つけてくれたバーデン聖シュテファン教会の楽長アントン・シュトールの求めで、自身の指揮でK.275を演奏した。それがこの写真の場所だ。7月10日の日曜日だ。母の命日は7月3日。そして彼は5か月後に母のもとに旅立った。

Baden-Kirche St. Stephan

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ツァグロセクのブルックナー5番を聴く

2025 FEB 8 9:09:13 am by 東 賢太郎

ローター・ツァグロセクは昭和のリスナーである我々に残されたドイツ最後の至宝である。昨日サントリーホールに響いた奇跡のようなブルックナーは、半ば茫茫となりかけた40年近く遡るアムステルダムの記憶を呼び覚まし、終演後しばし黙想に耽ることになった。老オイゲン・ヨッフム最後の5番だった。

これがツァグロセクを聴いた2度目のようだ。ようだというのは、この人の只事でない音楽を録音で、例えば、昨今最も好みであるラインの黄金はシュトゥットガルト国立歌劇場とのものであり、ブログで激賞した皇女の誕生日そしてyoutubeにあるエレクトラ、クシェネック2番などを再三味聴しており、肝心の、この至宝をどう発見したのかを忘れてしまっていたのだ。「東さん、それ7番ですよ。ブログにされてる」。夫妻で同行したF氏に指摘され、CDになってますともきき愕然としたものだが演奏会の感想は普通の記事とちがい美食記と同じく読み返さないから結構忘れていてしばしばこうやって恥をかく。8番のために去年の定期を買ったが叶わぬ無念が心を占めていたから昨日の5番は1年ごしの待望のものだった。これに描写していた、 “まったくもって一言一句その通り” の音楽が昨日もサントリーホールに満ちていたことに驚くばかりだ。F氏は最後に神を見たと述べ隣の紳士は泣いていたようだ。

ツァグロゼクのブルックナー7番(読響定期)を聴く

ツァグロセクは音楽に魔法をかける世界只一人の指揮者である。読響から引き出した馥郁たる弦のppはふるいつきたくなるようで、木管とホルンの絶妙にバランスした完璧な和声、飛び出ずオルガンのように調和する金管といった高度に音楽的な素材が、どうしたらああなるのか、これ以上はないだろうというほど見事な音程(ピッチ)で和合し、それゆえにオーケストラのフォルテに微塵の混濁もなく透明であるという尋常でないことが達成されている。棒だけで出来ることでなく、深く共感して産み出した読響の技術と音楽性はいくら絶賛しても足りない。

ツァグロセクの魔法はSpotifyにある「ラインの黄金」をお聴きになればいい。ワーグナーのオーケストレーションが重みもインパクトも失わずこれほど清澄に響き、歌唱がこれだけ明瞭に音程がききとれるものは少なくこれぞ僕の求めるもの、これがライブであると拍手で知ってまた驚きがひとしおになるというものだ。非常にありていの形容になってしまうがこれは “指揮者の耳の良さ” としか差別化のしようがない。例えばブーレーズの音程が悪いなどということはありえないのであって、そういう部分に心の比重を置いているかどうかが音楽家のひとつの個性だといえないことはないが、そうでない所に置く価値観が特に声楽にあることを理解はしているつもりだが、それを僕が好きなることはないというか、どう譲歩してもそういう演奏を1時間も鑑賞することは難しい。彼が生む音楽はそれほどに印象が強烈で、それはごく内的なものだから心を開いて耳を澄まして初めて感知するものかもしれないが、妙な話だが、個性的でもない彼の指揮姿は忘れても音はずっと覚えているような性質の体験だ。染まるとあらゆる音楽をその魔法で聴きたくなる。知ったものより未踏の作品を開く扉になるほうが喜びが大きく、僕はシュレーカーの「烙印を押された人々」の真価を彼の録音で知った。皇女の誕生日はここにある。

シュレーカー 舞踏音楽「皇女の誕生日」

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